A Moveable Feastを読んでいたら、なんとここのウェブ・マスター殿は三度も「野崎村」通いをしているとのこと。観劇を重ねる度に作品世界への理解度が深まっていて、とてもとても真似のできる境地ではございません。世の中には、たいした人がいるものだ、と思ったまではよかったものの、ふと気付いたら寒空の中、東銀座の唐破風横の急な階段を息せきってのぼっている自分に気付いたりするのでありました。
さて、明日が千秋楽の歌舞伎座の二月公演です。平日ですが幕見席はほぼ満席、私はあえなく立ち見となりましたが、返って今日はその方が有難く。なぜって、乗り出すようにしなければ最後の両花道を拝むことができませんから。
それにしても、平日の歌舞伎座ではありますが、この間の日曜日とは熱気が少しばかり違いました。千秋楽前の気合でしょうか、掛け声のかかりかたも、なかなかに鋭く、あちらこちらからひっきりなし、といったところ。歌舞伎を見ている気分が高まります。といって、歌舞伎通ばかりではなく、歌舞伎が初めての人やら、寝ている人、しきりにビニール袋をがさがさいわせている人、途中で帰る人、どうしてここで笑うんだよというような人など、まあ色々な人がいます。
前回は芝翫のお光、富十郎の久作ばかりに目が行って、鴈治郎の久松などの演技にはほとんど注意を払うことができなかったので、今回はそちらをよく観ておきたい、と思ったのではありましたが、やはり俄かの歌舞伎観劇では型やら劇中の意味など、深くは分からずじまいといったところ。それでも、久松が久作の肩を揉む場面で病床の母を気遣るしぐさやら、門の外のお染への身振りの細やかさなど、些細な部分での演技に独特の綾がありました。
雀右衛門お染は、現代風に言えば「ちょっと困った女」なんですが、久松を思う気持ちの一途さと、そのお姫様っぽいしぐさのひとつひとつが愛らしくて、びっくりしてしまいます。「袂ははすっぱに持ってはいけない。お姫様をやるつもりでやりなさい」
と岳父(七代目幸四郎)に教えられたのですとか。
「野崎村」ではお光の仕草に、どうしても注目しがちで、お染に「びびびびび(あかんべえ)」をしたり、縁側で脚をぶらぶらさせたりと、何とも言えない愛嬌があるのですが、非常に分かりやすくウケやすい演技ともいえます。お光の演技も、お染のしとやかさと、立っているだけで美しい彼女の姿があるからこそ引き立つんですね。二人の女形の競演はやはり見事。
歌舞伎には色々な「型」があるらしく、お光が手鏡を前に眉を紙で隠して照れる場面も、そういう仕草がない型もあって、そちらの場合は包丁を手鏡替わりにして髪を整える型なのですとか。そういう「野崎村」も観てみたいもの。
書き始めると、ひとつひとつの場面が鮮やかで、本当に見ていてあっという間に時間が過ぎてしまいました。二度目はつまらないかな、などと思ったのですが杞憂でしたね。最後の「父様ァ~」の場面は胸につまります。
今回の公演について雀右衛門はきちんとお手本になるようにやらないといけないと思いますよ。皆さんと申し合わせたりはしませんが当然のことをやるだけです。真剣です
と言っています。
人間国宝が一堂に会するので歴史に残るどころじゃありませんよ。すごいですよ、七十二歳でも後家がいちばん若いんですから
と言っているのはお常の田之助。とにかく、明日が千秋楽、千秋楽・・・。眠いので取りとめもないですが、これにて。
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