2004年11月30日火曜日

ムター/チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターの15年振りの再録となるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。

私が「思わずジャケ買いしてしまうヲジサン」であるかはさておき、HMVで少しばかり視聴したのですが、「ひょえっ!なんぢゃこれ」というくらいに個性的な演奏で、そのまま聴きつづけるのがつらかったのでフラフラとゲットしてしまいました。

An die Musikの伊東さんは、本盤のレヴュでこれは好き・嫌いがはっきり分かれるだろう。と書いておられましたが、聴いてみればまさに個性的な演奏。出だしからこれでもかと言わんばかりの濃厚な表現が聴かれます。チャイコフスキーがこんなにも色香のある音楽だったかしらと戸惑ってしまいます。

「妖艶」「むせかえるような」などの形容詞を冠したくなる演奏で、それがムターの個性なのだといわれれば、そういうものかとも思いますが、果たしてこれが「美しい」演奏であるかは疑問です。(美しいの定義も問題ですが)

ムターのヴァイオリンは、ノンヴィブラートの音から、艶やかさと豊穣さを乗せまくったヴィヴラート音まで、あるいはポルタメントの多様やあざといまでのアゴーギグなど、表現の巾は変化自在であり極めて広いといえます。演奏スタイルは下品とか演歌的というのではないのですが、非常に濃いものです。目的のためには手段を選ばないといいますか、娘にもなれば熟女にも老婆にも化けるといったような・・・

コテコテの演奏がキライなわけではないのですが、ムターのこの演奏には、どこかついていけないものを感じます。聴いていて顔をしかめてしまうような部位がいくつもあります。例えば、第二楽章冒頭のノンヴィヴラートの音色など。もっとも、これはこれでびっくりするような音です。暗くかすれたむせび泣きであり、この楽章は全般的にヴァイオリン協奏曲というより、オペラの悲劇のヒロイン歌う哀しいアリアにさえ聴こえます。でも何となくムタれ気味になった耳に、オケのフルートの音色が新鮮に聴こえ、救われる思いだったりします。

夫であるプレヴィンとの共演というだけあってアンサンブルは悪くありません。ムターに十分にかつ自在に歌わせているように感じます。オケはバックで闊達すぎるムターを外側から優しく抱擁しているようでさえあります。

見事といえば見事なのですが、改めて伊東さんと同じように好きか・嫌いかと問われれば「好きとは言いたくない、が抗えない力も感じる」というのが結論ですな。

2004年11月28日日曜日

【音盤】C・クライバー/ビゼー:歌劇「カルメン」


ビゼー:歌劇「カルメン」

カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
ドン・ホセ:プラシド・ドミンゴ
エスカミーリョ:ユーリ・マズロク
ミカエラ:イソベル・ブキャナン
フラスキータ:チェリル・カンフシュ
メルセデス:アクセル・ガル
スニーガ:クルト・リドル
モラレス:ハンス・ヘルム
レメンダード:ハインツ・ツェドニク
ダンカイロ:パウル・ヴォルフルム
ウィーン少年合唱団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ノルベルト・バラチュ(合唱指揮)
ウィーン国立歌劇場管弦楽団

カルロス・クライバー(指揮)
演出・装置・衣装:フランコ・ゼッフィレッリ
収録:1978年12月9日、ウィーン国立歌劇場(カラー&ステレオ)

季節の変わり目で風邪がはやっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。当方は絶不調が続いており、元気付けにという意味も込めて、クライバーの、《カルメン》(78年)をゲット、快晴の土曜日、西日が燦々と入り込む部屋で、DVD視聴をいたしました。

驚いてはいけません、《カルメン》でさえ私にとっては、これが初聴であります・・・


C・クライバーの《カルメン》はファン待望の正規映像とのこと。フランコ・ゼッフィレッリの舞台・衣装演出、37歳の絶頂期のプラシド・ドミンゴによるドン・ホセ、エレーナ・オブラスツォワのカルメン役です。クライバーファンには有名な演奏であるだけではなく、《カルメン》の演奏の中でも評価の高いものだといいます。

オペラ無学な私は、この有名すぎる《カルメン》のストーリさえ熟知しておらなかったのですが、ライバーの映像で、ようやく初体験を果たしたことになりました。
さて、感想はといえば、聴いてびっくり、観てびっくり。改めてどこの断片をとっても名曲のオンパレードであると感心すると同時に、ドミンゴやオブラスツォワもさることながら、やっぱりクライバーの指揮は何て魅力的なんだろうということに最初は尽きてしまいました。

オープニングの入り方からして凄い。拍手が鳴り止まぬ内にオーケストラをかき鳴らし始めます。颯爽として優雅で、しかも熱く、なんてカッコいいんだろうと溜息が出てしまいます。前奏曲での渾身の力を込めた指揮ぶりなども見ごたえがあります。

5分ほどの「通俗名曲」とさえ呼ばれるような聴きなれた音楽を、これほど優雅に、そしてワクワクと聴かせてくれることには心底驚きます。クライバーの音楽を聴いていると、安定した位置にある気持ちの重心を、不安定な位置にまで吊り上げられ、さらに揺さぶられているように感じるときがあります。微熱を帯びた高揚とでも称しましょうか、それが、この《カルメン》では冒頭から感じられるのです。期待は嫌でも高まるというものです。

圧巻は、第2幕のジプシーの唄ですね。猛烈なアッチェレランドとクレッシェンド、オケも歌手達も崩壊寸前にまで煽られながら、ギュンギュンと舞い上がってゆくかのように壮大なる熱狂を作ってゆく様は、衝撃的という言葉以外では表せません。カルメン演ずるオブラスツォワが、歌と踊りが結びついて、はじめはゆっくりと、でもだんだんと速く激しくと歌うそのままの演出が、舞台でひしめき合う男女や、フラメンコを踊る男女の熱狂が渾然一体となる様は悪魔的でさえあり、ここを以って《カルメン》のハイライトと言う意見もあることには納得してしまいます。

カルメンはホセから本当に心変わりしたのか

さて《カルメン》を観ていて疑問に感じたことがあります。それはカルメンのホセに対する気持ちです。

第4幕からラストに向けての展開を単純化しますと『心変わりしてしまったカルメンのもとにストーカーと成り下がったホセが押しかけ、カルメンの冷たい態度に、ホセが遂には逆上してカルメンを殺してしまう』ということになります。

しかし、カルメンは本当に心変わりしていたのか、ということが気になります。カルメンは仲間にホセが来ているから気をつけろと忠告され、更にホセが自分を殺そうとしている、ということを知りながら、敢えてホセに会っているのです。しかも、ホセに対し会話の中で何度も「私を殺して」という態度さえ取るのです。

最初に見たときは、ホセに対して自殺幇助を求めたようにさえ見えたこの場面。何度か観て確認しますと、カルメン演ずるオブラスツォワが実に複雑な表情で、揺れ動いている女心を演じていることが分かります。ホセをいとおしく思いながらも、彼女とホセは生きる世界が違っていることを知り、更には少しは闘牛士のエスカミーリョにも心が動いてはいたでしょう。そういう突き放した態度と、諦めきれない気持ちが、移り変わる場面で実によく演じられています。

鎖、指輪(愛)、自由と死

ラストのクライマックスでは、ホセが贈った指輪を放り投げたカルメンに逆上し、単純なホセはナイフを取り出します。そして「悲劇」です。ここでの演出は、カルメン自らがナイフを構えたホセに抱き寄るようにして刺されています。彼女から死に向かったという解釈のようです。

ホセからとっくに心が離れていたなら、最後まで指輪をしてたことは理解できません。おそらく彼女は、このような形でホセと「決着」することを、ずうっと待っていたのでしょう。ホセを愛するということは、第3幕でのカード占いの結果では「死」を暗示するものでした。誰にも縛られず、自由であることを願っていた彼女が、強い運命には抗えないことを知っていたとしたら。彼女が闘牛場の外でホセと会ったときに感じたであろう喜びと哀しみと諦め。自らの運命を自らの意思で断ち切ろうとした彼女を思うと、カルメンがホセを冷たくあしらう様は涙をそそります。

彼女は本当に自由を心から望んでいたのでしょうか。第一幕のカルメンの歌う有名なハバネラ《恋は野の鳥》の後、言い寄る男達をあしらいながら、カルメンは自分を無視しているホセに気が付きます。カルメンは彼に近づき何をしているのか?と問い、ホセは「鎖をつくっている」と答えます。「鎖? 心をつなぐ鎖」とカルメンは一瞬呆然としてつぶやき、ホセに(最初は戯れかもしれませんが)運命の花を投げつけるのです。

この点からも彼女の心情を憶測することはできそうです。いずれにしても《カルメン》には初めて接したばかり、参考文献にも全く接していないので思い違いかもしれません。ただ、カルメンの心情をどのように解釈するかで演出も感想も180度変わったものとなるでしょう。

それにしてもオペラの男性はガキばかり

最初は、カルメン演ずるオブラスツォワのアクが強すぎること、ドミンゴも37歳ですから直情で純朴な田舎の兵隊という雰囲気ではなくて、オペラの配役と実年齢のギャップやら、イメージのギャップに困惑してはいたのですが、第4幕での心理劇を理解しますと(勝手な解釈ですが)、それぞれの人物が急に際立ってきます。

特にカルメン役のオブラスツォワは、(もっと当たり役のカルメンもいるでしょうが)これはこれで納得です。ミカエラの清純さも捨てがたいのですが、劇に占める役どころは小さいですね。ワーグナーならさぞ献身的にして母性的な救済役として配するところでしょうか。

しかしオペラの男性役というのは、どれもこれもどうしてこう子供じみて単純なんでしょう。「愛した惚れた」で一直線で破滅に向かってくれます。《カルメン》はストーリー的にはむしろ、ホセの破滅の物語と解釈した方が良いと言われているようですが、この演出ではカルメン役のほうが光っているように思えます。

ドミンゴの歌唱力はそれはそれは素晴らしいでのですが、役にあまり深みがありません、ドミンゴを責めてはなりません。あと、ネット上の解説を斜め読みすると、ホセを「ストーカー」と評する文に多く出くわします。ホセは確かにしつこいし、殺意さえ持っていましたが、それを「ストーカー」と片付けるところに、現在の単純さと酷薄さのひとつが表出されているように思えます。あと、カルメンの心情に言及した文章はほとんどないのが不思議です。

このように観れば観るほど興味の尽きない《カルメン》です。クライバーの音楽も相まって「空前絶後」と評される演奏です。決して《ジプシーの歌》や《花の歌》だけがハイライトではない演奏であるというのが、本日の結論。

2004年11月24日水曜日

【本棚】マイケル・デル:デルの革命

パソコンのダイレクト販売を行っていることで有名なデルの創業者が、自らのビジネスに対する考え方を書いた本。世界で成功するベンチャー起業者というのは、小学生の頃から才気あふれていて、一般のヒトとはやっぱり違うのだなあと思い知らされる本でもあります。

本人の資質は別としても、現代における経営やビジネスマンに対する示唆も多く、私としては大変面白い本でした。

デルのビジネスモデルがダイレクト販売によるSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)の確立であることは誰でも知っていますが、それは、デルの最大のポリシーである「顧客重視」という点からの当然の帰結だと書いています。従って、顧客のためにならない製品開発はやらないという判断も、昨今のプロダクトアウトからマーケットインへという潮流をみるまでもなく21世紀に生き残る企業像を示しているといえましょう。

会社は株主(オーナー)のものであり、株主利益の最大化が会社の目的とするのも、当たり前と言うには当たり前すぎる主張なのですが、日本の企業を見ていると株主利益など無視した経営をする企業も少なくなく、大企業であろうと未だに持ちえていないカルチャーであると思わざるを得ません。

経営判断をデータを用いて行い、例えば小売販売チャネルからあっさり撤退しダイレクトモデルという戦略を先鋭化させるという判断も見事。ROIという言葉は知っているものの、適切な経営データをもとにした判断という点では赤子のような私の勤めている某企業など、デルの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだと、つくづく思うのでした。

デルは起業以来、いまだかつて見たことのない高い成長率(業界成長率より高い成長率)と高利益率を確保しつづけていますが、会社としての体脂肪率は極めて低く、ポリシーもシンプルである点、企業経営者ならば見習うべき点は多いと思うのでした。

創業者自らの本なので、手前味噌もあるとは思うのですが、堀江某の本よりはよっぽどタメになるかなと・・・

2004年11月21日日曜日

ハーン/エルガー:ヴァイオリン協奏曲


エルガー:
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61
4つのピアノ小品 Op.119
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス(指揮)
ロンドン交響楽団
Deutsche Grammophon
474 5042

しばらく多忙で、音楽を聴くどころかエントリーするのも面倒な状態が続いておりましたが、アクセス解析を見ると、更新しなくても訪問してくださる方もいらっしゃるようで、恐縮でございます。

さて、遅ればせながら、ヒラリー・ハーンの新譜であるエルガーのヴァイオリン協奏曲を聴きました。最初はパッとしなかったのですが、10回くらい聴いたら良さが分かってきました。曲に最初馴染めませんでしたので、ハーンへの言及は僅かです。

エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴くのは本盤がはじめて。ヒラリー・ハーンの新譜ということで購入したのですが、一聴しただけでは長大なだけでとらえどころのない曲といった印象。

そもそもエルガーなんて「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らない、「チェロ協奏曲」なども持っているハズだが、ドンナ曲だったかはさっぱり。

そういうわけですのでライナーなどを頼りに知識を仕入れると、ヴァオイリン協奏曲は彼の最愛の友人であるAlice Stuart-Wortley(妻の名前と同じであることから、エルガーはWindflowerと名付ける)に捧げられたものなのだとか。

表向きは、名ヴァイオリニストのクライスラーに捧げられていることになっていますが、楽譜には「ここに...の魂を封じ込める」とスペイン語で書かれているのだそうです。実際1912年にAlice Stuart-WortleyにI have written out my soul in the concerto,Sym.ll& the Ode & you know it. In these three works I have shewn myselfと書き送っているそうですから。

有名な「愛の挨拶」は、二人の婚約を記念した美しい曲ですし、愛妻家で知られたエルガーですのに、Windflowerをはじめとして、彼の周りには少なからぬ女性が登場しているようです。ただ、関係は非常にプラトニックなものであったそうですが。

さて、このようなエピソードが作品解釈上有効であるのかはさておき、改めて聴いてみるならば彼の情熱と憂鬱、老年にさしかかっての回顧や悔恨などがほろ苦く聴こえてくるようですから、先入観というのは恐ろしいものです。

重苦しいオーケストレーションに対してヴァイオリンに与えられた技巧的なフレーズは、抑えがたい感情の本流にも感じられます。そこかしこに聴こえるWindflowerのテーマは、聴いていて切なくなりますね。あんた、そこまで思っていたなら・・・などと考えてしまいます。

しかし、そこは愛妻家で鳴らしたエルガーですから、立ち込める霧のようにほの暗く曖昧とした中に、ふと立ち現れる感情なのでしょうか。控えめであるだけに、美しいのですね。

解説によると、第二楽章のヴィルトオージックなヴァオイリンのフレーズが"トリスタン・コード"で導かれていると書かれています。"トリスタン"はめくるめく破滅への愛の世界ですが、確かに私は第一楽章からトリスタン的な狂おしい雰囲気を感じはしました。ただし破滅には向かいませんがね。

エルガーが人生の終わりに近づいた頃、16歳のメニューインの録音を聴きながらThis is where two soul merge and melt into one anotherと語ったそうです・・・。(ああ、死ぬ前でよかったね)

この第二楽章のヴァイオリンのフレーズなど涙が出そうになるくらいに美しいです。それを支えるバックも見事。解説では伝記作者Michael Kennedyのno matter whoese soul[the concetro]enshrines, it enshrines the soul of the violinを引用していますが、まさに其の通り。エルガーのソウルがヴァイオリンの精へと昇華しているかのよう。

それで、ヒラリーのヴァイオリンなのですが、このような音楽を表現するのに、これ以上はないのではないだろうか、というくらいに美しく、繊細で、慎重で、しかし力強い音楽を奏でてくれています。音色は心が一本通っています。表現にクセはなく、相変わらずテクニックには一分の隙もなく、硬質ながらも仄かな気品さえ漂わせながら、この長大な愛の音楽に正面から挑んでいます。

2004年11月17日水曜日

パウエルの辞任

パウエル国務長官の辞任ニュースが世界を駆け巡っています。イロイロな憶測は乱れ飛んでいますが、ブッシュ新政権がパウエルなきあとでも中道派(ハト派、穏健派ではない)勢力へと舵取りができるようになった、という見方には不安と疑問を感じます。

パウエル辞任は世界情勢を左右しますが、日本的にはアーミテージ副長官や農務長官アン・ベネマンの辞任の方が影響が大きいかもしれません。

私的には「ライスの顔も、そのうち描かなくちゃならないのか」というぐらいの影響しか当面は考えられませんが。(パウエルだって、イラク開戦の頃描いたものです。あまり書くことがないので、「埋め草」でした・・・)

2004年11月7日日曜日

映画:山猫

k-tanakaの映画的箱庭でヴィスコンティの傑作「山猫」が上映されていることを知り観てきました。イタリアの至宝、映像の世界遺産とでも言うべき作品が国を挙げての文化事業として復元され、撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノの監修で何度も改良を重ね今世紀に入ってようやく終了、「イタリア語・完全復元版」として甦った。ということだそうで、堂々3時間6分の大作として劇場に蘇ったことは、それ自体が感動的な出来事と言えましょう。

改めて観ますと、映画の重厚さ、映像の華麗さ、演技の深みなど、全てにおいて圧倒されてしまいます。映画の1/3を占める舞踏会のシーンも圧巻なのですが、シチリアの乾いた風土や、脇役たちの悲喜こもごもの表情などにも人柄がにじみ出ており、どこを取っても完璧な出来です。

配役では没落する貴族サリーナ公爵を演ずるバート・ランカスターが圧巻ですが、甥のタンクレディを演ずるアラン・ドロンの野心を帯びた若さもさすがで、彼の鋭い光があるが故にサリーナ公爵の翳が一層際立っています。タンクレディの婚約者アンジェリカを演ずるクラウディア・カルディナーレは個性の強い顔立ちで、私はあまり好みではないのですが、映画では抜群の存在感です。彼女の存在なくしてこの映画はあり得ないとも思え、好き嫌いのレベルを超えています。あの品のない笑いには、思わずこちらも失笑、いやあ素敵です。

舞踏会のシーンは、もうおなかいっぱい、ウンザリ、というくらいな映像なんですが、貴族たちというのは礼儀正しくも放蕩で、しかも体力があったのですね。ウェストを絞ったドレスを纏った淑女たちと正装や軍服姿の紳士たちが、汗だくになって夜通し踊り続けるのですから。ヴィスコンティにしてみれば、華麗な世界の再現とともに、サリーナ公爵がつぶやく「無意味な会話」というような壮大なる浪費までも表現しつくしたということでしょうか、何ともシニカルです。

「山猫」を観ていると「椿姫」を思い出しましたが、それは華やかな舞踏会のシーンだけのせいではなく、第2幕第2場「あたしたちははるばると訪れた(ジプシーの女たち)」などの旋律を、シチリアの下手な楽隊に演奏させたり、ヴィオレッタのアリアを避暑地の聖堂のオルガニスとに演奏させたりと、映画の中でさりげなくヴェルディしていたからなんですね。フランスのクルティザンの愛の音楽を聖堂にですか。これもヴィスコンティの演出でしょうか、それともヴェルディがそれほどまでにイタリアに溶け込んでいるという査証?

サリーナ公爵がカラヴァッジョかグレゴ風の絵に見入っているシーンも印象的です。自らの死を見つめながらも、それに抗うことなく実を任せる姿。サリーナ公爵の晩年の在り方は、新旧の交代という意味からマーロン・ブランド演ずるゴッド・ファーザーのラストと微妙にダブりました。

映像美ということでは、有名な舞踏会のシーンは蝋燭のシャンデリアなのに妙に明るかったり、影がシャンデリアの光源からはありえない方向からのものであったり、ヲタク的に観るとおかしい気もするのですが、キューブリックが「バリー・リンドン」で使ったようなカメラを、ビスコンティが持っていたら、どうなっていたんでしょうね。

2004年11月6日土曜日

【音盤】ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲

ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を聴いてみました。ショスタコがジャズをどうアレンジしているのか、ということに興味があり購入したのですが、あれれ、これはジャズというよりも「軽音楽」ですね。

明るく軽快な、そしてちょっとノスタルジックでダルな音楽の寄せ集めといったところ。実際にバレエ、映画、劇音楽を集めたもののようです。「ジャズ」ということを期待して聴くと、裏切られますが、軽音楽を愛したショスタコの一面を聴く意味では興味深い曲でしょうか。

ジャズ組曲 第2番は、《舞台管弦楽(Stage Orchestra)のための組曲》とあり、オーケストラに、サックスやアコーディオン、ピアノなどが加わっています。《マーチ》は、間違いなく秋晴れの晴天下での運動会オープニングに最適です。続く《リリック・ワルツ》は、フルオーケストラをバックにしたサックスのテーマがノスタルジックな気分を誘います。ダンス 第1番は後に映画音楽「馬あぶ(Gadfly)」作品97で《祭日》として知られるようになった、これまた脳天気に明るい曲。しかし「馬あぶ」という映画とは・・・!

映画音楽といえばワルツ 第2番は、スタンリー・キューブリックの遺作で、トム・クルーズ、ニコール・キッドマン主演の「Eyes Wide Shut」で使われた音楽。再びサクスフォーンの音色に導かれて曲は始まります。NAXOS解説ではsinuous saxophone melodyとあります、意味深な表現ですね。映画は観たことがないのですが、甘美にして複雑な感情を秘めた秀逸な音楽です。

ところでこのジャズ組曲 第2番ですが、2000年にピアノ譜が発見され、G.McBurneyによって2000年のプロムス・ラスト・ナイト・コンサートで3楽章形式のジャズ組曲が演奏されたとのこと。ショスタコの「ジャズ組曲」は二つあるってことなのでしょうか?

ジャズ組曲 第1番は、3曲構成の小品。先ほどのワルツ 第2番のサクスフォーンのテーマをトランペットが奏でている曲から始まります。こちらはこちらで、放浪する旅芸人がまとう哀愁のようなものを感じます。

この盤にはジャズの名曲である「二人でお茶を」の管弦楽編曲編が最後に納められていますが、なかなか洒落ています。お馴染みの名曲をショスタコが編曲しているとは、とちょっと驚きます。

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲 第1番、第2番他
指揮:ドミトリ・ヤブロンスキー ロシア国立交響楽団
NAXOS 8.555949

2004年11月4日木曜日

映画:2046

ウォン・カーウァイ監督の<2046>を観てきました。木村拓哉が出演しているとか、アンドロイドに恋をするなどの近未来的な映像の宣伝にすっかり騙されてしまいましたが、この映画にSF的なものを求めるのならば、それは100%裏切られます。言ってみれば色男の女性遍歴と、彼が彼自身を求めて内面へと降りてゆく、非常に息苦しい映画なんですから。

何と言っても、カメラワークが異様ですね。2時間以上のこの作品、ほとんどが部屋の中で、それも人物がアップで描かれています。それも、手前や横に大きく部屋の一部が写りこむ形で写されていますので、観客はどこかから部屋を覗き見しているような感覚になります。

色男を演じるトニー・レオンですが、実際彼も映画の中で自分自身の過去を覗き込んでいるという設定ですから、こういう演出もありかなとは思いますが。(彼の役柄も、口髭も私の趣味ではないので、そこらあたりでも感情移入がしにくく、ちょっとつらかったりします)

映画にはアンドロイドなんてほとんど出てきません。もう少し伏線として列車の中でのシーンを重視して欲しいという気はしましたが、メインテーマではないので仕方のないところでしょうか。しかしアンドロイドが、その瞬間では気持ちが分からない異性へのアナロジーなのではないかと気付かせてくれます。

「俺と一緒に行かないか」と木村拓哉やトニー・レオンは繰り返します。しかし、それに相手の女性は無言で答えるだけ、彼らには自分がこんなにも愛しているのに、彼女らの拒絶の理由が分かりません。別れた数時間後に、彼女たちが悲痛の涙を流していたとしても、彼にはそれがわからないという意味で感覚が麻痺していて、其の瞬間には喜怒哀楽を表現できなくなったアンドロイド(数時間後に笑ったり泣いたりする)と相似であるということなのでしょうか。

過去に、思いを寄せた女性から拒絶された経験を持つ主人公トニー・レオンが、その後、次々と女性遍歴を繰り返すのも、宿泊先で知り合った日本人男性に自分の昔の姿を重ねるてしまうのも、自然な成り行きであるのかもしれません。

だからと言って、トニー・レオンのチャン・ツィイーに対する酷薄な態度は、感情的に許せなかったりするのですが、まああのくらいの態度を取れなくては「女遊び」などできず「色男」になどなれないのでしょう。それでも彼の心に忍び寄るのは、いつまでも離れない昔の想いであり「失われた愛」をもう一度みつけるために<2046>に旅立たなくてはならないのだとするのならば、彼の人生もそれほど華麗というわけではなさそうです。

彼らが、あるいは彼女らが何を打ち明けたかったのか、映画の中で何度か繰り返される「秘密の打ち明け方」。すなわち森の中の大きな樹の下に穴を掘って、秘密を埋めてしまうということ。そうまでして、自らの気持ちを押し隠し、そして解放せずにはいられないという狂おしいまでの欲求。彼らが求めた<2046>は主人公の書く小説の題名でもあり、書くという行為が彼の心を解放するのではありますが、しかし彼には遂に「ハッピーエンド」を書くことができないのです。娯楽小説ならば死んだ人間を再登場させることもした彼が、100時間も原稿用紙に向かってもハッピーエンドを思い描けないということは、救われない結末です。

映画はかように、派手さはなく内面的な故に、贅沢なまでにアジアのスターを結集させてはいるものの、ウケない人には全くダメなようです。同監督の<花様年華><欲望の翼>などを観ている方(私は観てない)には、更に評価は低いようです。個人的には充分楽しめましたし、チャン・ツィイーの魅力や、コン・リーの圧倒的な存在感など、アジアの女優の演技を鑑賞する意味でも価値はあったかなと思います。

あと、音楽も良いです。フルートの奏でる旋律は、楽譜が欲しいくらいです。

もひとつ、いくら宣伝とは言っても、この映画の予告編はムチャクチャです、これほど予告編と内容が乖離している映画も珍しいんではないでしょうか>え?映画を知らない人間の勝手な思い込みだって?

追記
俺の右手にいた、映画観ながらいで始終ケータイメールしていた女、映画館ではマナー守れよな。そうそう、木村拓哉出演のせいか、女性一人客が目立つ映画でした。彼女らの期待は果たして満たされたか?

2004年11月2日火曜日

[ニュースメモ]イラクの香田氏殺害事件


イラクの香田氏事件について。


  • 今回は仕方ないという風潮、自己責任と自業自得
  • 24歳の世界認識の甘さ=日本の認識の甘さ、少しは情勢を知る者ならばイスラエルからイラクには入らない
  • 海外のメディアの反応、日本人の態度の「冷たさ」
  • 小泉首相は「人質を殺すな」ではなく、「テロと戦う」というメッセージをいの一番に出したことの意味
  • 世間の酷薄さと日本人の酷薄さ
  • 自衛隊をイラク派遣していなければ起こらなかった~という論理に欠けているもの
  • 彼を殺した犯人は連続殺人鬼と称される重要犯罪人ザルカイとされるが、香田氏のような無知を生み出したのも日本である



2004年10月28日木曜日

iPod Photo とか ネットラジオとか


iPodがついにカラーLCDを搭載したモデルを発表したとのこと。

iPodは魅力的ですが、ディスプレイのカラー化や画像を持ち歩くという欲求は私にはない。ビデオ再生機能などもっての他なのですが、AppleのCEOであるSteve Jobsが、『
「iPodに入れるビデオコンテンツなど誰も持っていないし、たとえ持っていたとしても、スクリーンが小さすぎてよく見えない」とJobsは述べ、iPodはビデオには「相応しくない場所」だと付け加えた。
』というのには納得。

そういう記事を読んでいたら、オペラキャスト10月26日のエントリで「SONY VS i-pod  勝ち目なし?。。」というエントリーが目に付く。業界の思惑や新しい情報に疎い私は、mp3やATRACなどのフォーマットの違いによって機種が限定されるのは、コンシューマーにとっては不便なだけであり、あまりにも売り手市場の論理でないかと反発を覚えています。




mp3をATRACに変換するのは、それほど面倒ではないとか、そういうモンダイではなく、どうして業界として統一フォーマットができないのか、あるいは、なぜ異なるフォーマットでも再生できるようにしないのか、ということこそモンダイなのではないかと思うわけです。(覇権争いという点では、企業戦略としてはあると思いますよ)。


昨今のDVDをめぐる二つの陣営も、利用者無視のまま進んでいますし、ひいては日本プロ野球の低レベルなゴタゴタだって、あまりにも業界の論理が前面に出すぎてはいないかと・・・。

iPodは持っていないのですが、iTunesをPCにインストールして、PCの中の音楽ファイルを管理することは可能。インストールして分かったのですが、SONYの提供するSonicStageよりはるかに使いやすそう。それにネットラジオをサポートしているのも便利。


ということでやっと本題で、最近はプライベートでPCを使っているときは、radioioClassicaをかけながらということが多くなりました。他と比較していないので何とも言えませんが、メシアンやコープランドなど現代モノも多く流されていて楽しめます。つーか、こんなに素敵な曲も知らないのか、と改めて無知ぶりに恥じ入っていおり、まったくもって、音楽の感想を書くレベルに到底達していないなと・・・思うわけです。


にしても、これから寒くなる季節、iPodにもセーターが必要ですね。札幌では今日、初雪があったらしいです。いよいよ冬到来ですな。(酔って書いたら支離滅裂>酔ってなくても意味不明ぢゃん!)


2004年10月27日水曜日

【音盤】アンネローゼ・シュミット/ブラームス:作品119

ブラームス:
4つのピアノ小品 作品119
4つのピアノ小品 Op.119
アンネローゼ・シュミット(p)
1979年11月18日/19日、日本コロンビア第一スタジオ
DENON COCO-70536

CD棚をごそごそやっていたら、アンネローゼ・シュミットさんの弾くブラームスの4つの小品 作品119がみつかりましたので、ケンプの盤と比べてみました。いやあ、全然印象が違うので、びっくりしてしまいましたよ。

アンネローゼ・シュミットの弾く作品119

ああ、なんてことでしょう。あんなにも穏やかだったケンプの弾く作品119とは全く違った世界がここにはあります。ひとことでいえば、生きがよく弾けるような生命感に満ち溢れた、力強い音楽に仕上がっています。迷うような寂しさよりは、強靭な精神の中に秘められた孤独を感じるような演奏で、ある種の凄みさえ感じます。枯淡の中に迷ったり、昔を思い返すような音楽ではないですね。(ここらへん、かなり主観独断的)

アンネローゼ・シュミットは1936年生まれで旧東ドイツを中心に活躍したピアニスト。この演奏は1979年のものですから43歳頃の時の演奏になります。何度か日本にも来ているようで、美貌のピアニストとして有名であったとか。

それにしても、シュミットのピアノは強烈、というか、こうして比べてみるとケンプがやっぱり「甘い」のか、それを「味」と感じた指のもたつきも、リズムの乱れも「ダル」に聴こえる、表現は聴始終「泣いて」いるようでさえある。

それに比してシュミットは硬質な響きが印象的で、スピーディーに進みます(第3曲:ケンプ1:42、シュミット1:16、第4曲:ケンプ5:10、シュミット4:26)。余計な誇張やわざとらしさはあまり感じない。ストレートな表現、あるいは「虚飾」がないと言っても良いかもしれません。2楽章最後の、ほのかな花が咲いたかのような柔らかな表現を聴くと、バリバリ弾いているところよりも凄いと思います。3楽章から4楽章にかけては打鍵も強く圧巻です。鄙びた味わいなどどこにもありません。

ちなみにこの盤のメインは、ケーゲル&ドレスデン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第2番、DENON CREST1000で今は求めることができます。

2004年10月24日日曜日

展覧会:「興福寺国宝展」

東京藝術大学 大学美術館で開催されている「興福寺国宝展」を観てきました。

阿修羅像で有名な興福寺は古都の奈良県を代表するお寺で、創建依頼、平安末期の戦火や落雷により幾たびも灰燼に帰してきました。鎌倉時代から復興がはじまり、堂宇の再建や造像がなされており、この復興の中で運慶をはじめとする「慶派」の優れた仏師が造像を担当しました。興福寺は平成22年(2010)に創建1300年を迎えるに当たって様々な事業が計画されており、今回の展覧会もその一環とのこと。
まあ、そういう面倒なことはさておき、パンフレットにある金剛力士像や無著菩薩像にお目にかかれるというので、楽しみにしておった次第です。

展示は大きく二つに分かれているのですが、何と言っても圧巻は3階の諸仏たちに尽きます。入って迎えてくれるのが、上に示している運慶の手になる国宝 無著菩薩立像(右)と世親菩提立像(左)です。


無著は五世紀頃に北インドで活躍した僧で世親とは兄弟。穏やかななかにすくとした威厳と敬虔さ、そして静寂さ、それでいて信仰心に裏付けられたゆるぎなさと力強さ。どこにも隙の見当たらない立像を目にしますと、思わず溜息がもれてしまいます。顔の表情といい、法衣の流れといい、全く持って木彫技術の素晴らしさには目をみはります。

完成当時はおそらく彩色がされており、現在私達が目にする像とは全く違ったものであったとは思うのですが、時代を超えて伝わる力には改めて感服いたします。

これ以外にも康慶作とされる円陣を組むように拝されて展示されている四天王立像にも、その迫力に圧倒されます。踏み潰された邪鬼たちの表情はノートルダムの悪魔を彷彿とさせます。こちらも当時は極彩色であったろうことが伺われ、当時の姿を思い浮かべながら憤怒の表情に魅入ってしまいます。

運慶の三男である康弁作の国宝 龍燈鬼立像(左)は、これまた珍しい像。四天王に踏み潰されてた邪鬼が立ちあがり、灯明を頭に支えているというもの。首の周りには蛇をまとっています。情けなさの中に愛嬌のある表情で、諸仏の中でもひときわ観覧者に人気を博しているようでした。筋骨隆々の小柄な体にフンドシ姿が何ともユーモラス、踏みつけられた邪鬼の矜持を感じます

パンフレットに示されている国宝 金剛力士像 阿形も圧巻の一言。正面から、側面から、背面から、さまざまな角度から眺めましたが、まるでロダンかミケランジェロかと思うような筋骨隆々の造形美。腰にまとった布に描かれた装飾も見事。

という具合に、仏像が好きな方には、けっこうたまらない企画ではないかと思います。そのほか地味ではありますが、紺地に金文字で書かれた経典(名前は失念)や春日版板木など、経典ファンも充分満足できる品揃えです。あまりに有名な阿修羅像が展示されていないのは残念でしたが「鎌倉復興期のみほとけ」というテーマですから、いたし方ありませんか。

それにしても、こんな展覧会でも結構込んでいました。NHKが宣伝したというせいもあるのでしょうが、老いも若きも仏像好きな方というのは多いのですね。

2004年10月23日土曜日

予感・・・

あまり好きな言葉ではないですが「勝ち組」「負け組」とか「二極化」という言葉を少し前から目にするようになりました。おそらく小泉政権発足と機を同じくして登場した言葉かと思われますが、彼の推し進めた政策の結実でもあります。あるいは「東京一極集中」「地方切捨て」という構図であると指摘する人もいます。


確かに東京は、バブルの頃の東京を知る者にも目を見張らせるほどの変わり方をしています。そこに現出した風景を見ると、いやがうえにも「二極化」の傾向は進んでいることを思い知らされます。




例えば都心のマンションも地価と建設費の下落により、バブル時点よりは買い求めやすいものになりましたが、嗜好性はより高級化しています。オフィス街に近い高層マンションや巨大再開発、あるいは百貨店のリニューアルオープンのあり方、銀座、青山を中心とした海外ブランド店の進出などを眺めていますと、華やかさに幻惑されつつも、いったいに、これほどの需要を誰が消費し尽くせるのだろうか、と一瞬溜息が出ます。


その一方で、依然として安売りに近い世界も存在するわけです。ただ世の中は、雰囲気として高級にシフトを始めたとように思えるのですが、その果実を全ての人が享受できるほどには甘くないようです。


木村剛氏はブログでも宣伝しているように「ファイナンシャル・ジャパン」というビジネス誌を刊行しました。


本物志向のビジネスパーソンをターゲットとした雑誌はいくつもあります。しかし、実際にビジネスパーソンが必要としている企業経営情報や、資産運用のための実践的な情報が提供できている雑誌はあったでしょうか。この疑問点から、「フィナンシャル ジャパン」はスタートしました。

読者は「一流とは何か」を希求する、知的レベルの高いビジネスパーソンやアクティブな投資家の方々です。みなさんがほしくてもなかなか手にすることができなかった奥の深い情報を、私の情報ネットワークを駆使してお届けします。ステイタスの高いエスタブリッシュな経済情報誌の新創刊にご期待ください。

KFi代表 木村剛



というウリです。(一流の=勝組の)ビジネスパーソンと、投資を出来るほどに裕福な投資家のための雑誌と明言してるわけです。明確なセグメンテーションです。立ち読みをしてみましたが『月間!木村剛』という、それより以前に創刊した実験誌とは全く趣の異なる、本格的なビジネス誌です。ここまで質実に構成するとは、と驚きました。


ハナシは変わりますが、Harvard Business Review 11月号(日本版)という雑誌で興味を引いたのが、「新富裕層のマーケティング」という記事でした。雑誌ではアメリカにおける世帯所得分布の変化を示し、新たな消費者層=新富裕層が登場したことを説いています。日本の所得分布は、アメリカと異なっているのではと予想するのですが、しかし、日本においても新たな消費者層と消費イメージが形成されつつあることは、何となく感じます。


それは、逃げ切ることのできた団塊の世代だけではなく、ディンクス的な生き方をする世代、あるいはライブ・ドアや楽天の成功ストーリーを追う者達の出現に繋がるかもしれず、なにやらひたひたと、しかし急激に、気付いたら腰まで水につかっていたというような時代の変化を予感するのでした。


新たに商売を始めるなら、この新しい消費者層をターゲットにすることが、一つの鍵なのではないだろうか、とは誰もが考え始めていることかもしれません。最近の雑誌創刊ラッシュもこの流れと無縁ではありますまい。


しかし、翻ってわが業界・・・うーーーん。古い、遅い、重い、高い、疑わしい。>聞くな!触れるな!

2004年10月21日木曜日

クラシック ポータルサイト2

さきほど、Google Newsのようなブログ検索型クラシック・ポータルサイトについて書いたばかりですが、CNET JAPANの[梅田望夫・英語で読むITトレンド]インターネットが埋もれた名作を掘り起こす2004年10月18日というエントリーを読み、なるほどと思いました。

梅田氏は、埋もれた名著がブログで口コミ的に拡がりることによる復刊の可能性を指摘しています。「レコード芸術2004年10月号」では、タワー・レコード&山野楽器&新星堂が新レーベルを作ったことが掲載されていました(「チェント・クラシックス」という名前)。埋もれた音源、メジャーなところではおそらく発売しないようなニッチな、それでいてファンにはこたえられない音源を出すという企画だそうです。

このような企画発案は、個人サイトで「廃盤を復活させよう」などとしてゲリラ的に散見はされます。要は隠れたニーズの把握と新たなビジネスチャンスというハナシなのでしょう。amazonのよううなメジャーなサイトが主導するのもひとつの手ですが、もう少し「中立性」を持ったサイトがニーズを掘り起こすということが今後あるのかもしれません。

Googleのサイトの凄いところは、その「中立性」(純粋にではないが)をイメージさせつづけているところでしょうね。あくまでもユーザー重視という顔をしている。

クラシック ポータルサイト

クラシック関連の参加型なポータルサイトができないか期待しています。

例えば世にCDレビュを書いている方はたくさんいるのですが、これだけ膨大なサイトの中から適切なレビュに巡り合うということは難しい。私の場合、時間もないし面倒なので、定期的に巡回している有名なサイトのレビュを参考にすることが多のが現実です。

amazonなどでは、カスタマーズ・レビュを書くことができるのですが、短評しか掲示されておらず、頻繁に訪れているのでなくては、どういう嗜好の方のレビュなのかがわかりにくい。そこで網羅的なポータルの登場です。

ポータルサイトは人為的なものでは主観が入ったり、手作業としての限界がありますから、目指すはGoogle Newsのような自動検索です。

CDレビュのポータル化に賛同するウェブマスターなり書き手は、XMLソースか何かにレビュをするCDに付与されたユニークなIDと、ポータルに参加することの意思表示であるタグを埋め込んでおく。ポータルサイトは、自動検索ロボットが定期的にネットの海を底引き網漁船のように探りまわり、タグの埋め込まれてあるレビュを所定のCDにリンクつけてリスト表示するという具合です。

相互に約束を設けることで、参加不参加の意思表示もできるようにしておくわけです。レビュには読み手の評価を反映できるようにしておき、参考になったレビュは上位に、複数のレビュで人気のある書き手も上位にランキングするようにプログラムしておきます。Google Newsと同様に、あくまでもポータルサイトはリスティングのみ、詳しくはそれぞれのウェブマスターのサイトを訪れるようにします。

amazonのカスタマーズ・レビュをトラックバック可とするだけでも随分と変わるような気もしますが、ゆくゆく読みたいのはCDレビュだけでなく包括的なクラシックの「話題」だったりしますので、やはりブログをジャンル別に自動検索するのが良いかなと。

こういうことを考えていたら「ネットは新聞を殺すのかblog」でも10月18日に「グーグルがブログ専用の検索サービス開発中」というエントリがあり、考えるヒトは考えているのだなと感心。

2004年10月18日月曜日

【音盤】ケンプ/ブラームス:後期ピアノ作品集


ブラームス:後期ピアノ作品集
ケンプ名盤1000 ピアノ名演第2集
3つの間奏曲 Op.117
6つの小品 Op.118
4つの小品 Op.119
ヴィルヘルム・ケンプ(p)
DG POCG-90117(457 855-2)

今日は休日にして久しぶりの快晴、気持ちの良いくらいの秋晴れです。休養をたっぷり取っているので朝6時過ぎには目が覚めてしまいます。富士山がくっきりきれいでした。

さて、ヴィルヘルム・ケンプが昨日エントリーしたビレットのメンターであったということで、思い出したように引っ張り出して聴いてみたのがブラームスの後期作品集が納められた本盤。

一般にブラームスの後期ピアノ作品というと116番~119番を指すことが多く、これらの曲は派手さはないものの甘美さと寂寥感がないまぜになった曲で、秋深まる季節に聴くにはもってこいです。

この曲たちには枯淡とか訥々としたというような表現を冠したくなりがちですが、よく聴くとブラームスの複雑な心境を吐露しているようにも思えます。

さまざまな思いがよぎり、昔を思い出すかのような雰囲気が漂っているかと思えば、何かから解放されたかのような自由さを感じさせたりもします。それが得も言われぬ歌となって奏でられるのを聴いていると、心をじかに撫でられているような気にさえなります。これはケンプのピアノのなせる技なのでしょうか。ブラームスが何から解放され何を悟ったのか、それは分かりませんが聴いていて飽きることがありません。

それにしてもブラームスが晩年に至って、この曲を書くような境地に至ったことは興味深いものがあります。特に作品119は弟や姉に先立たれ、知己も少なくなってきた孤独感が投影されているといいます。119-1でのまるで水滴の響きのような旋律は、ブラームスがクララに宛てて「非常にゆっくりと、ためらうように弾いて下さい」と注文を付けたと言いますが、まさに時間が過ぎるのを惜しむほどの音楽です。119-4の力強さと抒情性の振幅の美しさには涙をさそいます。これらの曲は、ベートーベンが音楽の極北にまで達したのとは対照的といえるかもしれません。

録音は1963年の演奏ですから、ケンプが70歳近くでの演奏です。ケンプのピアノは下手だとか、ブラームスの後期作品のような曲はケンプではダメだという意見もあるのですが、どうなんでしょう。他と比較しているわけでないのでよく分かりません。でも作品117など適度なテンポ感といい、どこか甘いアンニュイな雰囲気とか非常に良いと思います。

2004年10月17日日曜日

ICHIRO

風邪のせいで体もダルく昨日は12時間も寝てしまう。今日もイマいちヤル気が起きず、部屋の掃除したり散髪に行ったりで、ブラブラと時間を過ごす。

21時のNHKでイチローが記録達成に向けて自らの心境を語る番組を見る、相変わらずクール。淡々と語る中に自信と闘争心が透けて見るが、それらが彼の野球に対する真摯な姿勢に依拠しているせいか彼を好意的に映し出す。


記録達成時点の映像も改めて見たが、観客総立ち、ベンチからも祝福して駆け寄るシーンはメジャーに感心のない私でも素直に感動させられる。記録を破られたシスラーの家族も「イチローによって祖父が蘇り、改めて偉大さを認識している」と語っているのは印象的だ。


些細なことだが、NHKは何故に今でも「大リーグ」と称しているのか? 今時小学生でも「メジャー」と言っているのではないだろうか。
(イラストは番組を見ながら描いたのだが、熊五郎みたいだよ、とっつあん)



2004年10月16日土曜日

【音盤】リゲティ:ピアノ練習曲集 第1番&第2番

風邪で鼻水はとまらず喉も痛く頭が朦朧とするなか、今週は夜のお付き合いが何度もあったりで、すっかり体調はガタガタ。本日の会議もほとんど睡魔と闘うという情けなさです。

頭を少しはすっきりさせようとHMVで何気に手に取ったのがこの盤。『脳味噌がパニック!複雑リズムの極地!!』と記されているリゲティのピアノ練習曲集 第1番と第2番ですが、果たして聴いてみれば、まさに脳天を棍棒で撃ち下ろされたような衝撃。

嗚呼、私はリゲティも聴かずに今まで生きてきて、やれラウタヴァーラだのカプースチンを述べようとしていたのか。初めて聴いた偉大な作曲家を評せるはずもなく、ただただ悪魔的な鍵盤の技から生み出される強烈なリズムと複雑な音色に陶酔するのみ。

彼にしては「現代音楽的」ではなく、聴きやすいという評であるらしいものの私にはきわめて「現代的」響き。作品集の中で独立して演奏されることも多い「無秩序」「ファンファーレ」「ワルシャワの秋」「魔法使いの弟子」「悪魔の階段」あたりを繰り返し聴く。変化に富んだ音が様々に色彩を変えながら流れるのをぼおっと聴いていると、クラシックの曲を聴いているような気にならないワクワク感があります。「あ、やられた、ここでそう来たか」「うひゃア、なにそれ」とか、まるでビックリ箱です。

ピアニストはビレット(Idil Biret)というアンカラ生まれの女性。コルトーとケンプ(ケンプは彼女のメンター)の弟子であるとのこと。もはやピアニストに対し「女性にしては」などという形容詞を付けることの無意味さを感じます。他と比較したわけではないものの、力強さと独特の叙情性が伝わってくる演奏。驚きながらも今の季節、内省的な気持ちにもしてくれます。ただあまりに有名らしい「悪魔の階段」はイマひとつ衝撃的ではなかったのですが。

リゲティ
ピアノ練習曲集 第1巻&第2巻
  • (p)Idil Biret
  • 2001 NAXOS 8.555777

2004年10月15日金曜日

凋落

10月14日の日経新聞一面は象徴的な見出しが躍っていました。ひとつは『ダイエー機構に支援要請』であり、もうひとつは『堤義明氏 全役職を辞任』です。かつての日本を代表していた企業の凋落を見るのは、複雑な気持ちがあります。この2社を親会社とする野球チームが、どう考えても納得のいかないパ・リーグのプレイ・オフを戦ったということも、ある意味で象徴的であったのかと、あとで振り返ったときには思い出されるかもしれません。




10月15日の日経新聞の春秋では


ある種の伝説化した尊大さを、経営者のカリスマ性の源泉にする時代はとっくに終わっている。法律は守る。借金は返す。情報は公開していねいに説明する。こんな当たり前のことが、問われている。


と書いています。カリスマ経営者の時代が本当に終わったのかは分かりません。ただ、ひとつの時代がどうやら世代交代という形で動きつつあることだけは実感できます。世間をにぎわせている楽天とライブドアは、その表れであるかもしれません。


同日の日経スポーツ欄には、ライブドアと楽天のプロ野球新規参入に対する第二回目のヒアリング結果が報じられています。西武もダイエーも(かつての日ハムを含めても)企業として破綻しているというのに、既得権益側については言及せず、新規参入企業を評価する理不尽さ。あるいは、迷走するダイエーに対する再建計画を、(大口融資をしているとはいえ)UFJ銀行が指導するという不可解さ。


ねじれまくった産業界の構図の中に、外資の足音だけがひたひたと聞こえ、このごろやたらと市民権を得始めた「富裕層」という言葉が、うつろに響いてくるのは考えすぎでしょうか。

2004年10月14日木曜日

米大統領選の行方と防衛構想

アメリカでは来月の大統領選挙に向けてブッシュとケリー候補がTV討論などで熱弁をふるっています。海外のWeb Newsを見出しだけでも見るとはなしに見ていても、毎日彼らの話題で持ちきりなことが分ります。

今回の選挙は「戦争最中の選挙」であることから、「イラク戦争」を含め今後の防衛についてどう考えているのか、今後4年間で何を実現させるのかを占う点でも、日本にとっても無関係の話題ではありません。

しかしどうなんでしょう、防衛に関して言えば、日本はアメリカ追随の姿勢から、武器輸出三原則の見直し、憲法改正、独自の防衛力構想をも含め、何か議論がかみ合っていないような気がしています。「テロとの戦い」というのを最大限許容したとしても、ハード面でもソフト面でも冷戦時代をひきづっていないかと。その最たるものがMD(Missile Defence)だったりします。

これについて、10月9日付けのJMMは「アメリカの選択、日本の選択」と題しこの問題は日本の産業競争力を損なう危険があり、計画に参加すべきではないし、また武器輸出三原則の緩和も日本経済を繁栄させるという観点から見て、下策だと書いており、納得させられました。

「産業競争力を損なう」という主張は、防衛産業という国家機密に類する産業は国際競争力が働かないためであるとし、以下のように書いています。

戦車や軍用機、そしてハイテクの塊のようなMDなどに至っては、「軍事機密」という隠れ蓑の向こう側で、一体何が妥当な価格なのか、社会的なチェックは不可能です。こうした環境は日本経済の不得手とするところです。MDプロジェクトにおいて、アメリカから強く誘われるまでになった日本の技術力は、民需の過酷な価格と性能の競争によって養われたことを思うと、政治と軍事の影に隠れた世界では、コストと性能という板挟みの中で戦う緊張感を維持することはできないと思います。

MDによる均衡の崩れとか、MDの実質的な効果とか、対テロにMDが必要かとか、果てしない軍拡競争というかつての冷戦時代にもあった技術的問題も被さってきます。北朝鮮の脅威を最大限に考えたとしても、得策かどうかは分りません。

10月12日Washington PostのOP-EDでもDavid Brooks氏は、大統領選挙における候補者の主張「赤字の削減」と「軍事費の拡大」の矛盾を鋭く突いており、MDについても以下のように述べています。

A starting point for defense budget skeptics is national missile defense. The Bush administration plans to spend $10.7 billion this year in a rush to deploy a system that even some of its own experts say isn't ready. That spending could be cut in half, to allow the testing for a system that would eventually work against potential adversaries such as North Korea or Iran.

David Brooks氏はMDのほかにも冷戦時代を踏襲したような無駄な軍備について指摘していますが、日本がアメリカの軍事費までをも肩代わりをするようなことに、みすみすなってしまうことは避けてもらいたいものです。

2004年10月9日土曜日

「サマワの日本・イラク友好記念碑に爆弾」asahi.com

asahi.comを斜め読みしていたら、こんな記事が。

自衛隊が被弾しなくて、よかったですねと思う以前に、自衛隊って、サマワでこんなモン作ってるのかよっ!

【音盤】オズボーン/カプースチン:ピアノ作品集

今週の東京は地震に台風ですか、休日はひどい天気になりそうでウンザリです。今年最後の三連休ですのにね。(これが終われば、そろそろ「忘年会」の声さえし始めるような気配です)


ということで、今日はオズボーンの演奏です。
ピアノ・ソナタ 第1番(ソナタ・ファンタジア)op.39
ジャズ・スタイルによる24の前奏曲集op.53より
ピアノ・ソナタ 第2番op.54
スティーヴン・オズボーン(p)
hyperion MCDA67159

オズボーンは1971年生まれのイギリスのピアニスト、アムランに先立って1999年9月に録音したのがこの盤です。二つのソナタ(No.1、No.2)とジャズ・スタイルによる24の前奏曲集から5曲をチョイスした構成。

オズボーンのピアノを聴くのは初めてです。アムランほどの自在さは彼のピアノからは感じられませんが、アムランに馴染んでからオズボーンを聴きますと、アムランの演奏が鮮やかすぎるせいでしょうか、こちらの演奏は大人しく堅実に聴こえます。もっとも聴き手の体調によってはオズボーン盤の方がしっくりくるときもあるかもしれません。アムランとオズボーンを比較するのも愚なようですが、アムランが「ドライブ」しているとすれば、オズボーンは「ライド」と言ったところでしょうか。

オズボーンがソナタ第1番、2番をhyperionに録音してしまったので、アムランの演奏が録音されないと嘆く方もいるようですが、私は結構楽しく聴くことができました。オズボーンの演奏がどうこうというよりも、カプースチンの曲が良いです。

ピアノ・ソナタ第1番は1981年の作品、カプースチンはこの曲を作るまでに幾つもの曲(コンチェルトを含む)を作曲していますから、ソナタへの着手は彼のキャリアを考えるとかなり遅いようです。そこらあたりの事情をオズボーンはCould it be that, intimidated by his predecessors, he shied away from the sonata, as did Brahms from shmphony?と推測しています。(ピアノ・ソナタは現在では13番 Op.110まで作曲されています)

ピアノソナタ第2番は、特に第一楽章がオズボーンの演奏では指定ピッチよりも遅すぎて、精彩を欠いているという評も目にしますが、他者の演奏比べているわけでもないので、彼のテンポと曲作りが私には刷り込まれてしまいました。

二つのピアノソナタはかなり秀逸な作品だと思います。ジャズのエッセンスをクラシックに当てはめたとかいう表層的なものではなく、クラシックの曲としての構成美と美しさが、ジャズの自在さを獲得して羽ばたいているかのようです(うーん、どう書いてもうまく伝わらない、聴きなさい)。「ジャズとクラシックの融合」と書いたときに感じる「胡散臭さ」は微塵もない厳格なる曲です。アムランやカプースチン、その他の演奏者がどう弾くかは興味深いです。

2004年10月7日木曜日

ネットとマスコミ なんちゃらかんちゃら


マスコミとネットに関して考える機会を持たせてくれるエントリーがいくつかありましたので、忘れないうちに書いておきます。

(以下個人的メモ)




��月にGoogle News(日本)が始まり、通勤途上では日経を、デスクに着いたらとりあえずGoogle Newsを立ち上げるようになりました。


そんなおり「擬藤岡屋日記」でgoogle日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているとのエントリーがありました(Unconvincing algorithm [2004/10/2 18:40] )。それを受け「ネットは新聞を殺すのかblog」において、Googleニュース(日本)のリンク先リストを公開しているブログが紹介され(Ceekz Logs)それを閲覧したところ、大手新聞社は朝日と日経だけがGoogleのリンクを承諾しているのみ、これではニュースソースが偏るわけだと納得した次第です。海外発信の記事はGoogle News(海外)や、それこそロイターやAPを当たった方が早いですが、英語が苦手な私には、Google News(日本)は、そこそこ便利なサイトであります。


ネットに常時接続している人の中には新聞を購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社も新たな収益モデル構築に頭を悩ます必要に迫られているのかもしれません。先週末の朝日新聞(紙面)では、イギリスの新聞各誌が「タブロイド」版にサイズを変えることで売上を確保(伸ば)しているという記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで購読者にはウケているそうです。エスタブリッシュな新聞社は、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革であったと書いていました。日本のみならず、各国とも苦労しているようです。


tsuruaki_yukawaさんのブログタイトルの通り「ネットは新聞を殺すのかと」いう議論がありますが、ウェブニュースあるいはブログの隆盛によっても新聞がなくなることはないだろうことは、tsuruaki_yukawaさんの「新聞が本当になくなってもいいの?」というエントリーによくまとめられています。Google NewsもYahoo Newsもブロガーも自らが取材して記事を書いているわけではない以上、情報の監視者ではあっても発信源ではないようです。


そのニュースにもしかすると裏があるのではないかということを多くの人が気付き始めています。「サンデープロジェクト」などのニュース解説番組に人気のあるのも、奥様方のものであった「芸能ニュース番組」が政治を取り上げ始めたのも、タテマエだけ公正公平なことになっているマスコミ情報に対する疑問と、より深い情報に対する要求から支持されているのだと思います。その延長線上で、良質なブロガーによる独自の視点が、ニュース理解の助けになってきています。


こうして俯瞰しますに、ネット対既存マスコミという観点ではなく相互がコラボレーションすることが今後重要であると思うわけで、そんな中「週刊!木村剛」の動きは若干の疑問があるものの、見事に時流に合った取組みだと感心します。今後の動きには更に注目したいところです。


ただ彼が、10月4日のエントリー(ネット有名人vsリアル有名人:テレビは見ないがネットは使う [2004/10/4 9:00])で、『40代以上の私の世代では、おそらく「テレビは見ないが、ネットは使う」という人はほとんどいないように思います』と書いているのは、どうなんでしょう。TVの作り手は明らかに40代をターゲットにしていませんから、スポーツを別とすると(これさえ酷い放映の仕方ですが)観るに耐える番組は極めて少なく、TVでニュースを見るくらいならウェブ・ニュースという選択は、よくあることです。ダブルスクリーンという言葉も目新しいことではありません。まあ、TV番組のことはさておくとしても、今後ネットから情報を得る比率が高まることには異論がないでしょう。


重要なのはニュースソースの質にあるわけで、器が重要なわけではありません。私が新聞に期待するのは、新聞記者の徹底した取材と自のソース源に基づく信憑性のある記事、そして新聞社としての独自の視点からの解説となります(政治的プロパガンダは困りますが、判断は難しい)。だから社説には注目していますし、blog::TIAOにあったような(新聞社Webサイトの「社説」がどんどん隅の方へ ・・・サッカー・アジア杯「反日」批判の情報コレクトとして[2004/08/05日 11:16])社説なんて読まない、という読者とは少しだけスタンスを異にしています。


新聞は週刊誌と違って家庭に浸透しており良識が求められる故、「新聞が書けない」内容を週刊誌が補間しています。また政治的主張(死後としてのイデオロギー的なもの)はオピニオン誌がその役割を担っています。しかしネットがこれだけ普及してしまうと、そんな垣根やタブーはタテマエ論になりつつあります。ニュースを起点として、質の高い多角的な紙面作りができていれば、有料サイトでも登録しますし、紙面であっても購読すると思います。今のままでは金を払ってまで定期的に読みたい媒体が、あまりないということでしょうか。

【本棚】堀江貴文:「稼ぐが勝ち」 (立ち読み)

近鉄を買収する前に広告的な意義は充分に果たした感さえあり、いまやすっかり有名人になってしまったライブドア社長 堀江貴文氏の「稼ぐが勝ち」を立ち読みしました。

何とも実も蓋もない本です、彼のポリシーはタイトルの通り「稼ぐ」ことで、それが「勝つ」ことに他ならず、それ以上でもそれ以下でもないからです。これは私のような「旧態依然のオヤジ世代」にはなかなか馴染めない感覚かもしれません。なにせ「中流意識の欺瞞と幻想」を当然視し、「金を稼ぐ」ことに多少の罪悪感を覚え、「社業」とは何らかの形で「社会に貢献」することであると教えられてきたのですから。

堀江氏の考えはごくシンプルで「金が全て」「金になることは何でもやる」です。ポリシーもこだわりもありません。旧世代の人間達が、モノを作ることで結果的に金を稼いできたような考え方ではなく、金を稼ぐことありきなのです。いえいえ、今までだって資本主義の企業ですから、「モノ作りが原点」とか「社会のため」とか言っても、それが欺瞞でありタテマエ論であることは百も承知です。しかし、会社人にはそのタテマエ論が必要とされていたわけです。

彼のオソロシさは、そんなもの一切無用と言い切っていることです。堀江氏個人に対する印象とか感情論的なものもありますが、つまりは旧世代の人間とは立っている土台が異なっているということです。

考えてみれば日本はやっと資本主義的な企業風土になりつつあるのかもしれません。私らが学生の頃はマネーロンダリングなんて知りもしませんでしたし(今でも知らん)、MBAで経営を学ぶなんて発想もなかったです。時代は変わったつーか・・・

1時間もかからずに立ち読みできます、わざわざ買って印税稼がせるほどの本ではないですが、堀江氏に興味のある方はどうぞ、若い人にはインパクトを与える本であるかもしれません。

2004年10月4日月曜日

Google Newsの衝撃2

9月にグーグル・ニュースが始まり、私の朝一番はここをざっと閲覧することから始まるようになりました。しかし、大手新聞社がグーグルのサービス参加を拒否していること、海外のニュースはロイターやAPからの二次配信であることなどから、海外ニュースの速報性という点では、速報性という点ではイロイロな壁があるのではと思っていました。「擬藤岡屋日記」でもグーグル日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているエントリーがありました。
ネットは新聞を殺すのかblog」で、日本の610のリンク(検索先)のリストを公開しているブログを紹介していました(Ceekz Logs)。大手新聞では朝日と日経しか入っていないことは薄々感じていましたが、これではニュースソースが偏るわけです。


確かにネット常時接続していますと新聞はなかなか購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社が新たなビジネスモデル構築に頭を悩ます必要もあることも認めます。そんなおり、昨日の朝日新聞では、イギリスの新聞が「タブロイド」版にサイズを変えて売上を確保(伸ばす)という記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革なのだそうです。



2004年10月1日金曜日

【音盤】アムラン/カプースチン:ピアノ作品集

台風一過で今日の東京は31度ですか、9月末で真夏日というのはいい加減止めてもらいたいものです。宮城ではITしゃちょうが、海の向こうでは、ハリケーンとイチローが暴れています。イチローには敬遠などせずに、真っ向勝負で挑んでもらいたいですね。

ということで、今日はアムランの演奏です。

変奏曲Op.41
8つの演奏会用エチュードOp.40
バガテルOp.59-9
古い形式による組曲(スィート・イン・オールド・スタイル)Op.28
ピアノ・ソナタ第6番Op.62
ソナティナ Op.100
異なるインターヴァルによる5つのエチュード
マルク・アンドレ・アムラン(p)
アムランが2000年の来日公演でも取り上げて話題になったカプースチンのピアノ作品をHyperionに行ったのが2003年6月、アムランは相当にカプースチンに入れ込んでいたとのこと。アムランが好きか嫌いかはさておき、超絶技巧ピアニストの演奏は1曲目から驚くほどのノリの良さです。

最初のVariations Op.41は6分ほどの曲ですが、短い導入に続いていかにもジャズ風なテーマが流れてき洒落た曲だなと思ううちにピアノが物凄いことになり、中間部では非常に美しいバラードを聴かせ、最後はPrestoで火花を発するがごとくに締めくくる、というまさにカプースチンを堪能できる曲になっています。

ここらあたりをボーっと聴いていますと、アムランのピアノの巧みさからホテルのラウンジやバーなでど流れる「洒落た軽いジャズ」のようにも聴こえる瞬間がないわけでもないのですが、極めて技巧的な音楽であります。

技巧的といえば、ラストに配置されたFive Etudes in Different Intervals, Op.68という練習曲も「気の狂ったような」としか書けないような曲です。No.1 Allegro (Etude in minor seconds)では鍵盤上をラリっているのではないかと思うような速さと華麗さで駆け巡り、バカみたいな高音の右手と複雑なリズムを刻む左手の応酬が聴き所になっています。No.1の短調のテーマがNo.4 Vivace (Etude in major seconds) で長調になって再現されるのも面白いです。

No.3 Animato (Etude in thirds and sixths) を聴いていて感じたのですが、カプースチンの曲はジャズのバスパート(例えばブギ・ウギ風のリズムだったりするのですが)を左手に受け持たせています。これをしっかり打鍵するかどうかで雰囲気がかなり変わると思うのですが、アムランはバスをやり過ぎない程度に弾いているようで、それゆえどこか「洒落た」とか「上品」に聴こえるのかもしれません。Bagatelles Op.59という短い曲においても左手のパートは控えめでさり気ない感じです、これは趣味の問題かもしれませし、単なる勘違いかもしれませんし、私が全然わかってないのかもしれませんが。

全ての曲について書くことはできませんが、Concert Etudes Op.40は「楽譜の風景」というサイトに楽譜のさわりが掲載されています。これを拝見しながらCDを聴いたら更にビビってしまいました。

いずれにしてもカプースチンの曲は相当な難曲であるらしいのですが、難しさなど全く感じさせずに弾ききっているアムランの演奏には、ピアノを弾けない私でも舌を巻き「開いた口がふさがらない状態」です。いったい技巧だけのアムランのどこがいいのだという評もネット上ではよく目にしますが、私は悪くないと思います。

もっとも、アムランの演奏とカプースチンの音楽性については今の段階では確たるものを書けないのですが(だったら書くなという説もある)、こういうアムランの演奏を通じてカプースチンが受容されたとしても(かくいう私もそう)作曲家にとって不幸なことではないと思われます。旧来のピアノ曲に飽いていたり深刻なソナタを敬遠する人や、ジャズにあまり親しみのない方には「これ好きっ!」と思わせるには十分な演奏であると思いますし。

ただ何度か聴いていますと技巧的には申し分ないものの、何とも説明のできぬ違和感を感じることも確かです。あまりにスピード感があり、余裕綽々の演奏なので(猛絶な演奏でもあるのですが)、何かがすり抜けているような感じがしないわけでもないのですが、それが何なのかは分かりません。完璧な新体操が面白くないとか、そういう感覚・・・とも違うか。

2004年9月30日木曜日

【音盤】カプースチンのピアノ2

以前ちょっと触れましたがカプースチンのピアノを聴いています。ということで、少し感想を加えました。時間をかけて少しずつ聴いてゆこうかなと思っています。

カプースチンという名前を最近あちこちで散見するようになりましたた。彼はロシア生まれ(b.1937)のジャズピアニスト兼作曲家です。モスクワ音楽院でピアニストとしてロシア伝統の卓越した技術を身につけるかたわらジャズ音楽も学び、ジャズの要素をふんだんに取り入れたピアニスティックな作品を数多く生み出しています。

彼の曲はジャズのスタイルにおいてはエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンの影響を色濃く受けているようであり、一方でクラシックにおいてはシューマンやブラームスよりはバッハやベートーベンを好んでいるそうで、曲を聴いた感じはラフマニノフやスクリャービンを彷彿とさせる部分もあったりします。

生粋の(?)ジャズファンは「ロクにジャズも聴いたことのないクラシックな奴が持てはやしている」という感想も少なくはないようです。ジャズにベートーベンにスクリャービンですから、聴いたことのない方にはメチャメチャな印象を受けるかもしれませんが、そんなことは全くありません。ピアノが好きな方には、きっとワクワクするようなゴキゲンな要素がたくさんに詰まっている曲なのではないかと思います。

ちなみに私は最近はジャズは聴きませんが、オスカー・ピーターソンもセロアス・モンクも好きでしたし、バド・パウエルは私のイチオシのジャズ・ピアニストでした、かれこれン十年前ですが。そういう記憶を引き出しても、カプースチンが「つまらない」ということは全くないと思っています。鋭利なリズムとスイング感、バラードの美しさ、即興的なフレーズの持つ興奮、激しく技巧的なパッセージ、ハマるひとにはハマる作曲家であると思います。

現在(2004年9月現在)、容易に入手可能なカプスーチンの録音から 1.アムラン 2.オズボーン 3.カプースチン(自作自演) の三つのアルバムを聴いて感じたことを、思いつくままに書いてみることとしました。どれから聴き始めるかは悩みましたが、やはり買った順に始めるのが良いかと思いアムラン版から始めることとします。(まだ書いてない、聴き込んでない、そのうち書く)

2004年9月27日月曜日

ポカリスウェットのワナ

エクササイズを数日続けている。ストレッチ、ゴルフの軽い素振りを数十回、シットアップベンチを用いた角度付き腹筋背筋、四十肩防止用に5kgの鉄亜鈴を用いたコッドマン体操、ダンベルカール・ダンベルローイングなどを行った後に、自転車漕ぎというメニュー。


自転車漕ぎをして分かったが、100kcal消費するというのは大変な努力が必要である。スポーツドリンクの表示を見ると100mlあたり27kcal、運動でカロリーを消費してもポカリを380mlも飲めば元の木阿弥、注意せねばならない。


体重の方は、昨日500g、本日1,000g落とすことができ、理想的なアベレージに近づいてきた。ふう・・・ということでブルボン アルフォートでも食べるかア

【音盤】ラトル/メシアン:彼方の閃光


今日は暑さもようやく一段落し、細かな雨がひそやかに中に舞っているような天候でした。ということで、今日は落ち着いて音楽などを聴くことができました。普段はほとんど手に取ることのないメシアンです。ラトル+ベルリンの話題作ということで買ってみたのですが、果たして・・・

サイモン・ラトルが率い、そのカラーを再び変え始めたベルリン・フィルがメシアンの最晩年の作品「彼方の閃光」を録音しました。ラトルの新作ということで話題になっている盤です。メシアンは私にとってほとんど馴染みがない作曲家ですが、ラトル+ベルリン+話題ということでミーハー的に聴いてみたところ成る程凄い曲であると得心。

「彼方の閃光」のテーマはヨハネの黙示録を題材としており、キリストの出現からサタンとの最終戦争を経た後、キリストを信じたものに祝福を与えるという内容です。「閃光」とは復活した者たちの光となるキリストのことであります。

キリスト教的テーマは、黙示録どころか聖書に馴染みのない私のようなものには手ごわく思えるのですが、通して聴いてみますと宗教的テーマ性を土台としながらも、カレイドスコープのような音響の大伽藍や研ぎすまされた美しいフレーズを聴くことができ、細かいことは抜きにして楽しめる音楽でした。それでも一聴しただけではピンと来ないところもあるため、全体の音楽像を掴むには数度聴いてみる必要がありましたが。(例えば黙示録の展開だけを追って1、4、6、7、11楽章だけ聴くとか、鳥のテーマの3、9楽章だけ繰り返すとか)

それにしても起伏の激しい曲です。第5楽章の《愛にとどまる》の弦楽器による繊細な緩徐楽章にウトウトとしていたと思ったら、凄まじい打楽器の強打で始まる第六楽章《7つのトランペットと7人の天使》に肝を潰します。打楽器の音圧は貧弱なスピーカーやヘッドフォンを通しても充分に迫力があります。また圧倒的なホルン軍団の演奏にも驚くしかありません。

鳥の声を模した第9楽章《生命の樹にやどる鳥たちの喜び》のフルート・クラリネット族の超絶演奏にも唖然、一体どんな楽譜でどんな指揮をしているのやら。メチャクチャな音楽なようでいて美しい。

第11楽章の《キリスト,楽園の光》でのかすかに聴こえるトライアングルの音色もまた特筆もの。この楽章は、ある意味で彼岸の彼方のような曲ですが、あまりウェットな感情表現ではなく、ひたすらに美しい演奏になっているようです。

オーケストラの編成は128人にまで増強されており、フルートやクラリネットはそれぞれ10人も居るというのですから驚きです、打楽器の種類も多彩。オーケストラの性能をフルに活用したスーパーカーのような編成ですから、適うなら実演で接したいと思わせます。私の貧相なオーディオ装置では、実のところこの曲の魅力は半減以下です。

他の演奏と比べたわけではありませんが、ラトルの演奏はメリハリを効かせたキレの良い演奏に仕上がっているようです。「閃光」という題名に象徴されるような煌びやかさも感じます。また木管をはじめとして個人技も凄まじく、有無を言わせぬ圧倒的な音塊感でぶちのめすというより、そこかしこの表現に驚かされる演奏になっているように思えました。全体的にポジティブな明るさを演奏からは感じるのですが、それが本来の曲のイメージなのか、テーマから考えると少し疑問なのですが、いかがでしょう。

2004年9月26日日曜日

展覧会:「琳派 RINPA展」

東京国立近代美術館で開催されている「琳派 RINPA」展を観てきました。今度の「琳派」展は、ちょっと違います。とうたっているように、会場に入って真っ先に目に飛び込むのが尾形光琳の《松島図屏風》とともに、クリムトの《裸の真実》であるということが、この展覧会の主旨を雄弁に語っているようです。

そもそも「琳派」とは何なのか。美術展で得た知識によると『狩野派のように家系や師弟関係を重視する流派概念ではなく、世代を越えて私淑によってゆるやかに繋がれた系譜』であり『主題性から解放され装飾性の優位と造形本位の伝統』であるとされています。

俵屋宗達にはじまり尾形光琳にて元禄時代に完成された、平面的にして適度に装飾的な画風は、自然の美意識を何の不安もなく描出した平和な世界と言えるかもしれません。


ですから、例えば江戸後期の画家、鈴木其一の《朝顔図屏風》(上)を観たときは、朝顔の青紫の色の鮮やかさに驚きはしたものの、綺麗なだけの絵ではないかと思ったものです。しかし、閉館間際まで粘って、来館者がまばらになった広い館内で改めて接すると、なんと表現してよいのか分からない至福が、まさに美の饗宴とも言うべき贅沢な時間が流れるのを感じることが出来たのです。綺麗なだけと思った鈴木の絵も、静的な装飾的技法と朝顔の蔓の動きに表された生命力が絶妙のハーモニーを奏でています。これは画面の近くで観ていては分からない。多くの人がメトロポリタン美術館所蔵のこの絵を絶賛するのもむべなるかなと。


上の酒井抱一の《月に秋草図屏風》も素晴らしい。金箔の落ち着いた地に秋の月と草花が絶妙な静けさと華やかさで描かれています。何度も絵の前に立ち、近くに寄って感嘆し、離れて観て溜息す。この絵の人気の高さもうなづけます。図録と実物を繰り返し比べてみましたが、図録ではこの絵の放つ芳香の何分の一さえ伝え切れていない。一足早い中秋の名月を堪能。


尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれていたという、酒井抱一の《夏秋草図屏風》(上)も有名。銀箔(なのか?)の上に雨に打たれる夏草(雷神の裏)と、野分に吹きすさぶ秋草(風神の裏)が、様式美の中に定着されています。絵の上の間の豊穣さよ。


もう一つ強烈に印象的であったのは、川端龍子の《草炎》(上:部分 1930年)。この作品は「これを観たいために」展覧会に足を運ぶ人も居るくらいに人気です。初めて観る人も、異様な迫力に言葉を失っているようです。かく言う私もその一人。この絵を「琳派」と十把一絡げにして良いものか。川端は『夏の草いきれ』を描いたそうですが、ここには他の「琳派」の画風からは感じ取れぬ、熱い情念が流れてきます。凄まじいエネルギーと、それを鎮めている技法の高さ。夏草を黒い画面の上に金色の濃淡でのみ闊達と言える筆致で描き分けた異色作。これも人気のいない館内でゆったり感傷できることの愉快さときたらありません。


ここに至って「琳派」とは高度の装飾技法により、自らの情念と自然の動的エネルギーを様式美の中に固定させていることがその最大の特徴なのではないかと思いつきました。例えば光琳得意の波を表現するうねりにしても(上《松島図屏風》)、《槇楓図屏風》の樹木の枝の作る曲線運動からもそのような印象を受けます。

「琳派」と称される系譜に属する作品は、小さな画集のようなもので観るのでは、おそらくつまらないのではないかと思います。屏風図ということも影響しているのでしょうか。考えてみたら、こんなにたくさんの屏風図を観たのははじめてです。


上の菱田春草による《落葉》(1909)もそうです。ベージュ系の色合いが綺麗ですが、最初に観たときは、余りにもきれいなだけなんで、うんざりしたものです。しかし、心を落ち着けてゆっくり鑑賞しますに、幽玄さを感じさせる画面の奥行き感とともに、上から落ちてくる数枚の落ち葉が、静止しているかのような時間が穏やかに動いていることを感じさせてくれます。そう思ったら、流れる大気さえ頬に感じるような面持ちです。これも屏風図の実物に接しなくては感じることのできない印象でしょう。

最後になりますが、「琳派展」は宣伝のせいか、あるいは幸せな画風のせいか、凄く混んでいます。私は14半過ぎに館内に入りましたが、満員電車のような混雑で絵どころのさわぎではありませんでした。閉館間際までねばることで、やっと本来の「琳派」のもつ静けさと芳香を味わうことが出来たと思います。


マティスとか梅原龍三郎、加山又造の絵(《千羽鶴》上)もありましたが、こちらは終わりのほうで食傷気味なせいか、おいしくいただけませんでした。(加山又造、あれでは「やり過ぎ」です=これも人気の絵なんですがね)

2004年9月25日土曜日

太った・・・

自分のベストとする体重に対し、±3.5%以内の変動におさまるよう注意していたのだが、このごろ仕事がダルなせいか太り始めた。体調を慮って酒も飲まないようにしているのだが、ついつい甘いものを食ってしまうのがマズかったか。


このままでは取り返しの付かない体重になることを懸念し軽いエクササイズをしているが、いったん付いた体重はおいそれと落ちない。カロリー制限とカロリー消費を増やそうかと思っていた矢先に上司に誘われて、寿司を食うハメになった。


東京の寿司は高いので、今日まで寿司屋に足は運ばないようにしていたのだが、たまに食う上手い寿司はとてつもなく旨い。ということで、とんでもなく食べてしまった・・・店の大将も、私が北海道出身ということで、北の味覚をまじえて実に見事に揃えてくださったのだが、これがまた良いネタで感涙もの。これでは、明日は野菜と果物だけか、あるいは来週二日くらい貫徹でもするしかないか?

2004年9月18日土曜日

【音盤】カプースチンのピアノ

ニコライ・カプースチン(b.1937)という作曲家をご存知でしょうか。今年6月にHyperionからアムラン(P)によるカプースチン演奏が発売され、アムランということで全く予備知識なしに聴いたのですが、これがなかなかゴキゲンな曲なのです。

カプースチンは1937年生まれのロシアの作曲家、モスクワ音楽院を卒業しクラシカルな作品を作成するかたわら、ジャズ・ピアニストとしても名を成し、ここに納められているようなクラシックとジャズが融合したような曲を描いています。

ジャズとクラシックの融合だなんて、生粋のクラシックファンの方や、根っからのジャズファンの方はアヤシイと眉をひそめるかもしれません。流して聴いているだけだとホテルのラウンジから流れる自動ピアノのような雰囲気の曲もあるのですが、なかなかどうして、親しむうちに軽妙な曲調とともに音楽的な多彩さと驚くべき技巧に気付かされ、たただた唖然とするばかりです。アムランの盤なども一曲目からジャズCDとしか思えないような出来です。








ピアノ作品集

(p)マルク・アンドレ・アムラン

hyperion CDA67433



ピアノ作品集

(p)スティーヴン・オズボーン

hyperion CDA67159



24の前奏曲とフーガ作品82

(p)ニコライ・カプースチン

TRITON OVCT-00010


『24の前奏曲とフーガ』は、カプースチン自演によるもので、最近の密かなカプースチン・ブームに押されてTRITONからの再発売されたもの。アムランも良いですが、オズボーン盤も曲がいいので捨てがたく、どれも聴き逃せない曲ばかり。暇なときは、このごろこればかり聴いています。カプースチン自演盤はまだ聴きこんでおらず。

もうちょっと立ち入った感想は、機会があったら書きましょう。

2004年9月17日金曜日

【本棚】ニコルソン・ベイカー:「中二階」


以前にiioさんのCLASSICAで紹介のあったニコルソン・ベイーカー『中二階』(白水uブックス)を読んでみました。

iioさんのエントリーにもあるように、日常生活に対するミクロ的考察が主体の本になっているのですが、これが「合う」か「合わない」かで好みが分かれるかもしれません。私としては非常に面白い本であると思い、活字を追うのが全く苦痛ではなかったです。

ちなみに「ニコルソン ベイカー」でGoogleするとiioさんのエントリーがトップでしたよ、恐るべしCLASSICA!

ニコルソン・ベイカーは1957年生まれのアメリカの作家です。イーストマン音楽学校とハァヴァフォード大学で学び、1988年に処女作「中二階」(The Mezzanine)でデビューしました。発表当時アメリカでは驚きと賞賛をもって文学界に受け入れられたそうですが、読んでみますと確かに斬新にして非常に面白い小説でありました。


この小説は、29歳の主人公が会社のエスカレーターに乗ろうとしたところからはじまり、エスカレーターを降りたところで終わります。切れた靴紐を買うということがストーリーの主軸といえば主軸でしょうか。ごく日常の何気ない短時間の間に、彼が考えたこと、いままでの人生で考え続けてきたこと、自分の関心事、身の回りの些細な変化などが、おそろしいほどの執拗さとユーモアを交えて描かれています。


でも彼の考えることときたら、どれもが取るに足らない話ばかり。たとえばストローの進化とか、社会人になってからのトイレでの振舞い方とか、なぜ靴紐が切れるのかとか、トイレットペーパーなどに付けられたミシン目に対する大絶賛とか。くだらないですね、でも連綿とした瑣末的な描写(ほとんどヲタク的なミクロ思考)を追随しながら「そういうこと、あるある」などと一人ニヤニヤしている自分に気付いたりするのです。

なにしろ本文よりも注釈の方が多いという小説です。難解な作品でもないのに、なぜそんなに注釈がと訝る方も多いと思いますが、ベイカーは小説の中で脚注の事を


ページの下の方に灰色の帯となって待ち受けているのを目の端でとらえたときの、あのわくわくするような喜び

と書き、


脚注は、一冊の本が蛸の触手のようなパラグラフを伸ばし、図書館という名のより広大な宇宙とつながるための、さらに細やかな吸盤


と脚注で説明しています。挿入された脚注により、読み手は本文と、どこまでも脱線してゆく解説を交互に行き来することで、小説の持つ時間軸は限りなく引き伸ばされるのですが、それによって思考が中断されるどころか、小説を読む楽しみが自在に変化していることに気付くのです。脚注は細かければ細かいほど面白いと思えたら、あなたもきっと、ベイカーばりのヲタク活字中毒者かもしれません。


たった一日のことだけを書いた小説や、注釈がやたらと多い実験的な小説というのも世の中にはありますが(=あったと思う)この小説が衝撃をもって受け止められたのは、瑣末的な事象の限りない拡大がもたらす効果であったことには違いないと思います。


では単なるユーモア小説なんだろうかと考えると、それだけではないようにも思えます。作品に漂う透明感や爽やかさ、モラトリアム的暖かさと、あるときを境にオトナになるということの意味する誇らしさと一抹の哀しさ、そしてそれらを包んでいる孤独感が気になります。

そう思うのも、主人公をはじめとして途上人物のナマな体温や感情が感じられないせいでしょうか。人生の大半が「いかに生きるか」というような哲学的なテーマで占められているわけではなく、日々の出来事に対し反応と反芻を繰り返すだけであると認識してしまうことは、旧来の文学的のテーマとしての何かを否定しています。それゆえに気付かないところで淡々とした虚無を抱え込んでいるようにさえ思えるというのは深読みでしょうか(>です)。


作品で描かれる執着は、つまらない人生を楽天的かつ肯定的に仕向けるようにできているのですが、一方で人間的な対立や葛藤を全く排したところに立脚しているこの小説は、現代における新たな風景を垣間見せています。ユーモアとは別の次元でこの作品が提示している世界のありようには、感慨深いものがあります。