2004年2月5日木曜日

【本棚】森永卓郎:年収300万円時代を生き抜く経済学


先のようなことを考えていたのは、森永さんの本を読んでいたからです。

森永さんの経済に関する考え方についての論評はできませんが、内容は示唆に富むものでした。相容れないところもなくはありませんが。

テレビ朝日のニュース・ステーションに出演されている森永さんの本です。最近この人の書いたものを良く目にします。特に経済系の週間・月間誌、30代ビジネスマン向けの雑誌をぱらぱらと捲れば、人の良さそうな彼の写真をすぐ探すことができます。だから本の題名が良くないですね。「あちこちで結構稼いでいるくせに、人には年収300万円で生き抜けとご教授を垂れるのか」と、やっかみにも似た反発を覚えるものです。

そうは言っても、何を言っているのか、とりあえず読んでみました。

景気回復と不良債権処理の考え方は、竹中金融相や木村剛氏の考えとは真っ向から対立しているようです。森永氏は不良債権をなくしてもデフレからは脱却できず景気も回復しない、むしろマネタリー・ベースを増やして流通現金量を増やし、更に土地担保主義の金融システムを復活させよと主張しています。一方の木村氏は「悪臭の源は不良債権である」(日本資本主義の哲学:木村剛)と言い切っているのですからね。

デフレ処理と不良債権処理に関するテクニカルな問題については、私はその是非を判断する知識を持ち合わせていません。興味のある方は両者の著書を読み比べて判断されると良いかもしれません。

私が面白かったのは、「日本に新たな階級社会が作られる」(2章)、「1%の金持ちが牛耳る社会」(3章)などの部分で、全てではないにしてもかなり説得されてしまいます。薄々私が感じていることと似ているからです。森永氏は最初控えめながら、こう書きます。

不良債権処理を進めても、マネーは増えず、景気も回復しない。[...] (政府は)何ひとつ良いことが起こらない金融再生プログラムをなぜ強行しようとするのか。一つの可能性は、小泉内閣のブレーンたちが、とてつもなく頭が悪いということだ。[...] (そんなことはありえないので)むしろ、小泉内閣の正体が「金持ちをますます金持ちにする」ことになるのだとしたら、この金融再生プログラムは実によくできている (P.49)

これを実現させる手順は以下のようだと書いています。

  1. ITバブルを引き起こして「頭金」を作る。
  2. 金融引き締めによるデフレを仕掛けて、資産価格を急落させ、不動産を借金で購入した企業を追い込む。
  3. 不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める。
  4. デフレを終わらせて、買い占めた不動産価格でキャピタルゲインを得る。
  5. 一度たたき落とした旧来肩の企業や一般市民が、這い上がってこないように弱肉教職社会へ転換する。

今、東京で起きている現象に妙にラップする部分を感じてしまうのは私だけでしょうか(まさに日々そういう事象を仕事でも目にしていますから)。現象は②~③に達しています。

しかしここからが良く分からないのです。森永氏の言う「勝ち組」とは具体的にどこに居る人たちのことなのでしょう。私の業界(完全な「負け組」ですから)では、全く実感を伴いません。

また彼の論では、家族もかえりみず寝る暇も惜しんで働き1億円の年収を得る一部のサラリーマンと、「負け組」の年収300万円のサラリーマン、更にそこにさえ達さない三つの層に分かれると書いています。これは少し私の感覚と異なります。年収1億円のサラリーマンも、年収300万円のサラリーマンも、同じように死ぬほど働いているのが現実のような気がします。(死ぬほど働く期間は異なるでしょうが)。

真に恩恵をこうむるのは、どこに居るのか分からない、死ぬほど働くことを一生しないですむ「資産家」「投資家」のような気がします(それこそ、そんな人たちはどこに居るのだと思いますが)。また、森永氏が主張するように300万円でよしとして、ガリガリ働くことを放棄して優雅に過ごせるような人など、それこそ僅少であるように思うのです。

日本において価値観の転換が必要ということは、おそらく言われなくても皆が気づき始めています。でも理不尽に思うことは、世界でもトップクラスの平均年収を誇り、物質的にも衣糧・教育環境とも豊かな日本国民が、なぜにこんなに「幸福感」を実感できないでいるのでしょう。それは労働時間や高い地価だけのせいでしょうか。

彼の主張は私に色々なことを考えさせてくれました。それはまたおいおい書いていきましょう。

夢のような生活:成功報酬

平成16年の日本における「夢のような生活」とはどのようなものでしょう。サラリーマンの場合、早く成果主義を導入してもらって若いうちは死ぬほど働き、同僚はもちろん上司も蹴落とし、スーパー・サラリーマン(そんな言葉あるのか?)にいち早くなり、

40代までに一般のサラリーマンがもらう生涯年収くらいの金額を稼ぎ出し、更に運用可能な資産も保有し、どんなレストランやブティックに入っても、値段を気にせずに注文することができて、豊かな不動産(当然ローンではない)と物資に恵まれ、時間も気にせず気のあった仲間たちと生活を送るのが「夢のような生活」でしょうかね。


50代前半にして会社の役員となって部下や関連会社を奴隷のように使って会社業績を上げることがそうなのでしょうか。あるいは若くして引退して海外に移住して趣味の世界やゴルフ三昧をすることが、それに当たるのでしょうか。


なんだか違いますよね。だとすると「夢のような生活」という設計図を、以下に書いて、さらには次世代に伝えることができるのでしょう。自分中心の小さな「オレ様の世界」にまとってしまうことを、どうして否定できましょうか。

スレイブ:奴隷


中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授が、青色発光ダイオードを発明した報酬として、日亜化学から当時報奨金として2万円からもらえなかったということを、海外の研究者に話したところ「スレイブ」の呼ばれたということが頭にひっかかっています。


世のサラリーマンの大半は(個人の能力の差はさておき)サービス残業を前提にして勤務していますし、大手・零細企業を問わず、忙しい部署の社員は帰宅時間が24時を回ることも、それほど珍しいことではないと思います。


それでも報酬は残業時間とは一切関係なく一律で支給されていますから、頑張る社員(能力がないだけかも知れませんが、誰も客観的な評価ができません)もそうでない社員も給与格差はほとんどないというのが現状でしょう。


「会社や組織は一割の社員が支えているのだ」という意識だけが(本当に意識だけですが)彼や彼女らに小さな誇りと自負とモチベーションを与えているのかもしれません。仕事の大義とか意義という点になると、サラリーマンは自分の意志とは反する業務も行わなくてはなりませんから、言い方によっては「企業の奴隷」とも称されても否定できない状況なのでしょうね。


そういう今の「会社中心主義」「会社での実績に自己実現を重ねる」という生き方に夢も希望も感じないという若者が増えても、不思議なことではないとは思います。


では、そういう現実を打破するために「出来る社員」に高給を払う「成果主義」を導入するという事に対しても、総論賛成各論反対という意見が大半でしょうか。自分が組織の中で「勝ち組」になる確証はありませんし、そもそもJOB DESCRIPTIONや数値化された目標と達成度の評価というような客観的評価基準やそれに代わる尺度が無い以上、人の業績を図ることができないわけです。

2004年2月4日水曜日

【音盤】カルロス・クライバー/ベートーベン交響曲第6番「田園」

  • カルロス・クライバー(指)バイエルン国立歌劇場管弦楽団
  • 独ORFEO C 600 031B
  • 1983年11月7日

昨年話題となったカルロス・クライバーの「田園」を聴きました。

ネットでの感想を読む限り、賛否両論でしたが、演奏、録音回数ともに少ないC・クライバーですから期待が過剰になっていたふうにも伺えます。私にとっては、これはこれでとても素晴らしい「田園」となりました。

ベートーベンの交響曲では4番、5番、7番などがいずれも名演の誉れ高いのですが、クライバーは生涯の中で「田園」を振ったのは、ここに納められている1983年11月7日の演奏が唯一なのです。クライバー・ファンならずとも注目をしてしまいます。

そもそも「田園」という曲は、ベートーベンの交響曲の中でも損な役回りをしているように思えます。中学の音楽の時間に名曲鑑賞という名の下で聴かされたであろう「名曲」なのですが、ベートーベンの他の曲のように、「よし、今日はひとつ天気も好いし公園に行く変わりに《田園》でも聴くか」とは絶対にならないのです。天気が良かったら家で音楽など聴くなよという突っ込みはおいておくにしても、「田園」をこの前いつ聴いたかというと思い出すのが難しいほどです。

私にとってはそんな曲なのですが、クライバーの演奏を聴いてみて、果たして「田園」という曲を見直す思いでした。牧歌的なイメージとは裏腹に、他の曲と同様のベートーベン的苦悩と歓喜の交替を聴くことができます。かと言って力瘤を溜めまくったベートーベンでは全くなく、クライバーの4番や7番と同様に、疾走するかのようなスピード感、第4楽章に見られるような畳掛けるような激しさ(本当に凄まじいの一語に尽きます)、そして圧倒的な平穏が訪れる第5楽章など、起伏の激しく切れの良い音楽を聴くことができます。

「田園」の定盤は知りませんが、今回この盤を聴くに当たって、東京に持ってきていたフルトヴェングラーとベルリン・フィルによる1947年5月25日のライブと比べてみました。比べることが間違っていると思えるほどに、フルトヴェングラーの演奏は立派であり感動的です。テンポもしっかりしていて重厚で激しいベートーベンを聴かせてくれます。

さて再度クライバーの演奏に立ち戻ってみると、やはりそのテンポの速さは圧倒的です、異常とも言えるかもしれません。83年当時は誰も振らなかったであろう程の速さ(あるいはベートーベンが楽譜で意図した速さ?)で駆け抜けます。きっとアファナシエフならば「君の演奏は速すぎる」とまたしても言うでしょう。それでもそこから立ち上ってくる音楽は、紛れもなくベートーベンの音楽以外の何ものでもなく、音質の多少の悪さなどを差し引いても、真に感動的な音楽に仕上がっていると私には思えます。

演奏の後には3分50秒もの拍手が録音されています。演奏終了後、すぐには拍手が起こらず、数秒遅れてまばらな拍手が、そして割れるような熱狂的な拍手へと変わっていきます。CD解説はLillian Kleiber、解説を引用して私の感想を終えることいたしましょう。

applause was slow in comming;[...]. A few concertgoers began hesitantly to applaud,but the rest of the audience continued to sit there as though under a spell,Only when Carlos Kleiber brought the orechestra to their feet a few moments later did jubilant applause break loose.
拍手を聞くだけで鳥肌が立つ思いです。ただ、ネットで読む限りでは賛否のうち否に傾いているように思えました。

2004年2月2日月曜日

【本棚】三島由紀夫:仮面の告白


読む本がなくなると、本屋に行って無駄な時間を費やしてくだらない本を買うくらいなら、昔読んだ本でも読もうという気になるものです。それで、今回は何の脈絡もありませんが、三島の代表作のひとつ「仮面の告白」を読んでみました。この作品が書かれたのは昭和24年(1949年)ですが、作品価値は全く色あせていないことに改めて驚かされます。

三島由紀夫の文壇デビュー作である「仮面の告白」を改めて読んでみたが、小説の内容と語り口の瑞々しさは今もって新鮮で驚くばかりだ。この小説を始めて読んだのは高校生くらいの頃であったろうか。三島といえばナルシシズムの極地の人であり、耽美的であり、背徳的であり、そして男色家であるという印象が強く、また「仮面の告白」は三島の半自伝的な小説であろうという面にばかり感心が向いていたように思う。しかしながら、実のところこの小説はそのようなことは余り重要ではないのだと思い至った。

読み進めるうちに、これは告白という自叙伝風の小説でありながら、その実、極めて精巧かつ作為的に作られた小説であることに気づいてしまう。主人公に「男色」というアブノーマルな性格を付与することで、自己認識や自己嫌悪を行う一人の個人の内面を、えぐいほど痛烈に描き出している。更には主人公の嫌になるほど理性的な自己分析の過程をさえ読むことになる。

彼が「仮面」と称したのは、男色であることを隠し一般の男性のように振舞ったことを指すのではなく、逆に男色を前面に出すことで、更にもう一度自分の真意を隠蔽したところにこそ仮面性が潜んでいるように思える。

どういうことかというと、主人公が強烈なる(肉体的にも精神的にも)コンプレクスとの裏腹に強烈なる自意識を持っているが故に、その自意識を隠蔽しなくてはならないからである。強烈なる自意識は決して敗北してはいけないのである。彼は確かに男性として不能であると認識し、苦い挫折感を味わいはするが、しかしながら自己愛と彼自身の男色傾向にすがることができるため徹底的な敗北はしないのだ。

主人公は誰よりも「日常生活」を怖れていたくせに、実は彼の深い内実はもしかすると「日常生活」を送ることを願っていたのかもしれない。それをかなえることができないと把握している主人公は、自分を幾重にも裏切ることで敗北を塗布しているかのような印象を受ける。彼が「初恋」とした近江への傾慕も、自分が男色家であるが故に女性を愛せないと結論付けた園子への愛情もしかりである。彼が戦争によって自分の意志とは無関係に死ぬことを漫然と望んでいたのも、人生への決定的な決着を自分では付けたくはなかったからであろうか。

そういう意味においては、確かに究極の自我であり究極のナルシシズムであり、さらに高度なる告白ということになるのであろうか。誠に世の三島論など読んだこともない私には、勝手な解釈であるが、どのようにも読める点、やはりタダモノではない小説である。

2004年2月1日日曜日

中村教授の200億円判決

中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の職務発明をめぐる訴訟で東京地裁は、中村氏がかつて勤務していた日亜化学工業に200億円の支払いを命じました(1月30日)。大手新聞各社の社説は、賛否に分かれていたようでした。

私個人としては200億円という法外な金額にまず度肝を抜かれましたし、払う方の企業も大変だなあとは思いましたが、かといってこの訴訟が報酬額のみが先行した行き過ぎの判決であったという印象も受けないのです。

世の中、拝金主義がまかり通ることや、お金さえあれば幸せという風潮には反発は覚えますが、それでもお金が解決することは多々ありますし、お金はないよりはあったほうがよいに決まっています。
で、何を思ったのかというと、日本の子供たちがドリーム(あえて夢とは書きませんが)を描くための将来の職業を考えた場合、野球選手をはじめとする一部のスポーツ選手か、あるいは芸能界というだけでは何だかさびしいと思うのですよね。研究者が自分の頭脳で対価を貰うということに、将来的なドリームを乗せる余地があるのならば、この判決には色々な意味があると思うのです。
サラリーマンは今までは大差ない給料を皆貰っていたから「サラリーマン」と卑下されていたのですが、こういう訴訟が最近の流行の「勝ち組」と「負け組」に更に分化されてゆくための助走でないとも言い切れないという気もいたしますが。
��00億円という額は「法外」というよりも、一体そんなに貰ってどうするんだろう、という気がしましたが、あれほど頭の良い学者さんですから、再び研究に投資するのでしょうね。それこそ夢を追い続けるという意志がかなえられるというところなのでしょうか。

2004年1月29日木曜日

産経新聞の今週の主張より

いつも読んでいるわけではないのですが、産経新聞Web版の「今週の正論」は、靖国問題などに関する他国の態度は内政干渉であるという態度を一環として取り続けている東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏でした。繰り返しますがいつも読んでいるわけではありませんので、氏がどの程度の頻度で「正論」を書いているのは私は知りません。

さて果たして読んでみますと、古色蒼然とした文体も相変わらずで、首相の靖国参拝について「大いに結構」とし、氏の持論を展開しています。

日本人の死者の霊に対する感情のあり方にせよ、靖国神社に於ける英霊合祀(ごうし)の経緯にせよ、民族に固有の宗教感情や祭祀(さいし)の伝統に関はる一切に関して、相手の理解を求めるといつた空(むな)しい宥和(ゆうわ)的努力を潔く放棄すべきである。(中略) 何よりも有効なのは、相手が抗議に疲れて黙りこんでしまふ迄、総理大臣が頻々と靖国神社に参拝を重ねることである。

とし、もし公約通りに8月15日に靖国参拝を首相が実現できた暁には、

独立主権国家としての日本国の面目を国際社会に恢復(かいふく)し得た名宰相としての名を歴史に刻むことができよう。

と述べ、次のように締めくくっています。

本年は日本が世界史の流れの大転換の原動力となつた日露戦争開戦百周年の記念年である。昭和二十七年の平和条約発効から数へても五十二年の歳月を経た。毅然(きぜん)たる内政干渉排除の決意を以て祖国再建の年としたいものである。

成る程、今年は日露戦争開戦百周年でしたか。靖国問題については昨年の1月にも「ゆきひろの意見箱」で書いていました。更にその前には、靖国神社の遊就館の完成を祝う同じく小堀桂一郎氏の「今週の主張」を紹介しました。あれからずいぶんの月日が経ちましたが、私の中での歴史観などは一向にあやふやなままで、今回の小堀氏の主張を読んでもはなはだ納得生きがたいものを感じます。小堀氏の主張の中には、靖国神社は日本古来からの守護神信仰にもとづくものであり、日本古来の文化、習俗に対して政治的な干渉を受ける筋合いはないというものです。1月26日のClalaブログで小沢さんが答えていた施設とは全く異なる概念なのですね。もう接点さえ見出せない気分です。

2004年1月28日水曜日

古賀議員の学歴詐称について

昨年11月の衆院選福岡2区で自民党の山崎拓前副総裁らを破って初当選した民主党の古賀潤一郎議員(45)の学歴詐称事件が話題ですね。
 
本日の全国紙の社説(朝日、産経、毎日)ともそろって議員の資質そのものを批判しています。福田官房長官も「何なんですかねぇ。過失なんですか。それともウソをついたんですか。『ウソは泥棒の始まり』と言いますからね」などと相変わらずとぼけたことを言っています。
 
さて、私も古賀議員は議員を辞職すべきだと考える一人です。選挙によって選ばれた議員であるという責任ですよね。 結局学歴社会を否定するような風潮がありながらも、学歴なしには生きてゆけないことを自ら示してしまったこと、また誤魔化しをしても、謝れば責任を取ったことになること。志が多少高ければ、多少の不正は目をつぶっても良いと考える倫理観。加藤紘一の「みそぎ行脚」を思い出しますが、そんなものが許されるのでしょうかね。 

大人がこれですから、子供がおかしくなっても当然ですね。最近の「借金は踏み倒すが勝ち」とか「開き直ってごまかす」というのも、どこかの大企業や、どこかの国の首相の態度に顕著ですからね。 子供の最近の意識の変化を「栄養が足りない」と主張する一派もいますが、彼らこそムカシ栄養が足りなかったのではないでしょうか・・・

【音盤】ヴェルディ:歌劇「アイーダ」

ジェイムズ・レヴァイン(指)メトロポリタン歌劇場po.

こちらのDVDは指揮がジェイムズ・レヴァイン、演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。録画も1989年10月のメトロポリタン歌劇場でのライヴ映像です。エジプトの騎兵隊長を務めるラダメス役にはプラシド・ドミンゴが起用されています。

あまりにも有名なこの歌劇ですが、映像を伴って鑑賞したのは初めてです。

先の「リゴレット」がロケを行った映画仕立てであったのに対し、こちらは舞台映像ですが、メトロポリタンの舞台の豪華さと華やかさは、もはや言葉を失うほどです。オペラが高価なのも頷けるというものです。舞台セットの神殿は何でできているのでしょう、ここまでするか、という驚きもないでもありませんが。何しろ凱旋シーンでは本物の馬にひかれてラダメスは登場しますし、第4幕の神殿の前では篝火が炊かれます。日本の舞台なら消防法でNGでしょうね。

ドミンゴの歌うラダメスはまったくもって素晴らしく、アイーダ役のアプリーレ・ミッロの歌声も惚れ惚れします。悪役ということになっているアイーダの恋敵アムネリスを演ずるドローラ・ツァーイックは、いかにも憎まれ役的な好演で惚れ惚れします。あまりの演技にアイーダよりもアムネリスの方に感情移入してしまいます。

「アイーダ」といえば第2幕の凱旋更新のシーンが有名ですが、確かにあの場面は壮麗で「絵になる」とは思いますが、劇としては第3幕移行がやはり面白いですね。ラダメス、アイーダ、アムネリスの感情の振幅が深い味わいを出しています。

あまりの音楽と映像の素晴らしさに、私は観ながら何度も涙してしまいましたよ。

More...(いつか書きます)

2004年1月27日火曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「リゴレット」


  • リッカルド・シャイー(指)ウィーンpo.

ヴェルディの代表的なオペラ「リゴレット」のDVDですが、指揮はリッカルド・シャイー、演奏はウィーン・フィル。好色なマントヴァ公爵にはパヴァロッティ、ジルダにはグルベローバ、リゴレットにはヴィクセル、演出はジャン=ピエール・ポネルと名前を聞いただけで涎が出てきそうです。さらにこのDVDが特徴的なのは、映像が劇場の生録画ではなく舞台をマントヴァに現存するパラッツォ・ドゥカーレなどを用いた映画仕立てとなっていることです。

劇が始まった当初から、数々の名曲のオンパレードで圧倒されてしまいます。まるでオペラのオムニバス版を聴いているような錯覚さえ覚えます。

またセットの豪華さにも目を見張るばかりです。爛熟した貴族社会の饗宴シーンは、私のような善良な小市民には少し過剰であり、若干の嫌悪を覚えなかったわけでもありません。しかし、何度も見るうちに耐性が出来てくるものです。

すると、もうヴェルディの芸術世界にどっぷりとはまってしまい、頭の中はパバロッティの歌うカンツォーネが高らかに鳴り響いてしまいまうのです。もう完全に突き抜けた歌声は快感の粋に達してしまいます。

それにしても「どの女も私にとっては同じ」(第1幕第1場)とは…、モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」もそうですが、この時代には、女心に対する根深い不信感があるのでしょうかね。

More...(そのうち書きます)

2004年1月26日月曜日

昨日のサンデープロジェクトに小沢さんが出ていましたね

あまり真面目に見ていませんがでしたが、以下のような発言が耳に止まりました。

小泉首相は正月の靖国神社参拝を「初詣」と称した。一国の首相が靖国参拝するということは政治的決断を伴うもので、それを「初詣」と称するとはデタラメもいいところだ。マスコミも誰も騒がないのはオカシイ。

全くもって同感です。こんな首相を支持している日本は脳死状態ですな。田原氏に小沢さんは靖国に参るのかと問わましたが、明治の官軍以外でも等しく戦死した日本人を祭るような施設になるならば、参拝すると答えていました。

でも、そういう施設はやはり戦没者慰霊碑ですよね。神社という概念が私には馴染めません。

パウエルさん、認めたのですね


パウエルが "open question"としながらも、大量破破壊兵器がなかったかも知れないと認める発言をしていますね。


ちょっとしばらく時事から遠ざかっていましたが、新鮮な驚きです。どうやって落とし前をつけるのでしょう。


Secretary of State Colin Powell said on Saturday it was an "open question" whether stocks of weapons of mass destruction would be found in Iraq and conceded it was possible Saddam Hussein had none.(REUTERS)


朝日新聞の本日の社説にも本件について言及されていますね。


米英首脳がなぜ誤った情報や分析に踊らされたのか。湾岸戦争以来の宿願であるフセイン政権の打倒が先にありきで、WMD問題はそのための方便だったのではないか。米英両政府は真相を調べあげ、包み隠さず国際社会に説明する責任がある。(朝日新聞)


と書いていますが、そんなこと最初から分っていたことですよね。でどういうストーリが展開するのですか。日本の立場(どこまでも対米追従ですが)は、どう動くのでしょうか。


こんなバカなことがあっても、政権は転覆しないのですね。

【音盤】テレマン:パリ四重奏曲集

以前紹介したテレマンの「6つの四重奏曲(クァドリ)」に続く四重奏曲です。こちらも「クァドリ」にも増して素晴らしい音楽に仕上がっています。

金曜日に所沢で有田氏の演奏会が催されたのですが、一度彼の演奏を生で聴いてみたいものだとつくづく思わせる演奏です。


有田正広:テレマン/パリ四重奏曲
  1. 四重奏曲 第1番 ニ長調 TWV43:D3
  2. 四重奏曲 第2番 イ短調 TWV43:a2
  3. 四重奏曲 第3番 ト長調 TWV43:G4
  4. 四重奏曲 第4番 ロ短調 TWV43:h2
  5. 四重奏曲 第5番 イ長調 TWV43:A3
  6. 四重奏曲 第6番 ホ短調 TWV43:e4
  • 有田正弘(フラウト・トラヴェルソ) 
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン) 
  • 上村かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 
  • クリストフ・ルセ(チェンバロ)
以前紹介したテレマンの「6つの四重奏曲(クァドリ)」に続く四重奏曲です。1730年にハンブルク出版された「クァドリ」がパリでも注目を集め、テレマンをパリへ招聘しました。その時に作曲されたのが、ここに納められた六つの四重奏曲です。テレマンを招聘したのは当時の名手であるプルートのプラヴェ氏(彼自身のフルート曲も有名)、ヴァイオリンのギニョン氏、ガンバのフォルクレ氏、そしてチェロのエドワール氏などです。

「クァドリ」でもそうでしたが、この曲集は明らかにプロの演奏者のための音楽になっています。当時は、アマチュア演奏家のためにも曲集は作曲されており、例えばテレマンの「忠実な羊飼い」などが、フルート吹きには有名でしょうか。

CD解説によれば「おそらくテレマンが書いた最もフランス的な作品」とあります。しかも"プロ仕様"の曲だけあって、きわめて音楽的かつ躍動的で華やかな色彩にあふれた音楽に仕上がっているように思えます。

この演奏においても有田氏のフルートトラヴェルソの音色は際立っているのですが、先の「クァドリ」と比べてピッチが高い(a'=415)せいでしょうか、音色の粒立ちや切れが一層鮮やかです。私はこのCDの第1番ニ長調の冒頭をはじめて聴いたときに、その音色の素晴らしさに思わず声を上げてしまいました。テレマンのパリに対する思いの表れとも受け取れます。今も昔もパリはまさに「華の巴里」であったということなのでしょうか。ヴァイオリンの寺神戸氏についてまったく触れておりませんが、私は寺神戸氏として意識して音楽を聴いたことがないので、感想らしものをまだ書くことができません。

「クァドリ」も確かに素晴らしい演奏なのですが、こちらと比べてしまうと、どうしてもくすんだ色彩に感じられてしまいます。それが曲の完成度によるものなのか、あるいは演奏や楽器によるものなのかは私の拙い知識では分かりません。しかし、私はこの2枚組みのCDを飽くことなく何度も聴いてしまっています。

ちなみにこのCDは文化庁芸術作品賞という有難い章を受賞しているそうです。

2004年1月24日土曜日

映画:ラスト・サムライ

渡辺謙が主役のトム・クルーズを食ったとか、「日本人でよかった」と涙ながらに映画館を後にする若者の姿が宣伝で流れ話題となった「ラスト・サムライ」を観ました。

私は「ミッション・インポシブル」のようなトム・クルーズの「オレ様映画」というのが実は大好きです。出来過ぎの設定や、見栄を切るかのごときポーズも観ていてカッコいいなあとワクワクしてしまいます。

今回の映画も内容云々よりも、トム・クルーズがサムライに扮したくて作ったような映画であろうと観る前から思っていたのですが、その通りの映画でしたので、勿論大いに楽しむことができました。

「武士道」とか「サムライの精神」については、どうでしょうか。映画の言わんとしていることは分かりますが、政治でも文化でも日本を占領した当の米国に、精神性まで教えていただかなくても結構です、という反発を覚えなくもありませんが、新渡戸稲造も読んだことがない無学な拙者のようなものは、ただ平伏するしかありません。

そういう映画のテーマなどはこの際無視をして、素直にトム・クルーズや渡辺謙、そして真田広之、小雪たちの立ち回りを楽しめば良いと思います。小雪がトム・クルーズに衣装を着せ替えてあげるシーンは、ヘタなラブ・シーンよりも美しく色っぽいです。

ロケ地は明らかに日本ではないようで、風景に若干違和感を覚えますが、それをおおめに見れば、ディテールまで凝りに凝った良質のエンターテイメントであると思います。もっとも、世の中の大絶賛の嵐には、少し疑問を感じますが…

2004年1月18日日曜日

【本棚】正高 信男:ケータイを持ったサル


正高信男氏は京都大学 霊長類研究所教授にして比較行動学の研究者である。サルの研究にいそしんできた正高氏が、比較行動学の手法を用いて現在のケータイに依存した若者と、それを生み出した家庭環境、ひいては日本社会を鋭く分析して見せた書である。

「ケータイを持ったサル」という少々過激なタイトルに、若者を侮蔑するような響きを感じる方も居るかもしれないが、読み進めると、週刊誌にあるような単純な若者嫌悪や批判とは全く論旨を異にしていることに気づく。特に氏の得意とする研究分野でのサルの行動との比較や、データを用いた若者や家庭分析がユニークである。

例えばメル友を300人以上持つグループと、ケータイを持たないグループでの簡単な投資ゲームの結果が第4章(「関係できない症候群」の蔓延)に記されている。いわゆるゲーム理論の「囚人のジレンマ」である。ゲームの参加者は2名、利益を確保するために相手を信頼あるいは裏切る選択を迫られるシミュレーションだ。この結果は私には驚くべきものであった。両グループで、これほど如実に差があるのかと、少し薄ら寒くなる思いさえした。詳しくは本書を読んでもらいたい。

正高氏は、ケータイでメル友と繋がらずにはいられない若者と、ルーズソックスに踵を踏み潰した靴で闊歩する若者を、公共領域に出ることの拒絶と捕らえ、その背景を「子供中心主義」で子供たちを育ててきた、家庭環境、ひいては日本社会にあると論理を敷衍してゆく。子供中心主義や「親離れしない子」「子離れできない親」ということも、正高氏が始めて言ったことではないが、一連の論理の中では説得力がある。

ちなみに、メル友で繋がる若者を「サル」と称するのは、ごく単純なコミュニケーション手段を用いて、連帯感を確認する行為はサルにも認められる行為であり、自分の属する集団から一生離れて生活することの稀なサルと似ていると見るからである。

イメージや感覚だけで述べた本ではないため、読んでいて明快である。氏の結論に同意できるか否かは個人によって様々だろうが、私には頷ける点も多く面白く読むことができた。

2004年1月17日土曜日

【音盤】テレマン:6つの四重奏曲


<1730年ハンブルク版>
テレマン
  1. コンチェルト第1番ト長調
  2. コンチェルト第2番ニ長調
  3. ソナタ第1番イ長調
  4. ソナタ第2番ト短調
  5. 組曲第1番ホ短調
  6. 組曲第2番ロ短調
  • 有田正弘(フラウト・トラヴェルソ) 
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン) 
  • 上村かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 
  • クリストフ・ルセ(チェンバロ)
 
イタリア語のQuadriと題されいるこの四重奏曲集は「2つの協奏曲、2つのバレット(舞曲、フランス組曲)、2つのソナタ」とされてる。細かな様式の違にまで言及することはできないが、器用で時流に乗ることのうまかったテレマンらしい音楽になっている。曲集はプロフェッショナルな演奏家を対象としているというだけあり音楽的な技巧も楽しむことができる。

有田、寺神戸、上村、ルセ氏の4人の名手については、いまさら解説は不要というところだろうか。柔らかにして軽やか、そして暖かな有田氏のトラベルソの音色は長く聴いていても疲れることがない。ピッチも現代よりもかなり低めに設定されているせか(a'=398)、音楽全体がしっとりと落ち着いた華やかさに輝いている。アンサンブルの響きは絶妙であり、そこからくっきりと浮かび上がるトラヴェルソの音色は、まさに至福の時間を与えてくれる。

もっとも、ずーっと聴いていると、美しさと心地よさにうっとりはするものの、だから何なのだ?という疑問が沸く瞬間がないでもないが、それをこの時代の演奏に求めることに無理があるだろう。

2004年1月14日水曜日

人柄と音楽性あるいは音色

演奏や音色に人柄は出るものなのだろうか。
あの人は生真面目な人だから、固くかっちりした音。
彼は奔放だから、大胆でおおらかな音。
彼は、スケベだから「いやらしい」音。

生真面目でなくても、スケベでなくても表現できるのが
上級者ということなのでしょう。

するというと、普段のレビュで
「○×ならではの清冽にして怜悧な音は・・・・」
「知的な演奏構成は、△□に今回も特徴的で・・・・」
などと書くことに、どれほどの意味があるのでしょうか。

2004年1月11日日曜日

【音盤】ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス

以前にも書いたことがありますが、私はベスト版とかオムニバス版はあまり好きになれません。どうしても全曲を聴きたくなりますし、全体あっての部分であると考えるだけに「おいしいところ」だけを取ったというような構成に馴染めないのです。

そういう偏狭な態度がレパートリーを狭めているのではとも思い、まあ年の初めだからと軽い気持ちで購入してみました。


ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス
●プッチーニ:ある晴れた日に(蝶々婦人)●ビゼー:恋は野の鳥(カルメン)●ガタラーニ:さようなら、ふるさとの家よ(ワリー)●ロッシーニ:今の歌声は(セビリャの理髪師)●ベルリーニ:清らかな女神よ(ノルマ)●サン=サーンス:あなたの声に心は開く(サムソンとデリラ)●ヴェルディ:慕わしい人の名は(リゴレット)●花から花へ(椿姫)●グノー:私は夢に生きたい(ロメオとジュリエット)●プッチーニ:私の名はミミ(ラ・ボエーム)●モーツアルト:あの恩知らずは約束を破って(ドン・ジョバンニ)●マスカーニ:ママの知るとおり(カヴァレリア・ルスティカーナ)●ボンキエルリ:自殺!(ジョコンダ)●プッチーニ:お父様にお願い(ジャンニ・スキッキ)●この宮殿の中で(トゥーランドット)●歌に生き、恋に生き(トスカ)

マリア・カラスのベスト版とのことですが、日本語解説を読むと「舞台で歌わなかった役のアリアが半数近くを占めて」とあります。オペラ門外漢の私には、それさえも「そうなのか」と思って読みながらカラスの歌声に聴き入りました。amazonのレビュでは「もしあなたがマリア・カラスにまつわるすべての大騒ぎの背後にある理由を知りたいのなら、このCDを買いなさい。(中略)このCDは16人の女性を訪れるようなもので、彼女たちはすべて興味深く、全員が偉大な歌手なのだ!」とあります。

果たして私は、これがカラスの歌声と意識して聴くのは、おそらく初めてなのだろうと思います。印象としては、決して転がるようなソプラノの美声ではなくことに驚きました。むしろメゾ・ソプラノのような声質をひきずっています。それゆえにというのでしょうか、独特の存在感と迫力を聴かせてくれます。歌声の背景から、何かが迫ってくるかのようです。

全部で16曲収録されているが、思いの他の満足を得ると同時に、やっぱりカラスは実演で聴いていたら魅せられているのだろうなと思わせるものの片鱗を感じることができました。

2004年1月5日月曜日

【本棚】天木直人:さらば外務省!― 私は小泉首相と売国官僚を許さない

天木氏は元レバノン特命全権大使、小泉政権のイラク攻撃に反対する意見具申(「対イラク攻撃に対する我が国の立場」)を官房長官宛に打電し、それが小泉政権批判になるとして辞職させられた人である。彼に対する退職勧告は君は組織の枠を踏み外したというものだったらしい。本書は外務省批判本であり、元外務大臣の田中議員が「伏魔殿」と称された以上の腐敗状況を実名入りで書き綴った本でもある。

手元に本書がないので、引用や紹介はできないが、この本を、辞職させられた腹いせの、単なる暴露本と捕らえるのでは、天木氏の、それこそまさに血を以て書かれた書に対しては失礼であると思う。天木氏は外務省と政府批判を書いてはいるが、実のところ今の日本社会を活写している

外務省に限らず、批判を全く受け付けず、体制を批判する者を容赦なく排除する組織体制。組織を維持することが目的と化し、組織から得られる利権のみを求める組織員。これは何も外務省のことばかりではないと思い至る。これは外務官僚や小泉政権に対する批判に留まらず、広く日本国民への批判の書となっている。

驚くべきは今日の日本に、国民のため、国家のために役立とうという高い志を持った官僚は皆無、全ての官僚は、時の権力者に取り入って出世すること生き甲斐を感じるか、出世競争に敗れたと悟るや否や、少しでも見返りを確保しようと躍起になるかのどちらかと天木氏に書かしめる体質である。自己の信念のためことを成し遂げようなどと思うものはいないとまで言い切っている。

読んでいて、言い知れぬ無力感にとらわれると同時に、天木氏の書く内容は内容はストレートで分かりやすいが、少し感情的になっているのではないかも思わないわけではない。天木氏の言うように、志の高い官僚は皆無なのだろうか。批判するのは良いが、独善的な感想から全外務省を敵に回し反感を買っても得策であるとは思えないのだが。

彼のような官僚が働くことのできない日本政府、あるいは日本の社会というのは一体何なのだろう、誰のものなのだろうかと、読み進めるうちに怒りと諦めの気持ちがないまぜになってくる。それを打破する道があるのかないのか、天木氏は最後にいくつかの提示をしている。この書が日本の政治システムの夜明けになることを期待すると天木氏は締めくくるが、日本の場合「市民運動」のようなものは盛り上がらないのだよなあ……

2004年1月4日日曜日

高村薫:照柿


「照柿」。"てりがき"と読むのだそうだ。高村氏の小説の中では、一般的にあまり人気がないようだ。内容が暗く、そして重いとのこと。高村氏の小説を読み難いという人は多いが、この小説はその最たるものらしい。

しかし、私の中では、この小説の持つ意味は大きい。ベストセラーとなった「レディ・ジョーカー」も凄まじい小説であったとは思うが、もしかするとこちらの小説のほうが、純度と内容が濃いのではと思わせるものがある。現代の「罪と罰」と帯にはある。成る程、そういう見方もあるのかと。付け加えるならば、間違ってもこの小説は「ミステリー」ではない。


舞台は東京と大阪。8月の狂いそうになる暑さの夏。合田雄一郎(「マーククスの山」や「レディ・ジョーカー」でお馴染みの)は、たまたま乗り合わせた電車の人身事故(飛び込み自殺)に遭遇する。そして、そこで一瞬出会った美保子に一目惚れしてしまうところから話は始まる。

高村氏が女性を、しかも「男女の愛情」を書くというのも珍しいが、彼女が書くとこういう小説になってしまうのかと、私は愕然としてしまった。18年振りに会った旧友の達夫が、なぜ殺人を犯すこととなるのかというもうひとつ大きな軸もあるのだが、私にはこの小説は「解体」の物語と読めてならない。

何の解体か、言わずもがな「合田雄一郎」の解体だ。その意味から、小説の中の二つの轢死事件は、肉体の解体と死滅が、合田自身の精神的解体の物語の暗喩となっているように思える。熱心な高村小説あるいは合田ファンには、本小説で合田が「崩れていく」様を見るのがつら言うが、それは当たらない。むしろ辛いのは、そこまでに至る意志の厳しさだ。

「解体」とは、すべての内実を曝け出し、脱ぎ捨て、そして解体の後には、別の何ものかになることを示唆している。解体されたのは、合田だけではなく達夫もしかり、二人の間での激しい愛憎がスパークし、何者かに変わった(あるいは戻って何かを取り戻した)のかもしれない。自分をギリギリまで見据え、それでも自己を解放しさる軽々しさと重々しさ。高村氏の小説に一貫して共通するテーマ。

高村氏は、この小説の中で、ダンテの「神曲」のくだりを引き合いに出す。

「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」(加納)
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」(雄一郎)
「意志だよ、意志。すべては。」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
(P.254)

��冷静に考えると、義兄弟でこんな会話をする二人こそ「お化け」に見えなくもないが)合田と達夫は「地獄」「煉獄」を経て「天国」を見ることができたのだろうか。ラスト491頁から最後までは、涙なくして読めない。そうくるだろうなと分かっていてもだ。

2004年1月2日金曜日

【本棚】養老孟司:<逆さメガネ>、バカの壁


書店に行くと「バカの壁」が山積みで記録的なベストセラーを記録しているとのこと。更に養老氏の本が何種類もバナナの叩き売りのように積まれているのを見て、まあ話題だし読んでみようかという気になって2冊ほど購入。しかしながら、正月早々、くだらない本を読んでしまったというのが正気な感想か。amazon.comのカスタマーズ・レビュにざっと目を通しても、否定的な感想が多いようである。

この2冊は4ヶ月をおいて発行されているが、内容はどちらもほとんど同一。さらに、養老氏自らが執筆しているのではなく、これは私の話を、新潮社の編集部の人たちが文章化してくれた本(「バカの壁」P.3)という、なんともバカにした本である。


なぜこのような本がバカ売れし、しかも二匹のドジョウならぬ数匹のドジョウにまで化けねばならぬのかと思うことしきり。「バカの壁」という風変わりで、少し過激なタイトルでなければ、あるいはここまで売れなかったかもしれず、新潮社の商売のうまさには感服する。

内容批判をする前に、くさしてしまったが、考えてみれば内容を書くのもばかばかしい。要は、話が単純、短絡的、牽強付会、一面的、こじつけ、例題が貧弱、理論が貧弱。縁側で経験豊富でちょと賢い爺さんが話す小言をまとめたような本と言ってよいかもしれない。

もっとも、もののひとつの見方を提示するという点では確かに一理あるかとは思う。養老氏が「都市化」と称する考え方には同意できる部分も多い(<逆さメガネ>)。しかし個性と身体性云々のところは、成る程とさえ思えない。養老氏は「バカの壁」と常識を疑う「逆さメガネ」を強調するが、彼自身の中で「壁」があるのではなかろうか。ただどちらかを読むとしたならば、<逆さメガネ>が良い、こちらの方が氏の考え方がストレートに出ている。

先にも書いたが、今日も書店に行ったら山のように養老氏の名前を冠した本が山となっていたが、どんなに「良い本」であろうと、二度と氏の本は読まないだろう。

2003年12月18日木曜日

ジュネスさんのヒラリー・ハーンのレビュ

アマチュア・ヴァイオリニストのジュネスさんから、ヒラリー・ハーンのレビュが届いたので紹介したい。ジュネスさんは以前もレビュを送ってくださったことがあるように、熱烈なハーンのファンである。今回のレビュも、ジュネスさんのこの曲に対する考え方や、5枚のCDを比較検討した上でのハーン評など、大変に丁寧な文章になっているので、ぜひとも読んでいただきたい。

レビュを読みながら改めてCDを聴いてみた。私はどうもブラームスとの相性があまりよくなく、ブラームスで心底感動する演奏に、あまり接したことがない。渋さというか重厚さという先入観からか、飽いてしまうところがなきにしもあらずなのだ。

ハーンの演奏は、爽快さをともなって、どこか突き抜けた世界観をいつも構築してくれているように私には思える。軽やかというのとも違うのだが、ブラームスの協奏曲も、彼女の手にかかると艶やかさと軽やかさの中に、確たるものを聴かせてくれている。軽快さはジュネスさんも指摘してるオケの編成のゆえかもしれない。

彼女の毅然として凛とした演奏手法はフレーズの隅々にまで行き渡り、神経がギリギリにまで研ぎ澄まされているかのような印象を受けながらも、決して技巧だけに傾いた演奏ではない。技巧の極地は逆に音楽に余裕さえ与えているように思える。エモーショナルに傾いた演奏でも、重厚さや艶やかさを強調した演奏でもないのに、音楽から溢れてくる美しさと躍動感。彼女の演奏はやはりどこか突き抜けていると感じた。

2003年12月16日火曜日

ネットで音楽

休日にブラブラとネットを検索していたら、著作権の切れた演奏をネットにアップしているサイトがあった。「クラシック音楽へのおさそい~ユング君のホームページ~」という名前のサイトで数多くの名曲をストリーム再生することができる。サイトの紹介には『めざすは「クラシック音楽の青空文庫」』とある。

ためしにベートーベンの交響曲のページを見てみると、トスカニーニ、フルトヴェングラー、シューリヒト、ワインガルトナー、ワルター、バルビローリなどの演奏がアップされている。音質はPCにつないだ再生装置に左右されると思うが、何とはなしにあの曲を聴いてみたいと思うときには重宝すると思うのでありました。



2003年12月2日火曜日

フランスの音楽

「墓場に持ってゆく曲」を選曲して、フランス音楽がほとんど選ばれなかったことに、多少の驚きを感じたのだが、考え見たら私は、フランス音楽にほとんど親しんだことがないことに気づいた。おそらくピアノを習った方ならば、ドビュッシーやラヴェルを弾きますから、そういうことはないのでしょうが。 

フランスの作曲家にどういう人がいるのか「フランス音楽の扉」というサイトを参考に、列挙してみました。本当に、縁遠いということがよくわかりました。時間のあるときにまとめ聴きしてみようかと思います。
 
ベルリオーズ・・・フランス人だったのですね、フルート吹きでもあったとか 
グノー・・・アヴェ・マリアっすね、ほかには? 
オッフェンバック・・・そりゃそうですが 
フランク・・・どんな交響曲だったっけ? 
サン=サーンス・・・オルガン付きは三ザーンス  
ビゼー・・・え?フランス人だったの? 
シャブリエ・・・やっぱり冬は牡蠣にシャブリエっすか?>シャブリだって 
マスネ・・・拍子と息が取れないんですよね 
フォーレ・・・レクイエムは知ってます。子守唄もシシリエンヌも知ってます。 
ショーソン・・・詩曲でしたっけ?一回は聴いたな シャミナード・・・フルートものがあったな 
ドビュッシー・・・いわずもがな 
デュカス・・・ディズニー? 
サティ・・・ジムノペディ以外も知ってますが 
ルーセル・・・名前は聞いたことある 
ピエルネ・・・同上 
ラヴェル・・・やっぱ、マ・メール・ロワとダフ・クロ?
イベール・・・まずはフルートコンチェルトだしょ 
オネゲル・・・まずは牝山羊だっしょ 
ミヨー・・・プロヴァンスにつきますな 
プーランク・・・フルートソナタだけでなく室内楽もなかなか 
デュリュフレ・・・フォーレに次ぐレクイエムっすな 
ジョリヴェ・・・そうそう「五つの呪文」という曲がありました 
メシアン・・・結構つらいっす 
ブーレーズ・・・フランス人だったんすか

2003年12月1日月曜日

墓場に持ってゆく数曲

精神、肉体、忍耐、プライドがズタズタの状態で12月を向かえ、あまりに疲れているので、思いつくままに、墓場(あるいは無人島)に持っていく曲(演奏者を問わず)を選んでみた。列挙してみたら意外な結果になってしまった。ずいぶんと偏った選曲である・・・。仏蘭西ものがほとんど選ばれなかったのは、曲を知らないからのようである・・・・

墓場三曲

モーツアルト「レクイエム」
マーラー交響曲第2番「復活」
バッハ「ロ短調ミサ曲」
…三曲とも合唱付の曲が選ばれた。バッハのマタイ全曲はチトつらいかもしれない。フォーレの「レクイエム」は選びたいのだが、墓場に人気の曲なのであえて挙げず。墓場に持ってゆくのに「復活」はないだろうに、と思うよ。

墓場五曲

シベリウス交響曲第5番
マーラー交響曲第5番
…マラ5の冒頭は葬送の音楽だが、結果的には、どちらも前向きな曲ではある。墓場に向かって意気揚々と進むのである。

墓場七曲

シベリウス交響曲第7番
ブルックナー交響曲第7番
…どちらも、永遠を感じさせるでしょう。

墓場九曲

マーラー交響曲第9番
ブルックナー交響曲第9番
…やっぱり、ひとつの境地ですから、はずせませんね。

墓場十一曲

ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」
ワーグナー「ニーベルングの指輪」(全曲)
…墓場にワーグナーとは、ずいぶん脂ぎっているように思えますが、墓場はなにせ孤独で退屈ですから、長い時間かかる音楽と愛が必要なのです。ついでにプルーストも持ってゆきますよ。

墓場十三曲

モンティベルディ 「聖母マリアの夕べの祈り」
マラン・マレ「ヴィオール集」
…ワーグナーのあとは静謐に祈りましょう。

墓場十五曲

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番
ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番
…墓場のなかでグロテスクなジークでも踊りますか。

墓場十七曲

モーツアルト「コジ・ファン・トウッテ」
モーツアルト「ドン・ジョバンニ」
…モーツアルトの歌劇なら、何でもいいんです。

墓場その他(曲番を特定できない)

バッハ 無伴奏フルートソナタのうち数曲
バッハ 無伴奏チェロソナタから数曲
バッハ 平均律かインヴェンションなど鍵盤曲
モーツアルト ピアノソナタから数曲
ベートーベン ピアノソナタのうち後半から数曲
ベートーベン 弦楽四重奏曲のうち後半から数曲
ラヴェルのピアノ曲、室内楽曲から数曲
ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲から数曲
バルトーク 弦楽四重奏曲から数曲
…もはや、墓場のための選曲ではないな。

2003年11月23日日曜日

【ゲルギエフを聴く】

今となっては押しも押されぬ指揮者の一人となりましたが、初めてCDでチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いたときの衝撃は忘れられません。それ以来注目の指揮者の一人です。

演奏会の感想

CDレビュ

その他

NHK音楽祭 ゲルギエフのマーラー交響曲第3番

日時:2003年11月22日 14:00~
場所:NHKホール
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
合唱:キーロフ歌劇場合唱団

マーラー:交響曲第3番 ニ短調)

コンサートにのぞむにあたって、あるいはマーラーの交響曲第3番という異常に長い演奏に接するにあたって、私は余りに精神的にも肉体的にも疲れていたかもしれない。結果から言ってしまうと、ゲルギエフという贔屓の指揮者の演奏であったにも関わらず、演奏から得るものは必ずしも多くはなかった。演奏を聴きながら「このまま終わってしまうのか」と半ば諦めと虚しさを感じていた。

マーラーの交響曲第3番は合唱を伴う大曲であり、テーマも死を連想させる要素は薄く、冬を押しのけた夏の勝利、夢のような矛盾、甘美さと目も眩む様な壮大な境地にまで高まった神の愛さえ感じる曲だ。合唱が登場するのは第4、5楽章、時間にして十数分である。しかしピンポイントで入るソロや少年合唱は、この曲を際立たせており、そうしたことで得られる最終楽章の美しさは、何ものにも変えがたいものがある。ティンパニーの強打とともに締めくくられるラストでは、大きな感動に包まれるはずであったのだが・・・。では、今回の演奏に何が不足していたのかと思い出そうとするのだが、それを適確に表現することは難しい。

第一楽章冒頭のホルンのテーマの吹奏は、音量的にもはっとするほどのものであったし、音響的重心の低さと分厚さは、オケの実力を十分に感じさせるものであった。NHKホールで、あれほどの音を聴けるとは思っていなかっただけに驚きとともに期待は高まった。

ゲルギエフの演奏なだけあって表現の巾は広いし、分厚い音響に支えられた音楽は聴き応えは十分、甘美で優雅な旋律も悪くはなかったと思う。しかし、結局のところ複雑で矛盾に満ちたマーラーという雰囲気はあまり感じることができず、全体的な表現としてストレートすぎるようにも感じられた。

演奏を聴きながら、ゲルギエフのマーラー観というものは、いったいどうというものなのだろうかと自問していた。バーンスタインやテンシュテットの演奏だけがマーラーではないことも認める。バーンスタインの印象を私は引きずりすぎていると思うときもある。いや、ちょっと待てだ。そもそも、私のマーラー観とは何なのか。この演奏が良いとか気に食わないというほどに、私はマーラーを聴き込んでいるわけでも、マーラーに通じているわけでもないではないか。

それでも、私の拙い音楽経験の中で築かれたマーラー像と今回のマーラー演奏の間に微妙なズレがあり、それを私は認容することができなかったということなのだろうか。音量が大きければ感興が得られるというものでもないわけだ。

個人的には注目の演奏会であったが残念な結果であった。クラシックBBSで有名な「クラシック招き猫」の「音の余韻館」も覗いてみたが、わずか1名の方の書き込みしかなかった。今回のゲルギエフ来日の目玉がキーロフオペラにあったとしても淋しい限りではある。

2003年11月15日土曜日

PMF2004にゲルギエフ登場  

「モーストリー・クラシック」のサイトを見ていたら、来年のPMFにゲルギエフが登場するらしい。以下は、同HPから引用。

個人的にゲルギエフは嫌いではないが、PMFにゲルギエフが適切なのか、資金面から疑問を感じるのは私だけか。人気の指揮者を招待して、クラシックファンの裾野を広げようという意図なのかもしれないが、PMFというのは、本来的には一発もののイベントではなく、もっと地道な活動のように思えたのだが。

いずれにしても、札幌にいない間にゲルギエフが札幌に1ヶ月近く滞在するというのは、穏やかな気持ちになれないことだけは確かだ。

●札幌で毎夏開かれている教育音楽祭「PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)2004」の記者会見が14日、東京都内のホテルで行われた。会見には、PMFの前田龍一常務理事、PMF首席教授・芸術主幹を務めるウィーン・フィルの首席クラリネット奏者ペーター・シュミードル、そして、来年の首席指揮者を務めることになった指揮者のワレリー・ゲルギエフらが顔を揃えた。
●PMFは1990年、指揮者で作曲家の故レナード・バーンスタインの提唱でスタート。教育音楽祭としては、米国のタングルウッド、ドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭と肩を並べる存在に成長した。来年は7月10日から8月4日まで行われ、オーケストラコース、コンポジションコースの教育が行われ、オーケストラ演奏会、教授陣による演奏会、ミニ・コンサートなど40公演の開催が予定されている。
●オーケストラコースでは、ワレリー・ゲルギエフの指揮、ニコライ・ズナイダーのヴァイオリンによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィッチの交響曲第11番「1905年」をはじめ、ファビオ・ルイージによるマーラーの交響曲第6番「悲劇的」、チエン・ウェンピン指揮によるバルトーク「中国の不思議な役人」、リヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」などのプログラムが組まれている。
●会見でシュミードルは、「PMFは来年で15年目を迎えますが、常に新しいことを取り入れていくことが大事だと思っています。これからも世界的にビッグな指揮者を招く努力をしていきたい」と語った。一方、ゲルギエフは「PMFの発足前から、バーンスタインからこの素晴らしい計画のことを聞いていました。若い人に教えるだけでなく、彼らから学ぶことも多く、若い学生と新しい体験ができるのを楽しみにしています」と語った。

2003年11月13日木曜日

【ヒラリー・ハーンを聴く】



(2003年当時の記事であり、リンク切れになっています)

アメリカの若き天才バイオリニスト、ヒラリー・ハーン。今、最も注目されるバイオリニストという評価がある一方で、彼女の人気は一過性のものであるとするクラシックファンも存在しているようだ。気になる演奏家であることは間違いない。ジュネスさんの投稿レビュもアップしました。

ディスク・レビュ

サイト内のその他の書きこみ

  • 音楽雑記帳 ~ ヒラリー・ハーンの音楽 2002/02/02
  • 音楽雑記帳 ~ ヒラリー・ハーンのバーバー、メイヤーのアルバム 2001/03/14

ヒラリー・ハーン ファンのレビュ

音楽のBBSに時々書きこみをしてくださっているジュネスさんは、アマチュアのバイオリニストであり、そして熱烈なるヒラリ-・ハーンのファンです。演奏会の感想のレビュをメールで読ませていただき、せっかくの文章ですのでジュネスさまにレビュを本HPに公開しないかと持ちかけてみました。うれしいことに快諾いただけましたのでここに紹介いたします。

ヒラリー・ハーン/バッハ バイオリン協奏曲



ヒラリー・ハーンのグラモフォン移籍の1枚目はバッハのヴァイオリン協奏曲だ。今では当たり前のようになってしまった古楽器系の演奏ではなく、現代楽器による颯爽とした演奏である。では、ここに納められた演奏は、今の評価からすると「異端」なのか。ここにバッハ音楽の奥深さと複雑さと歪曲と、そして誤解があるように思える。

バッハは演奏家からすると「試金石」のようなものであるらしく、高名な演奏家であってもバッハと対峙するのは相当の解釈論と経験をつんでからでないとできないという人も多い。ハーンはデビューからしてバッハのソナタを演奏し世界をあっと言わせたのだが、私はここでもあっと思ってしまった。

1曲目のヴァイオリン協奏曲 ホ長調の出だしのスピード感ときたらどだろう。一瞬にしてハーンの巧みな音楽世界にさらわれてしまう。そして Adagio での憂いと翳りの表現。見事なまでの対比が、それこそ一分の隙もない音色で奏でられる。だからといって、感傷的であったり感情表現に傾きすぎているというわけでもない。聴いてみれば、切れの良い表現で淡々とバッハの音楽的世界が語られているように思える。

2003年11月11日火曜日

ワルキューレ 第1幕

「CDで聴く初めてのワーグナー」というシリーズが春から全く停滞しているのだが、久しぶりに「ワルキューレ」の前半を聴いてみた。

ワルキューレの第1幕は、ジークムントがジークリンデの家へ迷い込むところから始まります。またしてもお互い一目惚れしてしまいます(兄弟なのに)。上で旦那のフンディンクを眠り薬で眠らせて、二人で陶酔的な愛を交わすという、とんでもない幕である。

しかし、音楽を聴いていると一時にワーグナーの異常な世界にどっぷりはまり、第3場の「剣のライトモチーフ」とともに、ヴォータン(ジークムント兄弟の父)の与えた剣を手にするシーンは、まさにに圧巻という印象を受けます。凄まじきはワーグナー、映像を見ずともこれほど鮮やかに劇が再現されると驚くばかり。

第2幕第1場は、ヴォータンが娘のブリュンヒルデ(ヴォータンが女神エルザに生ませたワルキューレの一人)とつるんで、息子のジークムント(ヴォータンが人間に生ませた双子の兄)を助けようと企みます。それが、ヴォータンの正妻であるフリッカにはたまらない。しかもジークムントとジークリンデは近親相姦してしまっているのだから、結婚の女神のフリッカは許すことができない。それで、夫であるヴォータンにキレまくっているシーンなのだが、ここはとても笑える。ワーグナーって、一体どういう倫理観だったのだろう・・・

日本フィル 第137回サンデーコンサート




日時:2003年11月10日 14:00~
場所:東京芸術劇場
指揮:小林 研一郎
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
ヴァイオリン:二村 英仁

リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン(ジプシーの歌)
ラヴェル:演奏会用狂詩曲「ツィガーヌ(ジプシー)」
モンティ:チャールダーシ
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」

コバケン+日フィルの演奏会に出かけた。リストのハンガリー狂詩曲に始まり、二村氏のヴァイオリンが3曲、そして「展覧会の絵」と親しみやすいプログラムであった。

しかし、日曜日14時のに始まる「サンデーコンサート」という気楽な雰囲気の演奏会のためか、会場が始終ざわついていてどこか緊張感に欠けていた。それは演奏中でもそうで、開放咳ならまだしも鞄やパンフレットのガサゴソする音が始終絶えない。そういう私も体調があまりよろしくなく、なかなか演奏に没頭できないで終わってしまったというのが正直な感想。

二村氏のヴァイオリンは優しく温かみのあり、それでいてなかなかに聴かせる演奏だったと思うのだけど、心には響いてこなかった。二村氏と日フィルとの相性という点ではどうだったのだろうか。「ツィゴイネルワイゼン」のような通俗名曲を技巧でブイブイ弾きまくる演奏が、二村氏のスタイルには似合わないのかもしれないとも思った。

ラヴェルやモンティは、私には始めての曲で、全くもったいないのであるが、とにかく楽しめないままに二村氏は去ってしまった。二村氏は、機会があればもっと近い席でじっくりと聴かせて貰いたい音であったことは付記しておこう。

次は「展覧会の絵」である。コバケンの展覧会なのだからとかなり期待して聴き始めた。しかし、本番であるから事故やミスは止むを得ないと思うのだが、金管群が不安だ。弱音でのアンサンブルの乱れも気になり、どことなく雑な印象を受ける。そして時々、自分の耳がおかしいのでは訝ったのだが、音程がどうもピンとこない。それも弱音での出だしの音だったり、重要な部分での音程であるだけに演奏全体の印象がぼやけてしまった。(プロのオケなので、音程が悪いということはありえないと思う。私は当日は風邪気味であったから、頭と耳がぼやけていたのだと思う。)

展覧会の絵は、強弱や緩急取り混ぜながら、最後のキエフの大門に向かって盛り上がる曲だが、最後のクライマックスも弱音での緊張が維持されてこそ壮大な感興が得られるものだ。肝心の弱音での繊細さや緻密さ、美しさに乗り切れなかったため、今日の演奏には満足できなかった。

アンコールは、何か1曲やった後に(忘れた)キエフの大門のラスト数分をもう一度演奏した。こういうアンコールもありかなとは思ったのだが、コバケンの生真面目さとサービス精神、そして音楽と日フィルへの深い愛情は感じたが、今日の演奏の印象をくつがえすものではなかった。

4月に東京に来て日フィルの演奏を聴くのはじめてであったのが、今まで数度聴いた東響と比較すると、弦の音色や雰囲気が異なっているように思えた。東響はどちらかといえば透明感が際立っているが、日フィルには音に粘性を感じ重心も低く、良い意味での雑味も感じることができる。それだけに全体のバランスが崩れてしまうといただけないというのが、今日の感想ではあった。体調の良いときに再度、コバケン+日フィルを聴いてみたい。

蛇足になるが、コバケンは3階席にいてさえ、その唸り(叫び?)声が聴こえるほどである。それでも、帰り際にクラシックファンたちが「コバケンも年をとったなあ」と感慨深げに話す声が、なぜか耳に残ったのであった。


2003年11月10日月曜日

冬に期待するもの

ストレス解消のひとつに、私の場合はレビュとかを書くというのがある。誰に向かって書くわけでもないのだが、自分の中で鬱々と溜まる感情を放置しておくと、霧散するか蓄積してしまうので吐き出すという作業をしている。仕事の関係でHPの更新を現在できない環境なので、鬱々とした感情は発散しがちになりる。 

そんな中で最近私が期待しているのは、なんと言っても11月23日のゲルギエフのマラ3だ。これはNHKホールなので若干不安もあるし、最近のゲルギの音楽性を考えると凶と出るか吉と出るか。マラ3も長い曲だが、終楽章の美しさをゲルギはどう表現するのだろう。 

CDで期待するのは、12月に発売されるアムランのショスタコか。アムランのヴィルトオーゾ性というのは、感情を交えないピアニズムの極致のように思え、例えばホロヴィッツのヴィルトオーゾとは対極的な位置にあるのではないかと思ったりする。そういう意味から、彼はどんな難曲を弾いても深刻や意味深にならず、ひたすら曲の構造美が浮き出てくるように思える。

HMVではクライバーの「田園」が山積だった。私としては、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」の方が魅力的だった、6000円を超えているのでしばし保留。同じくトリスタンではカラヤン盤も出ており、本当は両方とも欲しいところ。そろそろDVDドライブでも買って、レヴァインの指輪でも観ようかとは思っているのだが・・・