2006年5月7日日曜日

雑誌Lapitaの万年筆「赤と黒」を購入し、マニア世界の深さにおののく


Lapitaという雑誌が、また万年筆特集をやっている。最近は万年筆も密かにブームであるらしく、文具店では万年筆を紹介した雑誌とともに、メーカーのフェアを開催していることも珍しくない。かくいう私もイタリアはAURORA社のペンを愛用している。

「Lapitaがまた」と書いたのは、昨年11月にも同じような特集をしていたからである。Lapitaの特集には万年筆が付録として付いているところがミソである。たかだか980円の雑誌についている万年筆であるので、普通に考えると万年筆代は300円程度(パッケージ代、雑誌に付録を付ける余計な梱包代、かさばる搬送費を考えると300円以下という評価になる)。

これならば市販の使い捨て万年筆よりも安いくらい。ということで前回は見送ったのだが、今回は赤と黒のデザインに負けててしまい購入。さっそくインクを入れて書き味を試したところ、これが300円とは思えぬ出来で、かなり満足なのである。

ペン重量は26g程度。適度な重量感であり、持ったときのバランスも良い。キャップはスクリュー式であり、軸も安っぽい感じはしないし、ペン先の鍍金の具合も悪くはない。ペンフォルダー部の金属の曲げ方も丁寧でバリなどは全くない。こういう細部の造りの良さは所有欲を高めると同時にマニア心をくすぐる。(断っておくが、私は文房具マニアではない)

肝心の書き味の方だが、ペン先の太さがM(中字)ということもあってか、結構なめらかだ。1000~5000円程度で市販されているカートリッジ式万年筆と比べてもそれほど遜色がない。デザインだけから評価すると、好みもあろうがLAMYのsafariやWatermanのKulter Light Softなどよりも数段に良い。同じWatermanのCharlstonやPelikanのTraditionalなどと比べても、外見だけからは素人が値段を判断するのは困難であると思う。

かくも絶賛するのは、これが300円だからである。「Lapita」「万年筆」で検索してみると、多くの人が高い評価を与えていることが分かる。と同時に、「万年筆」を語る筆致の熱さに少々驚いてしまう。さらには、万年筆マニアのHPなどにも辿りつき、発売と同時に5本購入しただの、購入した付録万年筆を改造しまくるだの、その筋の世界の深淵さと暗さには、思わず脱帽すると同時に、その熱情がどこから生ずるのか、5秒ほど考え込んでしまうのであった。同じ文具フェチでも「消しゴムフェチ」よりは救えるとは思うが・・・

ちなみにLapitaがどういう雑誌かは、いまだ知らない。予備にもう1本(いや1冊)購入しておくかな・・・。





2006年5月4日木曜日

【音盤】武満徹:環礁ほか/外山雄三&都響

  1. 地平線のドーリア(1966)
  2. ソプラノとオーケストラのための「環礁」(1962)
  3. 鳥は星型の庭に降りる(1977)
  4. 群島S.-21人の操車のための(1994)
  5. 弦楽器のためのコロナⅡ(1962)
  • 指揮:外山雄三 東京交響楽団 浜田理恵(S)
  • 1997年8月31日~9月4日 東京芸術劇場
  • DENON COCO70775

ここには武満徹の初期から晩年までのオーケストラ作品が収められています。しかし、武満氏の初期から中期、すなわち60年から70年代の実験的な作品群は、何度聴いても簡単に馴染めるものではありません。

いつだったか、家で映画「2001年宇宙の旅」を見ていたとき、モノリスが現れると奏でられるリゲティの音楽(《レクイエム》《アトモスフェール》)を聴いて家人曰く、「こういう耳障りで、人の気持ちをかきむしるような音楽を好きという人とは、お友達になれないわね」と。しばし絶句した私でありましたが、このアルバムでの武満徹もその類の音楽と言えないこともありません。

地平線のドーリア》に武満氏自らがプログラム・ノオトを書いています。

旋律ではなくハーモニック・ピッチ(Harmonic pitch)という考え方、リズムではなくプルセーション(Pulsation)という考えかた。新しいポリフォニーを試みる最初のデッサン。

ここに現れる音の濃淡、輪郭の融解、茫洋とした音世界、弦の特殊技法を多用した抽象的音パレットによる混沌は、たゆとうようでいて静かに流れ、しかしどこにも向かわない霧のようです。定位しない音楽は言葉にできない不安を呼び覚ましますが、しかしある瞬間に和的な響きやら美しさの片鱗が見えたりします。冒頭のハーモニック・ピッチへ回帰したときには、やっと懐かしさを覚えます。

しかし、この題名ばかりが有名な曲であっても、漠然と聴きながせば、耳に届くのは耳障りで不快な不協和音の連続でしかなく、「音楽以前」と評する人がいたとしても、その人の感性の方が正しいと思うほうが一般的な感想かもしれません。

環礁》は跳躍するソプラノパートを伴う難曲です。声楽を伴い詩を歌うからといって、武満氏の曲が親しみやすくなるということはありません。大岡信氏の詩はシュールで、文学的素養のない私には、さっぱり理解できません。浜田理恵氏のソプラノ肉声は武満氏の響きと融合可能なギリギリの一線を保っており潔いです。

と、書いて気付きました。武満氏の音楽には肉感的生々しさ、感情のストレートな奔流などが全く似合いません。音は響きそのものとして研ぎ澄まされ、武満が彫拓したかのような純粋性を持っています。彼にとって作曲とは、自然を含めたインスピレーションの中から、何かコアとなるものを聴き取り、美的な「かたち」へとつくりかえる行為であったのでしょうか。

旋律線を有さない曖昧さは、西欧ロマン主義的な音楽のあり方から、確かに自由となっています。しかし、その獲得された自由さが、場合によっては時代の足かせであり、時に古臭さを感じてしまうことも否めません。実験的、デッサン、であったことが、音楽史以上の意味を現代に与えうるのか、あるいは彼の音楽が「日本的なるもの」を考える上で今でも有効であるのか。

鳥は星形の庭に降りる》などは、まさに彼が夢で見たイメージを曲にしたものです。題名ほどには親しみやすい曲ではありませんが、1970年代後半にあって前衛的というよりは、かなり調性を意識した作品であると感じます。

それが1994年の《群島S.》となると、さらに響きが変わってきていて聴き易くなっていることに気付きます。ここではおのおのの楽器の音色と響きが相互に絡み合い、そして全体的な融和と表情の豊かさを聴くことができます。相変わらず能動的で意味的な旋律線は認められませんが、このアルバム中では唯一、武満的ロマンをストレートに感じ取ることの出来る作品かもしれません。逆に60年から70年の鋭利な武満音楽を好む人には迂遠されるものかもしれません。

アルバム最後は図形楽譜を用いた《弦楽のためのコロナⅡ》です。極めて実験的な作品なのでしょうが、1分半程度の曲ですぐに終わってしまいます。無調の不協和のテンションがこれからどこに向かうのだろうか、と思ったところで、曲は何の解決もなく終わってしまいます。今まで延々と不協和を聴かされた耳には、ちょっと物足りない程。

ということで、この音盤の感想も、何のまとめも結論もなしで、おしまいにすることとします。

2006年5月3日水曜日

町田康:くっすん大黒、川原のアパラ


「くっすん大黒」116回芥川賞候補(1996年)となった作品であり、落選はしたものの筒井康隆氏が本作を絶賛しました。 1997年には第19回野間文芸新人賞、第7回ドゥマゴ文学賞を受賞しています。

と書くと、さぞかし「凄い作品」なのだと思うでしょうが、ここでも町田氏の脱力ぶりと下降志向は健在です。氏の芥川賞受賞作である「きれぎれ」やその他の作品よりも狂気や陰惨さは少なく、快活で滑稽な作品に仕上がっています。小説を読みながら久しぶりに「ゲラゲラ」と笑ってしまいます。それでいて計算づくの恐るべき小説でもあります。(Amazonへ

無意味な教養という以外何の役にも立たなかった学校教育の国語において暗記させられた「名作」の冒頭を思い出すまでもなく、小説の出だしの文章というのは極めて象徴的です。ここにおさめられた「くっすん大黒」と「川原のアパラ」の冒頭を拾ってみましょう。

もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの? あきまへんの? ほんまに? 一杯だけ。あきまへんの? ええわい。飲ましていらんわい。(「くっすん大黒」より)
おおブレネリ、あなたのおうちは何処? わたしのおうちはスイスランドよ。綺麗な湖水の畔なのよ。やーっ、ほーっ、ほーとランランラン、って、阿呆かオレは。なにもかかるケンタッキーフライドチキン店の店頭で、おおブレネリを大声で歌わなくてもいいじゃないか。(「川原のアパラ」より)

アホくささと諧謔、さらに小説のストーリーも実にたわけたハナシであります。こんな作家の小説は、普通は読む気になりませんかね。しかし町田氏の小説に潜む愉悦を一度知ってしまうと、なかなか、こんな莫迦げた文章がいとおしくなるから不思議です。

町田氏の小説を読みながら落語の持つ滑稽さに通底するものを感じる人もいるでしょう。あるいは下降志向や自嘲趣味から太宰治に繋がる文学性を感じ取る人も多いでしょう。はたまた「町田康=小説の主人公の告白」的な意味合いから、近代文学における作家と作品のありようや、誰も書きませんが、自意識過剰なまでの描写から三島由紀夫にどこか繋がる匂いを感じ取ることができるかもしれません。場合によっては「くっすん大黒」からは大友克彦の初期作品を、「川原のアパラ」からはつげ義春的ブラックさを嗅ぎ取ることも妄想とは言えないかもしれません。

町田氏の小説の表面世界だけをなぞるならば、面白いけれど不快にして、後に何も残らないという感想も成立しえましょう。しかし町田氏が敢えて堕に向かう精神とその生き様を、さらに現実世界への瑣末的な拘泥や、生きることの無様なまでのありようを徹底的に描くことは、実のところ人間の本質面に対するさりげない問いであったりします。古今の文学的なテーマを一度解体した上で、絶妙の町田節に乗って再構築されたその小説は、面白いだけで終わらない世界を持っていると確信できます。

2006年5月2日火曜日

町田康:夫婦茶碗、人間の屑


本文庫には「夫婦茶碗」と「人間の屑」という2作品が納められています。町田氏の小説は徹底した自虐と下降志向、そして現状を何とかして変えたいと思う気力が空しく空転し、捩れに捩れてゆく不条理をいつも描いています。

自暴自棄とも取れる主人公の行動は、裏を返すと限りなく甘ったるい楽観と自己愛に支えられています。主人公の感性は、自己分析と自己反省を繰り返しながらも現実とは全く折り合わず、真意や善意は相手に伝わらず、ひとり挫折感を味わいます。主人公のベクトルはどこまで行っても常識的な感覚ではなく、従って最終的には破滅的ともいえる必然的狂気へと突き進みます。


それを自明のこととして、町田氏は最初から最後まで下降と狂気を描いています。淡々としたリズムとスピード、負の必然性、瑣末への拘泥、人間のダメさ加減、情けなさ。それらを、ドストエフスキーのように重く陰湿な人間劇としてではなく、徹底した喜劇として、しかもあっけらかんとした明るさとスパイラルするストーリーで町田氏は描いてみせます。

確信犯的に描かれ演ぜられた喜劇からは、人間の本性さえも暴き出されてしまうかのようです。気のせいか「カラマゾフの兄弟」のフョードルを思い出してしまいました。(>フランス文学かと思ったら、今度はロシア文学かよ)

文庫本解説を筒井康隆が書いていました。私の直感は当たっていたと言えましょうか。彼は筒井康隆に非常に良く似ているのです。高度に屈折し転回し続ける知性からは、思考実験というものが生まれると筒井氏は指摘しています。

そう・・・極めて高度に屈折しすぎています、町田氏の文学は。なんだかんだと書いても、読み物として面白いので一気に読めますが、読み進めるのが結構つらくもあります。「堕落の美学」とも評されています、確かに究極の美学でもあります。

2006年5月1日月曜日

武満徹展に行って、映画「黒い雨」を観る

東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visons in Time」展に行ってきました。会場に着いたら、今村昌平監督の「黒い雨」(1989)が丁度これから上映されるとのこと。途中で出ても良いらしく、ついでだから観てやるかと軽い気持ちで席に座ったところ、これが結構面白くて結局最後まで観てしまいました。
武満展なんだから、音楽について書くべきなんでしょうが、映画に集中しちゃって、不安気な雰囲気を誘う音楽ということ以外、あんまり音楽のことは覚えていない。ラストの音楽もどんなだったかしら?
映画は井伏鱒二の小説の映画化なので原爆被災者を扱っていて重い。しかし家族の崩壊の様子とか、お互いの傷を認め合うことによって芽生えた救いの愛とか、そういうテーマ性に感動するよりも、川又昂撮影による映像に圧倒されっぱなしでした。1989年の作品なのですが、よくぞこういう農村風景とそこに生きる人達の姿を撮りきったものです。(農村風景ということでは、濱谷浩氏の「裏日本」なんかを思い出します)
かつては存在した農村的共同体や農村的風景が、嫌になるほどのリアリティを持っています。
映画を観ながら、かつての日本から失われたものが、ここに描かれた家族たちのささやかな幸せだけではないことを否応にも気付かせてくれます。
演技的には、清楚な雰囲気を出し切った田中好子に好感が持てると同時に、叔父夫婦を演じた北村和夫と市原悦子が抜群の味。特にコンプレックスを背負った生き方をしている市原演ずる妻が何とも哀れ。そういう形でしか自己実現ができなかった時代であったのだと。いや、それは今の時代も一緒でしょうか。

武満徹展のことも何か書かなくちゃならないでしょうね。武満氏の楽譜とか抽象画とかが展示されていて、それなりに楽しめました。特に楽譜は、図形楽譜でない普通のものであっても、それ自体がアートとして成立しています。近代建築を代表するコルビジェの図面をふと連想してしまいます。
また武満氏が好んだアーティストの作品も展示してあるので、武満ファンは満足することでしょう。私は熱烈なファンではないし、前日に本展示の公式ガイドブックを池袋ジュンンク堂でしっかり眺めていたので、展示内容に意外性はありませんでした。
それでも展示空間的にも武満氏の几帳面さとイノセントさが際立っていて良い雰囲気です。ただ武満氏の音楽を延々と流しながら抽象的なビデオを流している展示とかは、私には馴染めません。そもそも私は抽象が苦手ですし、畢竟根っからの武満ファンには、なれそうもないのなあと感じる展示内容でもありました。

2006年4月29日土曜日

【音盤】武満徹:森のなかで/庄村清志

荘村清志/武満徹へのオマージュ
  1. 森のなかで(1995)ギターのための3つの小品
  2. Over the Rainbow、Yesterday、The Last Waltz、Secret Love、What a Friend、Londonderry Air
  3. 海へ(1981)アルト・フルートとギターのための
  4. エア(1996)フルートのための
  5. 不良少年(1961/1993)2台のギターのための
  • 荘村 清志(g)、田部井辰(g)、 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463

武満氏1995年の作品に《森の中で》と題する三つのピアノ曲があります。タイトルはWainscot Pond-after a painting by Cornelia Foss、Rosedale、Muir Woodsとされており、それぞれが北米の美しい森を有する地名です。

最初に配されたWainscot Pondについて武満氏は下記のような文章を書いています。

ウェインスコット・ポンド-Wainscot Pond-を、実は、私は未だ訪れたことがない。それがアメリカの何処にあるのかも知らない。友人から送られてきた絵葉書に印刷された美しい風景画の下に、小さな活字で、Wainscot Pondとあった。池の向こうに、私には、沈黙する森が見えた。

武満氏は、風景や他の芸術作品から多くのイマジネーションを得て、それを作品に昇華しました。この3分半ほどの小品も、極めてイマジネティブで静かな黙考や響きとともに、中間部では気のせいか憧れのような、いや慈しみのような感情をも聴き取ることができます。1995年といえば武満氏は既に癌と宣告され闘病中の身でした。その闘病生活の小康状態の中で描かれた曲であると考えると、曲のあまりの静けさと美しさに打たれてしまい、言葉になりません。

芸術新潮5月号で、友人であった作曲家ルーカス・フォスから送られた、その絵葉書が掲載されています(下図~無断転載)。大胆にも空が画面の上2/3を占めた構図。今にも雨の降りそうな寂寥とした雰囲気でありながらも荒涼とはしていない静謐な風景が描かれています。「沈黙する森」、池の向こうの森に武満氏は何を想ったのでしょう。そこには芳醇な世界が存在したのでしょうか、あるいは自らが行くべき世界を見たのでしょうか。

2006年4月28日金曜日

【音盤】武満徹のギターのためのスタンダードソング

荘村清志/武満徹へのオマージュ
  1. 森のなかで(1995)ギターのための3つの小品
  2. Over the Rainbow、Yesterday、The Last Waltz、Secret Love、What a Friend、Londonderry Air
  3. 海へ(1981)アルト・フルートとギターのための
  4. エア(1996)フルートのための
  5. 不良少年(1961/1993)2台のギターのための
  • 荘村 清志(g)、田部井辰(g)、 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463

アルバム2番目に納められている6つのギター曲は、ラスト・ワルツを除き《ギターのための12の歌》(1974/77)からとられたものです。どれもが耳に聴きなじみのあるスタンダードソング。しかし武満さんの編曲にかかってしまうと、美しいメロディがひときわ引き立ちます。それでいて音楽が決して前に出てきて主張することはありません。静かに間や余韻を楽しむかのように、音楽は響き渡ります。 

ビートルズ・ナンバーも良いですが、この6曲の中では賛美歌としても親しまれている《What a Friend》がとてもいいカンジ。曲については解説することさえ野暮と思えるほど。そっとした囁きや優しさに満ち溢れていて、ほんとうに思わず何度繰り返して聴いてしまいます。

武満さんが、一流のメロディーメーカーであったことはよく知られいまが、カラオケのようなものは嫌いであったとか。それでいながら、意外にも演歌とか流行歌には驚くほど詳しくて、散歩しながら口ずさむこともあったとか、何かで読んだことがあります。

私はギターという楽器が好きです。そして、自分のよろこびのためにこの「12の歌」を編曲したのですと語る一方で、ギタリストたちの固定した風景にもうひとつの窓から別の風景を開きたいと考えたと武満さんは語っています。本当に、心から「音楽」が好きな方だったのだなと、改めて思います。

2006年4月27日木曜日

芸術新潮の武満特集がうれしくて、不良少年に涙する



帰宅途上に書店に立ち寄ったら、「芸術新潮」が「はじめての武満徹」と題する特集をしている。何故に「芸術新潮」が武満なんだ?と訝りながら紙面をめくったところ、東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visions in Time」展にちなんだ特集であるらしく。本誌の内容も「武満徹(以下TT)がいる」「TTをきく」「TTをみる」「TTをうたう」「TTをたべる」「TTをまとめる」とコンパクトで多角的な企画。表紙の和田誠のイラストがまた懐かしくとてもイイ感じ。

武満徹は未だに私には縁遠い作曲家なのだが、アタマの痛さも忘れて何だかワクワク。立ち読みをするのももったいない気がして早速に購入。帰宅してパラパラと写真を眺めるにつけ、武満ってのは音楽家を越えた「ひとつの時代」であったのだなあと、根拠もなく思う。たいして聴いてもいないのに、ぜんぜん親しんでもいないのに、武満徹の周辺のことを知るだけで、多少スノッブ臭いところはあるけれど、どうして優しい気持ちにななるのだろう。ヒーリングという軽いものではないのに、どうして癒されてしまうのだろう。

iTunesで取り込んでおいた「不良少年」を荘村さんのギターで繰り返し聴く。本作品は羽仁進監督の同名の映画(1961)で使われた音楽、どんな映画なのかは不勉強にして知らない。3分40秒の短い曲だが、音楽にはとがったところが、どこにもない。心の深いところに、じんわりとしみわたる。あんまり何度も聴いていると泣けてくる。

以下はテキトウに描いたもの。

2006年4月26日水曜日

【本棚】陣内秀信:東京の空間人類学


東京はかねがねから、ずいぶんと複雑で興味深い都市であると思っています。そのきっかけを与えてくれた本のひとつが、陣内秀信氏による本書です。20年ほど前に読んだ本なのですが、こうして読み返してみますと、今となっては類書は多いものの内容のオリジナリティは高いと思います。

自らの足を使ったフィールドワークによって得られた知見は、混沌とした東京の成立史を明快に解き明かしてくれます。このような都市論が評価されてか、1985年のサントリー学芸賞を受賞しています。(この賞自体、私にはあまり馴染みがありませんが・・・)

彼の東京サーベイは東京には百年前の建物がほとんどないからといって、この都市はすでに過去の顔を失いアイデンティティを喪失したとあきらめるのは早計過ぎるとの観点から、建物ではなく地である敷地に着目し、変化に富む立地条件と、その上に江戸以来つくられた都市の構造とが歴史的、伝統的な骨格を根底において形づくっていることを明らかしています。

たしかに、ちょっと歩いてみると分かりますが、東京と言うのは非常に坂が多い。陣内氏の東京にもローマと同様、七つの丘があるという指摘は、彼のスタンスをある程度表しています(ひとつは東京を地形論的に読み解くという独自性、もうひとつは陣内氏がベネツィアなどで展開した西欧都市を研究の延長としての都市方法論)。

アースダイバー」の中沢新一氏は、東京が武蔵野段丘東端の「フィヨルドのような地形」の上に成立していると指摘しました。いずれにしても、地形のもつ力とか場の意味を無視しては現代の東京も成立しえていないと考えることは、ある意味で納得のできる考え方です。大名屋敷や旗本屋敷、町人街などが江戸からどのように変遷してきたかを、本書を紐解きながら想像を巡らせるのはなかなか楽しいものですし、街歩きをまたしてみたい気にさせてくれます。

ただ、陣内氏は都市論を中心とした学者ですから、どちらかというとハードな建築学的な視点に立っています。「空間人類学」と、いささか大仰なタイトルの割には内容的は建築学者という狭視的な記述がに留まっているように思えます。

また、実は彼が一番主張したかったのは「モダニズム都市の造形」という終章ではないのか、と思わせるところもマイナスです。この章では西欧的な「アーバンデザイン」の先駆が1920年のモダニズムの時代に認められていたにも関わらず、戦災と高度成長を経ることによって1985年当時の日本は、1920年代の都市デザインレベルには到底達していないと嘆いています。今までの文脈とは明らかにトーンが異なり、建築計画論的主張は建築に興味のない人には説得力に乏しいものです。

また、彼の主張には当時流行った「ウォーターフロント」や「都心回帰」、あるいは「都市や地域の文脈」というキーワードが散見されます。青山の同潤会アパートは安藤忠雄氏の設計により「歴史的連続性」を残すとか言われながらも、全く異質なものに建替えられてしまいました。都心部や湾岸地域は大手デベロッパーや投資家達によって、その姿を激変されつつあります。本書が書かれてから20年。陣内氏が本書を書くきっかけになったと想像する「都市の連続性」「都市の文脈」ということが、どう実現され(あるいは無視され)、今後どう変化してゆくのか。個人的には、そこのところが興味のあるところです。

2006年4月23日日曜日

【本棚】東京を江戸の古地図で歩く本


今尚変貌を遂げつつある東京という都市をゆっくりと歩いてみると、多くの起伏に富んだ地形であることとともに、江戸時代のかすかな名残を見つけることができ、ときどきはっとする思いにとらわれます。


本書は江戸末期に刊行された尾張屋清七板の切絵図(江戸の敷地割図)をベースとして、現代の東京の成り立ちを概観しています。ただ「江戸の古地図で歩く」と題している割には、古地図と現代の地図の詳細な比較という点では物足りなさが残ります。文庫本という制約のせいか、古地図も小さくて見にくい。不満な人は別冊の「切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩」を購入せよということか。


総花的ではありますが、江戸と東京の関係を読み直すと言う点では、良きガイドブック(入門書)にはなってると思います。


それにしても、1657年(明暦三年)の明暦の大火、いわゆる振袖火事が江戸に与えた影響は本当に大きかったようですね。明暦の大火前と後の都市構造の違いなどを思い馳せながら、古の江戸の姿を想像するのは楽しいものです。本書を読んで、閑があれば、またどこかターゲットを決めてウロウロしてみたい気になりました。


2006年4月21日金曜日

【音盤】武満徹:ピアノ作品集/藤井一興

  1. 雨の樹素描(1982)
  2. 閉じた眼(1979)
  3. フォー・アウェイ(1973)
  4. ピアノ・ディスタンス(1961)
  5. 遮られない休息(1952/59)
  6. 2つのレント(1950)
  • 藤井一興(p)
  • フォンテック FOCD-3202

1950年の処女作「2つのレント」から1982年の「雨の樹素描」までの武満のピアノ曲を集めたもの。Tower Recorodで「今なら半額」というのに、ついつられて購入、iPodに入れて何度も聴いています。しかし武満の曲は何気に流して聴くということを許容しません。じっくりと耳を澄まさなければ、何も残らずに通り過ぎてしまいます。

例えば1950年の「2つのレント」という曲。武満の処女作にしながら「音楽以前」と当時の批評家(山根銀二氏)から酷評を受けたと言う作品。Adagioは、冒頭のくぐもった靄のかかったような低音のトーンが支配的な曲。自分がどこに居るのか定まらない不安定な気持ちになりながらも、何かを確かめるような感じ。続くLento misteriosamenteは、もう少し音が容をなしている。逆にメロディー的なものが解体されて響きとして再構築されてしまったと言う方が適切か。彼の音楽に感じられる時空間の広がり、饒舌とは反対の色彩の豊かさは、この処女作にして充分に感じることができます。

今こうして聴いてもかなり実験的な音楽として聴こえます。でも決して「音楽以前」などという稚拙な独りよがりな音楽ではありません。

一方で有名な「雨の樹素描」の美しさは特筆もの。自然と人間を超えた叡智に抱かれるかのようなイメージ。ピアノを通した水滴の表現はあまりに見事。ピアノの音の粒立ちがキラキラと煌いています。音楽というよりも音そのものが連なり、重なり、変化する様。それゆえに、響きは夢幻のイメージをかきたてます。たった2分43秒の演奏に身も心も洗われるかのよう、しかし決して安易なヒーリングではありません。

瀧口修造の追悼作である「閉じた眼」も、上記と同じような路線にある曲のような印象。ただ「雨の樹素描」よりは激しい。しかし、それとて、あからさまな、あるいは象徴的意味での感情表現ではない、聴いていて、ひたすらに純粋な響きのみが支配してゆく峻厳さに身を任せるのみ。

ここに納められた曲は、どれもが瞑想的というか、自分の内部へ、あるいは何かにじっと耳を澄ませることで聴こえてくる音楽のようです。一音一音を確かめながら、どこか空間から音を紡いで織り上がったような作品群。武満独特の色彩に彩られた繊細さと豊穣さ。先にも書いたように、作品に真摯に耳を傾けなければ音楽の囁きに気付くことはありません。こういう曲を聴いていると、俗世間のザワザワしさが莫迦らしくなってしまいますね。

2006年4月16日日曜日

町田康:きれぎれ、人生の聖

彼のエッセイだけ読んで評するのも何なので、2000年度の芥川賞受賞作ほかを納めた本書を読んでみました。何故この作品が芥川賞なのか私には理解できませんが、バブル崩壊後の時代の雰囲気を感じた評者が推したのでしょうか。反逆児でパンクロッカーであった町田氏が純文学において最高の名誉とされる賞を受賞してしまったことを、どのように感じているのかは興味深いところです。

芥川賞の意味はさておくにしても、作品としては極めて面白い。本作品もくんくんと一気に読んでしまいました。

作品の内容を細かく書くのは、本当に野暮なことですから、それはやめるにしても、「きれぎれ」の主人公が資産家の息子でありながら、いい年になっても定職もつかずに、ブラブラと親の金を使って遊んでいるという様は、彼のほかの作品である「へらへらぼっちゃん」(読んでない)という人物スタイルと通底するものがあるのだろうなと。

そうなんですね、町田氏自らが資産家の息子であったのかは分かりませんが、作品からは資産家故のボンボンとした感じ、切羽つまったころのなさを感じます。それが物語から悲惨さを剥ぎ取り純度を高めながら全く違った方向へ進ませます。世間から一歩立ち位置を離れたところで、社会も人間も自分さえも客観視するという態度、その他者性こそが町田文学の諧謔性のルーツかなと。ここらあたりは、さすがに関西のノリです。

しかも町田氏独特の世間とのズレ(不適応)はここでも健在で、その態度は根が反逆者あるいは没落者ゆえなのか。現実と折り合いをつけられないことを、徹底した諧謔と自虐に紛らわせ、どこまでも堕ちてゆく。だけども最後は何だか透明な存在となって救われるみたいな。笑いに包まれているけれど人間洞察は鋭い。

ストーリーは不条理(>よく分からないって)の連続。「ママンが死んだ」なんて書いている当たりカミュの「異邦人」かよって思ったり、そういえば脳内に甲虫だものなと(>毒虫はカフカだって)。あるいは、太宰治や坂口安吾を彷彿とすると思う人もいるみたいですが、私にはどちらかというと筒井康隆的諧謔を感じたり、なかったり。(こうして羅列すると「新潮社の100冊」みたいだな)

そういうわけで「読後感として何も残らない」という感想は当たらず。この不快感と爽快さの絶妙なるバランス。人生と社会における不条理性と諦念と自虐と救い(か?)、悪夢と現実。やけっぱちなテロル。ちっぽけな悪意に満ちた快感。読書をすることの愉悦とひきつり。

2006年4月14日金曜日

町田康:東京飄然


iioさんのclassicaにあった町田康氏の「告白」に関するエントリを読んで依頼、気になる作家としてアタマの中にインプット。書店で「告白」を手に取るも、その分厚さに「こいつは今は読めねーや」と尻込み。そうこうしていたときに、エッセイ風の本書が目に付いたので、これならばと購入。

本書に挿入されている写真をつらつら眺めるに、少し斜に構えた街歩き本なのかと思って読み進めると、まったくさにあらず。町田氏独特の文体の魅力に惹き込まれ、くんくん読み進んでしまいました。


そして、読み終わった感想としては、「町田氏はイケテいるな」ということ、久しぶりに手ごたえのある作家を知ったうれしさに内心小躍り。でも、どこが良いのかを他者に伝えるのは難しい。あえて書くならば、作家の感性と文章の一致度が見事で、また文章を読みながら感じた身体の微振動が、心地よい愉悦として広がるのを感じることができたから、ということになりましょうか。極めて私的な感想です。

彼は昔はパンク・ロッカーだったのですが、今では野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞、芥川賞、萩原朔太郎賞、川端康成文学賞と、世の文学賞をとりまくってい一流作家です。しかし、そういう問題ではない。いくら賞を受賞していても、あるいはいなくても、読者との共感点が得られなければ権威は何の意味もない。

で、私が町田氏に感じたエトスとは挫折と脱力です、不条理と書きたいところですが、哀しいかな私は不条理の本質を知りません。彼の挫折は、世の中と自分の間の奇妙なズレを是認し、しかし本人はそれを常識的な力で乗越えようと努力するものの、その努力そのものが、世間的な常識からは17度ほどずれているため、ますます世間との乖離は深まる、といったもの。しかし、といって厭世的とか引きこもり的自己愛に落ちるのではなく、その恐ろしいまでのズレを、まさに飄然と楽しんでいる。そういう雰囲気です。

アマゾンなどの書評では、「面白くない」「町田的濃度が薄まっている」と書く人もいます。わたしはこの1冊しか町田氏の文章を読んでいませんので、なんとも言えません。しかし、氏の文章は軽く書かれているようでいて、きわめて計算されていおり、彼のバックボーンの広がりに、またワクワク感がかきたてられます。

この文章の初出が「婦人公論 2003年3月~2005年5月」であったということは注目に値します。婦人公論が、どのような読者層を想定しているのかはイマひとつ分かりませんが、町田氏のような雰囲気は、女性層の琴線に触れる部分が多いのかもしれません。

町田氏が、自分の立ち位置まで理解した上で、確信犯的文章をしたためているのか否かについては、本書だけからは伺い知ることが出来ません。彼が一体どういう小説や詩を書いているのか、機会があれば読んでみたいです。

町田氏を教えてくれたiio氏には改めて感謝です。

2006年4月13日木曜日

【本棚】山田真哉:さおだけ屋はなぜ潰れないのか?


こんなベストセラー本を今購入することは、「ダ・ヴィンチ・コード」を購入するよりも勇気が必要です。「いや~、オレっておカネに疎いし、やっぱ会計?必要でしょう」みたいなフリを装い、レジでは本を裏返しにして差し出す。本と一緒に受け取った釣銭の枚数など確認もせずにレシートと一緒に財布にグシャリと突っ込み、早々にレジカウンター前を立ち去る。そういう自意識過剰的行動、あるいは中学生などがコンビにでよからぬ雑誌を買うような、そんな苦労をしなければ、今更白昼堂々と購入できるものではありません。

しかし、そういう苦労をして購入してみたものの、一体これは何なのかと。どうしてこんなに売れたのだろうと考えてしまいました。


最近の新書はネーミングの良い本が良く売れる傾向にあるようです。「バカの壁」や「上司は思いつきものを言う」などその好例でしょうか。ベストセラーになる以前に本書を手に取った人は「さおだけやの謎に深く迫る話題作」を期待したかもしれません。しかし、新聞や雑誌などで話題になっていることを知った人は、本書が「さおだけや」のハナシではなく「会計学」の入門書であることを、かなり知っています。

ということは、世の中には「会計学」について学びたいのだけど、難しそうでよく分からないとか、類書に当たったけれども挫折したてしまったという人が多くいて、そういう潜在的な会計学欲求層をうまく刺激したということなのでしょうか。それとも、ベストセラーの相乗効果としてのベストセラーなのでしょうか。

本書が会計学の入門書として良書であるかはさておき、著者が言っているのは、難しい話ではなく「数字やお金のセンスを磨こう」ということに尽きています。昨今の日本は、一般の人たちも「経済」というものの動きを身近に捉え始め、さらに自己責任の範囲でなくては資産形成ができない社会であると思うようになりました。そういう中にあって、おカネに無頓着でいると取り残されるてしまうという焦燥感が、本書を読む人の底のどこかに潜んでいるのかも知れません。所詮私もサラリーマン、お金は「振り込まれる」もので、税金は「知らないうちに引かれている」ものでしかありませんから、これぢゃあね・・・。

2006年4月12日水曜日

【本棚】中島義道:うるさい日本の私


私の嫌いな10の言葉」に書かれていたことに対し、主張の鋭さを認めるはするが不快さも禁じえないという合い半ばする感想であったため(一度は、こんなくだらない本はさっさと捨てようとさえ思った)、氏の別著を読んでみました。

「一番うるさいのはオマエ(中島氏)だ!」と、本書に向かって何度も叫びそうになりますが、しかし彼の主張と行動には応援を送りたいです。

彼は何に対し闘っているのかといえば、公共空間に撒き散らされている「公共放送」のうるささに対してです。例えばそれはバスの中に流れる放送であったり、駅ホームの放送であったり、江ノ島海岸に流れる案内であったり、防災放送であったり・・・。彼はそういう放送源に単身乗り込み、流されている放送のうるささをまくしたて、中止することを求めるのです。その奮闘ぶりは、もはや喜劇的色彩さえ帯びています。

ここで氏はイロイロな問題を提起しています。「公共放送をうるさいから止めろ」という個人のエゴは主張して良いものなのか、静かな環境である方が好ましいと思われる場での「おせっかいな放送」は、マジョリティ側からの無意識の管理と暴力ではないのか、思いやりや善意という発想が公共性を持ったときの危険性などなど。

「ホームと列車の間が離れているところがあるから足元に注意しろ」と喚起するのは、仮に事故が起きた場合に企業責任を少しでも免れるためという意味もあるでしょう。そういう放送を煩いと思っても、普通は止めてくれとは言いません(言えません)よね。

ですから氏は「日本古来の美学」である「察する」美学から「語る」美学へ移行すべきだと主張しています。日本の音漬け社会を批判しながら、実はココを一番主張したかったようです。

あまり他人に「思いやり」をもたないようにしよう。あまり他人から「優しさ」を期待しないようにしよう。何事につけ「察し」が悪くなろう。そして、その代わり言葉を尽くして語りつづけよう!
その主張に心から同意できる人は、なかなか多くはないだろうとは思いますが。

蛇足ですが、音漬け社会ということに関して。駅ホームや車内放送の煩さは、都会に住む人ならもはやBGMのようなものです。駅係員の絶叫と発車ベルと列車到来の自動放送が交錯する中、もみくちゃになりながら列車に押し込まれるという毎日の風景にあって、もし仮にそれらが全て無音の中で演じられるとしたら。それこそ高度な管理社会と狂気を感じます。現在の狂騒があるから、かろうじて人間性を喪失しないでいるという逆説もあるのかなと・・・。