2006年11月25日土曜日

【音盤】シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/テンシュテット(1984 Live)

  1. ウェーバー:「オベロン序曲」
  2. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》
  3. ブラームス:「悲劇的序曲」
  • テンシュテット(cond)、ロンドンpo.
  • BBC Legends/BBCL 4195-2(England)

ホワイトノイズは乗るものの、非常に優れた演奏です。レビュを書きながら何度も繰り返し聴いています。そしてやはり《グレイト》はグレートだなと思うのです。

シューベルトの《グレイト》は果たして楽天的で天国的な曲であるのか。私はテンシュテットの演奏を聴いて、その考えに疑問を持ちました。ラトルはこの曲は聴く者の不安を募らせる地獄への楽しい馬車の旅というものが存在するのであれば、まさにそのような感じの、終着点が全く見えない曲と評しました。そういうラトルの演奏では「地獄への楽しい馬車の旅」という印象を残念ながら受けなかったのですが、テンシュテットの演奏からは逆に私は楽天性を聴き取ることができません。

テンシュテットは独特の推進力で第1楽章から曲を煽ります。シューベルトの冗長な繰り返しが切迫した感じで演奏されます。明るさや楽天よりも別の要素が聴こえてくるように感じます。すなわち、《グレイト》はシューベルトの描いた《運命》であり、かつベートーベン的な歓喜の爆発ではなく、生と死の深淵からの必死の逃走ではないかと思えてしまうのです。

この演奏には「闇と悲しみ」「惑乱し引き裂かれた自己」「死に向う狂騒」のようなものを感じます。それが「天衣無縫の楽天性」によってオブラートされながらも、あちらこちらで暗い影が顔を出すのです。「天国的な長さ」は最終的に辿りつく先を回避したいがための、無限に回るメリーゴーランドを思わせます。

だからといって、テンシュテットは感情移入たっぷりに歌い上げているわけではありません。第2楽章など、歌いどころ満載なのに結構あっさりと通り過ぎます。

終楽章は聴き所でしょうか。ベートーベンのシラーの歓喜の断片が姿を見せたりはするものの、とことんに明るい狂騒の中にかき消されます。いつもならラストに向う盛り上がりは歓喜に向けての序奏のように聴こえるというのに、テンシュテットの演奏では不安の増長を感じます。そして今までが明るいだけに、あの低弦による確信的なユニゾンの繰り返しには心底ゾッとします。忘れていフリをしていたのに、ついに追いつかれた暗い運命に飲み込まれた瞬間であるのか。行き着いた先はラトルの言うように「地獄」であったのか。あまりにも決然とした結論と明るい諦念。

かのsyuzoさんはこんなに明るくていいんだろうか?書きます。終楽章についてはパレードかお祭り騒ぎのような明るさとも書いています。あまりにもかけ離れた私の印象に愕然としてしまいます。もっとも、違った日に聴くと全く違った印象になるのも音楽レビュのいい加減さです。「お祭り騒ぎ」は自らの内部で捩れた感情の表出、言い換えるならばベートーベン的ストレートな心情よりも、マーラーのそれに近いものを感じるのです。何度も聴いていたら、上記印象が麻痺してきたし・・・今日は考えすぎでしょうかね(^^;;

2006年11月22日水曜日

【本棚】桐野夏生:玉蘭


本作は個人的には今まで読んだ桐野氏の作品の中でベストでないかと考えます。

まず、いつものことながら物語りとして面白い。主軸は時代を隔てた二組の男女の時空を越えた交感、あるいは数奇な物語です。そして、打算的にして孤独な男女が、慰め傷つけ合う激しい愛の物語でもあります。男女の複雑な心理描写や駆け引き、夢も希望もない性交の描写、そこから浮かび上がる女性と男性の性の違い。男の狡さ、女の弱さと強さ。これらの描出は桐野氏ならではの鋭さだと読みながら唸ってしまいます。

桐野氏は有子を好きになるか嫌いになるかで、この小説の好みがはっきりした感がありますねと書きま。私は有子に限らず桐野氏の主人公は概ね嫌いです。作品は好きですが(^_-)

物語としても面白いですが、テーマ的にも桐野氏が追い求めている(と勝手に私が解釈している)テーマがくっきりと浮かび上がります。打算的で自分勝手なことしか考えない人物たちが、互いを利用しあい、出し抜きながらも、惹かれあい、すがり合う。あたかも自分の中の虚無を埋めるかのように。あるいは、現在の自分ではない別の何者か、別の場所に憧れる主人公たち。現在の自分では決して超えられない壁(差別、境遇)の存在。しかし、現在の自分はゲームのようにはリセットできないという現実。

自分の今いるところは世界の果てなのか。新しい世界なのか。

新しい場所から来たから、新しい世界が始まるなんて幻想だ。新しい場所に足を踏み入れるってことは、良く知っている世界の実は最果ての地に今いるっていうことなんだ(P.15)

この小説の核となる象徴的な台詞です。この言葉を吐くのは主人公の一人である質。彼がこの言葉を言えるようになったのは、彼が全てを失ってからです。つまり彼にとっては「新しい世界」 なんてなかったという吐露です。「最果ての地」と思っていたところが、結局は自分の延長でしかないと知った時、初めて彼は自分が世界の真ん中にいたと知る。そこからは逃れられないのだと。

もし本当にそこから逃げ出そう(解放されよう)とするならば、それにはもう一人の主人公である有子(あるいは「グロテスク」の和恵)のように自らが「毀れる」しかないというのでしょうか。自分を引きずる以上、新しい世界などないのだとしたら何と残酷な結論でしょう。ですから最終章の質の物語は、私には蛇足、桐野氏の読者への良心と思えてしまいます。

本書は他の桐野作品よりも読みづらいと思います。しかしこの小説は力強く、哀しいくらいに美しい。あたかも玉蘭の香りのように(>嗅いだことないけど)。この小説でもう桐野氏は結構です、すでに、ある高みに達しています。この先彼女は(物語は別として)、何を書くのですか?

2006年11月20日月曜日

先月の歌舞伎座:幸四郎の新三を考える


今月の歌舞伎座での通し狂言「伽羅先代萩」を観たいなと思いつつも歌舞伎座まで脚が伸びず、先月の歌舞伎座で演じられた松本幸四郎の髪結新三のことを思い出しています。多くの人が幸四郎の仁に合わないと評していました。幸四郎が芸の新たな境地に飛び込もうとしているらしいのですが、違和感が拭いきれないようです。



そんな幸四郎の新三を「演劇界12月号」で佐藤俊一郎氏が評していました。立ち読みですのでうろ覚えで主旨を書きますと、今まで演じられてきた新三から粋が消え、愛嬌がなく、小悪党から「小」が取れてしまった、というのです。幸四郎の演じる新三には、いろいろな「ゆがみ」が生じたと。


そうですね、私も幸四郎の前半での新三にはゾッとするような悪の凄みを感じました。それだけに後半で家主にやり込められてしまう新三像とうまくかみ合わないと感じたものです。


全体にこの芝居は喜劇的な要素を持ってシニカルに終わります。ですから大真面目に悪党を凄みを持って演じてしまうと、合わないと感ずるのだと思います。WEB上に溢れた「立派過ぎる」という判で押したような感想も、そういう違和感を感じ取ってのことなのだと思います。


でも、今から思うと、幸四郎の新三もそう捨てたものぢゃないと思うのです。この新三、最期は源七と閻魔堂橋のたもとで斬り合いをすることとなります。歌舞伎では斬り合いを様式美で飾りながら幕となりますが、黙阿弥の原作では結局源七に殺されてしまいます。これがまた喜劇的な新三像と違和感がある。小娘を拉致監禁強姦した上で恐喝し、仲介に入った一昔時代の侠客である源七をコケにする。その命を賭ける程の度胸と覚悟を持って悪事に望んでいるという点では喜劇とは無縁の悪党振りなのです。これから江戸で侠客として名を売り幅をきかせようとする野心に満ち満ちているのですから。


ですから、大真面目に新三を解釈すると前半の凄みある人物像の方がこの役を的確に表現しているのではないかと思えたりもします。おそらくこの芝居は、勘三郎丈のような人の方が仁に合っていると感じる人が多いと思います。そういう新三像とは異なった解釈を敢えて演じたリアル新三にも、一面では評価すべき点があるような気がするのは私だけの拙い感想でしょうかね。本当の新三像をママで演じたのでは実も蓋もないですから、難しいところだと思いますが。

2006年11月19日日曜日

展覧会:「スーパーエッシャー展」Bunkamuraザ・ミュージアム

Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「スーパーエッシャー展」を観てきました。作品はオランダのハーグ美術館所蔵のものです。

これほど大規模に、そしてエッシャーの軌跡を辿るように彼の作品を観るのは私には初めてのこと。

♪エッシャー、エッシャー、スーパーエッシャー、我らがスーパーエッシャー♪(>ヲヤジ年代しか知らねーってば)

作品はほぼ年代順に並べられているようです。初期のイタリアやスペインの風景画や細密な昆虫画は見る機会が少ないながらも、版画作品として充分に魅力的です。観察眼の鋭さと類稀なデッサン力そして緻密さは、数学者のそれに通ずるものを感じます。

彼が音楽ではバッハが好きであったということは成る程と思わせます。バッハの音楽的構築性は数学的でありますし、絵画に無限性と秩序を表現したエッシャーとは共通点があるのでしょう。平均律を記号楽譜的に表現した作品は武満徹をさえも思わせて興味が尽きません。

ギルダー紙幣のための下絵に見られる高度なデザイン性にも目を見張るものがあります。コンピューターなどのない時代に、あのような数学的な図像を描くという技術。芸術家の偏執的なまでの腕の技にはほとほと驚かされます。



サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」でも紹介されていた《円の極限 Ⅳ(天国と地獄)》もそうです。周辺に行くほどに細分化された繰り返しの図形は曲面の中に無限を表現しており、そのデザイン性とともに完成度が極めて高い作品だと思います。数学的にはモジュラー形式とか双曲空間を視覚的に表現したものらしいですが、私には難しいことは良く分かりません。

彼は数学や結晶学からのアイデアに触発されて作品に応用しています。入れ子構造の平面の正則分割も無限運動を繰り返す水路も、数学者ペンローズのアイデアを応用したものであることは有名です。思い起こせば私が始めてエッシャーを知ったのも、小学生の頃読んだ熱力学の法則や永久機関が存在しないことを書いたブルーバックスの新書本であったように思います。彼の作品が同業者よりも数学者や物理学者、心理学者などに多くの影響を与えたのも当然といえば当然でしょうか。

彼の興味のモザイクである様々なモチーフが作品に結実してゆく様を観ることは非常に興味深いものでした。ボッシュの絵の素材がエッシャーの作品に用いられていることなど初めて知りましたし。

展示作品をニンテンドーDSの解説に沿ってゆっくり眺めると、ゆうに2時間はかかりました。それでも極めて秀逸な展覧会ですし充分に楽しめるものだと思います。

作品紹介は毎度お世話になっているTakさんの弐代目・青い日記帳で詳しいです。

2006年11月18日土曜日

【本棚】サイモン・シン:フェルマーの最終定理

以前ちょっと触れましたが、改めてレビュを書いておきます。

数学の世界は極めて美しい。そして見えない秩序で構築されている。無限という概念とともに神秘性さえも感じます。数式によって明確に表現された秩序は、それが単純な程に美しく、純粋数学であればこそ、そこにいかなる意味も持たないとしても、多くの人を魅了して止みません。



科学的証明と数学的証明とは、微妙に、しかし重大な点で異なっている。


一度証明された定理は永遠に真である。数学における証明は絶対なのだ。(P.57)



この数学の厳密性。多くの仮設や検証により99%確からしいと思われても、それは「予想」としか呼ばれない。予想の上に成立している理論は砂上の楼閣かも知れない不安定さに数学者は悪夢のごとく悩まされる。



��n+Yn=Zn


この方程式はnが2より大きい場合には整数解は持たない



17世紀の数学者フェルマーによる一見単純な問いが、その後300年もの間、多くの数学者を悩ませた難問となり、現代数学技術を総動員して初めて証明されえたということは驚きを通り越して感動的ですらあります。


本書は、それを証明しえたイギリスの数学者アンドリュー・ワイズルの苦難の物語であるとともに、ピュタゴラスから始まりフェルマーの最終定理の証明にヒントを与えた多くの数学者、殊に重要な役割を果たした日本の谷山、志村らの人間達のドラマになっている点が素晴らしい。谷山と志村の出会い、そして谷山の自殺。戦後日本の二人の天才数学者の物語だけでも充分に読み応えがあります。そして300年の間の叡智が、ジグゾーパズルのピースが組み合わさっていくようにワイルズの理論へと集約していく様は極めてスリリングです。


結果として証明されたフェルマーの定理の示唆するものが、数学界における統一理論という、更に遠大かつ見えない秩序への一歩かも知れないという点において、この世の深さに改めて畏敬の念さえ覚えるのです。


こういう世界を平易な文章で描ききるサイモン・シンにも脱帽です。

2006年11月15日水曜日

【音盤】モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397/アファナシエフ

  1. 幻想曲 ニ短調 K.397
  2. 幻想曲 ニ短調 K.396
  3. ピアノ・ソナタ ハ短調 K.475
  4. アダージョ ロ短調 K.457
  • ヴァレリー・アファナシエフ(p)
  • COCQ84057

愛すべき幻想曲 ニ短調 K.397を見事にまで変形させてしまっているのがアファナシエフの演奏です。彼の演奏は、グールドのそれとは違って、異様なまでの遅さが作品の持つもうひとつの世界を炙り出してしまいます。

いったいに、モーツァルトはK.397に、アファナシエフが描いたような文学的にして深淵な内的世界を本当に期待していたのでしょうか。冒頭の分散和音の彼岸から奏でられるかのような重く荘厳にして美しい響きにまず打たれます。この静寂な響きを破るようにして打鍵される主題の虚無的なまでの凍りついた輝き。アファナシエフはあるいは孤独な宇宙旅行者が、大宇宙の寂寞たる広大さに直面する時に経験するかもしれない感情と書いています。

ここに聴こえるのは、もはや母親喪失と言う幼稚的哀しみではなく、存在の根源的な寂寥感。死にさえ通じる虚無と孤独、彷徨い放浪する魂。どこにも淵がなくグルグルと巡る運命のような嘆き。

ニ長調への転調の後も、徹底的な明るさは訪れないかのようです。ひょっとすると、もう一つの彼岸へと突き抜けただけ。すなわち光、輝き、失楽園を提示する。このように曲は、終わりから始まりへと、さかさまに作曲されているとアファナシエフは書きますが、生の世界の決して楽天的ならざる美しささに逆に私は慄然としてしまいます。

自問する、モーツァルトの幻想曲は、こんな曲であったのかと。もっと無邪気で無垢な小品ではなかったのかと。アファナシエフの盤については、もう少し聴きこんでからでなければ、何かが書ける気がせず、しばらくお預け。

2006年11月14日火曜日

【音盤】モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397

「モーツァルトの哀しさ」の本質の一端に、母親喪失の哀しみがあるように感じると以前書きました。これはモーツァルト解説本やら伝記、曲の解説から得られた結論ではありません。ごく個人的な私の感傷です。


例えば幻想曲 二短調 K.397という作品。モーツァルトの短調はどれもが極めて名曲ばかりです。この小品も前半の憂鬱なアルペジオに続き奏でられる主題に、まさに私はモーツァルト的な哀しみの表現を聴き取ります。目が覚めたら母親が見つからなかった幼児の哀しみがそのまま表現されているかのようです。不安と疑念にさいなまされながら、産毛の光る頬を哀しみの涙が流れます。不安な心は行きつ戻りつしながらも深まっていく。その絶頂において突如とニ長調に転調されます。その驚くべき変化。今までの哀しみがどこにあったのかと思うほどに、頬の涙の筋は乾かぬうちに、きらきらと喜び溢れる音楽が奏でられます。「ああ、やっぱりお母さんはどこにも行ってはいなかった!」という無邪気な安堵。


このような曲の単純さは極めて愛すべきものであると思いますし、反面で曲の平明さとあいまって幼稚な印象を感じます。しかし、聴くほどに深いのがこの曲です。


ちなみにこの曲はで最後10小節は、モーツァルトの死後補筆されたものだそうです。それでもモーツァルトの音楽の輝きは失ってはおらず、貴重な一曲だと思います。


と、アファナシエフの演奏を聴くまでは思っていました。

2006年11月13日月曜日

【音盤】モーツァルト:ピアノ・ソナタ集(抜粋)/グールド

以前紹介したように、グールドが弾くモーツァルトのピアノ・ソナタはとても個性的です。ピアノの先生は間違っても生徒にグールドのモーツァルトを薦めないと思います。本盤は抜粋版ながらも、そんな異様なモーツァルトの片鱗を堪能することができます。

異様に遅いK.311《トルコ行進曲付》を除いてテンポは極端とも言えるほどに速い。繰り返しをバッサリと削除しているようで演奏時間もとても短い。従って、ともすると冗長で退屈になりがちな曲が、キリリと引き締まりドライな印象を与えます。ドライと言えば、これ以上に乾いた表現は考えられません。あの愛すべきK.330さえもがグロテスクなまでに変形し無数の音の粒が跳ね回ります。

ピアノ音に混じってグールドの調子はずれの鼻歌も聴けます。彼の歌を聴いていると、本当にグールドはモーツァルトが嫌いであったのかと疑問になります。グールドのモーツァルトは他の誰の演奏にも似ていず、その天衣無縫さは驚くばかり。こんなのはモーツァルトは認めないという人もありましょう。しかし、これが私には何とも小気味良い。音の煌きと躍動するリズム感。まるでチェンバロのような反応の良さ。そして、モーツァルトが秘めた哀しみと悦びの表現は、グールドの演奏であっても全く損なわれることなく、聴くものに愉悦と快感を与えてくれます。

この演奏にハマってしまうと、抜粋盤では全くモノ足りなくて、全曲を聴いてみたくなります。いつか入手することとしましょう。

  1. 第8番イ短調K.310
  2. 第10番ハ長調K.330
  3. 第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  4. 第12番ヘ長調K.332
  5. 第13番変ロ長調K.333
  6. 第15番ハ長調K.545
  • グレン・グールド(p)
  • SRCR2068

モーツァルトの音楽の哀しみって?


モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけないという有名な言葉を残したのは小林秀雄。あまりにも感傷的過ぎて、また小林のモーツァルト観が一面的であるとの批判も認めた上で、この言葉は広く人口に膾炙しました。


モツアルトの音楽にきこえる哀しみってこれに気づくと病みつきになってしまうyurikamomeさんはブログに書いています。私はモーツァルトの音楽を聴いていると、哀しみの感情の根底に「母親喪失の哀しみ」というものがあるような気がします。どんな陽気な瞬間でも、さあっと翳がさす。それは幼児が母親を見失ったときの不安感にも似た感情。あるいは、もし母親が亡くなってしまったらと想像したときの、抗いようのない運命的な喪失感とでもいうのでしょうか。幼い感情ですが自己の存在そのものに対する不安にさえつながる。そういう面を感じさせる音楽は、大曲よりは交響曲や歌劇よりも室内楽的小品に多いように感じ、ピアノ曲やら弦楽曲をチマチマ聴いています。

2006年11月6日月曜日

【本棚】あっという間に一週間、またしても

ふとカレンダーを見れば今年も残り2ヶ月。本当に月日の経つのはあっと言う間である。

三連休だからといって特別なことは何もない。久しぶりに帰省し、買い物をしたり、犬の散歩をしたり、TVをダラダラ観たり、読みかけの本を読んだりと、どこにいても余りかわりばえもない。




本といえば、随分前にclassicaのiioさんが絶賛していた「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン著/新潮社)を読み終える。ああ、これは本当に傑作だ。今年読んだ本の中で間違いなくベストである。こんなにもワクワクして、こんなにも読み終えるのが勿体無いと思った本は久しぶりである。もしも貴方が数学嫌いであったとしても、あるいは学生時代の数学に良い思い出が一つもなかったとしても、本書はきっと貴方を、恐ろしく深淵にして魅惑的な世界にいざなってくれるであろう。いやむしろ、数学音痴な人こそ本書を絶賛するのかもしれない。何故って、数学がこんなにも厳格で美しいものであるという事を、学校では誰も教えてくれはしなかったぢゃないか。それにしても数学者って奴はっ!!

百ページほど残して放っておいた「フラット化する社会(下)」もやっと読み終える。一口に「グローバル化」と言うが、私たちの身の回りに起きていること、そしてこれから起こるであろうことを解説しているという点において、あらゆる人に対して示唆に富む。私は本書の内容を子供に語らねばならないと深く思った。

フリードマン氏はかつて「レクサスとオリーブの木」という著書で、マクドナルドが出店している国同志は、マクドナルドがその国に出来て以来戦争をしたことがないと書いた。今回、フリードマン氏は、グローバル・サプライチェーンに組み込まれた二国は、双方がそのサプライチェーンの当事者である限り、戦争を起こすことはないとその説を修正した。グローバル化は一方で、ビン・ラディンのようなテロリストにも公平に力を与えている。フリードマン氏が今後の出発点を9.11(米国テロ)に置くのではなく11.9(ベルリンの壁崩壊)から始めたいとする主張には説得力と希望がある。

そう、日本では死語になったのではないかと思われる「希望」である。希望とは何なのか。他国もうらやむ今の日本に何故希望がないと言うのか。余りにも日本人の若者たちは無知であり世界から孤立してはいないか。

読む本がなくなっちまったので、桐野夏生氏の「玉蘭」を購入、ボチボチ読み始める。またしても社会でサバイバルできない女性の桐野氏的物語か・・・とマンネリ感は否定できない、でも読んでしまう。テーマは同じでも物語はどれもが面白い。彼女の小説は、おそらく「戦争」とか「闘争」を意識せずに生きてこられた男性よりも、女性にこそ受けるのだろうと思う。

  • (※1) 概略について知りたくば 「フェルマーの最終定理」を読みましょう(^^;;


2006年10月29日日曜日

映画:父親たちの星条旗

28日に封切られたばかりの「父親たちの星条旗」を観てきました。クリント・イーストウッド監督、スティーブン・スピルバーグ製作の硫黄島2部作のうち、こちらは、アメリカから見た硫黄島の戦争を描いたものです。

実はほとんど予備知識なく観たのですが、こいつにはビックリです。クリント・イーストウッドは「戦争映画を描いたつもりはない、人間のドラマを描いた」と述べていますが、いやたしかに、人間ドラマもとてつもなく重いのですが、それにしても、この戦闘シーンの凄まじさよ。


スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」が描いたノルマンディ上陸の戦闘シーンも凄かったのですが(というか、映像を観ながら、ほとんど恐怖におののき、吐き気がした)こちらの映像の迫力はその上を行くのではないでしょうか。敵も味方もない、無情にして非情な戦闘シーンの連続。アメリカの圧倒的な物量は映像で観るものを(ことに硫黄島決戦を良く知らない日本人を)圧倒しますが、それを支えた米国の内情にまでは、当時の日本人は(今も?)決して思い至らなかったハズです。国家は日本もアメリカもギリギリまで追い込まれながら、虚しい闘いを続けていたわけです。

そういう戦場シーンがあるからこそ、星条旗の持つ意味、すなわち写真の虚構と真実が重さを持ちます。彼らが命と半生を賭けたもの何であったのかが伝わってきます。

戦場の残酷さと故国のギャップは、戦争映画としては月並みな描き方です。しかしステロタイプな扱い方であってさえも、その対比が訴える力は少しも削がれはしません。映像に描かれたものを言葉に置き換えた瞬間に全てが陳腐にります。言葉では書ききれない重さが映像にあります。

本作は実話に基づく映画であるとのこと。国家が何を望み、個人や家族が何を望んでいたのか、戦争の英雄の実像と虚像。惨めな半生と決して口を割ろうとはしなかった過去の痛ましさ。戦闘シーンと同様に勝者も敗者もありません。愛国心などと言う言葉で括るのも軽がるし過ぎる。人は何故闘ったのか、何故そこに残ったのか、何故そこにまた戻ったのか。

かつての名作「ディァ・ハンター」のように、ひたすら戦争の傷を舐めるという類の映画でもありません。戦争の無意味さを強く主張する映画でもなさそうです。それでいて、戦争と言うものの底辺と真実がイヤと言うほどに実寸大で見えてきます。

おそるべし、イーストウッドです。硫黄島決戦というと、穴倉に火炎放射器を容赦なく浴びせかける米軍兵の映像などが夏のヒストリー・チャンネルやNHKで繰り返し流されますが、それとて何かが欠けていた視線だったのかもしれません。12月9日に公開される「硫黄島からの手紙」は日本の視点から描いたものです。これは是非観なくてはならなくなりました。

2006年10月24日火曜日

【本棚】桐野夏生:光源

不思議な小説です。少なくともミステリーではありません。こんな作品を書く桐野氏ですから、彼女の本質はミステリーにはないと私は考えています。ジャンルもわからないし、的確な帯のコピーさえも書けない変な小説(桐野氏のHP)というのは、彼女の作品にミステリーを求める読者に対してのコメントでしょうか。

そうであっても本作品は一級のエンタテイメントで、かつ深い人間洞察が含まれています。桐野氏の持ち味が充分に生かされた作品で充分に読み応えがあります。ストーリーの展開も良く、彼女の中では目立たない作品かも知れませんが極めて秀逸だと思います。

私は、どうもこういう我が儘な人たちが大好きらしいです(笑)。

と桐野氏は語ります。彼女の小説の主人公は皆、自分の欲望や利益を最大限に考える行動を取ります。そこから、彼女の作品のキーワードである「サバイバル」という言葉が炙り出されます。我を通しますから、他者へは「悪意」となって放出される場合もあります。ウジウジした優しさや思いやりは存在しません。厳しい環境や、自らを束縛するものからの解放を望みながら生き抜くこと。そこには他者への思いやりよりも、他者を利用して自分が生き残るための「戦略」が生じます。それが彼女の小説の真骨頂です。

この小説においても、女性プロデューサーの玉置、撮影監督の有村、若手監督の三蔵、元アイドルの井上、そして人気俳優の高見。それぞれが我をぶつけ合い、助け合いながらも利用しあい、そして自分のサバイバルに利用できなくなれば容赦なく切り捨てる。誰もが何かを背負い、何かから逃れるように生きています。逃れたいと思いながらも、実は逃れた先に存在する孤独と虚無。自分だけが拠り所であると信じているハズだったのに、本当は違うかも知れないという疑問。そして新たなる束縛。主人公はおそらくは玉置でしょうが、ここには勝者も敗者も居ません。

最後は「狂乱」というカタストロフに導かれますが、それは真の意味でのカタストロフではなく、次なるカタストロフへの前哨に過ぎません。玉置に「勉強していないのはあなただけ」と最後に冷たく言われた高見とて、人気俳優「高見」を演じることを放棄した先にある自由と束縛を考えると、私は複雑な思いで小説の頁を閉じました。

ということで桐野氏の作品にも、そろそろ飽きてきました。これでオシマイにしようと思います。もしかすると『玉欄』なら読むかもしれませんが・・・

2006年10月23日月曜日

【音盤】フィリップ・グラス:ダンス第1番~第5番

  1. ダンス第1番
  2. ダンス第2番
  3. ダンス第3番
  4. ダンス第4番
  5. ダンス第5番
  • マイケル・リーズマン(cond)、フィリップ・グラス・アンサンブル
  • ソニーミュージックエンタテインメント、SICC132-3

いちおう音楽サイトのつもりなのに、音楽の話題が全く続かないので、(誰も期待していないとは思いつつ)無理してエントしましょう。昨日、リサイクル書店で衝動的に購入したCD(2枚組800円)のこと。

フィリップ・グラスの名前はゴットフリー・レッジョ監督の映画「コヤニスカッティ」(1982)の音楽で知っていました。ミニマリズムと称される曲を中心に作った人です。

宮下誠氏の「20世紀音楽」ではインドの複雑きわまるリズム構造を西洋の器楽的伝統に移植することを始め、ミニマル・ミュージックに新しい地平を開いたと解説されています。

グラスはミニマリズムというレッテルを好まなかったようです。しかしここで聴かれる音楽をミニマリズムと言わずして何と言いましょうか。グルグルと際限なく回るメリーゴーランド。空虚な明るさ、官能と催眠、麻薬のような酩酊と白い悪夢。第4番はグラス自らオルガンを弾いていますが、他の4曲と何が違うのか未熟な私には分かりません。

金太郎飴のようなグルグルが微妙に変化するだけの反復運動、眠くなりながらも神経に障ります、聴き続けるのが快楽なのかつらいのかさえ判然としない、ちっとも良くない・・・でも聴いていたい・・・(^_^;;;。これをBGMに眠ったら、ひどくうなされてしまいました・・・。

ミニマリズムはテクノ系音楽に影響を与えたとされています。「Underworld」の曲でも聴きたくなりましたよ。

浮世絵展とかタワー展とか

所用で両国に行ったついでに、江戸東京博物館で開催されているボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展を観てきた

初日の日曜日であったが、混み方はそこそこ。最初こそ団体客やらオバチャンたちがペチャクチャおしゃべりしながら一枚一枚鑑賞しているので列は遅々として進まなかったが、急ぐこともあるまいと流れに乗ってのんびり鑑賞。気付くと回りの人ごみは逸散しており悠々と浮世絵を鑑賞できた。どうやら団体客やらオバチャンらは疲れて、どこかにいってしまったようだ。ゆっくり観たおかげで2時間以上かかったが・・・。

ボストン美術館の日本作品の所蔵量の多さには驚くばかり。これらの浮世絵は明治時代に来日したアメリカ人医師が買い集め美術館に寄付したものらしい。その数があまりにも膨大なため、作品の調査は進まずというくらいだから、二束三文で買い集めたのだろう。おかげで震災や空襲をまぬかれて現存しているということなのだろうか。

それにしても、江戸は、いや日本は変わってしまった、という思いを強くする。ついでに常設展も観たが、結構楽しめた。東京の地層の下には、戦災の焼け跡も、震災の瓦礫も埋まっているという標本を、不思議な思いでしばし眺めた。展示数が多すぎて、思わず荒木経惟の「東京人生」を見逃してしまったのは痛いっ!

本日はK図書館に行って、東京の古地図やら江戸の名残関連本をウダウダと眺める。中で持田晃氏の「東京いつか見た街角」という写真集が目に止まる。これは戦後から昭和40年代頃の東京のスナップ写真。持田氏はプロの写真家ではない。14歳の時から写真をはじめ、撮りためたものを出版したものである。写真を観ると改めて東京の激変ぶりに驚く。いや変わったのは都市や風景だけではない。日本人の「顔」も本当に変わった。

何時の時代が一番幸せであったかなんて誰も分からない。今しか現存しないのだから。その今を最良のものにするしか次世代はない。

話題になった「ALWAYS 三丁目の夕日」は残念ながら見ていないが、あの映画も東京タワーがまさに建設中の昭和30年代の東京を舞台にしていた。まだどこにも高い建物がない中に屹立してゆくタワーは極めて象徴的だ。

昭和30年代にノスタルジーを感じる人は多い。それは団塊の世代ばかりではなく、現代の若者にも共感を呼ぶ何かがあるらしい。





東京タワーと言えば、先週は銀座に出たついでに、銀座INAXギャラリーで開催されている「タワー -内藤多仲と三塔物語- 展」(無料)を観てきた。三塔というのは東京タワー、名古屋タワー、通天閣のことである。塔に耐震設計という考え方を持ち込んだ内藤は「塔博士」と呼ばれた。

塔には電波を発信するという実利的な意義があるが、高い塔を、それも昭和30年代前半にそれを造るということには、実利的な意味以上のものがあったハズだ。東京タワーの姿を「優美」と表現する美意識を私は持ち合わせていないが、その姿から独特の温かみと懐かしさを感じることは否定できない。これもノスタルジーなのか。だとするとノスタルジーの本質とは何なのか。


2006年10月22日日曜日

江戸東京博物館:ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展~江戸の誘惑

江戸東京博物館で開催されている「ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展~江戸の誘惑」を観てきました。日本初公開の作品も多くあり、浮世絵の世界の広さと素晴らしさを充分に堪能できる展覧会であったと思います。出典作品には北斎や歌麿などの有名どころの作品を始めとして、約80点ほどの肉筆浮世絵(版画と違って1点しかない)は市井の雰囲気を充分に伝えて余りあります。

様式美と執拗な技法によって描かれた女性の着物の柄など、近くで見ると驚嘆に値します。浮世絵には私は馴染みが少ないので誰の絵が良いとかいう興味よりも、江戸時代の雰囲気というのでしょうか、江戸の美学というものを、ぼんやりと感じることができました。

浮世絵を見て一番感じたことは、柔らかさでした。人間が全て「遊」の中に住んでいるという余裕。封建的な身分制度は厳として存在していながらも、その階級の中でそれぞれが粋に生活を楽しむ。鎖国によってもたらされた幕府の安定政権は、こんなにも人の心をのんびりと、そして豊かに、さらには享楽的にしたのかと。(もっとも、ここには圧制に苦しむ農民や地方の人々の生活は全く描かれていません。)

例えば下の鈴木春信の絵を観たときに感じる幸福感。着物が作り出す曲線が非常に幾何学的な構成で、かつ優美さが画面全体から溢れています。浮世絵に特徴的な女性の見返りの姿も、頭に被る笠のラインも、どこまでもうらかかで幸福な世界を描ききっています。




鈴木春信「隅田河畔春遊図」

歌川豊春の行楽図もしかり。実生活はイロイロ大変なんでしょうが、画面からは何の不安も不満もない人々の幸せな雰囲気が伝わってきます。


歌川豊春「向島行楽図」

江戸時代の日本は、こんなにも薄ぼんやりと、そして幸福であったのかと愕然とする思いです。

重そうだったので2200円の図録は買いませんでしたが、12月10日までの開催ですから、もう一度くらいは行っておこうかと思っています(>と言いながら、行った試しはないのですが・・・)