2003年5月14日水曜日

高村薫:黄金を抱いて翔べ(文庫版)


こめかみのあたりがチリチリする。けだるく熱い空気があたりを漂う。汗とドブと血と火薬の匂いが充満して、今にも爆発寸前の男たち。

まいったなあ、高村薫の小説にはというのが本音。小説評には圧倒的な迫力と正確無比なディテルとあるけれどそんなことどうだっていい。ここに書かれているのは、男たちのがむしゃらさと、命を掛けてまで自分を追い込まないと生きていけない、ギリギリの人生だ。

端的に言ってしまえば、銀行泥棒の話しだ。ラストに向けてのプロット造りや迫真性は、かつてないほどの描写ではあるけれど、それはドラマ仕立て、書割の背景でしかないように思える。彼らが何故、銀行強盗を行おうとしたのか、銀行強盗を行った後にどんな人生を夢見ていたのか、そんなことは一切小説では言及していない。最初から「銀行強盗」それも福沢諭吉だったら、やる気はない。金塊だから、やるのさ(16頁)なのだ。最初に強盗ありきなのだ。

その強盗を何故行わなくてはならないのかは自明のことで、男たちは犯罪を犯すこと1点のために結束し、集中し、揺らぎながらも鉄のような意思のもとに決行してゆく。強盗に至る過程と主人公たちの自身と、心理の動きにこそドラマがあり、おそらく映画化したならば一番のクライマックスであろう派手な手に汗握るラストは、サッカーで言えば最期のシュートシーンでしかない。(サッカーのシュートシーンこそ重要だというならば話しは別だが)

何故に男たちは、自分を追い詰めたような人生を、必至に生きなくてはならないのだろう。何故にもっと気楽に生きないのか。そもそも彼らは何のために生きていたのか。

例えばモモ。…あんな男を殺してまで、生きる意味はないと思った。……それだけだ。(161頁)。何と冷めた自己認識であることか。そして幸田だ、生きるための仕事には、憎悪がなければならない(21頁)殺してやる……。《人間のいない土地》の次ぎに口癖だった言葉を、幸田はまた、腕の中でささやいた(154頁) 北川も、野田も、春樹も似たり寄ったりだ。自分の中で抑えきれない衝動願望を抑えている、爆発寸前のダイナマイトだ。

そんな男たちに世間並の幸福など訪れるわけはない。破滅に向ってひた走るというのとも違う、逆に破滅から逃れるために、今の自分を超えるために、爆薬庫の中に突っ込んで行く。

こういう小説は、たまらない。どことなくジョン・ウーの映画の世界を思わせる。こんな硬派な小説を書く作家が日本に居たのか。それも女性がこんな世界観を書ききるのか。ラストに少しの救いと甘さを残すところは「マークスの山」と同じだが、それがなかったら、本当に救いのない人生だものな。

2003年5月11日日曜日

安藤忠雄展 2003 再生-環境と建築

東京ステーションギャラリーで開催されている安藤忠雄展に行ってきた。安藤忠雄氏はコンクリート打放しのギリギリにまで凝縮された建築美で知られる世界的に活躍する建築家である。

私は建築設計などが専門ではないため、彼の建築について知ることは今でも少ない。しかし、それでも彼の建築の魅力は何だろうかと考えると、数年前に彼の作品巡りをしたときのことを思い出す。関西を中心に、姫路文学館や直島コンテンポラリーアートミュージアム・アネックスなどを見学しのだ。

彼の作品はそれでも少しは写真などで見知っていたものの、実際にその空間に立ったときの驚きと感動は強烈であり、今でも忘れがたいものとなっている。

ここで建築のデザイン論とか安藤建築について、拙い意見を述べる気はないのだが、そのとき確かにデザインのもつ力というものを如実に感じた。建築でデザインを云々する人の中には、自己満足に終始してしまい、説得力を持ち得ないものを主張する人もいる。そういうものは得てして、出来あがった後の評判は芳しくない。一方で、彼の建築からは、ある種の普遍的な力を感じたものだ。何故そこにそのディテールなのか感じ取ることができた。彼のデザインに打ちのめされたと言っても良い。

建築は「作品」とよく言われるが、決して棚や壁に飾るような芸術作品とは違う。それは用途をもった空間と生活や様式までも設計しているものだ。だから、現代美術におけるインスタレーション作品とも一線を画さなくてはならないのだと思う。 彼の作品が、そういう意味から使われ続ける建築足り得ているかは、彼の作品群がそれを証明しているかもしれない。

パンフレットの作品模型は2001年10月、国際コンペで参加の決定したフランスの「ピノー現代美術館」。チケットのスケッチは社会問題ともなった青山同潤会アパート建替え計画だ。直島プロジェクトにおいて、あるいは同潤会アパートにおいて、建物を地下に埋設し「見えない建築」を目指したということは、環境に配慮した建築計画だろうが、ガラスの多用や見えない建築というコンセプトは何も安藤のオリジナルではない。また、意外かもしれないが、安藤氏の作品は東京には多くない。東京が「建築無法時代」とも言われるほど空前の変貌を経験しつつあり、あまたのデザイン要素が氾濫している中にあって、安藤建築が東京にどのような楔を打ち込むのか興味がつきないところだ*1)。

なお、本展示会にはイロイロな種類の人が訪れていた。それこそ老若男女入り乱れてという感じなのだ。改めて彼の人気の広さを思い知った次第。また、本展示会の情報を私に教えてくれたEさんに感謝。

◇

  1. (追記)以下BBS書きこみより

    安藤忠雄ですが、HPに書いたものは堅苦しくて面白くないですね。

    展示会には写真やビデオのほか、ドローイングや模型も多く、 建築知識のない人にも楽しめる内容でした。

    建築家のドローイングや図面は(自分で書いているかどうかは別にして) そのまま額に入れて飾れるようなデザインのものがあるのですが、 まさに安藤のドローイングはそれで、図面的には緻密というわけでは全く ないものの、建築のイメージを伝えるという意味からは、なかなか イマジネーションに飛んだものだと感じました。

    また、彼は常にアイデアが吹き出ているようで、ホテルやらレストランの ナプキン、または飛行機の半券などにまでエスキスを描いているのには 驚かされます。 ��画家ぢゃないから、それが号いくらという値段にはなりませんがね)

    かの丹下健三が赤坂プリンスのデザインを決めたときも、どこかのホテルの ナプキンかマッチの箱に「こんな形」とかぐちゃぐちゃ描いたのがオオモト 案だと聞いたこともありますし。マッチの裏のぐちゃぐちゃを形にしてしま うところが、まあ大家たる所以ですかね。

    模型もなかなかかっこよくて、光の入り方や空間の意外性などが良く分る ものでした。特に同潤会アパート建替え計画は、表参道の並木より建物高さ を低く抑えるため地下階が深いんですよ。そのため、地下にまで自然光を入れ るため、アトリウムを囲むように店舗と住宅を配置しているのです。そういう 仕組みがやっぱり模型の方がよく分る。

    アトリウムを広くとって大階段を設置するという計画は、原広司の京都駅でも おなじみですが、それが彼のモチーフとなってフランスのピノー美術館や 同潤会アパートでも見ることができます。これは計画上の模倣というよりは ボキャブラリーと判断すべきでしょうが。

    マンハッタンのペントハウスという計画は、既存の超高層ビルの屋上と、 中間階にガラスの箱を貫通させた計画ですが、非常に斬新なアイデアで、 模型を見てうなっちゃいました。 イメージ的には最近竣工した上野のこども図書館の手法ですね。保存建築に 新たな表層や空間を加えることで、再生するというものです。まあ、これも 安藤だけのモチーフではありませんが。

    マンハッタンのグラウンドゼロプロジェクトは、建物ではなくモニュメント を設計したという点で注意を引きました。現在、あそこはWTCを上回る 超高層計画がコンペで決まりましたが、安藤のような解決策もありかなとは 思ったものです。

2003年5月10日土曜日

【風見鶏】安藤忠雄展2003 再生-環境と建築

東京ステーションギャラリーで開催されている安藤忠雄展に行ってきた。安藤忠雄氏はコンクリート打放しのギリギリにまで凝縮された建築美で知られる世界的に活躍する建築家である。

私は建築設計などが専門ではないため、彼の建築について知ることは今でも少ない。しかし、それでも彼の建築の魅力は何だろうかと考えると、数年前に彼の作品巡りをしたときのことを思い出す。関西を中心に、姫路文学館や直島コンテンポラリーアートミュージアム・アネックスなどを見学しのだ。

彼の作品はそれでも少しは写真などで見知っていたものの、実際にその空間に立ったときの驚きと感動は強烈であり、今でも忘れがたいものとなっている。
ここで建築のデザイン論とか安藤建築について、拙い意見を述べる気はないのだが、そのとき確かにデザインのもつ力というものを如実に感じた。建築でデザインを云々する人の中には、自己満足に終始してしまい、説得力を持ち得ないものを主張する人もいる。そういうものは得てして、出来あがった後の評判は芳しくない。一方で、彼の建築からは、ある種の普遍的な力を感じたものだ。何故そこにそのディテールなのか感じ取ることができた。彼のデザインに打ちのめされたと言っても良い。

建築は「作品」とよく言われるが、決して棚や壁に飾るような芸術作品とは違う。それは用途をもった空間と生活や様式までも設計しているものだ。だから、現代美術におけるインスタレーション作品とも一線を画さなくてはならないのだと思う。

彼の作品が、そういう意味から使われ続ける建築足り得ているかは、彼の作品群がそれを証明しているかもしれない。

パンフレットの作品模型は2001年10月、国際コンペで参加の決定したフランスの「ピノー現代美術館」。チケットのスケッチは社会問題ともなった青山同潤会アパート建替え計画だ。直島プロジェクトにおいて、あるいは同潤会アパートにおいて、建物を地下に埋設し「見えない建築」を目指したということは、環境に配慮した建築計画だろうが、ガラスの多用や見えない建築というコンセプトは何も安藤のオリジナルではない。また、意外かもしれないが、安藤氏の作品は東京には多くない。東京が「建築無法時代」とも言われるほど空前の変貌を経験しつつあり、あまたのデザイン要素が氾濫している中にあって、安藤建築が東京にどのような楔を打ち込むのか興味がつきないところだ。

なお、本展示会にはイロイロな種類の人が訪れていた。それこそ老若男女入り乱れてという感じなのだ。改めて彼の人気の広さを思い知った次第。また、本展示会の情報を私に教えてくれたEさんに感謝。

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��追記)以下BBS書きこみより

安藤忠雄ですが、HPに書いたものは堅苦しくて面白くないですね。

展示会には写真やビデオのほか、ドローイングや模型も多く、 建築知識のない人にも楽しめる内容でした。

建築家のドローイングや図面は(自分で書いているかどうかは別にして) そのまま額に入れて飾れるようなデザインのものがあるのですが、 まさに安藤のドローイングはそれで、図面的には緻密というわけでは全く ないものの、建築のイメージを伝えるという意味からは、なかなか イマジネーションに飛んだものだと感じました。

また、彼は常にアイデアが吹き出ているようで、ホテルやらレストランの ナプキン、または飛行機の半券などにまでエスキスを描いているのには 驚かされます。 (画家ぢゃないから、それが号いくらという値段にはなりませんがね)

かの丹下健三が赤坂プリンスのデザインを決めたときも、どこかのホテルの ナプキンかマッチの箱に「こんな形」とかぐちゃぐちゃ描いたのがオオモト 案だと聞いたこともありますし。マッチの裏のぐちゃぐちゃを形にしてしま うところが、まあ大家たる所以ですかね。

模型もなかなかかっこよくて、光の入り方や空間の意外性などが良く分る ものでした。特に同潤会アパート建替え計画は、表参道の並木より建物高さ を低く抑えるため地下階が深いんですよ。そのため、地下にまで自然光を入れ るため、アトリウムを囲むように店舗と住宅を配置しているのです。そういう 仕組みがやっぱり模型の方がよく分る。

アトリウムを広くとって大階段を設置するという計画は、原広司の京都駅でも おなじみですが、それが彼のモチーフとなってフランスのピノー美術館や 同潤会アパートでも見ることができます。これは計画上の模倣というよりは ボキャブラリーと判断すべきでしょうが。

マンハッタンのペントハウスという計画は、既存の超高層ビルの屋上と、 中間階にガラスの箱を貫通させた計画ですが、非常に斬新なアイデアで、 模型を見てうなっちゃいました。 イメージ的には最近竣工した上野のこども図書館の手法ですね。保存建築に 新たな表層や空間を加えることで、再生するというものです。まあ、これも 安藤だけのモチーフではありませんが。

マンハッタンのグラウンドゼロプロジェクトは、建物ではなくモニュメント を設計したという点で注意を引きました。現在、あそこはWTCを上回る 超高層計画がコンペで決まりましたが、安藤のような解決策もありかなとは 思ったものです。

高村薫:マークスの山(文庫本版)




文庫本帯に踊る「警察小説の金字塔」「全面改稿」「泣かされる」「合田雄一郎登場第一作」「第109回直木賞受賞作」というモノモノしいキャッチコピー。さらに書店の目立つ部分に山と積まれているので、通常ならば少しゲンナリした気分になるだけで、本書を手にとることはない。しかし山のイラストが書かれた表紙が気を引き、裏表紙の作品紹介に漠然と目を走らせ「とにかく山岳を舞台にした小説か」という一点で購入した本ではあった。

私は読書人ではないので、高村薫氏の小説は読んだことがなかった。従って彼女の書く小説がどんな作風であるのか知りもせず、そして期待もしていなかった。最初読み始めて思ったのは、「こいつは本格山岳刑事モノかと思いきや、一時流行ったサイコサスペンスものか、おいおい期待を裏切らないでくれよ」というものであった。

しかしながら、私の初期の感想は見事に覆されたのである。とにかく本格的な小説に仕上がっており、内容の面白さ、そして充実度など、どこをとっても文句の言いようがなく、これほど終わりの頁を捲るのが惜しいと思った小説は久しぶりである。

この小説は刑事 合田雄一郎登場の第一作ということだ。彼をどのように紹介しているか、「マークスの山」の中で彼二度目の登場のくだりを引用してみよう。

・・・合田雄一郎は音一つなく立ち上がった。三十三歳六ヶ月。いったん仕事に入ると、警察官職務執行法が服を着て歩いているような規律と忍耐の塊になる。長期研修で所轄署と本庁を言ったり来たりしながら捜査畑十年。捜査一課二百三十名の中でもっとも口数と雑音が少なく、もっとも硬い目線を持った日陰の石のひとつだった。(上巻135頁)

何とも劇画チックで大仰な描写だと思った。高村薫氏は1953年生まれ、いわゆる劇画世代ではないが、どこか今風のキビキビしたタッチの劇画主人公を思わせた。小説に入りこめるか否かは、細部描写の現実感と主人公への感情移入が一つの要素としてあるならば、その点においても、高村は周到なのである。最初大仰に思えたこの描写も、読み進めるうちにそれが作品のひとつの特徴となって熟成したことを考えると、彼女の計算の上での描写や作風と思えた。

合田の逡巡する姿や、他者への嫉妬や闘争本能、組織への反抗や、がむしゃらに走ることに疑問を感じつつも、(いったい何のためになのか)走らずにはいられない姿には、確かに一人の若者の姿が書かれているのだ。このように端的に書いてしまうと、「なんだ月並みな」と思えてしまうが、高村氏の描写は濃く、読むものに深く食い込む力がある。そう感じた瞬間に、読者である私は、高村氏の仕掛けた陥穽にすっぽりとはまりこみ、降りるべき駅が過ぎるのも、夜が更けるのも忘れさせるほどの時間を過ごすことになってしまったのだ。

この小説には、事件の特殊性や意外性、そして展開の面白さもさることながら、警察社会や事件を取り巻く刑事たちの人間そのものにこそ面白さがあるといえるかもしれない。刑事たちを名前ではなく、刑事仲間が呼ぶ「あだ名」で描写するやり方は、特に効果的である。主な人物を挙げれば、合田の相棒でアトピーの《お欄》こと森義孝巡査部長30歳(上137頁)、合田の同僚で風の《又三郎》の異名をもつ有沢三郎巡査部長35歳(上145頁)、柔道七段、澁澤龍彦を愛読する《雪之丞》こと広田義則巡査部長35歳、新人類扱いの《十姉妹》こと松岡譲巡査、そして東大卒のキレ者《ペコ》こと吾妻哲郎警部補36歳(以上 上147頁)などなど。

気づいてもらえたと思うが、高村氏は主人公たちを、若手からは卒業しつつあるものの、組織に組込まれてしまった40代の管理職とも違う、血気も実力も兼ね備えた30歳半ばに設定している。組織内での競争意識を剥き出しにし、事件や上層部と格闘するさまは壮絶である。

一人の女のことを頭と子宮がつながっていると切って捨てた又三郎と自分だが、そういう自分たちこそ、頭と下半身がつなっがいるのは間違いない、闘争本能丸出しの牡だった。(下211頁)

という描写に端的に表れた主人公らの素性の見事さと冷徹さ。そこには、読んだ人なら分かるが「自分を客観視する自分」の存在が認められ、それこそまさに作品に隠されたもう一つの仕掛けではないかと気づかされる。

高村薫氏が女性作家だとは本当に驚きだ。読み終わって作者について調べるまで、私は高村薫氏が女性だとは全く思っていなかったのである(それくらい文壇に無知ということです)。骨太の描写、男臭さ。女性だからこそかえってこういう描写ができるのか。そういえば真知子という女性は限りなく救いがなく哀しかったではないか。

高村氏がこの小説で直木賞を取ったのは1993年だ。今回の文庫本化に当たり全面改訂したという(彼女はよくやるらしい)。そういう彼女のブルックナー的性癖*1)が、作品への完成度へと結実しているようでさえある。いずれにしても、今回は高村氏の小説に感服、他の作品も機会があれば読んでみたいと思わせるのであった。

◇

  1. ここがクラシック音楽中心のサイトであることを忘れてはなりません(^0^)

2003年5月6日火曜日

【音盤】チェリビダッケ/ベートーベン 交響曲第5番「運命」

冒頭のテーマを聴いて、意外の念に捕われた。今まで聴いたことがない響きにだ。「ダダダ、ダーン」が何と即物的に響くことか。まるで、とって付けたようと言っては的を得ていないかもしれない。聴こえてきたのは、ベートーベンの苦悩でも運命の扉を叩く音でもなく、「ダダダ、ダーン」という音響そのものであった。テーマ続いて奏でられる裏での弦の刻み、あるいはホルンの吹奏の響きも何とあざとらしくイヤらしいことか。

許氏はこの演奏を「ちょっと信じ難い演奏」(「世界最高のクラシック」P.195)と評していた。私はこの文章に接したとき、許が何を言っているのか分からなかった。しかし、フルトヴェングラーとケーゲルの演奏を聴いた後、チェリビダッケの1楽章冒頭に続けて接したとき、この演奏の異様さがおぼろげながら分かったような気がした。

許氏は書く。「普通音楽を聴く者が求める感動だとか興奮だとか高揚というものから遠い。チェリビダッケは、人を興奮させる演説がどのように書かれているか、どのような仕組みでできているかを指摘している」(同書 P.196) 何とフルヴェングラーやケーゲルの演奏と対極にある演奏であることか。チェリはここに、剥き出しの感情を込めてはいないようだ。

ではつまらない演奏なのかといえば、決してそうではない。堂々としている、演奏されているのはベートーベンの風格そのものだ、まさに横綱相撲。たとえば第2楽章の骨格の太さと構造的な頑丈さときたらどうだ。どこに隙があろうかと言っているかのようだ。だから、ケーゲルで聴こえたような感情の振幅はない。

第四楽章も極めて遅く奏される。C.クライバーの演奏を思い出すまでもなく、滑稽なほどに遅い、止まってしまうのではないかという気にさえなる。しかし、実際は音楽は全く停滞していないのである。遅いテンポの中に音の履歴が積み厚く積み重ねられ、次第に音楽という構築物が姿を成して行く様を見せ付けられる、いや聴かされる。

苦悩から歓喜へと至る部分も極めて、音楽的に骨格が明確だ。音と音の対比がはっきりしている。リズムの効果が示される、音の積み重ねが手に取るように聴こえる。それでいて、いやそれだからか、ベートーベンを聴く分厚い満足を得ることができる。今まで聴いたどのベートーベンとも違う、そして紛れもないベートーベンがここにはある。彼の肖像を見るがごときだ。素晴らしい演奏であると感嘆止まない思いだ。

彼が音楽において調和を重視したということも分からないでもない。あそこの音が素晴らしい、ここのテンポが良いというのは瑣末的な指摘に過ぎない。絵画において、一部分のタッチが軽妙だと言っているに等しい。全ての音楽を聴き終わった後に聴衆に残される全体像、そこに時間芸術としての音楽観があったのかもしれない。だから彼は、スピードと勢いで音楽を表現するようなやり方も拒んだのかもしれない。

いや、そうなのだ。演奏にやたら感情を込めた激情型の演奏がすばらしいと、私は思いすぎているのではなかったろうか。「演奏家の個人的解釈に価値を見出す」ということに対し、チェリビダッケは否定的であったのではなかったか。

ここらへんで止めておこう、というかここまでだ。私にはまだチェリビダッケの音楽を語るほどの語彙が不足している。交響曲第4番のレビュはまた機会があれば。

【音盤】ケーゲル/ベートーベン 交響曲第5番「運命」


  1. ベートーベン 交響曲第5番 ハ短調「運命」作品67
  2.  J.S.バッハ 管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV.1068~アリア 
  • 指揮:ヘルベルト・ケーゲル 
  • 演奏:ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団 
  • 録音:1989年10月18日サントリーホール 
  • Altus ALT056(国内版) 
ケーゲルのベートーベンだ、許光俊氏が絶賛する演奏。彼は、この演奏を「フルトヴェングラー以来の、歓喜への信頼に満ちた演奏」(CD解説)と評した。そういう彼のフィルターを払いのけて演奏に接することは難しいかもしれない。しかし、予備知識はアタマに刷り込まれてしまった、果してどんな「運命」が聴こえてくるのか、期待と不安錯綜しながら聴きはじめた。
1楽章4分半当たりから感じられるただごとではない響きに、思わず襟を正した。低弦が太く嘆くようだというばかりではない、ヴァイオリンは長く厚い音を響かせ、琥珀色の音色を重ねている、美しい。しかしそればかりではなく、1楽章に込められた哀しみの表現に気づかされる。
単純な「ダダダ、ダーン」のリズムが、かくも残響を残して、絶望か苦悩の嘆きを唄うのを聴いたことはない。声をかけて慰めることさえできない姿がそこにある。7分50秒頃から、巨体が崩れるかのごとき1楽章のフィナーレの圧巻さ。
2楽章とて楽天はまだ支配していない。それは在りし日の思い出や回想に聞える部分もあるが、漂う寂寞感はぬぐえない表情だ。勝利を予感するトランペットの響きはまだ懐疑の中に沈みこむ。これがベートーベンの「運命」であるとは思えないほどに感情的で悲愴的ではないか。
3楽章がこんなにも堂々と迫ってくる、あるいは日が翳るがごとくあっという間に表情を変えてしまう演奏を私は知らない。フルトヴェングラーの1947年のベルリン復帰の演奏であっても、これほどに多感ではなかったのではと思わされる。テンポの操り方、強弱の付け方などの演奏技法によるところもあるのだろうが、演奏を聴いていて感情が両極端に振幅するのを抑えることができない。
4楽章も引き摺る様に重々しく始まる。まだ不安は拭うことができない。1分20秒くらいから始まる表現は痛々しいまでの迷いを感じる。ここから歓喜へ向うには、どのような変貌を見せるのだろうかと次ぎへの展開に期待は高まる。
テンポは揺れるが決して速くはない。着実な歩みで演奏は進む。4分、冒頭の繰り返しのところで少し面白い表現を聴かせてくれた、いったいこれはなんだろう。そう、聴きながらあれやこれやと考えさせられてしまう。おやおや弦のピチカートてこんなにも雄弁だったかしらとか。
そして、ティンパニに導かれて始まる第4楽章への移行、ああ・・・光がさしてくる。そして抜けてしまう・・・全身に浴びる溢れるばかりのまばゆい光の洪水! 鬱状態から圧倒的躁状態への遷移。おお、まるで揺れて大波に乗るよう、酔いさえ感じるような演奏ではないか。ベートーベンなのになんと筋肉質的でないことか、表現が極めて優しい。弱いというのでは決してない。包まれるがごとき喜びをの表現。
確信と祈りにもにた歓喜の希求。しかし裏に不安はないのか、本当にこんなに歓喜を信じて良いのか、という疑義。ラストを聴き終えても、楽天的な歓喜と満足感が私の心を満たしてはいない。聴こえるのは、痛々しいまでの涙を含んだ歓喜への願いだ。
それは、アンコールのJ・S・バッハのアリアを聴いたときに突然生じた。私の中での理性と感情の堰が切れてしまったのだ。「運命」の後での曲だ、通常なら違和感があるところが、あまりのハマリ方に私は呆然となってしまった。この美しさと哀しさはどうだ、最初の一音が弦の合奏が聴こえたその瞬間に、まさにこの曲が「運命」の後の必然であると思わせる説得力で語りかけけてきたのだ。
ああ・・・もう一度聴きなおす気力は起きない、というよりも、こういう演奏は何度も繰り返し聴いてはいけない。何と言う音楽だろうか、そして何と言う演奏であろうか。私は音盤を聴いて、こんなにも泣いてしまったことは、かつて一度もない。(あったかもしれないが、恥かしいから思い出したくない>いつも泣いてるぢゃないかよ>CD聴いただけで泣くなよな)
*)この感想は、CDを聴きながら同時進行で文章をしたためた。そして再度、CDを聴きなおすこともしていない。それゆえ、極めて感情的で一面的なレビュになっていることに自分でも気づいてはいるのだが、書きなおす気もしないのでご容赦願いたい。

2003年5月5日月曜日

【音盤】三つのベートーベン「運命」聴き比べ

許光俊氏の「世界最高のクラシック」を読んで、彼が最高と評する音楽のいくつかに接したいと思うようになった。そこで、とりあえずフルトヴェングラー(1947)、ケーゲル(1989)、チェリビダッケ(199)による三種類の「運命」を聴いてみることとした。どの盤もライブ録音である。フルトヴェングラーの演奏は、ベルリン復帰の歴史的名演の初日のものである。

それぞれの演奏時間は下記の通り。

フルトヴェングラーケーゲルチェリビダッケ
第一楽章7’53”8’13”7’08”
第ニ楽章10’29”12’29”11’42”
第三楽章5”40”6’01”6’17”
第四楽章7”45”9’48”10’41”
TOTAL31”47”36’31”35’48”

チェリビダッケは晩年、テンポが遅くなったことで有名だ。単に演奏時間だけを取りだして云々することには意味があるとは思えないのだが、それでも、三つの演奏を比較してみた場合、意外にもケーゲルの演奏が一番演奏時間が長いことに気づく。

それぞれの楽章の長短をケーゲルとチェリビダッケで比べてみると面白い。レビュに書いたが、ケーゲルの演奏を聴いて、この曲の2楽章の姿を改めて知る気がした。また、チェリビダッケの演奏を聴き、この交響曲が極めて構築的な音楽であることに気づいたのである。どれも必然のテンポといえるのかもしれない。

フルトヴェングラーの演奏は明らかに速い、比べて聴かなくてもその速さには気づく。でもその速さから伝わるものがあることも認めざるを得ない。

ここに示した三種類の「運命」は、ぶっ続けで聴いたのだが(フルヴェンとチェリは時間を改めて再度聴いたが)、どれも特異な演奏であり、また驚くべきほどの集中力を見せた瞠目に値する音楽となっていることを認めざるを得ない。


フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィル
1947年5月25日 ベルリン
TAHRA-FURT 1063-1066 (Made in France)
言わずと知れたフルトヴェングラーの名演である。かつて音楽雑記帳(2001年8月)において、私はベルリン復帰の3日目の演奏の感想を(そのときも同じように三種類の「運命」聴き比べで)述べた。始めて聴いた時のような震えるような感動は、今回は得ることができなかったが、凄まじい演奏であることに変わりはないようだ。

��日目のものは札幌に置いてきているので、この初日の演奏と3日目の演奏を比べることはしていないのだが、何かをはらすような叩きつけるような表現、ラストに向ってオケを追い立てるさまは、ドグマの噴出のような思いさえし、異様なまでの迫力だ。

迫力が音質のせいもあってか粗さや雑さに聴こえる部分もないわけではない。しかし、ラストに向い何かに憑かれたようにオケを引連れて突進する様は、鬼人と言えるかもしれない。

いずれにしても「超」が付くほどの因縁めいたベルリンライブ。その筋の人たちにとっては既に語り尽くされた感がある演奏だ。もはや「評することを拒絶している」演奏だと言えるかもしれない。音質は他のフルベンの録音と比べるとどうなのか、詳しいことは私には判断できないが、演奏の質を判断できるほどの録音ではある。

とにかく、まずはフルトヴェングラーを聴いてから以下の2枚を聴いたということだ。


ヘルベルト・ケーゲル指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1989年10月18日 サントリーホール(東京)
Altus ALT056(国内版)
驚いた、心底驚いた。許氏が『これは日本ライヴであり、生演奏やFM放送を聴いたひとたちの間では半ば伝説として語られていた超強力な演奏』(「世界最高のクラシック」P.204)と書くだけのことは、確かにあった。

CDの解説も許氏だ。『その頃の日本は、バブル経済によって贅沢を貪り尽くし、あらゆる楽天主義が蔓延していた時代であった。こともあろうにそんな東京のまんあかで、絶望と希望のギリギリの対決のような音楽が行われていたのだ。何と言う悲惨でグロテスクな風景だったろう。』と許氏は書いている。

1989年、東ドイツ崩壊の前後、ケーゲルは間違いなく社会主義者であったという。そして、この演奏の翌年、ケーゲルは自らの命を絶つ。許氏も言うように、こんな音楽を奏でてしまったことは、果して演奏する側にとっても聴く側にとっても幸せなことなのだろうか。

ケーゲルというとシベリウスの4番のように、ちょっとキワモノ扱いのように感じていたのだが、全く考えが改まった。レビュは別頁に記した。




セルジュ・チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1992年5月28、31日 ミュンヘン
EMI TOCE-11603
これまた、驚くべき演奏であった。フルトヴェングラー、ケーゲルト聴いてきて、このチェリビダッケの演奏を聴いたときに、その特異性が際だって浮き上がってきた。

私は恐れ多くて、チェリビダッケの音楽について語る素養は持ち合わせてはいない。とりあえずレビュを書いたが、いったいチェリビダッケの何について語ったことになろうか。

こうして、「運命」をぶっ続けで聴いて分かったことがある。これほど消費し尽くされていると思っていたこの曲に、まだまだ多くの発見や喜びを見出すことができるということだ。三種類の演奏を聴いて、なお飽きるということがない。恐るべしベートーベン、といったところだろうか。(>恐るべしクラシックヲタクと言うべきだよ、ヤレヤレ。)

蛇足になるが、これらの演奏は、許光俊氏が推薦する演奏であったわけだ。いったい評論家に指南されなければ、これらの演奏の凄さに気づかなかったのだろうか、あるいは、ケーゲルの感想でも書いたように、評論家の意見の刷り込みの呪縛から自由な状態で演奏に接しているのだろうか、そこに疑問を感じないわけではない。特にフルトヴェングラーのような音質の良くない演奏をありがたがるという態度については、やはり一般受けはしないだろうなあと思うのであった。

2003年5月4日日曜日

許光俊の「世界最高のクラシック」


許光俊氏という音楽評論家を好きか嫌いかは別として、非常に哀しい本だ。何故哀しいか。彼の悟りが哀しいのだ。

それは「あとがき」に書かれていた彼の、クラシックに対する姿勢だ。『あえて「世界最高」という言葉を冠したこの本を書こうと思った本当に大きな理由は、クラシック音楽がすでに博物館入りしたと私は認識しているからだ』(P.244)と彼は書く。自らそれを『寂しい考え』と認めてはいるのだが、許氏にしてかと思ってしまうのである。

考えてみると、許氏は過激な文章で知られてはいるが、宇野氏のような耽溺型ではなく、クラシックとある距離を保っているところがなきにしもあらずだ。許氏は彼自身言うように「音楽ならば何でも良い」というタイプではなく『「まあまあ」が我慢できず、「最高」だけを欲しがるようなわがままな人間』(P.5)なのである

彼がこのように考えるのが、クラシック音楽が過去のものであるが故に、これからいくらでも「最高」のものが手に入るような、同時代のものではないということの査証だとするならば、私の焦燥感は募る。「博物館入り」したものであっても、過去の演奏には玉石混合、膨大な録音の山が存在しており、その中から自分にとって好ましいと思える演奏に邂逅するのは至難の技でもあるわけだ。

許氏が「最高」と認める指揮者や演奏がどのようなものなのかは、おおよそ許氏の著作に通じている方なら想像がつくだろうが、この本では指揮者を5つのタイプに分類して語っているところが面白い。すなわち

「ナイーブ時代の大指揮者たち、または古典主義的幸福」
「現代にあってなお幸福な指揮者たち、または擬古典主義の平和」
「普遍化を目指した指揮者たち、または20世紀が夢見た美」
「エキゾチックな指揮者たち、またはコスモポリタンの喜び」
「懐疑に沈む指揮者たち、またはマニエリスムの廃退と人工美」

それぞれの分類に、どの指揮者が入っているのか、読む前に想像するのも楽しいものではある。さあ、許氏の文章を読んで、彼の示す「最高の演奏」に耽溺しようではないか(^^) クラシック初級者のワタシは、彼の示す盤のほとんどが未聴という、幸福な状態であったことだけは付記しておこう。

2003年5月2日金曜日

 「都市再生」を問う~建築無制限時代の到来(岩波新書)


副題が「建築無制限時代の到来」というもので、現在東京などの大都市を中心に進められている大規模再開発の実態を暴き、将来に対して警鐘を鳴らしている本だ。
たまたま東京にいるので本書で扱われているいくつかの巨大プロジェクトについても、熟知していわけではないにしても、全く知らないわけでもない。
巨大プロジェクトとは、かつてのバブルのハナシでもなければ、汐留(シオサイト)や、品川グランドコモンズでもなければ、六本木ヒルズのハナシでもない。これらは2003年問題として昨年来からTVでも話題にされていたが、この本が書いているのは、それらの後の巨大プロジェクトの話だ。
東京に居てさえ、現在進行中のプロジェクトに関する認識は低いのではないかと思う。だって、もう十分に建物は建っている。でも、まだ、なのだ。
誰もが、どこか間違っていると気づいているハズなのに何故これから更にまだ再開発なのか。それも、驚くような巨大な再開発が続けられなくてはならないのか。民間や公団が、都心部に超高層住宅を(それも分譲価格や賃貸価格が、一般サラリーマンの常識とかけ離れた値段で)、これからも造られ続けなくてはならない積極的理由は見出せない。
ディベロッパーも官庁も、そしてゼネコンも、そして金融業も生き延びるために点滴を打ち続けながら、行く先の見えない将来に向って走り続けるしかないというのは、もはや悲劇でさえない。
いやいや、悲劇なのは、一握りの政治家や企業なのではない。彼らは、時代に乗り遅れた恐竜として滅びればよいだけだ。不幸なのは、恐竜たちに蹂躙されてしまった、そこに住む者たちこそだ。いったい誰のための、街なのか、誰のための都市なのかと、本書は問う。
例えばかつての大規模再開発の代表格であった、六本木アークヒルズ、もと六本木谷町。森ビルが壮大な地上げを行った後に出来た巨大な更地は、まさにグラウンド・ゼロ(*)を彷彿とさせた。そして、六本木六丁目計画(六本木ヒルズ)しかり、そしてまた・・・・新たなグラウンド・ゼロの出現。かつて爆心地に住んでいた人たち、そこにあったものは、どこにかき消えたのか。私たちは何を得て、何を失っているのか。
五十嵐氏と小川氏は同じ岩波新書から、都市計画や公共事業のあり方に関する本を上梓してきている。都市計画に関する論調が、欧米型の計画的都市論に立脚していることに若干違和感も感ずるが、その点を差し置いても、今の日本がどこかオカシイこと、そしてこのままでは早晩、大きな破局を迎えてしまうのではないかということに関しては、私も同意する。とにかく日本の都市業計画が「ムチャクチャ」「デタラメ」「インチキ」のカタマリであることがよく分かる。
日本は、何もかも捨て去って、何を残そうとしているのだろうか。
(*)ちなみに、今話題の六本木ヒルズは開発面積7ha以上。住居地や市街地が形成されていた地区における7haという土地がどれほどのものなのか、自分の街の地図で確かめてみるとよく分かる、それはとてつもない広さなのだ。

【本棚】池谷裕二・糸井重里:「海馬」~脳は疲れない

GW中に息子が読んでいた本だ。どんな本なのかと読み始めたら面白くて一気に読んでしまった。結構売れている本らしい。

池谷祐二氏は現在三一歳、東京大学薬学部の助手で、九八年に博士号を取得した脳について研究している学者である。「海馬」とは、脳のなかで記憶を操る部位を差していて、池谷氏はまさに海馬を中心に脳細胞を研究しているとのこと。本書は、コピーライターの糸井重里氏と池谷氏の対談という形でまとめられている。

残念ながら手元に本書がない状態で感想を書いているので、あやふやな点が多いのだが、とにかく語り口が(対話形式)平易で読ませる。脳についての興味深い、すこしばかり専門的なハナシを池谷氏が語るのだが、それを糸井氏が独特のセンスで翻訳して説明してくれるのが心地よい。また副題にある「脳は疲れない」という類のちょっとした話題が、何か人に可能性と元気を与えてくれるような、そんな内容になっている。

ただし、例えば立花隆氏のサイエンスもののように、糸井氏がものすごい勉強をして対談に望み、海馬研究の先端をフカク解説するという類の本では全くない。むしろ、糸井氏と池谷氏が、お互い「海馬」というテーマを通して、お互いが刺激されながら会話をスパイラルさせているというもので、会話そのものがどこに向い、どういうテーマにつなげて行くのかという、コミュニケーションのスリリングさを味わうという種類の本になっている。そういう意味においては、糸井氏は池谷氏の絶好の「広告」をしているということになる。

糸井氏は、仕事柄、脳の働きや脳神経の働き(シナプス結合)などを、都市や共同作業におけるコラボレーションによる発展的な対話というふうに結び付けて考えるあたり、なるほどなあと思わせる。実際、数十時間に及ぶ対談は、両者にとって相当ハードでかつ刺激に満ちたものであったようだ。感性の鋭い異分野の人たちが導く対話の妙を味わうという意味において、読む側も刺激に満ちたものになっている。ただし、海馬や脳について深く知りたいという向きの方には(当然)不満は残る。

蛇足になるが、最先端の脳研究を薬学部の学者が行っているのだなあと(考えてみれば当たり前とも思うが)思ったのでありました。

2003年4月25日金曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー「くるみ割人形」(全曲)


チャイコフスキー/くるみ割り人形(全曲)
 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 録音:Festspielhaus, Baden-Baden, Germany, 8/1989
 PHILIPS 462 114-2(輸入盤)

ずいぶん以前から発売されていることは知っていたのだが、見つけられずにいたCDだった。池袋HMVに行ってみたらロープライスコーナーで販売されていたのでゲット。ゲルギエフファンならば話題のショスタコ7番を買うべきなのだろうが、タコは重い。聴くのに覚悟が必要であるので今回はパス。(そのうちこっそり聴くことにしようとは思っている・・・)

さて、このCDは『くるみ割人形』全曲(81分)がなんと1枚におさめられている。チャイコフスキーやゲルギエフファンならずとも嬉しい構成である。それにしても、どこを切っても有名で耳馴染みのある曲を通しで聴くのは、もしかしたら始めてかもしれないなあと、聴きながらにして思った。

ゲルギエフはバレエ音楽であるこの曲を、どう料理しているか。さすがにこの曲は「戦争もの」ではない。だから、彼お得意のマチョさで、ゴリゴリ押しまくっているというような演奏ではない。それでも、非常にメリハリとダイナミックさに富んだヴィヴィッドな演奏になっていると思う。

彼の音楽の場合『シェヘラザード』でも『アレクサンドル・ネフスキー』でもそうであったが、激しい部分と弦を中心とした歌の部分の表現の対比には、いつも驚かされるのだが、この演奏でもそれを存分に味わうことができる。シンバルは高らかに鳴り、ティンパニは地響きのように叩かれる、そこに天から差し込むがごときハープの音色・・・ああ、これって『くるみ割り人形』なの・・って(^^)。

この演奏から聴き取れるのは、まさに生き生きとした躍動感だ。本来バレエ音楽であるためか、体の底から沸いてくるようなリズムは、時に野蛮なまでの野生を目覚めさせるかのよう。一方で彼の音楽は官能的でもあるのだと思う。本能に近い部分に作用してしまうので、ある種の音楽ファンには「効く」のだろう。リズムのぶれも粗さも、そういう種のファンにはどうでもよくなる。このような点を、あざとらしいとして疎んじる人もいるかもしれない。

それにしてもゲルギエフの統率するキーロフの演奏ときたら。本当によく彼に反応していると思う。これを聴くと、最近発売された彼の演奏のエッセンスが全てぎっしり詰まっているように聴こえる。コントラバスのかすれるような低音の響きもそのままだ。ああ、ゲルギエフとロシアの息吹が流れ込んでくる(^^)

「Trepak」を聴くと、札幌公演のことが思い出される。本当は、クラクCDなんて聴いている場合ぢゃあないですがね。



2003年4月21日月曜日

【音盤】パユのテレマン フルート協奏曲集


Georg Philip Telemann 1681-1767

Concerto for Flute, Strings and COntinuo in G
Concerto for Flute, Violin, Cello, Strings and Continuo in A minor
Concerto for 2 Flutes, Violine, Strings and Continuo in A minor
Concerto for Flute, Oboe d'amore, Viola d'amore, Strings and Continuo in E
Concerto for Flute, Strings and Continuo in D
 Emmanuel Pahud/flute
 Berliner Barock Solisten
 EMI(輸入盤)

これはエマニュエル・パユの奏するテレマンのフルート協奏曲集。アンサンブルはベルリン・バロック・ゾリスデンだ。なんと華やかで贅沢な音楽であることか。

うまいとか、そこの解釈がどうだとか、そんなことはどうでもよい。そういうものを受けつけない貫禄さえ漂う。ふと、どうしてテレマンでいまどき現代楽器による演奏なんだ? という疑問もよぎるが、それさえ考えてはいけないのだと思いなおす。だってモダン楽器の方が、この曲のもつ浮き立つような輝かしさや軽やかさを表現できるのではないかしら、とさえ思ってしまうからだ。

もはや何をこの曲集と演奏に付け加える必要があろうか。ただ静かに聴くのみ。あなたがパユを好きで、とりあえず音楽に深刻さを求めたくないときには、お奨め。ジャック・ズーンとの二重奏も聴きどころ。

2003年4月20日日曜日

【音盤】NAXOS 日本作曲家選輯 「武満 徹」


そして、それが風であることを知った 他
  1. そして、それが風であることを知った(フルート、ヴィオラとハープのための) 
  2. 雨の樹(3人の打楽器奏者のための) 海へ(アルト・フルートとギターのための) 
  3. プライス(フルート、2台のハープ、マリンバと打楽器のための) 
  4. 巡り~イサム・ノグチの追憶に(フルート独奏のための) 
  5. ヴォイス(声)(フルート独奏のための) エア(フルート独奏のたえめの) 
  6. 雨の呪文(フルート、クラリネット、ハープ、ピアノとヴァイブラフォンのための)  
  • ニュー・ミュージック・コンサーツ・アンサンブル  
  • ロバート・エイトケン(フルート) /NAXIOS
NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹が発売された。フルーティストはロバート・エイトケン。解説によればエイトケンは武満徹を深く尊敬し、二度にわたり武満をカナダに招待しているとか。このCDに収められた曲は、彼らが武満から直接指導を受け、彼のために演奏したものとののこと。収録曲は武満のフルート作品を知るには格好の曲ばかりである。
 
武満の音楽を語ることは難しい。彼の音楽は沈黙と静寂さの中に、限りない色彩と饒舌さを秘めた音楽のように思えるからだ。一聴してモノトーンな演奏からは、煌くような多彩な色彩のハーモニーを感じる瞬間さえある。それが武満の抑制された表現に全く背反しないということ、これは表現において驚くべきことだと思うのだ。このようなモノトーンの生み出す色彩感覚故に、彼の音楽は日本的な情緒、例えば後期の狩野探幽のような雰囲気さえも漂わせる。武満の音楽から能を思わせるという解釈もあるが、哀しいかな、私は能に接したことがないので分からない(>こういうの日本人としてマズイよな(^^;;)
 
また武満は、水、空気など捉えどころのないモノを音楽のテーマとして求めたようにも思える。流れ変遷し同じ形をとることはないのだが一貫してあるもの、そういうことさえ感じさせるのが彼の音楽だ。


残念ながら私は、不勉強にして武満の音楽にそれほど親しんでいるわけではない。またエイトケン(右写真)というフルーティストやトロントで活動するパーカッション・アンサンブルのNEXUSという存在も初耳であった。武満を敬愛する演奏家たちが奏でる武満の音楽。ぐたぐた言わなくても聴くと分かる、武満の曲は美しい。しばし日常の雑事を忘れて聴き入るのも悪くない。


2003年4月17日木曜日

鈴木淳史の「クラシック批評こてんぱん」


鈴木淳史(あつふみ)は1970年生まれの「フリー・ランスの売文業」とある。クラシック関係の共著も洋泉社から出しており、いわゆる「クラシック音楽の批評」をする人らしい("らしい"と書くだけあり、私は彼を知らなかった)。

さて、この本は「クラシック音楽の批評」をいかに読むかということを述べた本で、音楽そのものについて書いているわけではない。「なんてつまらない本」と思うなかれ。普段から「クラシック音楽の批評」とか「音楽評論」というものに胡散臭さを感じている人こそ、楽しんで読めるのではないかと思う。文体も軽く読みやすい(逆に読みにくいという気もするが)。

ここで鈴木氏の視座につて述べる積もりはないが、かの小林秀雄の「様々なる意匠」の中から批評の対象が己であると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!という部分を引用し、客観が皮をかぶった主観だとしたら(その事実だけで、いかがわしいでしょ?)、主観そのもので、物事を判断したほうがいいのではないか、ということだ。(P.106) と主張するところに、彼の「批評」に対するスタンスが現れているように思える。

そもそも私は、この国においてもかの国においても「音楽評論」「音楽批評」というものが成立しているのか、ということが疑問でならない。そういう点で「評論家じゃない症候群」および多様化する批評家たち(P.144)のなかで、かつて音楽評論家と呼ばれた人たちが、自らを「評論家」とは名乗らないということをはからずも鈴木氏も指摘している。そしてなぜ彼らは、音楽評論家という名前を忌避するのだろうと問題をなげかけ、それは「音楽評論」または「音楽批評」のイカガワシサに耐えられなくなったこと。(中略)自分のやっていることが対応していないという恥じらい(中略)、自分たちの先輩格に当たる評論家(中略)は、本当に批評というものをやっているのか、という疑問があるようだ。(P.146)と指摘している。

では鈴木氏は「音楽批評」を否定しているのか、あるいは音楽評論についてどのようなスタンスをとっているのか。彼の対象と距離の取り方、そしてどことなくはぐらかすようでいて、その実裏に真実を込めた文体からそれを読み取るよりも、彼が音楽について書いたものを読むのが適切かもしれない。(だってそれを書いたら、また引用だらけになってしまうから)

え?私の書いているもの? それは単なる感想文に決まっているぢゃないですか(-_-)

2003年4月15日火曜日

櫻井よしこ「迷走日本の原点」


櫻井よしこの本(「日本の危機」 「大人たちの失敗」)を読んでいると、彼女の一貫したスタンスが見えてくる。彼女は改憲派に属しているし、いわゆる「新しい日本の歴史教科書」や靖国神社などに賛意を示している。
そのような点から彼女を「タカ派」とか「右派」とか決め付けることは問題の本質を見失うことになってしまう。彼女は朝日新聞も批判しているが産経新聞も同じように批判しているのだ。彼女にはどこかに寄りすがるというスタンスはみられない。
彼女が主張するのは、個人であれ国家であれ「自立的であれ」ということに尽きている。その点において私は彼女を信頼できるジャーナリストだと思っている。
彼女は自立した国家であるならば「軍隊」を保有しないことなどありえない、真に国益を守るための外交を展開するには、自国に誇りをもち、国際社会で対等の立場で主張するためには「力=武力」がなくてはならないとしている。
この本の目次をひろってみよう。
第1章 行革を骨抜きにする官僚たちの反撃 第2章 経済至上主義が日本を呪縛する 第3章 生き残った系列システムの毒素 第4章 憲法改正がいつも挫折する理由 第5章 税制が日本の自立を阻んでいる 第6章 平等意識が学校を崩壊させた 第7章 国籍と参政権を曖昧にするなかれ 第8章 防衛意識が育たないこれだけの理由 第9章 国益を見失って久しい外務官僚 第10章 バラマキ農政のアリ地獄 第11章 フリーター200万人の漂流
実に巧みに、官僚批判と国家意識の欠如、そして個人の自立性の欠如を繰り返しくりかえし述べている。農業がダメになったのもフリーターが増えたのも、ひとえに官僚主導の間違った保護行政からの自立心の欠如、間違った歴史認識による国家意識の欠落に起因していると説く。
間違った歴史認識とは何か。彼女はロバート・スティネットの『欺瞞の日~FDRと真珠湾の真相』(Day of Deceit)を引き合いに出している。同著は日本の真珠湾攻撃がアメリカの緻密な陰謀であったことを開示された595点の資料を引用しつつ暴いた本だ。今では真珠湾攻撃が「アメリカがあらかじめしくんだ奇襲」であることは一部では認められた事実である。
それについて京都大学の中西輝夫教授の「歴史上の本当に重要で決定的な資料というものは(中略)その出来事から少なく見てニ世代を経なければ決して世に出ることはない」という「正論」2000年10月号を引用し、"とすると、戦後五十年余、これまで日本人が信じてきた第二次世界大戦の意味と位置付けの再検討作業は、実はこれからはじまるのだ"(P.71)と主張する。
これらのスタンスには、私も賛意を覚える。彼女が国家に自立的であれと叱咤激励する様にもエールを送る(っていうか自分で何とか動けよなとも思うが)。
それでも、彼女の主張に違和感を感じるのは改憲と軍備についてだ。北朝鮮の脅威がありながら日米安保に依存する日本の姿は確かに危ういと感じさせる。日本領海に中国の調査艦や北朝鮮の工作船が進入しても何もできない日本にだらしなさも感じる。
では改憲した上で独自の軍隊を保有するののが正しい道なのだろうか。力ももたない交渉に意味がない、武力のない国際社会など書生論であるのかもしれない。しかし、では軍備の果てはどこにあるのか。
昨日のニュースで自衛隊が大量破壊兵器であるクラスター爆弾を既に保有していたことが報じられていた。軍備を増強するということは、この先迎撃ミサイルシステムを開発し、偵察衛星をいくつも打ち上げ、そして日本は核までを保有しなくてはならないということなのか。力の拡大のゴールはどこにあるのか。そこのところまでは櫻井氏は言及していない。
逆にそこが見えない以上は、軍備増強には私は懐疑的にならざるを得ない。国が国として自立しなくてはならないことは認める。自国の歴史を正しく認識し、内政干渉を受けない態度を示すことも重要だ。彼女は畢竟、日本人の「幸福論」を述べている。しかし「武力」を有することが幸福につながるのか、真の自立につながるのか、今の私には見えない。

2003年4月13日日曜日

田中宇のジャーナリズム





田中宇(さかい)と言う名前を聞いたことがあるだろうか。「田中宇の国際ニュース解説」というサイトを運営し、自らのサイトそしてメールマガジンで国際社会のニュースの裏側を解説してくれている。サイトは何を隠そう私も欠かさず読んでおり、多くのことを教えてもらっている。この本を見た家内は「TVで良く名前を見るよ」とも言っていた。かなりユーメー人のようである。 
右の書では「ネットジャーナリズムを確立した男」と紹介されている。田中氏は1961年生まれ。大学を卒業後、繊維メーカー勤務を経て共同通信社に入社。その後、マイクロソフト社に入社し日本発のコラムサイト「MSNジャーナル」を立ち上げる。1999年独立しジャーナリストとして現在の活動を続ける、という経歴だ。

彼のコラムを何気なく読むが、その分析力と情報収集力の多岐に渡る点はいつも感嘆する。インタビューによれば、彼はインターネットを駆使し毎日30ほどの記事にざっと目を通し記事を書いているという。ひとつの記事には平均30時間ほどかかるのだとか。それだもの記事がおもしろいわけだ。
右に紹介した本は、これらのネットで公開されたものの中から文庫本として編集したものだ。最新の彼の記事はネットで読めるので、わざわざこの本を買わなくてもよいかもしれない。また、この2冊を読んだからとて国際情勢の裏が急に見えてくるわけでも、事情通になれるわけでもない。
それでもひとつのきっかけにはなる。
私は国際情勢の面白さを、彼のサイトで知ったような気がする。例えば田中氏はアメリカが受けた911テロも、真珠湾同様に仕組まれたテロであるとする本も上梓している。そんなバカなと思うかもしれないが、その手の意見は欧米の新聞紙面では多く見かけるらしい。朝日新聞やNHKは間違ってもそういう報道はしないだろう。
イラク戦争の理由を考える上での、石油利権問題やネオコンの存在は、テレビ(それもサンデープロジェクトあたり)が問題にするはるか以前から彼はネットで指摘していた。彼の記事を読んでいたので「何をいまさら」と思ったものだ。
私たちが新聞やTVから受ける情報は、一面的でかつ一方的だ。その裏で何が起こっているのかは、嗅覚を働かせなくては見えてこない。
バグダット陥落時に市民がフセイン銅像を引き倒したのも、まわりで騒いでいた市民も米軍の指しがねであるとの週刊誌報道もあったりした。何が真実なのかは永久にわからない。しかし、その報道が与える効果、影響は何か、何のためにこの報道がその時期に流されるのか、そういうことを少しでも感じることは、流されずに生きて行く上で重要なことだと思う。
田中氏のジャーナリズムは、そういう表に見えないものに重要なメッセージが込められていることを気づかせてくれた点において、極めて秀逸であると思う。

2003年4月8日火曜日

【本棚】乙一:天帝妖狐


いやあ、悪いことをしてしまった。乙一氏の「夏の花火と私の死体」のレビュだ。今一つ乗りきれなかったと書いてしまったのだが、この第二作は、はっきり言って面白かったよ。通勤中の電車で読んでいて、思わず駅を乗り過ごすところだったし(本当に慌てたよ)。

よく考えれば「夏の花火と私の死体」(以下、夏花)だって、死んだ人間が淡々と語るという点において確かに斬新であったと思い返す。

今回のふたつの小説は趣も味わいも異なっているのだが、作風は乙一氏のものだ。前者はジュブナイル風サイコサスペンス(ホラー?)、後者は少し時代を遡った雰囲気を出した、手紙の形態をとった作品だ。どちらもテンポ感がよく、ぐいぐいと読ませる。まだ20歳前半であろうから、エンターテイメント作家としての筆力は十分に持っていると思う。

「夏花」で考えた"イマイチ感"がどうして今回の作品で払拭されたのか。それは、表題作の「天帝妖狐」ではなく「A MASKED BALL」の着想において感心したからだ。舞台は高校のなか、あまり人気のないトイレでタバコを吸うことを日課として主人公が、ふとしたことからトイレの落書きをみつけるところから物語は始まる。

秀逸なのはそのラクガキが、今はやりのインターネットでのBBSを模したものになっている点だ。ラクガキのスレッドが続き、たわいのない日常を記したり、あるいは胸の奥を告白したり、そしては事件の予告があったりするわけだ。

考えてみれば、この設定だってちょっと変ではある。トイレにサインペンをわざわざ持ち込み、書いては消すことを繰り返す。消したにしても、だんだんタイルが汚れてしまわないのとか、ストーリーとは全く関係ないが最後の油性マジックのくだり(文庫本110頁)なども、乙一氏独特のご都合主義(ていうかあまり細部の矛盾にはこだわらない、おおらかさ)を見る思いだ。まあそれとて、ハリウッドほどではないかもしれないが。

表題作「天帝妖狐」も意欲作だ。夜木という主人公と杏子の二人の視点を交互に入れ替えて物語を進める手法、古風な語り口、そしてテーマとラストに至るストーリー。どれもが、どこかで読んだことがありそう・・・と思わせる点はあるものの、今風のサイコホラーもどきのテイストも混ぜながら一気に読ませる。

ラストのありようなどには(最期にお涙の感動シーンをもってくるところなど)、ちょっと自分の作風と作品に酔っているようなところを感じないわけではないのだが、まあ若いのだからそれもよしとしよう。このようなところは映画やTVの影響を感じる部分だ。(具体的にといわれても困る。どこかでT2と江戸川乱歩とトマス・ハリスを思い出していた、ということでご勘弁を)

まあ、他にも指摘する気になると変なところはあるのだが、わたしは編集者や評論家ではないのでもう止める。それらを差し置いても、この小説のテンポ感と内容は悪くない。乙一氏の好きな物語背景も日本的でよろしい。ということで、今回は楽しめました。今後も乙一さん頑張ってください。(え?こんなレビュでは内容が全くわからないって? まあ、いいではないですか。)

蛇足だが、解説を書いている我孫子武丸氏、「夏花」の解説を書いた小野不由美、"ジャンプ小説大賞"の選考委員の北村薫氏、綾辻行人氏、法月綸太郎氏・・・大賞の名を含めて、はじめて聞く名前ばかりだ。彼らが乙一氏の作品をべた褒めするさまが、同人誌かごくマニアックな世界でのできごとに見えてしまうのは、気のせいなんでしょうね・・・>バキ>(ホラー小説のレビュにこんなに活字使うものではないな)>バキバキ

2003年4月5日土曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その5

楽劇「ラインの黄金」全4場


■ 第1場 (1)ラインの乙女とアルベリヒの駆け引き

続いてアルベルヒが登場するのだが彼がラインの乙女たちを見ていて心乱されたのも分からないでもないと思う。

ではアルベリヒに次ぎはご登場願おう。 水の中を自由に泳ぐ乙女たちだが性格的には性悪らしく、自分たちの美しさに言い寄ってくる男たちを水底に引きずり込んでは犠牲にしているらしいのだ。第2場でフリッカは以下のようにラインの乙女たちのことを語っている(CD1[13]のラスト)。

Von dem Wassergezucht mag ich nichts wissen: ( I wish to know nothing of that watery brood: )
schon manchen Mann --- mir zum Leid ! --- ( many a man -- to my sorrow -- )
verlocketen sie buhlend im Bad. (have they lured with their seductive sport. )
水中の一味のことなど、聞くもおぞましい
すでに少なからぬ男を --- 残念なことに ---
水中でたぶらかしたのですから

そういう性悪女でも騙されたいと思うのが醜い小人族のアルベリヒである。彼女達を(誰でもよいから)何とかモノにしたいと言い寄る場面がここだ。

こういう様子を見ていると、水商売の女性とそれに群がる男たちという図式を思い浮かべる人もいるかもしれない。実際、ラインの乙女たちをコールガールに見立てた演出もないわけではない。

(2003.4.5)

ここまでで力尽きてしまい、連載は中断してしまいました。

次に再開出来るのはいつになるやら。

2003年4月4日金曜日

【本棚】乙一:夏と花火と私の死体


何もすることがなくてかったるいとき、難しいことや面倒なこと、ストレスになることを考えたくないとき、ホラー小説でも読もうかなと言う気になる。スティーブン・キングも悪くはないのだが、疲れているときにあのくどい文体はつらい。一度その世界に入れれば一気に読めるのだが、そうなるまでのハードルが少し高い。しかも長すぎる!


ホラー小説というのは所詮あるプロットに乗せて人をいかに怖がらせ、そして面白がらせるかが勝負だ。従って「ありそうなこと」思わせる前提条件や細部が重要だと思う。その意味からは、表題の小説には今一つ乗り切れないままであったというのが正直な感想。裏表紙には「斬新な語り口でホラー界を驚愕させた」とあるが、この作品を17歳の少年が書いたとことに驚愕したのか、あるいはその内容に驚愕したのか。

どこが「乗れない」のかを書くことは内容に踏み込まざるを得ないので割愛せざるを得ないが(書いたっていいのだが)、どう考えても現実感が薄い。そもそもの事件の発端からして「どうしてそう展開するの?」と思ってしまう、例えば文庫本23頁の部分だ。「私の死体」の扱いも不自然。ホラーというより吉本のドタバタ喜劇を書きたかったのだろうか?と思ってしまう。

ケチばかりつける積もりはないのだが、別な意味においては細部は良く書けている。乙一氏は福岡出身だということらしく、夏のひとときが暑苦しさと共に伝わってくるようだ。さらに映画世代だけあってか、描写が非常に映像的だ。何かそのままB級ホラー映画の場面を見ているような気にさせられる。しかし逆にそれがうざったく感じるのも事実。

もうひとつ文庫本に収録されている「優子」にしてもそうだ。細かな描写の積み上げは上手い。読み始めれば最期まで読ませる力はある。しかし何か最初の前提そのものが不自然に感じられてしまう。それを適切に指摘することができないのだが。

例えば鈴木光司の一世を風靡した「リング」はビデオが伝染して人を殺すという、とうてい馬鹿げたプロットだ。しかしそれを「ありそうなこと」と思わせたところが凄い。プロットのおかしさを凌駕するほどの怖さを確かに小説は持っていた。瀬名秀明の「パラサイトイブ」は、最初は良かったのに最後に「ミトコンドリアかよ」となんだかパロディのようなバカばかしさがつきまとった。

ホラーは嫌いぢゃない。「うーん、こいつはコエー」と思えるようなホラーが(それも日本の作家の=日本の皮膚感覚の)読みたいなあ。

2003年4月3日木曜日

【音盤】ゲルギエフのプロコフィエフ「アレクサンドル・ネフスキー」


Scythian Suite, op.20
Alexander Nevsky, op.78

 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 PHILIPS 473 600-2(輸入盤)

ゲルギエフの待ち待った新譜だ(発売が1ヶ月ほど延期された)。収録はプロコフィエフの「スキタイ組曲」(アラーとロリー)そしてカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」だ。演奏はキーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団、アレクサンドル・ネフスキーはモスクワでのライブ録音である。

例によってゲルギエフ節全開、合唱は絶叫しているし、オケの迫力も凄い、最大限の音響で鳴らしまくろう、みたいなキャッチで売っている。特に後者はエイゼンシュタインの同名の映画音楽として作曲されたものをカンタータに作りなおしたもので、戦争をテーマとした音楽だ。

私はゲルギエフの振る音楽のレビュを書こうとすると、それが戦争をテーマとしたものでなくても、つい戦闘シーンが思い浮かんでしまうことを禁じることができないでいた。そういう点がゲルギエフのアグレッシブさを象徴していると思うのだが、今回はまさに「戦争」そのものを扱ったもので、まさにゲルギエフの真骨頂というべきだろう。

プロコフィエフの音楽ではあるが、カンタータはともすると「カルミナ・ブラーナ」のようにバーバリアンに聴こえる。話題の「The battle on the ice」のテーマが耳について離れない。

しかしながら、私はこの曲が良く分からない。音響的に凄いのは分かった。でも輸入盤で買ってしまったので、対訳を辞書片手に読まなくてはならない。

2003年4月2日水曜日

【音盤】衝撃のポリーニのベートーベン


これは2002年6月録音のもので、ピアノソナタ第22番、第23番「熱情」、第24番「テレーゼ」そして第27番が収められている。更には期間限定のボーナスCDとして、2002年6月4日にウィーンのムジークフェラインザールで行われた「熱情」と「テレーゼ」ライブ録音が付いているのが嬉しい。つまりポリーニのスタジオ録音とライブで聴き比べられるというわけだ。

一聴して聞き流しただけの印象だと、ライブとスタジオに差異がないように聴こえた。ポリーニのベートーベンは、硬質で構成的であるが故に、髪を振り乱したようなブザマさやマッシブさがないようにも聴こえた(もっともポリーニの固定概念がそう聴かせるのかとも思うが)。

しかし、良く聴いてみるとそれは全くの誤りであることに気づいた。ライブ盤ではポリーニの唸り声さえが、はっきりと収録されているではないか(スタジオ盤でもかすかに聴こえるがライブ盤ほどではない)。例えば「熱情」の第3楽章 Allegro, ma non troppo - Presto におけるこのスピード感とダイナミックさはどうだ。慄然として息を飲むとはこのことだ、そしてベートーベンはかくも哀しく美しかったのかと知り、全身で受けとめるにはあまりにも激しすぎることに気づかされた。聴き続けるには痛すぎる。おお!もうそのハンマーのような打撃はやめておくれ! 収録されている終演後の拍手を聴きハッと我に返った。私はどこにいて、一体全体なにを聴かされていたのだ。

改めてスタジオ盤の「熱情」を聴くとテンポもライブ盤より遅目でありエモーションを抑えているようだ。もっともポリーニを良く知る人は、このライブはポリーニらしさが十全に発揮されたとまでは言えない演奏らしく「ちょっと期待はずれ」であるらしい、ふーん、なるほどねえ。(こちらから)

残念ながら私にはポリーニもベートーベンも、これ以上語る言葉を持ち合わせていない。今はただこの至上の音楽に静かに耳を傾けるのみである。だからレビュは書かない、書けない、書けません。



2003年4月1日火曜日

新しい音楽雑誌の登場~クラシックジャーナル


��月から東京勤務になった。住んでいるところが池袋に近いので、さっそくメトロポリタンプラザ6階のHMVに脚を伸ばす。ここはクラシックファンにとっては天国のようなCD店である。クラシックコーナーが完全に他のジャンルとは独立した大部屋になっており、そこにきちんと整理されたCDが目もくらむばかりに収蔵されている。クラシックコーナーが独立しているということは、ジャズやらポップスのBGMを聴きながらCDを選ぶ苦痛や、何度も同じ棚の前をウロウロしていて、他の人から疎んじられるプレッシャーから開放されるということである。これを幸せと言わずになんといおう>ヲタクが入ってきたなあ・・・(^^;;;

さて、そのHMVでかねてから話題(^^;;の本をみつけた。アルファベータという会社から創刊された「クラシックジャーナル」という雑誌である。石原俊氏が主筆ということで全196頁のうち実に石原氏が150頁も書いているというおどろくべき編集方針の雑誌である。石原俊氏は1957年生まれの翻訳家かつ随筆家とある。音楽、写真、メカニズムに造詣が深く評論などを各専門誌で執筆しているとのこと。

その内容は「新譜ディスク100徹底ガイド」(これだけで101頁ある)というCD評が中心のものである。評は2002年10~12月(四半期)に発売された新譜。クラシック不況の時代といわれても四半期で発売される新譜は膨大なものになろう。それを100に限定しているのだから石原氏の主観が色濃い雑誌ということが前提になっている。マニアによる雑誌版のクラシックレビューサイトといった趣。それ以外の内容は右の表紙のとおり。木之下晃氏のアーカイブスは32頁にもわたり、これだけでも保存もの。

年4回の発行を目指しているらしい。くしくも「クラシックプレス」が創刊後12号で休刊、また以前は「グラモフォンジャパン」がこれまた創刊後12号でゲネラルパウゼをむかえた。クラシック受難の時代にあって、このようなマニアックな雑誌が果して受け入れられるのか、値段も1200円と高いのか安いのか分からない設定であるが期待したい。(ちなみに「クラシックプレス」も「グラモフォンジャパン」も定期購読は全くしておりませんでした・・・あ、「レコード芸術」も・・・です)

2003年3月28日金曜日

【風見鶏】イラク攻撃報道を見ていて

まあつまりはそういうことだ。アメリカとイギリスは手を取り合って戦争を始めた。世界世論は割れたまま、オレは戦争の真実を知ることはできないでいる。戦争で死んでゆくのはイラクの兵士ばかりではない。イラクの(おそらくは金持ちは安全な場所に逃げてしまっているので、あまり裕福とは言えない)一般市民であり、戦争の目的を遂には信じることが出来ないまま戦場に赴いてしまった(こちらも推測だが、おそらくは裕福層とは言えないだろう)前線のアメリカ人やイギリス人兵士達だ。(米国捕虜兵の顔を思い出すがいい)
マイケル・ムーアはアカデミー賞授賞式で「ブッシュよ恥を知れ!」と叫び、失笑とブーイングと退場の拍手と音楽に追い立てられた。政府高官や大企業の子息が、イラクの砂嵐にまみれ、将校に追い立てられて銃を取っているということは、あと24時間でこの戦争が終結することがあったとしても、ありえないことだ。 

まあつまりはそういうことだ。武力ってのは破壊的で暴力的だが、見入っちまうんだ。ナイフや銃やミリタリー関係の雑誌が、ヲタク的な弱々しい男性に支持されている現実を思い出すまでもなく、つまるところ人を殺したいとはマッタク思っていない人が兵器や武器に魅入られるのは、一面でそれらが強さの象徴だったりするからだ。 

まあつまりはそういうことだ。ラムズフェルドは戦争が始まる前から笑っているように見える。中道派のパウエル(改心したのかさえ分からない)は、このごろ国内世論まとめに尽力しているようだが、彼は最初から最後まで笑ってはいないように見える。さて最後に笑うのは誰なんだろう。
笑っていると言えばだ、しかし何だって全てのTV局は金太郎のように同じ番組を作りつづけるのだろう・・・。この隙に、戦争のドサクサに紛れてよからぬことを企んでほくそえんでいる輩は居ないだろうね。 

まあつまりはそういうことだ。映像やメディアの進歩は戦場の生中継というものを実現しちまった。アナウンサーやレポーターが「これは映画やゲームではありません。本当の戦場なのです。リアルタイムに人が死ぬのです」と報じるが、そう言い放った瞬間に失われる現実感ってのは何なんだ。そこに彼ら放送メディアの戦場ビジネス感覚が透けて見えてしまうからかなのか。戦場のリポーターは命がけだろうが、ブッシュやラムズフェルド同様、CNNのトップはリポーターの命より視聴率を気にしては居ないだろうか。
一方オレたち(失礼"オレは"だ)生の戦場を知らないから爆弾が投下される様を、リビングでポテトチップを食いながら正視できる。脳死状態のオレは垂れ流される映像をカンゼンに受容しちまっている。新聞やTVで「今日の戦況」をチェックするのが「日常」になっちまった。自分の肉親や友人が戦場に居ないいから心安らかにハイテク戦車が砲撃する様に内心喝采を挙げられるのか。マッタクCNNをハイエナだと責めることなどできやしない。 

まあつまりはそういうことだ。日本のメディアは刺激的過ぎるからという理由で死体映像ははっきり写さないだろうということ。
「人が死ぬ」ことを報じたいのなら、バンバン朝飯や夕飯の時間に惨たらしい死体映像を流しまくって、吐き気を催させればいい。もっとも死体映像を流すことがマスコミの使命だとは思わないが、大本営発表的になることに大手メディアは荷担してはいないか。 

まあつまりはそういうことだ。CNNをハイエナと呼びそうになっちまったが、彼らが使命感に燃えて戦場に残ったが故に、これほどまでに戦争が注視されているという現実もあるわけだ。映像技術は進化した。そして、戦争反対のムーブメントもかつてないほどの広がりだ。つまりは一面マスコミの勝利ということでもあるのかもしれない。進歩していないのはそれを受け入れる"オレ"サイドにある。 

BBCの人気キャスターは、米国政府の米国兵士捕虜映像放映規制について批判していた。戦時下においても色々な意見が聞こえてこなければ更なる脳死状態に陥ってしまう。


2003年3月25日火曜日

日本の立場=小泉首相の米国の軍事行使の支持表明

小泉首相が米国のイラクへの軍事攻撃を支持すると明言した。政府関係者もそこまで「踏み込んだ」発言に及ぶとは考えていなかったとTVニュースは報じていた。

そうは言っても、小泉首相の結論は日本の保守派の考え方を代弁しているのだろう。「北朝鮮の脅威がある以上、日米同盟に頼るしか日本に選択の余地はない、従って米国を支持するしか方法がない」と言ったものだ。

これを逆手に取って「だから日本は日米同盟を見直し、積極的に自国防衛ができるようにすべきだ」と論ずる改憲論者(にわかを含め)の声が(与野党を問わず)聞こえてこないでもない。どちらにも明るいパラダイムは感じられない。

日米安保は昔からあった。自民党保守派にしてみたら「今更何を言っているのか、米国を支持しないなどということがあろうか」と息を巻く。一方で保守派の中でも比較的穏健な方々からは「日米同盟というのは本来、対等な立場であるべきだ。日本も基地を提供している。対等な立場で日本の意見を言うべきだ(戦争を止めることなど)」と、なんだか大甘な発言を耳にする。

「日本とアメリカが対等」などという幻想的外交センスを抱いている政府関係者がいることには耳を疑うのだが、やはり私はここにきて、戦後のアメリカを含めた外交の歪みが一気に吹き出てきたように思えてならない。つまりは自国の安全保障や他国間との外交戦略というものが実は戦後50年間皆無であったということが自明になってしまったわけだ。

北朝鮮の脅威は事実だろう。しかし日米同盟において米国が日本を守ってくれるという保障が本当にあるのだろうか。日本をそれほど重要な同盟国とアメリカは位置付けているのだろうか。

冷戦時代は日本は共産圏防御のための重要な拠点だった。沖縄基地も台湾防御のための重要な任務を負っていた。冷戦終結後、日本の拠点としての重要性は変質してはいないだろうか。アメリカはソ連なき後、一時期、中国を仮想敵国と定めた時期もあったという。しかし、その政策も微妙に変化している。日本の役割はどうなっているだろう。

北朝鮮の脅威から日本を守らなければ同盟違反だと言うかもしれない。北朝鮮有事の際は日本は何を負担し犠牲を払わなくてはならないのだろう。私にはここのところも全く思い描けない。

金正日は地下室でCNNにかじりつきという報道を週刊誌が報じていた。でも、本当にイラクの次は北朝鮮なのだろうか。北朝鮮がイラク以上にはるかに危険な国であることは認めよう。しかし、アメリカが直ぐに北朝鮮に迫るとは、私には思えない。北朝鮮を攻撃してアメリカにどういうメリットがあるのかを考えた場合、むしろ北朝鮮の緊張を利用して、韓国、日本、中国を牽制していた方がアメリカには好都合だという考えの方が妥当のように思える。アメリカは北朝鮮問題に関して、日本や韓国にかなりの自助努力を求めてくるように思える。

いずれにせよ、今回の米国支持は今の政権与党にとってこれを是として進めてゆく以上、非常に重い十字架をしょってしまったのではなかろうかと思わざるを得ない。そのときになって慌てないように、今から考えておかねばならないと思うのだが・・・

2003年3月20日木曜日

イラク空爆始まる

米英軍によるバグダット空爆が予想よりも速く始まった。今回の攻撃は巡航ミサイルと地中浸透爆弾(バンカーバスター)によるもので、あからさまにフセインを抹殺するために実施されたものだという。

私はこの報に接したとき、胃がせりあがり吐き気を伴うような不快感に襲われた。確かに米英はフセインに対し「亡命か大量破壊兵器全廃への全面的協力か」という最後通告を投げかけてはいた。しかしそれは、圧倒的に優位に立つ武力を見せつた一方的な脅しであり、相手に有無を言わせず逃げ場を断っておいてから攻撃をしかけた。私には公然と行われた公開処刑としか思えない。

このような暴力=国家殺人が、空想や予想や理論上だけのものではなく実際に行使されたと言うことに深い絶望の念を感じる。

私はフセインを是としているわけでも、彼を赦してやりたいというのでもない。英国ブレア首相がいくら「イラクの脅威」を熱弁したとしても、私はそれを実感をもって理解することができないでいる。それゆえにあまりにも不透明な武力行使は支持できない。一方で米英の国連決議なしの武力行使を批判することは簡単である。しかし、それにも全面的に乗ることができないでいる。武力行使に反対した先が見えないからだ。今回の問題に対して新しい世界観を思い描くことができない。

命の重要さは戦争反対派が唱える通りである。しかし時には命を賭けても守らなくてはならないものがあることも事実だろう。いま私たちが本当に守らなくてはならないものは何なのだろうか。

米英の圧倒的な武力をTVを通して目にし、またしても遂に一線を越えてしまったことを知るのみである。

2003年3月11日火曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その4

■ 第1場 ラインの乙女たち

ラインの三人の乙女とは、ヴォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデである。彼女たちはラインの河底に沈む黄金を守る役割を負っている。三人の中でフロースヒルデだけがメゾ・ソプラノである。ヴォークリンデとヴェルグンデが戯れるさまを嗜めたりしていることから、彼女が一番年配格なのだろう。

ワーグナーの天地創造とも言える前奏曲に引き続き、ヴォークリンデの「Weia ! Waga ! Woge, du Welle ! Walle sur Wiege ! Sagalaweia ! Wallala weiala weia !」という歌声が波の動機にのって歌われる。愛らしい歌声が印象的で、音楽は混沌の中から生ある存在を表現しているようだ。この部分は非常に浮き立つような音楽になっている。特に上下するアルペジオによる波の動機と上昇音形が絡み合った音楽的な華やかさと高揚感は見事だと思う。

ラインの乙女たちは視覚的にもキャラクター的にも魅力に満ちていなくてはならない。ラインの乙女たちがアルベリヒをからかい、彼にひどい仕打ちをすることでアルベリヒは復讐をこめてラインの黄金を盗むことになる。ここから全ての物語が始まるという意味において、非常に重要な場面であるからだ。それゆえに後にも紹介するが、ラインの乙女たちは画家や演出家によって様々にイメージされているようだ(中には娼婦に見立てた演出まであると聞く)。右はエミール・デプラーによるスケッチだが、この絵では愛らしいというより少し逞しいと見えなくもない。

この後にアルベルヒが登場するのだが、彼がラインの乙女たちを見ていて心乱されたのも分からないでもないと思う。ではアルベリヒに次ぎはご登場願おう。

(2003.3.11)

2003年3月10日月曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その3

 

楽劇「ラインの黄金」全4場


■ 前奏曲を聴く

「ニーベルングの指環」4部作の冒頭を飾る前奏曲である。この前奏曲は低音で始まる「自然の動機」とバイオリンで奏でられるアルペジオが優雅な「波の動機」が絡み合った、非常にゆったりとした美しい音楽だ。この前奏曲を聴くと「これから指環を聴き始める」という感慨を体の底から感じることができる。壮大なる楽劇を始めるのに適切な音楽になっていると思う。ワーグナーはこの音楽を「世界の揺り籠の歌」と呼んだらしい。混沌の中から光が現れ世界が次第に形作られる様を彷彿とさせる原始的にして厳かなイメージに満ちた曲だと思う。136小節しかないこの曲の見事さは言葉にできないほどだ。

ワーグナーの音楽において示導動機(ライトモチーフ)が作品解釈において鍵となるが、冒頭にホルンにより奏される「自然の動機」は、《指環》全体を貫く主題の意味においても重要である。ワーグナー解説書によれば、この変ホ長調の和音からなる上昇音形は「元素的なもの、事物の根源の音楽による比喩」であるとのこと。「自然の動機」の上昇音形は、今後もさまざまな形で姿を変え出現することになるという。例えば第4場に登場する「エルダの動機」は自然の動機を短調に変形したものであるらしい。

《トリスタンとイゾルデ》の項でも書いた(かも知れないが)ワーグナーにおいて、上昇音形と下降音形が意味するものは明白である。上昇が憧れや発展を意味し、下降が落胆や崩壊を意味するというわけである。そういう点から、《ラインの黄金》の冒頭の壮大なる上昇音形の繰り返しは、私たちを劇の最初において、人間世界から神々の世界へと上昇することをいざなってくれるかのようである。通低して流れる低減の響きは悠久の時をしても変わらぬラインの流れさえ思い起こさせてくれる。

たかだが4分程度の前奏曲であるものの、非常に聴きごたえのある音楽になっている。

ショルティは前奏曲の冒頭を極ゆっくりと、そして低弦の響きは重々しくざらついたほどに低く始めている。そこから聴こえてくるホルンの自然の動機が対位法的に絡み合い、さらにゆったりと「波の動機」が登場するところなども、実に夢見るごとき音楽に仕上げてくれている。次第にオーケストレーションが重なってきてヴォークリンデの歌声が始まる辺りには、すっかりワーグナーの世界に浸ってしまっている自分を感じる。

抜粋版のバレンボイム&バイロイト祝祭管弦楽団の演奏と聴き比べてみた。冒頭の弦は厳かに奏されるものの、重さという点ではショルティ版は凄い迫力になっている。波の動機のあたりになるとバレンボイムは実に丁寧に音楽をまとめているが、その後の音づくりが少々グラマラスで豊穣すぎるきらいがある。ここは自然の元祖的な要素をあらわした部分であれば、盛り上がりの中にも純粋さと削ぎ落とされた音響表現が欲しい(ような気が今はする)。そういう意味からはショルティ版の厳格さが好ましいと(今は)思える。もっともたった4分間だけの比較に意味があるとは全く思えないので、つづいてラインの乙女達と不幸なるアルべリヒの駆け引きを聴くこととしよう。

(2003.3.10)

2003年3月9日日曜日

楽劇「ラインの黄金」全4場 その2

楽劇「ラインの黄金」全4場


《ラインの黄金》概要

■ 《ラインの黄金》の背景となる世界

《ラインの黄金》は《指環》四部作のうちの最初を飾るもので「序夜」という位置付けがなされている。《指環》がジークフリートの死から構想され、ジークフリートの成長、ジークフリートの誕生にいたる物語、そして《指環》全体を支配するテーマとしてのラインの黄金というように発想されていることは 以前触れた 。楽劇最初の《ラインの黄金》に登場するのは神話上の神々たち、ニーベルハイム(死の国)に住む小人たちそして巨人族であったりする。ここでの神々というのも「 指環を概観する 」で書いたように、決してキリスト教的倫理観に基づいた神々ではない。権力と富とを求める人間的な神であり、一方で自然界を支配する原始的な神々である。

例えばヴォータンは主神であるとされ、ドンナ-は雷神、ローゲは火の神である。ヴァルハラ城の建設の対価として提供されそうになったフライァは美や青春(若さ)を司る神であり、ヴォータンを諭し、《ラインの黄金》以降でヴォータンと結ばれてしまったエルダは智の神だ。

ここで、ラインの乙女(水の精)たちをあわせて考えると、水、火、土、大気など元素的な要素が色濃く支配する神話的世界であることが分かる。英語のWednesday、Friday、Thursdayはそれぞれヴォータン、フリッカ(ヴォータンの妻)、ドンナ-を語源としているらしい。《ラインの黄金》には人間は一人も登場しない(小人や巨人が人間だというのなら当たらないが)。支配しているのは自然界の象徴としての、それでも人間以上に人間くさい神々なのである。

■ 指環に込められたテーマ

《ラインの黄金》は4場で構成されており演奏時間も2時間半程度と《指環》四部作の中では一番短い。それでもここには、今後の《指環》を聴いてゆく上で重要なテーマや音楽的な動機が散りばめられている。

ストーリーは単純に書くと、「ラインの水底に沈む黄金を、愛を断念したアルベリヒが盗み指環に替える。指環は富と権力を我が物にできる力を持つとされる。その指環をヴォータンが奪い取るものの、アルベリヒは指環に呪いをかけてしまう。ラインの黄金の最後は指環をヴァルハラ城建設の代償として城を建設した巨人達に与え神々は城に住まう」ということになる。

右の絵はTheodor Birisになる《ラインの黄金》を表したものだ。一番上にラインの乙女達(左上)と黄金を盗み取るアルベリヒ(右上)が、中央にフィライアをさらってゆく巨人兄弟(中左)とそれを止めることができない神々(中左の女性はフリッカか)、遠くの山の上には完成したヴァルハラ城が見える。下には地底世界の小人族たちとそこに下っていったヴォータンとローゲ(下左)が書かれている。

さてストーリーを書いてはみたものの、このままではこの楽劇で何を表そうとしているのか全く分からないので少し補足しておこう。最も重要なのは指環に込められた意味であろうか。指環は富と権力を得るための象徴的なものとして登場するが、これを得るためには「愛を断念する」ということが不可欠とされている。

「富と権力を得るために(男女の)愛を断念する」というテーマは強烈だ。ワーグナーの人生観において両者は両立しえないと考えたと言うことなのであろうか。裏を返すと富と権力を投げ打っても愛の方が重要であるという主張でもあるのかもしれない。それほどまでにワーグナーにとって愛は重要なテーマであったということなのかもしれない。

ここでの愛とは肉親や兄弟愛なども含んでいると考えてもよいが、狭義にはやはり性愛を含めた男女間の愛だと思われる。ここにおいてワーグナーにとっては肉親愛は男女間の愛に容易に変遷してしまうように書かれていことは驚くべき点だ。彼の倫理観を問うよりも彼の個人的な生い立ちによるのだろうか、詳しいことはまだ調べていないので分からない。ただ、ワーグナーが9人兄弟の末子で、両親ともワーグナーが年少の時に(特に母ガイヤーはワーグナーが8歳のときに)亡くなっている点は記憶しておいてよいのかもしれない。いずれにしても、権力と愛への希求と選択ということが劇の登場人物に架せられた課題であることを《ラインの黄金》は冒頭から示している。

ここでワーグナーの女性像や愛の形というものを考えた場合、彼の描く愛はもっぱら男性側の理想としての女性の愛という印象を受けないでもない。男性から女性へのオファーは少なく、もっぱら女性の愛情を一身に男性が受ける、どんなに男性が身勝手でも女性の愛情で救われるというように感じられてしまう。このような点はワーグナーの他の楽劇でも同様で、それ故にワーグナーの書く男性像が、私にはどこか子供じみた印象を受けてしまう。《指環》を仔細に聴いてゆけば、このような感想を変えることができるだろうか。

《ラインの黄金》における主神ヴォータンは性格的には男性的なものの象徴のように思われるが、彼は一方で権力欲が強くそして女癖が悪いキャラクターとして描かれている。妻のフリッカがヴァルハラ城を巨人族に建設させたのも、居心地の良い家を作りヴォータンを家に留めておきたいがため、というから泣かせるではないか。

こうして考えると指環四部作とて難解近づきがたい作品では全くないことに気付く。ワーグナーの楽劇や他の多くのオペラ作品と同じように「男女間の愛」を(ひとつの)テーマとしていることに変わりはないようだ。(ワーグナーはジークフリートを軸に《指環》を構築したということになっているが、この点は後にゆっくり聴いてゆきたい)

では前置きはこのくらいにしておいて《ラインの黄金》を聴いてゆくことにしよう。

(2003.3.9)

2003年3月6日木曜日

スヴェトラーノフ指揮 レスピーギ / ローマ三部作


この盤はHMVのサイトでも紹介されていた、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団の1980年ライブステレオ録音である。スヴェトラーノフといえば、いわゆる金管バリバリの爆演系の指揮者というイメージがある。ホールを大音量でかき鳴らすその演奏に虜になった人は多い。

で、この演奏だが、たしかに《アッピア街道の松》も凄まじいのだが、《ローマの祭》もすっごい音響で野蛮なまでの響きを聴かせてくれている。HMVの「お客様レビュ」も「凄い」というコトバ以外見当たらない。そんなに脳死状態になって良いのかと不安の念にも駆られるのだが、実は私も あいた口がふさがらない 状態に陥ってしまった(^^;;

先に紹介した「エフゲニー・スヴェトラーノフのページ」の はやしひろしさん のレビュでは "「世紀の珍盤」!!"という評価が与えられている(^^;;; 有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

録音はARTリマスターということであるが、音質はザラザラとしていてそれほど良くはない。それでもスヴェトラーノフの迫力は存分に味わうことができると思う。

2003年3月5日水曜日

楽劇「ラインの黄金」全4幕 その1

楽劇「ラインの黄金」全4幕


■ ショルティ/ウィーンフィル

サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
ウィーンフィルハーモニー

1958年9~10日

Wotan:George London
Frika:Kirsten Flagstad
Freia:Claire Watson
Loge:Set Svanholm
Froh:Waldemar Kmentt
Donner:Eberhard Wachter
Mime:Paul Kuen
Erda:Jean Madeira
Alberich:Gustav Neidlinger
Fasolt:Walter Kreppel
Fafnaer:Kurt Bohme
Woglinde:Oda Balsborg
Welllgunde:Hetty Plumacher
Flosshilde:Ira Malaniuk

■ バレンボイム/バイロイト(抜粋版)

指揮:ダニエル・バレンボイム
バイロイト祝祭歌劇場管弦楽団

1991年6&7月 バイロイト祝祭劇場(デジタル・ライブ録音)

Wotan:Jhon Tomlinson
Donner:Bodo Brinkmann
Froh:Kurt Schreibmayer
Loge:Graham Clark
Frika:Linda Finnie
Freia:Eva Johansson
Erda:Birgitta Svenden
Alberich:Gunter Von Kannen
Mime:Helmut Pampuch
Fasolt:Matthias Holle
Fafner:Philip Kang
Woglinde:Hilde Leidland
Wellgunde:Annette Kuttenbaum
Plosshilde:Jane Turner


2003年3月3日月曜日

【本棚】マイケル・ムーア:アホで マヌケなアメリカ白人

マイケル・ムーアとは社会派のドキュメンタリー映画監督件、ジャーナリストとしてアメリカでは有名な人だ。最近では「ボウリング・フォー・コロンバイン」という映画が日本でも公開された。これはカンヌ映画祭で55周年記念特別賞を受賞した作品だ。マイク片手にアポなしで突撃インタビューをするというスタイルは彼の定番であるらしい。



知ったかぶりして書いているが、そういうことはつい最近知った。残念ながら彼の映画は観ていない。


だから、この本の表紙と、くだけた文体に騙されてはいけない(原書はこちら)。内容は非常に真面目で刺激に満ちている。「簡単に言えば、あなた(ブッシュ「大統領」)はアル中で、泥棒で、おそらくは重犯罪人で、とトガメなしの脱走兵で、泣き言野郎です」という調子(訳)の現アメリカ「大統領」ジョージ・W・ブッシュ批判は留まるところを知らない。大統領にカッコ付なのは今でも選挙に勝ったのはゴアだとムーアは思っているからだ。


いやいやそればかりではない、ブッシュの側近達の紹介やブッシュ「大統領」が就任依頼実施した政策の数々、前大統領クリントンが成し遂げた政策の数々が羅列されているが、もしそれが本当だと言うのならアメリカも救い様のない国であるということが(今更ながらに)分かって、ゲンナリしてしまうのだ。


読んでない方で注意してもらいたいのは、この本は「アメリカは世界の保安官たりたがる」「どこの国でも自国と同じような環境を作ってしまう」「いつも自分が正しいと思っている」というような、アメリカ人観を書いた本ではないということだ。ひとえにアメリカの好きな作者ムーアが、アメリカに幸せに住むためにはどうしたらいいのか、というテーマに真剣に向き合った本だ。


アメリカの現政権共和党も、共和党と政策の違いを全く示せなかった「脳死寸前民主党」も、彼らはアメリカ中での10%の富裕層が利益になるような政策を、世界中からの反対があろうと進めていることを糾弾しているのだ。「アホでマヌケなアメリカ白人(Stupid White Men)」とはアメリカ白人全体のことではなく(ましてや白人以外のアメリカ人のことでもなく)まさに彼らのことを指している。


「満ちたり者に禍ひをもたらす祈り」は痛烈だし、本の最後に書かれた「人生の目的は、ただ漫然と生きてゆくことだけだなんて言うな。「ただ生きているだけ」というのは、臆病者の生き様だ。あなたには、市民として生きる権利がある。悪いのはあのバカでマヌケな白人どもだけだ。俺たちは、奴らに対して圧倒的に数多くいる。その力を使うんだ。あなたには、より良く生きる権利があるんだから。」という主張は強い。それほどにアメリカは貧困者やマイノリティーに対する差別や迫害が(全くないようなフリをしながら)根強いということを思い知らされる。


この本を読むと、アメリカより日本の方がよっぽどマシなのではなかろうかという気になる。私たちはイチローやマツイの行くアメリカしか知らない。マイクロソフトとハリウッドとMTVの世界しか知らない。日本では少なくも民主党代表に投票できなくなるように、ある日突然に選挙権が剥奪されることも今のところはないのだから・・・

2003年3月2日日曜日

【風見鶏】「アメリカがイラクを攻撃する本当の理由」 ~②キリスト教原理主義者の政治力~

サンデープロジェクト
2003.3.2 Sun

田原総一郎のサンデープロジェクトで、ブッシュ政権がイラク攻撃を実行しようとする背景の一つとしてキリスト教原理主義者の存在があると紹介していた。

キリスト教原理主義とは聖書を文字通りに厳格に解釈した考えをもった勢力であり、思想はかなり保守的にして過激である。勢力は主にアメリカ中西部、南部にあるらしく原理主義者は3千万人とも言われているらしい。キリスト教原理主義と共和党は密接に結びついており、大統領選挙においては彼らの票が大きく当落を左右すると言うわけだ。信者のほとんどが白人であることから「白人主義」とも言われているらしい。中絶の反対、同性愛の反対、銃規制への反対・・・あれ、なんだか思い出さないか?

そう最近読んだ「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著)のことだ。あの本には「キリスト教原理主義」のことは言及されていなかった。しかしブッシュがキリスト教原理主義者への褒美として司法長官に任命した(とサンデープロジェクトは説明する)ジョン・アシュクロフトの解説を同書から引用してみよう。

「強姦や近親相姦の場合を含め、あらゆる中絶に反対」
「同性愛者に対する職業差別からの保護にも反対」
「死刑囚の上訴を制限することに賛成(それによって7件の死刑を執行させた)」
「極めて過酷な麻薬取締法の支持者」
「全米ライフル協会の味方」
  ~以上 P.48

私は「アホで~」を読んでも、どうして為政者が上のようなことを反対するのか全く理解できなかった。中絶反対はピルなどの医薬品業界からの圧力かなどと要らぬことまで考えてしまった。しかし、これらがキリスト教原理主義者=白人主義者の糸引きであるとするならば、理屈抜きで理解できてしまう。

彼らキリスト教原理主義者の最終的な目標が「中東での最終戦争→キリスト千年王国の復活」というのだから恐れ入るばかりだ・・・

HIYORIみどり 「またしても余りにも無知だったわ~」
KAZAみどり 「余り日本では報道されていないものね」

【本棚】櫻井よしこ:大人たちの失敗~この国はどこへ行くのだろう?


櫻井よしこの文庫本新刊である。以前感想を書いた「日本の危機」と彼女の論調は同じであるが、あの本ほどは怒っていない。静かに語りかける口調ではあるが、そこには彼女のゆるぎない主張を読み取ることができる。

彼女は例えば憲法問題に関して言えば改憲派に属している。「軍隊のない国家など存在しません。防衛庁を防衛省に格上げし、自衛隊を軍隊として認めるのが自然」「"憲法違反"の自衛隊を、憲法を改正してきちんと合憲の存在として認めたい」(P.140)と主張する。

こういう意見を呼んで「タカ派だ、保守派だ」と決め付けることは余りにも幼稚すぎる。彼女の思想をして「どちらかというと産経より」という事にもどれほどの意味があろうか。彼女も言うように我々日本人は長い間、こと防衛と憲法問題に関しては詭弁とごまかしを重ね、さらには憲法問題に関してはアレルギーを覚えるような風潮を醸成してしまったのだと思う。真面目で大人な防衛議論が今までなされてこなかったのだとは私も思う。従って彼女の意見を読み、それが私の感覚と若干のズレがあったとしても、彼女の意見によって問題意識が喚起される。決して「何を言っているのだ、ハナシにならない」と撥ね付けることはできない。

教育問題についての視点も相変わらず厳しい。最近の子供や学生の教育やしつけの問題を憂いている。「お金や物は、人間の心を豊にしてくれる手段であるのに、いつの間にか、それ自体が目的になっていた」「十台の子どもたちの問題は実はその親の世代の問題でもあり(中略)つまり問題の解決には三世代、百年かかってしまう」(P.21)と書いている。お金やモノ以外に幸せの基準を求めると言うことは、今まで三世代かかって築いた価値観を転換するということだ。しかしと私も思う。これをしなければダメなのだと、根本的には何も変わらないのだと。「日本人には経済をもう一度隆盛にするのは何のためなのか、という問題意識が、言い換えるならば単なる経済現象を越えた大目的がないために、頑張ることができないでいる」(P.25)という主張はまさに私の考えにごく近いものである。

彼女は心底このままでは日本がダメになると主張する。しかし嘆くだけではなく、しっかりしろと励ましてくれる。「日本は自身を失う必要はないと思います」「私たちが心をしっかりさせることです。日本と言う国と社会を、歴史、文化などを含めてよく学んでゆくということです。その中から、未来に挑戦してゆく自信を救いあげていくことが前提条件です」(P.206)という主張は、学生ばかりではなく社会に出て日々の仕事や家事に謀殺されている私たちにこそ向けられる言葉かもしれない。

彼女のマスコミに対する批判も厳しい。「取材での経験を通じで、日本の大新聞がいろいろな面で偏りがあるという思いを深くしている](P.193)と書き「幅広くはなりますが、その分深く突っ込むことができにくくなる」(P.194)日本のマスコミを海外の言葉を借りて「ワン・インチ・でプス」の報道(P.194)と評する。それでも彼女は(当然ながら)「新聞は読むべき」(P.200)と主張する。我々は一面的な情報からでもその裏を読む知力が求められているのだ。

この本を読むと社会で中堅として働く人よりは、むしろこれからの社会を担う学生へと向けられたメッセージというものを痛切に感じる。これからを変えてゆくのは年寄りではなく、確かに若者達であるはずなのだ。

今の日本は一見幸福そうに見えても、実は非常に非人間的で住み辛い世の中だと思う。それを気づかせないように、あるいは気付かないフリをしながら過ごしているとしか思えないことさえある。1億人皆が中流で平等だったなんて単なる幻想でかなくなった。格差や歪みはあちこちで噴出している。しかも、誰もが何か間違っていると思っているのに改善できない、この行き所のない閉塞感をどうしたら打破できるというのか。私たち日本人も、どこに向かうべきなのか、肝心の大人たちが自信を喪失し羅針盤を持たずに大海をさ迷っているような雰囲気さえある。

私はもはや学生のように純粋でも若くもない。しかし彼女の本でカツを入れてもらうと、少なからず力が沸いてくる、知力が必要だと、そして勇気ある行動が必要だと思えてくる。