2003年3月28日金曜日

【風見鶏】イラク攻撃報道を見ていて

まあつまりはそういうことだ。アメリカとイギリスは手を取り合って戦争を始めた。世界世論は割れたまま、オレは戦争の真実を知ることはできないでいる。戦争で死んでゆくのはイラクの兵士ばかりではない。イラクの(おそらくは金持ちは安全な場所に逃げてしまっているので、あまり裕福とは言えない)一般市民であり、戦争の目的を遂には信じることが出来ないまま戦場に赴いてしまった(こちらも推測だが、おそらくは裕福層とは言えないだろう)前線のアメリカ人やイギリス人兵士達だ。(米国捕虜兵の顔を思い出すがいい)
マイケル・ムーアはアカデミー賞授賞式で「ブッシュよ恥を知れ!」と叫び、失笑とブーイングと退場の拍手と音楽に追い立てられた。政府高官や大企業の子息が、イラクの砂嵐にまみれ、将校に追い立てられて銃を取っているということは、あと24時間でこの戦争が終結することがあったとしても、ありえないことだ。 

まあつまりはそういうことだ。武力ってのは破壊的で暴力的だが、見入っちまうんだ。ナイフや銃やミリタリー関係の雑誌が、ヲタク的な弱々しい男性に支持されている現実を思い出すまでもなく、つまるところ人を殺したいとはマッタク思っていない人が兵器や武器に魅入られるのは、一面でそれらが強さの象徴だったりするからだ。 

まあつまりはそういうことだ。ラムズフェルドは戦争が始まる前から笑っているように見える。中道派のパウエル(改心したのかさえ分からない)は、このごろ国内世論まとめに尽力しているようだが、彼は最初から最後まで笑ってはいないように見える。さて最後に笑うのは誰なんだろう。
笑っていると言えばだ、しかし何だって全てのTV局は金太郎のように同じ番組を作りつづけるのだろう・・・。この隙に、戦争のドサクサに紛れてよからぬことを企んでほくそえんでいる輩は居ないだろうね。 

まあつまりはそういうことだ。映像やメディアの進歩は戦場の生中継というものを実現しちまった。アナウンサーやレポーターが「これは映画やゲームではありません。本当の戦場なのです。リアルタイムに人が死ぬのです」と報じるが、そう言い放った瞬間に失われる現実感ってのは何なんだ。そこに彼ら放送メディアの戦場ビジネス感覚が透けて見えてしまうからかなのか。戦場のリポーターは命がけだろうが、ブッシュやラムズフェルド同様、CNNのトップはリポーターの命より視聴率を気にしては居ないだろうか。
一方オレたち(失礼"オレは"だ)生の戦場を知らないから爆弾が投下される様を、リビングでポテトチップを食いながら正視できる。脳死状態のオレは垂れ流される映像をカンゼンに受容しちまっている。新聞やTVで「今日の戦況」をチェックするのが「日常」になっちまった。自分の肉親や友人が戦場に居ないいから心安らかにハイテク戦車が砲撃する様に内心喝采を挙げられるのか。マッタクCNNをハイエナだと責めることなどできやしない。 

まあつまりはそういうことだ。日本のメディアは刺激的過ぎるからという理由で死体映像ははっきり写さないだろうということ。
「人が死ぬ」ことを報じたいのなら、バンバン朝飯や夕飯の時間に惨たらしい死体映像を流しまくって、吐き気を催させればいい。もっとも死体映像を流すことがマスコミの使命だとは思わないが、大本営発表的になることに大手メディアは荷担してはいないか。 

まあつまりはそういうことだ。CNNをハイエナと呼びそうになっちまったが、彼らが使命感に燃えて戦場に残ったが故に、これほどまでに戦争が注視されているという現実もあるわけだ。映像技術は進化した。そして、戦争反対のムーブメントもかつてないほどの広がりだ。つまりは一面マスコミの勝利ということでもあるのかもしれない。進歩していないのはそれを受け入れる"オレ"サイドにある。 

BBCの人気キャスターは、米国政府の米国兵士捕虜映像放映規制について批判していた。戦時下においても色々な意見が聞こえてこなければ更なる脳死状態に陥ってしまう。


2003年3月25日火曜日

日本の立場=小泉首相の米国の軍事行使の支持表明

小泉首相が米国のイラクへの軍事攻撃を支持すると明言した。政府関係者もそこまで「踏み込んだ」発言に及ぶとは考えていなかったとTVニュースは報じていた。

そうは言っても、小泉首相の結論は日本の保守派の考え方を代弁しているのだろう。「北朝鮮の脅威がある以上、日米同盟に頼るしか日本に選択の余地はない、従って米国を支持するしか方法がない」と言ったものだ。

これを逆手に取って「だから日本は日米同盟を見直し、積極的に自国防衛ができるようにすべきだ」と論ずる改憲論者(にわかを含め)の声が(与野党を問わず)聞こえてこないでもない。どちらにも明るいパラダイムは感じられない。

日米安保は昔からあった。自民党保守派にしてみたら「今更何を言っているのか、米国を支持しないなどということがあろうか」と息を巻く。一方で保守派の中でも比較的穏健な方々からは「日米同盟というのは本来、対等な立場であるべきだ。日本も基地を提供している。対等な立場で日本の意見を言うべきだ(戦争を止めることなど)」と、なんだか大甘な発言を耳にする。

「日本とアメリカが対等」などという幻想的外交センスを抱いている政府関係者がいることには耳を疑うのだが、やはり私はここにきて、戦後のアメリカを含めた外交の歪みが一気に吹き出てきたように思えてならない。つまりは自国の安全保障や他国間との外交戦略というものが実は戦後50年間皆無であったということが自明になってしまったわけだ。

北朝鮮の脅威は事実だろう。しかし日米同盟において米国が日本を守ってくれるという保障が本当にあるのだろうか。日本をそれほど重要な同盟国とアメリカは位置付けているのだろうか。

冷戦時代は日本は共産圏防御のための重要な拠点だった。沖縄基地も台湾防御のための重要な任務を負っていた。冷戦終結後、日本の拠点としての重要性は変質してはいないだろうか。アメリカはソ連なき後、一時期、中国を仮想敵国と定めた時期もあったという。しかし、その政策も微妙に変化している。日本の役割はどうなっているだろう。

北朝鮮の脅威から日本を守らなければ同盟違反だと言うかもしれない。北朝鮮有事の際は日本は何を負担し犠牲を払わなくてはならないのだろう。私にはここのところも全く思い描けない。

金正日は地下室でCNNにかじりつきという報道を週刊誌が報じていた。でも、本当にイラクの次は北朝鮮なのだろうか。北朝鮮がイラク以上にはるかに危険な国であることは認めよう。しかし、アメリカが直ぐに北朝鮮に迫るとは、私には思えない。北朝鮮を攻撃してアメリカにどういうメリットがあるのかを考えた場合、むしろ北朝鮮の緊張を利用して、韓国、日本、中国を牽制していた方がアメリカには好都合だという考えの方が妥当のように思える。アメリカは北朝鮮問題に関して、日本や韓国にかなりの自助努力を求めてくるように思える。

いずれにせよ、今回の米国支持は今の政権与党にとってこれを是として進めてゆく以上、非常に重い十字架をしょってしまったのではなかろうかと思わざるを得ない。そのときになって慌てないように、今から考えておかねばならないと思うのだが・・・

2003年3月20日木曜日

イラク空爆始まる

米英軍によるバグダット空爆が予想よりも速く始まった。今回の攻撃は巡航ミサイルと地中浸透爆弾(バンカーバスター)によるもので、あからさまにフセインを抹殺するために実施されたものだという。

私はこの報に接したとき、胃がせりあがり吐き気を伴うような不快感に襲われた。確かに米英はフセインに対し「亡命か大量破壊兵器全廃への全面的協力か」という最後通告を投げかけてはいた。しかしそれは、圧倒的に優位に立つ武力を見せつた一方的な脅しであり、相手に有無を言わせず逃げ場を断っておいてから攻撃をしかけた。私には公然と行われた公開処刑としか思えない。

このような暴力=国家殺人が、空想や予想や理論上だけのものではなく実際に行使されたと言うことに深い絶望の念を感じる。

私はフセインを是としているわけでも、彼を赦してやりたいというのでもない。英国ブレア首相がいくら「イラクの脅威」を熱弁したとしても、私はそれを実感をもって理解することができないでいる。それゆえにあまりにも不透明な武力行使は支持できない。一方で米英の国連決議なしの武力行使を批判することは簡単である。しかし、それにも全面的に乗ることができないでいる。武力行使に反対した先が見えないからだ。今回の問題に対して新しい世界観を思い描くことができない。

命の重要さは戦争反対派が唱える通りである。しかし時には命を賭けても守らなくてはならないものがあることも事実だろう。いま私たちが本当に守らなくてはならないものは何なのだろうか。

米英の圧倒的な武力をTVを通して目にし、またしても遂に一線を越えてしまったことを知るのみである。

2003年3月11日火曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その4

■ 第1場 ラインの乙女たち

ラインの三人の乙女とは、ヴォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデである。彼女たちはラインの河底に沈む黄金を守る役割を負っている。三人の中でフロースヒルデだけがメゾ・ソプラノである。ヴォークリンデとヴェルグンデが戯れるさまを嗜めたりしていることから、彼女が一番年配格なのだろう。

ワーグナーの天地創造とも言える前奏曲に引き続き、ヴォークリンデの「Weia ! Waga ! Woge, du Welle ! Walle sur Wiege ! Sagalaweia ! Wallala weiala weia !」という歌声が波の動機にのって歌われる。愛らしい歌声が印象的で、音楽は混沌の中から生ある存在を表現しているようだ。この部分は非常に浮き立つような音楽になっている。特に上下するアルペジオによる波の動機と上昇音形が絡み合った音楽的な華やかさと高揚感は見事だと思う。

ラインの乙女たちは視覚的にもキャラクター的にも魅力に満ちていなくてはならない。ラインの乙女たちがアルベリヒをからかい、彼にひどい仕打ちをすることでアルベリヒは復讐をこめてラインの黄金を盗むことになる。ここから全ての物語が始まるという意味において、非常に重要な場面であるからだ。それゆえに後にも紹介するが、ラインの乙女たちは画家や演出家によって様々にイメージされているようだ(中には娼婦に見立てた演出まであると聞く)。右はエミール・デプラーによるスケッチだが、この絵では愛らしいというより少し逞しいと見えなくもない。

この後にアルベルヒが登場するのだが、彼がラインの乙女たちを見ていて心乱されたのも分からないでもないと思う。ではアルベリヒに次ぎはご登場願おう。

(2003.3.11)

2003年3月10日月曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その3

 

楽劇「ラインの黄金」全4場


■ 前奏曲を聴く

「ニーベルングの指環」4部作の冒頭を飾る前奏曲である。この前奏曲は低音で始まる「自然の動機」とバイオリンで奏でられるアルペジオが優雅な「波の動機」が絡み合った、非常にゆったりとした美しい音楽だ。この前奏曲を聴くと「これから指環を聴き始める」という感慨を体の底から感じることができる。壮大なる楽劇を始めるのに適切な音楽になっていると思う。ワーグナーはこの音楽を「世界の揺り籠の歌」と呼んだらしい。混沌の中から光が現れ世界が次第に形作られる様を彷彿とさせる原始的にして厳かなイメージに満ちた曲だと思う。136小節しかないこの曲の見事さは言葉にできないほどだ。

ワーグナーの音楽において示導動機(ライトモチーフ)が作品解釈において鍵となるが、冒頭にホルンにより奏される「自然の動機」は、《指環》全体を貫く主題の意味においても重要である。ワーグナー解説書によれば、この変ホ長調の和音からなる上昇音形は「元素的なもの、事物の根源の音楽による比喩」であるとのこと。「自然の動機」の上昇音形は、今後もさまざまな形で姿を変え出現することになるという。例えば第4場に登場する「エルダの動機」は自然の動機を短調に変形したものであるらしい。

《トリスタンとイゾルデ》の項でも書いた(かも知れないが)ワーグナーにおいて、上昇音形と下降音形が意味するものは明白である。上昇が憧れや発展を意味し、下降が落胆や崩壊を意味するというわけである。そういう点から、《ラインの黄金》の冒頭の壮大なる上昇音形の繰り返しは、私たちを劇の最初において、人間世界から神々の世界へと上昇することをいざなってくれるかのようである。通低して流れる低減の響きは悠久の時をしても変わらぬラインの流れさえ思い起こさせてくれる。

たかだが4分程度の前奏曲であるものの、非常に聴きごたえのある音楽になっている。

ショルティは前奏曲の冒頭を極ゆっくりと、そして低弦の響きは重々しくざらついたほどに低く始めている。そこから聴こえてくるホルンの自然の動機が対位法的に絡み合い、さらにゆったりと「波の動機」が登場するところなども、実に夢見るごとき音楽に仕上げてくれている。次第にオーケストレーションが重なってきてヴォークリンデの歌声が始まる辺りには、すっかりワーグナーの世界に浸ってしまっている自分を感じる。

抜粋版のバレンボイム&バイロイト祝祭管弦楽団の演奏と聴き比べてみた。冒頭の弦は厳かに奏されるものの、重さという点ではショルティ版は凄い迫力になっている。波の動機のあたりになるとバレンボイムは実に丁寧に音楽をまとめているが、その後の音づくりが少々グラマラスで豊穣すぎるきらいがある。ここは自然の元祖的な要素をあらわした部分であれば、盛り上がりの中にも純粋さと削ぎ落とされた音響表現が欲しい(ような気が今はする)。そういう意味からはショルティ版の厳格さが好ましいと(今は)思える。もっともたった4分間だけの比較に意味があるとは全く思えないので、つづいてラインの乙女達と不幸なるアルべリヒの駆け引きを聴くこととしよう。

(2003.3.10)

2003年3月9日日曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その2

楽劇「ラインの黄金」全4場


《ラインの黄金》概要

■ 《ラインの黄金》の背景となる世界

《ラインの黄金》は《指環》四部作のうちの最初を飾るもので「序夜」という位置付けがなされている。《指環》がジークフリートの死から構想され、ジークフリートの成長、ジークフリートの誕生にいたる物語、そして《指環》全体を支配するテーマとしてのラインの黄金というように発想されていることは 以前触れた 。楽劇最初の《ラインの黄金》に登場するのは神話上の神々たち、ニーベルハイム(死の国)に住む小人たちそして巨人族であったりする。ここでの神々というのも「 指環を概観する 」で書いたように、決してキリスト教的倫理観に基づいた神々ではない。権力と富とを求める人間的な神であり、一方で自然界を支配する原始的な神々である。

例えばヴォータンは主神であるとされ、ドンナ-は雷神、ローゲは火の神である。ヴァルハラ城の建設の対価として提供されそうになったフライァは美や青春(若さ)を司る神であり、ヴォータンを諭し、《ラインの黄金》以降でヴォータンと結ばれてしまったエルダは智の神だ。

ここで、ラインの乙女(水の精)たちをあわせて考えると、水、火、土、大気など元素的な要素が色濃く支配する神話的世界であることが分かる。英語のWednesday、Friday、Thursdayはそれぞれヴォータン、フリッカ(ヴォータンの妻)、ドンナ-を語源としているらしい。《ラインの黄金》には人間は一人も登場しない(小人や巨人が人間だというのなら当たらないが)。支配しているのは自然界の象徴としての、それでも人間以上に人間くさい神々なのである。

■ 指環に込められたテーマ

《ラインの黄金》は4場で構成されており演奏時間も2時間半程度と《指環》四部作の中では一番短い。それでもここには、今後の《指環》を聴いてゆく上で重要なテーマや音楽的な動機が散りばめられている。

ストーリーは単純に書くと、「ラインの水底に沈む黄金を、愛を断念したアルベリヒが盗み指環に替える。指環は富と権力を我が物にできる力を持つとされる。その指環をヴォータンが奪い取るものの、アルベリヒは指環に呪いをかけてしまう。ラインの黄金の最後は指環をヴァルハラ城建設の代償として城を建設した巨人達に与え神々は城に住まう」ということになる。

右の絵はTheodor Birisになる《ラインの黄金》を表したものだ。一番上にラインの乙女達(左上)と黄金を盗み取るアルベリヒ(右上)が、中央にフィライアをさらってゆく巨人兄弟(中左)とそれを止めることができない神々(中左の女性はフリッカか)、遠くの山の上には完成したヴァルハラ城が見える。下には地底世界の小人族たちとそこに下っていったヴォータンとローゲ(下左)が書かれている。

さてストーリーを書いてはみたものの、このままではこの楽劇で何を表そうとしているのか全く分からないので少し補足しておこう。最も重要なのは指環に込められた意味であろうか。指環は富と権力を得るための象徴的なものとして登場するが、これを得るためには「愛を断念する」ということが不可欠とされている。

「富と権力を得るために(男女の)愛を断念する」というテーマは強烈だ。ワーグナーの人生観において両者は両立しえないと考えたと言うことなのであろうか。裏を返すと富と権力を投げ打っても愛の方が重要であるという主張でもあるのかもしれない。それほどまでにワーグナーにとって愛は重要なテーマであったということなのかもしれない。

ここでの愛とは肉親や兄弟愛なども含んでいると考えてもよいが、狭義にはやはり性愛を含めた男女間の愛だと思われる。ここにおいてワーグナーにとっては肉親愛は男女間の愛に容易に変遷してしまうように書かれていことは驚くべき点だ。彼の倫理観を問うよりも彼の個人的な生い立ちによるのだろうか、詳しいことはまだ調べていないので分からない。ただ、ワーグナーが9人兄弟の末子で、両親ともワーグナーが年少の時に(特に母ガイヤーはワーグナーが8歳のときに)亡くなっている点は記憶しておいてよいのかもしれない。いずれにしても、権力と愛への希求と選択ということが劇の登場人物に架せられた課題であることを《ラインの黄金》は冒頭から示している。

ここでワーグナーの女性像や愛の形というものを考えた場合、彼の描く愛はもっぱら男性側の理想としての女性の愛という印象を受けないでもない。男性から女性へのオファーは少なく、もっぱら女性の愛情を一身に男性が受ける、どんなに男性が身勝手でも女性の愛情で救われるというように感じられてしまう。このような点はワーグナーの他の楽劇でも同様で、それ故にワーグナーの書く男性像が、私にはどこか子供じみた印象を受けてしまう。《指環》を仔細に聴いてゆけば、このような感想を変えることができるだろうか。

《ラインの黄金》における主神ヴォータンは性格的には男性的なものの象徴のように思われるが、彼は一方で権力欲が強くそして女癖が悪いキャラクターとして描かれている。妻のフリッカがヴァルハラ城を巨人族に建設させたのも、居心地の良い家を作りヴォータンを家に留めておきたいがため、というから泣かせるではないか。

こうして考えると指環四部作とて難解近づきがたい作品では全くないことに気付く。ワーグナーの楽劇や他の多くのオペラ作品と同じように「男女間の愛」を(ひとつの)テーマとしていることに変わりはないようだ。(ワーグナーはジークフリートを軸に《指環》を構築したということになっているが、この点は後にゆっくり聴いてゆきたい)

では前置きはこのくらいにしておいて《ラインの黄金》を聴いてゆくことにしよう。

(2003.3.9)

2003年3月6日木曜日

スヴェトラーノフ指揮 レスピーギ / ローマ三部作


この盤はHMVのサイトでも紹介されていた、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団の1980年ライブステレオ録音である。スヴェトラーノフといえば、いわゆる金管バリバリの爆演系の指揮者というイメージがある。ホールを大音量でかき鳴らすその演奏に虜になった人は多い。

で、この演奏だが、たしかに《アッピア街道の松》も凄まじいのだが、《ローマの祭》もすっごい音響で野蛮なまでの響きを聴かせてくれている。HMVの「お客様レビュ」も「凄い」というコトバ以外見当たらない。そんなに脳死状態になって良いのかと不安の念にも駆られるのだが、実は私も あいた口がふさがらない 状態に陥ってしまった(^^;;

先に紹介した「エフゲニー・スヴェトラーノフのページ」の はやしひろしさん のレビュでは "「世紀の珍盤」!!"という評価が与えられている(^^;;; 有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

録音はARTリマスターということであるが、音質はザラザラとしていてそれほど良くはない。それでもスヴェトラーノフの迫力は存分に味わうことができると思う。

2003年3月5日水曜日

楽劇「ラインの黄金」全4幕 その1

楽劇「ラインの黄金」全4幕


■ ショルティ/ウィーンフィル

サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーンフィルハーモニー

1958年9~10日

Wotan:George London
Frika:Kirsten Flagstad
Freia:Claire Watson
Loge:Set Svanholm
Froh:Waldemar Kmentt
Donner:Eberhard Wachter
Mime:Paul Kuen
Erda:Jean Madeira
Alberich:Gustav Neidlinger
Fasolt:Walter Kreppel
Fafnaer:Kurt Bohme
Woglinde:Oda Balsborg
Welllgunde:Hetty Plumacher
Flosshilde:Ira Malaniuk

■ バレンボイム/バイロイト(抜粋版)

指揮:ダニエル・バレンボイム
バイロイト祝祭歌劇場管弦楽団

1991年6&7月 バイロイト祝祭劇場(デジタル・ライブ録音)

Wotan:Jhon Tomlinson
Donner:Bodo Brinkmann
Froh:Kurt Schreibmayer
Loge:Graham Clark
Frika:Linda Finnie
Freia:Eva Johansson
Erda:Birgitta Svenden
Alberich:Gunter Von Kannen
Mime:Helmut Pampuch
Fasolt:Matthias Holle
Fafner:Philip Kang
Woglinde:Hilde Leidland
Wellgunde:Annette Kuttenbaum
Plosshilde:Jane Turner


2003年3月3日月曜日

【本棚】マイケル・ムーア:アホで マヌケなアメリカ白人

マイケル・ムーアとは社会派のドキュメンタリー映画監督件、ジャーナリストとしてアメリカでは有名な人だ。最近では「ボウリング・フォー・コロンバイン」という映画が日本でも公開された。これはカンヌ映画祭で55周年記念特別賞を受賞した作品だ。マイク片手にアポなしで突撃インタビューをするというスタイルは彼の定番であるらしい。



知ったかぶりして書いているが、そういうことはつい最近知った。残念ながら彼の映画は観ていない。


だから、この本の表紙と、くだけた文体に騙されてはいけない(原書はこちら)。内容は非常に真面目で刺激に満ちている。「簡単に言えば、あなた(ブッシュ「大統領」)はアル中で、泥棒で、おそらくは重犯罪人で、とトガメなしの脱走兵で、泣き言野郎です」という調子(訳)の現アメリカ「大統領」ジョージ・W・ブッシュ批判は留まるところを知らない。大統領にカッコ付なのは今でも選挙に勝ったのはゴアだとムーアは思っているからだ。


いやいやそればかりではない、ブッシュの側近達の紹介やブッシュ「大統領」が就任依頼実施した政策の数々、前大統領クリントンが成し遂げた政策の数々が羅列されているが、もしそれが本当だと言うのならアメリカも救い様のない国であるということが(今更ながらに)分かって、ゲンナリしてしまうのだ。


読んでない方で注意してもらいたいのは、この本は「アメリカは世界の保安官たりたがる」「どこの国でも自国と同じような環境を作ってしまう」「いつも自分が正しいと思っている」というような、アメリカ人観を書いた本ではないということだ。ひとえにアメリカの好きな作者ムーアが、アメリカに幸せに住むためにはどうしたらいいのか、というテーマに真剣に向き合った本だ。


アメリカの現政権共和党も、共和党と政策の違いを全く示せなかった「脳死寸前民主党」も、彼らはアメリカ中での10%の富裕層が利益になるような政策を、世界中からの反対があろうと進めていることを糾弾しているのだ。「アホでマヌケなアメリカ白人(Stupid White Men)」とはアメリカ白人全体のことではなく(ましてや白人以外のアメリカ人のことでもなく)まさに彼らのことを指している。


「満ちたり者に禍ひをもたらす祈り」は痛烈だし、本の最後に書かれた「人生の目的は、ただ漫然と生きてゆくことだけだなんて言うな。「ただ生きているだけ」というのは、臆病者の生き様だ。あなたには、市民として生きる権利がある。悪いのはあのバカでマヌケな白人どもだけだ。俺たちは、奴らに対して圧倒的に数多くいる。その力を使うんだ。あなたには、より良く生きる権利があるんだから。」という主張は強い。それほどにアメリカは貧困者やマイノリティーに対する差別や迫害が(全くないようなフリをしながら)根強いということを思い知らされる。


この本を読むと、アメリカより日本の方がよっぽどマシなのではなかろうかという気になる。私たちはイチローやマツイの行くアメリカしか知らない。マイクロソフトとハリウッドとMTVの世界しか知らない。日本では少なくも民主党代表に投票できなくなるように、ある日突然に選挙権が剥奪されることも今のところはないのだから・・・

2003年3月2日日曜日

【風見鶏】「アメリカがイラクを攻撃する本当の理由」 ~②キリスト教原理主義者の政治力~

サンデープロジェクト
2003.3.2 Sun

田原総一郎のサンデープロジェクトで、ブッシュ政権がイラク攻撃を実行しようとする背景の一つとしてキリスト教原理主義者の存在があると紹介していた。

キリスト教原理主義とは聖書を文字通りに厳格に解釈した考えをもった勢力であり、思想はかなり保守的にして過激である。勢力は主にアメリカ中西部、南部にあるらしく原理主義者は3千万人とも言われているらしい。キリスト教原理主義と共和党は密接に結びついており、大統領選挙においては彼らの票が大きく当落を左右すると言うわけだ。信者のほとんどが白人であることから「白人主義」とも言われているらしい。中絶の反対、同性愛の反対、銃規制への反対・・・あれ、なんだか思い出さないか?

そう最近読んだ「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著)のことだ。あの本には「キリスト教原理主義」のことは言及されていなかった。しかしブッシュがキリスト教原理主義者への褒美として司法長官に任命した(とサンデープロジェクトは説明する)ジョン・アシュクロフトの解説を同書から引用してみよう。

「強姦や近親相姦の場合を含め、あらゆる中絶に反対」
「同性愛者に対する職業差別からの保護にも反対」
「死刑囚の上訴を制限することに賛成(それによって7件の死刑を執行させた)」
「極めて過酷な麻薬取締法の支持者」
「全米ライフル協会の味方」
  ~以上 P.48

私は「アホで~」を読んでも、どうして為政者が上のようなことを反対するのか全く理解できなかった。中絶反対はピルなどの医薬品業界からの圧力かなどと要らぬことまで考えてしまった。しかし、これらがキリスト教原理主義者=白人主義者の糸引きであるとするならば、理屈抜きで理解できてしまう。

彼らキリスト教原理主義者の最終的な目標が「中東での最終戦争→キリスト千年王国の復活」というのだから恐れ入るばかりだ・・・

HIYORIみどり 「またしても余りにも無知だったわ~」
KAZAみどり 「余り日本では報道されていないものね」

【本棚】櫻井よしこ:大人たちの失敗~この国はどこへ行くのだろう?


櫻井よしこの文庫本新刊である。以前感想を書いた「日本の危機」と彼女の論調は同じであるが、あの本ほどは怒っていない。静かに語りかける口調ではあるが、そこには彼女のゆるぎない主張を読み取ることができる。

彼女は例えば憲法問題に関して言えば改憲派に属している。「軍隊のない国家など存在しません。防衛庁を防衛省に格上げし、自衛隊を軍隊として認めるのが自然」「"憲法違反"の自衛隊を、憲法を改正してきちんと合憲の存在として認めたい」(P.140)と主張する。

こういう意見を呼んで「タカ派だ、保守派だ」と決め付けることは余りにも幼稚すぎる。彼女の思想をして「どちらかというと産経より」という事にもどれほどの意味があろうか。彼女も言うように我々日本人は長い間、こと防衛と憲法問題に関しては詭弁とごまかしを重ね、さらには憲法問題に関してはアレルギーを覚えるような風潮を醸成してしまったのだと思う。真面目で大人な防衛議論が今までなされてこなかったのだとは私も思う。従って彼女の意見を読み、それが私の感覚と若干のズレがあったとしても、彼女の意見によって問題意識が喚起される。決して「何を言っているのだ、ハナシにならない」と撥ね付けることはできない。

教育問題についての視点も相変わらず厳しい。最近の子供や学生の教育やしつけの問題を憂いている。「お金や物は、人間の心を豊にしてくれる手段であるのに、いつの間にか、それ自体が目的になっていた」「十台の子どもたちの問題は実はその親の世代の問題でもあり(中略)つまり問題の解決には三世代、百年かかってしまう」(P.21)と書いている。お金やモノ以外に幸せの基準を求めると言うことは、今まで三世代かかって築いた価値観を転換するということだ。しかしと私も思う。これをしなければダメなのだと、根本的には何も変わらないのだと。「日本人には経済をもう一度隆盛にするのは何のためなのか、という問題意識が、言い換えるならば単なる経済現象を越えた大目的がないために、頑張ることができないでいる」(P.25)という主張はまさに私の考えにごく近いものである。

彼女は心底このままでは日本がダメになると主張する。しかし嘆くだけではなく、しっかりしろと励ましてくれる。「日本は自身を失う必要はないと思います」「私たちが心をしっかりさせることです。日本と言う国と社会を、歴史、文化などを含めてよく学んでゆくということです。その中から、未来に挑戦してゆく自信を救いあげていくことが前提条件です」(P.206)という主張は、学生ばかりではなく社会に出て日々の仕事や家事に謀殺されている私たちにこそ向けられる言葉かもしれない。

彼女のマスコミに対する批判も厳しい。「取材での経験を通じで、日本の大新聞がいろいろな面で偏りがあるという思いを深くしている](P.193)と書き「幅広くはなりますが、その分深く突っ込むことができにくくなる」(P.194)日本のマスコミを海外の言葉を借りて「ワン・インチ・でプス」の報道(P.194)と評する。それでも彼女は(当然ながら)「新聞は読むべき」(P.200)と主張する。我々は一面的な情報からでもその裏を読む知力が求められているのだ。

この本を読むと社会で中堅として働く人よりは、むしろこれからの社会を担う学生へと向けられたメッセージというものを痛切に感じる。これからを変えてゆくのは年寄りではなく、確かに若者達であるはずなのだ。

今の日本は一見幸福そうに見えても、実は非常に非人間的で住み辛い世の中だと思う。それを気づかせないように、あるいは気付かないフリをしながら過ごしているとしか思えないことさえある。1億人皆が中流で平等だったなんて単なる幻想でかなくなった。格差や歪みはあちこちで噴出している。しかも、誰もが何か間違っていると思っているのに改善できない、この行き所のない閉塞感をどうしたら打破できるというのか。私たち日本人も、どこに向かうべきなのか、肝心の大人たちが自信を喪失し羅針盤を持たずに大海をさ迷っているような雰囲気さえある。

私はもはや学生のように純粋でも若くもない。しかし彼女の本でカツを入れてもらうと、少なからず力が沸いてくる、知力が必要だと、そして勇気ある行動が必要だと思えてくる。

2003年2月23日日曜日

サイトの内容に関して

私のサイトはCDや演奏会の感想を主としているが、たまにサイトの内容に関してメールを頂くことがある。さらにごく稀にだが書いた演奏会の感想の、まさにその演奏者からメールを頂くこともある。そういうときは本当にびっくりするもので、何か偉そうに批判的な事や失礼な事を書いてやしなかっただろうかとヒヤヒヤしながら自分の昔の文章を読み返してみたりするものだ。

感動も感心もしなかったのに体裁だけ整えるような文章は書かないが、やたらと攻撃的で感情的な文章も書かないようにしているつもりだ。ネット上では相手がプロだろうが何だろうがボロクソに書く人もいる。(最近だと「○○○はまだ指揮者として成熟が足りない」という文章を読んだがヤレヤレという感じだ)

私はどのような演奏家であってもプロである以上は一定のレベルの演奏を聴かせてくれるものだし、素人の小賢しいひとときの気分に左右される感想など、演奏の内実のいくらも伝えてはいないのではないかと思うことが多い。どのような演奏であっても奏者に対する敬意は必要だと思っている。

以前、私の演奏会レビュは演奏者の敬称を略していた。例えば「佐藤のフルートは・・・」みたいな書き方だ。そういう書き方を不快に思うとプロの方からメールを頂いたことがある。「あなたは評論家なのか、プロに失礼である」とその方は忠告してくれた。この点は「だって、"パユさん"とは書かないではないか」とは思ったものの、確かに奏者に対する敬意が足りないかと後になって反省した。今では気づく範囲で敬称付に修正したつもりである。

実際どんな人が読んでいるか分からないものなのだなあと感慨を新たにした次第。

【音盤】テンシュテット&ミネソタ管/ベートーベン:交響曲第7番 イ長調 op.92


ベートーベン:交響曲第7番 イ長調 op.92 テンシュテット(指揮)ミネソタ管弦楽団 1989年11月 lsu1010-2 USA 
札幌で海賊盤のCDが入手できるところは光堂Pals21である。ここに訪れるたびに一応お義理に海賊盤をチェックすることにしている。定番や正規盤でさえ満足に聴いていないのに、マニアぶって海賊盤に手を出すのもいかがなものかとも思うのだが、たまに物凄い演奏に出くわしたりするものなので無視もできないのだ。(例えばテンシュテット指揮 ロンドン響とブレンデルによるブラームスのピアノ協奏曲第1番とベートーベン交響曲第5番 1990年8月30日のカップリングは凄い)
このCDはテンシュテットとミネソタ管弦楽団による1989年11月の演奏である(lsu1010 usa)。店の解説に惹かれてゲットしてしまったもの。
「ビッグファイブばかりでなく、この辺りのオケとの共演というのも食指をそそられます。比較的遅いテンポが採用され、厳格に刻むリズムは普段の激情型演奏とは一味違います。ふつふつと湧き上がるようなパワーが途切れません。音質は各所に傷がありますが抜群の演奏です」
しかしクラシック初級者のわたしは、ビックファイブもテンシュテットの芸風にも通じているわけではない。
確かに音質はもこもこと非常によくない。フォルテッシモになると途端にもこもこ感が増してしまう。ダイナミックレンジの狭い昔の古いテープ録音を聴いているようだ。ノイズは少ないが音の伸びやかさは全く聴こえない。音割を起こしていないだけ幸福と言えようか。
最初cdウォークマンで聴いて、あまりの音の悪さに「これは失敗であったかな」と思ったものだ。しかし終演後の拍手の凄まじさから改めて自宅ステレオで聴いてみたのだが印象が変わった。
音質の悪いのをがまんして聴くならば、ここには濃厚なるベートーベンが展開されていることを否定できないと思うようになった。解説の通りテンポは遅い、馬鹿丁寧なとも言えるようなテンポ感だ。揺れも少ないようだ。ひとつひとつ切られた音は残響を残してホールの空気を震わせている。強弱の幅は広そうだ。オケが充分に指揮についていっているように聴こえる。ティンパニももこもこしているが、実際は非常にしっかり叩いているようだ。低弦も厚みのある音だ。ミネソタ管弦楽団のまともな演奏を今は知らないので、これが持ち味なのかどうかは判断がつかない。非常に機能的なオケに聴こえる。
第二楽章の歌い方も、正攻法のように攻めていながらにして体の奥底からこみ上げてくる感情を押さえることができない、という感じを受ける。第三楽章などでも弱音部分での丁寧な音楽作りには感心してしまう。細部にまで神経が行きわたっている、特に第三楽章の終わり方は特に印象的。
そういう音作りが演奏に何とも言えぬ迫力と説得力を生み出しているように思える。「ふつふつと湧き上がるようなパワー」とは良く言ったものだ。底知れぬベートーベンのエネルギーを感じ体の底が熱くなるような演奏である。ベートーベンの交響曲というのは、力瘤をためたこれでもかという音楽である。さらりと軽くなどとはなかなか聴けない曲だ。例えば有名なc.クライバーの名演などはスポーティーに駆け抜けてしまうが、そういう颯爽としたところは全くなく、あくまでも王道たるベートーベンをわざとらしくなく、それでいて熱く奏でてくれるている。
一端聴き始めたら音は悪くとも最後まで掴んで放さない迫力に満ちており、何を隠そう私は続けて二度も聴いてしまった。ただし万人にお薦めかといえば疑問は残る。

2003年2月22日土曜日

このCDはテンシュテットとミネソタ管弦楽団による1989年11月の演奏である(LSU1010 USA)。久々にベートーベンを聴き健康的なエネルギーを得ることができて満足である。ベートーベンには有無を言わせぬ説得力というものがあると思う。ワーグナーなどを続けて聴いていると40分程度の交響曲はすごく短く感じてしまところがコワイ。

この盤はいわゆる海賊盤なのだが、私は海賊盤を集める趣味までは持ち合わせていない。たまに覗くCD店で見つけて思わず買ってしまったのだ。実際音質は海賊盤の中でもあまり良い方とは言えないかもしれない。

ただし演奏は音質ほどは悪くないので、レビュも書いてみた。テンシュテットファンの方から見たら「何を書いているのだか・・・」という内容だとは思うのだけど。



2003年2月15日土曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮 プロコフィエフのピアノ協奏曲集


ゲルギエフが アレクサンドル・トラーゼ(Alexander Toradze) と録音したプロコフィエフのピアノ協奏曲集(PHILIPS 462 048-2)を見つけたので早速ゲットしてみた。オケはゲルギエフの主兵サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団で1995~96年にかけての録音。トラーゼというピアニストは初めて聞く名前だが解説によればゲルギエフとトラーゼは1980年頃から何度も演奏を重ねてきたらしい。

プロコフィエフの5つあるピアノ協奏曲のうち比較的有名なのは1番と3番ではないかと思う。実際プロコのPコンで思い出すのもこの二つの華々しい曲だ。どちらもロシア的抒情とプロコフィエフらしさに溢れた名曲である。アシュケナージとプレヴィン/ロンドン響による定番、アルゲリッチとデュトワ/モントリオール響による壮絶な1番と3番の演奏、そして同じくアルゲリッチとアバド/ベルリンの3番などが有名だろうか。

その一つ一つと聴き比べをしているわけではないが、ゲルギエフ自ら「(フルトヴェングラーがベートーベンを好きだった様に)私も、プロコフィエフをやっているときは、彼こそが自分の好きな作曲家なんだと思います」というだけあり、この演奏も充実した演奏に仕上がっている。

もっとも1,3番が有名なプロコフィエフだが、ピアニストのトラーゼは「However, in our view the Second Concerto stands out as Prokofiev's most personal statement」であるとし「Prokofiev's Second Piano Concerto is an exceptional human document which traces a scenario of sorrow, escape, disenchantment and mature growth amounting to a final farewell to a beloved friend.」と書いている。ここでの友とは1909年から1913年の間に友情を築いていたピアニスト Maximilian Shmitgoff のことである。プロコフィエフは1913年4月に Shmitgoff 自らの遺書とも言える手紙を受け取る。そのような体験が音楽に色濃く反映されているとトラーゼは説明している。

プロコフィエフの時に叙情的にして甘美、時にグロテスクにして野獣のような音楽が聴くものを圧倒する。古典的でありながらも現代的な和音と響き、そして躍動し火花を散らして跳ね回るリズムは、体の末端の感覚をざわざわと覚醒させてくれる。いつも聴きたいわけではないが、プロコフィエフのピアノは良い。

2003年2月5日水曜日

ワーグナー関連サイトについて(海外)

日本に満足できるサイトがないので、仕方ないから海外を検索してみた。Goolgeで「Wagner」というキーワードだけで検索しているところが無謀ではあるのだが・・・

●Richard Wagner Home Page

最初に見つけたのは「Richard Wagner Home Page」Jose Antonio Amaralさんと Sao Pauloさんというブラジルの方のサイトのようである。最終更新が2000年2月21日とサイトのアクティブ度としてはちと低い。しかし、このテのサイトは頻繁に更新される類のものではないので良しとしよう。ライトモチーフ(示導動機)のMIDIファイルも納められていて、ワーグナー入門には手ごろなサイトかもしれない。例えば「《指環》初心者のためのガイド(A Beginner's Guide to Der Ring des Nibelungen)というページでは、《指環》にどのように接し始めれば良いのか丁寧に指南してくれている。「もしも貴方が映画《地獄の黙示録》の《ワルキューレの騎行》と《ジークフリートの葬送行進曲》しか聴いたことがないなら、注意深くアプローチしなさい」と書き始めている>オレのことだよ。

次ぎに、サイトの作者は《指環》の概略を読んで、リブレットを買えと勧める、もしも《指輪のハイライト》しか持っていないのならという注釈付きでだが>ここはクリアしたぜ。

音盤やDVDなどはできるだけ音質が良く、オーソドックスな演出を選べとも勧めている。ただし古い録音の中にも良いものがあるから注意せよと(やっぱりクナッパーツブッシュだよ)。彼は無難なところではカラヤンやレバインが良いと言う、ショルティは勧めないらしい。映像ではバレンボイムやサバリッシュは選ぶべきではないと(斬新で現代的過ぎる演出てことだと思うよ)。

で、この膨大な作品をどうつまみ食いしてゆくかを説明してくれている。詳しくはサイトをご覧ください。私などこの先、何も書くことがなくなってしまいました。《トリスタンとイゾルデ》《タンホイザー》《マイスタージンガー》に関するコメントもあるけれど、こちらは《指環》に比べたら力が入っていない。

●Richard Wagner Web Site

もうひとつは「Richard Wagner Web Site」というKristian Evensenさんのサイト。こちらはまずデザインが見やすい(つーか、今までのワーグナーサイトのデザインがトホホなのだが)。こちらはコンテンツも膨大なようで、例えば「《指環》の示導動機(Leitmotifs in Der Ring des Nibelungen - an introduction)」というページには《指環》の成立背景と概要からはじまって、タイトルの通りライトモチーフの意味するものが、楽譜とMIDIにより詳しく紹介されている。いやはや素晴らしい!こういうサイトがあればもう何も加えることはないと言う気になってくる(つーか、ホントはまだ全部読めてないけど)

また「スターウォーズ・シリーズとワーグナーの《指環》~構成、主題そして音楽のつながり(The Star Wars series and Wagner's Ring Structural, thematic and musical connections)」という興味深い論考もある。(つーか、タイトルしか読んでないけど)

「Loge - person and element, commentator and agent」という《指環》に登場するアイロニカルな火の神ローゲに対する論考もあるようで、これまた興味が尽きない。

●RICHARD WAGNER ARCHIVE

最後に(疲れてきたし)紹介するのは「RICHARD WAGNER ARCHIVE」という Hannu Salmiさんが運営するサイト。こちらはワーグナーに関する様々な情報の宝庫といえる。作者が「My idea is to collect and to display all kinds of material dealing with the German composer Richard Wagner. I have myself worked as a Wagner scholar since 1987 and published two books on Wagner and Wagnerism.」と書いているように、ワーグナーに関することなら何でも集めてしまうという貪欲さに満ちている。ワーグナーを徹底的に追及したいという人向きか、ただし英語だけではなく独逸語も読めた方が良さそうである。



2003年2月4日火曜日

ワーグナー関連サイトについて

ワーグナー関連のサイトをGoogle検索してみたところ、ワーグナーほどの偉大な作曲家だからさぞかしファンサイトが目白押しかと思うのだが、以外とアクティブなサイトは少ない。

最初に紹介するのは「ワーグナーの歌劇な部屋 by ルカ~Wagner Fan Page」というサイト。Googleの最初にヒットする。ワーグナーの作品全般に渡って概略を知るにはうってつけのサイトである。最終更新が1999年5月5日とかなり古いのだが掲示板は健在である。私も、まずはこのサイトからワーグナーに接し始めた。

Googleで次ぎにヒットするのが「ワーグナー・アラカルト」である。こちらは掲示板もサイト本体も今でも更新し続けているアクティブなサイト。面白いのは掲示板の発言で興味深い内容のものをコンテンツにしている点。例えば「忠臣蔵とアーサー王伝説・・・・・・そして、パルジファル」というスレッドなど延々と続いていて、なるほどっつーか、げっぷっつーか。「私が抱きたい女」「私が抱かれたい男」「一緒に鍋を囲むなら」などというアンケートもあって、ワーグナー通には楽しめる(?)。掲示板の内容は結構ヘビーで、生ワーグナーに接した人でないと楽しめないかなとは思うことも。私のようにCDだけで満足している向きにはちょっとハードルあり。

もうひとつは、上のサイトからもリンクしている「richard wagner homepage」というサイト。こちらは各作品の音盤データベースが非常に充実している。しかし膨大なリストの中でどれがお奨めなのか作者のコメントがないのが寂しい。ワーグナー徒然草というエッセイを読むと、ついにクナッパーツブッシュも聴かなくてはならないのかと憂鬱かつ暗鬱な気分に襲われます(^^;;

あとは、今のところこれといったサイトが見つからない。ちょっと物足りないと思う気持も捨てきれない。(2003.02.3)

■ 追記

「国内はちょっと物足りない」と書いたのだが、ある方からメールでクナッパーツブッシュのサイトを紹介していただいた。ここは知る人ぞ知る、syuzoさんのページで(←クリックして驚かないように=笑)、全てのページが凄まじい文字量と情報量そしてクナへの愛情と執念に満ちている、まさにおそるべきサイトである。

このサイトの存在を知らなかったわけではないが「死んじゃった(あるいは死にかけの)じいさん」にまで触手を伸ばす余裕がないため、近づかないようにしていた。それでもテンシュテットという指揮者を知り、テンシュテットの青物が見つかるたびに買うようなったことや、はたまたサイトで企画連続モノを書こうと思ったきっかけは何を隠そう syuzo さんのサイトの影響である。(それなのにムシしていたとは考えてみれば失礼なハナシである)

さて、クナといえばワーグナーというくらいに両者の結びつきは強いらしい。syuzo さんの飽くなきクナへの執着は「クナを聞く~ヴァーグナー編」という、気も遠くなるような(14回にも渡るらしい)詳細な解説とレビュを展開している。改めて読まさせていただきましたが、参りました・・・またしても 小生など足元にも及びませんです。しっかり勉強させていただきます。(2003.02.18)

2003年2月3日月曜日

《指環》の抜粋を聴く2

バレンボイムのバイロイト版抜粋を聴いて、引き続き彼の「ジークフリート」と「神々の黄昏」を入手しようと思ったのだが、余りにもその演奏が素晴らしいので抜粋版を買うのがもったいないという気になってしまった。そこで、以前買ってあまり聴かずにいた抜粋版を取り出して聴いてみることとした。


マレク・ヤノフスキ指揮/ドレスデン・シュターツカペレ

《ラインの黄金》(第4場)~虹のかけ橋~ワルハラ城への神々の入場
《ワルキューレ》(第3幕)~ワルキューレの騎行
《ワルキューレ》(第3幕)~魔の炎の音楽
《ジークフリート》(第2幕)~森のささやき
《神々の黄昏》(プロローグ)~夜明けとジークフリートのラインへの旅
《神々の黄昏》(第3幕)~ジークフリートの葬送行進曲
《神々の黄昏》(第3幕)~終曲-ブリュンヒルデの自己犠牲

《指環》で有名な<ワルキューレの騎行>そして中学生のブラスバンド経験者ならばお馴染みの<ジークフリートの葬送行進曲>などが収録されているため格好の「入門版」かと思っていたのだが、それは当たらないようだ。この版は1000円で入手できるのだがあまりお勧めできない。
というのも、15時間以上にも渡る音楽を1枚のCDにしているということにも無理があるのだが、それ以上に違和感を感じるのを禁じえないのだ。

ワーグナーの音楽は、それぞれの部分が独立しておらず連綿とつながって構成されている。従って例えば有名な<ワルハラ城への神々の入場>を聴いても、なぜエルダの登場のシーンがカットされているのかと不満になってしまう。同様に<ブリュンヒルデの自己犠牲>にしても、それ以前のグートルーネとのやり取りがないではないかと・・・。所詮は抜粋版というのはその程度のものだと割り切るしかなさそうである。

さて、演奏の方だが不勉強にしてヤノフスキという指揮者をわたしは知らない。ワーグナーの音楽としては非常にあっさりとした薄味の演奏に聴こえる。コテコテワーグナーに飽いた人には向いているのかもしれないが、ワーグナー初心者の私には、ヤノフスキのような演奏もアリかなと思う。全集版が欲しいかと問われればNoではありますが。


2003年2月2日日曜日

《指環》はファンタジーか

ワーグナーの《ニーベルングの指環》は1200年頃の成立したゲルマン叙事詩「ニーベルゲンの歌」および北欧神話「エッダ」や「ヴェルズング物語」(ヴェルズンガ・サガ)を素材としている。北欧神話のキーワードをちょこっとウェブ検索してみたところ、ヴァルハラやヴァルキリー(ワルキューレ)などの名前を見つけることができた。しかし他の作品同様、台本はワーグナーオリジナルである。

「作曲家別名曲ライブラリー」(音楽之友社)の解説によれば、ワーグナーの楽劇の登場人物と中高ドイツ語、そして北欧神話では人名綴りや発音も異なっているらしい。ワーグナーと結婚することとなるグートゥルーネが現代ドイツ語ではクリームヒルトに当たる。

映画化で話題のトルーキン「指輪物語」(1954年発表)とは、素材が同じであるが物語は別物であるらしい。おそらくトルーキンも「ニーベルゲンの歌」や北欧、ギリシャ神話、アーサー王物語、そしてワーグナーの楽劇などから多くの着想を得たのだろうと推察する。(が、本も映画も観ていないのでこれ以上は言及できず)

ワーグナーの《指環》にも巨人族や小人族が登場するし、ジークムントが剣を得るところなどアーサー王伝説を彷彿とさせるものがある。それゆえに、壮大なるファンタジーオペラであるという観方もできるかもしれない。もっとも、《指環》から何をテーマとして感じるかは、まさに作品に触れた人の数だけ存在するのではなかろうかなどと、この膨大な音楽を前にして思うのであった。(>などというほどに、《指環》に親しんでいるわけではないのだが…やっと全貌の一端に触れることができたというだけです、ハイ)


2003年1月30日木曜日

《指環》を概観する

《ニーベルングの指環》は上映するだけで15時間もかかるという大作である。物語の概観をつかむのは非常に困難を極める作業だ。ネットを検索すると多くのサイトが見つかるが、そのなかにBunⅢの音楽よもやま話というサイトがある。ここはワーグナー作品ばかりではなく、オペラ作品の多くがMIDIなどを提供しながら分かりやすく解説されており初めに読むのに良いと思う。ワーグナーの《指環》につても複雑な人間関係を含め丁寧に解説してくれている。かくいう私も、ここから《指環》に取り組み始めた。

《指環》は長さとともに、複雑な人間関係に辟易して作品を敬遠してしまう向きもないではない(私もそうだった)。しかし、しばらく眺めたり聴いたりしていると、まずは重要な人物だけ押えれば良いと気づく。基本は以下の人物ではなかろうか。

- ヴォータン:欲深い神
- フリッカ:その嫉妬深き妻
- ローゲ:火の神、ブリュンヒルデを封印したりする
- エルダ:ヴォータンの不倫(?)相手の女神
- ブリュンヒルデ:ヴォータンとエルダの娘、後にジークフリートとの悲しい愛が芽生える
- ジークムント、ジークリンデ:ヴォータンが人間の女性に産ませた(!)双子の兄妹
- ジークフリート:ジークムントとジークリンデの近親相姦の愛から生まれた(!!)子供
書いているだけでムチャクチャ・・・という気がしてくる。ちなみにブリュンヒルデはワルキューレの一員、ワルキューレとは空を駆ける戦場からの死体搬送業者のことである。その他に押えておくべき人物は(異論もあろうが)以下であろうか。

- アルベリヒとミーメ:小人族、醜さ故に愛を捨てラインの黄金を盗んだ
- ファルゾートとファフナー:巨人族、強欲でアタマの悪そうな建設請負業社(?)
- グートルーネ:ジークフリートと結婚させられる女性、ブリュンヒルデの引立て役(「ニーベルンゲンの歌」のクリームヒルト)

まだまだ居るのだが、重要なのは何と言ってもジークフリートとブリュンヒルデだ。この二人の物語を作るために延々としたドラマが繰り広げられていると言っても過言ではないのだから。ただ第1日目の《ワルキューレ》においてさえジークフリートはまだジークリンデの胎内に宿るのみなのだ。

この数人が、15時間の中で入り乱れ、愛し合い、生まれ、そして企み合い、憎み合い、殺し合う。それ故に《指環》のテーマは非常に多岐に渡っている。権力と富、策略、禁じられた愛と愛憎、女性の自己犠牲による贖罪など、いかにもワーグナー的なテーマと言えようか。

特に女性(今回はブリュンヒルデ)による罪の浄化というのはワーグナーお好みのテーマなのだろか。《タンホイザー》でのエリーザベトも同じような役廻りを演じている。あるいは愛のために愛の力で自ら死すイゾルデの姿ともだぶるものがあると感じる。ワーグナーの理想の女性像の反映だろうか。

対するジークフリートは英雄という設定なのだろうが、ワーグナーの描く男性(英雄)は、女性と比べるとどことなく子供じみていると感じられてしまう。トリスタンしかり、タンホイザーしかりである。《指輪》のヴォータンもとても神とは思えないところが笑える。(このヴォータン、巨人族に自分たちの城=ヴァルハラ城 を造ってもらっておきながら、踏み倒そうとしていたフシがある>そんな神なんて聞いたことねー。)

ワーグナーは神話的世界を舞台に《指環》を始めたが、それはキリスト教倫理観に基づいた神話世界ではないことは、上のような事柄から分かると思う。神々とは言っても至極人間的な愛憎や欲求の強い神々であるのだ。

で、ストーリーはと言えば、『ラインの黄金が小人族のアルベリヒに盗まれてから再び(幾多の物語を作りながら)ラインの川底に戻るまでのお話し(まさにリング!)』とも言えるし、『ワーグナーがわざわざ蘇らせた神々を再び没落させた物語』でもある。あるいは『ジークフリートの誕生と愛と死の物語』(これぢゃあ《トリスタン》だ)でもある。

え? こんな解説では全然分からない? と言う人は、素直に書店とCD店に行きましょう。


2003年1月28日火曜日

【風見鶏】最近のニュースから

正確な日付とタイトル失念

筑紫哲也のニュース21で「日本を考える」というような特集をやっていた。そのなかで番組のキャスターたちが「情報の非対称性」てなことを述べていた。愕然とした。「情報の非対称性」とは確か経済用語である。このアナロジーをマスコミ自らが恥かしげもなく使うとは! 開いた口がふさがらなかった。こういうボンクラ達が展開する議論は、したがって、どこか的外れなものであった。筑紫さんにしてかと思った次第。

ニュースステーションでアメリカの学校が、実社会での金融システムなどを模した演習を始めているという紹介番組。高学年になると株取引や税に関する知識も学ぶのだそうだ。久米宏が「日本は大人になっても税金のこと何も知りませんよね、誰も教えてくれない」と嘆く。対し、経済アナリストの森本卓郎氏は「それでいいんですよ、官は民を愚に保つ政策を展開しているんですから(愚民化政策)。下手に賢くなってたてつかれても困るんです。」 ばかな人ほど損をするってわけ? 自分で賢くならなくてはだめだと?

たけしのTVタックルで食品問題についての討論(?)の中で「結局、金持ちが安全な食物を食べられて、貧乏人は農薬やクスリ付けの食物を食えということなのだな」 教育ばかりではなく食についても二極化すると。まあ、そんなこと当たり前か・・・?

さて何が透けて見えますか? こういう仕組みを作っているのは誰でしょう。誰が得をして誰が損をするんでしょう。自ら吐いた唾が自分に戻ってこなければ良いのですが。



HIYORIみどり 「最近農業やってる人と話したのよね。野菜って(失敗もしたけど)農薬使わなくても、それなりに育つんだって。農薬は高くて使えないって」

KAZAみどり 「農協が一番キライなことは”こだわり”なんですってね。均一に一律によ」

《指環》の成立年代について

ワーグナーの壮大なる四部作《ニーベルングの指環》の成立年代について知っておいて損はない。調べてみると以下のようになった。年表によると1948年、35歳のときに「ジークフリートの死」として着想したテーマが、最終的に結実し全曲が演奏されるまで実に26年以上の歳月を要していることが分かる。

ワーグナーにとってエポックメイキング的な《トリスタンとイゾルデ》が完成したのが1859年のこと。《指環》の作曲は《トリスタン》の前後に渡っているが、《トリスタン》以前に作曲されたものが《ラインの黄金》と《ワルキューレ》、以降に作曲されたものが《ジークフリート》と《神々の黄昏》ということになっている。

それにしても、ワーグナーが書きたかったのは事象としての「ジークフリートの死」(《神々の黄昏》とそれにまつわるドラマであったらしい。それを物語として肉付けするに当たり、ジークフリートの人間としての成長を描いた《ジークフリート》が成立し、更にジークフリートの誕生に至る物語《ワルキューレ》を生み(ジークムントとジークリンデの近親相姦による禁じられた愛の物語)、そして更にはジークムントとジークリンデを生み出すことになった前史としての《ラインの黄金》(ラインに眠る黄金の物語)が着想らしい。作曲は年代を追っているが、着想は劇順と逆になされたわけである。何ともはやワーグナーの誇大妄想的なイマジネーションの膨らみには恐れ入るばかりである。














































































































































年代ニーベルングの指環その他の作品と主な出来事
1842(29歳)《さまよえるオランダ人》完成
1843(30歳)《さまよえるオランダ人》ドレスデンで初演
1845(32歳)《タンホイザー》総譜完成、ドレスデンで初演
1848(35歳)《ジークフリートの死》(《神々の黄昏》の原型)の劇詩完成《ローエングリン》完成
フランスで2月革命
1849(36歳)ドレスデン蜂起に参加、「未来の芸術作品」脱稿
1850(37歳)《ローエングリン》ワイマールで初演
1851(40歳)《若きジークフリート》(《ジークフリート》の原型)の劇詩成立

《ラインの黄金》《ヴァルキューレ》の劇詩のための最初の散文スケッチ完成
論稿「歌劇と戯曲」を完成
1852(39歳)《ヴァルキューレ》の第2の散文稿および劇詩完成

《ラインの黄金》の劇詩完成
1853(40歳)《ラインの黄金》の管弦楽前奏曲を構想
1854(41歳)《ラインの黄金》総譜完成

《ヴァルキューレ》の作曲開始
1856(43歳)《ワルキューレ》総譜完成
《ジークフリート》作曲開始
1857(44歳)第2幕の終わりで《ジークフリート》作曲中断《トリスタンとイゾルデ》の筋をスケッチ、劇詩執筆、作曲開始
1859(46歳)《トリスタンとイゾルデ》総譜完成
1860(47歳)《タンホイザー》パリ版完成
1861(48歳)パリ オペラ座で《タンホイザー》上演
《マイスタージンガー》の第2散文稿完成
1862(49歳)《マイスタージンガー》の劇詩執筆、作曲開始
1865(52歳)《トリスタンとイゾルデ》ミュヘンで初演
《パルジファル》台本の最初の散文稿完成
1867(54歳)《マイスタージンガー》総譜完成
1868(55歳)《マイスタージンガー》ミュンヘンで初演
1869(56歳)《ジークフリート》の作曲再開
《ラインの黄金》ミュヘンで単独初演

《ジークフリート》総譜完成
《神々の黄昏》作曲開始
1870(57歳)《ワルキューレ》ミュヘンで単独初演
1871(58歳)《ジークフリート》完成
1873(60歳)バイロイト祝祭歌劇場完成
1874(61歳)《神々の黄昏》総譜完成
1876(63歳)《指環》全曲がリヒターの指揮でバイロイトにて初演
1882(69歳)《パルジファル》総譜完成、バイロイトにて初演
1883(70歳)ヴェニスのヴェンドラミン館にて死去


2003年1月20日月曜日

《指環》抜粋を聴く

ワーグナー楽劇の集大成といえば「ニーベルングの指輪」四部作につきるのだろう。「指輪」を聴かずしてワーグナーは語れないとワグネリアンなら言うだろうか。 



ショルティの偉大なる業績は昨年来から入手済みであったのだが、何しろ解説が英語とドイツ語とフランス語である。物語の概要も全く知らないのに8ポイントくらいの小さな文字の解説など読む気にならない。気軽に聴こうと思ってもボックスが4セットである。正常な神経の持ち主ならうんざりするのが当然だろう。封も切らずに棚に置かれたままになっていた。


オペラの抜粋ものというのは、どうしても触指が伸びないのだが、ものの試にと Teldec Classics から発売されてる「New1枚でオペラ」シリーズから「ラインの黄金」と「ワルキューレ」をゲットしてみた。どちらも指揮はダニエル・バレンボイム、演奏はバイロイト祝祭歌劇場管弦楽団、前者は1991年の後者は1992年のバイロイトからのライブ録音である。 
さて、今でも「指輪」のストーリーはほとんど分かっていないのだが、ジークムント、ジークリンデ、ジークフリートなどの名前くらいは聞いたことがある。配役の名前を読んでいるだけで、なんだかワクワクしてくる。松本零士のマンガも思い出す。

本来なら「ラインの黄金」から聴くべきなのだが、そこはそれ「ワルキューレ」第3幕、かの「地獄の黙示録」で有名な「ワルキューレの騎行」だけ、まず聴いてみた。「地獄の黙示録」のワルキューレは、どうやらショルティの演奏であるらしい。しかし映画では音をかなりいじって重ねたりしているので、本来の演奏からはかけ離れたものになっているとのこと。
さてさて、バレンボイム版とショルティ版を聴き比べてみたが、どちらの演奏もワルキューレたちの「Hojotoho! Hojotoho! Heiaha! Heiaha! 」という奇声に乗って奏でられる曲は壮絶である。まったく延髄蹴りをくらったかのような眩暈を感じてしまう。
続いて「ラインの黄金」の抜粋を聴いてみた。「ラインの黄金」なんてなじみがないだろうなあと思っていたら、あにはからんや、第4場のラスト「雷鳴の動機」に始まり「ヴァルハル城の動機」へと移る<ヴァルハル城への神々の入場>は聴いたことがあるではないか、それもすっごくユーメーなフレーズ! ウゲゲと再びワーグナー的な壮大な感動に包まれてしまう。
ジークムントとジークリンデの近親相姦による禁じられた愛の行方は、そして権力と富の象徴の指輪の行方はどうなるのか。うーん、壮大なドラマが込められているのだなあと思うと同時に、マジメにこんなものに取り組んでいたらいくいら時間があっても足りやしない。もう一度ラインの川底にでもCDを沈めてしまうかあ、と思うのであった。ということで、『「指輪」を聴く』という企画はスタートしないのであった。「ホー・ホ・ホ・ホ・ホ・ホ・・・」
とは言いながらも、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社)をしっかりネットショッピングで注文してしまったよ。

2003年1月18日土曜日

【音盤】田部京子のメンデルスゾーンとシフのバッハ

以前紹介したDENONのCREST1000シリーズの中からピアノ曲集を二つほどゲットした。とにかく1000円なのだから買って損はないと思う。(現在はシリーズ第二段が発売中)
田部京子/メンデルスゾーン「無言歌集」 (COCO-10450)

こういう曲を聴いていると音楽を聴く至福を感じることができると同時に、とやかくレビュを書くことの空しささえ感じてしまう。

「メンデルスゾーンのもつドイツロマンの抒情性」「静謐さ」「珠玉の名品」「ナイーブな音楽世界」「癒し系」 なるほどとは思うが、どれもが陳腐な言葉だ。

ぐたぐた言わずに静かに耳を傾けるがよい。ただゆったりと受け入れるのみ。そうすると、がさがさになった精神が、やさしく瑞々しいもので満たされてゆくのを感じることができる。非常に得をしたと感じるお薦めの1枚である。





アンドラーシュ・シフ/バッハ「インヴェンションとシンフォニアBWV772a-801」(COCO-70448)

私はシフの弾くバッハが好きだ。飾ったりひけらかすことのない、どちらかというと生真面目にも聴こえる音楽かもしれない。だからだろうか、深いところに静かにか語りかけてくれる。

バッハのインヴェンションはピアノを少しでもかじったことのある人ならば弾いたことがあるだろう。あるいは自分が弾かなくても隣に住む中学生や高校生が弾いているのを聴いたこともあるかもしれない。そんな曲だが、インヴェンションはまさにバッハを聴く喜びを感じさせてくれる曲だ。

彼はよく「グールド以来のバッハ弾き」と評される。私にはバッハを評することも、グールドとシフを比較することも適わないのだが、シフの演奏を聴くとグールドの演奏はやはり刺激的過ぎると感じてしまうのも事実である。

2003年1月17日金曜日

ゲルギエフのインタビュー

amazon.co.jpのサイトを見ていたらゲルギエフのインタビュー記事を見つけた。(2002年11月22日、ロシア大使館で行われた記者会見)

彼が作曲家としてプロコフィエフが好きなことは知っていたが、彼の好きな指揮者がフルトヴェングラーであるとは今まで気づかなかった。二人はレパートリーも芸風も違うのだから少し意外な思いにとらわれた。

ゲルギエフは今年6月の来日公演ではプロコフィエフの「戦争と平和」、チャイコフスキーの「エフゲーネ・オネーギン」、そしてムソルグスキーの「ポリス・コドゥノフ」という歌劇を演じる。ゲルギエフはオケ指揮者というよりはオペラ指揮者として西欧で受け入られてきた経緯があるだけに、興味深い演目ではあるのだが、どれもこれも少しマイナーなプログラムだなあと感じてしまう。

もっともゲルギエフは「クラシックのレコード業界の何が問題かというと、この30年か40年の間に、録る必要のなかったものまでたくさん録ってしまったことでしょう。」とインタビューで述べている。確かにそうかもしれないなあと思うのであった。

そんなゲルギエフも2003年6月下旬からワーグナーの「指輪」4部作に取り組むことになっている。これも楽しみであると思う。というか、その前にはじめて聴くワーグナーシリーズでワーグナーを制覇しておかなくては・・・・

ついでだが、2月にはゲルギエフの新録音も発売される。プロコフィエフのカンタータ《アレクサンドル・ネフスキー》とショスタコーヴィチ:交響曲第7番《レニングラード》だ。タコ7は昨年の来日公演でもキーロフとN響の合同演奏で凄まじい演奏を展開したらしい。今回はキーロフとロッテルダム・フィルによる合同演奏。これも楽しみである。

2003年1月14日火曜日

小泉首相の靖国神社参拝

あれれ、というカンジだ。小泉首相の靖国神社の参拝である。大手新聞5詩の翌日の社説は、そろって靖国問題を取り上げている。

各誌は読む前からご想像の通り、朝日、毎日、日経は反対、産経は賛同という論調である。

朝日は「よりによってこの時期の参拝とは、耳を疑う」、毎日は「極めて思慮に欠ける行動」、日経は「A級戦犯を合祀(ごうし)している靖国神社に国を代表する立場の首相が参拝するのは基本的に好ましくない」と主張している。一方、産経は「この時期を選んだことについて分かりにくい面もあるが、首相として国民を代表し、戦死者の霊に重ねて哀悼の意を表しようという姿勢は評価」としているわけだ。読売は賛成も反対もしていない。「靖国問題をどう考えているのか。首相はもっと明確に語る必要がある。」と言うのみだ。

それにしても靖国である。靖国の実態については私はあまりにも無知だ。その思いをこめて昨年7月18日の意見箱に書いた。私は新聞各誌の「主張」を読み比べ、なにか核心をつかない、あるいは靴の底からかゆいところを掻いているようなもどかしさを感じる。靖国問題は歴史認識(戦争の意義と東京裁判)と憲法議論にまで直結している。直結する管の途中にいろいろな障害やら破れがあって、出るべきところから水が流れてこない。

徹底的に議論しようとせず、マスコミ事態もあきらめの気持と共に、おざなりな(各社横並びの、ほとんど主張を感じない)社説を読んでいると、彼らはこの問題に正面から向き合う気がないのだと感じさせられる。

首相と遺族会との公約ということもあるのだろうが、首相の行動は国の意思の反映であるべきはずだ。特定の団体や感情論で行動することは許されない。

靖国参拝についてのアジア諸国の反感は、決して「内政干渉」ではないと思う。日本政府の歴史認識を問いただしているのだ。占領米国主導の日本の歴史が誤りだとする論調も分からないでもない。しかし、どこかで日本政府としての統一的な見解が必要で、それを諸外国に示す必要があるのではないか。

ドイツのヒットラーを清算しているドイツ、未だにスターリンを総括できないロシア。日本にどのような路が赦されているのか。小泉首相も、隠居爺かボケ老人のようなのんきなことを言っている場合ではない。>「お正月ですし、新たな気持ちで平和のありがたさをかみしめて」

私は、原則として靖国神社参拝には反対です。靖国に参拝することが平和希求の気持であるとは受け取りま せん。現行憲法は素晴らしい憲法であり、決して米国の押し付けではない世界に誇れる憲法であると、私は信じている(そう信じるように教育されてきた)

絶対的平和主義、あらゆる武力放棄も理念としては素晴らしい。素晴らしいだけに困難さと不断の努力と勇気を伴う、非常につらい選択だ。武力装備は結果として楽な選択でしかも極めて不幸な選択だ。それにも相応の覚悟が必要だ。他人事ではないのだ。

日本には(もちろん私にも)そのどちらの覚悟もない。

靖国には行った事がないのだが、東京に行ったら今度訪れてみようと考えている。

2003年1月7日火曜日

【音盤】アムランによるゴドフスキーのアルバムを聴いて


アムランのピアニズムには接するたびにたまげてしまう。今聴いているのはゴドフスキー (LEOPOLD GODOWSKY 1870-1938) のグラン・ドソナタとパッサカリアだ。(HYPERION CDA67300)

私はピアノについての知識がほとんどないので、ゴドフスキー作曲のソナタと、パッサカリア(シューベルトの未完成交響曲のテーマを用いた44の変奏曲)がどのくらい難しいのかを真に理解することは出来ない。しかしネットでゴドフスキーあるいはアムランを調べるたびに、いかに恐るべき曲であることを知るのだ。



もっとも人は音楽を聴いてそれが難曲であり技巧的に難しいから感動するのではない。曲芸のような演奏からは、人をたまげさせることは出来ても感銘を与えることはできない。果たせるかな、アムランは単なる曲芸師でもキワモノなどでも決してない。


アムランはどちらかというと、かなりマイナーな作曲家をマイナーなレーベル(英hyperion)と録音しているが、彼の弾く馴染みのない曲からは、名状しがたい新鮮な感動をいつも感じることができる。

曲が素晴らしいのか、あるいはアムランの技量が卓越しているのか私には判断できない。彼が好んで弾く曲集が、アムランの技量をして初めて真価の発揮できるたぐいの曲であるのかもしれない。

こんなことを書くと、ろくにショパンも知らず、ホロヴィッツもリヒテルもコルトーも満足に聴いたことがない人間が何を戯言を言うかと思う人も多いと思う。私も大きな声では言えないが、そういう考えを否定しきることができない。このような感覚がクラシック音楽を狭い範囲に限定するものだとアタマでは理解していても、ジッサイのところアムランてどうなんだ?と思ってしまう。どなたか聴かれた方いらっしゃいますか?

2003年1月5日日曜日

ヒラリー・ハーン/メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64

 
演奏:Oslo Philharmonic Orcestra 指揮:Hugh Wolff 録音:April 17 & 19-20, 2002 

さても今更ながらにメンコン(メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲)かと思う。

この超通俗名曲、幾多の演奏を耳にしただろうと思い浮かべ、ふと我がCD棚を探してみると驚くべきことに、メンコンは1枚も所有していないことに気付いた。いったいどこで耳タコ状態となるほどに聴いたと言うのか、誰の演奏に親しんだというのか。そういう記憶一切が、メンコン=通俗名曲という固定概念によって形成されたものなのかしらと訝ってしまう。 

そこでヒラリーのメンコンである。先にも書いたように誰のメンコンの演奏が記憶に刷り込まれているのかは定かではないが、ここで演奏されているのは、いままでのようなメンコンではないことに気付かされる。
もともとヴァイオリンのヴィルトオーゾ性を際立たせるような曲であるが、ヒラリーの技は冴えに冴えわたっている。彼女がメンデルスゾーンのコンチェルトを学んだのが11歳のとき、そして翌年にはそれを演奏しているという。24歳の彼女にしてすでに12年の付き合いの曲であるわけだ。 

彼女の演奏は、ショスタコーヴィチでもそうだったように情に傾かない。洒落ではないが、まさにヒラリヒラリと華麗に、しかも物凄いスピードで駆け抜けている。これだけのスピードでありながら(比較はできないが)演奏からは余裕のような雰囲気が漂ってくるところがタダモノではない。 

スピードとともに音色の艶やかさにも感歎する。ショスタコのときのような、若干鋭利な音作りとは印象を変えているのだろうか、ここでは女性的にしてでふくよかで温かみのある音に仕上げているように聴こえる。それでいて、ともするといやらしさを伴うような音ではなく、あくまでもヒラリーらしい怜悧さを残している。 

こういうメンコンを好まない人もいるかもしれない。しかし私には、むしろ抒情を敢えて殺ぎ落としたかのような華麗にしてスポーティーな(しかし体育会系では決してない)メンコンも好ましいと思える。

もっともメンコンを何度もレビュのために聴き直したり聴き比べたいとも思わない。雑な感想だがこれまでにしておこう。

2003年1月3日金曜日

【本棚】櫻井よしこ:日本の危機


櫻井よしこさんは尊敬すべきジャーナリストであると私は信じている。昨年だと、彼女がかねてから反対している個人情報保護法案について、総務大臣とTV討論などを通してやりあっている姿が印象に残っている(確かサンデープロジェクトだったか)。彼女の静かでな語り口で事実を重ね相手を正す姿勢に対し、片山総務大臣は「(システムは)やれば便利なのが分かる、あんたもネットやITのプロでないくせに、ぐちゃぐちゃいうんでない」というような議論にもなっていないような回答しか出来ていなかったように覚えている。

この本を読むと、彼女が本当に怒っていること、そして「日本の危機」に対して大きな憂いを持っていることがひしひしと伝わってくる。頁を繰りながら、彼女の告発する事態のあまりの酷さに、それが事実であるならばと、わなわなと震えてしまうことを押さえることができない。

ひとえに言ってしまえば、日本の官僚中心の社会がかくも堕落し、全ての状況に閉塞感をもたらしている元凶なのかと、深い絶望に陥ってしまうのだ。官僚批判は何も櫻井さんの専売特許ではない。かつては、カレル・ヴァン・ウォルフレンも名著「日本/構造権力の謎」や「人間を幸福にしない日本というシステム」などで、官僚の弊害を端的に指摘していた。あれからいったい何年が経ったろうか。今でも書店に行けば官僚批判本は山と詰まれている。

彼女の本は、本の紹介でも引用したように確実な取材に基づいてなされている。理念だけを語っているわけではないため説得力は強い。取材対象にアンフェアな状況や不正や疑惑が見つかろうものならば、彼女は容赦なく批判している。その批判があまりにも的確なためか、あるいは鋭すぎるためか、「週刊新潮」に連載中に何度も関係者から内容証明郵便で記事内容に対する疑義や訂正を求められている。その経緯も彼女は丁寧に説明している。彼女の説明が真実であるとするならば、何と日本の政治家は姑息でしかないことか。

批判の対象は99年後半から2000年にかけての出来事だが、そのときと日本の状況は全くといっていいほど変わってないこと、いやむしろ(やはりというべきか)悪くなってさえいることに気付かされる。不良債権問題についても、北朝鮮問題にしても、教育問題にしてもしかりだ。2冊まとめて読むと、過去を振り返り現在を再認識できるとともに、やり場のない怒りと徒労感に蝕まれる。このままではやはり日本は国力を衰退させるしか道がないのかと。

しかし彼女は絶望はしていない。あとがきにもあるようにこの本は「解決への助走」と副題がつけられている。変革させてゆきたいというエネルギーが必要なのだと説く、前に踏み出す勇気が必要なのだと説く。先に述べたカレル・ヴァン・ウォルフレンも「行動的市民」になることを強く主張していた。しかし残念ながら、どちらのアジテーションも今のところは効を奏しているとは思えない。

この本の前に紹介した辺見庸さんにしても、精神的なカウンターバランスとして個人に機能するだけで、一種のガス抜きにしかなっていないという現実もあるかもしれない。しかし、しかしなのだ。もっと私たちは、自分達の身の回りのことに目を向け、アンフェアな状況、どう考えてもおかしいという状況に気付き、怒ることから始めたっていいのではなかろうか。貴方と私の意見がそこで食い違っても構わない。そのときはそこで避けることなく建設的な議論を戦わすべきなのではなかろうか。

櫻井さんの個々の考え方に対する賛同、反対を抜きにして、今一度、今の日本を考える上でのきっかけとなるべき本であると思う。

ヒラリー・ハーン/ショタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77



演奏:Oslo Philharmonic Orcestra
指揮:Marke Janowski
録音:February 20 & 22-23, 2002

ヒラリー・ハーンの新譜が発売された。メンデルスゾーンのコンチェルトとの同時カップリングがショスタコーヴィチのコンチェルト1番である。こういう組み合わせは、ベートーベンとバーンスタイン、あるいはブラームスとストラヴィンスキーといった具合にハーン(またはSONY)のいつものやり口だ。

メンデルスゾーンのコンチェルトはさておくにしても、まずはショスタコ-ヴィチである。この演奏は、ハーンの熱烈なファンであるジュネスさんによるベルリンフィルとの来日公演の丁寧なレビュを思い出す、彼女の得意な曲なのかもしれない。彼女がはじめてこの曲を演奏したのは17歳のときであるとのこと。

ヒラリーを評するとき、人は彼女の完璧なまでなテクニックと、その上に構築される音楽性を賞賛し、これが今年で24歳の若者の音楽であるかと感歎してやまない。MOSTLY CLASSICの音盤紹介でも黒田恭一氏が手放しで褒め称えている。

ショスタコのヴァイオリン協奏曲1番というのは、内容からして何ともひねりが加えられた皮肉な音楽だ。作曲されたのは1947~48年、当初オイストラフに捧げられたものであったが、当局の監視や弾圧が高まる中、初演はスターリンの死後まで待たなくてはならなかったというものだ。

第一楽章のノクターンは時代を象徴するような暗さから始まり、一方でスケルッツオやブルレスカにはショスタコーヴィチお得意のメロディの中に、諧謔性やアイロニーそしてい歪みなどを込めている音楽だ。非常に複雑な感情が吐露されており、まさにショスタコーヴィチの内面を表した音楽と言える。

おそるべき曲ではあるが、私はヴェンゲーロフとロストロポーヴィチ、ロンドン響による1枚しか所有していない(左)。この盤は、1994年の英グラモフォン誌においてレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞した名盤である。当時ヴェンゲーロフは何と若干20歳である。

このCDを聴いて私は、その高まる感情に度肝を抜かれた覚えがある。こんなに凄まじき音楽を、いくらロストロポーヴィチが指揮しているとはいえ若干20歳そこそこの若者が演奏可能なのだろうかとたまげた。今回改めてこの盤を聴いてみたが相変わらずヴェンゲーロフの弦は、うなりをあげて聴くものに迫ってくる。音楽が躍動しいびつな感情に揺れ動く。

さて、そこでヒラリーである。彼女の演奏はBBSなどを読んでいると「氷上の音楽」と評する人がいる。どのような意図から「氷」という言葉を用いているのかはわからない。しかし、SONYのCDジャケットは、前回のブラームスもそうであったが、ダークブルーの背景に蝋人形のような硬質なヒラリー像を配している。チョン・キョンファであったら決してこのようなデザインにはならないだろうと思う。

実際に音楽を聴いてみると、CDジャケットの印象がかなり音楽の性格を表しているのかもしれないと思う。もしかしたらSONYの固定観念に騙されているだけなのかもしれないが。

従ってというべきか先のヴェンゲーロフの盤と比べた場合、音響的な深や厚みのようなものはハーンの盤から感じることが少ない。誤解されては困るのだが、ハーンの音に厚みや深みがないといっているのではない。これは、オケを含めた全体としての表現力の違いだと理解してもらいたい。ロストロポーヴィチ率いるロンドン響のサウンドはやはり、オスロフィルとは一味もふた味もちがう。そこに油の乗ったヴェンゲーロフだ、重量感のあるなショスタコがこれでもかとばかりに展開されている。

一方でハーンの音楽だ。そういう盤と比較してしまうとオスロフィルには物足りなさを感じないわけではない。しかし、その上前を刎ねてしまうほどに彼女のヴァイオリンは冴えている。まさに彼女の独断場にしてしまったのがこのショスタコなような気がする。

ハーンは決して過度の感情を表出しはしないが、縦横にあるいは重層的に積み重ねる音は、重ねるたびに逆に一点のにごりもなく響き渡る。絵の具を混ぜてゆくと灰色に濁ってゆくのに対し、光の色を重ねてゆくと限りなく白色になってゆく。まさに、ヒラリーの音は後者のような印象なのだ。それを現代的な表現ということもできるかもしれない。今まで聴いたこともないような音が聴こえてくる。彼女のそういう音から奏でられるショスタコからは、人間的な感情を越えた高みに上ってゆくかのような飛翔する感覚さえ感じてしまう。

この曲では第三楽章の後に、ほとんど独立したカデンツァが挿入されるが、ここでの彼女の音楽の深さはどうだろう。音色のせいばかりではない、ショスタコーヴィチがどんな感情を込めたのかは不勉強にして理解していない。それでもここからは音楽家の不安や嘆き憂い、そして時代に対する絶望ではなく、どこかへと馳せる思いを感じる。そして更には、ある種の静かな祈りさえ聴こえてくるようだ。

最終楽章のブルレスカ(乱痴気騒ぎ)にしても、ハーンのヴァイオリンの狂騒には乱れが全くない。波風一つ立たない水面の下で激しき水流が渦巻くがごときだ。畳み掛ける音色はただならぬ緊張感をはらんで疾走し駆け上がる。まさに氷上を滑るがごとく、あるいは磨き上げられた氷の表面と、その下の激しい水流の迸りを感じる。この楽章だけでも聴く価値があると言えるかもしれない。

こういうショスタコーヴィチを聴いてしまうと、噴出するがごとき激し表現は、わざとらしさとあざとささえ感じてしまうというのは皮肉なことかもしれない。新しい感覚のショスタコであると感じる。もしかしたら、ショスタコーヴィチのはぐらかすような心境には、こういう表現の方が近いかもしれない。そういう意味から、従来型のショスタコをお好みの方には今ひとつという印象かもしれない。もっとも、わたしとてそんなにショスタコに通じているわけではない、このへんでいい加減なことを書くのはやめようと思う。

同時収録のメンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲はこちら。


2003年1月2日木曜日

【風見鶏】「主張 大いなる選択の年に思う」

年が改まったので各社とも今年の日本に期待するもの、というような社説を掲載している。その中で産経新聞の社説だ。戦後の天下泰平のために江戸時代の鎖国政策の時の日本のように「非行動主義」が日本に無力感をもたらしていると説く。

「いま必要なのは国家の戦略的なありようを徹底的に磨き上げる」ことであるため、産経はふたつの課題を挙げている。ひとつは「日本国あるいは日本国民たりえようとする精神の欠落を克服するためにどういう日本でありたいのか自己目的を明確化させる」ことと、「日本国あるいは日本国民が当事者意識を取り戻す」ことと唱える。

言っている本論には同意する。しかし、その先が産経と私では若干の食い違いがある。総論賛成各論反対というやつか。しかし、そのずれが何であるかを明確には示せない。産経の石原東京都知事擁護論は今に始まったことではないのでご愛嬌(では本来は済まされないのだが)だとしてもだ。

いずれにしても岐路となる年かもしれない。



HIYORIみどり 「産経の記事を引用したりするのって、まずくない?」

KAZAみどり 「産経新聞は記事の著作権に対してひどく敏感よね。でもネットの常識から考えて無理があると思うのよ。社説も取っておかないと探せなくなってしまうしね。」

2002年12月30日月曜日

【風見鶏】「自衛隊の統制者は誰か」

12.30 朝日新聞社説

朝日新聞の社説で知ったのだが、「防衛庁の統合幕僚会議が自衛隊の縦割り運用の弊害をなくすことをめざした改革案をまとめた」らしい。3自衛隊をとりまとめる制服組の最高指揮官となる統合幕僚長(仮称)を設け防衛庁長官の命令を一元的に受けるのだとか。

これに対し朝日新聞は「憲法に沿って、自衛隊が役割を広げることを支持したい」という主張をしている。国会の役割や情報の公開を充分に行った上でと条件をつけてはいるが、昨今のテロや世界情勢を鑑みて、自衛隊を「使える自衛隊」とする措置が必要としているわけだ。

そうか「天下の朝日」も、結局はなし崩し的防衛力整備、有事関連法案に賛成しているというわけか。私だって北朝鮮の脅威などを見てしまうと、あるいは中国や韓国の動向を考えると、防衛力の曖昧な主権国家というものが成立するのかという疑問にぶち当たってしまう。

しかし、世の中の政治家には「拉致被害者は軍隊を派遣してでも取り戻す」と声高々に主張する輩もいらっしゃる。「(自衛隊や派遣問題につては)現在の憲法のもとでは、詭弁に詭弁を重ねてきているわけです」と大学で学生相手に講演なさる政府高官もいらっしゃる。そういう方々には賛同できないんですよ。

なし崩しは困ります。知らないうちに、マスコミをはじめ世論を防衛力強化に導くようなこともやめてもらいたい。幼稚な言葉遊びに近い議論ではなくて、あるいはアレルギー反応のような反戦、改憲反対論でもなく、主権国家としてのありかたを考える必要があるのぢゃないでしょうか。

それにしても「憲法に沿って~支持したい」ですか。もはや、憲法精神の砦が脆くも瓦解していることを改めて気付かされる年末でした。



HIYORIみどり 「でも、世界第三位の防衛予算を使っている自衛隊が、命令系統がはっきりしないばかりに役に立たないぢゃあ、目も当てられないわよね」

KAZAみどり 「なんともいびつな国よね。防衛論争をする以前に、主権国家としての意思、世界の中での日本の立場、昨今の世界的な覇権主義争いに対する日本の戦略や哲学、そういうものが欠けていると思うわ。やっぱりアメリカの子分
なわけかと・・・」

HIYORIみどり 「いくら大義を掲げても戦争では人が死んでゆくわ」

KAZAみどり 「イラクの飛行禁止区域では相変わらず米英が空爆を続けているようね。民間の人も巻き添えになっているわ。たまたま通りかかった人が、上空彼方からのミサイルで吹き飛ばされる・・・、何とも理不尽だわ。」
HIYORIみどり 「10月からはじめた新聞ウォッチだけど、明るい話題はほとんどなかったわね」


2002年を振り返る・・・か

年末であるので今年一年を振り返るという番組が、あいも変わらずTVや新聞で繰り返し報じられている。そういう番組に教えていただくまでもなく、今年は不本意にして激動の一年だったと言えるだろう。日本の悪さが一気に噴出してしまったという気さえする。

ムネオ疑惑や議員の秘書給与疑惑といった、どちらかというと小粒の瑣末的なスキャンダルに隠れて、日本はわたしたちが意図しない方向へと舵取りをしてしまっているような不安に襲われる。それは日本だけではなく世界も同じだ。911テロを経験した世界は、アメリカ帝国主義と各国の覇権主義が衝突をはじめたと言ってよいのかもしれない。ロシアの西側への転向、中国の台頭など世界地図を塗り替えるような兆しも見えてきている。

日本はあいも変わらず経済的な不況、あるいは政治的な膠着状態から脱皮することができないでいる。構造改革が必要なことは分かっていても、複雑にからみあった利権と保護規制の網から自由である者など少数でしかないという現実を考えると、構造改革を肯定することは自らを否定することに繋がるという矛盾を抱えてしまっている。抵抗勢力は誰彼ではなく自分自身なのである。

年末のTVの街頭インタヴューを聞いていると「来年こそ景気が良くなって欲しい」「なにか元気がでる話題が欲しい」「子供たちが幸せであれば良い」との答えが返ってくる。でも、ちょっと待って欲しい、景気さえ回復すれば皆元気になって幸せになるのだろうか。過去を考えるとYesと答えるだろうし、ちょっと思い馳せればNoとも答えるだろう。

景気が良くて給料(使える会社経費も含む)は高いけれど、仕事も忙しいため日々反吐が出るほどに仕事をし、たまの休日には皆が目の色を変えてモノや消費やサービスに走るという状況が幸福な風景とは思えない。職住近接とか、まことしやかなキャッチフレーズで都市が無秩序かつ野蛮に開発されてゆく状況も好ましいとは到底思えない。

極論かもしれないが、戦後の朝鮮戦争によって特需景気の恩恵を得たように、米英による中東戦争のため日本の景気が例えば一時的に良くなったとして、それをもって幸福だと感じることができるだろうか?

では、何が幸福かというビジョンもその実描けないでいる。今の大人たちが子供たちに希望を語ることができなくなってしまったのだ。政治にも希望を託せるような状況ではない。小泉なきあと石原東京都知事に期待する風潮まで醸成されつつあるというのだから、イハハヤ・・・・なんとも酷い世の中だ。

憂鬱になる材料は山のごとしだ。来年とて、これらに光明がさすとは全く考えられない。自分ではどうにもならないことを考えて鬱々とするよりは、いましばらくは音楽でも聴いて呆けていた方が、やはりマシというところか。