2008年1月28日月曜日

【本棚】木村剛:投資戦略の発想法


まったく、らしくもない(というよりブログ主旨にふさわしくないような気もする)のですが、これも読んでいたので取りあえず個人的メモということで。

木村氏については賛否両論ありましょうが、本書は非常にマジメな投資の本です。今まで紹介してきた本と、基本的なスタンスは同じです。投資はギャンブルではない、チャート分析やファンダメンタルズ分析などに必要以上に時間をかけるなと。


まず最初から辛辣です。自分の資産と負債を根拠とともに書き出せないようなら、そもそも投資をする資格はない。リストラや倒産などの最悪の事を考えて2年分の生活資金(安全な流動資産)をまず貯めろ、それさえ出来ないなら、投資なんてする資格がない。住宅を借金して買っている(=負債)くせに投資するのも愚の骨頂、先に借金を返せ。最大の投資は節約だ、などなど・・・。こういう実も蓋もない話題が最初は続くのですが、非常に最もなことです。要は金利、利回りを含め、お金に敏感になる必要があるということです。もちろん時間にも。

以上をクリアした上で、資産を国内株式と国債、外貨預金の三分割ポートフォリオで組めと説きます。株はインデックスファンドなどの投資信託よりは、20銘柄程度を自分で選ぶのが良いと。ここら当たりは、内藤忍氏の考え方と若干異なりますが、それはあくまでもテクニカルな問題でしかありません。

投資本を読むと「サルのポートフォリオ」がよく引き合いに出されますが、選ぶのが難しければ、再就職するとしたときに自分が入りたい会社の株を買え、その会社に再就職するリスクよりはその会社の株を買うリスクはずっと小さい、というの指摘にはハッとします。逆に考えれば、ストックオプションなど持てなくても、自分を高め、自分の会社の企業価値を高めることが最も重要な投資であると自ずと気付くというわけです。

住宅を資産と考えず、負債と考えるのは、ロバート・キヨサトなどとも同様。ここも異論は多かろうと思います。

資産を蓄える方向の議論が多く、キャッシュフローに関する記述が少ないのは内藤氏や勝間氏にも共通していましょうか。あと木村氏の本は投資哲学は学べますが実践となるとちょっと弱いところもあります。

いずれにしても、自分の資産は自分で守るということは、これからの時代、いくら強調してもしすぎることはないと思わせるに充分な本であります。それにしても、勝間、内藤、木村氏とも「おいしい話が転がっているわけがない」「ローリスクハイリターンなものなどない」ということをしきりに強調しますが、世の中騙されている人があまりにも多いのだなと・・・。

本書も、2008年版とかがあって、マイナーチェンジで効率的に印税をかせいでいるようですが、そういうことは考えないようにしましょう。

2008年1月27日日曜日

【本棚】内藤忍:資産設計塾、実践編



投資に目覚めたわけでもありませんし、そのテの話題を本サイトで続けるつもりもありません。

しかし、昨今の世の中の変化のスピードは極めて早い。昨年のサブプライムローン問題に端を発した、米国の景気のリセッションの懸念、楽観的過ぎたデカップリング論、BRICs諸国の猛烈な発展、さらにはアフリカも目覚め始めた。パキスタンだってテロと内政不安が続いているが、実は人口も多く発展のポテンシャルは高い。相対的に日本の国際的な地位は著しく低下してきている。かくもグローバル化した社会は猛烈なスピードで動いています。

日本は年金制度は完全に崩壊し、借金(国債)は増えるばかり。それなのに、どの政党も明確な財政圧縮手段さえ示すことができない。国民には何が真の情報なのかさえ分からず、聞こえてくるのは負担増のみ。個人にとって最大の負債である住宅の価値は35~40年程度しかなく、とてもではないが資産になどならない。それに輪をかけての留まるところを知らない偽装連鎖・・・。世界的に見ても非常に豊かな国であるはずなのに、どこか閉塞感がある。

戦後日本が作り上げたシステムは完全に制度疲労しており、大きな変革か衰退しかないのではないかと思いはじめました。そして、もはや、自分の資産は自分で守る時代に、とっくに突入していたのだと感じているこの頃です。

そういう意味から、自分の資産を見直すためにボチボチ本を読んでいます。

巷間に多くの投資本が溢れる中で、本書は堅実な長期的投資を指南する良書です。投資の考え方や基本的な商品について丁寧に解説しています。チャートによる商品の売り買いのタイミングという話しは殆どなく、人生と資産のアロケーションの重要性が強調されています。

氏の投資哲学は投資が目的ではなく、人生の目標を実現させるための手段であると捉えていること。従って単なる「金儲け」ではなく、自分の目標に合った資産設計を行い、必要以上のリスクと(投資関連に費やす)時間を取り過ぎないことを強調しています。あくまでも最終目標は、自分のやりたいことを実現させるためにお金を増やすのだということ。投資は趣味や楽しみではないのだと。

「実践編」は、前作と被る部分がかなり多く、表の数値も殆ど同じでオリジナリティが少ない。前作が良書であっただけに、非常に残念です。これも投資の基本である「レバレッジ・著作術」とでも評すれば良いのでしょうか。

2007年発行ですが、昨今のめまぐるしく変る経済情勢を考えるとちょっと記述が古く感じる点もあります。どちらか1冊あれば充分だと思います。

【本棚】大前研一:大前流 心理経済学


副題は「貯めるな使え!」と刺激的なキャッチ。要は1500兆円にもなる個人金融資産を眠らせることなく、有意義に消費、投資にまわして日本を活性化し、自分の人生をより良いものにしろというメッセージ。 もっとも「大前流」とあるように「心理経済学」という点の内容は残念ながら浅い。 

ここでも日本人の多くが自分の資産さえ把握していない不思議(P.125)に警鐘を鳴らしています。把握していないのではなく、今まで把握する必要がなく、陰謀論的には把握させないように誘導されていたのかも知れませんが・・・。

氏のメッセージは強烈なのですが、一方で個人金融資産1500兆円というところに読者の生活実感がどこまで合致するか疑問です。

大前氏も高齢者から若い世代に資産を移す(P.159)と指摘しているように金融資産は高齢者に偏っています。本当にお金の必要な若年層は資産より負債の方が多いのが現実でしょう。そこで大前氏は、資産移動のために贈与税の改革と生前相続制度を挙げているのですが、現実味が少ない。というのも、資産はもはや年齢だけではなく、階層に偏在しているのが日本の現状なのではないかと感じるからです。

前提の1500兆円に関する詳細な分析がないだけに、資産ギャップを感じる人には、ほとんど空論と写ります。

それでも、多少雑ではあるものの、見逃すことのできない指摘も多い。たとえば「第6章 心理経済と集団IQ」。

シンガポールの生き残り戦略などを紹介しながら、日本の旧態依然とした地域利益重視型島国政治によって、国際社会から完全に取り残されつつある現状を活写しています。また最近話題になり始めた政府系ファンドについても言及しています。

かように海外はめまぐるしく変化しており、スピード感は驚くほどです。今の日本政治が完全な機能不全に陥っていることは日々接するニュースや仕事からも実感として感じることです。アメリカの大統領予備選の報道ぶりを見るに付け、日本の政治風景の不毛さを思い知ります。

日本がこのまま国際社会での地位を急激に落としていこうとも、多くの人たちは日本に住み続けなくてはなりません。その中で幸福を追求するには、「無知」と「怠惰」を戒め、自ら主体的な個として生きなくてはならないということなのでしょう。

正月からいくつかの投資関連本やら自己啓発本を読みましたが(梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」も含め)、共通して感じたことは「お金の運用」の仕方ではありません。「投資」ということの持つ意味と、自分の人生に対する積極的関与の重要性です。私たちは、より良く生きるために「投資」を怠ってはいけないのだと。

【本棚】勝間和代:お金は銀行に預けるな


本書の主旨は「金持ち父さん 貧乏父さん」(→レビュ)と重なる点が多い。それは投資方法論においてではなく、「金融リテラシー」を身につけて前向きに生きようという強いメッセージを発している点においてです。

今までは、お金の事をあからさまに話したり「お金にお金を生ませる」「不労所得を得る」ということは、金持ちのやることとか、さらには罪悪感さえ覚えるような雰囲気があったものです。

しかしグローバル経済の影響を嫌でも受けるようになった現在、お金に無頓着であることは自分の人生の一部を放棄しているに等しいことです。日本人の教育の中で、自分の人生に対する「資産設計」という考え方が著しく欠如しています。

「金持ち父さん~」でも書かれていましたが、「とりあえず、良い大学に行って、良い会社に入って」が人生設計を確実にするものと、ついこの間まで信じられていました。それだけが選択肢ではないことを、私たちはバブルの前後で嫌というほど見せつけられ、今もその延長の中に居ます。

学校では金融知識や資産設計を教えてはくれません。お金に無頓着であった人には良いきっかけを与えてくれる書です。金融知識をしっかり身に付け、自分のスタンスと人生設計をすることは今からであっても遅くはないことを教えてくれます。

もっとも一通りの金融知識を身につけた人にとっては目新しいことは何も書かれていません。また投資で一発大もうけをしたい、という人のための本でもありません。分散投資、アセットアロケーションを中心とした長期運用で資産を増やすという人のためのものです。

そういう意味では良書ですが、さらに(More)を求めたい人には異論もある内容かもしれません。

【本棚】小川洋子:ブラフマンの埋葬

サンスクリット語で「謎」を意味する「ブラフマン」と名づけられた小動物と、<創作者の家>という施設の管理人をつとめる主人公との物語。タイトルにあるように、最後には「ブラフマン」に死が訪れることを読者はいやが上にも最初から知らされています。それゆえに「ブラフマン」の温もりが痛いほどに伝わってきます。

物語の軸は、確かに「僕」と「ブラフマン」の純粋な愛情です。しかし単なる動物との交流物語に陥ってはいないところが、小川洋子氏の小説世界。

物語を支配するのは静謐さ。その静謐さの下には、美しさと醜さ、人生に対する不気味と諦め、愛と性、生と死さえも横たわっているかのようです。それらは泉の底の沈殿物のように普段は表面に現れてこない。

ふとした拍子に、泉の表面にさざなみが現れて、下にあったものが露呈することがあったとしても、しばらくすると、全ては押し流され再び静寂と静謐だけが支配する、時間だけは無情に淡々と流れ・・・。

深い悲しみも、絶望も、欲望も、葛藤も、およそ小説のテーマとなるような物語や感情は何ひとつ提示されてはいません。登場人物の描写もひどくそっけない。このような確信的とさえ思えるような描き方をすることで、淡々とした人々の営みと命の物語は、逆に深く心を捉え、蝋燭の仄か光のように心を暖めてくれます。そして、小説を読む愉悦を思い出させてくれます。

2008年1月15日火曜日

歌舞伎座:新春大歌舞伎


先日、歌舞伎座の夜の部を観てきました。演目は「鶴寿千歳」「連獅子」「助六由縁江戸桜」。私は歌舞伎を観始めてそれ程たっていませんので、所謂歌舞伎十八番の中でも有名な「助六」を観るのは今回が初めて。成田屋演ずる助六であれば観ずばなるまいと楽しみにして参った次第です。

「助六」の主な配役は、助六の團十郎、白酒売新兵衛の梅玉、揚巻の福助、髭の意休が左團次、そして曽我満江が芝翫であります。これだけでも何たる豪華な顔ぶれでありましょうか。

幕は團十郎が市川家のお家芸として重要な演目であることを口釈してから始まります。浄瑠璃は河東節十寸見会御連中、河東節は江戸浄瑠璃で二代目団十郎が助六を演じた時から使われているのですとか。

芝居のまず最初は、ご存知の通り意休と揚巻のやり取りが山場です。例の揚巻の悪態の部分、すなわち

意休さんと助六さんを並べて見るときは、こちらは立派な男振り。こちらは意地の悪そうな顔つき。たとえていわば「雪」と「墨」、硯の海も鳴戸の海も、海という字は一つでも、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は暗闇、暗がりで見てもお前と助六さんを取りちがえてよいものかいナァ

の部分。いやァ、気持ちが良い。客席もやはり喝采です。福助の揚巻は威勢がいいだけではなく、間夫である助六への気持ちが真に痛いほどに伝わってくる、なるほどに見事。

助六が登場するのは、随分と後になってからです。いわゆる助六の出は、笠をさした助六が花道で延々と踊ります。安い席で観ているので全く花道が見えず、これでは欲求不満になります、残念。

以前も書いたことがありますが、だいたいに、私は團十郎の芝居が好きです。彼のおおらかさ、ほがらかさ、大きさ、そしてユーモアを、彼が舞台に現れるだけで感じ取ることができます。彼が喋るだけで幸せな気分になります。今回は意休にわざとケンカをふっかける、その悪さ憎らしさ振りがハマっています。台詞回しは若干聞き取りにくいところがあるのですが、とにかくに楽しい。それを受ける、白酒売の梅玉も抜群、これぞ和事味というのでしょうか。

左團次の意休は、いまひとつ固いイメージの役づくりになっていましたが、これはどうなんでしょう。というか立派なんですよ、揚巻に言い寄るイヤな奴という雰囲気ではない。ラストでは助六を打ち据え意見までする。ゴロツキを敢えて演じる助六よりも数段格が上なんですよね。勉強不足ですが、こういう役柄なんでしょうか意休というのは。

満江の芝翫というのには驚きました(配役確認してなかったので)。こういう役は芝翫はうまいなあと、少しの出なのにしっかり親の情が出る。

という具合に2時間ちかくにも及ぶ古典劇ですが、正月らしい煌びやかな舞台であり楽しめるものでした。原作だけでしっかり面白いのですから、最近のお笑いの芸を取り入れて観客に媚を売る必要まではないと思うのですが、いかがでしょう。

「鶴寿千歳」は筝曲の舞踏です。筝が入るとお正月気分が沸き立ちます、音色を聴くだけで至福の気分。これも後半は芝翫と富十郎が踊るのですが、いやはやです。足元が危なくはないかとハラハラするのですが、そこはそれ、厳かに舞っています。踊りに衰えもあろうかとは思いますが、ヒシヒシとした緊張感を感じてしまいました。いったいに何時まで彼らの舞台を見られるものでしょう。

幸四郎と染五郎の「連獅子」は、2005年11月の吉例顔見世大歌舞伎以来。感想はあの時と変らないのでバスします。ただ、二度目ともなると、以前よりはよく舞踏の意味がわかってきましたので、その点、以前よりも充分に楽しめました。

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2008年1月12日土曜日

【本棚】Rich Dad Poor Dad& とWho Moved My Cheese?

世に自己啓発本というのがあります。30代の頃は自己啓発本とかビジネス本を軽蔑とまではいかなくても軽んじていました。何を今さら他人に教えてもらうのだと、自分に自信を持っていたのでしょうか。ずいぶんと傲慢にして不遜、無知な考え方です。ですから、ベストセラーとなった、例えば「金持ち父さん貧乏父さん」とか「チーズはどこへ消えた?」みたいな本の存在そのものを長らく無視しておりました。

しかし、40歳を半ば近くなってきたころから、ようやく自分がそれほど優れていないこと、むしろ他人に対して著しく劣る部分が極めて多いことを思い知るようになり、その手の本を読むようになりました。まあ謙虚になってきたというのでしょうか。しかし、とは言っても、今さら、あれ程のベストセラーを手に取るのも恥ずかしい。

そういう見栄もあって、今年の冬休みは特に予定もなかったのでペーパーバック版で読んでることとしました。意外に日本翻訳本よりも安かったことも理由です。冬休み暇だし、ついでに英語読解力の向上も目指そうかなと。

もっとも、私の英語レベルといえば中学生のそれを超えないものです。基本的な単語力もないし記憶力も減退しまくっていて、本当に酷いものです。ですから、ちょっと苦労はしましたが、内容的には得るところはあったかなと。

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Rich Dad Poor Dad by Robert T. Kiyosaki

Robert T. Kiyosakiのあまりにも有名な、投資に関する本ですね。私はそのタイトルから、もっと軽い内容なのかと思っていましたが、日本の数多の投資ビギナーに対する本よりも余程説得力がありました。文章は平易ですし、繰り返しがやたら多く、その点、Kiyosaki氏の論調が鼻に付いたり、飽きたりしてくるのですが、彼の主張はぶれません。

「お金のために働くのではなく、お金に働いてもらう」「お金にお金を稼いでもらう」という投資的発想は、例えば森永卓郎氏のように「本来はお金は働いて稼ぐもの」(年収崩壊―格差時代に生き残るための「お金サバイバル術」 )と考える従来型の人には、違和感と受け入れがたさを感じる部分でしょう。また、Kiyosaki氏の労働観も働くことを通じて自己実現を図るという考えを持つ人からは反発されやすい部分でしょう。まず説明される節税に関する説明も、なんだかなあと思ってしまいます。

「勉強していい大学に入って、いい会社に入って、老後は年金生活・・・」という生き方(すなわちPoor Dadの生き方)は、アメリカでも広く支持されていた生き方。それを真っ向から否定しているのが本書なんです。本書に否定的意見が出るのも頷けます。

それではあっても、彼の主張は説得力があるのですね。それは彼が人生に対して前向きで、リスクを恐れず、そして自分に最大限の投資をすることでリターンを得ているという強さがあるからです。まず真っ先に自分に投資しろ、というのは、お金に限らず全てに当てはまると思った次第。 Beginnings/Chapter Eight Overcoming Obstaclesという章では、投資を始める上での障害として以下の五つをあげています。

  1. Fear.
  2. Cynicism.
  3. Laziness.
  4. Bad habits.
  5. Arrogance.

あまりにも的確。それは財産の投資ではなく、人生に対する投資についてさえ言い当てています。

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Who Moved My Cheese? by Dr Spencher Johanson

これまた、一時書店に山積みになっていましたよね。初版であったとしても、以前の私なら手にも取らなかったろうなと。しかし読んでみると、OVER 12 MILLION COPIES SOLD WORLDWIDEだけのことはあり示唆は多い。

アメリカ大統領予備選における今年の流行語ではありませんが「Change」がテーマ。変化にどう備えるか。変化を嗅ぎ取り、対処する。

これは、先の「Poor Dad Rich Dad」で書かれていた、リスクをコントロールするということ、あるいは、梅田望夫の主張する「けものみち」を行く(「ウェブ時代をゆく」)ということにも通じるように思えます。自己の責任において変化やリスクに積極的に対処する時代に、本格的に突入していることを、年末年始の読書は痛切に感じさせてくれました。

本書で一番痛かったのは、失われたチーズを探す本論ではなく、最初の章の下記の部分かな。

"When one of our senior executives, who was having difficulty adapting, said the story('Who Moved My Cheese?) was a waste of time, other people kidded him saying they new which character he was in the story -- meaning the one who learned nothing new and did not change"

ウヘッ!! オレのことぢゃないか、ってね。

◇

英語の方ですが、「Rich Dad Poor Dad」は、最初こそ慣れないのでちょっと戸惑いましたが、50頁も読むと(辞書は必要ですが)何とか読めるようになります。どうしても分からない部分は、何度か書店に行って確認しましたが(笑)。「Who Moved My Cheese?」は、前者よりははるかにやさしく、前書きにあるように、すぐに読めます。

さて、2冊を読み通すことで、私の英語力は向上したか? ネットサーフィンしてみる・・・、CDのブックレットを捲ってみる・・・!!!? 依然として、以前と同じく、全く歯が立たない・・・、前途は多難、今は新たに別の2冊に挑戦中なり。

【本棚】小川洋子:博士の愛した数式

映画にもなって、小川洋子氏の名前を広く世に知らしめた代表作です。多くの人が彼女の独自の世界観に、そして作品内容の誠実さと愛おしさに感動したことと思います。

しかし、私にとっては、この作品はそれ程面白いものではありませんでした。

決して作品をけなすつもりはありませんよ、小川氏の小説家としての才能、そして彼女が小説に求めている核はここでも健在です。それを私なりに解釈すると、例えば彼女の短編にあった、ある「生」あるいは「命」を別の者がしっかり受け止めるとでもいうような、切なくなるような受け渡しと、そこに潜むやさしい喪失の物語でしょうか。

しかし、「薬指の標本」のような作品に認められた、背徳的なエロスとかタナトス、不気味さ、じわじわとした恐怖のようなものは、「博士の~」からは全く剥ぎ取られてしまいました。

今までに読んだ短編(ごく少ないです)の、ネット上レビュを読むと「何を書いているのか分からない」という感想がチラホラ目につきます。確かにラストを放り投げたようなものや、未完に感じられるものもあります。私にとっては、そういう「異色さ」が小川氏を他の作家との隔てているものであり、そこに魅力を感じていたのですが、小川氏は「異色さ」を主として作品を書いてはいないものの。

彼女の作品は翻訳もされ海外でも評価されているようです。村上春樹と同様の無国籍性と無臭性を感じる部分です。小川氏の作品のどこが評価されているのか詳しく調べたことはありません。それでも、国内においては「博士の愛した~」が最も彼女の名を広く知らしめた作品だというのは間違っていないでしょう。「異色さ」を剥ぎ取っても、一層に万人受けしたのですから、やはり確かな才能なのだと思います。

記憶を80分しか維持することのできない数学者という突飛な人物が主人公、その存在そのものが「異色」といえば異色です。数学はつけたしではなく、それも数論という分野の持つ特殊さと純粋さを作品は見事に吸収し消化してます。

しかし、そうであっても残念ながら、私にとって本作が小川氏の作品の初読であったならば、他の作品を続けて読もうという気にはならなかったかもしれません、ひねくれていますかね。

2008年1月11日金曜日

iTunesストアの1500円パッケージ


Schweizer_Musikさんの鎌倉スイス日記で知ったのですが(→こちらhttp://suisse.exblog.jp/7941121)、iTunesストアでアバドのマーラーとか全集とかアーノンクールのベートーベン全集、カラヤンのブルックナー全集、ベームのモーツァルト全集などが、なんと一律1500円で入手できるそうです。で、久しぶりにiTunesストアをのぞいてみますと嘘であるわけがなく、ちょっとした驚きに包まれてしまいました。



賛否あるアバドのマーラーは私も何枚かは所有しています。それでも全てを揃える程には熱心なクラファンではない。また、今さらカラヤンのブルックナーやベームのモーツァルトもないものだとは思いますが、そこは1500円という激安な値段設定。カラヤンのブルックナーのピンクっぽく輝くボックスを買うのを逡巡したン十年前を思い出します。モーツァルトの交響曲の聴き始めはベームです、なんたってクラシックを聴きはじめたのは3×年以上前のことです。


これらを入手したところで、全部聴くことなど到底できそうもありません。しかしやはり1500円の魅力に抗いきれず、アバドのマーラー、カラヤンのブルックナー、アーノンクールのベートーベンを購入。CDを入れ替える手間もなく、ビュンビュンと(実際の体感速度はそんなに速くない)数十枚分のCDがダウンロードできます。


ネットで曲を購入することに、いまだ違和感はあるものの、物理的実体をもった開封していないボックスが棚や机上に鎮座している景色というのは精神衛生上、家庭生活上良いものであるハズがありません。イロイロな意味で便利な世の中になったものだなあと・・・思います。

2008年1月7日月曜日

年頭に当たってのメモ


Clala-Noteというカテゴリーがあったのを、すっかり忘れていた。とりあえず年頭に当たってのメモである。ごくごく、個人的なメモということで。

アメリカの大統領選を占う1月4日のアイオワ州党員集会では、民主党についてはオバマ上院議員が、ヒラリー氏などを抑えて圧勝した。「変化」を求める主張が、若者を中心に地すべり的な支持を得たとの解説が目に付く。アイオワの結果だけで全てを占うことはできないものの、今後の行方は興味深い。

それにしても「変化」か! 数年前の小泉政権を生んだときの熱気を、懐かしく思い出す。今の日本の政治風景は、あまりにもあの時と違っている。「劇場型政治」がやっと終わったと胸を撫で下ろす良識派が居ることは知っている。私も小泉政権には幻滅したクチだ。それにしても、日本政治のダメさ加減よ。

年末のパキスタンのブット首相暗殺には、遂にという想いとともに、残念な気持ちでいっぱいである。パキスタンは昨年9月から、テロ特措法からみで内外の新聞をウォッチしてきた。今年の総選挙を睨んで9月10日にシャリフ元首相が帰国を企てたものの、パキスタンの地を踏むことさえできず、空港から国外追放された頃からだ。10月18日、熱狂と爆薬に迎えられブット氏は帰国した。二人の帰国に対する戦略の違いは、海外のメディアで話題となった。西側受けするブット氏はBBSを始めとするメディアで強くパキスタンの将来について語っていた。

ムシャラフ氏が99年に権力を握ったときのパキスタンは政治的に孤立し、経済も破綻状態だった。穏健で近代的な国家建設に向けて方向転換をしたのは確かにムシャラフだったらしい。だから、NEWSWEEK 11.21(日本版)の「PAKISTAN'S PINSTRIPE REVOLUTION」という記事が指摘した、「ムシャラフVSブットという構図は、あまりにもアメリカ的な見方」という意見には成る程と思ったものだ。アメリカはブット氏をパキスタンの鎹として起用しようとしたのだろう、シャリフを通じてではパキスタンを制御できない、ムシャラフの地位も支持力も低下していた。

もっとも私のパキスタン情報など、せいぜいが3ヶ月くらいの知識に基づくものでしかない。だから私は、ブット氏を支持あるいは好感視していたわけではない、たとえムードでいいとしてもだ。

とはいえブット氏帰国を狙った爆弾テロは卑劣にして悲惨なものだった。どう考えても容認することができない。彼女はテロの危険を、事前にムシャラフから警告されていながらも帰国を敢行した。彼女の主張は明快だった。「パキスタンに真の民主主義を」だ。ムシャラフも民主主義を否定してはいない、しかし彼女のそれとは違う。

ムシャラフ、ブット、シャリフは、政権争いだけではなく、混迷を極めるパキスタンの立て直しのために、虚虚実実の駆け引きを繰り広げていた。あるときは手を結び、あるときは相手を批判し。その政治的緊張は、ある意味で健全な政治風景であった。ムシャラフ氏が軍参謀という独裁的権力を振りかざし、緊急事態宣言を発令したり政治・司法の敵対者を軟禁・逮捕したりしている状態であることは承知していても、政治的への期待が生み出すダイナミズムは失われてはいない。

そんな政治風景を、12月28日のブット氏暗殺事件は一変させた。軍部の陰謀であろうと、タリバンあるいはアルカイーダ系のテロ組織であろうと微妙かつ絶妙な均衡と西側諸国の思惑は崩壊した。ブット氏の暗殺は、アメリカ主導によるテロ掃討作戦、あるいはイスラムへの干渉に対する、強烈な「NO」という意思表示だ。

その犠牲になったのがブット氏なのだろうか、パキスタンと米国の狭間において。どんな政治的野心がブット氏にあったろうとも、テロの危険を誰よりも察知していながらも政治活動、政治集会を辞めなかったブット氏の姿勢を、私は支持する。


さて、振り返って日本だ。日本にとって、パキスタンはどれほど重要な国と写っているだろう。呑気に給油が国際社会での義務だとのたまう政治家は、何を考えているのだろう。そんな緊張状態の中で、世界は2008年を迎えた。

昨年は安倍首相の「ボクおなかがいたいの辞任」や、小沢代表の「みんな言うこと聞かないんで、もう辞めます」もあった。その後の民主党の「天岩戸行動」にも心底失望したものだ、まるで学芸会を見ているようではなかったか。内閣改造も総選挙も、数合わせ保身と保守だけにしか見えない。

11.21のNEWSWEEK誌には「THE BELGIFICATION OF JAPAN」とする記事も掲載されていた。曰く、日本では日本のエリート層で、ほぼ全ての主要テーマについて政治的コンセンサスが出来上がっている、主要政党の政策の違いが小さいほど、国民が政治に関心を持つ理由も小さくなる。

福田・小沢の大連立構想については、海外のメディアは、たとえばA grand coalition for Japan was a very bad ideaなどと報じた。ドイツのそれとは違うと。自民党と民主党にどんな政策的差異があるのかと。それが国民が政党政治にうんざりしている原因のひとつであるのに、新たなムーブメントは大きくならない。

未だ底の見えないサブプライム問題、米国景気のリセッション、原油高、日本景気に対する見切りからくる日本株売り、中国、アジア諸国の更なる台頭と国際発言力の増大。円に左右される輸出企業の業績、島国根性を脱しきれない日本のスタンダード、エトセトラ・・・。

ブッシュは死に体、福田は「ひとごと政治」だ。村上龍の『半島を出よ』はフィクションだったが、日本が強大な経済力を失うと国際的地位も失うとの指摘は強烈だった。


年初めの日経平均株価もTOPIXも大幅な下落状態から始まったことは、それでも記憶しておかなくてはならない、年頭から暗澹たる気分だ、投資などしていないにも関わらずだ。悪夢の始まりかあるいは変革の途上か、はたまた。















2007年12月25日火曜日

【音盤】デセイ+ハイム=??(有効期限あり)

ヘンデルのアリアで、ナタリー・デセイの歌うオラトリオも入手済でありましたが、これも今まで聴いていませんでした。というのも、このジャケが強烈過ぎるからです。ジャケの写真は右がデセイ、左が指揮者のハイムなんですが、これだけでも何だか「変」だというのに、中はもっと凄いんです。

HANDEL DELIRIO/Natalie Dessay
Natalie Dessay(s)、Le Concert d'Astree・Emmanuelle Haim
Virgin Classics 0946 3438422 3



右が表ジャケの写真ですね、左耳が欠けているので加えておきました。真ん中が見開きのジャケを開くと出てくる、オドロキのデセイとハイムの「合成写真」です。で、左に私が作成したハイムの復元画像を載せておきました。

アートディレクターの気持ちも分からないではないですが*1)、なんですか、モーフィングもどきですか? フツウに写真載せろよと思います、両者とも美形なんですから。

こんなことをすると、明白に著作権法に触れてしまいそうですが、しかしっ!です。CDの感想を書く前に完璧に力尽きました。イブの夜にこんな事しているなんて、オバカです。

苦情が来たら、すぐさま消しますので、賞味期限アリのエントリとなるかもしれません。感想は年内はムリな状況になりましたね*2)、これで。では、皆様よいイブを!

◇

  1. 本ジャケットを作成したアーティストを貶めようという意図は全くありません。あまりにその発想に驚いただけです。
  2. デセイが歌うのですから、悪かろうハズはありません。あまりネットでの評判は読みませんが。

2007年12月24日月曜日

デ・ニース追記


kimataさんはデ・ニースを「華」ではなく「花」と評しましたが、間違いなく彼女は生まれながらにしてスターの素質を有しているように感じます。CDを一聴して人をひきつけてしまう能力、またはオペラの舞台で観客を虜にしてしまう魅力。それは本当に「一瞬」のことで、人は彼女に魅入られてしまったことにさえ最初は気づかないかもしれません。場を一瞬にして自分のものとしてしまう能力こそが、スターとか一流のソリストに見出されるものです。


そういう意味からはお嬢さん芸を思わせる「花」よりもむしろ「華」が適切という気もします。しかしそれでも「花」と書きたい欲求も抑えることが出来ないほどに、彼女の歌声は瑞々しい。歌う空間にパッとばかりに花びらが舞い上がります。それは彼女の鍛錬された歌唱力のなせる業で、そのパワーには驚きさえ感じます。


芸術的な深みという点では十分とは言えないかも知れません。しかし、こういう才能が年齢と経験を重ねることで、どのように変化をしていくのか、楽しみな演奏家です。


【本棚】梅田望夫:ウェブ時代をゆく


本書はITが普及した現代はにおいて、旧来型の組織や職業のあり方が大きく変容するだろうことを、グーグルなどの先端企業や福澤諭吉を引き合いに説明し、若者に対し「人はなぜ働くのか」「いかに働き、いかに学ぶか」を示しています。オープンソースが成功するような社会においては、大組織のような枠組みだけではなく、他にも生きる道があることを、自らの経験をもとに繰り返し説明しています。ドラッカーの本と同様に、単なるITやビジネス本ではなく、人生の指南書という意味合いが強い本です。

旧来型の組織とはいかなるものでしょう。一言で言えばネットの特質を有効活用していない、あるいはできない組織ということでしょうか。ネットの特質が何かは本書に繰り返し書かれています。私は自分なりに「フラット化」「自然発生的知のヒエラルキー」「空間的・時間的概念の消失」「同時性」「一対多あるいは多対多結合」と考えています。そこから得られる「知」のエネルギーは確かに凄い。

梅田氏の主張は彼自ら認める楽観主義がベースになっているものの、ネットを善なものと肯定し、そこに多くの可能性を求め多様な選択をするという生き方は、既にどっぷりと旧来型組織の構成員に成り切っている私にとっても充分に刺激的内容でありました。

自分に即して考えるなら、私は現在46歳ですから、あと15から20年間はどこかで働き続けることになります。私はどちらかといえば旧世代に属しますから、梅田氏の言うように見事に大組織適応性を高めてサバイバルしてきたわけです。ちなみにP.93の7つの設問は幾つかの部位を除いてかなり合致します。これからもその傾向を強化することはあっても変えることはないでしょう。また私と同じ組織で働くパートナー(あえて、上司とか部下とか同僚とか定義せず)にも、同じ資質を求めるでしょう。しかし、ネットの重要性については、仕事にどこまで利用しているか否かは別としても今更なことです。

梅田氏が主張するのことで、最も引っかかったことは「好き」ということをとことん突き詰めるということ、そのことです。「好き」なことをやって飯を食えるようになる。そのためにはどうするか、ということなのですが、彼は徹底的な思考実験にも似た事を繰り返しながら追求することが必要だと書いています。それを彼は「ロールモデル思考法」として説明します。これは単に誰々のようになりたいとか、誰々のような生活がしたいとかの曖昧なものではありません。

自分の内から湧き出てくる何かが具体的にみえずとも、「ある対象に惹かれた」という直感にこだわり、その対象をロールモデルとして外部に設定する。そしてなぜ自分がその対象に惹かれたのかを考え続ける。それを繰り返していくと、たくさんのロールモデルを発見することが、すなわち自分を見つけることなのだとわかってくる。自分の志向性について曖昧だったことが、多様なロールモデルの総体として、外部の世界からはっきりとした形で顕れてくる。(P.120)

このロールモデルは一回やったら終わりではなく、行動と新しい情報により、次々に消費し再構築してゆくものだと梅田氏は言います。その中で、自らをコモディティ化しないようにロールモデルの引き出しを少しずつ増やす努力をしていったという戦略は見事です。

私は、今まではどちらかといえば「好きこと」よりも「やるべきこと」を選択してきました。親や世間からは「好きなこと」で飯を食うのは困難だと言い聞かされ、その道に進む人を若干斜めの目で見てたことも否定できません。しかし、現在においては、やり方次第で自分の能力に対価を払わせることは可能なのだというのが梅田氏の主張です。

これらの提言は、これからの若者にのみ当てはまる戦略ではないように思えます。多様性と流動性のもつ力、ネット社会が提供するパラダイムを、私たちとて無視することなどできません。氏の提言する内容は、最終的には個人のサバイバル戦略であり、よりよく生きるための示唆を含んでいます。それ故に自らを前向きに考える者の琴線に触れる部分があるのだと思います。

【音盤】デ・ニースのヘンデルに完敗!

これも、CLASSICAや#Credoを始めとするブログで強力にオススメ*1)だったCD。実はネットで話題になる前から買っていたのだけど、封を切る気力がなくて、やっと最近聴いてみたのです。いやはや、皆さん絶賛する訳が分かりました。まだ20歳のデ・ニースですが、若さがはちきれんばかりとでもいいましょうか。歌唱力の瑞々しさ、のびやかさ、躍動感、これは惹かれますね、まさに現代的な表現というのでしょう。

handel arias/Danielle de Niese
Danielle de Niese(s)、Les Arts Florissants・William Christie
DECCA 475 8746

ラメントな歌を歌っても、どこか明るさを感じます。同じヘンデルを歌ってもコジェナーのような「暗い情念」とは無縁です。これ程の明るさや突き抜け感はどこから生じるのかと思って調べてみますと、スリランカとオランダの血筋でオーストラリアに生まれ、国内で多くのコンクールに入賞した後,ロスアンジェルスに移り,15歳でロスアンジェルス歌劇場でプロデビュー*2)なのだそうです。

ライナーによりますと、両親は彼女の音楽的才能を伸ばすため6歳の頃からピアノ、歌、ダンスのレッスンを学ばせたようです。歌手としてのキャリアも若くして(ってまだ二十歳だって!)積んでいて、13歳にしてタングルウッド音楽祭に参加したのは最年少記録というとらしいです。

歌とともにダンスの才能もあり、彼女のインストラクターはダンスに専念するように言ったそうですが、彼女は歌を選んだようです。

"but singing has always been my main focus, the thing I get the most joy out of. It's the ultimate way I can express myself"

そうなんですね、この歌に対する彼女の愛情が、このアルバムからは溢れだしていて、それが聴くものをとことん圧倒してしまうのでしょう。彼女のダンスの才能が、ヴィヴィッドな躍動感として歌にあらわれているというのは私の思い込みかもしれませんが、コケティッシュにしてリズミカルに跳ねる彼女の姿が目に浮かぶようです。

というのも、kimataさんが紹介されていたDeccaの映像も良いのですが、ためしに、彼女を一躍有名にした'Giulio Cesare in Egitto'(2005年グラインドボーン)のYou Tubeの映像を観てください。

何と言っても、この小気味良い動き、猫のように軽いステップ、チャーミングな首の振り方! たった1分ちょっとの映像を何度観たことでしょう。同じ舞台での以下も必見でしょうか。

なんと優雅な動きでしょう。歌いながら、こんなに細やかな表現をするとは・・・! どちらも共演はサラ・コロニーのようです。

そんなデ・ニースの本アルバムは、得意のヘンデルのアリアから彼女自らヒロインの曲を集めたようです。

"I picked a lot of strong heroines who sing the strongest melodic and dramatic music possible, while also looking for intelligent characters in some of the lesser-known Handel operas"

という具合にして衝撃的にして必殺ビームを照射する本アルバム、必聴かと。内容に入る前に力尽きました! 顔立ちは私好みではありませんが、彼女の才能と歌唱力に撃沈です*3)。

◇

  1. ダニエル・デ・ニースのヘンデルに言及したブログ。他にもありそうですが、当面はこのくらい抑えておけばよろしいかと。

    CLASSICA
    #Credo
    Classical CD Information & Reviews
    おやぢの部屋2 ここではニースに関する話題がいくつか散見されます。http://jurassic.exblog.jp/4194020/←こことか。
    CLACLA日記
  2. 'Classical CD Information & Reviews'から引用
  3. 顔で歌を聴くわけぢゃありませんから。にしても、「情念」よりも「若さ」に惹かれるとは、やれやれぢゃわい・・・

2007年12月23日日曜日

【本棚】小川洋子:まぶた ほか

『薬指の標本』の独特の世界に惹かれ、標題作が収録されている短編集を読んでみました。やはり彼女の独特の静謐な、透明な世界は健在です。そして作品に通底する、いとおしさとか、生とか死のありよう、あるいは偏執的なフェティシズムを感じ取ることができます。

本作には8つの短編が収められています。作品の雰囲気によって大きく二つに分けられるように思えますので、それぞれについて少しだけ感想を書いてみます。

第一群は、『飛行機で眠るのは難しい』『中国野菜の育て方』『詩人の卵巣』『リンデンバウム通りの双子』。そして第二群は『まぶた』『お料理教室』『匂いの収集』『バックストローク』としてみました。

第一群の作品は、人生における、言葉には出来ない「いとおしさ」とか「はかなさ」そして「生きる強さ」みたいなものを感じ取ることができます。作中人物たちは、何かを相手に提示せざるを得ず、それを受け取った者は、何か大切なものを引き受けます。提示されるものは一応に「死」の匂いがします。しかし受け取った者はには、ひそやかだけども確かな「生の光」が芽生えます。

ここら当のことを堀江敏幸さんは文庫本解説で「小さな死の塊」、かすかな命の影、あるいは死とひきかえでなければ得られない体温のありかと表現しています。あまりにも的確な表現で、付け加えることがありません。それらは、ガンガンと主張するようなものではなく、ひっそりと、当人同士にしか分からないやり方、あるいは呼吸や触れ合いを通して、直接的にしか伝わらないもののようです。それゆえに秘めやかで、壊れやすく感じるのでしょうか。

第二群の作品は、より肉体性を感じる作品です。生と死の匂いはここでも健在で、かつフェティシズム的な雰囲気や、乾いたエロティシズム、あるいは、矢張りなのですが過去とか死の匂いを感じます。『匂いの収集』は『薬指の標本』にも繋がるホラーさえ感じる作品になっています。ちょっと滑稽で奇妙な『お料理教室』も、背反するものを未分化なままに提示しているように思えます。

『バックストローク』では、主人公はアウシュビッツを訪れたところから回想を始めています。アウシュビッツそのものが本作のテーマではありませんが、小川氏は中学時代に読んだ「アンネの日記」に大きな影響を受けていると言いますし、アウシュビッツにも興味を持っているようです。死者から生きている者が何を汲み取るのか、ということは彼女の大きなテーマなのであろうと思います。彼女が肉体やその一部に(決て生々しい肉体や息遣いではなく)拘るのは、自己と他者を、あるいは生と死をつなぐインターフェースとして身体を捉えているからかもしれません。

そういう意味からは、便宜的に作品を二つのカテゴリーに分けましたが、改めて考えると意味はなさそうです。 しかし・・・万人受けはしませんね、こういう作品群は。

2007年12月22日土曜日

【音盤】やっとコジェナーのヘンデルを聴いてみました

古楽系ブログで今年随分と話題になったヘンデル、そして、一部で評判の分かれるコジェナーのヘンデル・アリア集を、やっと、そしてボチボチ聴いています。ヘンデルもコジェナーも私には全く未開拓分野ですから、とやかく言うことはできません。コジェナーの唄い方がヘンデルに合っているのかという問題もありますが、彼女の古楽に対するアプローチとともに、聴き逃すことのできない盤と言えます。


 Ah! mio cor/HANDEL ARIAS
Magdalena Kozena(ms)、Venice Baroque Orchestra Andrea Marcon
ARCHIVE 477 9547



ライナーを読みますと、コジェナーはヘンデルに現代にも通ずる人間の心理とドラマを読み取っており、劇中の人物の情感を的確に表現するために、あざといまでの歌唱力を駆使しているようです。収録曲のタイトルを眺めるだけで、ちょっと凄いですよ。

  1. 歌劇「アルチーナ」~ああ、我が心よ! お前は踏みにじられた!
  2. オラトリオ「ヘラクレス」~どこへ逃げたらよいの?
  3. 歌劇「アグリッピーナ」~ああ、不安が迫り来る
  4. 歌劇「エジプトのジュリオ・チェーザレ」~希望がこの心を照らしつつある
  5. オラトリオ「ヨシュア」~ああ!もし私にジュバルの竪琴があれば
  6. 歌劇「アリオダンテ」~不貞の女め、情夫の胸に戯れるがいい
  7. オラトリオ「テオドーラ」~眩しき太陽よ―深き闇よ
  8. 歌劇「ガリアのアマディージ」~苛烈なる地獄より呼び出さん
  9. 歌劇「オルランド」~ああ、地獄の妖怪め! ― 冥府の番犬ケルベロスが ― 美しい瞳よ、どうか泣かないでおくれ
  10. 歌劇「アリオダンテ」~暗く不幸な夜のあとには
  11. 歌劇「リナルド」~私を泣くがままにさせて

彼女の過剰さが話題となった*1)、たとえば9曲目の「Orlando」での歌唱、あるいは2曲目の「Hercules」で演ずるDejaniraの表現。どちらも狂気を身にまとった女性の、引き裂かれんばかりの心情が、凄まじいばかりに迫ってきます。これは確かにバロックの表現を越えているのではと感じる部分です。しかし、バロックがおとなしく神聖で美しいばかりの音楽であったというのは、私のような不勉強な者の勝手な思い込みかもしれないのです。

コジェナーがMarc Minkowskiと仕事をしているときにuglyに歌うことの効果を学んだと言います。

Baroque music is not all about beauty; sometimes you need a sound that may be not so lovely yet says so much more about the text, and particularly the character's madness at that moment.

��曲目の「Alcina」からの女王Alcinaの嘆きも真に迫ってきます。まさに女神のように振舞っていたAlcinaが、人生において初めて恋に落ちた心情を歌っています。この歌をブラインドで聴いてヘンデルの作であると、バロックに詳しくない人が特定できるでしょうか。あるいは伴奏がバロック・オーケストラから現代のものに変ったとしたらどうでしょう。

These are special moments which everyone can find deep in their own experience.

それほどまでにヘンデルの音楽は豊穣であり、そして、それを歌うコジェナーの表現は、「ある意味において」的確だといえます。ただ、ただ、コジェナーのパワーに圧倒されっぱなしです(失笑)。

ヘンデルのアリアは長くて眠くなるという印象がありましたが、ヴィヴァルディのそれに負けず劣らずに技巧的な曲もあり、また、ラストの有名な曲を始めとして、信じられないくらいに美しい曲も収録されており、ヘンデルのアリアは確かにバロック歌手やバロックファンにとって至宝であるなと思った次第です。 もっとも、心情が大切だからと、歌詞の対訳を調べ劇の背景を調べてアリアの意味づけを行う程には、今はパワーがありません・・・。

こういうヘンデルに対して、ブログ「庭は夏のひざかり」のSonnenfleckさんは下記のように書いています。

このアリアに限らずあんまりヘンデルや古楽を聴いてる実感がないのがこのアルバムの特徴で、最強の個性派女優としてのコジェナーが前面に押し出されて来、彼女のスタイルによる何か新ジャンルのうたを聴かせてもらってる感じ

他に例えるとすると、「バルトリの歌うヴィヴァルディ」みたいなものなんでしょうか。私にはそこのところがまだ判断つきません。もう少しヘンデルのアリアを聴いてみる必要がありそうです。

◇

  1. コジェナー、ヘンデルで見つけたエントリ
    おやぢの部屋2
    庭は夏の日ざかり
    ぶらぶら、巡り歩き

2007年12月10日月曜日

【本棚】小川洋子:薬指の標本

小川洋子という作家の作品が映画化もされ話題になっていることは知っていました。しかし積極的に読みたいリストには入ってはいませんでした。日経新聞夕刊で12月3日から「人間発見」という企画で『物語の森の観察者』と題する彼女とのインタビュー記事が5回にわたって連載され、記事を読んでみたところ、作品にも興味を持ちました。

小学校の頃は体も小さく、色々なことがみんなと一緒にできず、図書館だけは楽しかったという少女が大人になって。小説を書き始めた頃は最も重要なのは自分自身だったということ。一番知りたいのは自分で、それが最も深い闇だったと自覚していた彼女。彼女の創作はどこに飛翔したのかと。
◇

最初に読んだのが、代表作の一つである『薬指の標本』。評判とおり透明で静謐な作品です。どこかを突付くと、そこからこなごなに壊れてしまいそうなくらいに繊細で、微妙なバランスで保たれた世界。ディテールはリアルでありながら全く現実離れしています。標本を作ってもらうということと、それを作るということ。

「封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。繰り返し思い出し、懐かしむための品物を持ってくる人はいないんです。」

と説明する標本技師。彼は地下室で標本つくりに没頭し、それを保管し続けます。「標本」にして所有するということとは。主人公である彼女は、標本技師に抱かれながら問いかけられます。

「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」

その二人が、標本技師が彼女にプレゼントした靴をキーとしながら、秘められた関係性に陥っていきます。

「これからは、毎日その靴をはいてほしい」
彼女に、あまりにぴったり過ぎる靴。靴が彼女の足を侵食する。その束縛と解放がないまぜとなって、秘められたエクスタシーにまで昇華されてゆきます。
「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」

「標本」とは、いわば部分と時間を閉じ込めた小世界。その中に収められたモノは永遠に残ったとしても、それを包括していた全体としての存在は消えているということ。存在の消失と永続性、フェティシズムと乾いたエロティシズム。束縛されることで自己を解放するというアンビバレンツな衝動、むしろエロスよりはタナトスか。非常に雰囲気と香りを伴ったフランス人好みの作品かもしれません。

◇

文庫に収められている、もうひとつの『六角形の小部屋』という作品も、『薬指の標本』に劣らずに不思議な小説です。しかし、ここでも語られるのは主人公の心、そして束縛と解放。

どちらも、ひたすら自己の内面に静かに降りて行くような作品。自分の心の井戸の底に何が沈んでいるのか、当の自分にも分からない、井戸の底にチラリと見えた水面がどんな色をしているのか。その水は透き通っているのか、はたまた黒く濁っているのか、毒なのか。

小川氏の小説は始めて読みましたが、この静謐さや幻想性は非常に儚い。性的な描写も女性の視点のそれだし、まるで少女の夢想した世界のよう。まだ彼女の作品は短編ニ作のみ、誤読している可能性はありますが、続けて幾つか読みたいと思わせる作家でもあります。

2007年12月3日月曜日

【本棚】村上龍:半島を出よ

村上龍の「半島を出よ」を読みました。発刊時に随分と話題になりましたし、アマゾンのレビュ数も多い。日本を舞台にした近未来小説であり、過激なエンタテイメントであり、かつ村上氏らしい問題提起になった小説です。膨大な資料から着想を得ての作品つくりは、小説も企画と組織力による企業活動に近いと思わせます。活字密度と、内容の綿密なプロットとディテールから、硬派な小説のイメージですが、そこは村上氏、物語としての面白さの方がウェイトが大きい。それが本書の良い所でもあり、欠点でもあるかなと。

「あとがき」にもあるように、『13歳のハローワーク』チームを中心として取材や資料手配を行ったらしく、協力者が幻冬舎の石原正康常務、日野淳氏、岩垣良子氏、篠原一郎氏というのですから。まさに小説のイシハラグループではないですか。

物語は壮大で一気に読ませます。しかし問題提起の割にはラストが安直で、「最後の家族」や「希望の国のエクソダス」ほかにも通ずる願望的楽観主義を感じます。と、ここまで書いて、ちょうど6年前に読んだ「最後の家族」の感想を読み返してみました(普通は滅多に自分の感想など読み返しませんが)。

村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。
自分で言うのもなんですが、これはそのまま「半島を出よ」に当てはまりますね、というかテーマに関しては付け加えることがない。繰り返しはしませんが「自立」ということに関しても村上氏のスタンスは全く変わりません。特にイシハラグループのモチベーションとありようは印象的です。

日本の経済的衰退と国際的な地位の低下という状況、政治の機能不全、国民の平和ボケ、それらがもたらす悲劇的な日本の未来は、今はまだ小説ほど酷くはないものの、確実に日本の現況を言い当てています。日本の状況は6年前よりも悲観的なカンジがするくらいです。

「半島を出よ」とは、北朝鮮人のことではなく、日本人が中国大陸の半島の一部であると見立てて、日本人に向けて放たれた強烈な一語であるようにも思えます。

私はこの作品のどこが好きかといわれれば、間違いなくラストとなりましょうか。中学二年のイワガキが学校や家族に馴染めないでいる中、イシハラたちに出会う。そこでイワガキは彼らが集まる倉庫で、何も話さずにソファにただ座って時を過ごしている四人に会う。

だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。
ワガキは邪魔をしているような気になって帰ることにする。明日も来て良いかとの問いに、イシハラは答える。
「それは、お前の自由だ」
息苦しく絶望的描写も多い本小説において、ここだけは、ある種の解放と、限りない平和が漂う部分です。

2007年11月19日月曜日

【音盤】ブラームス:交響曲第4番/クナツパーブッシュ&ケルン放送響

  1. 第一楽章 Allegor non troppo 12'51
  2. 第ニ楽章 Andante moderato 11'41
  3. 第三楽章 Allegro giocoso 6'55
  4. 第四楽章 Allegro energico e passionato 9'53
  • Hans Knappertsbusch(cond)
    Ko"lner Rundfunk-Symphonieorchester
  • 1953.5.8
  • C723071B

クナツパーブッシュのブラームス4番がORFEOから発売になっていました。クナのブラ4の録音は1952年のブレーメン・フィルとのものと、本盤1953年のケルン放送響の2種類があるらしく、これは後者の版。詳しくはSyuzo's Homepageの「クナを聴く」を参照されるのが良い。

というか、syuzoさんのレビュ以上のことは書けないのですが、とにもかくにも、このブラ4には心底たまげました。syuzoさんも第1楽章だけで満腹してしまうような演奏と書かれているように、第一楽章から重心は低く、凄まじい音楽が鳴っています。

特に、驚いたというか、ブチのめされたのは何と第二楽章。これ程の第二楽章を、かつて聴いたことがありません。分厚いというのでは言足りない度厚さ。そこに漂う一瞬恐怖さえ感じるほどの迫力。それに反する、チェロが歌う劇的なまでの浪漫と美しさと哀しさ。楽章終わり(8'10)近くでの弦楽合奏の恰幅たるメロディの素晴らしさ。ブラ4の第二楽章から、これ程の音楽を引き出せるものとは。

そのままの迫力で始まる第三楽章冒頭では肝を潰します。巨大な質量を持った音塊を硬質な壁にグシャリとぶつけたような音。粗く朴訥であり、そして半ばヤケではないかとさえ思える金管の音。皮が、いや底が抜けるのではないかという打楽器の強打。これらには背筋が寒くなる思いを感じながらも、それら全てが渾然となって、ある説得力を持って迫ってきます。重い演奏です、粗いといえば粗い。しかし、ピアニッシモからフォルテッシモまで、実は巧みにコントロールされています。小細工は一切なく、言葉を越えた音楽が身体を蹂躙します。

終楽章は痛いほどの音楽が鳴り響きます、悲劇的な英雄の肖像でしょうか。syuzoさんが闘争的音楽と評したのには同意します。戦い前の内なる闘争心を全身に漲らせ、その暗いエネルギーを一体にどこに放散させようとしているのでしょう。しかし、この演奏のフィナーレに解放と解決はありません。

かのグスタフ・マーラーは、この曲を「空っぽな音の桟敷」と評しました、相変わらず作曲当時は評判がよろしくなかったようです。クナはそこに、恐ろしいほどの密度で、かつて聴いたことのないほどのエネルギーを注ぎ込んだように思えます。この熱情は何によるのか、まともでは受け止め切れません。

2007年11月10日土曜日

【音盤】ついでにラトル&ツィマーマンのブラームスPコン1番を聴いてみる

ブラームスのピアノ協奏曲といえば、ラトルとツィマーマンがCD棚にありました。2005年発売で、以前感想を書いていたと思ったのに何も記していなかったようです。改めて簡単なインプレッションなどを。


ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
ツィマーマン(p) ラトル(cond) ベルリンpo 2003
00289 477 6021

ツィマーマンにとっては1984年のバーンスタインとの演奏以来実に20年ぶりの演奏です。ライナーによりますと前回は万全の録音とは言えなかったようです。楽器は運送の事故で、とてもブラームスに適したとはいえない楽器となり、しかもビデオ録音のため各種機材の溢れかえったホールは、音響的にも悪影響であったのですとか。

"For the recording of the First Piano Concerto I was unable to get the instrument I wanted, as the van that was supposed to bring the piano from Italy was involved in an accident. The instrument that was finally placed at my diposal may well have been good for Mozart, but not for Brahms."

ツィマーマンの侮恨が伺えるコメントです。今回のレコーディングについて何を考えるかとの問いに対しては、

"Every recording documents a single moment."

と言い切る彼ですが、相当の思い入れで本録音に取り組んだことは確かなようです。当然自ら調整した"his own piano"を持ち込んでの演奏です。80以上の異なる演奏を聴き比べ、テンポ設定の研究も行ったのですとか。

"By this I dont't mean a metronomic tempo;rather,it's something subjective,something that I might call the psychological perception of a tempo."
"Everything must cerate the impression of a uniform flow."

そういう点から、非常に気合の入った演奏が聴かれます。アマゾンとかHMVのレビュでもカスタマーズ・レビュ絶賛されているようです。バックのベルリン・フィルはオケの精度も良く、確かに現在望みうる最高の演奏だと言えるかもしれません。

ラトルは相変わらずティンパニを際立たせた、ハリのある演奏に仕上げています。ホールの響きも良くバランスも良いです。ピアノは激しいところでも決して濁らずに際立ち、それでいて凄まじく、弱音部の音色も鮮やかにして美しい。ラトルの指揮下というせいもあるのか、演奏は洗練されており、ガッチリとした骨格を示し、タフであり、ベタさはありません。第二楽章冒頭のオーケストレーションなどは映画音楽!のように美しい。反してツィマーマンのピアノは、少々くぐもり内省的な響きを聴かせます。ブラームスの憂愁というより、もっと現代的なリリカルさを感じる部分です。終楽章の炸裂も鮮やかの一言。

さて、それでは、この演奏の感想が最上かと言えば、何度この演奏を聴いても心情に訴えてこないというか、ある線より上には響かない。いや、とても、とても素晴らしい演奏です、生で聴いたら、おそらくぶっ飛ぶと思いますよ。しかし、何でしょうね、このモノ足りなさは、私が古い人間なんでしょうか。

2007年11月9日金曜日

【音盤】ベルマンの「悲愴」を聴いてみたが

ベルマンの演奏は、ロシアン・ピアニズムの継承者などと称されています。「ロシア・ピアニズム」という本もありましたが、では一体にその本質は何かといったら、私のようなトーシローには漠たるイメージしかありません。

ロシアン・ピアニズムとは何かという点についてのネット上の知識といえば、「おかか1968」ダイアリーで2006年から不定期連載された『【不定期連載】全く役に立たないロシアピアニズム・ガイド*1)』が一番詳しいのかなァなどと思いながら、ラザール・ベルマンが弾くベートーベンのピアノ・ソナタ第8番を聴いたりしています。(ブラームスのカップリングだったから)

ベルマンのベートーベンはあまり俎上にのぼらないようですが、この演奏も清冽なテンションがピンと張り詰めた好演であると思います。第一楽章は激烈な音楽でさえありますが、ゆるぎないテクニックとそれをベースにしたドライブ感に、冷ややかさと計算を感じます。第二楽章のカンタービレも甘すぎない。第三楽章冒頭のフレーズの出だしはあまりに美しく、乾いた冷たい粉雪がサッとばかりに舞うかのよう。だんだんとそれが吹雪になっていき、最後の打鍵はダンッとばかりに強烈。カーネギーの割れんばかりの拍手にも納得。続けて4度も聴いてしまった・・・。

ベルマンといえば、リストとかラフマニノフとかチャイコフスキーのバリバリな演奏が有名なようです。実は全く未聴なそれらの演奏も、聴いてみたいと思わせるのでした。




ブラームス:ピアノ協奏曲第1番

ラザール・ベルマン(p) ラインスドルフ(cond) シカゴ響 1979

ベートーベン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」

ラザール・ベルマン(p) 1979 カーネギー・ホール・ライブ

SICC 824


◇

  1. 参照URL→http://okaka1968.cocolog-nifty.com/1968/2006/08/post_c30c.html

2007年11月6日火曜日

【音盤】秋ということでブラームスPコン1番を聴いてみる

秋になり、活動も書き込みも低調になりがち。そういうときは秋らしくブラームスでも聴きたいという気になってきます。11月4日響アワーではエレーヌ・グリモーのピアノによるピアノ協奏曲第1番の1楽章が放映されました。指揮はアシュケナージで、貧弱なTVのスピーカーを通しても結構な熱演と聴こえ、第一楽章が終わって拍手が生じるというのは、いかにもアメリカ的であるなァと思ったものです。

私のCD棚にはブラームスPコンのラインナップがほとんどありませんので、池袋HMVに行ってSONYの廉価版シリーズから標記の盤を購入して数度聴いてみました。リファレンスと言えるほどの盤がないので、とやかく書くこともないのですが、この曲は改めて名曲だなとの感を新たにしました。

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
ラザール・ベルマン(p) ラインスドルフ(cond) シカゴ響 1979
ベートーベン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
ラザール・ベルマン(p) 1979 カーネギー・ホール・ライブ
SICC 824

曲は1958年、ブラームス25歳の作。曲が出来るまでには紆余曲折があったのは有名なハナシ。無骨なところもありますが、この曲に込められた多くの感情と抒情と激情は聴いていて飽きることがありません。20分近くもある第一楽章はやっぱり圧巻で、オケと張り合うかのようなピアノの強打と流れるような旋律はまさにブラームス。展開部の前に現れるホルンの音色などはライン河の流れる風景を彷彿とさせてくれます、勝手な解釈ですけどね。

ベルマンはロシアン・ピアニズムの継承者としてリストやラフマニノフで有名ですが、本盤のブラームスでも彼の鍵盤は冴えているようです。抒情に傾きすぎずに旋律を歌い上げるところは好ましくウェットに流れないのはベルマンの特質なんでしょうか。聴き疲れはなく、よい意味で繰り返し安心して聴ける演奏です(実際買ってから5度くらい聴いた)。

ベルマンのピアノをYou Tubeでいくつか検索してみると、ラフマニノフやリストの作品をいくつか聴くことができます。これはこれで、素晴らしいですね。

2007年11月5日月曜日

N響に高木綾子さんが!

11月4日(日)のN響アワーは『ブラームス・ふたつの第1番』と称して、ピアノ協奏曲第一番 第一楽章と交響曲第一番 第一楽章と第四楽章が放映されました。後半の交響曲においてN響の首席フルート奏者をつとめたのが、このごろ活動の幅を更に広げている高木綾子さんでした。

いつもは自前のドレスなどで華やかな衣装ですが、最近短くカットされた髪に黒のオケ服も映え、それはそれは・・・。

え?N響の演奏?それは安定感あって、いかにもでしたかね。

2007年10月27日土曜日

曽根麻矢子チェンバロ・コンサート~高木綾子のフルートと共に~

ずいぶん前(10月14日)のことになってしまいましたが、コンサートの感想を書いておきます。
◇

神奈川県区民センター(かなっくホール)で開催された、曽根麻矢子さんのチェンバロコンサートに行ってきました。あくまでも高木さんは「ゲスト出演」ですが、私の場合は目当ては高木さんのフルートでありました。しかし曽根さんのチェンバロも悪かろうはずもありません。


    第一部(チェンバロ・ソロ) 
  1. ラモー:クラヴサン曲集 より「ミューズたちの対話」 
  2. クープラン:クラヴサン曲集 第14オルドルより「恋のうぐいす」 
  3. ラモー:クラヴサン曲集より「一つ目の巨人(ロンドー)」 
  4. J.S.バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825
    第二部(デュオ、フルートソロ)  
  5. ヘンデル:15のソナタ Op.1 より第4番 イ短調 
  6. ヴィヴァルディ:フルート・ソナタ ト短調 Op.13-6  
  7. ドビュッシー:シランクス 
  8. J.S.バッハ:フルートとハープシコードのためのソナタ ロ短調 BWV1030

  • 日時:2007年10月14日(日) 14:00~
  • 会場:かなっくホール
  • 曽根麻矢子(チェンバロ) ゲスト:高木綾子(フルート)
  • チェンバロ:David Ley 1977年製作のフレンチDUMONT1707年モデル

第一部は曽根さんの即興的なトークも含めリラックスして楽しめる演奏会でした。特に、一曲目が終わった後は、客席の十数名を舞台に上げ、チェンバロの傍で「恋のうぐいす」を聴かせてあげるなど、堅苦しく音楽を聴かなくてもいいんだよとでも言いたげな企画でありました。

曲目としては、しっかりとチェンバロでバロックを満喫したいという向きには、多少食い足りないところは残ったかとは思います。高木さん目当ての私でさえ、もっと弾いて欲しかったと思ったくらいですし。それでも、ラモーが生で聴けたからよかったかな。

第二部は高木さんをゲストに迎えての演奏です。高木さんの音色はいつ聴いても「ウげっ!」とばかりに驚いてしまいます。かなっくホールは300席程度でフルートには丁度良い大きさなんでしょうか。彼女が最初の一音を奏でた時に、一体どこから音が出ているのだろうと思わせるほどに、ホール全体が響きます。音の深みとまろやかさは一層に円熟味を増したかのよう。それに呼吸法のうまさでしょうか、息継ぎが自然でワンフレーズが恐ろしく長い。それゆえに、旋律の連続性がはっきりと伝わってくる。さすがと言いますか、貫禄といいますか。

途中にソロでドビュッシーの「シランクス」が奏されました。チェンバロとバロック音楽を主体とした曲目には、いささか不釣合いな感は否めないものの、彼女の「シランクス」が聴けたのは儲けものといえましょう。それ以外の曲も、フルート・ファンには馴染みの曲ばかりで、楽しむことができました。彼女の演奏には、ときどき高木節とでもいうような癖を感じることもあるのですが、これも彼女の演奏の味でしょうか、よしとしましょう。

アンコールは曽根さんのチェンバロ・ソロ。「ゲストというのに、随分演奏してもらいましたから、アンコールはチェンバロを弾かせてください」みたいなことをおっしゃってから2曲ほど披露。最後の曲は、最近パリで録音したばかりの平均律から。

曽根さんと高木さんのデュオは1年に二度ほどやりたいとのこと、次回は来年3月頃に計画ですとか、楽しみが増えますね。

今日は東神奈川という場所がらか、300席の客席にも空席が目立ちました。知名度抜群の彼女ら二人をしても、神奈川では満席が難しいというのは、かなっくホールの宣伝の下手さなのか、あるいは、それが音楽事情なのか。
 


2007年10月15日月曜日

三遊亭円朝作:怪談 牡丹燈籠 岩波文庫

ということで、歌舞伎を観た(→clala)ついでに三遊亭円朝(1839-1900)の『牡丹燈籠』を読んでみました。人情話に長じた円朝が中国は明の『牡丹燈記』から着想を得て、それに天保年間牛込の旗本で起こった事件を加えて創作したお話し。円朝の高座での話を速記でしたためたもので、この時代の作なれども言文一致の見事な作品に仕上がっていることにまず驚嘆します。

円朝の講談での流れるような台詞回しがそのまま写し取られているかのようなリズムと流れの良さ。それに人物の台詞の言い回しの妙。どこを読んでも味わい深く面白い。

しかも、物語は歌舞伎の劇よりもはるかに深く、「忠」「義」「孝」など、いかにも江戸時代的なテーマが横たわる仇討ちの物語になっています。円朝作の原本の真の(?)主人公は、お峰や伴蔵などではなく、実は歌舞伎には登場しない若者であったりします。かといって、お峰、伴蔵、お国、源次郎などのかげが薄くなることはまったくなく、よくぞ彼らのしぶとい生き様を活写したものであります。

『怪談』とあり、確かにかの有名な幽霊も登場しますが、幽霊以上に恐ろしいのは人間の方でございまして、恐るべき因縁と業が絡まり合います。色や欲に溺れ、裏切りと殺しが続き、そこに自己犠牲と忠義が加わり、様々な物語が錯綜しつつ最後は一本の糸に繋がり感動の大団円へと進むのあります。(ご都合主義などと言ってはいけない)

お峰が死んだ後も話しは続くのですが、御母堂登場後のシーンなど、涙なしに読むことはできませぬ(;_;)余程日本人はこのような仇討ち話が好きなのであるなと思わざるを得ないのでありました。

歌舞伎との筋の違いを書き立てても、両者は全く別物に仕上がっていますから何のタシにもなりません。歌舞伎の方も、あれはあれで見事な着眼点と演出になっています。それでも、ふたつだけ書くとするならば、伴蔵は円朝作では大した悪党として描かれていることと、お露の幽霊にサプライズが用意されていることでしょうか。ご興味のある方は一読を。

2007年10月14日日曜日

歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎 夜の部 怪談 牡丹燈籠

久しぶりに歌舞伎を観てきました。歌舞伎座で上演中の夜の部、三遊亭円朝原作の通し狂言『怪談 牡丹燈籠』です。歌舞伎の『牡丹燈籠』は河竹新七版と文学座版の二種類があるそうですが、今回は後者のもの。74年初演、大西信行脚色・戌井市郎演出によるものです。伴蔵が仁左衛門、お峰が玉三郎という組み合わせ。なんでもう秋だっていうのに、怪談なんだろうとは思いますが、まあよしとしましょう。

前半は恋焦がれた新三郎を幽霊になったお露が憑き殺してしまうところまで、後半はお国と源三郎、お峰の末路まで。仁左衛門と玉三郎という話題の組み合わせですから、前評判や人気も上々。休日は安い3階席は空いていません。幕見席に久しぶりに並んで、狂言のみの観劇としました。

ただし、幕見席というのは、やはり通(つう)の席だなと改めて思いましたよ。最初は、お米やお露の声が聞き取りにくく、何を言っているのかさっぱり、芝居にのめり込めない。4階の幕見席からでは役者たちの細かな所作までは全く分からないんです。

それでも台詞回しはほとんど口語ですから筋が分からないということはない。有名な怪談話が気のきいた欲得まみれの夫婦劇になっています。特に玉三郎演ずるお峰がいいです。芝居は喜劇調で妙に玉三郎の演技がツボにハマっています。伴蔵が幽霊を見たという話を、怖がりながらも「聞きたーい」と言う所、幽霊からもらった百両を震える両手で数えるところ、そして「チュウ、チュウ、タコ、カイ、ナ~」。わざとらしさも感じますが、ここは素直に笑った方が得。

それでも見所は、馬子久蔵(三津五郎)をとっつかまえて、伴蔵の浮気を吐かせ、そして酔って返る伴蔵に浮気を詰め寄るシーンでしょうか。ここの玉三郎は歌舞伎というよりも現代ドラマを演じているかのよう。それだけに、これが歌舞伎か?と違和感もないわけではありませんが、やはりこれも歌舞伎。そして芝居として面白い。

玉三郎については、渡辺保氏が今月の劇評(→こちら)に以下のように書いています。

玉三郎は結局新七本よりも大西本のほうがその芸風に合っているのかもしれない。そこに玉三郎の女形としての特徴と現代性があるのだろう。これは「玉三郎論」の重要なデータである。

玉三郎の現代性ですか、成る程、よくわかんないけど。

お米演ずる吉之丞の幽霊姿は、近くで見るとかなりサマになっていたとの感想もありますが、これは全く確認できず。近場で観れなくてやっぱり残念です。ラストの「殺し場」は、お国と源次郎、伴蔵とお峰と続きます。いかにも歌舞伎的な「殺し場」ですが、伴蔵とお峰の場面は演出が過ぎましたか、雷鳴は不要なように思えます。ここは、しっかり二人の芝居を観たいところ。こずるいところもあったけれど、哀れな女です、お峰は。

本芝居は、三遊亭円朝の通し狂言が元になっていますので、2回ほど三津五郎が高座の円朝を演じて物語をします。なかなか楽しめる演出ではありましたか。やっぱり、久しぶりに観ても歌舞伎は面白いですね。


2007年10月12日金曜日

モネ損傷事件 さらに続報


モネ損傷事件の続報を追っています。全く個人的な興味です、今後も同様のことを続けるつもりはありません。


さて、若者5名(4名?)が起訴される方向のようです。うち1名は空調会社社員で、美術館への進入方法が分かっていたようです。


事件は本当に予め意図したものではなかったようです。APによりますと、5人は深夜に美術館に忍び込み、警報が鳴り響き驚いて逃げるところを、一人が絵にパンチをくらわせたとのこと。犯行はビデオカメラに収められていました。



The intruders wandered around the museum's ground floor, where the Monet painting was hanging, until an alarm sounded. Before fleeing, one of them punched the painting, officials said.


警報が鳴るまでウロウロしてたっていうんですから、おおかた酔っ払ってウダ話でもしていたんでしょうね。名画のかかっているギャラリーを歩きながら!>なんてウラヤ★シイ!


彼らはフランス刑法でいうところの、"damaging on object of public usefulness"で起訴(preliminary charge)されるとのこと。


Under French law, preliminary charges mean that the investigating magistrates have determined there is strong evidence to suggest involvement in a crime. It gives the magistrates time to pursue their probe before they decide whether to send the suspects for trial or drop the case.


主犯格の男性の罪は3年の懲役と45,000ユーロ(64,000USドル)の罰金だそうで、前科もないようですから、本当に今は反省していることでしょう・・・(;_;)


��月に盗まれた絵は、それにしても、どこにあるのでしょうかねえ。

2007年10月10日水曜日

モネの損傷犯が捕まったようで・・・

モネの絵画損傷の続報です。容疑者5名が捕まったようですね。以外に早い解決のようです。



One of the five being held for questioning gave himself up on Monday and told police the names of his companions after taking fright at the intense media coverage of a break-in that was captured on a security camera.(ABC News)

18~19歳の未成年らしく、お祭り騒ぎの中で酔っ払ってやってしまった、ということのようです。悪ふざけが過ぎたというか、後先を考えられなかったということでしょうか。突発的行動にしては反響が大きすぎました。修復可能で致命的な傷でなかったのが何よりです。


Police sources say statements made so far suggest the intruders had been drunk and did not premeditate the attack on the painting.(ABC News)


美術品に限らず歴史的建造物、貴重な自然など、性悪説を前提として展示あるいは存在していません。しかし、深い考えない悪意により傷つけられているのは洋の東西を問いません。とはいっても、相次ぐ美術品盗難や損傷事件の報に接すると、美術館や博物館の脆弱性が気になるところではあります。防弾ガラス+警備員に阻まれて、2m以上近寄れないというのも鑑賞スタイルとしては最悪ですけど。


Several recent incidents have raised questions over the security of works of art in French museums.(AFP)


え?音楽のサイトなのに誰も興味ないですか? この絵は高校時代から好きな絵のひとつでしたからね・・・、やっぱり気になりますでしょうに。

2007年10月9日火曜日

モネの絵がまたしても憂き目!


またしても、モネの作品が憂き目に合いました。フランスは10月7日、芸術と文化の祭典「ホワイト・ナイト(Nuit Blanche)」が開催中。同時にラグビー・ワールドカップ準々決勝で、ニュージーランドのオールブラックスから全く期待していなかった勝利を飾ったことから街はお祭り騒ぎ。酔っ払った5名(four or five people, likely four boys and a girl)がオルセー美術館に押し入り、モネの「アルジャントゥイユの橋」(今年、国立新美術館で見たばかり!→clala)をこぶしで傷つけたというのです。傷は切り裂かれたように10cmほど。修復は可能とのことです。




Five apparently drunk people broke into the Musee d’Orsay early on Sunday morning and punched a 10cm (4inch) tear in Le Pont d'Argenteuil by the Impressionist painter.


フランスの文化・通信相は破壊行為に心を痛めると同時に罰則の強化を主張してます。



It would be good a thing to increase the sanctions for (people who vandalise) a church, a museum, a monument, because they are attacking our history.


It’s always a heartbreak when an art object that is our memory, our heritage, that we love and that we are proud of is victim of a purely criminal act.



フランスは8月の盗難事件(→clala)といい、美術品関連の事件が絶えないようです。窃盗の場合は、心無い窃盗犯による仕業であったにしても、最終的には美術品に(金銭的)価値を見出しての犯行。美術作品に限らず過去の遺産や芸術作品を破損させる行為は歴史や文化遺産に対する反逆行為です。どちらも憎むべき犯罪ですが、破壊行為は許しがたく。


今回の犯罪がバカ者による度を越した悪ふざけであれば一過性のものでしょう。しかし、それが現在を生きる者の不満の捌け口として成されているのであれば問題は大きい。自分たちよりも芸術作品の方が「大事にされている」と思う気持ちが、もし仮にあるとするならば、これらの反社会的行動の根は非常に深いと言わざるをえません。フランスは移民問題とか内政は日本とは異なります。犯人の若者が、どのような者たちであるのか、事件の背景についも、注目しておきたいところです。

2007年10月6日土曜日

【本棚】山田昌弘:希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く


格差論の火付け役となった本書も文庫本化されましたので、ようやく読んでみました。

本書は、ニュー・エコノミー下の社会において、格差が「量的格差(経済的量的格差)」から、個人の努力では超えられない「質的格差(職種やライフスタイル、ステイタス)」の格差を生み、最終的に「心理的格差(希望の格差)」に繋がると捉えた点が斬新でした。現在の格差の最大の問題点は、将来に希望を持てる人と将来に絶望している人に分裂してゆくのだと。

学者は、とにかく分析が仕事です。山田氏は1957年生まれ東大卒。彼の主張するところの「パイプライン」(下図 本書P.193より転載)がうまく機能していた時代の成功者です。私を含め高度成長やオールド・エコノミーの時代に生まれた者は、将来の見込みも持たずに(持てずに)過ごす現代の一部の若者に対して根本的な疑問を持っています。自分の子供が住む日本社会に対する漠然たる不安もありますが、このままでは自分の年金が受け取れなくなるという利己的かつ現実的な不安が本音でしょうか。何故こんなことになったのか、自分たちと彼らは何が違うのかと。


そういう疑問には、本書はキッパリと明確な回答を用意してくれています。その点においては評価できる内容といえましょう。しかし、分析というのは目的があってするものです。人を納得させるための分析では、思考の遊戯でしかありません。分析結果をもとにどういうアクションを提示するのかが最も重要で、その点において本書は愚書の類と同一です。

最終章に「9 いまなにができるのか、すべきなのか」という章が設けられています。現在生じている問題は経済的格差以上に心理的格差(希望格差)であるとし、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵であると主張しています。努力すれば豊かな生活が報われる社会を実現(復活)させるために、山田氏は以下の提言をしています(P.276-282)。

  • 能力をつけたくても資力のないものには、様々な形での能力開発の機会を、そして努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みを作る → 学校システム、職業訓練システム、誰でもできる比較的単純な仕事に対して、努力してスキルをつければある程度評価されるというシステムの導入
  • 自分の能力に比べ過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策 → 過大な期待をクールダウンさせる「職業カウンセリング」をシステム化
  • 公的に(個人の)コミュニケーション能力をつけることを支援する → 自分のコミュニケーション能力のなさを自覚し、自分の理想通り(の相手)など存在しないことを経験から学ぶ
  • 収入は低くてよいからのんびり農業をやりたい、テレワークで暮らしたい、一生一人で生活したいなど、新しいライフスタイルを目指す人(中略)に対する具体的な実現支援策を用意
  • 政府がキャリアカウンセリング事業を、学校教育、生涯教育に大々的に取り組む
  • 若者にも「逆年金」制度

提言はこれだけです。こういう対策を行わなければ、若者は「希望」を持つことができず、アディクションに逃避し、さらに「エンビー型」の嫉妬心による犯罪、すなわち「不幸の道連れ」が増える可能性のあることを別箇所で指摘しています。

「エンビー型」犯罪の究極が赤木氏(→http://www7.vis.ne.jp/~t-job/)の「希望は戦争」でしょうか。ここまで書いてきて、赤木氏をはじめとしてして「フリーターを罵倒している」という論調の意味が、何となく分かってきたような気がします。分析は一面正しいのですが、何かがまた抜け落ちているのだなと。

2007年10月3日水曜日

[立読み]長野慶太:部下は育てるな! 取り替えろ!

刺激的な題名の本、書店でざっと立ち読み。買うほどの内容ではありませんが、書いてあることには首肯できる点も多い。ただし、部下を取り替えることのできるほどの実力と権限を既に持っている上司ならば、このような本を読むことはないのでは。なかなか育たない部下、あるいは期待したパフォーマンスを上げない部下に悩んでいるから、このような本を手にとるのではないでしょうか。


部下は育てるのではなく勝手に育つのを待つ、だとか、部下と分かり合おうなどと思うな、というのは、一面においては確かにそうかもしれません。パワハラ上司は別としても、最近は部下におもねる本が多すぎる気もします。全面的に賛成はしませんけどね。



2007年10月2日火曜日

展覧会:安齊重男の“私・写・録”1970-20


国立新美術館が企画・主催する初めての個展となる『安齊重男の“私・写・録(パーソナル フォト アーカイブス)”1970-20』を観てきました。安齊氏は現代美術の現場を記録してきた写真家。実は私はとりたてて現代美術にも、そして安齊氏にも興味があるわけではありません。知り合いの写真が展示されている、ということを知り、観てきた(=探してきた)次第です。

安齊が撮影した芸術家は非常に多岐にわたり、その圧倒的な数の写真群は息を飲むばかり。芸術作品を撮ったというよりは、その芸術を生み出した作家や時代を写しているといった方が正しいでしょうか。

それにしても、1970年からつい最近に至るまでの多くの作品群について、ひとつひとつを眺めると、現代美術ですから、アタマの中に?マークがいくつも浮んでしまいます。しかし、それらを総体として時代の流れとしてみたときには、何か感応できるものがあります。一見、無味乾燥な作品だったり、ぶっきらぼうな、あるいは、人をこばかにしたような作品であっても、実はその作品が生み出された作家の内実は、非常にドロドロとしており、止むに止まれず、あのような作品を生んでしまったということが、何となく伝わってきます。

写真を眺めると、それは芸術というものが持つ抽象性の奥に隠された欲望とも葛藤とも渇望とも言えるような、ナマな人間の感情の奔流のようであって、余程具象よりも空恐ろしく感じたものです。あまりの写真の多さと芸術作品の直接性に、軽い眩暈と吐き気さえ覚えたことも否定できません。

知り合いの写真も数枚発見でき目的も達したので、あまり長居は無用と展示会場を後にしましたよ。