2002年5月1日水曜日

 東京・国立マンション紛争から景観論を考える

2月14日に国立市のマンション紛争について書いた。朝日新聞を読んでいたら、この問題が清水書院の「新中学校公民」で憲法と絡めて教材として扱われていることを知った。教科書を読んだわけではないが、「街の住みやすさや美しさ」「環境権」「眺望権」ということで人権を主張する住民運動の例として扱っているらしい。

そういう扱いをすれば、確かに「人権」と「地域のエゴ」という観点での論争になってしまうだろう。しかし、論争になることそのものが不毛なことのように思えてならない。

日本という国は、以前も書いたが都市景観や都市環境への認識が希薄であるように思う。それは、極論するならば西欧と日本の建物のありかたの違いに行き着くとするのが一般的な認識だろう。つまり西欧は石でできた堅固な建物で、地震や火災被害が少なく歴史的な延長上に現在がある。一方で日本の建築は木と紙でできており、地震や火災、西欧文化の流入と更には戦災にて過去と現在が連続していない。スクラップアンドビルドを原則とするような再開発により、更にその不連続は加速されている、というものだ。

いささか乱暴なまとめ方ではあると思うが、一面はうまく捉えているのだと思う。しかし、都市環境は、そこに住む人たちの内面世界の表れでもあると思うのだ。都市の外郭が人を決定付けるのか、人のありようが都市を形成に影響するのか、どちらが先かを考えるより相互に作用しあっていると考えたほうが自然だと思う。

現在の我々が住む都市を、過去の連続性の上に築き上げようとする考えがあるならば、地域との調和と周辺環境に配慮した上で、新たな都市像を模索する計画となるであろう。現在の都市再開発には、地域の歴史的背景やコンテキストを取り込んだものは少ない。ある地域に突然、振って沸いたような(藪から棒のような)計画が当てはめられる。開発者としては地域環境に配慮したと主張しても、それが外壁のタイルの色だとか、昔の建物の一部を保存するだけというのは淋しい話だ。

一方で、地域の連続性などは不要であると考える方もいるだろう。過去の狭く貧しい環境など忘れて、清潔で綺麗で便利な環境を創造すべきだ、まだまだ日本は西欧に比べたら都市化が遅れているではないか。過去の街並みがいとおしいなどとは懐古主義でしかない、というものだ。これはこれで一理あるわけである。ボロボロの木造住宅の横にドブと傾いた電信柱が続くような環境を積極的に残したいと考える人はむしろ少ないだろう。

都市の連続性ということと、古い時代の都市に住む人たちの人権ということは同列に扱える問題ではないと思う。更にそこに、懐古主義的な感情まで持ち込むことは議論を更に複雑にするように思える。

まず考えるべきは、我々が後世に残したい、残さなくてはならない都市環境とは何なのか、今我々が手にすべき新しい都市環境とは何なのかという視点なのではないだろうか。両者を総合的に比較し、「あるものを失ってまで得るものの(コストを含めた)パフォーマンス」を客観的に評価できる尺度が必要なのではなかろうか。一企業の経済原理だけで都市環境が決定されること、それに対抗する手段が人権とかエゴのような論理しかないということにアンバランスさと不自然さを感じるということなのだ。

このような尺度を考え、総合的な都市像を提示することは、行政と都市エンジニアのみならず、地域内外の多くの人たちが関わって議論すべき問題であろう。

(*)意識的に本文中では「都市環境」という言葉を使っています。いわゆる環境問題の「(自然・地球)環境」とは異なるスコープで使っております。

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