2009年5月30日土曜日

宮下誠氏の訃報

クラシック音楽界で今年に入ってから黒田恭一さんなど鬼籍に入られた方は多い。その中で、黒田氏の訃報には反応しない私ですが、『カラヤンがクラシックを殺した』宮下誠氏(國學院大學教授)の突然のそれには驚かされました。5月22日か23日に、出張先のホテルで心不全で亡くなったとのこと。春先に入退院されていましたから、そのことと関係があるのでしょうか。詳しい情報は分かりません。1961年生まれですから、私と同い年なんです。

氏のブログは死の直前、5月15日「不在の代償」が最後になってしまいました。リンクしたページもいずれネット上からは消えてしまうかもしれません。

氏の提示した考え方には、クラシックファン以外の方々も反論を申し立てました。かなり激しいやり取りがネット上でかわされたようです。特に2チャンネルのそれは、凄まじかったと氏はブログで書いていました。私はそのような「熱い」議論に興味はありません。それでも、氏が提示した「音楽とは何であるのか」というテーマが投げかける社会に対する問題提起は、私にとっては小さくはないものであっただけに、氏の訃報を残念に思います。

『カラヤンがクラシックを殺した』の激しいやり取りの後、氏が2月16日にブログで書いたコメントを引用しておきます。

(上記書に関しての2チャンネルでの論戦、そして筆者の不明による謝罪などを説明した後に)しかし、そのような措置には、膠着状態が長く続き、文化の貫流が淀み、腐臭さえをも発している今日を生きる筆者の、絶望に裏打ちされた怨嗟と、明日への希望に対する渇望があった。何よりも、「目に見えないもの」に対する敬意のあまりの軽視への灼熱する怒りがあった。これだけは誤読されてはならないと思う。傲慢だが、これについてだけは大多数の同著に否定的な読者は間違っていると思う。

今日の文化、芸術、社会状況を肯定的に是認しうるだろうか?

(中略)

衆愚は良質の文化を、己の間尺に合わせて切り刻み凡俗へと凋落させる、恐ろしい力だ。権力だ。

こういう認識を現代社会で持っている方は、生き難いと思います。氏の前提である現代社会の「悪意」「世界苦」そしてそれゆえの「絶望」が理解できないと、氏の主張は「ハア~?」てなもんでしょう。真摯に哲学的なんです。

氏が指摘したかったことの一部は、『アレグロ・オルディナリオ~マーラーを中心としたクラシック音楽のことなど』というブログの「『カラヤンがクラシックを殺した』を創造的に読むために。(前編)」が、サブカルチャーと自我という点にまで敷衍し、非常に端的にまとめてくださっています。

氏の『逸脱する絵画』『迷走する音楽』も買っておかないと、絶版になっちゃうかもだな・・・。

2009年5月16日土曜日

新橋演舞場五月大歌舞伎


鬼平犯科帳 狐火ほか 
この日の観劇の記録がないのでチラシのみ。


2009年4月12日日曜日

2009/04/12 国宝阿修羅展


阿修羅像が東京に来ると言うので、話題騒然となった展覧会。阿修羅像をグルリと一周鑑賞できる素晴らしさ。


2009年3月30日月曜日

【本棚】下村治:日本は悪くない 悪いのはアメリカだ


神谷氏が自ウェブや『強欲資本主義・ウォール街の自爆』(→レビュ)で紹介していた下村治氏の著書が復刊されておりましたので読んでみました。初版は1987年です。サブプライム危機後の現在にもそのまま当てはまる予言と批判となっており、書評やネット上では下村氏の慧眼を評価する声を一部で見ることができます。

しかし、よく考えると経済というか日本が、バブル時期の20年前と何も変わっていないこと、あるいは、新自由主義が崩壊した世界においても、相変わらずの対米追従であり、自国の論理を構築できないままの未熟国であることが露呈されたたに過ぎないのかもしれません。ドルの崩落の危険性について下村氏も指摘していますが、今でも同じ論調の本はあちこちに山積です。

下村氏は全8章で同じ理論を繰り返しています。下村氏は、とにかく「アメリカの言いがかりと詭弁」に怒っています。高名な経済学者でありながら語り口も平易ですから、読み物としてもあっという間に読めますし、イロイロな意味で深い感銘を受けます。

骨子はこうです。アメリカ国見一丸となって借金をしてまでの消費狂いのせいで双子の赤字が生じている、それを他国(=日本)のせいにして日本国内消費を増やせだの、輸出を減らせだの文句を言うことはオカシイ。キサマラこそ借金を止めて消費を縮小せよ。日本は輸出が減るから生産は減るけど、他国の消費に頼ってバブルを謳歌していることこそ間違い。生産を縮小して身の丈にあった経済に戻りなさい、というもの。

下村氏は、多国籍企業やグローバル経済にも異を唱えているようです。自由貿易やグローバル企業は進出先の産業を弱体化させ食い物にするというような植民地時代の考え方が今でも生きていると主張します。競争力の弱い自国の産業は保護が必要であると。

20年経った今でも、アメリカの消費はいよいよもって狂気の域に達し破裂しました。今回の経済不調の原因が市場主義にあったわけでもない。確かにサブプライム・ローンとかCDSなどの金融派生商品を生み出した金融業者と、それに信用を付与し続けた格付機関には大きな責任があります。そして、そんなワケの分からない商品を買いまくった銀行とか保険会社にも責任の一端はあります。

サブプライムで痛い思いをした日本経済は、「新自由主義」とか「市場主義」の悪弊を言い募り「資本主義」のパラダイムが変換しつつあると主張し、「縮小均衡」や「保護主義」に向かうべきという主張が目に付きます。20年前の下村氏も同じことを主張します。アメリカが本気で経済を立て直す(赤字を解消する)気なら、GNP縮小を覚悟の上で「歳出削減」と「増税」しか道はない、日本も多少の痛みを覚悟の上で(数年前のレベルに戻るだけのことと氏は言う)縮小均衡に向かえと。

自国を見直し、大切なものは育てるという認識は正しいと思います。ただし、ここまでグローバル化した世界において、グローバル化そのものの流れを止めることはもはやできません。保護主義(バイアメリカン条項などもそうでしょうか)も一時的には効果があるかもしれませんが長期的戦略ではない。そんなことをしていたら、更に経済は硬直化し新陳代謝をすることなく縮小してしまう。経済が一時的にオカシクなったものですから、「内向き」こそが是、「節約こそが是」という風潮も、ゆり戻しの範囲であれば受け入れるべき点はありましょう。

怒りまくっている氏の最後の結びは以下のような文言です。

(現在の異常な経済運営を改めるなかで)ただし、その際、忘れてならない基本的問題は、日本の一億二千万人の生活をどうするか、よりよい就業の機会を与えるにはどうすべきか、という点なのである。

これは自由貿易よりも完全雇用、経済活動はその国の国民が生きていくためにある、という氏の一貫した理念は明確で力を与えてくれます。

2009年3月21日土曜日

【本棚】津村記久子:ポトスライムの舟?第140回芥川賞受賞作

友人と話していると、私は世間に対する認識がひどく甘いらしく、特に派遣とか非正規雇用とか、または最低年収に対する常識が現実とズレていると厳しく批判されます。森永卓郎が「年収300万円で生きる」みたいな本を書きましたが、今や年収300万円ももらえればいい方なのであると。そう言われてしまう私は、弱者に対する思いやりや視点が欠けているのだろうとなと思わざるを得ません。彼ら彼女らの生き方や痛みも分からないのだろうなと。

だから、本書を読んだ第一印象も、この小説に描かれるような生活とか境遇の人に対してのシンパシーが生まれてこない。何なのこの小説、ごく狭い世界の個人的なことが、ダラダラと綴られている、大人になりきれないオトナたちの生活が描かれているだけで、一言で言えば「退屈」。これが最近の芥川賞の内実?などと思ってしまう。大して小説なんて読んだことがないくせに、偉そうにです。

でも、読み終えて読み捨てたハズの作品ではあったのに、ずっとアタマの片隅に何かが残り続けている。あたかもポトスの根が、水鉢の中でグルグルと根を張るかのように、何かがひっかかる。そんなに無視していい作品なのかと、自分の欠落に目を閉じていていいのかと。いや、やはり「芥川賞」ということに、何がしかの「意味」を見出そうとしていたのかもしれません。

さして長い作品ではありませんから、再読してみました。すると、主人公ナガセが何をもがいていたのか、やっと見えてきました。

ナガセは年収の低さとか、派遣という立場とか、30歳になっても独身であることとか、そういう分かりやすい不安定さだけが問題なのではない。以前の職場ではパワハラと気違いじみたパワーゲームに傷ついた。そもそもが、働くとか生きるということに対する意味が希薄になっていること、ムリにでも自由な時間を潰し何かしていなくては不安で仕方がないという精神状態こそがモンダイなのです。

自分の時間や人生を切り売りしているその代償として、働く動機や確実な成果が欲しい。働くためのモチベーションを得るために『今がいちばんの働き盛り』と腕に刺青を彫ろうとします。あまりにリスキーな行動ですから思いとどまり、次に年収全部をためて世界一周クルージングをするということを目標にします。たまたま目に留まった職場のポスターで思いついた程度のものであったとしても、とにかくすがらなくてはならない。自分に対する報償、ささやかだけど大切な失地回復運動。

ナガセは小説後半でヒドイ風邪で職場を休むことになります。そして、彼女の中で何かが変化していきます。休んでいる間にたまたま会社がボーナスをくれて、はからずも世界一周のお金が溜まっということもありましょう。休んだら、自分が根本から変ってしまうのではないかとまで思いつめ、それでもそこまでして維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。と考えていた彼女。病気で床に伏したことが、彼女の周りは何も変化していないのに、彼女には何がしかの意味を付与したことは、前半と後半の小説風景をがらりと一変させるほどのものがあります。

私は小説のラストに向けてさらにナガセに不幸や挫折が訪れやしないかと不安だったのですが、作者はそんな意地の悪いことはしませんでした。誰もが「小説」や「映画」の主人公のように強くはありませんからね。葛藤に対する克服とかも用意しません。村上龍氏の選評であるコントロールできそうにないものを何とかコントロールしようという意志でもありません。そんなテーマからは遠い地平に作者(たち)はいる、そういう「マッチョ性」から最も遠いことを描いているのですから。作者はもっと現実的なものを提示したのです。

それとて、本当にささやかなもので、大きなドラマでも事件でも何でもありません、解決でさえありません。しかし日常のそういうものをいとおしく思う気持ちがなければ、このつまらない人生(=作品世界)などに本当に意味などないのかもしれないと思ったことも確か。これはハケンとかだけの物語ではなく、働くとか生きる人全てに対する、ごくごく控え目なメッセージなんですね。

ととらえました。浅いかな・・・、まあ・・・文春もそろそろ「芥川賞」なんて止めたらとは思いますけどね。

2009年3月15日日曜日

ハイティンクの無料音源を堪能

CLASSICAの飯尾さんによる「ネットエイジのクラシックジャンキー」で、『巨匠ハイティンクのライブ音源無料ダウンロードサービス!』という記事が目に留まりました。

ダウンロードが3月15日までとのことなので、せっかくですからダウンロードしてみました。演奏はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、以下の3曲です。

  • ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」 (2005年)
  • シューマン:交響曲第1番「春」 (1981年)
  • ビゼー:交響曲ハ長調 (2000年)

音源は楽章ごとに分かれたmp3形式。前回の配布では全楽章が1音源でしたから使い勝手はこちらの方が良いかと思ったところ、楽章の最初と最後にオランダの公共放送局radio4のアナウンスが挿入されている曲が幾つかありました。

多少興ざめではあるものの、これほどの音源をサービス期間中とはいえ無料でダウンロードできることはありがたいことです。往年の響きが失われているとお嘆きの方もいらっしゃいますが、ロイヤル・コンセルトヘボウの柔らかな音色も素晴らしく、全曲とも堪能することができました。

シューマンやビゼーの交響曲は普段あまり食指を伸ばさない、またハイティンクでさえ私にとっては積極的に親しもうと思う指揮者ではありません。しかし「無料」ということもあって、こうして聴いてみますと、どれもじっくりと聴くべき価値はしっかりあり、特にハイティンクに関しては一度まとめて聴いておくべき指揮者なのだろうなと改めて思ったりしました。

今日のランニング

土曜日の夕方は風がビュービュー吹いて冬に逆戻りか?というくらいの寒さ。それが今日は一転して気温も上がり気持ちの良い青空、すっかり冬も去ったとばかりの天気。家人と愛犬を連れ立って、近所をゆっくりと2時間近くも散歩しますと、それなりに疲労感も生じます。愛犬はトシなので散歩の後はぐったり、私はやっぱりもったいないので走ることにしました。

「走る」ことに対する肉体的抵抗はありません。しかし10km以上の長距離走をしようとすると、アップも含めると1時間半以上になりますから精神的抵抗は小さくない、面倒だなあというような。なので今日も短時間で切り上げようと400mトラックでのインターバル走にしました。

先週は1分のインターバルを完全に休憩にしていた、ストレッチとか体や息を整えながら、走ることは止めていました。今日は負荷を少し上げて「止まらずに続ける」ということをテーマに400m2分走の後の1分をタラタラとジョギングでつないでみます。これを10セット。

やってみると結構つらい。走りながらどこが「つらい」のだろうと考えます。脚はまだ大丈夫、息も上がりきっているわけではないし、脈拍もバクバクしているわけではない(測っていないから分からないのですけど)。「つらい」と感じるのは中程度の負荷に対して精神と肉体の耐性ができていない故なのだろう、すなわち「慣れ」の問題であろうな、とか考えながら走ります。

iPodからはラフマニノフのピアノが炸裂しています。ラフマニノフ流しでかけているので誰の演奏かは良く分からない、でもこの強烈さはホロヴィッツかなとか思いながら走る。少しでも筋肉や靭帯、関節に異常を感じたら止めるつもりでいましたが、この程度の負荷ならば大丈夫そうです。

10セット終了後、少し休んでからダウンのつもりで軽く2千mを流します。ゆっくりしたペースでいいと思っても体が軽くて、5分10〜20秒くらいのペースになってしまいます。調子がよければ、5分10秒のペースで5000m程度なら走りとおせそうな気がしてきました。

こういう走り方をしていると、何だか「トレーニングしている」という気になるものですね。

2009年3月13日金曜日

哲学博士 宮下誠氏のブログ

『カラヤンがクラシックを殺した』の著者である哲学博士 宮下誠氏のブログがあります。3月11日のエントリ「音楽はただ聴くためにあるのか?」で同書と同じような論旨を展開していました。気になるテーマですのでメモしておきます。

あの、即物に徹した、にも関わらず様々な内包物を潤沢に孕んだ音楽に対して「聴くだけ」なる姿勢は許されるべくもありません。

音楽は感覚の悦びであると同時に認識の歓喜だ、

この「認識」を宮下氏は「悟性」という言葉に置き換え、単なる「感性」だけの音楽を鋭く批判します。「悟性」とは普通はあまり使わない言葉です。「認識」とか「知性」「理解力」と解されることが多く、英語では「understanding」となるようです。私も高校の教科書で接して以来、日常的に使用した記憶のない単語です。哲学者である宮下氏が使うのですから、カントやヘーゲルの悟性論までを理解しないと、彼の「嘆き」には共感できないのかもしれません。

感動!!!

そういえば全てが許される、この世界の風潮は、一億総愚民化の一支流に他なりませんん。

安っぽい「感動」の氾濫には私も辟易です。一方でたまには理屈もなく呆けたように「感動」したいことも確か。

神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。

こう書いたのは『西洋音楽史』の著者 岡田暁生氏(→Clala-Flalaエントリ)。

「悟性」の欠落は神なき現代の、更なる精神的な不毛に帰すべき現象なのでしょうか・・・?? 素直に「感動する」ことを批判する姿勢には、反論も多いと思います。私の中では無視はできないものの結論付いてていない問題です。そんなこと考えずに、ただ音楽に浸ったほうがよかろうとは思うんですけどね。

2009年3月12日木曜日

「久米宏のテレビってヤツは!?」

昨日、何気なくTVを点けたら「久米宏のテレビってヤツは!?」という番組をやっていました。その中で、黒柳徹子とのトークが抜群にやはり面白かったのでメモしておきましょう。録画していたわけではないので、久米・黒柳両氏のコメントは記憶で書いています。

久米「ニュースステーションをやっているときに、6時くらいから他社のニュースや新聞を読んで、他の人が言っていないコメントをするようにした」「そうすると、自分の考えていることと違うことを言わなくてはならない場面が、何度か(も?)あった」

仕事で自分に規制とかテンションを与えることは重要です。しかし、そこまで徹底しなくても良いとは思います、自分の主張はブレないんでしょうか。報道の意味とか主張とか客観性とか、ニュースステーションは根底から覆しましたからね。

久米「TVで誰にでも好かれようとするのは不可能」「10人のうち2~3人くらいの人に好きになってもらえればいいくらいの気持ち、その人に向かって話す。そうすると、久米ヲタクみたいな人がついてくる」

黒柳「だからって、全部を敵に回すようなやりかたもどうかと思うけど」

人と違うことをしないと意味がないということには同意します。仕事は他人がやらないこと、自分しかできないことに特化し、そこを強化するのが私のような凡人にも参考にすべき戦略だと思っています。久米氏にしても、自分の欠点(嫌われる部分)を徹底的に磨き上げて強化したのだと思えます。

久米「このごろやっと気づいたが、『表現』とは相手の話を聞くこと。(自分の中には、そんなに次から次へと出せるソースはない」

デザイナーの佐藤可士和の言葉を思い出しました。クライアントと仕事をするときには、コミュニケーション、相手の考えを整理、仮説による問いかけなどを通じて要望を聞き取りデザインをまとめていくのですとか。「答えは相手の中にある」。答え=相手の要望の具現化されたもの=仕事・デザイン・結果=表現。かな。

生で現役の政治家とやり取りできる、こんな面白いことはない。

田原総一郎もそうですけど、自分の主義主張を前面に出すより、イロイロな方面からつついて相手から反応を引き出すという手法。ある意味スリリングですけど、徹底的な討論ではないから期待が外れることもある。時間的制約もありエンタメTVの限界でありましょうか。

薬丸氏とのトークでは、

久米「(やっくんは)受け答えとか真面目すぎて、そういうやりかただと疲れないか?」

黒柳「(失敗しても)反省なんてしない、『反省』という言葉は母のお腹の中に置いてきた」

久米も激しく同意。

黒柳「TVでできあがったイメージは崩せない(そこで生きるしかない)」

所詮、仕事も私はゲームであると思っています。ゲームに参加するには、それに応じたキャラクターが必要です。だから私は仕事では「仕事をする自分を演じ」ていますし、そのキャラを武器にしています。本質の自分と考える「自分」とは異なった「自分」がそこには居またりします。

旧TBS跡地(現赤坂サカス)の広場、ベストテンのスタジオがあった辺りで、久米氏と黒柳氏が子供のように当時を懐かしがる風景は、時代の流れを改めて感じました。彼ら彼女らの中に、その「記憶」が鮮明に生きていようとも、実空間は全く変質してしまっている・・・。「記憶」の空間を知る世代さえ、どんどんと少なくなっていく。全ては泡沫(うたかた)かと。

2009年3月10日火曜日

歌舞伎座の建て替えについて、中野翠さんの意見

「文藝春秋」2月号に、エッセイストの中野翠氏が『歌舞伎座取り壊し 私は許せない』とする文章を寄稿していました。彼女は六代目歌右衛門を通じて歌舞伎に親しんできたというほどの方。

彼女は、単なるノスタルジーや建築意匠的なもののみに反対の理由を求めるのではなく、歌舞伎を演ずるということの重層的な楽しみというこから説明しようとしています。

すなわち、歌舞伎というものは、代々と受け継がれた演目を、世襲で継承している役者が演ずるという歌舞伎の構造的な本質と、それを「同じ場所(舞台)」で演ずるということ。
それが歌舞伎を長く見続けたときの重層的楽しみなのであると書いています。この「重層性」こそが、由緒ある劇場には必ずある心をしんとさせるような妖気やオーラにつながるのだと。

今の舞台に昔の舞台の「記憶」が重なる

このような意見を読むと、歌舞伎を始めて見る人や、全く見ない人には、何のことやらでしょうか。一部の特権的観客の愉悦に過ぎないのではないかと、冷淡な態度をとる人も居る事でしょう。しかし、そのような「重層的な記憶」こそが伝統とか伝説につながり、それが極まれば、ファンからは「聖地」と崇められるという現実もある。

一方で女性らしい、下記のようなコメントには思わずニヤリとしてしまいます。

(国立劇場では)女を引き付つける俗っぽい華やぎや色気に乏しい。伝統芸能を楽しむのではなく鑑賞するという感じ。

まさに!です。1階のお土産屋あたりから漂う、甘い金つばやたい焼きの匂いや、俳優の生写真などなど・・・。

このような下らない価値観こそが「文化」という目には見えないものの、とても大切な一部のような気がするのです。それゆえに、気配に敏感な方々は単なる更新や再生ではなく「破壊」とうつる。いったん破壊されたものは、絶対に再構築されないことを分かっていますから。

例えば、今話題の東京中央郵便局の建替え問題。こちらも部分保存の範囲を拡大する方向で決着が付くそうです。こちらの建替えは、なにやら政治的なにおいがして賛同できない部分も多い。単なる形骸化した建物と、歌舞伎座を一緒には論じられないと思いますが、いかがでしょうか。

2009年3月8日日曜日

今日のランニング インターバル走を試みる

体調が悪くて、パッとしない日が個人的には続いています。あと1ヶ月もしないうちに桜が咲くのでしょうけれども、いまひとつ暖かくなりません。血の巡りを少しは良くしようと走ってみますと、手がかじかむこともなくなりましたから、春は近いのでしょう。

さて、たらたらと1kmを5分20〜30秒のペースで走っていても、これ以上スピードは上がらないことが分かりました。いたずらに距離を長く走るだけというのも芸がないので、今日は趣向を変えて400mインターバル走に取り組んでみました。

まずは1kmを軽いウォーキング+ジョグでアップ。体を温めてから、400m 2分走+休憩1分の計3分を1セットとし、これを10セットやってみました。トラックで走りますから、400mのペースはきちんと守れます。

400m 2分は1kmだと5分、フルマラソン換算で3時間半のペースです。以前も書きましたけど、このスピードは結構速いんですよね。最初の200mは良くても、後半の200mでは息は上がり脚は逆に上がらなくなります。とてもではありませんけど、このまま800mなど到底ムリ。少し過負荷かなとは思いましたが、1分の休憩(ストレッチとかジョグとかで体をならす)をはさんでの10セットですから、何とか頑張ってみました。

終わってみれば、まだ走れそうな気もしましたが、このくらいで止めておきます。怪我をせずに長く走るには、とにかくムリをしないことが大切と思いますし。慣れてきたらセット数を増やすか、休憩時間を短くするか、走る距離を長くするか、まあイロイロなパターンがありそうです。とても「しんどい」のですけど、このくらいですと、短時間でも「走った?」という気になりますね。

当面は、このインターバル走と10km〜15km走を組み合わせながら走ってみようと考えています。

なお、これらの練習は全くの自己流ですから、もし仮に走っている人がいても参考にしないで下さいね。

2009年2月22日日曜日

【本棚】神谷秀樹:強欲資本主義 ウォール街の自爆

サブプライム問題以降、新自由主義やら資本主義の転換、アメリカの凋落などが話題になっており、書店に行くとその手の本がいつも山積です。本書は、そのタイトルと読みやすさから、かなり売れているようです。

神谷氏は、外資系投資銀行で長く働き、今でもアメリカの金融ビジネスに身を置いている方。そういう人が描くアメリカの金融界はまるでB級映画を観るかのようで、とどまるところを知らない「強欲」に支配された様は、ほとんど「狂っている」としか思えません。

ウォール街の「強欲度の水準」は、われわれ日本人が日本人社会の中で考える「強欲」の感覚より、三乗か四乗のレベル

神の前では明確な「盗み」であってもまったく気にない人間が著しく増えてしまった(P.20)

これを査証するかのような「実例」が本書では列記されており、神谷氏は深い嘆きをもって語っています。その点はこのくらいにしておきましょう。彼の主眼は「資本主義の転換」ということにあるようです。

サブプライム以降のアメリカ発バブル崩壊について、神谷氏は「一つの資本主義」の終焉の到来を意味しており、人々の価値観の大きな転換期(P.24)ととらえ、パラダイムシフトの後に、いわゆる「縮小均衡」の世界がくるとしています。

そもそも資本主義というのは拡大、発展することをテーゼとしていたわけです。その資本主義の考え方について神谷氏は「何のための『成長』なのか」、「何をもって『成長』と考えるのか」といった基本的な議論(P.170)が必要なのだと主張します。

すなわち、アメリカは、借金による過剰な消費生活を見直し、身の丈にあった生活に戻る(P.165)ことしか回復の道はなく、日本においても、国内市場だけで商売するならばという前提付きで、毎年0.6%ずつ人口が減少する社会での縮小均衡点を見出してゆくことが経営のテーマである(P.186-187)

と指摘します。

更に、池田内閣の参謀として所得倍増計画を設計した経済学者として知られる下村治博士が1987年に唱えた「ゼロ成長論」の卓越を賞賛し(P.174)、

「万民のためになる資本主義」というものが提案されてくる可能性(P.196)

資本主義そのものが、これまでとは異なる価値観で再建される必要がある(P.205)

と結んでいます。

神谷氏は日経ビジネスオンラインで2006年から「日米企業往来」というコラムを連載しており、それを読むとサブプライム以前から、アメリカ主導の新自由主義に疑問を唱えていることがわかります。投資とか金融は実業たる産業や経済=生活そのものをサポートするのが仕事であり、マネーゲームが主になることは間違っていると一貫して主張しています。

神谷氏の主張は「縮小均衡」であり、これは下村博士が主張した「世界同時不況を覚悟して縮小均衡から再出発」することにほぼ同調したものです。下村氏の「日本は悪くない 悪いのはアメリカだ」は文藝春秋社より文庫版で再2009年1月に再販されています。いずれ、こちらについても触れておきましょう。

やはり考えるべきは、ポストアメリカの世界観なのでしょうか。膨大な人口を抱える中国やインドの貧困層や格差の是正が真に動き出したとしたら。その場合にこそ、新たな勢力やビジネスモデルが台頭するのかもしれません。例えばバングラディッシュのグラミン銀行とか、インドの20ドルパソコンとかにその片鱗を感じます。世界の勢力地図が本当にガラリと一変する日も遠くないのかもしれません。

ドゥダメルのチャイコフスキー交響曲第5番(DG 1week)


ドゥダメルとSBYOによる、チャイコフスキー交響曲第5番を聴いてみました。HMVレビュにあるように確かに音質(録音?)が悪い。モコモコとしていて音像がハッキリしません。湿気の多い大気を通して景色を眺めている感があります。しかしながら、その欠点を差し置いたとしても本演奏は素晴らしいものであると思います。

来日も果たしているドゥダメルについて私が知りえ、聴いたことがあるのは録音された演奏のみ。その前提で書くとしても、ドゥダメルは他の演奏と同様、単なる熱演、爆演系指揮者ではないことが分かります。しっかと計算された緻密な棒のもとに、非常に訓練されたスキルの高い演奏者が、情に流されることなく音楽を表現しているという印象です。音楽からは喜びや音楽への愛が伝わってきます。

演奏にはわざとらしいクセや恣意的なアクはなく、従ってチャイコフスキーにありがちな土砂降りの感情の吐露や自己憐憫のような湿っぽい感情も感じません。

演奏者の育った原風景が、演奏表現に与える影響は否定できないのでしょうか、あるいは私の先入観でしょうか。私は今までとは違ったチャイコフスキー像をこの曲から感じました。印象的感想を許容するとするならば、例えば第二楽章。この曲を聴くと私はたいてい、煌々とした月夜を想像します、老人の過去への憧憬とともに。しかし彼らの演奏からは、むしろ大きな大地の息吹と、沈み行く太陽と明日への希望のようなものを感じます。

終楽章の冒頭主題が終わった後、ティンパニの連打に先導される部分からの圧倒的な疾走にも驚かされます。ここに至るまでの演奏が堂々としたもので、テンポもゆったりしていただけに、この変化には目を見張る効果があります。湧き上がりうねりまくる若きエネルギーが爆発しており、まことに爽快です。冒頭の陰鬱にして湿った重たい表現から、最後の爆発まで、色彩のパレットを駆使した音楽の描き分は見事です。

『フランチェスカ・ダ・リミニ』はあまり親しんでいる曲ではないものの、この演奏を聴いてたまげました。凄まじき演奏にして音楽であります。激烈さと激しさは聴くものを翻弄するほどのパワーがあります。ラストの興奮にみちたアプローズにも納得です。

2009年2月8日日曜日

宮下誠:カラヤンがクラシックを殺した


「20世紀音楽」「20世紀美術」などの著者として知られている宮下誠氏の問題作「カラヤンがクラシックを殺した」を読んでみました。宮下氏のブログなどを読むと、相当にネット上で叩かれたようです。しかし彼の書いたメッセージについては、納得できる点も多い。

カラヤンの音楽を綺麗なだけで、人工で自己欺瞞的な「美」の幻影(P.49)とする見方に同意するクラシックファンは少なくないでしょう。そこまでは良いとしても、カラヤンの音楽を精神史的な観点の中に位置付け、戦後の世界観を支配する平板で欺瞞的な知のあり方の象徴と見なしていること、そしてカラヤンを受容した一般大衆を容赦なく、お前たちも同罪だと断罪しているところは、大きな反発と批判を浴びたように思えます。あるいはクラシックに詳しくない読者には、音楽とはかくも恐ろしいものかという拙い印象を与えたかもしれません。

もう少し詳しく書きましょう。宮下氏は20世紀から21世紀にかけての世界を荒廃した絶望的歴史風景(P.50)と捉えています。そこには世界の不条理や、そこにいる「私」の癒しがたい絶望があり、このような自己も含めた人間存在の本質的な痛み、生きることの苦しみ、「ある」ということの絶望的な重さを「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」という言葉で代表させています。

カラヤンの音楽は、「世界苦」に対して恐ろしく鈍感、同情が欠如しており、「世界苦」を欺瞞で糊塗してきた世界の象徴的存在であるがゆえに、一般大衆に与えた影響は甚大で、

カラヤンは断罪されなければならない。(P.56)

と宮下氏は主張します。そしてカラヤンの音楽が美しければ美しいほど、また聴衆=一般大衆がそれを受容するほどに、その無自覚なイノセントさは罪であるのだとします。

宮下氏の一般大衆に対する批判は、実はカラヤンのそれ以上に強烈です。例えば次のような一文です。

「大衆」はいわば自分の努力のなさ、向上心の欠如、金銭を最高の価値としてあがめたてまつる拝金主義、他人の不幸を隠微に喜ぶ底意地の悪さ等々を棚上げにして、ささやかな幸福に満足し、その価値観の下、自分に理解できないものを仮借なく排除し、或いは価値切下げを断行し、才能を、或いはアウラを突出した人間から掠め取り、食い物にし、その残骸を「お友達」感覚で賞味するという恐ろしい生き物(P.64)

彼の大衆批判はそこかしこに読み取ることができますが、このくらいで良いでしょう。強烈な批判ではありますが、私は「価値切下げ」という部分に、首肯できる主張を感じます。

さらに宮下氏が指摘した「アウラ(オーラ)」とは何でしょう。所謂「カリスマ性」みたいなものとして氏は定義していません。そういうものではなくて、観念論的伝統とそれに対する敬意と畏怖であるとしています。難しいですね。しかし、この部分も、おそらくは氏の主張の根幹をなす部分でしょうから引用してみますと、

それは音楽を語ることを挫折させるまさにそのもの、神秘的な、エーテルのような、あることを証明することは到底不可能だが、決してないわけでは「なさそうな」、曰く言い難い、神秘的な「何かあるもの」であり、ベンヤミンが複製技術時代には失われることを予言した(P.119-120)

ものが氏の言う「アウラ(オーラ)」だとします。カラヤンにはそれが全くないのだと。

これはいわゆる、「芸術解体」ということに繋がる大きなテーマです。今の世にあって、もはや「芸術」という言葉は、死語か悪い冗談にしかなりません。日常の中から「芸術」という言葉が排除されはじめたのは、私の記憶では80年代中頃ではなかろうかと思います。「芸術」は「アート」という言葉に置き換わり、サブカルチャーなるものが台頭してきました。そして、この頃から大衆の「欲望」があからさまに「拡大再生産」されるようになり始めたように思います。もしかすると、ここが氏の一番大きな批判の論点なのではなかろうかと思うのです。

宮下氏の「西洋音楽」に対する考え方は、いまをもっても精神芸術的あるいは哲学そのものとして捉えているようです。つまりこういうことです。音楽は悟性の歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもありえるものととらえ、悟性による認識を通じて音楽を、いわば主体的、積極的、自覚的に聴く~そのような聴き方を聴き手に迫っている(P.34)ものであるとしています。宮下氏は、音楽全般の価値が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」こそ悪い冗談(P.277)であり、

悪い冗談に無自覚に感動し、音楽とは良いものだ、と安閑として日々を送っているのが今日の音楽鑑賞のあり方だとすれば、それは根本的に間違っている(P.277)

と最後まで、聴き手をも断罪しまくります。

氏がカラヤンの対極として、クレンペラーとケーゲルを上げていることは、私にはさほど重要なこととは思われません。ここを強調すると、いわゆるクラヲタ系批評家と変らなくなりますし。

宮下氏は1961年生まれですから、私と同年齢。その氏がかくも現代社会と今を生きる大衆文化に深く絶望していること、そのことにこそ、私は驚き、そして自省の念を覚えます。確かに氏の指摘をそのまま受け入れるならば、私たちは他人や世界の痛みを遠ざけられるような愚昧な情報に溢れており、それゆえ利己的かつ狭小な世界に閉じこもり、無自覚とイノセントであることを当然のこととして、快楽的、享楽的に生きていることになります。

これらの原因を、全て「カラヤン」に象徴することには、かなり無理があるものの、彼が「カラヤン的なるもの」として批判したものに対して、自覚的になることは重要であろうとは思います。ただし、この手の自己批判は、全て自分が受け入れる必要があるだけに、アクションとして結びつかない限り、最終的には自己矛盾と自己欺瞞に行き着くため厄介です。

いずれにしても氏の嘆きと希望がどこまで伝わったかは、はなはだ疑問には思うところです。このように考えると、本書のタイトルさえ誤解を招くものであったと思わざるを得ません。

2009年2月6日金曜日

【本棚】副島隆彦:恐慌前夜


遅きに失した感はあるものの、金融預言者を自認する副島氏の著作を読んでみました。彼の金融に関する予言が当たっているか否かについては、私は論評しませんけど、言っていることは、非常に分かりやすく単純で面白く読みました(すぐに読めるし)。多くの読者をつかむのも分かります。刺激的な程、読者層にウケますから。

主旨を単純化すると、「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」は今後も数ヶ月に一度ずつ起きてゆく。アメリカ発の大恐慌突入の前に、預金封鎖が行われる。多くの法律が急速にバタバタと改正され、緊急の金融統制体制に入る。これからは銀行が一番危ない時代、信用できない。だから、そうならないうちに、しっかり自分の資産を実物(金や不動産や食料)に今のうちに移し変えておきなさい、悪いことは言わない、私のことを信じなさい、みたいな事が繰り返し述べられています。

で、最近の近著が「副島隆彦の今こそ金を買う」です(未読)。投資や個人資産の保護に関しては、それぞれの経済状況の中で自分に最適なリスク・ヘッジを考える必要があるため、ひとつの見方として参考にはしますが、だからといって、すぐに金相場に手を出そうとは、私の場合考えないでしょうね、そんなに現金資産もないし。

副島氏の姿勢で明確なのは、攻撃的なまでの米国批判。特にアメリカの手先となって動いたと彼が見なす竹中元金融相や、10年前からアメリカが日本に強制して作った金融庁に対する批判は強烈です。現代のゲシュタポ、ゲハイム・シュタートポリッツァイ(Geheime Staatspolizei ドイツナチス政権時の国家秘密警察、現代の特高警察、政治警察(思想警察)、実質的な弾圧機関などなど、かなり手厳しい。竹中路線の批判などは、多くのブログなどで話題にされていますから、私は本書の覚書程度にとどめておきます。金融庁は「怖いトコロ」なのだということで。

ただ、あまりにもアメリカの顔色ばかり伺う日本政治と、アメリカの風邪が肺炎になるくらいにダメージを受ける日本経済に、憤りを覚える人は確実に増えていると思います。そういう背景が、副島氏を支持する人が増える一因なのだろうと思いました。

副島氏は世界の金融界がロックフェラーやロスチャイルドによって支配されていることにも軽く言及しています。金融界はデイヴィッド・ロックフェラーと、甥のジェイ・ロックフェラーの骨肉の戦いである。デイヴィッドはシティ・バンクの実質のオーナー、ジェイはゴールドマン・サックスのオーナー。この骨肉の争いは今やはっきりとジェイ・ロックフェラーに軍配が上がりつつある(P.172)らしい。ちなみに三井住友銀行の実質筆頭株主はジェイ。三菱東京UFJ銀行は、三菱=ロックフェラーの130年に及ぶ運命と宿命として(P.162)、シティ救済を断れないのだと。

ふーん、と思いながら、こういうテの本は気楽にウィスキーでも舐めながら読むのが正しいか。この手の裏話にも、とんと疎いですから。

2009年2月2日月曜日

團十郎の歌舞伎案内


團十郎が青山学院大学で歌舞伎についての特別講義を行った内容を本にしたものです。團十郎の歌舞伎に対する考え方が窺い知しることができ、大変に参考になる本です。

私の少ない観劇の経験からしても、歌舞伎って何だろうと考えると答えに窮する。歌舞伎とは何かを定義することは、大変難しいのではないかと思っています。一般の人が想像する、いわゆる「時代物」だけではなく、歌舞伎は長い年月の中で色々なものを吸収して変化してきました。例えば本書でも紹介されているように、七代目團十郎(1791~1859年)が歌舞伎の舞台に能を取り入れました。

七代目が「勧進帳」をつくっていなかったら、歌舞伎に「松羽目物」という発想が生まれていたか(P.64)

歌舞伎像はひとつのイメージを結ぶにはいたらない。根本的に歌舞伎とは「その時代のお客さまの嗜好によって変化して、左右されて、発展してきた庶民の芸能」といえる(P.109)

と説明しています。

そういう歌舞伎であっても、團十郎は「格」ということを大切にしています。團十郎家にとって、やってよいことと悪いことがある(P.57)と、四代目團十郎(1711~1778年)の言葉を引用し、例えば2008年1月 海老蔵が演じたラスベガスのイリュージョンを使った演出について疑問を呈し(P.96)ています。何でもアリではないのだと、それが歌舞伎であり「格」なのだと言うのです。ここはきわめて重要だと思いまし、私もこの意見には大きく同意します。

例えば「リアル」ということについて。歌舞伎も江戸時代から明治にかけて、西洋風のものが入ってきたために、真実を真実としてみせる(P.81)という方向へシフトしたことがあったと。実際に舞台に水を張ってみるような演出はリアルだけど、そこに能があるのかなと疑問に思う(P.234)と團十郎丈は書いています。

歌舞伎に演出家というものがいないことに対しても、日本独特の成り立ちであり、西洋がそうだからと日本もそうしなければいけないということはないと書いています(P.106-107)。どこまで保守的になり、どこまで革新的になるか。まさにそのバランス感覚こそが「格」ということに表されているのかもしれません。

團十郎丈が謙虚であり誠実であると思うのはこういうところです。私たちはここで満足です、これ以上はもういいですとし、それ以上は欲張らないことが重要であるとも書ています。

歌舞伎は日本語という文化圏の中でやっているかぎり、それ以上は背伸びしたくてもできない。

いい意味で"小ささ"を保ちやすい(P.234-235)

この指摘は、ブログ内田樹の研究室で最近読んだ『「内向き」で何か問題でも?』と微妙にシンクロしました。グローバル化とか言うけれど、内向きで飯が食えれば無理にグローバル化しても意味がない、みたいな主張です。

歌舞伎は日本で行い、日本語で実施することによって世界に対し意味を持っています。日本人よりもよほど外国人の方が歌舞伎や能に詳しかったりします。もっともそれだけでは、日本人としてさびしい限りであることは否定できません。

自国の伝統ある文化をしっかりと見つめ、次の世代にどのような形で伝え継承してゆくのか。これは歌舞伎役者だけではなく、歌舞伎を観る(あるいは観ないという選択にしても)私たちに課せられた課題であると言えるのではないでしょうか。

玉三郎の「鷺娘」、伝説化・・・

先月の歌舞伎座での玉三郎の「鷺娘」について、ナマ「鷺娘」もそのうち「伝説」になるでしょう。
と書いたのですけど、当たってしまいましたね。

ブログ「六条亭の東屋」で知りましたが、玉三郎自ら、もう歌舞伎座でも新歌舞伎座でも「鷺娘」は踊らない(踊れない)と書いています。

勿論芸直は追究して有り余るものでございますし、これからまだまだ深めていけることもありましょうけれども、娘物の舞踊として私の年齢と肉体を考えましても今回の公演で線を引かせて頂くことに致しました。

玉三郎 公式サイトでの「今月のコメント」です。潔いといえば潔く、寂しいといえば寂しい。しかし観ておいてよかったと今は素直に僥倖に感謝するのみ。

2009年1月29日木曜日

歌舞伎座の建て替え

歌舞伎座の建て替え計画が発表になりました。以前から計画はありましたが昨今の急激な経済状況の変化から、大きく見直しをかけていたと思っていただけに(→歌舞伎座発表 08年10月20日、09年1月22日)、1月28日のマスコミ発表は意表を突かれた形でした。私もこのブログの中で何度か本件には触れてきました。(→2005年4月21日、2005年11月17日)

今の歌舞伎座は昭和26年(1951年)に建替えられたものです。現在の耐震基準に合わず、またバリアフリーに対応していないため、エレベータやエスカレータもない。いまや歌舞伎ファンの2/3は40歳以上です。高齢者が多い客層に対して優しくない建築であることは否定できません。その点から建て替えも止む無しという気もしないわけではない。(不便で何が悪いのかという意見もありましょうけど)

建て替えにおいて批判の対象となるのが、その外観。現在の歌舞伎座の面影は残しながら、超高層ビルが屋根を貫いて屹立している姿は滑稽とも悲劇的とも見えます。歌舞伎座の土地は松竹のもの、歌舞伎座の建物は歌舞伎興行を行う松竹に株式会社歌舞伎座が賃貸している。不動産収益の比率の増加を目論む松竹は、オフィス床面積を確保するため、区や都と交渉してきたのでしょう(都市再生特別地区として床面積の増大を含む)。

新聞の予想図からは、唐破風の衣裳は残ったものの、懸魚や化粧垂木、高欄などが大幅に削除または簡略化されているように見えます。デザインの簡素化は、おそらく経済的な理由から断念されたと考える方が妥当だと思います。現在のそれはコンクリート製であり、同じようにコンクリートで作っても、あるいは本物志向で木製としても、建設費はいたずらに増大することは明らかです。近代的要素としてガラス、そして「和のテイスト」として、申し訳に縦格子を配したといったところでしょうか。

とは言え、風景や街並み、記憶には連続性が必要です。有形なものを破壊することは、無形のものも大きく毀損します。このことを嘆く歌舞伎ファンも多いことは承知、私もガッカリしました。しかし考えてみると今の歌舞伎座とてヘンな形です。都知事が「銭湯みたい」と言ったかどうか知りませんが、寺社建築としては余程銭湯の方が立派な建物があります。唐破風とて松岡正剛氏流に言えば「和洋折衷の象徴」です。そもそも最初の歌舞伎座は洋風であったのですから、寺社建築に似せて歌舞伎座を造る必然性は余りありません。所詮は芝居小屋、再現するならば江戸のそれでしょうか。

新しい歌舞伎座にもきっと私たちは時間とともに慣れるでしょう。そして失われた細部に宿っていた呑気さや豪奢さ、ゆったりとして豊かな時間が平成の世にも生きていたことを、将来の我々は写真や語りとともに懐かしみながら。重要なのは器ではなく、無形文化としての「歌舞伎」そのもののの存続なのですから、私たちは歌舞伎をいかに存続させえるか、ということこそ議論されるべきなのだろうと思う次第です。

2009年1月26日月曜日

歌舞伎座:初春大歌舞伎~昼の部


歌舞伎座で「初春大歌舞伎」の昼の部を観劇してきました。歌舞伎座の建て替えもいよいよ決定したようです。2009年4月までの16ヶ月間、「歌舞伎座さよなら公演」と銘打っての公演の最初となります。

演目は「祝初春式三番叟(いわうはるしきさんばそう)」に続いて幸四郎の「平家女護島 俊寛(しゅんかん)」、菊五郎と時蔵の「花街模様薊色縫 十六夜清心(いざよいせいしん)」そして玉三郎の「鷺娘」です。久々に歌舞伎を堪能できました。

一番良かったのは、もっとも期待していなかった「十六夜清心」です。河竹黙阿弥の作品。演じられるのは「稲瀬川百本杭の場」「川中白魚船の場」そして「百本杭川下の場」。鎌倉極楽寺の僧である清心と遊女の十六夜が、どんどんと悪者になっていくという狂言の前半部分。

清心が僧でありながら色恋や浮世の快楽を捨てきれずに、悪心を抱いていくその変化が見所です。求女をはずみから殺してしまい、自らも死のうとするものの、遠くから嬌声が聞こえて逡巡、そして思いとどまっての名台詞。「これを知ったはお月様と、俺ばかり」! ここの変り方が、ヌラヌラと面白い。

俳諧師白蓮を吉右衛門が演じています。狂言を通してみると、こいつはとんでもない悪党なんです。その悪さが台詞から見えていてさすがの貫禄といったところ。通しで観てみたい狂言です。

「鷺娘」は今回が二度目(→一度目はこちら)。変な批評などせず、玉三郎の踊りにどっぷりと浸かるのが、一番よかろうと思います。ナマ「鷺娘」もそのうち「伝説」になるでしょう。

幸四郎は、私はあまり好きな役者ではない。いくら有名、人気、幸四郎のオハコとはいえ、正月から観たい演目でもありません。感動よりもあざとさと過剰さが気になってしまいました。意に反して良かったのが、千鳥を演じる芝雀! 初心な感じがなんともかわいい。「りんぎょやってくれめせや~」が耳について離れません(笑)。彼女の純粋さが、大きく俊寛の心を動かしたことが良く分かります。最後の回り舞台の演出は劇的ですが、やっぱり幸四郎の演技がなんとも、泣き叫ぶより最後の沈黙の方が余程説得力がありましたね。

2009年1月25日日曜日

【音盤】ドゥダメルのマーラー交響曲第5番(DG 1week)


ドゥダメルのベートーベンに続く第二段、マーラーの交響曲第5番をDGの1week streamで聴いてみました。

音楽的なテーマはベートーベンの第5番に似ているし、音楽に希望を託しているドゥダメルが録音したいという気持ちも分かります。

しかし、この5番にあってもマーラーの音楽は複雑であり混沌としすぎている。まったくもって一筋縄ではいかない。今の時代にあってマーラーに過度の感情を移入しすぎる演奏は忌避される傾向にはあると思う。しかし、だからといってマーラーが有していた矛盾や屈折、諧謔を無視していいとも思えません。

ドゥダメルの演奏は、重心の低い厚い音を提供してくれます。特に低弦やブラスの支えが利いているように思えます。ダイナミックレンジも広い、強奏はアクセントが効いていますし、カンタービレやメロディラインの部分も美しい。確かに水準の高いオケです。

第一楽章の抑圧された凶暴さとか音楽の振幅、第四楽章の抒情に流れすぎない明晰さなどは見事です。この有名な楽章が単に甘ったるい感傷だけではないことを前後の楽章の間で分からせてくれます。終楽章の推進力も流石といったところでしょうか。

であるにも関わらず、何か足りない、全体に音楽が平板に聴こえます。途中で何だかバラバラになった音楽に戸惑っている自分(私)がいる。音楽に摩擦が少ないというんでしょうか、説得されない。悪く言うと退屈、私にとって何度も聴き返したいマーラーにはなっていない。そもそもマーラーなど常日頃に親しみたい音楽ではありません。ですから聴くからには何か欲しい。

うーん、難しいものです。実演を聴いたら印象は全く違うかもしれませんよ。1週間の間にあと、数回は聴いてみると思いますけど、まずはファースト・インプレッションということです。

2009年1月22日木曜日

【音盤】ドゥダメルのベートーベン交響曲第5、7番(DG 1week)

DGの1週間視聴サービスで真っ先に聴いてみたのが、今更ながらにドゥダメルのベートーベン。話題になるだけあって、注目に値する演奏でした。買っていない盤の演奏を、しかもストリーミング配信されているものを評する行為が「妥当」なのかはさておき、インプレッションを書いておきます。

問題はドゥダメルの楽天性と明朗性についてどのような判断を下すかです。今のところは素直に肯定、受容する気持ちと、態度を留保したい気持ちに分かれています。

ドゥダメル自身、インタービューなどで語っているように、彼は音楽の力を信じています。またベートーベンの交響曲の持つ音楽的テーマについても精通しています。またベネズエラという国、決して西側諸国のように裕福とは言えない環境に居た音楽家達によって演奏されるベートーベンということ。

これらをすべて理解するかしないかに関わらず、演奏から聴こえてくるのは楽天性と明朗性。そして単純な世界観と若者らしい可能性と希望です。悪いはずはありません。いやむしろ出来すぎているとさえ感じます。

音楽と同時進行で主観的感想を連ねてみたら、A4で4枚もの賛辞と疑問で埋め尽くされました。それ程までに刺激的で驚きの演奏です。既に多くの人たちが熱狂的に支持するのも首肯できます。特に交響曲第七番 終楽章の圧倒的なスピードとリズム、凄まじいまでの疾走を聴くと、体の内部からふつふつと沸き起こる本能的肉体的な喜びを抑えることができません。

第五番 第三楽章のコントラバスの響きも鳥肌ものです。チェロとコントラバスのフガートの部分です。コントラバスがこんなにもリズミカルに弾けられるものでしょうか、まさに「踊る巨象」です。

You Tubeにプロムスの映像があります。まるで「のだめ」でも披露されていた楽器回し(本当にクルクル回す!)。あのノリと軽さ、ラテン的健康な官能性。(本当にあの映像は衝撃です)。クライバーの洒落て豪奢なノリとも違う。

とはいえ、いわゆる爆演系とはなっていない。弱音も丁寧に、ダイナミックレンジも広い。ですから、聴く前に想像していた演奏とは少々異なり、最初に聴いいたときには肩透かしのような感じがしたものです。何度か繰り返して聴くに従い、彼のこの盤における特性が分かるようになってきました。深い精神的ドラマは歌われていませんが、ラストへの歓喜を志向する強い確信と希望を感じます。そこには南国を吹き抜ける生ぬるい熱風さえ錯覚します。いいぢゃないですか。ベートーベンに深い精神性を求めるならば、何もドゥダメルを聴かなくても満足できる盤は他にもありましょう。

さて、こうして何度か繰り返して聴いてみますと、彼がほかの曲もどう料理するのか、ぜひとも聴いてみたいという欲求が沸き起こってきました。

2009年1月19日月曜日

Deutsche Grammophonのサービス

Classicaのiioさんが紹介している通り、最近のネット技術を使った音楽配信には目を見張るものがあります。ベルリンフィルのライブ中継やライブラリーの閲覧は、TVニュースで流されたほどです。自宅のiMacで実際にアクセスしサンプル映像を確認してみますと、映像の解像度、音質はきわめて高く、ついにここまで来たかと驚きを新たにしました。

一方でDeutsche Grammophonによる、1アルバム99セントで1週間限定視聴サービス~ Stream (7 Days)~も驚異的です。今のクラシック界においてDGのレーベルの魅力がどの程度かはさておいても、膨大な黄色レーベル音源が、わずか99セントで聴けるとなれば話は違います。

今まで買うのを躊躇っていた盤も、どんどん聴いてしまいそうです。だいたい、CDを買って感動したところで、取り出して聴くのはせいぜいが数度。それも買った最初の数日間に限られてしまいます。あとは余程のことがないかぎりは、CDラックの中で再び王子が見つけてくれるまで深い眠りに入るのが関の山です。

このようなサービスが、レーベルにとって真に利益をもたらすのか私には判断がつきません。Naxos Music Libraryに提供する音源が続々と増えていくということは、音楽配信にとって新たなビジネスモデルが確立しているのかもしれません。

ネットのあちら側に膨大なソフトがあるという世界(狭義のクラウド・コンピューティング?)は、今までの所有を前提とした世界観を根底から覆します。amazonの電子ブックにもその予感があります。個人が買うのは「権利」だけになるのですから。具体的な物が信用取引に還元されてしまいます。

理想は端末を通じて「あちら側」の膨大なソフトに、いつでもどこでもアクセス可能という状況でしょうか。ランニングのお伴として何を選択するのか、それだけで10分以上迷いそうですね。

DGも結局はハードなメディアを買ってもらうことで利益を得ようとするならば、配信する音楽に制限をかける~たとえば、ある楽章を全曲ダウンロードでなくては聴けないようにする、あるいは人気のある新盤は1weekに対応しないとか…~の措置をすることは考えられます。実際にすべてが1weekの視聴に対応しているわけではなさそうです。

企業の論理を優先して顧客を囲い込むことが、著しく顧客の利便性を阻害していることが指摘されています。最近の新聞記事では携帯電話の料金契約体系についての指摘ですが、似たような事例は事欠かないでしょう。電子マネーや音楽フォーマットなどの規格争いなどもその典型でしょう。企業側の生き残りを賭けた姑息な対応は、著しく顧客満足度を損ない、しいては企業に対する不信感につながる可能性があります。結果的に消費者に愛想をつかされると。

まあ、そういう難しいことを考えずに、聴ける間に聴ける曲を聴けるだけ聴いてしまった方が得であることだけは確かです。他にもネットを通じて配信されるソフトは多く、それほどの時間を音楽視聴にかけられるかの方が問題でしょうけど。

で、まず聴いてみたのはこの盤でした(つづく、そのうち)。

2009年1月12日月曜日

映画:エジプトのジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザ)

新宿バルト9で上映されているUKオペラCinema 「ジュリオ・チェーザレ」(ヘンデル作曲、グラインドボーン音楽祭2005年)を観てきました。DVDにもなっている本作品は、クレオパトラ役のダニエル・デ・ニースを一躍有名にした公演。

映画館でオペラというのは何度か観た事があります。貴重な映像を大画面で観る事ができるのは有難いのですが、音量と音響がちょっと酷い。クラシックを知らない人には適正な音量というものが理解できていない、ただ単に「大音量であれば迫力がある」としか考えていないのでしょう。音は割れ、高音もヒステリック。クリスティ率いるエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団の微妙なハーモニーが騒音としか聴こえないのが何とも哀しい。歌手の歌声は肉声のそれではなく、ハンドマイクを通した街頭演説さながら。

歌手のドアップ映像もつらい。ハリウッドのスターではない。大アップでの熱唱はビジュアル的に耐えることができません。

そのような音楽的、ビジュアル的悲惨な面があったとしても、デ・ニースのクレオパトラは素晴らしい。彼女が登場すると世界が全然変ります。ジュリオ・チェーザレ役のサラ・コノリーやセトス役のキルヒシュラーガーなど並み居るヘンデルを得意とする歌手陣を向こうにまわしての圧倒的な存在感。これにはデイヴィッド・マクヴィカーの演出によるところも大きいのだと思います。ドロドロした復讐劇に、少し軽目のエンタテのトッピングをかけている。その対比が上手い。

デ・ニースには文字通り「つま先」まで痺れてしまいます。でかい口、大きな眼。チャーミングにしてコケティッシュ、健康的な色香。いわゆるエロかわいいてやつでしょうか。最後、さながらミュージカルのように歌って踊る「Da tempeste il legno infranto」がアタマにこびりついて離れません。確かにデ・ニースがフィガロのスザンナ役を演じたならばハマリ役でしょう。

二度の休憩をはさんで227分。観るのも結構体力が要ります。デ・ニース観たさに映画館に脚を運びましたけど、さらに別のオペラを観たいかと考えると、この音響では勘弁といったところでしょうか。新宿では16日(金)までですから、観るならお早めにといったところでしょうか。

2009年1月3日土曜日

【本棚】柴田哲孝:「完全版」下山事件 最後の証言


本書「下山事件」をどのようなコンテクストの中で読むかにより、評価は分かれるかもしれません。佐藤一「下山事件全研究」、森達也「下山事件(シモヤマケース)」、そして諸永祐司「葬られた夏-追跡・下山事件」。これらを読んだ上で、本書に下山事件の解明を求めたとき、不満や疑問が残るか、真相解明の快感が得られるか。

純粋に「下山事件」の決定版を出版するという意図が柴田氏の目的であったならば、本書のような構成にはならなかったはずです。他書や報告との差異や論拠の違いを、一つ一つ漏れなく潰していくという遣り方こそ取るべきで、柴田氏の都合の良い文脈の中で散発的に資料を引用するという書き方は、フェアに感じられません。

おそらく、本書は「ジャーナリスト柴田氏」の自分探しの書なのです。氏の下山事件に対するアプローチは、自分の叔父が下山事件に関与していたかもしれないことを知らされたところから始まります。叔父は柴田氏の成長過程で大きな影響を与えた人格として紹介されています。「下山事件」そのものよりも叔父について調べたかった、すなわち、柴田氏自らのルーツを探ることが目的であった。

追求を始めると、事件や証言には不可解な点が余りにも多い。最初はルーツの旅であったものの、ジャーナリストとしての血が真実を求め始めたようです。それから氏は膨大な時間をかけて事件に迫っていきます。

下山事件に関与したらしい亜細亜産業という叔父の会社を中心として登場する人物名には驚かされます。政治家、右翼、左翼、CIA、CIC・・・、そして三菱など。昭和の一時代が亜細亜産業という「場」に凝縮されているかのようです。

多くの証言を通して(身内のものも多いのが欠点ではあるが)、亜細亜産業の正体を暴く作業そのものが、叔父を探す作業につながり、ひいては下山事件を紐解くことに繋がっていきます。ここらあたりの筆致はグイグイと読ませます。

そして、全てを「辻褄が合うように考えると」、下山事件は、国鉄内部のだけの問題だけではなく、アメリカの日本占領政策と日本という、大きな枠組みの中で生じた「事件」であることが見えてくる。アメリカの国家戦略、権力と利権の構図。著者の、この結論を読んでストンと溜飲を下げるか、胡散臭いと感じるか。

さらに人脈と事件のルーツとして柴田氏は、「満州鉄道」に拘り続けます。そして最後に下のように結んでいます。

もちろん張作霖爆殺事件や柳条湖事件が下山事件と直接関係していたとする論法は成り立たない。だが、下山事件の背後には、満州鉄道から延々と続く人脈が存在した。精神的な支柱として、もしくは事件の発想の根幹として、その裏に満州鉄道が存在したことは確かである。
私は下山事件にはそれ程「思い入れ」はありません。ですから、本書にはイノセントに接し、大変面白く読むことが出来ました。正直、昭和史に関してはイロイロと目から鱗のところも多かったです。ですから下山事件の犯人が誰であっても、私にはどうでも良いことです。むしろ最近の書「CIA秘録」でも読まなくては、という気になりました。

この作品の後に柴田氏は、作家として歩み始めます。先に酷評した「TENGU」も、本書を読むと氏が何を書きたかったのかが分かりました。あれは氏の構想だおれの作品です。あまりにも「下山事件」で得た結論が「ロマンチック」過ぎたということです。

2008年12月31日水曜日

今年最後のランニングと銭湯とか

大晦日になりました。大掃除も終わり、やることもなくなりました。天気も良いですし、ちょっと走ってみます。今日は久しぶりに冬の気温が戻ってきました。ピンと冷えた空気が何とも心地よいです。

年末なので、あまりムリはせずに昨日と同様に1km6分程度のペースで50分程度走ることとしました。このペースですと、下の換算表にあるように、ちょうどフルマラソン完走が4時間。うーん、マラソン参画にはまだまだ程遠い体力であると再認識。


31日のペース(8.5km)
100m 400m 1km 42.195km 走った距離
35秒 2分20秒 5分50秒 4時間6分 50分

ランニングの後に、年末ということもあって、近所の商店街にあるK湯という銭湯に行ってみることとしました。最近は銭湯も密かにブームのようです。私にとっては、いわゆる番台のある銭湯に入るのは数十年振りのこと。

銭湯は、外見からは、あまり綺麗そうには感じられなく(失礼!)、ですから、ちょっと恐る恐るではありました。ところが、入ってみますと、やっぱりといいますか、マンションのちんけなユニットバスとは全然別物です。「こりゃあ、たまりまへんな~=3」とひと時の極楽感を味わうことができました。

K湯はちっちゃな地元の商店街の中の銭湯です。TV取材されることも絶対にありません。入っている客層は、オーバー70のお年寄りがほとんど。日本の将来は後期高齢者で埋め尽くされるのだろうなあと、自分もそろそろ年寄り扱いされないように、頑張らねばと、風呂に顎まで浸かりながらぼんやり考えたりした大晦日でありました。




冬休みのランニング

冬休みに入りました。12月は忙しさと寒さからしばらく走っていません。正月太りにならないようにと、頑張って走ることとしました。ついつい家にいる時間が長いと食べ過ぎてしまいますから。

今年の年末は、冬とは思えないほどの暖かさです。日中で気温16度は北海道の感覚からは完全にはずれています。空はまさにピーカンの青空、この時期に外で走れることは何とも心地よく嬉しいものです。

28日、30日は7kmを6.5分/kmのスピードを維持して走ることとしました。この程度のスピードはランニングに慣れた人にとっては、会話しながらの軽いジョギング程度の負荷。しかしスピードに慣れていない私にとっては、苦しいという程ではないものの、それなりの負荷でした。

5kmを過ぎたあたりから下半身が重くなって、脚が前に出にくくなります。ちょっとした「上り坂」でも脚が重くなる。かといって、もう走れないというわけでもない。少しこの距離とスピードに「慣れ」が必要なようです。遅いスピードでいくら長距離を「歩け」ても、「走る」こととの間には大きな差があるように思えます。

休みの間は、あと何回走れるでしょうか。

2008年12月27日土曜日

個展:瀬畑亮セロテープアート展

芸術家という生き物は奇妙な生き物です。練馬区美術館で開催されていた「石田徹也展」と一緒に開催されていたのが、セロテープアートの第一人者、瀬畑亮の個展。(公式HP)

日経新聞か何かで紹介されていて名前を知りました。彼女は市販のセロハンテープを巻上げて造形を造ります。幼少の頃からセロテープに異常な興味を抱いていた彼女は、与えると使い切るまでセロテープをいじくりまわしていたそうです。母親が、これだけ与えれば諦めるだろう、飽きるだろうと、袋一杯のセロテープを与えたら、彼女は水を得た魚とばかりに、袋一杯のセロテープを使いきった・・・。

正直、彼女が造形をどうして「セロテープ」で造らなくてはならないのか、理解できません。蜜蝋のような独特の色。仔細に表面を見ると、セロテープが気の遠くなるほど巻かれているらしい痕跡。かつては「芯」を用いて造っていた時期もあったのだとか。しかしある人から、その「虚」を指摘されてからは、手が腱鞘炎になるのも厭わず、芯を用いないところから造形を造るようにしたそうです。

塊の全てが薄いセロテープの積層体であると思ったときの、そこに込められた時間と想いに、少しばかりクラクラします。

彼女の造るオブジェは他の素材、例えばFRPとかガラスとか鋳物などでも可能です。しかし彼女はセロテープ以外の素材では表現できず、得られた作品の質感、重さ、密度感も、セロテープ以外では、おそらくありえないのでしょう。

2008年12月26日金曜日

個展:石田徹也展~僕たちの自画像~

練馬区立美術館で開催されている「石田徹也展」に行ってきました。行かずにはいられないと思って西武池袋線の中村橋まで足を運びましたが、これは正解。というか、衝撃の世界が練馬の小美術館で展開されています。必見です(→石田徹也公式HP)。

「NHK美術迷宮館」で、かの「飛べなくなった人」が紹介され、気にはなっていたのです。しかし、彼のこれらの作品をどう評価するか。深刻なメッセージと取るか、あるいは日常の違った面からの断章と取るか。石田氏自身は「ユーモア」という言葉を用いて自分の作品を説明したりもします。そう、それほど「深刻」になる必要はないのか、と思ったのが、比較的受容も解釈もできる第一展示室の作品群。

しかし、第二展示室は生と死と虚無と希望が横溢した、凄まじい世界が静かに展開されていました。驚きの作家の内実。31歳、町田付近で踏切事故で若い命を落としました。彼の作品を見ると、この先彼は生き続けることができたのか、こんなにナイーブな精神が、現代で通用しただろうかと思ってしまいます。

柔らかく、壊れやすく、あたたかく、湿っていて、決して人前には出せないので隠し持っているような何か。まるで子宮願望のような回帰性。現実に「嫌だ嫌だ」を内心では繰り返しながらも、表では能面のような風を装い、そして何かが毀れていく。石田氏の作品が内包する世界は、現実世界そのものや自分のありように対する苛立ちと反逆となって奔流します。そういう自分を「ユーモア」で笑い飛ばしながらも、目だけは笑っていない。

一貫して描かれた虚ろな目をした青年が、画布の向こうから見据える我々は、いまどんな風に見えているのでしょうか。

彼の作品は、先に紹介した公式HPでも閲覧できます。しかし、画集や画像からは分かりにくいディテールの凄まじさは、実物に接しなくては得られません。その大きさと細やかさと執拗さ。画家の精神に圧倒されます。




詳細なレポートは弐代目・青い日記帳をご覧下さい。東京では28日(日)まで開催されています。


2008年12月23日火曜日

映画:地球が静止する日


キアヌ・リーブスが出演している「地球が静止する日」を観てきました。結論から申上げますと、とてもではありませんが正視するに耐えない映画でした。莫大な予算と時間と労力をかけて、これほどに壮大かつ無意味・無感動な映像を造り上げる馬鹿さ加減に呆れ果てます。まったく、ハリウッドってやつはです。



51年のロバート・ワイズ監督による同名映画のリメイクですが、最新のSFX技術を駆使して巨大ロボットゴートや地球が破壊される様を描きたいという欲求で造られたといったところでしょうか。女性科学者演ずるジェニファー・コネリーのみが唯一の見所。それにしても浅い、中途半端!突っ込みどころ満載。中盤からラストにかけては呆然、これでオワリ!?


人類の叡智をもってしても到底抗うことのできない、圧倒的な差のある敵からの攻撃や蹂躙とか侮蔑。主人公が、わずかなチャンスを生かして戦うというのは、古今東西、永遠に尽きることのないテーマ。それをどう料理するかが腕の見せ所だと思うのです。特殊撮影技術が主ではありません。


人類が消えれば地球は助かるという発想は、以前に読んだアラン・ワイズマン著のベストセラー『人類が消えた日(The World Without Us』を思い出しました。こちらは渾身のノンフィクションでした。

2008年12月21日日曜日

【本棚】柴田哲孝:TENGU




帯にあるように「第9回 大藪晴彦賞受賞作」とのこと。この本が大藪晴彦の名に値するかは議論が分かれましょう。今年話題のミステリーでもと思って書店の平積みを手に取ったものですから、この作家を読むのは初めて。果たして読んでみますと、確かに筆力はあるし、面白い。一気読みです。

しかし、着想の奇想天外さと結末に向けての造りこみに納得ができるか。ベトナム戦争、911テロ、国家レベルの隠蔽交錯など、広げた風呂敷は大きいものの、結末は"これかよ"みたいな大きな肩透かし。種も仕掛けも裏もないんですよ。ですから壮大なミステリーを期待する向きには、失望と甘さを禁じえないでしょう。そういう意味では「剛球」勝負の作家といった印象。

本書を大藪賞たらしめる理由があるとすれば、それはアウトロー的男のロマンを土台とした作風にあるのでしょうか。作者自身が、海外の秘境に釣行するアウトドア派で、パリ~ダカール・ラリーにも参戦などのプロフィールを読むと、疼きを覚える人も多いはず。作中人物に作者の姿がかなり投影されているらしい。


そういう輩の思い描く「男のロマン」とは、しかし客観的に見ると、これほどまでに子供臭く身勝手なものなのかと呆れてしまうほど。主人公や周辺の男達の人物像に感情移入できるか否かが本書の評価の分かれ目になるでしょう。


さらに酷い(と言い切ってしまいますけど)のは女性像。男の理想系でしか描かれず、一時代前の小説を読むかのようです。彼女達を「やさしい女」「理想の女」「天使」と見るか否か。バカバカしくて、ちょっと笑ってしまいます。因習の村の扱いも作者の女性像をフレーミングするためのプロットでしかなく、深みに欠けます。


まあ、そういう批判はイロイロありましょうが、です。男というのはかくもバカな生き物だと「やさしい女」たちに赦してもらいたいということなんでしょうかね。


それであっても、彼のデビュー作となった「下山事件 最後の証言」を、彼の筆致で読んでみたいという気にはなりました。私はバーボン派でありませんから、上質のシングモルトでも用意して。そう、バカな男にはスピリッツがどうしても必要なんです。






2008年12月18日木曜日

映画:レッド・クリフ Part 1


ジョン・ウー監督の「レッド・クリフ Part1」を観てきました。



イロイロと多忙な師走にあって、このような完璧なエンターテイメントは、ひとときのカタルシスを与えてくれます。圧倒的な戦闘シーンは、今ままで観たこともないほどの迫力と残酷さ、そして壮大さがあります。


ジョン・ウーの暴力シーンは賛否両論があります。ここに「男の美学」を感じるか否かが、彼の作品を好きになるか嫌悪するかの重要な境目となりましょうか。(私は、彼の表現はちょっと「やりすぎ」と感じる程の穏健派ではあります)


ジョン・ウーの描く「美学」は派手かつ官能的と言えるほどの戦闘シーンだけにあるわけではなく、その戦闘を行うに至る原因や必然性にこそ「男」が痺れる要素があるように思うので、単純化された図式は彼の持ち味を少しばかり損なっているかもしれません。


本編は「三国志」の中で有名な「赤壁の戦い」を扱っています。善悪を分かりやすくするために、曹操を悪玉に、諸葛孔明を有する劉備軍と周瑜を有する孫権軍の同盟軍を善玉としています。これが物語を平明なものにしています。


「三国志」といえばゲームになるほど人口に膾炙していますから、語り始めるとキリのない人も多いでしょう。私は久しぶりに吉川英治の「三国志」を取り出して、「赤壁の巻」をつらつら暇に任せて読んだりしています。

2008年12月15日月曜日

【本棚】誉田哲也:ストロベリーナイト



こういうサスペンス小説が最近は受けるのでしょうか?

男性社会でぶれることのない立ち位置を占める存在感ある女性が主人公であること、官僚組織の典型である警察を舞台としていること、そして猟奇的殺人事件と意外なる結末。「売れる」要素は兼ね備えています。

しかし、私にはどうにも、こうにも。サスペンスはこのごろほとんど読みませんけど、もっとマシな小説もありましょうに。大阪日帰り出張の往復の新幹線の中でヒマつぶしにでもと思った本で、多くを期待して読んだわけでもありませんから、いいんですけどね。

何よりも受け付けないのは、猟奇的にしてグロな描写。最近の読者は、このくらいに刺激的でなくてはモノ足りませんか。読者がバカにされているような不快な気分です。刺激的であればよいというものではない。

残虐さと相反するかのような、下手なユーモア、コテコテの人間関係は下手な漫才を見ているよう。主人公の過去には、主人公の成長物語として読むこともできますけど、重いテーマが刺身のツマみたい。

そして警察の嫌というほどのセクショナリズム。組織のしがらみとか、出世とかキャリアとか=3私のような中間管理職のサラリーマンは、身につまされたり、共感するところもありましょう。でも、それが逆に確信犯的に感じられ、これまた作者にコケにされているように感じる。

解説者が「キャラが立っている」と書いたところで、クセがある人物というだけでそれ以上ではない。

犯罪者心理や動機や背景にも共感を全く覚えません。社会の暗部をえぐってもいません。

所詮エンタメ小説、読んだらすぐさまBOOK OFFという運命であることに変わりはなく。怖いものみたさを満たす小心でスケベな感情と、自己憐憫と自己弁護のためのガス抜きと言ってしまえば、きつ過ぎますか。

ファースト・インプレッションにしては批判的すぎるとは思います。同じ作者を続いて読む気には、今のところなりません。また新幹線にでも乗るというのなら別でしょうけど。

2008年12月8日月曜日

ランニング19日目

だんだん寒くなってきて走るのが億劫です。それでも風を通しにくいというウェアを着込み、暗くならない前に走ることとします。走っているともうすっかり冬のにおいです。陽も暮れてくると手袋さえ欲しくなるほどです。

今日はスピードを少し上げたままを維持。1km 6分半から7分弱を維持するのが目的。10km全てを6分半のペースで走りきるには、まだ膝に不安を感じます。うーん、やっぱり根本的に走り方とかアライメントをチェックしなくてはダメですかねえ。

ランニングのおともはJ.S.バッハの「ロ短調ミサ曲」。なかなかよろしいですよ、「マタイ受難曲」に比べると親しみやすく、明るいですし。