辺見氏の本は重い、しかしあまりにもめちゃくちゃな世の中だからこそ、氏のようなジャーナリストにして作家が居ることを、僥倖であると思わないわけにはいきません。麻原氏の死刑判決に対する一文を書いたのも、彼の本を読んでいたことと無関係ではありません。
辺見氏の本は現代の精神的なカンフル剤、あるいは踏み絵かもしれないと思うことがあります。日々の情報と生活にまみれ思考停止状態になっている中で彼の文章に接すると、紙面の奥から読むものの嘘と真実を見抜くような視線さえ感じます。
本書は「私はブッシュの敵である」と副題にあるように、911テロの後のアメリカの有様や、彼が1999年問題と指摘するように、日本の21世紀に向けての祖型がつくられた頃の日本の精神的風景を書いています。彼の前ではエセ改憲論者や俄か軍事評論家はひとたまりもなく吹き飛んでしまのではないでしょうか。彼の持つ言葉の重みの前では、自らの怠惰を恥ずるのみです。
歴史が、突如、激しい痙攣を起こした。それを前にしては、いかなる作家や哲学者の、どのような表現も、凡庸のそしりをまぬがれないほど、光景は、突出し、ねじれ、熱し、歪み、滾り、かつ黙示的でもあった。(「私はブッシュの敵である-言説の完膚なきまでの敗北について-」P.1)
彼は一貫して現代の体制に従事してしまったマスコミを批判し、言説が力を持たなくなったことを嘆いてはいますが、彼は真のジャーナリストであり作家ですから、言葉の強さ、行動を伴った言葉の力を信じています。これほど端的に911テロを言い尽くした言葉があるでしょうか。
本書の中で辺見氏は映画「コヤニスカッティ」に触れています。F・コッポラ製作、ゴッドフリー・レジオ監督、フィリップ・ダグラスの音楽による、文明の廃頽のようなものを、一切のナレーションもなく延々と映像と音楽だけで延々と2時間近く流し続けるという、驚くべき作品です。私がこの映画を映画館で観たのは高校生の終わりの頃だったでしょうか。ものすごい衝撃を受け、今でも鮮明に映像が脳裏に焼きついています。あれは一体なんだったのでしょう、おそらくは高度に肥大化した資本主義の断末魔の叫びを観せられていたのかもしれません。辺見氏の哲学の向こうには、米国帝国主義と米国性資本主義を超えた世界観が見据えている点で、同時代の発言とは一線を画しています。
辺見氏は今の時代は、明らかに間違った方向に進んでいる、特に小泉政権のもと、彼を支持する国民とそれをもてはやすマスコミたちとともに、改憲気運が高まっていることに警鐘を鳴らしています。それを「実時間における作家の時代認識について」として、野間宏氏の例を取りながら、自らを内省してみせます。私たちに今見えていないことは何なのか、今何を言うべきなのかと。
彼の本は、一言では言い表せず、彼の投げかけたテーマと罠は、ふとした局面で自らを試すリトマス試験紙あるいは踏み絵のように、また舞い戻ってくるのだと思わずにはいられません。彼の本を読んで、自らのものさしの目盛りが正しいのか、時々確認せざるを得ません。