2005年1月25日火曜日

「振込め詐欺」の巧妙化

最近は「オレオレ詐欺」とは言わないらしい、「振込め詐欺」というのだそうです。動詞+名詞という組み合わせが日本語的にオカシイということはさておき、その他モロモロの詐欺まがい行為が最近あふれており、その手口は悪質かつ巧妙化しつつあるようです。


「ワンクリック詐欺」「フィッシング・メール」などの手口も非常に悪質ですが、ついつい引っかかってしまう人も少なくないかも知れません。最近も「ヨン様」の画像をファンサイトのように「なりすまし」て送りつけ、写真をクリックしたらスパイウェアか何かをインストールしちまうというものもあったようです。カード会社などを偽るものも日常的だとか。


ブラウザ論争では、IEの脆弱性は有名ですが、Firefoxにも脆弱性が見つかっただの、Firefoxを擁護する人は、ブラウザの脆弱性よりはフィッシングに引っかかる「間抜けなユーザー」が脆弱なんだ(As far as a 'security hole,' it should be more of a user vulnerability, as only a dumb person goes clicking links in e-mails from odd places,:原文)とか・・・いやはや


あるいは、CNNのヘッドライン・ニュースを偽ったメール配信し、もっとニュースから情報を得たいと思う人をひっかけるというものもあるそうです。今週のAERAによると、個人のHPから個人情報を収集した上での「劇場型」「振込め詐欺」というのもあるそうで、ネット上に個人情報を置くことの危険性も考えなくてはならないようです。


最近の犯罪を見るに付け、何か今までのモラルが崩れ去り、蓋があいたというか、底が抜けてしまったかのような印象を日々受けるとともに、犯罪に対する防衛意識を高めなくてはならないというのは、何ともやっかいです。その延長には犯罪国家であるアメリカの姿がちらつきますから、なおさらに憂鬱です。

2005年1月23日日曜日

歌舞伎座:新春大歌舞伎

歌舞伎座で新春大歌舞伎を鑑賞してきました。実のところ、私にとってはこれが初の歌舞伎鑑賞となります。昼の部は4階の幕見席で最初のニ演目、夜の部は3階席にて三演目を鑑賞。一日じゅう歌舞伎の世界のどっぷり。ああ、何て幸せな世界なんでしょう、これではハマる人が居るのも分かります。

松廼寿操三番叟での三番叟演じる染五郎の踊りの軽妙さ、梶原平三誉石切での梶原平三役の吉右衛門の貫禄、鳴神での鳴神上人演ずる三津五郎の大見得、土蜘蛛での吉右衛門らの大立ち回り、そして魚屋宗五郎での幸四郎の酒乱ぶり。どれを取っても楽しめ、今でも頭の中で囃子や化粧声、ツケの響きなどが頭の中で鳴っています。演目は下記。

��昼の部>

  • 松廼寿操三番叟 長唄囃子連中
  • 梶原平三誉石切 一幕
  • 盲長屋梅加賀鳶 四幕六場
  • 女伊達 長唄囃子連中

<夜の部>

  • 鳴神 一幕
  • 土蜘 長唄囃子連中
  • 新皿屋舗月雨暈(魚屋宗五郎) 二幕

それに歌舞伎座内の売店には、その場で焼いている人形焼、きんつば、鯛焼きなどの餡ものが所狭しと並んでいて、甘党なら一瞬でクラクラしそうな空間が展開されています。嗚呼、暖かい"きんつば"のしっとりとした肌さわり!かくいう私もクラクラし通しでした。

で、帰ってTV付けたら、中村勘九郎がSMAPの香取クンと歌舞伎について語っていました、歌舞伎を盛り上げようとしているようですね。

いままで、こんな世界をしらなんだとはァァァ~、ほんに、なんと、おろかなことざんしょオオ~。テケテンテンテン・・・イ ヨオーっ! 「成駒屋!」 ああ、おいらもはやく掛け声を掛けてみたいものよのう>早すぎるって。

2005年1月18日火曜日

期待の新人ヴァイオリニスト

「おかか1968」ダイアリーでニコラ・ベネデッティ(17)というヴァイオリニストが破格のデビューを飾るというエントリー。


実力の程は分からないけれど、とりあえずメモしておきましょう。それにしても


Nicola was born in Scotland in 1987 and began violin lessons at the age of 5. In 1997 she entered the Yehudi Menuhin School, where she studied with Natasha Boyarskaya. While at the school she performed as a soloist in venues including the Royal Festival, Queen Elizabeth and Wigmore halls. In 1998 she was one of the soloists in Bach’s Double Concerto under Menuhin at the opening ceremony of the 50th anniversary of the Declaration of Human Rights at UNESCO in Paris.


BBC Young Musician of the Year - Final. Strings


だそうで、早熟ですなァ、たいしたモンす。

ルックスやスタイルなどは音楽とは無関係ですし、好みもありましょうけれど、「商品価値」なんて概念から、ボンド・ガールのようになったら、オシマイだとは思います・・・ひそやかに正しく育ってくれることを祈りましょう。

2005年1月17日月曜日

あなたは普通の政治家ぢゃないんだから

今日のサンデープロジェクトで安倍衆議院議員が、いつにない不機嫌な表情で疑惑を否定していました。 ことの真相は分かりませんが、火のないところに煙は立たず、立った煙を消すのもひと苦労てか。というか、何故この時期にとかイロイロ裏はありそうですが、バックドロップをくらわないように祈るのみです。
「NHKを呼びつけた」「番組内容を変更するように圧力をかけた」という報道や発言は全くの誤りである。昨日私が事実誤認を指摘するコメントを発した後も、引き続きそうした報道が行われているのは、誤りというだけでなく悪意に満ちた捏造と言わざるを得ない。

衆議院議員 安倍 晋三

安倍氏のブログより

「あなたは普通の政治家ぢゃないんだから」は、田原総一郎氏が安倍氏にカマをかけている時のせりふ。

2005年1月15日土曜日

【音盤】アルフレッド・コルトー/ショパン:練習曲ほか

アルフレッド・コルトー/ショパン:練習曲集ほか
  1. 練習曲集 作品10 1933年7月 ロンドン
  2. 練習曲集 作品25 1934年6月 ロンドン
  3. ハンガリー狂詩曲 第2番 嬰ハ短調1926年12月
  4. ハンガリー狂詩曲 第11番 イ短調1926年12月
  • PHILIPS PHCP-20585/6

現代においてショパン弾きといわれる優れたピアニストが多いのに、今更SP時代の古色蒼然としたコルトーのミスタッチばかりのショパンを聴く必要があるのだろうか、などということは考えない。私はあまりショパンが好きではありませんし、そもそも、どこでミスタッチしているかなんて、分かっていないのですから。それでも何気にコルトーの盤を聴き始めたら止められずに何度か聴いてしまいました。

コルトーのピアニズムから漂う気品と素朴な暖かさ、あるいは言い方は悪いかもしれませんが、泥臭さというのでしょうか。これらは洗練の極みとは対象的ですが、浸りきると非常に心地よいものです。ショパンというと聴いていてどこか疲れてしまい、ついおなかがいっぱいになってしまうのですが、彼の演奏はやさしく滋養となって体にしみ込んでくるようです。演奏の技術的なものを補うような、ある種の雰囲気をもった演奏といえるでしょうか。現代では決して聴くことの出来ない演奏かもしれません。

例えば作品10 第6番とか作品25 第1番など、絶品の味わいです。また作品10 第12番《革命》の力強さときたらどうでしょう。無骨過ぎるきらいはあるかもしれませんが、それはそれです。

無骨といえばリストのハンガリー狂詩曲などかなりのもの、演奏も1926年のものになってしまいますからノイズもひどくなってくるのですが、それでも聴けないほどではありません。しかしそういう中にも、非常に繊細な一面も聴けたりして、そこに詩情を感じたりします。

2005年1月13日木曜日

テンシュテット&NDR/マーラー:交響曲第1番「巨人」

マーラー/交響曲第1番「巨人」
  • テンシュテット(指)NDR
  • 1977.11.14
  • MEMORIES

Syuzo's Homepageの「テンシュテット:禁断の部屋 テンシュテットを聞く 第13回 2000/1/4」で紹介されている盤のひとつであると思うのですが、CDの録音年月日が1977年11月24日となっています。Syuzoさんのサイトでは、おまQさんの推定によるとただし書きがあるものの、1981/6/16? (LIVE)となっています。FIRST CLASSIC盤と同一音源であるかは私には判断できませんが、CDショップ・カデンツァの解説ではともにFirst Classicsが初出だった音源だが、その素晴らしさからすぐに売切れ&廃盤となり、とありますから、1977年の演奏なのでしょう。

前置きが長くなりましたが、Syuzoさんも指摘のとおり、これも並外れた演奏として聴くことができます。音質はちょっと抜けが足りないようですが、ノイズなどが気になるようなものではありません。テンシュテットの演奏は完全に突き抜けていますので、ライブの迫力に浸るには充分といえましょうか。NDRは「復活」もそうでしたが、特に低弦の音色がただものではないです。

マーラーの交響曲の中で1番は、演奏会でもCDでも比較的耳にする機会が多いのですが、ここに聴かれるような硬質で彫の深い演奏は捨てがたい魅力があります。私などがテンシュテットを語ることなどおこがましいのですが、彼特有の推進力、そして激情的ではあっても感情に溺れずに制御された演奏を、ここでも聴くことができます。例えば第三楽章のマーラー特有の美しく甘い旋律にしても、耽美に流れることはありません。

第四楽章も冒頭から畳掛けるかのような表現が圧巻です。『ここで英雄はうち倒された』とのことですが、一体何回打ち倒されたんでしょうね、徹底的に痛めつけられてるつーか・・・。痛めつけた後に甘美なメロディも冗長すぎないという感じ。ラストへの流れも凄いのですが、最後の2音が急に音圧が下がってしまうのは興ざめ、拍手をカットしたためか?。 ブラボーとブーイングが飛び交った伝説の演奏とのことですが、ブーイング派はどんなマーラー像がお好みでしたでしょうかね。

2005年1月12日水曜日

ワーグナー本

Syuzo's Weblogで吉田 真著「ワーグナー」の紹介ありました、要チェックですな(つーかSyuzoさんのサイトからのネタが続くな・・・)

考えてみたら「CDで聴くはじめてのワーグナー」のシリーズは、昨年3月に「ラインの黄金」を聴き始めて止まったままです・・・まいいか。

2005年1月10日月曜日

テンシュテット&NDR/マーラー:交響曲第2番「復活」

  • テンシュテット(指)NDR エディット・マティス(S)、ドリス・ゾッフェル(Ms)
  • 1980.09.28
  • MEMORIES

Syuzo's Weblogと夢遊的日録さんのサイトにて、テンシュテット&NDRの「復活」が発売されていることを知り、年末にCDショップ・カデンツァに注文、聴くのを楽し非常に楽しみにしていた盤でした。ところが年末に帰省してCD棚をごそごそとやっていたら、なんとこの演奏はLUCKY BALL盤で既に入手済ではありませんか、マーラー交響曲第1番は持っていませんでしたから、それほど落胆はしませんでしたけど。

購入したときのレビュウがないので、あまり感動しなかったのだろうか?と訝りながらLUCCKY BALL盤を年末に聴いてみたのですが、いやはや、冒頭からの抉り込むような弦の響きに全身ぶちのめされ、そして圧倒されまくった1時間半でありました。本当に空恐ろしくなるような演奏です、こんな演奏が存在するのかというほど。

で、その時の衝撃をもう一度ではないのですが、MEMORIES盤でしつこくもまた聴いてみました。すると、あれ?という印象なんですね。再生装置が違うというせいもあるのか、何か抑え気味な演奏に聴こえてしまいます。冒頭の殺されるのではないかという迫力も半減しています。これは録音の質の問題でしょうか。いずれにしても、凄い演奏であることに変わりはないんですが、機会があれば聴き比べてみたいところです。

2005年1月9日日曜日

Googleについて

確かにビジネスとして考えた場合、Googleは画期的でありMicrosoftの出現に匹敵するという人もいます。IT関連のブログやサイトではGoogleとYahooの比較記事など、多方面から研究されています。"Googleは神か?""などという問いかけさえあるようです。こちらとこちら(ちょっと古い)。自慢ではないが、どちらもまだ真面目に読んでませんが。


東芝と富士通とNECの時価総額を全部足し合わせても、創業からたった六年、わずか二千七百人のグーグルの時価総額に及ばないのはなぜか。いったいグーグルとは何なのか、その台頭は何を意味するのか。

産経新聞「正論」 【正論】米ミューズアソシエイツ社長(在シリコンバレー) 梅田望夫: IT産業の潮目が読めぬ日本勢 モノづくりの強さ過信を危惧す 《米国で進むパワーシフト》(2005年1月10日)




2005年1月8日土曜日

レクサス・ブランドのエントリーについて

成熟した産業、あるいはコモディティ化した産業において、他社との差別化を図ることの難しさは、マーケティングや開発、営業の最前線に籍を置いていなくとも、毎日身にしみて感じている人も多いと思います。

擬藤岡屋日記にエントリーされていたMisleading ~ Lexus in the U.S.は興味深く拝読いたしましたが、私が一番注目した点はココ。





  1. それまでのカー・ディーラのイメージを一新するような豪華な内装の店舗と洗練された接客を教育されたスタッフ。

  2. 時に顧客と接触するメインテナンス作業員の制服(所謂つなぎ)は1日2度着替えさせる。

  3. 週末には無料洗車サーヴィスを実施し、その際にはフリー・ブレクファーストを提供。

  4. 顧客に代車を提供する必要がある場合には、レクサスの最高級グレードを提供。

  5. シカゴのレクサス・ディーラでは顧客がオヘア空港の朝一番機の搭乗前に車を預けられるように、朝5時からメインテナンス工場をオープン。

  6. レクサスの中古車としての価値を維持するため、周辺地域の中古車ディーラの在庫に目を配り、中古のレクサスが市場出た場合はレクサス・ディーラが即座に買い取りメインテナンスを施し自ら販売する。




企業は何を売るのか、商品とともにサービスにおいて顧客満足を獲得し付加価値を付とするということは、分かっているようでいてその実できてはいないことが多いと思います。中国に売却して話題になったIBMのPC部門の責任者は「安値で業界一ではなく、顧客満足で業界トップを狙う」とどこかに書いていました。


顧客が何を一番求めているかは、机に座っていては一生分かりません。企業には現場からの顧客体験を分析し戦略へと変えるスピードと柔軟性が求められます。


古くて新しいテーマですが、私の属する業界においても、安値戦争だけではない最後の生き残りの鍵があると思っているのですが、現場の声のフィードバックは大きなうねりとはまだなりません。

また、レクサスの成功の一因である、新富裕層にターゲットを絞ったマーケティング戦略、徹底したブランド・マネジメントによるブランド・エクイティの獲得など、研究すべき点は多い事例でしょう。日本も二極化してゆくなら(良い悪いは別として)、セグメントの再構築だって必要なわけです。

IBMのPCからの撤退が示すものは・・・?

昨年12月8日に発表されたIBM PC事業の中国聯想集団への売却、および1月3日の日経新聞で報道されていた日立製作所の「パソコン利用全廃・専用端末で情報漏洩防止」という記事は、ポストPCというようなものを予感させるものがあります。


DELLを思い出すまでもなく、PCはもはやコモディティ化してしまいましたが、それでも事業を続けて利益を得る、あるいは差別化や優位性を維持し続けるには、低コストの追求による薄利多売か付加価値の高いサービスにて稼ぐかの選択しかないわけです。


IBMはPC事業からの撤退は、事業を継続しても負債を重ねるだけだと判断した結果でしょうが、IBMはもしかすると、もっと付加価値の高い新しいアーキテクチュアの登場を見据えているのかもしれません。




そんな中で目にした日立製作所のPC全廃の記事。目的は個人が会社の情報を漏洩することの防止策であるとのことですが、企業はよりセキュリティが高く効率の良いシステムへ移行してゆくことの先駆けであるように思えます。


思い起こせば、80年代後半からMS-Windowsの発売に伴い爆発的にPCが普及し、90年代後半にInternetの普及により、ネットワークの構築がビジネスモデルまでも激変させてきましたが、IT産業においてもひとつの時代が変わりつつあるのでしょうか。


このような変革の激しい時代において、企業の生き残り戦略は熾烈を極めているようで、1月4日の日経新聞では、船井電機の戦略が掲載されており、なるほどと思った次第。いわく、デジタル家電などの最先端技術は投資も多い反面、技術が日進月歩であるため利益も見込めない。それよりは、比較的安定した製品においてコストダウンを図り、多量に売る。これはこれで見事かなと。



日立、社内業務でパソコン利用全廃・専用端末で情報漏えい防止


 日立製作所グループは社員が業務で利用するパソコン約30万台を全廃し、情報漏えい防止型のネットワーク端末に切り替える。新端末は内部に情報を一切保存できず、盗み出されても顧客情報や製品開発情報などが流出する危険がない。機密情報の流出防止が企業共通の課題に浮上するなか、パソコンメーカーでもある日立のパソコン全廃は、企業の情報システムのあり方を大きく変えそうだ。


 企業への罰則を含めた個人情報保護法の全面施行を4月に控え、国内企業は情報流出防止を強化している。従業員による情報の不正持ち出しやパソコンの紛失・盗難への懸念は強く、日立は新型端末の外販にも早期に踏み切る計画。

(日経新聞Web版 1月3日07:00


2004年12月27日月曜日

手帳

パソコンやPDAでの情報整理も良いのだが、手帳にも変な愛着を持っている。通常は仕事用の会社で配布される「能率手帳」のようなもので充分なのだが、その他にバイブルサイズのシステム手帳を3冊(リングサイズがそれぞれ違う)、名刺サイズのリフィル1冊、MOLESKINの無地手帳、電子手帳(って最近言わんな、PDAだ)CLIE、ときどき文具店に行っては買ってしまう小さなメモ帳などなど・・・まあ、そんなにどうやって使い分けるのかと思うのだが、それらをグルグルまわしながら使っている。


で、今日は、LOFTへ行って、つい「ほぼ日手帳」を買ってしまった・・・


うーん、来年のメイン手帳はどれになるのだ? 教えてくれっ! ということで、年末に突入、さらば。

【音盤】キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵


今年もいよいよ残すところ後数日になってしまいました。明日は個人的な忘年会を二つ掛け持ちして、怒涛の師走が終了します。ブログの方も、これがが本年最後のエントリーになりそうです。

キーシン
  1. ムソルグスキー:展覧会の絵
  2. トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
  3. ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
  4. 組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
  • キーシン(p)
  • 2001年8月4,5日、フライブルク
  • RCA 09026.63884

この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。

凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。

対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。

録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。

冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。

とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。

An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、

ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。

ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。

時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。

2004年12月24日金曜日

いまさら「電車男」

今年のネット界を騒がせた話題といえば、Googleの隆盛、ブログの流行、そして「電車男」ということになるのではないかと思います。「電車男」は新潮社から本にまでなって、しかも50万部突破というのだから驚くばかりです。


今更「電車男」の話題を書くのも何なんですが、「電車男」本が(私の)職場の忘年会でビンゴ景品になったりするほどなので、つらつら考えたことを書いておこうかなと思ったわけです。


板が熱くなったことと本が売れるていることには大きな違いがあるように思うのですが、それはさておき、「電車男」というのは周到に用意されたストーリーなのではないかと思っています。電車男が実在するかどうかはネット上でも話題になっているようです。それを読むほどにヒマではありませんので、以下は私の考えたことです。




確かに「電車男」の話題は、読むものを「熱く」する何かが潜んでいます。秋葉ヲタクが変身してゆくさまは、驚きと同時に小気味よささえ感じます。ダメ男(女)が恋によってどんどん素敵になってゆくというのは、根強い変身願望とともに、よくあるストーリーのような気もしますが十分に感動的です。


ネットで通して読むとちょっと疲れますが、途中で止められなくなるほどにエンターテイメント性があります。電車男を軸としながら、名無したちの脱線しがちな妄想も笑えます。この電車男を応援する無数の名無したちが、なんだかイイやつらばかりなのも泣けるところです。


「まとめスレ」ではスレッドを上手く編集していますから板特有のアラシもなく、全体的に肯定的で前向きで暖かな、そして熱い雰囲気が持続され感動のラストをむかえます。掲示板ですから投稿時間も示さており、それが展開に緊張感を与えています。


今までの小説と違うのは電車男の行動に名無したちが関与し、それが次のストーリー展開に影響を及ぼすした点であることは、読んだ方ならば納得するでしょう(実際はそれほど行動に対する「関与度」は高くないのですが)。板の前の応援者たちは電車男が帰宅し彼の放つデート報告=爆弾を、期待と不安と"喜び"と"痛み"を持って待ちわびます。彼らが自らの秘めた思いを板にぶつけ、電車男がひとつづつ難関を突破してゆくさまは、RPG的といえるかもしれません。


「電車男」を新たな小説の試みと絶賛する人は、このような参加型の小説に対して期待を寄せているのかもしれません。(村上龍がそんなこと、とっくにやっていたように思うが、ちょっと違うか?)


「電車男」の中で注意すべき点は、彼が変身してゆくことではなく、相手の女性が極めて理想的に描かれている点ではないかと思います。電車男を半歩リードしながらも暖かく電車男を受け入れてゆくエルメス子は、あるタイプの男性達の、まさに理想的な女性像を示しているように思えます。彼女は電車男を一度たりとも否定も拒否もせずに暖かく迎え入れます。私は最後まで読んでも、エルメス子をリアルな女性として想像することができませんでした。これこそ秋葉ヲタクに代表されるような名無したちの妄想上の聖母なのではないかとさえ思ったわけです。ここらへんは、かなり偏見が入っているかもしれません。


電車男のスピーディーな変身と理想の女性像が余りに出来すぎであるため、これは周到に準備された都市伝説創造の試みではなかったのか、「書き手」と名無したちとのコラボレート作品なのではないかと疑うわけです。女性が板と出版という二度の行為によってプライベートの暴露を許容していることも私の常識を越えています。


「電車男」は、ヲタクだのゲーマーだの、ひきこもりだの、ニートだのでくくられ、リアル社会との絆を見出しにくくなっている彼(彼女)ら、リアル社会に憧れながらも失敗と失望を繰り返すことで、自らのプライドを守るためには自虐的になるしかなく、自分の中に閉じこもりがちになる者たちへの、エールとして描かれたラブストーリーなのかもしれません。(おっと、ニートの姿は「日本外交」そのものの姿なのではないか、もしかすると!)


板が熱くなったのは、リアルタイムで参加しながら電車男に「関与」できる関係性にゾクゾクするほどの興奮を覚えたのでしょうし、想像以上の好展開に胸を躍らせたのだと思います。


一方で本が売れるのは、掲示板にあまり馴染みのない人が「こわいものみたさ」のような興味を持って買っているのではないかと思います。ネットに馴染んでいる人なら、わざわざ本を買うことはないでしょうし(今でもネットで読める)、今更「電車男」かよと思うでしょうしね。


「電車男」や「エルメス子」は実在するのかもしれませんが、そうだとしたらこれほど幸せなことはないでしょう。逆に幻想を振りまき夢を与えながらも、実は周到に用意されたビジネスであったならば、おそらくはその反動として幻滅が示す底の深さは、想像以上かもしれません。あれほどのものを意図的に創作可能かについても疑問は残りますが。


かくも「電車男」は語られるという点で多様性を帯びており、女性において対極な「負け犬」とともに、今年を象徴する出来事であったことだけは確かだと思いますが、いかがでしょうか。

2004年12月22日水曜日

立川のビラ配りの件3

「立川自衛隊テント村」という反戦団体が、防衛庁官舎にビラを配った件で住居侵入罪に問われた件について以前エントリーを書きましたが、東京地裁八王子支部で無罪判決が言い渡されたそうです。


細かな事情まで調べてはいませんから、普通に考えれば「ビラを配っただけで逮捕」はやり過ぎではないか、と思っていましたので、当然の帰結だとは思うものの、ネット上では公安の権力行使について肯定的な意見も少なくないことを知ったりしたものです。事件を報じたのが朝日新聞と赤旗だけでしたから尚更であります。


【参考サイト】






 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


と朝日新聞にありますが、表現の自由や政治的活動の巾に関する微妙な問題を孕んでいることは否定できず、「立川自衛隊監視テント村」という、少々過激な名前の市民活動家たちの行動が、ある種類の方々の反感を買ったことは、ちょうどイラクで拘束された三人の日本人の時にも巻き起こった感情と、どこか通じるものを感じます。


彼らが反対した自衛隊は実際サマワで何をしているのか全く分りません。給水活動に道路復旧や学校復旧だと政府は言いますが、イラク復興にどれだけ寄与しているのか全体での位置付けも分りません。勿論、イラク派遣に一体いくらの国費が費やされているのかも分りません。具体的な活動内容と、それに関わる収支は是非報告していただきたいものです。


なにしろ、知らないうちにこんなものを造っていたりしたんですから。


【関連エントリー】



朝日新聞 社説12月17日

■ビラ配り無罪――郵便受けの民主主義


 イラクへの自衛隊派遣に反対するビラを防衛庁官舎の郵便受けに配り、住居侵入の罪に問われた東京の市民団体の3人に対して、東京地裁八王子支部で無罪の判決が言い渡された。


 逮捕した警察、起訴した検察の全面的な敗北である。


 そもそも身柄を拘束したり、起訴したりする必要のない事案だった。2月末に逮捕され、5月まで75日間も勾留(こうりゅう)し、公判は8カ月に及んだ。無罪の結論を出すのが遅すぎたくらいだ。


 被告とされたのは、「立川自衛隊監視テント村」という反戦団体に属する男女3人。職業は中学校の給食調理員と介護会社員とアルバイトである。今年1月と2月、東京都立川市内にある防衛庁官舎の敷地に入り、宿舎8棟のドアの郵便受けにビラを配って逮捕された。


 「イラク派遣が始まって隊員や家族が緊張している時期に、玄関先にビラを放り込まれるのは住人として大変不快であり、家族も動揺した」。証人として出廷した自衛官ら3人は口々に訴えた。


 確かに、先遣隊、主力第1波、第2波と派遣が進み、各地の自衛隊にピリピリした空気が漂っていた時期だった。


 A4判のビラは「自衛官・ご家族の皆さんへ いっしょに考え、反対の声をあげよう」という呼びかけだった。


 判決は書かれた内容を「自衛隊員に対する誹謗(ひぼう)、中傷、脅迫などはなく、ひとつの政治的意見だ」と述べた。さらに「国論が二分していた状況で、ビラはさして過激でもなく、不安感を与えるとも考えがたい」と指摘した。


 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


 住居侵入に当たる行為ではあるが、配り方は強引ではなく、住民にかけた迷惑も少なかった。刑罰をもって報いるほどの悪事ではない。判決はそう結論づけた。明快な判断である。


 イラク開戦とそれに続く各国軍の現地派遣をめぐっては、世界のあちこちで大規模な抗議活動が繰り広げられた。欧州では、ベトナム反戦デモを上回るうねりとなった国も多かったが、日本では際立って低調だった。


 滞在中たまたま日本の反戦デモを見た外国人たちはその規模の小ささ、若者の少なさに驚いた。理由はいろいろあるだろうが、ビラ配り事件にあらわれた警察の過敏な取り締まりも一因だろう。


 自分の気に入らない意見にも耳を傾けてみる。それは民主主義を支える基本である。派遣を控えた自衛隊員にとっても、同僚や家族と全く違う意見を目にするのは無駄にはならないはずだ。くだらない意見だと思えば捨てればいい。


 そんなところにまで警察が踏み込むのは危険きわまりない。判決はそう語っている。


2004年12月21日火曜日

夢想仙楽

会社の同僚にムチャクチャうまい焼酎を教えてもらった。その名も「夢想仙楽」というもの。スペインより輸入したシェリー樽に5年間貯蔵し熟成させたという一品だ。


色はウィスキーのように琥珀色、古酒独特の色と深い味わい、そしてスコッチを髣髴とさせるシェリー樽の豊穣なる香り、こいつは旨い。「森伊蔵」や「伊佐美」も確かに旨いが、あれらはプレミアがついてバカみたいな値段だ。こちらは2730円。


思わずインターネットで注文しちまったよ。(て、これがOpinionネタかよ・・・)

2004年12月20日月曜日

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団/マーラー:交響曲第2番 「復活」


年末も近くなってきましたから、あちこちで第九の響きに身をゆだねている人も多いでしょう。かく言う私も今日はヒマだったものですから、フルトヴェングラーのバイロイト1951年盤などをネットで聴いたりして、ただならぬ終楽章に改めて唖然としていたりしました。

第九も良いのですが、私としてはマーラーの「復活」の方がしっくりします。ということでアバドなんですが・・・これはいただけませんでした。非常にネガティブなレビュです。

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団
2003年 DG 477 508

アバドが2003年にエリート・オーケストラとして編成されたルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラー交響曲第2番とドビュッシーの海は、評判が良いようだし、年末も近いし、ということで聴いてみたのですが、私にはこの演奏のどこが良いのかさっぱり分からなかったというのが正直な感想です。

まずルツェルン祝祭管弦楽団についてはHMVをご覧いただくと詳細な解説がありますが、引用いたしますと
アバドが創設に寄与したグスタフ・マーラー・ユーゲント管を母体とするマーラー室内管弦楽団が中核となり、各パートのトップにはベルリン・フィルの現・元首席奏者を始めとする名手を据え、これに最先端でソリストとして活躍するプレイヤーたちも加わり、実に錚々たる顔ぶれが揃ったスーパー・オーケストラ

ということだそうです。続くオーケストラの参加者名を見ると驚くべき陣容です。

コンサートマスター:コーリャ・ブラッハー(元ベルリン・フィル)
弦の各パート:ハーゲン四重奏団ら
第 1ヴァイオリン:ルノー・カプソン、セバスティアン・ブロイニンゲ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマス)、ドメニコ・ピエリーニ(フィレンツェ五月祭管コンマス)、ブリジット・ラング(北ドイツ放響コンマスの)ら
第2ヴァイオリン:ハンス=ヨアヒム・ヴェストファル(元ベルリン・フィル)
ヴィオラ:ヴォルフラム・クリスト(元ベルリン・フィル首席)
チェロ:ゲオルク・ファウスト(ベルリン・フィル首席)、ナターリャ・グートマン、ゴーティエ・カプソンら
コントラバス:アロイス・ポッシュ(ウィーン・フィル)
フルート:エマニュエル・パユ(ベルリン・フィル首席)
オーボエ:アルブレヒト・マイヤー(ベルリン・フィル首席)
ホルン:シュテファン・ドール(ベルリン・フィル首席)
クラリネット:ザビーネ・マイヤー
トランペット:ラインホルト・フリードリヒ

まさにスーパー・エリート・オーケストラ。奏でる音は、冒頭のコントラバスの音からしてタダモノではなく、物凄いアンサンブルを聴かせてくれます。音量もマーラーを聴くには充分で、フォルテッシモがつくる壮大な音の大伽藍は、ホールで実演を聴いていたならば、かなりなものであったろうと思わせるものがあります。

また、個々のプレーヤーの技量も素晴らしいもので、どの断片を取っても美しく均整の取れた音楽に仕上がっていると思えます。これほど贅沢な編成でマーラーの「復活」を聴けるのなら、これにまさる至福があろうかと思うのが普通なのですが、1時間半近く聴き通して得た感想は「何なんだこれは?」というものでした。いったいに、マーラーを聴いたという感興が全く生じません。

昔からアバドは録音と実演の印象差が激しいとは言われていましたし、ベルリンを辞めた後、アバドも変わったという評判も耳にするのですが、私が鈍いのでしょうかね。

仕方ないからテンシュテット&LPOと比べてみました

テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニー管
EMI 1981年5月

繰り返して書きますが、オケの性能、録音とも抜群であると思います。しかし肝心なパッションが、私がマーラーに求めている何かが決定的に欠けています。それが何なのか、あまりにも拍子抜けしたため、手元にあるテンシュテットとLPOのマーラー全集から終楽章だけ聴いてみました。(テンシュテット&NDRは持ってませんし)

すると・・・どうしたことでしょう、終楽章だけですよ、白けきっていたのでまあ口直しにという程度に聴いただけであるのに、冒頭から34分間、圧倒的な音楽に打ちのめされ放しです(繰り返しますがNDR盤ではありません、syuzoさん評では評価低いですから)。この違いは何なのか、聴きながら自問するのですが、その答えは分かりません。

オケの性能はLPOより圧倒的にルツェルン祝祭管弦楽団の方が高いでしょう。音の抜けやクリアさもルツェルンに分があります。しかし、アバドの演奏が大音量になればなるほど、非常にピュアなところに行き着き、ディテールレベルでは微細な表情まで描いているにも関わらず全く質量感を伴わないように感じられるのは、もはや異様といってよいかもしれません(再生装置が貧弱だからか?)。

私にとってマーラーを聴くことは一つの体験に近いものです。テンシュテットの演奏は(LPOとの全集盤が彼の代表的な演奏であるかはさてき>しつこい)終楽章を聴いただけでも慄然とするものがあります。地面は沸騰し天は裂け、そこに一条の光が差し込み、まさに神が降臨しているのではないかと思わせる凄まじさが秘められています(私だけの幻想かもしれないが)。

アバドは、そんなマーラー観とは全く無縁です。そもそも、第一楽章で感じる精神的な崩壊(と私が勝手に思っている)がアバドには感じられません。従って得られる結論はテンシュテットとは全く異なったものになっているようです。音楽に痛みも軋みもなく、非常にストレートに美しさを歌います。だから破裂するような歓喜も薄いのでしょうか。ひたすら演奏だけが立派であり、それが返って白々しさを増します。好みの違いも大きいとは思いますが。

アバドの演奏がマーラーに対するアプローチとしてどうなのかは私には判断ができず、こういうマーラーもあるのだと納得するだけです。逆に言えば、過剰なものを排除して出来上がった歓喜の世界ということもできます。ですからマーラーに特別な思い入れを求めていない人や、前世紀的なマーラー像に飽いている人には、充分過ぎるほどに満足できる演奏であるのかも知れません・・・。DVDも出ていますが、改めて映像とともに聴いたら感想変わりますかね?

さて「海」は、みなさん評判良いようですから、これはどうでしょう・・・(まだ聴いてません)

2004年12月19日日曜日

【音盤】テンシュテット&NDR/ベートーベン:交響曲第7番

年の瀬も押し詰まってまいりまして、結構ばたばたと忙しい状態が続いています。あっという間の一年でしたが、聴きたい音楽、読みたい本など山積みのまま来年になりそうです。

てことで、テンシュテット&NDRのベト7の感想を書きました。正直な話、本文でも書きましたがSyuzo's Weblogを参照していただいた方が、時間の節約だとは思います。

テンシュテット(指揮)NDR
EMI/NDR 10122(Germany)

リズムとエネルギーの塊のような「舞踏の神化」ベートーベンの交響曲第7番。爆演系ではありませんが、別な意味で物凄い演奏が展開されています。最初に断っておきますが、私の感想など読まずにSyuzo's Weblogのレビュを読んでください。全てが言い尽くされています。

第一楽章冒頭はゆったりと、そしてふくよかで、堂々たる風貌の音色を響かせてくれます。このコントロールされたふくよかさは全楽章を支配する明るさに通低しています。弦の刻みは強すぎないものの的確で、テーマは朗朗と歌われます。ここに広がる明るさと幸福感は例えようもなく、交響曲第6番「田園」の延長を思わせる世界観に素直に驚かされます。

重層的に重ねられる音は、キャンバスに塗り重ねられる油絵の具のようであり、標題音楽ではないのに様々な風景が目の前に浮かんでは消えていきます。例えばそれは、黄金色に染め上がった丘陵地帯であったり、その上を舞う鳥であったり、農夫たちの踊りであったり、木枯らしや嵐であったり・・・あまりにも見事な音楽と演奏に至福の時が流れます。

静かに、しかし芯が燃え上がるようにパッションが加わる第1楽章の終わり近くは、なかなか聴きどころです。比較的長い残響時間さえも音楽に組み込み多くの余韻を残してくれます。

第ニ楽章は葬送行進曲とされていますが、こんなにもテーマが穏やかにそしてなだらかに奏でられてしまいますと、もはや言葉にすることができません。例えようもないほどに哀しくそして美く、そのまま昇天してしまいそうです。この楽章を聴くだけでも価値がある、そんな演奏です。

第三楽章冒頭はティンパニの強打で始まるものの、決してテンポは急がず着実な演奏です。大人しすぎるのではないか、などと途中で感じたりしたのですが、実のところ第四楽章まで聴き終えあたりを見回したら、ボウボウと燃え盛る炎にホールごと包まれていたというような感じです。

テンシュテットのオーケストラコントロールは確かに見事で、フレーズを微妙に伸ばしたり、ごく短い間にゆるやかなクレッシェンドをかけたりと、かなり細かなことをしているように聴こえ、それが演奏と音楽に彫琢を施しています。第三楽章でのリズムとメロディの交替は次第に高揚し、聴くものにとてつもないベートーベンのエネルギーが注入されていきます。

第三楽章と第四楽章は間に譜面をめくる音が「ガサガサ」と聴こえたと思ったら、あの聴きなれた付点のリズムが炸裂します。ラストに向けてはsyuzoさんの迫力はあるのにいたずらに威嚇的にならず、自然で明るい表情のまま、巨大なスケールで上昇と下降を繰り返してゆく。しかも、その響きは透明さを失わない。というコメントに尽きています。終末近くにホーンの音色が聴こえたときには、ベートーベンを聴いたという勝利の感慨に満ち溢れています。

ああ・・・なんと幸せなベートーベン、なんと凄いテンシュテット。おいら、三度も続けて聴いちまったよ(;0;)<泣くな

(2004.12.17)
追記

とここまで書いて、自分のHPファイルをごそごそしていたら、テンシュテット&ミネソタ管のレビュが見つかりました。こちらは今手元にないので比較して聴けません。しかし、Syuzo's Home Pageの「テンシュテット:禁断の部屋 その6 ベートーヴェン:交響曲第7番」を参照にして自分のレビュを読むと、今回の演奏(80年)とミネソタ管の演奏(89年)には明らかに違いがあるのかと知らされます。機会があれば聴き比べて見ましょう。

2004年12月17日金曜日

学力低下って子供の世界ぢゃないだろ

今週は新聞紙面で「子供の学力低下」について話題になっていました。もはや文部科学省も「世界トップレベルの学力ではない」と認めたそうで、それは「ゆとり教育」に起因するという論調です。


ブログ界でも熾烈なバトルを展開していらっしゃる「週刊!木村剛」では『2004.12.16 ゆとり教育でゆとりを感じているのは誰?』というエントリーがあったばかりです。個人的には、知的レベルの崩壊は子供の世界の出来事ではなく、オトナ社会での出来事なのではないかと常々思っています。




時々、鴎外やら漱石の小説を引っ張り出して再読してみますと、当時の知的エリート層の学力レベルが極めて高いことに驚かされます。あるいは、日本のトップにまでのぼりつめた政治家や経営者もしかりです。鴎外や漱石に描かれた「知的遊民」は別としても、教育にモチベーションやインセンティブがあったということでしょう。


しかし、現在では「教養」は「生きる力」に直結しませんし、社会に出て役に立ったという実経験が不足しています。学校教育の効果が実体験として語られるということもめったにありません。「詰め込み」の行き過ぎ面も指摘された時期がありましたから、勉強することをネガティブに感ずる風潮が日本にずっと醸成され続けてきているように思えます。


そういう意識が今のオトナ社会を形成しているように思えます。直接の関係はないかもしれませんが、例えばTVときたらほとんど白痴的なものも少なくなく、あれだけの高度なテクノロジーを使って膨大な浪費をしていると思うと唖然とします。ディスカバリー・チャンネルやヒストリー・チャンネルのような番組は、いったいどれだけあるでしょう(あれがいいとは言わん)。


これから発展を期待している国は、発展に希望を見出していますから、その第一歩となる「教育」を受けることに渇望しています。日本には逆に言えば、満ち足りて「希望」がなく、ひいては教育も教養も廃頽し享楽と快楽が拡大しつつあるということでしょうか。

2004年12月14日火曜日

寒くなってきたが


朝、会社に行く途中の歩道で、猫がバッタリと力尽きたように死んでいた。車にはねられたのではなく、そこまで歩いていて崩れ落ちたような死に方だった。猫は人気のないところで死を迎えると思っていただけに、少しショックだった。


A駅の地下鉄を降りると、改札前に人だかりができている。どうしたのかと思ったら、サラリーマンが一人、鞄を手に握ったままうつぶせに倒れて、ぴくりとも動かないでいる。周りではどうしていいか分からない人たちが心配そうに倒れた彼を見守っている、駅員は救急車を呼んでいるようだった。いまさら近づくこともできないし、行ったところでどうにもならない、無力に立ち去るしかなかったが、あのサラリーマンは、どうなっただろう。


猫の話題と一緒にすることは不謹慎かもしれないが、これから年末にかけて、忙しさの合間に忘年会やらなにやらが押し寄せてくる。自分を守れるのは自分だけだと思い知った朝であった。

TV:戦場のピアニスト

昨日のテレビで「戦場のピアニスト」を放映していたんですね。途中から観たので、真面目な感想を書くまでには至りませんが、とにかく凄まじい映画でした。話題になるだけありますね。


映画前編に漂う哀しさは覆いようもなく、あっという間に変化してゆく時代の流れ、不条理なまでの差別と殺りくには、映画でありながら胃がせり上がってしまうような恐怖と絶望を感じたものです。




DVDのジャケットにもなっている廃墟のシーンは、涙も出ないというほどの圧倒的な迫力。戦争の虚しさをこれほどまでに映像表現したシーンは、ざらにはないかもしれません。ポランスキー自信の実体験がなければ描けない映像かもしれません。


ユダヤ人迫害という点ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」などを思い出す人もいるかもしれませんが、私は戦闘シーンのドキュメンタリーを見ているような迫真性に、むしろ「プライベート・ライアン」冒頭の上陸シーンを重ねてしまいました。あるいは、ロイター通信などが最近伝えたファルージャ虐殺の様子とか・・・人間の命が雑巾ほどの価値もない状況に慄然とし「撃たないでくれ!」と声を上げそうになります。


ピアニストのシュピルマンの行動については、私は弱さとか卑怯さは感じません。彼ほどに強靭な精神の持ち主は逆にいないのではないかとさえ思います。だから彼が戦後にラジオ放送を再開したときの笑いの中に見せた苦渋の表情には、言葉にはできない感情が込められているように思えました。


音楽的には、私はショパンという作曲家にあまり馴染んではいないのですが、この映画を観たからには、ショパンにまつわるイメージに、私の中である縁取りができてしまったことは否定できないですね。モーツアルトにまつわるイメージが映画「アマデウス」に影響されてしまうように・・・TVで観ただけなのに、それほどまでに強烈な映画でありました。


2004年12月9日木曜日

【本棚】リチャード・ミニター:「なぜ企業はシェアで失敗するのか」

何気なく読み始めたこの本だったのですが、企業の「シェア至上主義」に疑義を唱え、マーケットにおけるシェアは、利益とは何の関係もないことを、嫌というほどに思い知らせてくれるものでした。

ビジネス本として、非常に卓越した内容でありますので、マーケット・シェアと利益率に少しでも感心のあるビジネスマンや経営者は一読の価値はあると思います。この本を読むと世のCEOを初めとして「マーケット・シェアの拡大」という、一種宗教にも誓い妄想に取り付かれている愚が明らかになります。

私の属する業界もしかりで、会社の期首や期央の経営会議で問題になるのは、まずは総売上高と経常利益。「利益率」という概念もないわけではありませんが、量重視で、量を確保すれば社員を賄う原資は得られるという幻想にとらわれているような気がします。あと「赤字覚悟」で仕事をとってシェアを高めれば、そのうちコストリーダーになれるというユメを見ているわけです。なんたって利益率ときたら限りなくゼロに近い一桁という成熟産業ですから、厳しい競争にしのぎを削るのは当然ではあるのですが、「そのうち」ってことの見込みもまた、利益率と同じくらいのものでしかないわけです。

2004年9月号のハーバード・ビジネス・レビュ(日本版)は、『「利益率」の経営 低収益体質からの脱却』というテーマで論文を掲載していましたし、高収益率企業でかつ、マーケットリーダーであるデルの本も読んだばかりでしたので、採算に合わない仕事からどうやって利益を叩きだすか、そもそも、その仕事をやるべきなのかという判断を迫られる業務をしている関係上、テーマ的にもヒトゴトではなく、理想と現実の違いにゲンナリしてしまうのも事実。

いったい、わが社幹部連中は何を考えて企業経営をしているのか、何を基準として経営判断をしているのか、小一時間ほど問い詰めたい気になります。

ちなみに著者のリチャード・ミニターは、ウォールストリート・ジャーナル・ヨーロッパ紙の元エディター。現在はジャーナリストとして、ウォールストリート・ジャーナル紙やワシントン・ポスト紙、ニュー ヨーク・タイムズ紙、サンデー・タイムズ紙のほか、世界中の有力経済専門紙を中心に寄稿している方。

2004年12月8日水曜日

ムター/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

  • アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
  • アンドレ・プレヴィン(指揮)シュターツカペレ・ドレスデン
  • GRAMMOPHONE

師走になりましたが、今日も釧路地方では地震がありましたね。余震だそうですが、寒くなってきましたし大きな地震にならないことを祈ります。

今年は天地がちょっとばかり変で、日曜日の札幌は大雪の大荒れの天気でしたが、東京は25度だったそうですね。飛行機でたかだか1時間15分ほどの距離しかないのに、まさに別世界。

ということで、別世界のムターのシベリウスを聴いてみました。感想はこちらです。

かなり濃い目のムターのチャイコフスキーを聴いたので、実際彼女の芸風はどうだったかしらという意味から、34歳の時のシベリウスを聴いてみました。

冒頭からノンヴィブラートの音、チャイコフスキーの第二楽章で聴かれた音です。嫋嫋たると表現する人もいるようですが、絞り上げるような表現力には只者ならぬ雰囲気を感じます。

音色の変化は、ここでも見事であり、それは饒舌とも豊穣とも違ったもの、クレッシェンドになるに連れ、音は太くなり分厚さをましてきます。メタリックな感じでゴリゴリと奏する様はかなり迫力あります。しかし、そこはムターです。あくまでも多彩な表現力の一面ということですから、力まかせな乱暴さということではありません。繊細さと強烈なところのレンジが広いということでしょうか。

ムターの音楽は、極めてエネルギッシュで感情の振幅が大いものの、泣きや浪花節に落ちることはありません。ですから演奏を聴いて感情移入をして感極まるようなことはありません。ひたすらに見事だなあとは思うのですが。

第一楽章のカデンツァなど奔放さの限り、かなり好きなことをやっているように聴こえます。完全にムター節で、自分の世界を表現しているような熱演です。凄い演奏だとは思ですが、シベリウスを聴いているという温度感は希薄です、プレヴィン率いるバックのオケもしかりです。

「好きな演奏か」と問えわれれば「感心はしても感動はできません」ということになりますね。シベリウスに特別な思い入れを持っているヒトには特にそうかもしれません。

PS.年末締め切りの仕事がバタバタと入ってきたり、今までうっちゃっていた仕事の催促が来たりと、さすがに師走は忙しくなってきました。かなりしつこい風邪もひききったので、あとは驀進かァ。ブログはぼちぼちですな。

2004年12月3日金曜日

【音盤】ムター/コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲


チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターのチャイコフスキーは、コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲がカップリングされています。レビュを書いて気付いたのですが、どちらも「ニ長調 OP.35」なのですね。

コルンゴルドは1897年生まれ、幼くしてウィーンの楽壇にデビューして天才ともてはやされ、その後アメリカに渡り映画音楽の世界で成功した作曲家。本人は晩年にウィーン楽壇に復帰したかったようですが、「映画音楽作曲家」というレッテルは死ぬまでぬぐえなかったそうです。

さて、そんな作曲家が1947年に描いたのがこのヴァイオリン協奏曲。いやいや悪くないですよこれは。最初に聴いたときには、まさにハリウッド映画音楽だあと思ったものの、それはそれでよいではないですか。ロマンティシズム溢れる、甘ったるくも力強くエネルギッシュな曲です。

甘美なところはこれ以上はないと思えるほどで、とろけてしまうよう。それをムターのヴァイオリンで聴くと、暖炉の火で柔らかくなったキャンディーよろしく、「もう、どうにでもして」と言わんばかりの音色となって聴くものを骨抜きにしてくれます。特に第一楽章の冒頭の旋律が凄い、これを聴くだけでも価値があるかな。チャイコフスキーでは、先入観からか疎んじた音色が、ここでは、非常にマッチしています。

快活な部分では、芯がはっきりした太い音が、それこそ自在に駆け巡る快感は、これまた例えようもなく、聴いていて「ああ、楽しいなあ」という気にさせてくれます。古きよき時代の上昇志向な感じが懐かしいです。

コルンゴルドはフーベルマンのために、この曲を書いたそうですが、初演はハイフェッツなのだそうです。技巧的にも結構難易度が高いようですから、ヴァイオリンを聴くという意味では楽しめる曲です。

というわけで、コルンゴルドは悪くはないのですが、ふと考えてみると1947年という時代に、アメリカでこんな脳天気な音楽を作っていたとは、コルンゴルドさん・・・幸せでしたね。

2004年12月2日木曜日

【演奏会】コンサートは誰と行くか

iioさんのCLASSICA QuickVoteで『コンサートに行く時は誰と行くかと』いう設問が設置されていました。私は「進んで一人で行くことが多い」にしてしまいましたが、そもそも今年はコンサート会場にほとんど脚を運んでいませんな。


「進んで一人で」という設問が気にはなりますが、私の場合、予定がドタキャンになることも多いため、コンサートはほとんどが当日券狙い。従って、ラトルやゲルギエフ騒動からも無縁で、平穏かつサビシイ日々を過せるというわけです。


「今日○○響のチケット当日券あるけど、いくか~?」

「え?おまー、そんな桶に金払うの?シュミ÷ぃ」

などという会話を避けての事では決してないのですが。

今の時点でのQuickVoteの結果は以下でした。


(有効投票総数 :98)

進んで一人で行く 44.9% 44

やむなく一人で行く 25.5% 25

進んで二人以上で行く 23.5% 23

やむなく二人以上で行く 6.1% 6

「やむなく二人以上で行く」>行くなよ、6名(笑)

2004年12月1日水曜日

ブログ中毒?

k-tanakaの映画的箱庭で「Blog中毒者チェック」というエントリをみつけました。このごろは、エントリ頻度もめっきり減っていますし、中毒なんかぢゃないぜと、思いながら確認してみました。





  1. WEBブラウザのお気に入りに、ついブログフォルダ作成してしまった。→当然

  2. そのフォルダにはすでに10数件以上登録してある。→加えては消している、RSSリーダーには数十件、Firefoxにも十件以上・・・

  3. 仕事場でもアクセス情報をチェック、うっかり閲覧した人の出所を全てたどる。→した。逆のことも怖れて会社からのクラ関連アクセスは止めた

  4. よくわからない話題でも、なんとかしてコメントしてみたい自分がいる。→やめた

  5. 会社では更新すまいと思いつつ、いつか折れそうな自分がいる。 →折れまくり

  6. ていうかネタ発見→本当に即更新作業をしたい。→今がそう

  7. 隙あらば誰彼構わずトラックバックしようとする。→人は選ぶ

  8. 「む!今の発言にトラックバック!」等と口走ってしまう。 →口走らない

  9. 深夜の閲覧、更新作業による慢性的な寝不足。 →夜は弱い

  10. 相当飽きっぽいのにまだ続けている。 →そろそろ止めようと思っている

  11. 終始なにかと新しい記事のネタ探し。 →ネタはネタころやってくる

  12. 同じ職場内で、ネタの譲りあいみたいなものが発生している。 →ない

  13. 携帯のデジカメ機能の使用頻度が、以前より確実に増している。 →携帯はキライ

  14. ブログの話かと思って聞いていたら実は仕事の話だった。 →周りの人間はブログを知らん

  15. 仕事の話でちょっとでもがっかりしてしまった。→んなわけない

  16. 「さ、もう寝よ。」と思いつつ、もうちょっと見てからにしようと思ってしまう。→布団に入った後、エントリの誤字とかに気付いて、再びPC立ち上げなおすことはしょっちゅう。


あとひとつ加えた。

17. 空港でヒマなんでネットカフェとかに入って、自ブログやいつも見ているブログを閲覧して飛行機に乗る。

・・・完全に逝ってる・・・

なお、このエントリ作成所要時間、約11分。

2004年11月30日火曜日

ムター/チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターの15年振りの再録となるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。

私が「思わずジャケ買いしてしまうヲジサン」であるかはさておき、HMVで少しばかり視聴したのですが、「ひょえっ!なんぢゃこれ」というくらいに個性的な演奏で、そのまま聴きつづけるのがつらかったのでフラフラとゲットしてしまいました。

An die Musikの伊東さんは、本盤のレヴュでこれは好き・嫌いがはっきり分かれるだろう。と書いておられましたが、聴いてみればまさに個性的な演奏。出だしからこれでもかと言わんばかりの濃厚な表現が聴かれます。チャイコフスキーがこんなにも色香のある音楽だったかしらと戸惑ってしまいます。

「妖艶」「むせかえるような」などの形容詞を冠したくなる演奏で、それがムターの個性なのだといわれれば、そういうものかとも思いますが、果たしてこれが「美しい」演奏であるかは疑問です。(美しいの定義も問題ですが)

ムターのヴァイオリンは、ノンヴィブラートの音から、艶やかさと豊穣さを乗せまくったヴィヴラート音まで、あるいはポルタメントの多様やあざといまでのアゴーギグなど、表現の巾は変化自在であり極めて広いといえます。演奏スタイルは下品とか演歌的というのではないのですが、非常に濃いものです。目的のためには手段を選ばないといいますか、娘にもなれば熟女にも老婆にも化けるといったような・・・

コテコテの演奏がキライなわけではないのですが、ムターのこの演奏には、どこかついていけないものを感じます。聴いていて顔をしかめてしまうような部位がいくつもあります。例えば、第二楽章冒頭のノンヴィヴラートの音色など。もっとも、これはこれでびっくりするような音です。暗くかすれたむせび泣きであり、この楽章は全般的にヴァイオリン協奏曲というより、オペラの悲劇のヒロイン歌う哀しいアリアにさえ聴こえます。でも何となくムタれ気味になった耳に、オケのフルートの音色が新鮮に聴こえ、救われる思いだったりします。

夫であるプレヴィンとの共演というだけあってアンサンブルは悪くありません。ムターに十分にかつ自在に歌わせているように感じます。オケはバックで闊達すぎるムターを外側から優しく抱擁しているようでさえあります。

見事といえば見事なのですが、改めて伊東さんと同じように好きか・嫌いかと問われれば「好きとは言いたくない、が抗えない力も感じる」というのが結論ですな。

2004年11月28日日曜日

【音盤】C・クライバー/ビゼー:歌劇「カルメン」


ビゼー:歌劇「カルメン」

カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
ドン・ホセ:プラシド・ドミンゴ
エスカミーリョ:ユーリ・マズロク
ミカエラ:イソベル・ブキャナン
フラスキータ:チェリル・カンフシュ
メルセデス:アクセル・ガル
スニーガ:クルト・リドル
モラレス:ハンス・ヘルム
レメンダード:ハインツ・ツェドニク
ダンカイロ:パウル・ヴォルフルム
ウィーン少年合唱団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ノルベルト・バラチュ(合唱指揮)
ウィーン国立歌劇場管弦楽団

カルロス・クライバー(指揮)
演出・装置・衣装:フランコ・ゼッフィレッリ
収録:1978年12月9日、ウィーン国立歌劇場(カラー&ステレオ)

季節の変わり目で風邪がはやっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。当方は絶不調が続いており、元気付けにという意味も込めて、クライバーの、《カルメン》(78年)をゲット、快晴の土曜日、西日が燦々と入り込む部屋で、DVD視聴をいたしました。

驚いてはいけません、《カルメン》でさえ私にとっては、これが初聴であります・・・


C・クライバーの《カルメン》はファン待望の正規映像とのこと。フランコ・ゼッフィレッリの舞台・衣装演出、37歳の絶頂期のプラシド・ドミンゴによるドン・ホセ、エレーナ・オブラスツォワのカルメン役です。クライバーファンには有名な演奏であるだけではなく、《カルメン》の演奏の中でも評価の高いものだといいます。

オペラ無学な私は、この有名すぎる《カルメン》のストーリさえ熟知しておらなかったのですが、ライバーの映像で、ようやく初体験を果たしたことになりました。
さて、感想はといえば、聴いてびっくり、観てびっくり。改めてどこの断片をとっても名曲のオンパレードであると感心すると同時に、ドミンゴやオブラスツォワもさることながら、やっぱりクライバーの指揮は何て魅力的なんだろうということに最初は尽きてしまいました。

オープニングの入り方からして凄い。拍手が鳴り止まぬ内にオーケストラをかき鳴らし始めます。颯爽として優雅で、しかも熱く、なんてカッコいいんだろうと溜息が出てしまいます。前奏曲での渾身の力を込めた指揮ぶりなども見ごたえがあります。

5分ほどの「通俗名曲」とさえ呼ばれるような聴きなれた音楽を、これほど優雅に、そしてワクワクと聴かせてくれることには心底驚きます。クライバーの音楽を聴いていると、安定した位置にある気持ちの重心を、不安定な位置にまで吊り上げられ、さらに揺さぶられているように感じるときがあります。微熱を帯びた高揚とでも称しましょうか、それが、この《カルメン》では冒頭から感じられるのです。期待は嫌でも高まるというものです。

圧巻は、第2幕のジプシーの唄ですね。猛烈なアッチェレランドとクレッシェンド、オケも歌手達も崩壊寸前にまで煽られながら、ギュンギュンと舞い上がってゆくかのように壮大なる熱狂を作ってゆく様は、衝撃的という言葉以外では表せません。カルメン演ずるオブラスツォワが、歌と踊りが結びついて、はじめはゆっくりと、でもだんだんと速く激しくと歌うそのままの演出が、舞台でひしめき合う男女や、フラメンコを踊る男女の熱狂が渾然一体となる様は悪魔的でさえあり、ここを以って《カルメン》のハイライトと言う意見もあることには納得してしまいます。

カルメンはホセから本当に心変わりしたのか

さて《カルメン》を観ていて疑問に感じたことがあります。それはカルメンのホセに対する気持ちです。

第4幕からラストに向けての展開を単純化しますと『心変わりしてしまったカルメンのもとにストーカーと成り下がったホセが押しかけ、カルメンの冷たい態度に、ホセが遂には逆上してカルメンを殺してしまう』ということになります。

しかし、カルメンは本当に心変わりしていたのか、ということが気になります。カルメンは仲間にホセが来ているから気をつけろと忠告され、更にホセが自分を殺そうとしている、ということを知りながら、敢えてホセに会っているのです。しかも、ホセに対し会話の中で何度も「私を殺して」という態度さえ取るのです。

最初に見たときは、ホセに対して自殺幇助を求めたようにさえ見えたこの場面。何度か観て確認しますと、カルメン演ずるオブラスツォワが実に複雑な表情で、揺れ動いている女心を演じていることが分かります。ホセをいとおしく思いながらも、彼女とホセは生きる世界が違っていることを知り、更には少しは闘牛士のエスカミーリョにも心が動いてはいたでしょう。そういう突き放した態度と、諦めきれない気持ちが、移り変わる場面で実によく演じられています。

鎖、指輪(愛)、自由と死

ラストのクライマックスでは、ホセが贈った指輪を放り投げたカルメンに逆上し、単純なホセはナイフを取り出します。そして「悲劇」です。ここでの演出は、カルメン自らがナイフを構えたホセに抱き寄るようにして刺されています。彼女から死に向かったという解釈のようです。

ホセからとっくに心が離れていたなら、最後まで指輪をしてたことは理解できません。おそらく彼女は、このような形でホセと「決着」することを、ずうっと待っていたのでしょう。ホセを愛するということは、第3幕でのカード占いの結果では「死」を暗示するものでした。誰にも縛られず、自由であることを願っていた彼女が、強い運命には抗えないことを知っていたとしたら。彼女が闘牛場の外でホセと会ったときに感じたであろう喜びと哀しみと諦め。自らの運命を自らの意思で断ち切ろうとした彼女を思うと、カルメンがホセを冷たくあしらう様は涙をそそります。

彼女は本当に自由を心から望んでいたのでしょうか。第一幕のカルメンの歌う有名なハバネラ《恋は野の鳥》の後、言い寄る男達をあしらいながら、カルメンは自分を無視しているホセに気が付きます。カルメンは彼に近づき何をしているのか?と問い、ホセは「鎖をつくっている」と答えます。「鎖? 心をつなぐ鎖」とカルメンは一瞬呆然としてつぶやき、ホセに(最初は戯れかもしれませんが)運命の花を投げつけるのです。

この点からも彼女の心情を憶測することはできそうです。いずれにしても《カルメン》には初めて接したばかり、参考文献にも全く接していないので思い違いかもしれません。ただ、カルメンの心情をどのように解釈するかで演出も感想も180度変わったものとなるでしょう。

それにしてもオペラの男性はガキばかり

最初は、カルメン演ずるオブラスツォワのアクが強すぎること、ドミンゴも37歳ですから直情で純朴な田舎の兵隊という雰囲気ではなくて、オペラの配役と実年齢のギャップやら、イメージのギャップに困惑してはいたのですが、第4幕での心理劇を理解しますと(勝手な解釈ですが)、それぞれの人物が急に際立ってきます。

特にカルメン役のオブラスツォワは、(もっと当たり役のカルメンもいるでしょうが)これはこれで納得です。ミカエラの清純さも捨てがたいのですが、劇に占める役どころは小さいですね。ワーグナーならさぞ献身的にして母性的な救済役として配するところでしょうか。

しかしオペラの男性役というのは、どれもこれもどうしてこう子供じみて単純なんでしょう。「愛した惚れた」で一直線で破滅に向かってくれます。《カルメン》はストーリー的にはむしろ、ホセの破滅の物語と解釈した方が良いと言われているようですが、この演出ではカルメン役のほうが光っているように思えます。

ドミンゴの歌唱力はそれはそれは素晴らしいでのですが、役にあまり深みがありません、ドミンゴを責めてはなりません。あと、ネット上の解説を斜め読みすると、ホセを「ストーカー」と評する文に多く出くわします。ホセは確かにしつこいし、殺意さえ持っていましたが、それを「ストーカー」と片付けるところに、現在の単純さと酷薄さのひとつが表出されているように思えます。あと、カルメンの心情に言及した文章はほとんどないのが不思議です。

このように観れば観るほど興味の尽きない《カルメン》です。クライバーの音楽も相まって「空前絶後」と評される演奏です。決して《ジプシーの歌》や《花の歌》だけがハイライトではない演奏であるというのが、本日の結論。

2004年11月24日水曜日

【本棚】マイケル・デル:デルの革命

パソコンのダイレクト販売を行っていることで有名なデルの創業者が、自らのビジネスに対する考え方を書いた本。世界で成功するベンチャー起業者というのは、小学生の頃から才気あふれていて、一般のヒトとはやっぱり違うのだなあと思い知らされる本でもあります。

本人の資質は別としても、現代における経営やビジネスマンに対する示唆も多く、私としては大変面白い本でした。

デルのビジネスモデルがダイレクト販売によるSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)の確立であることは誰でも知っていますが、それは、デルの最大のポリシーである「顧客重視」という点からの当然の帰結だと書いています。従って、顧客のためにならない製品開発はやらないという判断も、昨今のプロダクトアウトからマーケットインへという潮流をみるまでもなく21世紀に生き残る企業像を示しているといえましょう。

会社は株主(オーナー)のものであり、株主利益の最大化が会社の目的とするのも、当たり前と言うには当たり前すぎる主張なのですが、日本の企業を見ていると株主利益など無視した経営をする企業も少なくなく、大企業であろうと未だに持ちえていないカルチャーであると思わざるを得ません。

経営判断をデータを用いて行い、例えば小売販売チャネルからあっさり撤退しダイレクトモデルという戦略を先鋭化させるという判断も見事。ROIという言葉は知っているものの、適切な経営データをもとにした判断という点では赤子のような私の勤めている某企業など、デルの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだと、つくづく思うのでした。

デルは起業以来、いまだかつて見たことのない高い成長率(業界成長率より高い成長率)と高利益率を確保しつづけていますが、会社としての体脂肪率は極めて低く、ポリシーもシンプルである点、企業経営者ならば見習うべき点は多いと思うのでした。

創業者自らの本なので、手前味噌もあるとは思うのですが、堀江某の本よりはよっぽどタメになるかなと・・・

2004年11月21日日曜日

ハーン/エルガー:ヴァイオリン協奏曲


エルガー:
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61
4つのピアノ小品 Op.119
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス(指揮)
ロンドン交響楽団
Deutsche Grammophon
474 5042

しばらく多忙で、音楽を聴くどころかエントリーするのも面倒な状態が続いておりましたが、アクセス解析を見ると、更新しなくても訪問してくださる方もいらっしゃるようで、恐縮でございます。

さて、遅ればせながら、ヒラリー・ハーンの新譜であるエルガーのヴァイオリン協奏曲を聴きました。最初はパッとしなかったのですが、10回くらい聴いたら良さが分かってきました。曲に最初馴染めませんでしたので、ハーンへの言及は僅かです。

エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴くのは本盤がはじめて。ヒラリー・ハーンの新譜ということで購入したのですが、一聴しただけでは長大なだけでとらえどころのない曲といった印象。

そもそもエルガーなんて「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らない、「チェロ協奏曲」なども持っているハズだが、ドンナ曲だったかはさっぱり。

そういうわけですのでライナーなどを頼りに知識を仕入れると、ヴァオイリン協奏曲は彼の最愛の友人であるAlice Stuart-Wortley(妻の名前と同じであることから、エルガーはWindflowerと名付ける)に捧げられたものなのだとか。

表向きは、名ヴァイオリニストのクライスラーに捧げられていることになっていますが、楽譜には「ここに...の魂を封じ込める」とスペイン語で書かれているのだそうです。実際1912年にAlice Stuart-WortleyにI have written out my soul in the concerto,Sym.ll& the Ode & you know it. In these three works I have shewn myselfと書き送っているそうですから。

有名な「愛の挨拶」は、二人の婚約を記念した美しい曲ですし、愛妻家で知られたエルガーですのに、Windflowerをはじめとして、彼の周りには少なからぬ女性が登場しているようです。ただ、関係は非常にプラトニックなものであったそうですが。

さて、このようなエピソードが作品解釈上有効であるのかはさておき、改めて聴いてみるならば彼の情熱と憂鬱、老年にさしかかっての回顧や悔恨などがほろ苦く聴こえてくるようですから、先入観というのは恐ろしいものです。

重苦しいオーケストレーションに対してヴァイオリンに与えられた技巧的なフレーズは、抑えがたい感情の本流にも感じられます。そこかしこに聴こえるWindflowerのテーマは、聴いていて切なくなりますね。あんた、そこまで思っていたなら・・・などと考えてしまいます。

しかし、そこは愛妻家で鳴らしたエルガーですから、立ち込める霧のようにほの暗く曖昧とした中に、ふと立ち現れる感情なのでしょうか。控えめであるだけに、美しいのですね。

解説によると、第二楽章のヴィルトオージックなヴァオイリンのフレーズが"トリスタン・コード"で導かれていると書かれています。"トリスタン"はめくるめく破滅への愛の世界ですが、確かに私は第一楽章からトリスタン的な狂おしい雰囲気を感じはしました。ただし破滅には向かいませんがね。

エルガーが人生の終わりに近づいた頃、16歳のメニューインの録音を聴きながらThis is where two soul merge and melt into one anotherと語ったそうです・・・。(ああ、死ぬ前でよかったね)

この第二楽章のヴァイオリンのフレーズなど涙が出そうになるくらいに美しいです。それを支えるバックも見事。解説では伝記作者Michael Kennedyのno matter whoese soul[the concetro]enshrines, it enshrines the soul of the violinを引用していますが、まさに其の通り。エルガーのソウルがヴァイオリンの精へと昇華しているかのよう。

それで、ヒラリーのヴァイオリンなのですが、このような音楽を表現するのに、これ以上はないのではないだろうか、というくらいに美しく、繊細で、慎重で、しかし力強い音楽を奏でてくれています。音色は心が一本通っています。表現にクセはなく、相変わらずテクニックには一分の隙もなく、硬質ながらも仄かな気品さえ漂わせながら、この長大な愛の音楽に正面から挑んでいます。

2004年11月17日水曜日

パウエルの辞任

パウエル国務長官の辞任ニュースが世界を駆け巡っています。イロイロな憶測は乱れ飛んでいますが、ブッシュ新政権がパウエルなきあとでも中道派(ハト派、穏健派ではない)勢力へと舵取りができるようになった、という見方には不安と疑問を感じます。

パウエル辞任は世界情勢を左右しますが、日本的にはアーミテージ副長官や農務長官アン・ベネマンの辞任の方が影響が大きいかもしれません。

私的には「ライスの顔も、そのうち描かなくちゃならないのか」というぐらいの影響しか当面は考えられませんが。(パウエルだって、イラク開戦の頃描いたものです。あまり書くことがないので、「埋め草」でした・・・)

2004年11月7日日曜日

映画:山猫

k-tanakaの映画的箱庭でヴィスコンティの傑作「山猫」が上映されていることを知り観てきました。イタリアの至宝、映像の世界遺産とでも言うべき作品が国を挙げての文化事業として復元され、撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノの監修で何度も改良を重ね今世紀に入ってようやく終了、「イタリア語・完全復元版」として甦った。ということだそうで、堂々3時間6分の大作として劇場に蘇ったことは、それ自体が感動的な出来事と言えましょう。

改めて観ますと、映画の重厚さ、映像の華麗さ、演技の深みなど、全てにおいて圧倒されてしまいます。映画の1/3を占める舞踏会のシーンも圧巻なのですが、シチリアの乾いた風土や、脇役たちの悲喜こもごもの表情などにも人柄がにじみ出ており、どこを取っても完璧な出来です。

配役では没落する貴族サリーナ公爵を演ずるバート・ランカスターが圧巻ですが、甥のタンクレディを演ずるアラン・ドロンの野心を帯びた若さもさすがで、彼の鋭い光があるが故にサリーナ公爵の翳が一層際立っています。タンクレディの婚約者アンジェリカを演ずるクラウディア・カルディナーレは個性の強い顔立ちで、私はあまり好みではないのですが、映画では抜群の存在感です。彼女の存在なくしてこの映画はあり得ないとも思え、好き嫌いのレベルを超えています。あの品のない笑いには、思わずこちらも失笑、いやあ素敵です。

舞踏会のシーンは、もうおなかいっぱい、ウンザリ、というくらいな映像なんですが、貴族たちというのは礼儀正しくも放蕩で、しかも体力があったのですね。ウェストを絞ったドレスを纏った淑女たちと正装や軍服姿の紳士たちが、汗だくになって夜通し踊り続けるのですから。ヴィスコンティにしてみれば、華麗な世界の再現とともに、サリーナ公爵がつぶやく「無意味な会話」というような壮大なる浪費までも表現しつくしたということでしょうか、何ともシニカルです。

「山猫」を観ていると「椿姫」を思い出しましたが、それは華やかな舞踏会のシーンだけのせいではなく、第2幕第2場「あたしたちははるばると訪れた(ジプシーの女たち)」などの旋律を、シチリアの下手な楽隊に演奏させたり、ヴィオレッタのアリアを避暑地の聖堂のオルガニスとに演奏させたりと、映画の中でさりげなくヴェルディしていたからなんですね。フランスのクルティザンの愛の音楽を聖堂にですか。これもヴィスコンティの演出でしょうか、それともヴェルディがそれほどまでにイタリアに溶け込んでいるという査証?

サリーナ公爵がカラヴァッジョかグレゴ風の絵に見入っているシーンも印象的です。自らの死を見つめながらも、それに抗うことなく実を任せる姿。サリーナ公爵の晩年の在り方は、新旧の交代という意味からマーロン・ブランド演ずるゴッド・ファーザーのラストと微妙にダブりました。

映像美ということでは、有名な舞踏会のシーンは蝋燭のシャンデリアなのに妙に明るかったり、影がシャンデリアの光源からはありえない方向からのものであったり、ヲタク的に観るとおかしい気もするのですが、キューブリックが「バリー・リンドン」で使ったようなカメラを、ビスコンティが持っていたら、どうなっていたんでしょうね。

2004年11月6日土曜日

【音盤】ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲

ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を聴いてみました。ショスタコがジャズをどうアレンジしているのか、ということに興味があり購入したのですが、あれれ、これはジャズというよりも「軽音楽」ですね。

明るく軽快な、そしてちょっとノスタルジックでダルな音楽の寄せ集めといったところ。実際にバレエ、映画、劇音楽を集めたもののようです。「ジャズ」ということを期待して聴くと、裏切られますが、軽音楽を愛したショスタコの一面を聴く意味では興味深い曲でしょうか。

ジャズ組曲 第2番は、《舞台管弦楽(Stage Orchestra)のための組曲》とあり、オーケストラに、サックスやアコーディオン、ピアノなどが加わっています。《マーチ》は、間違いなく秋晴れの晴天下での運動会オープニングに最適です。続く《リリック・ワルツ》は、フルオーケストラをバックにしたサックスのテーマがノスタルジックな気分を誘います。ダンス 第1番は後に映画音楽「馬あぶ(Gadfly)」作品97で《祭日》として知られるようになった、これまた脳天気に明るい曲。しかし「馬あぶ」という映画とは・・・!

映画音楽といえばワルツ 第2番は、スタンリー・キューブリックの遺作で、トム・クルーズ、ニコール・キッドマン主演の「Eyes Wide Shut」で使われた音楽。再びサクスフォーンの音色に導かれて曲は始まります。NAXOS解説ではsinuous saxophone melodyとあります、意味深な表現ですね。映画は観たことがないのですが、甘美にして複雑な感情を秘めた秀逸な音楽です。

ところでこのジャズ組曲 第2番ですが、2000年にピアノ譜が発見され、G.McBurneyによって2000年のプロムス・ラスト・ナイト・コンサートで3楽章形式のジャズ組曲が演奏されたとのこと。ショスタコの「ジャズ組曲」は二つあるってことなのでしょうか?

ジャズ組曲 第1番は、3曲構成の小品。先ほどのワルツ 第2番のサクスフォーンのテーマをトランペットが奏でている曲から始まります。こちらはこちらで、放浪する旅芸人がまとう哀愁のようなものを感じます。

この盤にはジャズの名曲である「二人でお茶を」の管弦楽編曲編が最後に納められていますが、なかなか洒落ています。お馴染みの名曲をショスタコが編曲しているとは、とちょっと驚きます。

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲 第1番、第2番他
指揮:ドミトリ・ヤブロンスキー ロシア国立交響楽団
NAXOS 8.555949