私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
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2001年4月30日月曜日
工藤重典/「巡り」~武満徹没後5年特別企画
巡り
マスク
海へⅢ
エア
工藤重典(fl) 岩佐和弘(fl) 川本嘉子(va)、篠崎史子(hp)
2000年11月8~10日 那須野が原ハーモニーホール(栃木県)
SONY SRCR2585
工藤重典による武満徹へのオマージュのようなCDである。武満徹がフルートという楽器を好んでいたことは、良く知られていることだろう。彼の曲は、静寂さと豊穣さを併せ持ち、また、それが雄弁になることとは全く逆の方向へ深化するように感じるのだが、フルートの素朴にして自然な音の流れは、彼の表現しようとした世界と、ある一致を見たのかもしれない。
彼のフルート作品は、例えば遺作の「エア(95)」など、ドビュッシー的な色彩が色濃く反映しているように聴こえるものの、どちらかというと西洋とも東洋ともつかない不思議な魅力があると思う。武満はフルートの特殊奏法や時に日本の伝統楽器である尺八を思わせるような音色さえ、要求しているし、「マスク(59-60」などはまさに能楽を意識して書かれた曲ではある。だからと言って彼の音楽が純日本的というわけではないようにも思えるのだ。それは、いわゆるタケミツトーンと呼ばれる、彼独自の音なのかもしれない。
彼の曲を読み解くキーワードとして「風」や「水」などとともに、「間」とか「時間」というものもこの盤から感じることができる。「マスク」など日本のフルートでの掛け合いと呼吸が、絶妙なる間を作り出し、目の前を流れてゆく時間を感じることができる。彼にとっては時の流れはまさしく、水や風のごとくあったのだろうか。そういえば、風の中からふとはっとするような光や音を感じる瞬間はないだろうか?そんな感触さえ彼の音楽からは聴こえてくる。
もっとも、武満の曲を多く耳にしているわけでもないし、彼の膨大なる著作群に目を通したわけでもないので浅はかな想像の域を出はしないのだが。
工藤重典は、今年3月の王子ホールでの演奏も聴いてきたが、彼のフルートの音色は独特のふくよかさを備え、ある種の安心感があると感じている。非常に聴きやすくのだが、「日本人のフルーティストの音」と感じる瞬間がある。具体的にどうと言うことが難しいのだが、あくまでも直感的な印象である。
そんな彼が奏する武満徹の世界であるが、透明にして流れるように演奏され、武満の持つ静謐なる世界を十分に表現してくれているように思う。特に親しみやすい「海へⅢ(88)」などは、豊穣にして深淵なる世界を目の前に見せてくれて、音の大海の中へ身を委ねる快感を覚える。ここでも彼の音は柔らかく暖かい。まるで暖流系の海の中を泳ぐようだ。
エアに至っても、一種の子宮に抱かれるような心地よさと暖かさは失われない。エアこそ、題名が示すように風に乗って漂う表層とそれから受ける変化なるイマジネーションを感じることができる。
ところで、レコード芸術4月号の「ディスク・ディスカッション」に、この盤が俎上に乗せられている。その中で工藤の武満の「危うさ」について述べていて興味深い。非常に乱暴に要約すると、『最近武満を癒し系として聴く傾向がでてきた。武満のもつ音楽の美しさを「美しいだけ」と捉えかねられないような演奏はいかがかと思う』というような内容だ。
確かに、工藤のこの盤を何度も聴いてみると、武満のどこが前衛なのかとも思うし、先にも書いたように、しみいるように体に音楽が入り込んでゆくのを感じることができる。これが「癒し」と言われればそれまでなのだが、それが何故、武満にとって「不幸」なのかは分からない。武満は音楽に「癒し」を求めてはいなかったということなのだろうか。
武満のフルート作といえば、ニコレやガロワそして小泉などの演奏などとも比較して論じなくてはならないのだろうが、私には彼らの演奏の違いを述べることがまだできない。また、武満の曲を大雑把に述べることも、どうしてもはばかられる。彼の作品については改めて、ひとつずつ取り組んでみたいと、ゆくゆくは考えている。
尾高&札幌交響楽団&シャンドス
内容は尾高氏とこの盤の選曲のこと、そして武満氏の音楽と細川俊夫氏の音楽に関することである。武満の音楽を理解するキーワードのひとつとして「死と水のイメージ」があるとした上で、今回選曲された武満の「波の盆」もそのイメージを踏襲するものであり、また細川の「記憶の海へ ヒロシマシンフォニー」も、武満の軌跡を辿っていると評する。
「死と水を巡る想念が、武満の旋律的に豊穣な『波の盆』の音楽から細川のクラスター的に豊穣な《記憶の海へ》と伝承されてゆく場に立ち会っている心持になってくる」と片山氏は書く。
現代音楽にうとい私には、細川がポスト武満の最右翼ということさえ知らなかったが、改めてそういう観点からこの盤を聴いてみるのも面白い。畳み込むような音響と独特の色彩感のある曲だが、そこから「海」を感じ取ることができるかは、聴き手のイマジネーションに委ねられる。私はどちらかというと、屋久島の杉のような巨大な樹林を感じたのであるが・・・・
蛇足になるが、この曲にしても、先のマーラー8番にしても「浄化」「再生」というのは、昨今の政治状況に限らず魅力的なテーマなのだなと改めて妙に得心するのであった。
2001年4月28日土曜日
シャイ-&コンセルトヘボウによるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」
2000/01 DECCA 467 314-2 (輸入版)
シャイ-のマーラー・チクルスとしては7番目の録音であるらしい。シャイ-といえば48歳、いま最も注目される指揮者の一人であることは疑う余地もないのだが、彼の演奏に本格的に親しんだのはこの盤が始めてといってよい。(なんて、浅いクラシックファンなんでしょう ^^;;)
レコード芸術4月号の"New Disc & Artists"では、吉村渓氏が「"宇宙が鳴動する総量としての音響体"ではなく"声を主体として組み立てたオペラの極限的な姿"」とおおむね好意的に評している。また、レコード芸術5月号では「新譜月評」に取り上げられていが、小石忠男氏は推薦なしで不満が残るとし、宇野功芳氏は推薦にあげている盤である。また、加藤幸弘さんのHPにおいてこの盤が取り上げられており(2001年3月のCD評)彼は、「この作品の演奏史のターニングポイントとなる録音」とまで述べている。
さて、聴いた感想といえば、この壮大にして、ワタシ的には非常に取りとめない印象を持っていた大曲を、最後の最後まで聴くものを飽きさせず、なおかつマーラーにしてはどろどろとした情念に溺れることなく、なんとも瑞々しい演奏を聴かせてくれる演奏であると感じた。合唱なども美しいうたいであり、音楽の切り口が新鮮で、ラストに向けて徐々に高まる(高みに導く)ほどよい緊張に満ちている。
ご存知のようにこの曲は1部と2部に分かれており、それぞれがCD1枚に納められている。長いと思われる曲だが1部は23分程度であるため、これを機会に繰り返し聴いてみたが、聴くたびに曲の美しさと完結した感動を味わうことができ、マーラーの示した賛歌を堪能することができた。小石氏は「響きに集中力がない」「音程に疑問」「説得力が不十分」と、結構ボロクソなのだが、私にはそのような感想がどうして生まれるのか、まだ分からない。
2部は50分以上であるため、こちらは何度も気軽に聴くというわけには行かないのだが、至福の時間がゆったりと流れるのを感じることができる。独唱や混声合唱は、何度も繰り返しても足りないほどなのだが本当に美しく、対訳を見ながら聴いていると肝心の曲の素晴らしさが損なわれるようで、途中で歌詞カードを放棄せざるを得なくなる。目をつぶって合唱とオーケストラの響きに身をゆだねていると、光が舞い降り高みに上ってゆくような感動さえ覚えるのだ。
また、ラストの神秘の合唱に至る当たりの音響の迫力は言葉にすることが難しい。2部でもこの部位だけは何度も聴いてみたのだが、いくら性能が良くてもヘッドフォンで聴くよりは、音量を絞ってもスピーカーを通して=空気を振動させ 身体で曲を味わいたいと思った。大音量でヘッドフォンを通して聴いてもさしたる感動は得られないのだ。しかしスピーカーを通して改めて聴いてみると、体の奥底から得も言われぬ情動が沸き起こるのを禁じることができない、やはりマーラーは生で聴かなくては駄目なのかと思う瞬間だ。
ところで、マラ8といえば家にはバーンスタイン・WPO(75年ザルツブルク)盤しかない。こういう比較は意味がないとは思いつつも、試しに2部の最後だけ聴いてみた。バーンスタインというのはマーラーの背後霊か何かが乗り移っていたのではないだろうか。ここだけ聴いても、なぜか泣けてしまうのだ。ふたりの演奏の違いは何なんだろう、バーンスタインだと思って聴くからそうなんだろうか。神秘の合唱は混声合唱の中からソプラノが立ち現れる部分ときたら背筋から腰まで貫かれるような感触を覚えてしまうのだ。
シャイ-の目指したマーラーがこの部分だけ聴いても、バーンスタインとは全然違うことに気付かされる。こういう切り口でマーラーを聴かせてくれるとなると、シャイ-の他の盤も気になるのであった。
偉そうにマーラーの盤の感想を述べてみたが、歌詞内容や音楽的な内容に踏み込むには、まだまだ浅い聴衆であることを認めざるを得ない。しかし、マーラーて長いんだもの、やすやすとは聴けませんよねえ(^^)
2001年4月24日火曜日
読売巨人軍 一軍の年棒について
年棒で1億円を何年間もらえるのかは分からないし、所得税により実質的な可処分所得がずいぶんと少ないことも分かるが、一般的なサラリーマンの平均生涯年収が2億から3億程度であることを考えると、うらやましい限りである。
芸能人にしてもスポーツ選手にしても、有能にして人に夢を与えうる職業の者が高額な年収を得ることは悪いことではない。むしろ厳しい実力主義の頂点に立つのが彼らなのであり、特に野球選手たちなどは、小さい頃から普通の子供の楽しみを捨て去さり、あの地位を築いているのだ。批判すべき点があるとすると、巨人の人材集中などだろう。
さて、「人生の成功をそれに見合った金銭的な報酬」と考えるならばだが、今の子供たちには、何が夢とか希望とかに映るのだろうか、と疑問を感じざるを得ない。
ジャパニーズ・ドリームというものがもしあるとするならば、それは起業家精神から発するものではないことだけは、確かなのではなかろうか・・・・
また、「人生の成功」を「金銭的報酬以外」のものとして示すことが出来るだろうか。いや、さらには「人生に成功」なんてあるのだろうか。これが、私が気にかかる、次世代に示しうる「希望」にかかわる部分である。
小泉新総裁
しかし、その何かとは、必ずしも彼の掲げる政策ではないのだと思う。「今までにない、何か変えてくれるだろう」というムードが先行したような気がする。
今の閉塞的な状況(これの定義さえ難しいが)において、ムードでしか希望を示せ得なかったことにも政策論議の限界が見える。
政策論においては、野党がどのように小泉氏と対してゆくのか。私には、政策論においても野党と与党の差異が見えてこない。「日本再生」というキーワードにおいては同じなはずである。
しかし「再生された日本」の着地点をどこに見据えているのか。このヴィジョンこそ重要であると思うのだが、一体それを誰が示してくれているのだろうか? また、我々はどういった社会を望み、子孫に伝えてゆきたいと願っているのだろうか。
2001年4月23日月曜日
政治報道について
要約すると、あまりにも最近のマスコミは政治家の悪い部分のみを強調して、面白おかしくスキャンダラスに報道しすぎる。分かりやすいという理由で、芸能人を扱うのと同じようなスタンスで政治家に接している。ジャーナリズムがスキャンダル性を前面に出すため、それを覆い隠すために「正義」という仮面をかぶる・・・・というものであったと思う(手元に紙面がないため、不正確だと思うが)。かの失策という烙印を押された橋本元総理でさえ、あの時期の勤めとしては仕方なくいのではないか、むしろ「失策」というのはマスコミが作り上げたイメージが大きいと読み手に印象を与える一文さえあった。
橋本氏の部分はおいておくにしても、何と的確に、最近のマスコミの馬鹿さ加減を言い表していることか。確かに、マスコミは政治を冒涜しすぎたのではなかろうか。政治家が醜聞にまみれていることも確かである。しかし、いまの社会において、マスコミはどこにも「希望」を見つけ、若き世代に提示してやることもできていない。
私の小学6年になる息子は、マスコミ報道の政治家の馬鹿さ加減(そればかりだから)にあきれ返り、政治や社会にたいして不信感というものを植え付けられつつあるようだ。平安時代の蘇我氏などの歴史などを覚えるにつれ、「全然変ってないんだね」と感想をもらすのである。
自民党総裁選裁選
それにしても、小泉氏に何を期待したのだろうか。脱派閥や新しい政治の雰囲気は確かに持っている。橋本氏や亀井氏では今の閉塞した自民党から抜け出せないとの意識も分からないでもない。それにしても、圧倒的勝利なのである。
私には、実のところ今回の総裁選の4人の掲げる政策の、根本的な違いというものがよく見えなかった。今でも見えていない。「構造改革」「財政再建」、キーワードはわかるが今までだって試みていたじゃないか。何が根本的に違うのか? 自民党を変えるというが、どうするのか? 既存の既得権益と重層的な利益構造をどう枠組みしてゆくのか? 郵政事業の民営化だって、小泉氏は昔から唱えているが、それだけなのか? 色々疑問はある。
YKKはどうなるのか? 敗軍の将たる加藤・山崎と新たな再生日本を目指すのか? 田中真紀子の果たす役割は? 自ら「変人の産みの親」というくらいだ、これからも重要な位置を占めるだろう。
しかし、政治もよく分からない。
2001年4月22日日曜日
カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン(cond) ベルリンpo.
録音:1963、1964 DG(LP国内版)
カラヤン・ベルリンの63年の演奏である。この組み合わせなのだから、立派な演奏にならないはずはなく、ここでも力強く構成美豊な音楽が展開されている。 音楽雑記帳でも書いたが、この盤を買ったのは高校1年生のときであったと思う。非常に衝撃を受けたと同時にクラシック音楽の奥深さを垣間見た思いがしたものである。
久しぶりに聴いてみたが、かつての記憶がよみがえるかのような名演であると思う。しかし、バーンスタイン、ブーレーズと聴いてきて、カラヤン盤の特徴や限界(?)も見えてきたような気もする。素人の戯言であるので、あくまでも印象と思っていただきたい。
この演奏だけ聴いている分には迫力も満点であり、豊なの色彩美を感じることもでき、非常に満足を受ける。他の盤になくてこの盤に聴こえるものとするならば、無数ともいえる細かな光と色彩の乱舞であるともいえるかもしれない。それは、冒頭の部分から明らかであり、聴き進むにつれて豊なる音の洪水となって押し寄せ、音楽に酔うことができる。そういう点から考えると、この演奏に難を付ける部分はどこにもないと思う。
しかしなのだ、音の迫力も音楽の推進力もあるにも関わらず、何か物足りなく感じるのである。それは何なのだろうか?よくは分からないのだが、カラヤンがこの曲に求めているもが、少なくともバーンスタインやブーレーズとは若干異なっているのではないかと感じるのである。具体的に指摘することは難しい。不正確な表現を承知で書くとすると、どうもカラヤンは、この20世紀の幕開けたるべき偉大なる前衛の音楽を、非常に真っ当に、前衛的にとか原始的なエネルギーを込めてというのではなく、19世紀までの音楽的手法の延長のようなアプローチで立派に演奏している、というように感じるのだ。
先にも書いたように、音楽的には申し分なく、明の部分から暗の部分への移行や対比も見事であるし、暗い戦慄の奥で鳴る複雑な音色も良く聴き取れる。どこを切っても、豊穣なる音の塊が聴こえるしそれで十分とも言えるし、この音楽の持つ複雑性を見事に表現しているとは思うのだが、何か肝心なものが嗅ぎ取れないのだ。それは、ギリギリの線からはみ出しているかのような、危うさやスリル、鋭さなどが欠如していると言ってもいいかもしれない。もっともこれは「好みの問題」だとは思う。
この盤に対する他者の評は読んだことがないし、聴いた盤もポンコツプレーヤーで昔のLPである。ノイズがカリカリ言うのを我慢しながら聴いているので、再びもっと良い音で聴けば、印象は変わるかもしれないが・・・
フルートの頭部管の凹みもきれいに治って戻ってきました
レッスンは、練習もしていないのに着々と進みまして(@_@;;、プラヴェのソナタは3楽章、4楽章、5楽章と進んでしまい、とりあえず終了なのでした。この手の曲は装飾音をいかに美しく入れることが出来るのかがポイントなんでしょうが、トリルは音ごとに回数が異なり、ひどいモンです。早い部分もうまく吹けないし。替え指とか教えてもらうのですが、かえってこんがらがっちゃって、全然簡単にならないてのも、カナシイものがあります。
笛吹くという作業も、結構指のコントロールなどは運動神経が大きく影響していると思いますね。頭で分かったことをそのまま指に伝えることのできる能力と言うんですか?あるいは、目からの情報を頭を経由しないでそのまま腹筋(横隔膜)と指に伝える能力、ていうんでしょうか。私の場合、絶望的ですね。
アンデルセンの練習曲は3番をもう一度レッスンで受ける。速度が遅くなったり、もとに戻ったりの部分が、うまくコントロールできておらず全体として流れが悪い。それに音が跳躍する部分は相変わらず、喉が「グエ」とか鳴っちゃって、全然音が鳴りません(><)。あーあー、やっぱ練習足りないねえ。
2001年4月19日木曜日
総裁選が熱いのですが・・・・
総裁選が熱い。かつてこんなに話題になった総裁選があっただろうか?
小泉候補は「私が総理になったら、総理を国民の投票で選べるように変える、自民党を変える」と力強いです。人気のあるのも分かる。田中真紀子氏は、少々口が滑ったという印象も受けるけど、古賀幹事長もやりすぎだった。お互い、虚実の駆け引きがあるのは分かるが、野中さん含めて、どこまで現状に対する危機感があるのだろう、と疑問府はつく。
ところで、小泉候補て外見がいいという定評だけど、「ぼのぼの」の ぼのぼの か しまりすくん に似てません?近親の田中真紀子もリス系ですよね。だから応援していたのかな。亀井候補はさしずめ「あらいぐまラスカル」ですな。麻生候補と橋本候補はコメントしません。あまり好きな(顔の)タイプじゃないんで。人の好みはそれぞれで、「橋本さんはいいけど、亀井さんだけは(スタイルの点で)許せない」という人もいるんだよね。私は4人の候補を顔で判断するなら、橋本さんが一番ヤだなあ。
冗談はさておき、政策的には・・・・うーん。どうでしょうね。私たちが選ぶわけではないのですがね。
2001年4月17日火曜日
ブーレーズ指揮 クリーブランド管弦楽団による「春の祭典」
ピエール・ブーレーズ(cond) クリーブランドpo.
録音:1969 SONY SRCR(国内版)
ブーレーズもこの曲を四度ほど録音している。この盤69年版は、ブーレーズがクリーブランドと組んで録音したもので、「春の祭典」の歴史的名盤とさえ言われている演奏だ。現代においても、これ以上の演奏は91年、やはりブーレーズとクリーブランドの二度目の演奏しかないという者もいるらしい。それほどの演奏なのである。
演奏の感想というものは、比較する盤や始めて聴いた盤での刷込みや、他者の批評や感想から完全に自由な状態で書くことはほとんど不可能と言ってよい。特に、ある演奏での刷込みがある場合、それが先入観となってしまい、その盤の印象をぬぐい去るためには、現在聴こうとしている盤を、新たな刷込みとするほどに聴き込まなくては感想を書くことなど望めないのではないかと暗澹たる気分に襲われる瞬間さえある。これから書こうとする「歴史的名盤」に対して、どれほど「束縛」から開放されているのかは、自分自身知る由もないのだ。
さて、言い訳が長くなった。ご多分に漏れず敢えて書かせてもらうなら、この盤から聴き取ることが出来るのは、豊饒なる色彩の乱舞と作品の持つ複雑さと美しさ、そして強靭さである。
バーンスタイン盤(58年)で感じるような、感情が高ぶり畏怖さえ感じるような部分や、ほとんどデモーニッシュな雰囲気は少ないと言えようか。しかし、それだからと言って、作品の輪郭がぼやけたり曖昧であるということは微塵もないのだ。むしろ、この盤との比較で考えるならば、バーンスタインの演奏は、若さ故の突っ走りと情動の部分に偏り過ぎているようにさえ思える。
例えば、第一部の「春のきざしと若い娘達の踊り」の部分など、単純なリズムの連続の中においても単調さはかけらもなく、常に変化し続ける動きが見えるし、曲が進むに連れて次第に色彩豊になってゆく様は見事な描出力を感じる。「誘拐の遊戯」にしても抑制を効かせた表現が、いたずらにして無意味とさえ思えるカタストロフを演じることを避けているようにさえ思えてくる。そして、これは録音のせいなのか、オケの特徴なのか、指揮者の力量なのか、実に色々な音が見えかくれし、どの瞬間を切っても新たな驚きと、新鮮さに満ちているのだ。
バーンスタインの演奏が、切ると血が出るような生々しさと凶暴さに満ちているとするならば、ブーレーズの演奏は、切口が鋭利で鋭く、歯切れよく、瑞々しい植物の細胞の一つ一つが潰れることなく、試験薬に染まりその姿をあらわにしているかのような感触さえ覚える。
また不調和の調和の美というものが、たぐいまれな精緻さの中でこれでもかとばかりに描出されている。ここらあたりも、バーンスタインが一気に押しまくっているのに対し、実に丁寧に色々な色彩のパレットを使い分け、互いの色が混ざらぬようにに描き分けていると感じるのである。第二部にしても暗黒的なミステリアスさの表現は、息を飲むほどの美しさであり、イメージ豊であるがために情景描写的であるとさえ思える。
このように、精緻かつ鋭利にこの曲にアプローチすることで、「分析的」とか「明晰な」いう表現を与えられるのかも知れないが、それでいてこの作品の持つ強靭さやエネルギーが失われていないことが名盤たる所以なのであろうか。(それにしても、音楽音痴な私には、どこが「分析的」でどごか「明晰」なのかは判然としないのだけどね・・・・)
ただひとつだけ、バーンスタイン盤と比べて欠けているのは、この曲を聴いて感じる圧倒的な内からこみ上げる肉体的とも言える情動感であろうか。根源的な、あるいは本能的な有無を言わさぬパッションと言ってもよいかもしれない。そういうものをこの演奏から感じることは、ない。もっとも、それがこの曲に「不可欠」なものであるのかは、私には分らないのだが。
2001年4月16日月曜日
「春の祭典」聴き比べ
ハルサイといえばブーレーズが定番だったので、 91年盤にしようかと思ったが、69年盤を入手してしまった(^^;;
まずはバーンスタイン盤から始めよう…、この盤が数ある「春の祭典」の中でどういう評価を受けているのかは知らないが 衝撃度はピカ一なのではと思う。それは単に私が、バーンスタインの音楽を受け入れやすい性格だからなのかも知れないが。
ファジル・サイ
2000年夏に発売され、方々で話題になったファジル・サイ。かのClassicaJapanでも絶賛されていた(当該HPのDISK WOW!参照)。キワモノ的なイメージが付きまとい、気にはなっていたのだが購入意欲までは湧かずにいた。春になったし、やっぱりここはディーリアスかハルサイかななんて思って購入(1000円ちょっとだし)。続きはCD試聴記で!
春の祭典を初めて聴いたのは、たぶん高校1年のときだったと思う。友人「凄い音楽がある」と教えてくれた。その時に買ったのが、カラヤン・ベルリン(63-64年)の演奏であった。「春の祭典」は紛れもない前衛的な音楽で、不協和音のカタマリであったのに、それは衝撃的な音楽として深く心に刻み込まれた。LPのノーツによると年をまたいで録音した演奏のツギハギということなのだろうか?非常なる名演ではあると思うが、何かが足りないと思うことも事実なのであった・・・
バーンスタイン ニューヨーク・フィル
バーンスタイン・NYPの58年の演奏。ハルサイといえば、ブーレーズが有名らしいが、クラシック初級者の私は聴いたことがない。それを前提として書くと、改めてこの演奏を聴いてみると、体の底を貫くような衝撃を覚えてしまった・・・・。残念ながらCD試聴記はまだ書けない。ここ数日、ハルサイ漬けである。
バーンスタイン版(58)の後に聴くのは、「春の祭典」の歴史的名盤とまで言われる、ブーレーズ・クリーブランドの69年の演奏である。ブーレーズは91年にも同オケと再録している。「歴史的名盤」といわれるものであるため、嫌でも色いろな批評が目に入ってしまう。それらから全く先入観なしに曲を述べることは、難しいと感じざるを得ない
2001年4月15日日曜日
バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルによる「春の祭典」
録音:1958.1 SONY SRCR9941-2(国内版)
「春の祭典」の魅力と言えば、音楽的には色々あるとは思うが、ワタシ的には原始的なリズムと荒々しさ、そして内側からこみ上げてくるような生命力ではないかと思っている。
そもそも「春の祭典」というのは、野蛮にして暴力的な音楽である。ストラヴィンスキーが着想したテーマもさることながら、厳しい寒さを経験した後の北国の爆発的な春を象徴するかのような激しさと、強烈な色彩感に満ちている。固く閉ざされた生命が一気に沸き出し乱舞するさまは、地面がバリバリと音を立てて割れるかのような印象さえ与える。さらには、土俗的というかバーバーリアンな雰囲気さえ漂い、とても近代的とは思えないテーマを、それとは逆に非常に前衛的な雰囲気で構成した音楽だと感じる。
今ではこの曲をを前衛的という人は少ないかも知れない。しかし、改めて聴いてみれば、私はこれを現代においてもきわめて「前衛的」であり「挑発的」であると思うのだ。これほどの不協和音の連続でありながら、広くポユラリティを獲得し得ている音楽というのは、他ではないのではないかとさえ思う。不協和音のカタマリみたいな音楽でありながら、旋律的であるという、よくワケが分らない音楽でもあり、そこにこの曲の不思議な魅力があると思うのである。
バーンスタインは「春の祭典」を3度ほど録音をしている。この盤は一番若いときのものであり、1958年といえば彼がNYPの常任首席指揮者楽督に就任した年だ。
この盤から聴こえるのは、若さとすざまじきまでの荒々しさと凶暴さである。若き獣が牙をむいて地の底から硬い殻を突き破って襲いかかってくるかのような、壮絶なる迫力に満ちた演奏であると思う。それは若きバーンスタインの野心そのものとさえ思えてくる。録音のせいだろうか、ともすると迫力は満点なものの、少々明晰さを欠き、モコモコした音に聴こえる部分もないわけではない。打楽器群の音も生の編集されない音なのかは疑問も残るが、CD芸術として聴くならば、その凄さは特筆ものであると思う。
バーンスタインは、この曲の持つ生命力を十二分に引き出すことに成功していると思えるし、その乱舞する音楽とスピード感は非常に刺激的である。ただ、不思議なことに演奏時間を見ると、それほど「快速」系の演奏ではないようだ。以下にこの曲の聴き所を見てゆきたい。
第一部の「序章」は、様々なものが春になり萌え出ずる雰囲気が良く表れている。非常に美しい部分だと思う。「春のきざしと若い娘達の踊り」は有名な部分だが曲全体としてみると、まだ整然とした雰囲気を残しており、序の口といった印象であることに気付いた。単調なリズムは高まる地の鼓動であろうか、色彩感も豊かで非常に聴きごたえがある。「誘拐の遊戯」の迫力は聴くものを鷲掴みにして地上から空中高く放り投げるかのような狂暴さがあるし、圧倒的なスピード感がある。「春のロンド」の重々しい雰囲気、コントラバスのこれでもかというばかりの響きと、春の荒々しい開花を表す部分(?)は、脳天を直撃という程の迫力だ。「競い会う部族の遊戯」に至っては、バーンスタインの語り口の凄さにもはや言葉を失ってしまうのだ。バランスを崩しそうな微妙なギリギリのところで保つ均衡と緊張、全てを圧する力を感じる。「大地の踊り」の部分など冒頭のティンパニーの連打は言語を絶し、押し寄せる音の塊には感動を通り越し、恐怖さえ感じる。
第二部に至っても、この迫力はいささかも衰えるところがないばかりか、秘めたる暗さやある種の暗黒性が宿すミステリアスさと、根源的な生命力まで表現されており、聴くものの体の底から震撼させる音楽に仕上がっていると思う。「若い娘達の神秘な集い」に移る当たりからの部分は、この演奏の白眉たるところだ。もはや、聴いてもらうしかない、とにかく凄い! ものすごく太い棍棒でぶったたかれたかのような衝撃を受けた。
ここで、「春の祭典」はバレエ音楽として構想されていることに改めて思い出す。バレエといっても、「白鳥の湖」のような優雅さではなく、舞踏という表現の方が適切なのかも知れない。舞踏というと、私の場合、ともするとある種の暗黒性と生命力をイメージせずにはいられないのだが、バーンスタインのこの盤は十分過ぎるほど、これらを表現しつくしていると思うのだ。
この拙い感想を書くために、実はこの演奏を十回くらい繰返し聴いただろうか。聴くたびに決して色あせることなく、その度に新たなる力を与えてくれる演奏である。いささか、感想が単調になってきてしまったきらいがないではない。しかしだ、バーンスタインと言うものは、聴衆の深いところにグサリと入り込んでしまうような、不思議な魅力が確かにある。
正当な「春の祭典」評価において、この盤がどういう位置付けかは分らないが、私にとってはこれ一枚あれば、他の演奏がどうであれ、正統的な演奏が何であれ、どうでも良いとさえ思えてしまう。
2001年4月9日月曜日
家で練習していたのです。そうしたら携帯が鳴りました
すぐに楽器店に持っていきましたが、たまに練習するとろくなことはありません。やっぱり楽器は飾っておくのが一番てか?
練習していたのは、ヘンデルのソナタですが・・・「ヘンデル=ヘコンデル」ていう刷り込みが、ああ・・・
2001年4月8日日曜日
ファジル・サイによる4手ピアノ版「春の祭典」
ストラヴィンスキー:「春の祭典」 ピアノ版
ファジル・サイ(p)
録音:1999 TELDEC WPCS-10570(国内版)
昨年(2000年)、いろいろなところで話題になった盤である。トルコ生まれのピアニスト、ファジル・サイがストラヴィンスキーの「春の祭典」4手ピアノ編曲版を、多重録音で一人で奏した演奏である。
クラシックで多重録音ということで、保守的なリスナー(要はオレのことだ)にはキワモノ的なイメージが付きまとったのではないかと思う。輸入版だと1000円以下、国内版でも1200円と安いので(録音時間も30分だが)、まあ物は試しと半年以上の前の新譜だが聴いてみた。
私もピアノができたら、好きな曲を思う存分弾いてみたいと思ったことがある。最近ではMIDIにより。一人あるいはコラボレーション作業でオーケストラをシミュレートし自分の好みの演奏を作り上げることができるようになってきていると聞く。ファジル・サイがこのような試みを行ったときのきっかけは、自分の好きな曲を、自在に操って演奏したいという強い欲求があったのではないかと思うのだ。
聴いた感想としては、非常にスリリングな演奏であるばかりか、ファジル・サイの曲への思い入れと愛情があふれた、一種独特の世界が形成されていると感じた。ファジル・サイの演奏は物凄く激しく、もはやピアノと性交しているのではないか(表現が下卑ているが)とさえ思わせる。サイの唸り声ともうめき声ともつかぬ音まで入っているのだ。
だからと言って、トンデモ的なイメージは全く無い。ここにはストラヴィンスキーが「春の祭典」で表現しようとした(と思われる)、原始的な暴力的とも言えるリズムと、内からこみ上げてくるような生命力が見事に表現されており、将に正攻法の演奏と言ってもよい。
ピアノの内部奏法をまで駆使するところには、彼の並々ならぬ情熱を感じるし、それがピアノという楽器が出すことのできる音色を限界までに引き出し、ピアニズムの極致とモノクロームな色彩がはじけていると感じた。色々な奏法や弾きかたをすることでオーケストラの音色を思わせるような部分も多く楽しめる。弦のピチカートを模したような音もあり、非常に豊穣である。
激しいだけではなく、例えば第一部の序奏などは、透明感があり一瞬JAZZを聴いているのではないかと思わせるような雰囲気さえ漂うのだ。第二部の序奏などオケ版よりもミステリアスに感じるかもしれない。
もっとも、オケ版との比較ということでこの演奏を聴くことは無理があると思う。ピアノが表現しうる限界までを追及した、特異なる盤と言えるのではないか。ただ、録音のせいなのか激しい演奏であるものの、思ったよりダイナミックレンジは大きくない。そこら当たりに不満を感ずる人もいるかも知れない。それに、何より、ファジル・サイによる生演奏を聴く事はおそらく叶わないのだ。
2001年4月2日月曜日
トマス・ハリス:レッド・ドラゴン
ハンニバル・レクターという類まれなるキャラクターが初めて登場した小説である。おなじみのクロフォードやグレアムといったFBIの捜査官が主人公である。
小説ではすでにレクターは人喰いの連続殺人犯として重度の警備体制が敷かれた牢獄に捕らえられているものの、精神学界などに貴重な論文などを提示しつづける高い知性の持ち主という設定が与えられている。また、グレアムが捜査上のアドバイスをレクター博士にもらい、レクターが何度か意味深いレターをしたためるというのも、この頃から彼に与えられた性格であったようだ。レターは藤色の便箋に書かれ、趣味のよさの片鱗も表している。
とは言ってもこの小説はレクターの小説ではない。ダラハイドという人喰い連続殺人犯とそれを捕まえよとするグレアムの壮絶なる物語である。レクターが果たす役割は、さかれたページにしてもごくごくわずかである。また、この小説では「ハンニバル」のように作者がページの中から顔を出すこともない。従って「ハンニバル」の小説の雰囲気や、レクターのルーツを求めてこの小説を読むならば、期待はずれを感じることだろう。
「レッド・ドラゴン」というタイトルが示す、自らを「赤き竜」と名乗る殺人犯ダラハイドの描写は非常に不気味である。しかし、幼児期の悲惨な過去がトラウマとなり分裂気味の性格が連続殺人を犯したとするような、まあ今となっては定型的(といってしまうと語弊があるが)な犯人像が、読者に安心感を与えていることも否めない。つまり荒唐無稽なメチャメチャなキャラクターではないわけだ。ここらあたりは、ベストセラーとなった「FBI心理分析官(1994)」などが世に出され(それとて「羊たちの沈黙」のメーキングを示す形で出版されたと記憶しているが)、「快楽殺人犯」の過去を暗黙のうちに了解しているからかもしれないのだが。
この小説が書かれたのは1981年、サイコ・ホラーなどという言葉はまだない時代だったかもしれない。そういう状況にあっては、この小説の不気味さや異彩は格別であったろうと思う。
ラストに向けては、作者の中で悪の中に救いを求めようとする姿があるような気持ちも汲み取ることができる。悪を救うのが、どういう形であれ「愛」であるという結論を持ってくるところは(ハッピーエンドは決して得られていないが)、このような怪物を生む原因も「愛」の欠如であるという点から導いていることからも、妥当であると思う。考えてみれば、「ハンニバル」でレクター博士を救ったのもやはり「愛」だ。
もっとも、このような「絶対的な悪」「悪魔的」な人物像と言うものを憎む気持ちよりも、冷徹に「善」と「悪」をどこか違う境地からトマス・ハリスは眺めているような気がしてならない。また、「悪」は必ず「愛」の前では無力であるみたいな、楽観的な見方についても疑問符を投げかけているようにも思える。
最後にふと思うのだが、はからずも「ハンニバル」での一説が脳裏に蘇るのだ。
「猥褻で俗悪なものに絶えずさらされた結果、大方の人間の神経が鈍麻してしまった現在、われわれの目にいまなお邪悪に写るものを確認しておくのは、無益なことではない。われわれの柔弱な意識のじめついた贅肉を激しく打って、いまも強い関心を書きたてえるものは何か?」
そう、われわれは既に「レッド・ドラゴン」の凄惨さには慣れてしまっているのだ!!