2006年7月7日金曜日

高木綾子さんがブログの女王?

テクノラティで「高木綾子」とか検索していたら、「こにゃにゃち日記あらため、革命的批評に向けた日記」とかいうタイトルのブログで、高木綾子さんのブログの人気に迫るとかいうエントリが目に付きました。

こにゃにゃち氏(<--名前か?)によると「セレブ系にみえて実は庶民派」「難解な言葉や専門用語を使わずに、圧倒的に分かりやすい」ことが彼女のブログの魅力なのだとか。また、

��なぜかエミールという名前の)ネコを抱いて、日本代表のレプリカを着て、女子大生にしてはよく調度された家具に囲まれて、写真に納まる。「オレもネコになりたいぞ!」と、オジサンたちの萌え心をくすぐる、このあたりが凄い

のだそうです。

のだそうです・・・。たしかに、もう俺は立派なヲヤヂである。しかし「オレもネコになりたい」か?

ネコになったら留守番ばかりだろうから、それはないな。と中年の冷静なアタマは思考する。

どうせなるなら、サルになった気でサンダル持ちになるとか、フルートケースになるとか。いやいや、そうぢゃなくて、ほら、フルート本体だよなっ、とか思ったりする。で、そうくるなら、あまり使われない「H管」(「ハーカン」と読むっ!)なんかぢゃなくて、黄金の(>実はシルバーだけど>いやいや中年だけど)「頭部管」だよな!とか。でも同じ頭部管でも「ヘッドコルク」ぢゃ暗いし狭いし臭いし痛いから(どこが?)、ベストは「リッププレート」!だようっっ!!とか・・・(-_-;;)。ほとんど意味不明・・・錯乱・・・

妄想は限りなく膨らんだりしぼんだりしながら、土曜日の奏楽堂へと心は飛ぶのでありました。

��ところで、彼女はもう「女子大生」ではないと思いますが・・・?>こにゃにゃち氏<--名前か?)

2006年7月6日木曜日

【本棚】坂口安吾:「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」「文学のふるさと」


坂口安吾を再読してみた、などとカッコウ付けたモノ言いを先日してしまいましたが、それが恥ずかしいまでの勘違いでしかなかったことを、「桜の森の満開の下」(昭22年)、「夜長姫と耳男」(昭27年)のニ作品を読んで思い知らされました。


小説を読んで、衝撃を受けたり、呆然としたり、陶然としたり、泣きそうになることなど、そう滅多にあるものではありません。しかし、この二つの作品には心底慄然とし、そして読後には名状しがたい感情に包まれてしまいました。どちらも恋愛作品の形を成していながらも、その異形の美しさ、アンモラルなまでの残酷さ、それに反比例する純粋さ、ラストに向けての予想外の展開、そして、そこに現れる虚無と孤独に満たされた充実感。


坂口安吾といえば、学生時代には「堕落論」と「日本文化私論」そして「不連続殺人事件」くらいしか読んでいなかったのかもしれません。今回「FARCEについて」や「文学のふるさと」「風博士」などを読み進めますと、坂口を読み解くキーワードのひとつとして「不連続」というか、すなわちプツンとちょん切られた空しい余白(「文学のふるさと」)ということを感じます。坂口は、その余白に非常に静かな、しかも透明な、ひとつのせつない「ふるさと」を見ないでしょうか。と続けます。


坂口の指摘する「ふるさと」の意味は、我々が日常に使う語彙とは異なっています。そこで得られる虚無、恐ろしいまでの孤独、不連続性、不条理にも似た感覚、そして何か、氷を抱きしめたような、せつない悲しさ、美しさ。そういうものが存在する場所。そして、そういうものを表現しきっている小説の凄さ。私の拙い言葉では、作品の魅力を還元することは困難、坂口安吾、恐るべしですね。


かの松岡正剛氏もともかくは『夜長姫と耳男』を読むべきと書いています。本屋に走らなくても「青空文庫」でかなりの作品(著作権切れ作品のボランティア配信)を読むことができます。azurブラウザ使用しますと、電子ブック感覚で読みやすいです。

2006年7月5日水曜日

【音盤】高橋アキplays武満徹

  1. 閉じた眼
  2. ピアノ・ディスタンス
  3. 遮られない休息 I、II、III
  4. リタニ I.アダージョ II.レント・ミステリオーソ-アレグロ・コン・モート
  5. フォー・アウェイ
  6. 雨の樹 素描
  7. 雨の樹 素描 II
  8. 閉じた眼 II
  9. 2つのレント:アダージョ-エ・テンポ・ディ・リベロ、レント・ミステリオサメンテ
  10. ロマンス
  11. こどものためのピアノ小品 I.微風、II.雲
  12. ゴールデン・スランバー
  • 高橋アキ(p)
  • TOCE-13320

    ��月末に直島を訪れたことは以前書きました。そこで現代美術作品などに接したせいか、無性に武満徹を再び聴きたくなってしまいました。EMI ClASSICS 決定版1300に高橋アキさんのピアノ演奏を安価で入手できますので、早速聴いてみました。

    正直に言うならば、武満徹の音楽はいまだによく分かっていません。ですからこの盤に納められた「こどものためのピアノ小品」とか、おなじみのビートルズ・ナンバーを編曲した「ゴールデン・スランバー」などの、あまりゲンダイオンガクしていないメロディの中に、つい、自分にとっての武満の音楽的意味とか価値を見出そうとしてしまいます。武満は難解な曲も書いたけれど、一級のメロディメーカーだったんだなという一面的で独断な納得の仕方、武満もそんなにとっつきにくくないぢゃない、という偶像の民主化。

    武満の曲は「こどものための」だとか、スタンダードナンバーの編曲であっても、実は演奏するのが、かなり難しいのだそうです。でも、そういう難しさを全く感じさせずに曲はあまりにも美しい、美しすぎて哀しくなるくらいであります。ですから、武満の音楽に癒しを求めてしまうことも否定はできません。

    しかし、そういうアプローチしやすく親しみやすい武満像とは裏腹に、難解ながらも響きの豊穣さに浸りきったとき、音楽が琴線の深いところにハマる武満音楽というのもある。本盤の最初に納められている「閉じた眼」はルドンの絵を思い出さずとも、心の深いところに降りてゆくかのような静けさと、ある種の激しさに深い感銘を覚えます。比較的親しみやすい「雨の樹素描」は、たっぷりと水分を含んだ質量感のある大樹の豊穣さが脳裏に浮かびます。

    相場ひろさんはCD解説の中で、前衛音楽の先駆者であった武満と映画音楽などの分野で活躍した武満を「ふたりの武満徹」の相克として説明しています。かつては前衛時代の武満こそが本来の姿であるとして評価されていたが、現代においては武満の価値は一転しのだと。

    こんにち武満を聴き、愛好する人たちの多くにとって、かつてとは逆に彼は、前衛音楽に対する調性音楽の勝利を象徴する作曲家として理解されているようなところがありはしまいか。

    これを読んで一瞬はっとはしたものの、あまりに武満を理解する「型」に拘泥しすぎてはいないかとも思います。

    虚心に聴くならば、先にも書きましたように、ある瞬間に音楽が琴線を奮わせる。セリー理論だとか調性だとかの専門家しか理解できない音楽理論をゆうに飛び越えて、音楽の持つ得体の知れない力が人を捉えて放さなくしてしまう。そんな武満音楽の魅力を改めて思い知らされてくれる名盤であると思います。

[読書メモ]坂口安吾

坂口安吾の作品をいくつか読んでの雑感。



  • 若さゆえの肉欲を抑えきれない精神
  • ロマンチストゆえに恋愛と肉体の愛のハザマにあって、肉体の愛を究極までに純化することによって、あからさまな欲情をカモフラージュした
  • すなわち、女性には精神的な要素を認めず、現代から考えると蔑視とも取れるかのような存在として描く
  • それは「白痴」という正常な精神を有さない女性であったり、肉体の要求のまま生きている淫売であったりする
  • そして行為を許容したり拒否しながら、行為そのものへの欲求を客体化させてしまう
  • 自分をひたすらに堕落せしめているとは言っても、所詮は気ままな男のやけっぱちさ?
  • 堕ちた所から見えてくる姿、そこから斬ること

2006年7月2日日曜日

坂口安吾、太宰治、そして町田康など


町田康を読んでいたら、ふと坂口安吾でも再読してみるかという気になり、「堕落論」「続堕落論」(1946年)、「日本文化私論」(1942年)、「不良少年とキリスト」(1948年)、「デカダン文学論」(1946年)などをつまみ読みする。



戦中に書かれた「日本文化私論」や、戦後すぐに書かれたや「堕落論」は今読んでも、いささかもその光芒も力も失っていないものだなあと関心しきり。「デカダン文学論」では島崎藤村や横光利一、夏目漱石をコテンパンにやつけている。特に「こころ」の主人公を自殺させたことに対して、坂口は辛辣な批判を浴びせている。


自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに


坂口の堕落は、現代から見ると古い日本的なものからの逸脱であり、決して所謂「退廃」を意味していない。力強く前向きだ。


「不良少年とキリスト」は、MC(マイ・コメディアン)を演じた太宰治が自殺した直後に書かれた太宰のバカヤロウ的文章で思わず胸が詰まる。そう思ったら無性に太宰を読みたくなって「人間失格」「斜陽」そして未完の「グッド・バイ」を続けざまに読む。


太宰はダサイだの暗いだの言われていたし、今で言えばヲタクみたいな同級生が太宰を好きだったりしたことも手伝って、学生時代には太宰の小説からあまり感銘を受けなかった。しかし、この年になって改めて読むと、彼のニヒリズムの厳しさにヒリヒリする。「人間失格」を書くために太宰は生まれてきたと文庫解説の奥野健男氏は指摘する。しかし「斜陽」の4人の主人公とて全て太宰の分身ではないか。2作を続け読むと誰が誰で何をしでかしたのかの境界がぼやけてくる。井伏鱒二は「悪いやつ」だったんだなアとか(笑)


坂口は「不良少年とキリスト」の中で

あれを人に見せちやア、いけないんだ。あれはフツカヨヒの中にだけあり、フツカヨヒの中で処理してしまはなければいけない性質のものだ。

と断じた。しかし太宰を読んだ後に、もう一度この文章に接すると違和感がある。坂口と太宰は根本からして違う人間なのだ。むしろ太宰の内面は三島のそれに近いような気がする(だから三島は太宰を「近親憎悪」したのか)。坂口と太宰は明らかに系譜もベクトルも異なっていることに、今更ながらに気づく。


町田文学は太宰の系譜を汲んではいる。しかし彼もあそこまで退廃はしていない。独特の醒めた眼がある。それが諧謔のギリギリのところで彼を踏みとどまらせる。太宰はコメディアンで芸術家で革命家ではあったが、町田はパンク歌手で詩人である。坂口もパンクだ。しかし、それぞれが求める堕落も革命もパンクも異なっている。


太宰も町田も個人と人生の大いなる虚無を見つめ、虚無から逃避することでばかばかしい日常を無理やり生きた。ドラックとアルコールは共通だが、町田氏は白い狂気に向かい、太宰は暗い死を選んだ。坂口は、ひたすら強く生きたか。


最後に、多分、町田氏は死なねーなと根拠なく思ったところで(今時死ぬるほどに虚弱な芸術家は絶滅したか)、柄にもないデカダン文学浸りはオシマイにしよう。

2006年7月1日土曜日

[読書メモ]町田文学のエッセンス

町田文学のエッセンス、根本的なパターンに変化はない。


  • ダメ人間と現実のねじれ

  • 奇行と狂気

  • 本人が真面目であり、世間の期待に応えようとしつつも結果は異なる方向にしか向かわない

  • 自分を客観視

  • 自虐的な喜劇

  • 人生に対する余裕



2006年6月29日木曜日

直島めぐり【その3】ジェームズ・タレル


安藤氏とジェームズ・タレル氏によるコラボレーション作品は地中美術館と「民家プロジェクト」の南寺で接することができます。

タレル氏といえばアリゾナ州のローデン・クレーター・プロジェクト(未完成)が有名です。このアート作品はクレーターという自然のすり鉢の中から天空を眺めるというものです。あたかも宇宙空間を切り取ったフレームの中から見せるという壮大なるものです。以前TVか何かで放映され、いかにもアメリカ的なスケールのでかさに驚いたものです。

地中美術館にある「アフラム、ペール・ブルー」は、室内インスタレーション作品。光の中に脚を踏み入れるかのような不思議かつ非現実な体験が得られます。ただ危険防止のために柵とアラームが設置されているのは残念。これでは地下鉄ホームではないですかっ、タレル氏の非現実感を「この先危険」を知らせる無機質なアラーム音が、まったくただのジョークにしてしまっている罪は大きいと思います。

南寺で体験できるのは「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」という作品。こちらは、そういう莫迦げた演出はありませんから、素直にタレル氏の作品世界に浸ることができます。

まず鑑賞者は全くの「暗室」に通され、ベンチに座ることを促されます。室内は目を開いているのか閉じているのかさえ判然とせず、目の前には網膜に明滅する模様しか見えません。ちょっとした根源的な、実存を脅かすかのような恐怖さえ感じます。

ふと長野善光寺の胎内巡りをふと思い出します・・・(空間の広がり感はまるで異なりますが)、あそこでは「鍵」に触れると極楽浄土が約束された筈。タレル氏の「鍵」は光。室内に入り5~10分すると暗闇に慣れてくることで、部屋の正面に薄ぼんやりとした映画のスクリーンのような弱い光が見えてくると説明されました。光が見えたらそこに向かって歩いて行ってよいと・・・。

本当に自分にも「光」が見えるのか、不安と期待に捉われながら、自分がどこに居るのかも分からない暗闇で待つこと数分。それは不思議な体験でした、徐々に目の前に何かが見えてきたときの覚醒の感覚と感動。

説明すると、ただそれだけの作品なのですが印象は強烈でした。何も見えなかったところから浮かんでくる光のスクリーン。一旦見えてしまうとそれを背景に明滅する先を歩く人の幻影さえ認識できます。全くの暗黒の中で自分や同行者を再び見出したときの不思議な驚き。あたかも3D画像が初めて「見えた」時の驚きや悦びに似ていましょうか。

この手の作品は、「時間がかかる」ため、日本やスウェーデン、ノルウェイなどでは受け入れられるものの、アメリカやドイツでは展示が難しいとタレル氏は言います。日本人であることを喜ぶべきでしょうか(笑)

タレル氏は「光や空間の芸術家」と紹介されます。アートや芸術が人に感動を与えたり、自己を再認識させたりするものであるのならば、タレル氏の作品は改めて一級の作品であると思うとともに、はじめてインスタレーション作品の持つ「力」を思い知った次第です。

●直島めぐり1 ベネッセハウス

●直島めぐり2 地中美術館

●直島めぐり3 ジェームズ・タレル









2006年6月27日火曜日

直島めぐり【その2】地中美術館


安藤忠雄氏の地中美術館は2004年7月18日にオープンしました。クロード・モネの絵画とともに、現代美術作家であるジェームズ・タレル氏、ウォルター・デ・マリア氏の作品が常設展示されています。



建物のほとんどが「地中」に埋設されていること、そして今や世界的なとも言える建築家である安藤氏の建物そのものが「作品」になっていることなどから、建築関係者を越えて話題となりました。

予め写真や雑誌などで、建物の概要は掴んでいたつもりですが、実際に安藤氏の建築を「体験」してみますと、彼の作品の中でも群を抜いて素晴らしいと感じました。今年オープンした表参道ヒルズが、全くいいところなしであり落胆させられたのとは、えらい違いです。

表参道ヒルズは、そのプロセスそのものが「作品」であったというのが私の評価ですが、直島プロジェクトはプロセスと結果を含め彼の代表作足りえていると思います。安藤氏の作品は、商業的な垢にまみれてしまうより、建築が屹然として存在を主張できるカタチの方が合っているのでしょうか。建物を地面に埋めてしまうということは、究極の環境配慮なのか、環境に対する欺瞞と冒涜なのかは議論が分かれると思いますが・・・
ここに収められたモネの作品も、静謐な空間と柔らかな自然光によって生来絵が持っていた美しさと力を取り戻しているかのようです。モネの聖地ともいえる新装されたパリのオランジェリー美術館がどういった展示空間になっているのかは分かりませんが、今まで接したモネの中では、最も絵画に適した環境であると感じました。

モネは大好きな画家ですから、このような空間で睡蓮シリーズに接することができたことには深い喜びと至福さえ感じます。自然光に照らされた絵画は通俗名画的な俗悪性を一切脱ぎ去り、霊的な雰囲気さえ漂わせていました。

ここでの安藤氏の建築は非常に控えめで、作品の力を引き立てることに成功しているようです。安藤氏には珍しく、コンクリートには塗装を施し、室内の入隅部は曲線を用いています。床に敷きつめられた70万個にも及ぶ2cm角の大理石も静謐な空間を作ることに一役かっています。

ジェームズ・タレル(米国:1943年生まれ)の展示スペースのひとつである「オープン・スカイ」は、鋭利に切り取られた空と、そこから降り注ぐ光の変化を楽しむ空間芸術です(左写真)。これには全く驚かされました。ウォルター・デ・マリアの展示スペースも素晴らしい。(ジェームズ・タレルについてはエントリを改めます)



しかし何よりも一番驚いたのは、やはり安藤氏の建築そのものでした。特に三角コートを結ぶ回廊の壁を切り取る開口幅35cmのスリット(左、下写真)は驚きでしかありません。建築の持つ有無を言わさぬ説得力という点において圧倒的です。



印象派のモネも、展示されているのが晩年の睡蓮シリーズですから、もはや抽象絵画、光と色彩の洪水と称しても良いような作品。建築家の安藤氏と、モネや光の芸術家であるタレル氏などの現代美術が、違和感なく融合しているのも、ともにギリギリまでの純粋性を志向しているという点で共感しあうものがあるのでしょうか。



ちなみに、掲載した写真や図面は「あちこち」から無断転載したものです。

2006年6月26日月曜日

直島めぐり【その1】 ベネッセハウス


香川県の直島に今年の5月オープンしたばかりのベネッセ・ハウス「パーク」に宿泊。安藤忠雄氏のコンテンポラリー・アート・ミュージアムと、2004年に出来た地中美術館、それと家プロジェクトなどを駆け足で観てまわってきました。

下の写真はホテルのバルコニーからの風景、なんともリッチです。部屋からは瀬戸内海が一望でき、山からは鶯の鳴声が朝の5時くらいから聴こえてきます。



宿泊施設も安藤氏の設計ですから、エントランスロビーからして、こんなカンジです。最近はコンクリートに長大な横スリットというのが、彼のお気に入りのようです。



レストランに向かう廊下も、こんなふうにコンクリートで出来ています。ここでは縦のスリットが綺麗ですね。



レストランのウッドデッキの目の前は砂浜。長閑な瀬戸内海が望めます。天気が良いと四国まで点在する島々が見えるのでしょうね。瀬戸内海は交通の要所らしく、タンカーやらフェリーがひっきりなしに往来しています。

ホテルは「アート・ミュージアム」というくらいですから庭には様々なアート作品が点在しています。



ほんとうに駆け足ではありましたが、なかなかにJCB GOLD的な旅でありました。詳細は続きます。



●直島めぐり1 ベネッセハウス

●直島めぐり2 地中美術館

●直島めぐり3 ジェームズ・タレル











【本棚】パンドラの箱とフラット化


Syuzoさんのブログを読んでつらつら考えます。

私も仕事とは別に、この先どういう世の中になっていくのかの興味がつきません。「パンドラの箱」を考えるキーワードの一つは、私の場合は「フラット化」ということです。情報化やIT化が産業革命に次ぐ大きな変革であると説いたのはドラッカーだけではありません。

「フラット化」ということが気になっていたら、本屋でトーマス・フリードマンの「フラット化する世界~経済の大転換と人間の未来」という本がたまたま目に付き、読み始めています。フリードマン氏は自著の「レクサスとオリーブの木」を引き合いにしながら、グローバリゼーションが大きく三つの時代として存在していたと説明します。

ひとつは旧世界と新世界の間で貿易が始まった1492年から1800年頃まで(グローバリゼーション1.0)。次が多国籍企業による世界統一の時代で産業革命を含む1800年から2000年まで(グローバリゼーション2.0)。そして今はグローバリゼーション3.0に移行したのだと。個人や小集団が簡単にグローバル化することが可能になったということ。確かにこれは劇的な変化です。

私の常識は、私の子供にはもしかすると伝わらない。私たちの成功体験は、彼らの世代には無意味なものとなるかもしれない。私たちの時代の幸福感は彼らの不幸でしかないかもしれない。未来はどこに向かうのか。政治の力が復権することはありえるのか、経済や資本主義主導ではない社会は到来するのか。個人と組織の関係は変化するのか。哲学や文学は、あるいは音楽やアートは何を表現するのか。神は終に絶滅するのか、あるいは劇的復活を遂げるのか、Googleが神だなんて、あまりに莫迦げていませんか?

2006年6月23日金曜日

町田康:へらへらぼっちゃん


町田氏のエッセイ集です。彼が「くっすん大黒」を発表したのが1996年のこと、ここに収録されているエッセイは1992年からのもので、彼が小説家としてデビューする前の文章であるという点で興味深いものです。

内容は彼の小説世界そのままで、内装業者友達の世話による「ペンキ塗り」や「冷蔵庫」に関する逸話も、彼の体験に基づいたものであることが理解できます。

それにしても不思議なのは、3年間も働かずに昼間から酒を飲み時代劇を見続けるという生活を続けながらにして、人間的にも家庭的にも破綻しなかったという驚くべき彼の持続性。


何もしないで遊び呆けることの難しさ。彼の処女小説「くっすん大黒」が上梓されることになるに当たって、

私はこの本を、これから就職する人や仕事をやめてぇ、と思っている人に読んで欲しいなあ、と念願している。(「遊びの苦しみ」P.227)

なんて書いています。彼の「遊んで暮らす」というのは筋金入りでして、その覚悟はあるかと。

なにしろ当方は、必死になって何もしないで遊んでいようとしているわけだから、昼酒を飲んでみたり、再放送のテレビ時代劇を日に五本も見たり、都々逸の稽古をしてみたり、木桶に飯と菜を盛って、犬のように手を使わずに食ってみたりと、いろいろ試しているのである。(「旅人・遊び人」P.13)

なんだそうであります。ココだけ読むと、キの印としか思えないのですが、まあそれが町田康なんですねぇ。

町田小説にどっぷりつかってしまった人には、彼のルーツが分かるようなエッセイでもありまして、ビール飲んだりハム食ったりしながら、芝清之編「東西浪曲大名鑑」、坂口安吾「明治開花安吾捕物帳」、八剣浩太郎「大江戸愛怨伝」、織田作之助「江戸の花笠」なんて読んでいるんだものなあ、そうか、そうか、やっぱりそうであったか、なんてね。思ったりするわけです。

大槻ケンヂの巻末の解説も抜群。

ここで、ふと思ったけれど、彼の小説の読者層というのは、やっぱり十から二十代の若者なんではなかろうかと、いい大人が「町田康はオモロイ」なんて書いているのは、もしかすると、間違っているかもしれない・・・。場違いなライブハウスにスーツ着て聴きに行ったような、恥ずかしい違和感。そろそろ町田巡りもオシマか?しかし・・・町田本を読むのを止めたら、次は誰に熱中できるというのだ?

2006年6月21日水曜日

町田康:権現の踊り子 ほか


興味のない方には「いい加減、町田ネタはうんざり」と思われるでしょうが、面白いのですから仕方がありません。個人的な備忘録としてのブログですから、興味ない方はスルーして下さい(苦笑)。

で「権現の踊り子」という川端康成文学賞を受賞した作品を含む短編集。面白いのは「工夫の減さん」という、ことごとくマイナスかつネガティブな作品でしょうか。

減さん(名前がそもそもネガティブ)は、全く役に立たない「工夫」を繰り返し、その「工夫」が本人の幸せにも周りの人たちの便利にも全然寄与せず、しかも減さんが、多大な苦労をして日々「工夫」をしながら生きていることを周りの人は理解していないという不毛、絶望、断絶、滑稽。ああ、町田文学の全てがここに濃縮されています。

「それにつけても減さんは工夫の好きなやつだったよねぇ」と話しかけた。
女は俺の顔を見て、「そうだったっけ」と言って首を傾げた。俺は、
「けっこうそうだったよ」と小さい声で言って麦酒を飲んで噎せた。

思わず知らずに答えて噎せる主人公。噎せざるを得ない、この無理解と摩擦と哀しさ。

他者が徹底的な「他者」となり、自分だけが取り残され絶望的な狂気に至るさまをB級ホラー的な味わいで描いた「ふくみ笑い」も、時代劇好き町田氏にして描けた、人格が破綻た水戸光圀を主人公とする「逆水戸」も、モンクなしに面白い。中崎タツヤあたりにマンガ化してもらいたい味わい。

しかし・・・町田文学は、確かにどこにも向かっていない。ヘタをすると人間の虚無と立ち向かって、へらへらと笑っている。なんで、こんなことをするのか、どうしてこうしなければ自分は生きられないのか。笑いながらも深淵を覗いている。

2006年6月20日火曜日

町田康:告白


時代劇の好きな町田氏が、近代的自我を持たない社会の中に、極端に自意識過剰な自我と思弁を持ち込んだら、両者に生ずる摩擦とかズレがさぞ面白かろうに、と思って描き始めたのかどうかは分かりません。しかし内容は、そういう単純な意図をはるかに越える内容を描ききっています。

小説は近代的過渡期に生まれた悲劇を描くに留まりません。人が成長してゆく過程の中で、思弁的かつ自己弁護的なるものを捨て「大人」に成ることに付いてゆけない者の圧倒的孤独をも描いており、そういう点においては、現代的かつ町田的テーマでもあります。


熊太郎の持つ存在の哀しさ。それは近代的自我持つ主人公と他者との間に横たわる深い溝として説明されます。彼だけが思弁的内向性を有していたが故に、他者に自分の考えが「伝わらない」ということ。しかし、彼の考えだけが伝わらないのではなく、他者の思弁も、熊太郎はそんなものは存在しないとアタマから否定していことによって、彼には一生理解することができないのです。存在しないと考えるものを理解することはできません。

他者と自分の痛いまでの違いの認識、自己認識あるいは、極端なる自意識。行動よりも思弁が圧倒するということ。決して埋まらない自己と自己、そして自己と他者との間の断絶の中で、分裂と不信、甘さと自己愛に支配された彼は、救いと自己の解放、現実との整合などを求めて、どこまでも、どこまでも、捩れていきます。

現実と折り合いのつかなさ、世渡りのヘタさ、真面目にやればやるほどに、ズレてゆく主人公の姿は全ての町田文学の典型です。しかし、「告白」で描かれた狂気の結末は、不条理やユーモアという笑いのオブラートを取り除いたが故に、彼の他のどの小説にも似ず悲劇的です。最終的に熊太郎は救わなかったような描かれ方をしています。彼の見つけた自己の内部の「曠野」、果てしない虚無と絶望。銃声は彼の何を殺したのか。

もう一度、いやしかし、彼は本当に救済されなかったのだろうか、と考えます。ここには、「人は何故人を殺すのか」ということ以上に、「人は何故に生きるのか」「何故に死すのか」という命題をも含んでいます。熊太郎のダメ姿を自己投影する読者も多いはずです。そこに町田文学に対する共感があり、そして深く考えさせられます。

改めて思う、町田氏は凄いです。classicaのiioさんに教えられて町田道に入りましたが、最初からこの本を読まなくて、つくづく良かったと思います。感謝の意を込めてTBしておきます。

2006年6月18日日曜日

山口恭子:だるまさんがころんだ、猿谷紀郎:碧い知嗾/岩城宏之 & OEK




  1. 山口恭子:だるまさんがころんだ (1999)
  2. 一ノ瀬トニカ:美しかったすべてを花びらに埋めつくして… (1995年度オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱作品)
  3. 猿谷紀郎:碧い知嗾 (2003年度オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱作品)


  • 岩城宏之(cond) オーケストラ・アンサンブル金沢 高木綾子(fl)
  • 2003年4月24(1)(2) 2003年9月19日(3) 石川県立音楽堂コンサートホール(ライブ録音) WPCS-11723

せっかくなので、山口さんと猿谷さんの作品についても言及しておきましょう。

最初の山口さんの曲は「だるまさんがころんだ」という無邪気なタイトル、しかし童謡風のほのぼのさとは全く異質の音楽世界、静と動の激しい対立と緊張が表現されています。山口さんはこの曲が残響の長いホールで演奏されることを意識したそうです。長く引き伸ばされる音、小刻みなフレーズ、弱奏とたたきつけるような音塊、そして最後の消え入るような終わり方が印象的。5分程度の短い曲ですが、響きの生み出す面白さと不思議なイメージを堪能できます。《本当は怖い「だるまさんがころんだ」》

猿谷さんといえば、「ディープインパクト~栄光」で有名な作曲家(らしいです)。慶応義塾大学法学部卒業後、ニューヨークのジュリアード音楽院作曲科に留学し優秀な成績で卒業されているという異色かつエリートな経歴。彼の書くプログラムノートも哲学的で難解。雑踏の中に時折飛散する少し碧みがかった花弁のような真理を拾い集めてみたいとあるのですが、私には雑踏の中での無秩序で不安な断片のようなものしか聴き取れず。こちらの曲は、今の私には余り馴染めませんでした。猿谷さんは現代作家の中で確たる地位を築いている方のようですので、他の作品も機会があれば聴いてみたいと思います。


一ノ瀬トニカ:美しかったすべてを花びらに埋めつくして・・・/岩城宏之 & OEK 高木綾子

  • 山口恭子:だるまさんがころんだ (1999)
  • 一ノ瀬トニカ:美しかったすべてを花びらに埋めつくして… (1995年度オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱作品)
  • 猿谷紀郎:碧い知嗾 (2003年度オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱作品)
  1. 岩城宏之(cond) オーケストラ・アンサンブル金沢 高木綾子(fl)
  2. 2003年4月24(1)(2) 2003年9月19日(3) 石川県立音楽堂コンサートホール(ライブ録音) WPCS-11723
岩城宏之氏の訃報に接し、何か一枚くらいは聴いて冥福を祈ろうと考え入手した盤。解説によるとどれもが日本の現代音楽の「今」を象徴する3人の若手作曲家による注目作品を集めた1枚であるとのこと。

一番の注目は、高木綾子さんがフルート・ソロをつとめる一ノ瀬トニカさんの作品。これが恐ろしく素晴らしい。高木さんのフルートは文句なしに良い。彼女独特の一本芯の通った音が曲に存在感を与えています。とにかく、冒頭の室内楽とフルートの交信からして美しすぎる。何なんでしょう、この懐かしさに満ちた、それでいて新しい感じのする音楽は。

作曲者自身によるプログラム・ノートには一種の浮遊感(足取りとしては確かなもの)というキーワードがあります。確かに浮遊感のような、移ろいの美しさと儚さはあるものの、弱々しかったり女々しかったりするようなものではなく、不思議な確信と希望に満ちた感覚。立原道造の『天の誘い』という詩にインスパイアされて作曲したのだそうです。

中盤での高木さんのフラッターと跳躍を伴った技巧的なパッセージ、それに呼応するかのような弦と打楽器の交信、オーケストラによるクラスター的音響とフルートの叫び。音楽は次第に盛り上がって。

そこからラストに至る音楽は、美しすぎて言葉になりません。

岩城氏の音楽を聴くつもりが、一ノ瀬トニカさんと高木綾子さんに、完膚なきまでに叩きのめされた一枚となってしまいました。

その一ノ瀬さんの作品をもっと聴きたいっ!と思ったら、来週の目白バ・ロック音楽祭で聴けるではないか!目と鼻の先!っと思ったらっ!来週は岡山出張ではないかっ!ふひょーん!! ちなみに高木綾子さんのフルートは7月の奏楽堂で接するから良しとしよう。

ふと思ったのですが、名前が「トニカ」ですって?本名?「現代音楽」なのに美しいわけです。

2006年6月17日土曜日

【本棚】本城直季:small planet


本城氏も最近、あちこちの雑誌で、その写真を目にすることが多くなりました。大判カメラの「あおり機能」を駆使して、実写でありながらも建築模型のような不思議な写真を撮っている写真家です。


本当に、仔細に見れば見るほど、オモチャのように見える都市の姿。逆転の発想ですが、今までこんな作品を撮る人は、確かにいなかった。彼の作品をして「神の視点」と評する人がいます。しかし上からすべてを見下ろす神という絶対的なものではなく、地上を限りなくイトオシク思いながらも、そこに自分が居ない感じ、すなわち「死んだ直後に空中にポカンと彷徨う」といった雰囲気の方が強い。


だから、「嘘っぽさ」と不思議さとシュールさを併せ持ちながらも批判精神はない。作品には乾いた快楽が横溢していて、それが作家の意図したかしないかとは別に、作品を仔細に眺める者をふと哀しい気持ちにさせます。これも百聞は一見にしかずです。


Amazonして分かったが、本城氏と同じような作風の作家は、海外にも居るのですね・・・。Amazonも、使いようによっては、やっぱり便利鴨。



2006年6月16日金曜日

山口晃作品集

山口晃という作家をご存知でしょうか。日本橋三越の開店時のイラストで広く知られていますが、このたび作品集手にとって開く度にびっくり。耽溺、何て素敵なっ!

日本美術をたくみに引用した、その卓抜なる技法。日本画と大友克洋氏が合体したかのような画風。マシンに対する偏愛、緻密さ、計算されつくした技法と偏執的なまでの細部への拘泥。細密な絵画を見入ることの快楽、眼の至福。クラクラし通しです。百聞は一見にしかず。しかしルーペを付けるくらいなら、もうすこし大判にして欲しかった。


2006年6月15日木曜日

町田康:屈辱ポンチ


「けものがれ、俺らの猿と」と「屈辱ポンチ」という二編が納められています。どちらも町田節が全開の中編小説です。ダラダラと改行少に続く活字を読み進むうちに、脳内は痺れるような町田ワールドに支配されてしまいます。

内容は典型的なダメタイプの主人公が巻き起こす脱力的努力の連続劇。だからといって「またかよ」といって飽きてしまうわけではなく、やっぱりそれでも面白いと思ってしまいます。町田氏は凄いなと。


「けものがれ、俺らの猿と」という奇妙なタイトルの作品における登場人物とストーリー展開は、本当に陳腐な言い方ですが不条理そのもので、更にはB級ホラー的な雰囲気さえ漂わせており秀逸です。途中で登場する田島という人物の得体の知れ無さ、ワケの分からなさ、通じなさから生じるジンワリとした恐怖。相手の真意が理解できないままに振り回される主人公の姿。そして主人公が頑張れば頑張るほど、底なし沼に沈んでいくかのようなドツボの展開。かくも不器用でいること、現実との接点を欠いている姿は、確かに喜劇ではあります。

「屈辱ポンチ」という、これまた意味不明の人を小莫迦にしたようなタイトルの小説も、目的や真意の分からないミッションに真面目に取り組む主人公達を描いています。その真面目さがクソ真面目であるほどに現実的な効果は全く得られない。彼らの努力とはほとんど無関係に、それを嘲笑うが如くに世界は動いていきます。この現実とのズレに笑いながらも、ふと考える。

本当に心の底から町田喜劇を笑えるのか、自分の成しているミッションに本当に意味があって、目的を理解しているのかと。いやオレは本当にストレートに世界と「つながっている」のかと。

( Amazonへ)

2006年6月12日月曜日

【本棚】梅田望夫:ウェブ進化論


梅田望夫氏の「ウェブ進化論」を読み終えました。多くの示唆に富んだ本です。本書を読んで感じたことは、何度かに分けてエントリしましたので同じ事は繰り返しません。Googleの凄さとか、Googleと楽天の違いやWeb2.0について知るために本書を読むことも有用ですが、私はもう少し別な刺激を受けました。

誰もが認めるように、Googleのミッションの途方もなさにはあきれるばかりです。それを宗教のごとく信じ、全ての企業活動をそれを具現化させるために邁進させているという点においては、ビジョナリー・カンパニーの資質を有していおり極めて興味深い。

しかし私の関心点はGoogleの凄さにはなくGoolge的な企業がもたらす社会が、今後どのようにパラダイムシフトしてゆくだろうかということ。高度に発展してゆくIT社会において、今後の組織と人間はどのように関わってゆくのか、テクノロジーはどこまで人間を幸福にするのか、ということです。

私が想像しているのは、P・F・ドラッカーが指摘する知的労働者がIT革命によって得られた情報ネットワークを通じて、個が余計な介在なしにダイレクトに社会に向きあっている姿です。例えばリナックスの開発に携わるような動き。固有の組織に属さずに、組織に属したのと同じような、あるいはそれを上回る結果と自己実現を得るということ。あるいは大きなミッションに参加しているということから得られるモチベーション。これは既成の階層的組織構造で働く姿とは、大きく異なっています。

社内イントラネットが登場し始めた頃、私は本支店の情報を集めて整理するだけの部署、あるいは仲介役となるような役職は、いずれその役割を終えるだろうと感じました。組織構造がITによってドラスティックに変質する予感を覚えたものです。あれから10年、一部ではその胎動はあるものの、固定化した組織はまだ磐石のように見えます。

そういう企業であっても、知の源泉はシステムやデータベース、ましてや幻想に終わったAIなどではなく、人そのものであること。企業の一番重要な経営資源は優秀な人材であることは、今更ながらに自明のことです。人的ネットワークを有することが能力の一部だったり、優秀な人材を活用するための仕組みを必死で探っています。

しかし、あと数年するとどうなっているのか。情報の共有と知のフラット化がある程度実現された場合、個としての存在価値と組織活動は、どこへ向かうのか。企業と企業の関係もしかり。e-コマースの普及と発展は、調達コストの低減と、今までの調達先や系列の再編へ向かう可能性も秘めています。

顔の知らない誰かから重要な品質のモノが買えるか、最後はマン・ツー・マンだ、ということも充分理解します。思い返せばe-mail黎明期、メールを送った後に失礼に当たるからと電話もしていました。今では「ダメ押し」「催促」の意味でしか改めて電話などしません。それでも仕事はドンドン進みます。(というか、余程の用件でなければ相手の都合を待って電話などしている時間はない)

私事ですが、16~17年前に社内で掲示板機能を用いた情報共有システムが立ち上がったことがあります。どこかの誰かがある問題に悩んでいるという書き込みに対し、即座に驚くほど多くの反応が得られました。まだ1200bpsの電話回線でピーガーやっていた時代です。何かとんでもないことが起こるかもしれないという、予感がありました。

しかし、それは長続きはしませんでした。社内上層部からは「一部のマニアのお遊び」と思われていました。掲示板参加者も年を重ねるに連れ経験を積み、そういうシステムでは飽き足らなくなってしまいました。掲示板参加者が増えすぎたことは議論を発散させ、また経験知を生かすことができずに、テーマも堂々巡りに陥ったことが原因のひとつです。知的集合体が新陳代謝によってレベルアップしなかったのです。また一番重要なコストに関する情報がネットの開放性にそぐわなかったということも、多くの一般社員が「お遊び」と感ずる原因でもありました。(これは、今書いて思ったのですが、別な問題を内包しているようです)

それでもネットにおいては、社内ではあっても、上司も部下も、年長の経験者も新入社員の別もなく、全くフラットな空間でした。あの人と、この人の違いは何によるのか、上司と部下の関係はどうなるのか。組織対組織は。そういう今の常識とは違った社会が、全ての人にバラ色であるのか、グレーなのか。しかし、箱は開いてしまっている。









【演奏会】金聖響指揮:読売日響 第79回東京芸術劇場マチネシリーズ

東京芸術劇場で読売日響のマチネシリーズを聴いてきました。

  1. モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調 K.537 《戴冠式》
  2. R・シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》

  • 6月10日(土)14:00 東京芸術劇場
  • 指揮:金聖響 読売日本交響楽団
  • ピアノ:コルネリア・ヘルマン
  • コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

以下のレビュはネガティブなものになってしまいましたが、考えてみれば、贅沢にして傲慢な感想です。ハイレベルな音楽をいつでも聴ける環境に居ることに、改めて気付き感謝すべきかもしれません。

1曲目のモーツァルトK.537。ピアノは日本でもたびたび演奏しているコルネリア・ヘルマンさん。彼女は写真で見る限り非常に美しい方で追っかけも多いのだそうです。母親が日本人であることもあってか、親しみやすい顔立ちです。

今日もドレスは、彼女のトレードマークなのか深い赤です。金氏のモーツァルトは、オケの人数も多くオーソドックスなモーツァルト演奏のように感じました。鮮烈なことはしない。それは彼女のピアノも同様です。

モーツァルトの突き抜けた長調の明るいこの曲に対し、彼女のピアノは少しくぐもった柔らかな音色に聴こえる。ガンガン攻めるピアノではない決してない。指先からの変化は、ときにはっとするほどの微妙な色彩を聴かせてくれます。でも、それが金氏やオケと、いやこの曲の雰囲気と合っていたか。

というのも、彼女はモーツァルトを得意としているとのことですが、今日のピアニズムからは、むしろシューマン的な香りを感じ取りました。彼女の演奏は、天真爛漫でいながら計算づくのモーツァルトの天才による至福とは違った、もっと端正なモーツァルトでした。

続く《英雄の生涯》ですが、この空疎とも云える曲を金氏がどのように料理するかにも、大きな興味がありました。しかしこの曲に期待する浪漫という点からは、今ひとつであったなあ、というのが正直な感想。「戦場の英雄」あたりの音量は凄まじいものがありましたが、粗さも否定できない。圧倒的な暴力の氾濫という雰囲気は出ていましたが。コンマスのノーランさんの奏でるテーマも、あまり心に入ってこなかった・・・。

《英雄の生涯》というのはR・シュトラウスが音楽で描いたわざとらしい戯曲だと思っています。金さんの指揮からは統率力と抜群の制御能力の高さを感じます、どちらかというと理知的といえましょうか。これを演奏するならば、阿呆くさいくらい成り切って演奏しなくては中途半端なものとなってしまうような気もします。生意気で勝手な感想で恐縮です。もっとも私の聴き方が、過去の名演奏家のイメージにひきずられ過ぎているという気がしないでもありません。


読売日響の音は良いですね。ドイツもの、特にマーラーやワーグナーなどをこのオケで聴くと格別だと思います。
ヘルマンさんのピアノは、できれば小さなホールのソロで、シューマンとかブラームス、あるいはモーツァルトのソナタなどで聴いてみたいものです。おそらくはコンチェルトとは違った魅力を聴けると確信します。今回は金聖響さんのブログを読んで、是非とも聴いてみたいという気になって駆けつけました。金聖響さんの演奏は、やっぱりベートーベンあたりを聴いてみたいですね。

2006年6月11日日曜日

パンドラの箱


syuzoさんのコメントにレスしていたら長くなってしまったので、エントリとします。(>読み返したら、ちっとも「レス」になっていませんでしたが・・・)


梅田氏の本を読みながら、ふとe-mailを仕事で普通に使うようになったのはいつだったかと、振り返ってみた。今でこそ社内、社外を問わずe-mailの存在なしには業務は出来ないほどになったが、私にとってのe-mail使用歴は、たかだか10年も経っていない。


今から10年前といえば1996年。我が社は阪神大震災(1995年1月)を契機に、社内ネットワークの重要性にやっと気付いた時期である。そういう本社から支店に戻ったばかりの私は、部内や部外にネットワークのメリットを啓蒙者のように説き、実践し結果を示さなくては、その本質を誰も理解してくれなかった。NEC N5200シリーズのLAN-FILEで構築されたていたデータベースをWindows95で動くACCESSに変換し、当時流行しはじめたISOに対応した部内RDBシステムを独自で構築し、誰でもが自分のPCから使えるようにした。Niftyはまだ隆盛を誇っていた。FCLAやFCなどの存在は懐かしい。パソコン通信は日常生活の一部であった。


15年前といえば1991年頃。携帯電話はまだ一般的ではなく、肩から箱のようなものを提げなくては使えなかった。PCのOSはMS-DOS3.*で、私のパソコンに対する関心は、テキストファイルをいかに効率的に扱うかであった。sedやawkなどのunixから転用されたスクリプト言語を四苦八苦しながら使っていた。テキスト入力はお決まりのVZ Editor。C言語やC++を趣味と見栄で覚え、TurboC++を使って愚にもつかないプログラムをいくつか作った。パソコン通信にどっぷり浸かり、見ず知らずの人と繋がる快感を覚えていた。


20年前といえば1986年。パソコンは職場には存在しなかった。ワープロを使う人は先端的と思われた。今ではパソコンで動くような技術計算プログラムを、支店から本社にあるホストコンピュータをタイムシェアリングで夜中に動かしていた。新しもの好きな上司が使うワープロを見せてもらったら、ほとんどラインエディタであった。1988年頃から社内では電話回線を使ったワープロ通信が情報交換ツールとして実験的に使用されはじめた。東芝RUPOを自分で買い、社内ワープロ通信やチャットにのめりこんだことで、ブラインドタッチを覚えた。社内ネットワークを拡充したり、Niftyのフォーラムに入り浸ったりしていた。


それ以前、学生だった私は、卒業論文は手書きであり、梗概は事務の女性が活字を組んでガシャガシャやっていた(なんていうんだっけ、あれ?)


私の本来業務は情報システム関連であったことは一度もない。開いた「パンドラの箱」はITだけの世界ではない。従来「固定」「不動」と思われたものが「流動化」したことによって世界は激変した。


ではこれから、5年、あるいは10年先の「仕事の仕方」を想像できるだろうか?何は変わって、何は変わらないのだろうか。企業の本業とは何だろうか。日本の強みとは、そのとき、どこにあるのだろうか。


ちなみに、独学で苦労して覚えたAccessやらC言語は、自分で使わなくなったら綺麗さっぱりに忘れてしまった。あたかも一夜漬けの勉強のようなありようである。







2006年6月10日土曜日

ネットの「あちら側」と「こちら側」

梅田氏の本に触発されAmazonのアフィリエイトに関心を持ち、Amazonのサービス概要や、製品のカスタマーズ・レビュなどを読んでみた。

自分のレビュを自サイトの「こちら側」ではなくAmazonの「あちら側」に置いて、相互に関連付けを行うというAmazonのビジネスモデルは素晴らしい(Amazonのオリジナルかは知らぬが)。しかし、ネット販売会社はAmazonだけではない。CD販売の大手ではHMVやTowerも似たようなサービスを展開している。

このような類似サービスのひとつひとつにアクセスし関心のあるレビュを読むというのは、実はかったるい作業である。もっとユニークな製品に関するレビュは、まとまって読めないものかと考える。今の状況は、ユーザーから見れば「あちら側」の世界の「こちら側」争いとも言える。

アマゾンもHMVもブログによるトラックバックという機能を付与すれば、ネットの「あちら側」と「こちら側」は有機的に結びつくことになる。しかも、それが「人間の手を煩わさず」に自動的に行われるようになると、状況は一変するのではないだろうか。

以前「クラシック ポータルサイト」というエントリを書いた。あれからも、世界は進化している。ネットの世界という「あちら側」で知の再構築が成されたとき、そこからは何が生じるのだろうか・・・

ちなみに「あちら側」と「こちら側」という概念も梅田氏の本による。

2006年6月9日金曜日

【本棚】梅田望夫氏の「ウェブ進化論」

梅田望夫氏の「ウェブ進化論」をチロチロと読み始めた。まだ数十ページしか読んでない。
これからはじまる『本当の大変化』は、着実な技術革新を伴いながら、長い時間をかけて緩やかに起こるものである。短兵急ではない本質的な変化だからこそ、逆にゆっくりとだが確実に社会を変えていく。(P.18)
ニュートン力学の世界から見た量子力学の世界と同様に、リアルな世界からネット世界を見れば、それは「不可思議」「奇妙」「ミステリー」以外の何ものでもなく、その異質性や不思議さをそのまま飲み込んで理解するよりほかない。(P.39)
まさにP・F・ドラッカーの指摘した「ネクスト・ソサイエティー」そのものではないか!

同僚と飲みながら、「うちの業界は10年前とちっとも変わっていない」というハナシになった。確かに表面的には何も変わっていない。取り残された産業というイメージさえ付きまとう。しかし仕事のやり方は、ある面では劇的に変わった。相変わらず旧態依然としたシステムにとらわれるか否か。

クライアントのキー・パーソンと会食していたときに、彼らは「パンドラの箱は空いてしまった。元には戻らない」と言っていた。そこに我々の業界は気づいているか、ついていっているのか。

2006年5月28日日曜日

マーラー:交響曲第2番「復活」/ブーレーズ&ウィーン・フィル

  1. マーラー:交響曲第2番「復活」
  • ブーレーズ(cond) ウィーン・フィル クリスティーネ・シェーファー(S) ミシェル・デ・ヤング(Ms) ウィーン楽友協会合唱団 合唱指揮:ヨハネス・プリンツ
  • DG/00289 477 6004(輸入盤)

ブーレーズのマーラーというと、知的抑制だとか緻密なスコア解釈、透明感などというキーワードで語られることが多いようです。何度か繰り返して聴いていますが、確かにこのマーラーは美しい。しかし感情移入の激しいマーラーを求めるリスナーには、ブーレーズのマーラーから何か決定的なものが失われていると感じるであろうことも認めざるを得ません。

であるからと言って、ブーレーズの演奏が分析的なだけで、感情表現を全く廃しているとすることも当たらないでしょう。作品解釈にを忠実であれば、過度な感情を込めなくても作品の持つ意味は自ずと立ち上がってくはずだろうと思います。ここに聴こえるマーラーは洗練され見通しが良く、ウィーン・フィルの演奏力と相まって曲のダイナミックさや美しさを損なっていない演奏だと思います。

例えば第一楽章などは、ブーレーズらしくないアゴーギグとでも言うのでしょうか、随所でしっかり「タメ」も聴かせてくれます。激しいところは激しく、優雅なところはひたすら華やかです。

中間の三つの楽章はくぐもったような暗い響きで、憂愁さえはらんでいるかのように聴こえます。ブーレーズの何とシンクロしているのでしょうか。曲の移ろいをたゆとう人生の流れにもなぞらえたかのように、ゆったりと、そして悠然と描いているようです。

第4楽章のミシェル・デ・ヤングの原光も、少し声質がナマっぽい感じがして、ブーレーズの演奏のバランスから考えると若干違和感を感じますが、演奏そのものは非常に良いと思います。

両端楽章の起伏とスケールの大きさは、おそらく演奏会場のナマで聴いていれば、結構驚きの演奏なのではないかと思えます。ティンパニやトロンボーン、チューバの音も劇烈です。オケ的音響としては、これに何のモンクを付けられましょうという程。ラストに向けての合唱の入る直前の美しさは言葉になりませんし、クライマックスも実に壮大、全く素晴らしい演奏といえます。

ただ、全編を聴き通した後に残るモノということに関して言うならば、壮大で立派な演奏であることに反して、冒頭に書いたように弱さを否定することができません。作品解釈としては忠実であっても、指揮者の作品に関への共感が聴こえてこないからでしょうか。

おやぢの部屋の感想の最後に、「熱狂」とか「迫力」といった言葉とはついぞ無縁のままエンディングを迎えても、青白い醒めた高揚感が心に残るとありました。この言葉の意味が何度か繰り返して聴いて、ようやく納得できるようになりました。終楽章などは、ブーレーズはもしかすると、全く別な意味での狂気に取り付かれて、この演奏をカタチ作ったのかもしれないなと。

2006年5月22日月曜日

【音盤】武満徹:ギター作品集成


武満氏はギターをこよなく愛したことで知られています。ここに納められたギター曲の数々を聴いていると、しみじみと心の奥底にまで、武満氏のメロディがじんわりと染み渡るのを感じることができます。

武満氏のメロディは、ことさら大声で感情を吐き出したり主張はしません。何かを感じ取るかのような感性の部分が大きい。彼の興味の対象が、水とか樹とか風や雨に象徴されるような自然的なものであったことは、曲の標題から推測できますが、彼の音楽が単なる自然描写に留まっているわけではありません。

本盤の解説で作曲家である細川俊夫氏が次のように書いています。

時々、むしょうに武満徹の音楽を聴きたくなる。その強い気持ちは、ちょうど都会生活に疲れて、森や海に行きたくなる衝動に似ている。自然にふれ合いたいという気持ちと、武満徹の音楽にふれたいという気持ちは、どこかで通じ合っている。

そして、武満氏の音楽の中に細川氏は自然のもつ見えない官能的な力を感じるとしています。

おおむね私もこの感覚には同意します。ただ「官能的」という言葉の印象ほどには武満氏の音楽はナマさが全くありません。地層を幾つも越えることで浄化された地下水にも似た、洗練と純化を繰り返したピュアさが際立っています。

ピュアさとともに魅力なのは、絶えず変化してとらえどころのない茫洋とした感じ、しかし底に秘められた整然とした構築感。ですから、武満の音楽は漫然と聴いていると何となく通り過ぎてしまう。あれ、これだけ?みたいな感じ。でも真摯に耳を傾けると、奥から違った声や響きが聴こえてくる。

この盤にあっては、それぞれの曲の良し悪しを語る必要はなさそうです。鈴木氏のギターは、独特のメロウさと柔らかさ、そして不思議なアンニュイさを漂わせつつ、限りなく美しい武満の音楽を歌いきっています。ただ静かに浸るのみで充分です。

2006年5月14日日曜日

【音盤】武満徹:A String around Autumn、Ceremonial/小澤&サイトウ・キネン


ア・ストリング・アラウンド・オータムはヴィオラを、セレモニアルは笙を伴った管弦楽曲です。1989年と1992年に発表された曲で、どちらも武満晩年の作であると同時に、どちらも「秋」をテーマにした曲となっています。セレモニアルは「秋に寄せ頌歌」という副題を持っています。初期の武満作品と比すと随分と聴きやすい音楽といえます。


ア・ストリング・アラウンド・オータムはヴィオラ独奏が前面に押し出され、非常にメロウでロマンティックな曲に仕上がっています。もはやヒーリング系音楽に近づいているかのようですが、良く聴くとそれぞれの音の響きは決して安易ではなく、ヴィオラとオーケストラの響きの反応と融合が実に見事です。


セレモニアルは日本楽器の笙を用いた曲ですが、これが用いられるのは曲の前半と後半のごく一部です。しかし笙の持つ暖かな音色は、この曲に独特の色彩を加えています。


最初はヴァイオリンのか細い、神経質な響きに導かれまて曲が始まります。この静寂と響きからは雅楽をイメージするかもしれません。この冒頭が独特の静けさや透明感、リリカルさといったものを音楽に付与しています。しばらくすると打楽器なども加わり音は重層的になりますが、それでも最初にイメージされた透明感は失われません。


挿入される笙の音色は、弦の響きとは対照的で一瞬の幻か夢のような印象を与えます。ゆったりと動く旋律線は、そよそよと野に揺れる薄をイメージするかもしれません。


90年代近くの武満氏の作品は、無調の現代音楽というよりは、音楽に旋律の流れが戻っているように聴こえます。とはいっても明確な物語性があるわけではなく、漂う響きの流れがより主体性を持ったという風に捉えることができます。あくまでも茫洋とした、とらえどころのなさは変わりありません。60年から70年の武満氏の音楽にこそ力があった、とする意見もありますが、私はやはり晩年の「聴き易い」作品の方が好きです。所詮、その程度の武満理解です。

2006年5月13日土曜日

【音盤】武満徹:弦楽のためのレクイエム/小澤&サイトウ・キネン


レクイエムとありますが、1955年に早世した作曲家・早坂文雄氏を追悼しつつ描いた曲とされています。あるいは当時武満氏は結核を患っており自らに対するレクイエムであったとする解説も目にしたことがあります。一方この曲で武満氏が特定の誰かを追悼するという意図はないとする文章も何かで読みました。


そういう事情はさておき、それであっても、この曲は限りなく哀しく、限りなく美しいことに驚かされます。


弦のみによって奏でられる響きは重く荘厳です。最初は美しい響きだけど何だか暗いなあくらいに思っていたのですが、何度か聴いていると曲の底に潜んでいる圧倒的な慟哭に気付かされます。声を上げて泣いているのではない、涙を流して泣いているのではない。そういう表層的な感情表出ではなく、心の深いところが存在を脅かされる恐怖とともに震えている。


しかしそれは、早坂氏追悼ということを知った上で想起された聴き手の感情かも知れず。そういう予備知識を抜きに聴いたとしても言い知れぬ深い哀しさは伝わってくるようです。


はじまりもおわりも定かではない、人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れる部分を、偶然に取り出したものだと云ったら、この作品を端的にあかしたことになります。


と武満氏は東京交響楽団の機関誌に書きました。彼の音楽に対する考え方を示す意味で興味深い文章です。武満氏は「哀しみの感情」などを音楽に持ち込んだつもりなどなかったのかもしれません。音楽を聴く者は、いかようにでもして自らの文脈の中に当てはめずには理解できないのでしょうか、困ったものです。


この曲を評してストラヴィンスキーがこの音楽はじつに厳しい、まったく厳しいと語ったとされており、それが武満氏の評価を高めるきっかけになりました。「厳しい」というのをストラヴィンスキーがどのような意味と文脈で語ったのかは分かりません。この曲が一点の虚飾もない非常なる高みに到達していることだけは確かであると思います。

【音盤】武満徹:ノヴェンバー・ステップス/小澤&サイトウ・キネン

武満氏を代表する曲なので随分前に買って聴いてはみたものの、「なんぢゃこりゃ」てな感じで、当時は全く馴染めず、即お蔵入りした盤であります。武満氏の他の曲なども辛抱強く聴くことによって、ようやくこの曲にも慣れてきて、そうしますと曲の持つ特質とか美しさ、そして厳しさが朧気に浮かび上がってくるような気になってきました。

この曲は尺八や琵琶の音色が非常に特徴的ですし、それがオーケストラと掛け合う様も面白いのですが、圧巻は曲後半での、ほとんどカンデンツァと思われるほどの和楽器による独創部分でしょうか。朗々と響き渡る尺八の音色と、バチバチと硬質な音色で弾かれる琵琶は、ある種の懐かしささえ覚えます。自分が尺八奏者となって演奏していることを想像すると、曲の聴き方も変わってきます。結構これは気持ちいいことかもしれない、と。


武満氏は雅楽を聴いたときの驚きを以下のように記しています。


ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。

 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。


確かにここには、日本の古典楽器の玄妙なる響きと緊張感があります。音楽は旋律を持って横に流れる事はなく、自律して存在します。決然とそして黙然と立ち上がってくる響きがあり、音の持つ存在感がそれだけで意味を語るかのようです。


音が自律して自己充足的である故に、音と対極にある無音、即ち沈黙も音楽の一部として、その姿を美しくさらすこととなります。それはあたかも、日本画の何も書かれていない地空間のような。何もないことによる美の表現。


音の旋律線と多彩なパレットによって塗り重ねられ説明されるのとは全く違った有り様。これは極めて日本的風景であるとともに、一方で至極イノセントな世界観であると感じます。その日本というローカルな意味を超えたところにあるイノセントさゆえに武満徹は世界性を獲得したと言えるのでしょうか。ここらあたりは、まだよく分かりません。

2006年5月7日日曜日

雑誌Lapitaの万年筆「赤と黒」を購入し、マニア世界の深さにおののく


Lapitaという雑誌が、また万年筆特集をやっている。最近は万年筆も密かにブームであるらしく、文具店では万年筆を紹介した雑誌とともに、メーカーのフェアを開催していることも珍しくない。かくいう私もイタリアはAURORA社のペンを愛用している。

「Lapitaがまた」と書いたのは、昨年11月にも同じような特集をしていたからである。Lapitaの特集には万年筆が付録として付いているところがミソである。たかだか980円の雑誌についている万年筆であるので、普通に考えると万年筆代は300円程度(パッケージ代、雑誌に付録を付ける余計な梱包代、かさばる搬送費を考えると300円以下という評価になる)。

これならば市販の使い捨て万年筆よりも安いくらい。ということで前回は見送ったのだが、今回は赤と黒のデザインに負けててしまい購入。さっそくインクを入れて書き味を試したところ、これが300円とは思えぬ出来で、かなり満足なのである。

ペン重量は26g程度。適度な重量感であり、持ったときのバランスも良い。キャップはスクリュー式であり、軸も安っぽい感じはしないし、ペン先の鍍金の具合も悪くはない。ペンフォルダー部の金属の曲げ方も丁寧でバリなどは全くない。こういう細部の造りの良さは所有欲を高めると同時にマニア心をくすぐる。(断っておくが、私は文房具マニアではない)

肝心の書き味の方だが、ペン先の太さがM(中字)ということもあってか、結構なめらかだ。1000~5000円程度で市販されているカートリッジ式万年筆と比べてもそれほど遜色がない。デザインだけから評価すると、好みもあろうがLAMYのsafariやWatermanのKulter Light Softなどよりも数段に良い。同じWatermanのCharlstonやPelikanのTraditionalなどと比べても、外見だけからは素人が値段を判断するのは困難であると思う。

かくも絶賛するのは、これが300円だからである。「Lapita」「万年筆」で検索してみると、多くの人が高い評価を与えていることが分かる。と同時に、「万年筆」を語る筆致の熱さに少々驚いてしまう。さらには、万年筆マニアのHPなどにも辿りつき、発売と同時に5本購入しただの、購入した付録万年筆を改造しまくるだの、その筋の世界の深淵さと暗さには、思わず脱帽すると同時に、その熱情がどこから生ずるのか、5秒ほど考え込んでしまうのであった。同じ文具フェチでも「消しゴムフェチ」よりは救えるとは思うが・・・

ちなみにLapitaがどういう雑誌かは、いまだ知らない。予備にもう1本(いや1冊)購入しておくかな・・・。





2006年5月4日木曜日

【音盤】武満徹:環礁ほか/外山雄三&都響

  1. 地平線のドーリア(1966)
  2. ソプラノとオーケストラのための「環礁」(1962)
  3. 鳥は星型の庭に降りる(1977)
  4. 群島S.-21人の操車のための(1994)
  5. 弦楽器のためのコロナⅡ(1962)
  • 指揮:外山雄三 東京交響楽団 浜田理恵(S)
  • 1997年8月31日~9月4日 東京芸術劇場
  • DENON COCO70775

ここには武満徹の初期から晩年までのオーケストラ作品が収められています。しかし、武満氏の初期から中期、すなわち60年から70年代の実験的な作品群は、何度聴いても簡単に馴染めるものではありません。

いつだったか、家で映画「2001年宇宙の旅」を見ていたとき、モノリスが現れると奏でられるリゲティの音楽(《レクイエム》《アトモスフェール》)を聴いて家人曰く、「こういう耳障りで、人の気持ちをかきむしるような音楽を好きという人とは、お友達になれないわね」と。しばし絶句した私でありましたが、このアルバムでの武満徹もその類の音楽と言えないこともありません。

《地平線のドーリア》に武満氏自らがプログラム・ノオトを書いています。

旋律ではなくハーモニック・ピッチ(Harmonic pitch)という考え方、リズムではなくプルセーション(Pulsation)という考えかた。新しいポリフォニーを試みる最初のデッサン。

ここに現れる音の濃淡、輪郭の融解、茫洋とした音世界、弦の特殊技法を多用した抽象的音パレットによる混沌は、たゆとうようでいて静かに流れ、しかしどこにも向かわない霧のようです。定位しない音楽は言葉にできない不安を呼び覚ましますが、しかしある瞬間に和的な響きやら美しさの片鱗が見えたりします。冒頭のハーモニック・ピッチへ回帰したときには、やっと懐かしさを覚えます。

しかし、この題名ばかりが有名な曲であっても、漠然と聴きながせば、耳に届くのは耳障りで不快な不協和音の連続でしかなく、「音楽以前」と評する人がいたとしても、その人の感性の方が正しいと思うほうが一般的な感想かもしれません。

《環礁》は跳躍するソプラノパートを伴う難曲です。声楽を伴い詩を歌うからといって、武満氏の曲が親しみやすくなるということはありません。大岡信氏の詩はシュールで、文学的素養のない私には、さっぱり理解できません。浜田理恵氏のソプラノ肉声は武満氏の響きと融合可能なギリギリの一線を保っており潔いです。

と、書いて気付きました。武満氏の音楽には肉感的生々しさ、感情のストレートな奔流などが全く似合いません。音は響きそのものとして研ぎ澄まされ、武満が彫拓したかのような純粋性を持っています。彼にとって作曲とは、自然を含めたインスピレーションの中から、何かコアとなるものを聴き取り、美的な「かたち」へとつくりかえる行為であったのでしょうか。

旋律線を有さない曖昧さは、西欧ロマン主義的な音楽のあり方から、確かに自由となっています。しかし、その獲得された自由さが、場合によっては時代の足かせであり、時に古臭さを感じてしまうことも否めません。実験的、デッサン、であったことが、音楽史以上の意味を現代に与えうるのか、あるいは彼の音楽が「日本的なるもの」を考える上で今でも有効であるのか。

《鳥は星形の庭に降りる》などは、まさに彼が夢で見たイメージを曲にしたものです。題名ほどには親しみやすい曲ではありませんが、1970年代後半にあって前衛的というよりは、かなり調性を意識した作品であると感じます。

それが1994年の《群島S.》となると、さらに響きが変わってきていて聴き易くなっていることに気付きます。ここではおのおのの楽器の音色と響きが相互に絡み合い、そして全体的な融和と表情の豊かさを聴くことができます。相変わらず能動的で意味的な旋律線は認められませんが、このアルバム中では唯一、武満的ロマンをストレートに感じ取ることの出来る作品かもしれません。逆に60年から70年の鋭利な武満音楽を好む人には迂遠されるものかもしれません。

アルバム最後は図形楽譜を用いた《弦楽のためのコロナⅡ》です。極めて実験的な作品なのでしょうが、1分半程度の曲ですぐに終わってしまいます。無調の不協和のテンションがこれからどこに向かうのだろうか、と思ったところで、曲は何の解決もなく終わってしまいます。今まで延々と不協和を聴かされた耳には、ちょっと物足りない程。

ということで、この音盤の感想も、何のまとめも結論もなしで、おしまいにすることとします。

2006年5月3日水曜日

町田康:くっすん大黒、川原のアパラ


「くっすん大黒」116回芥川賞候補(1996年)となった作品であり、落選はしたものの筒井康隆氏が本作を絶賛しました。 1997年には第19回野間文芸新人賞、第7回ドゥマゴ文学賞を受賞しています。

と書くと、さぞかし「凄い作品」なのだと思うでしょうが、ここでも町田氏の脱力ぶりと下降志向は健在です。氏の芥川賞受賞作である「きれぎれ」やその他の作品よりも狂気や陰惨さは少なく、快活で滑稽な作品に仕上がっています。小説を読みながら久しぶりに「ゲラゲラ」と笑ってしまいます。それでいて計算づくの恐るべき小説でもあります。(Amazonへ)

無意味な教養という以外何の役にも立たなかった学校教育の国語において暗記させられた「名作」の冒頭を思い出すまでもなく、小説の出だしの文章というのは極めて象徴的です。ここにおさめられた「くっすん大黒」と「川原のアパラ」の冒頭を拾ってみましょう。

もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの? あきまへんの? ほんまに? 一杯だけ。あきまへんの? ええわい。飲ましていらんわい。(「くっすん大黒」より)
おおブレネリ、あなたのおうちは何処? わたしのおうちはスイスランドよ。綺麗な湖水の畔なのよ。やーっ、ほーっ、ほーとランランラン、って、阿呆かオレは。なにもかかるケンタッキーフライドチキン店の店頭で、おおブレネリを大声で歌わなくてもいいじゃないか。(「川原のアパラ」より)

アホくささと諧謔、さらに小説のストーリーも実にたわけたハナシであります。こんな作家の小説は、普通は読む気になりませんかね。しかし町田氏の小説に潜む愉悦を一度知ってしまうと、なかなか、こんな莫迦げた文章がいとおしくなるから不思議です。

町田氏の小説を読みながら落語の持つ滑稽さに通底するものを感じる人もいるでしょう。あるいは下降志向や自嘲趣味から太宰治に繋がる文学性を感じ取る人も多いでしょう。はたまた「町田康=小説の主人公の告白」的な意味合いから、近代文学における作家と作品のありようや、誰も書きませんが、自意識過剰なまでの描写から三島由紀夫にどこか繋がる匂いを感じ取ることができるかもしれません。場合によっては「くっすん大黒」からは大友克彦の初期作品を、「川原のアパラ」からはつげ義春的ブラックさを嗅ぎ取ることも妄想とは言えないかもしれません。

町田氏の小説の表面世界だけをなぞるならば、面白いけれど不快にして、後に何も残らないという感想も成立しえましょう。しかし町田氏が敢えて堕に向かう精神とその生き様を、さらに現実世界への瑣末的な拘泥や、生きることの無様なまでのありようを徹底的に描くことは、実のところ人間の本質面に対するさりげない問いであったりします。古今の文学的なテーマを一度解体した上で、絶妙の町田節に乗って再構築されたその小説は、面白いだけで終わらない世界を持っていると確信できます。

2006年5月2日火曜日

町田康:夫婦茶碗、人間の屑


本文庫には「夫婦茶碗」と「人間の屑」という2作品が納められています。町田氏の小説は徹底した自虐と下降志向、そして現状を何とかして変えたいと思う気力が空しく空転し、捩れに捩れてゆく不条理をいつも描いています。

自暴自棄とも取れる主人公の行動は、裏を返すと限りなく甘ったるい楽観と自己愛に支えられています。主人公の感性は、自己分析と自己反省を繰り返しながらも現実とは全く折り合わず、真意や善意は相手に伝わらず、ひとり挫折感を味わいます。主人公のベクトルはどこまで行っても常識的な感覚ではなく、従って最終的には破滅的ともいえる必然的狂気へと突き進みます。


それを自明のこととして、町田氏は最初から最後まで下降と狂気を描いています。淡々としたリズムとスピード、負の必然性、瑣末への拘泥、人間のダメさ加減、情けなさ。それらを、ドストエフスキーのように重く陰湿な人間劇としてではなく、徹底した喜劇として、しかもあっけらかんとした明るさとスパイラルするストーリーで町田氏は描いてみせます。

確信犯的に描かれ演ぜられた喜劇からは、人間の本性さえも暴き出されてしまうかのようです。気のせいか「カラマゾフの兄弟」のフョードルを思い出してしまいました。(>フランス文学かと思ったら、今度はロシア文学かよ)

文庫本解説を筒井康隆が書いていました。私の直感は当たっていたと言えましょうか。彼は筒井康隆に非常に良く似ているのです。高度に屈折し転回し続ける知性からは、思考実験というものが生まれると筒井氏は指摘しています。

そう・・・極めて高度に屈折しすぎています、町田氏の文学は。なんだかんだと書いても、読み物として面白いので一気に読めますが、読み進めるのが結構つらくもあります。「堕落の美学」とも評されています、確かに究極の美学でもあります。

2006年5月1日月曜日

武満徹展に行って、映画「黒い雨」を観る

東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visons in Time」展に行ってきました。会場に着いたら、今村昌平監督の「黒い雨」(1989)が丁度これから上映されるとのこと。途中で出ても良いらしく、ついでだから観てやるかと軽い気持ちで席に座ったところ、これが結構面白くて結局最後まで観てしまいました。
武満展なんだから、音楽について書くべきなんでしょうが、映画に集中しちゃって、不安気な雰囲気を誘う音楽ということ以外、あんまり音楽のことは覚えていない。ラストの音楽もどんなだったかしら?
映画は井伏鱒二の小説の映画化なので原爆被災者を扱っていて重い。しかし家族の崩壊の様子とか、お互いの傷を認め合うことによって芽生えた救いの愛とか、そういうテーマ性に感動するよりも、川又昂撮影による映像に圧倒されっぱなしでした。1989年の作品なのですが、よくぞこういう農村風景とそこに生きる人達の姿を撮りきったものです。(農村風景ということでは、濱谷浩氏の「裏日本」なんかを思い出します)
かつては存在した農村的共同体や農村的風景が、嫌になるほどのリアリティを持っています。
映画を観ながら、かつての日本から失われたものが、ここに描かれた家族たちのささやかな幸せだけではないことを否応にも気付かせてくれます。
演技的には、清楚な雰囲気を出し切った田中好子に好感が持てると同時に、叔父夫婦を演じた北村和夫と市原悦子が抜群の味。特にコンプレックスを背負った生き方をしている市原演ずる妻が何とも哀れ。そういう形でしか自己実現ができなかった時代であったのだと。いや、それは今の時代も一緒でしょうか。

武満徹展のことも何か書かなくちゃならないでしょうね。武満氏の楽譜とか抽象画とかが展示されていて、それなりに楽しめました。特に楽譜は、図形楽譜でない普通のものであっても、それ自体がアートとして成立しています。近代建築を代表するコルビジェの図面をふと連想してしまいます。
また武満氏が好んだアーティストの作品も展示してあるので、武満ファンは満足することでしょう。私は熱烈なファンではないし、前日に本展示の公式ガイドブックを池袋ジュンンク堂でしっかり眺めていたので、展示内容に意外性はありませんでした。
それでも展示空間的にも武満氏の几帳面さとイノセントさが際立っていて良い雰囲気です。ただ武満氏の音楽を延々と流しながら抽象的なビデオを流している展示とかは、私には馴染めません。そもそも私は抽象が苦手ですし、畢竟根っからの武満ファンには、なれそうもないのなあと感じる展示内容でもありました。