2005年12月24日土曜日

タワー崩壊?


タワーレコードのサイト(@TOWER.JP)がメンテナンス中とかで、随分長い間サービスを休止しています。おかげで注文していた幾つかのCDが届かないまま年末に突入してしまいました。


逆に9月23日にHMV注文したルミニッツァ・ペトレのバッハ無伴奏ソナタ&パルティータがやっと届きました。3度くらい発売延期になっていたもので、予告によると今度の発売日は12月27日となっていましたから、それよりは一足早く届いたというところでしょうか。クリスマスに届いたというのも、何だか気分の良いもの。と言うことで聴くより先にiPodに入れてしまいました(笑)

iPod+amp;AKG K26P

iPod付属のイヤホンがイカれてしまいました。中のスピーカーがイヤホン筐体の中でズレてしまったのか、歩きながら聴くと「カタカタ」と異音がしたり、時々音が途切れる。修理(あるいは交換)にとも思ったのですが、この際と思い銀座のApple Storeで幾つかのヘッドフォンを視聴してみました。

B&O A8やSennheiserのPMX200などいくつか店頭にあるものを試したのですが、結局syuzoさんもお使いのAKG K26Pを購入してしまいました。価格と音のバランスが一番よかった(>つーか、一番安い方だった)というのが選択した理由。PMX200は、かけ心地は一番良かったのですが作りが安っぽく、すぐに壊れそうでしたし、A8はK26Pなどと比較してしまうとデザインや価格の割りに音質が軽い。

ノイズリダクション機能付きとか、より高音質なヘッドフォンもありますが、所詮iPodに転送した音楽データなのですから音質は「そこそこ」でいいんです。K26Pは折りたたんで付属の袋にしまえる携帯性の点からもiPodには良いかなと。店頭では自分のiPodを出し、内田さんのモーツアルトのPコンやC.クライバーやチェリのブラームス、バレンボイムのワーグナーなどを視聴して決めました。

syuzoさんのエントリを参考に、いくつか購入に至ったにも関わらずアフェリエイトには貢献しておりませんm(_ _)m

チャイコフスキー:交響曲第5番/ムラヴィンスキー&レニングラード

ムラヴィンスキー チャイコフスキー交響曲第5番
  1. Andante-Allegro con anima 13:44
  2. Andante cantabile,con alcuna licenza 11:51
  3. Valse.Allegro moderato 5:34
  4. Finale.Andante maestoso-Allegro vivce 11:39
  • ムラヴィンスキー(指揮) レニングラードpo.
  • 1977年10月19日 NHKホール LIVE
  • ATL052

許光俊が「オレのクラシック」で絶賛しているものだからつい購入。彼はこのチャイコフスキー以上の音質の録音は、ムラヴィンスキーには存在しない(同 P.123)と書いていまが、これに対しHMVのユーザーレビューでは多くの反発が書かれています。確かに音は「遠い」と感じますし「テープヒスノイズ」も気になるのですが、このチャイコフスキーのしなやかな炸裂はどうでしょう。聴き進むに連れ、そんなことはどうでも良くなります。

��G版など他とは比較して聴いていないので分かりませんが、随所に凄まじさを秘めた演奏であると思います。静かな部分からfffにいたる音楽の流れなど黒ヒョウが華麗なジャンプをみせたかのような鮮やかさです。解説は平林直哉さんほかが書かれていますが、おそらく実演で接していたら、このCD以上の感興であったのでしょう。今時CD1枚にチャイ5しか入っていない盤ですが、チャイ5好きには価値があるかと。

それにしても強奏部の表現は許氏も指摘するように、どこか違うような気がします。炸裂するような音響でありながら「暴力的」であったり「粗雑」ではない、オーケストラ全体がシャキッっと立ち上がるとでも言うのか。第2楽章の冒頭の入り方の丁寧さも、これ以上ないというくらいに素晴らしい。しかし続くホルンの音が少しくぐもって聴こえたり途中音がちょっと危うくなったりするのは残念なところ。同楽章の中間部の強奏部も凄い、思わずビックリ、背筋が伸びる。ここらあたりの表現の鮮やかさと鋭さが、ムラヴィンスキーの音楽を「冷たい」と感じる人がいる所以なのかもしれません。一切の妥協がありませんから。

圧巻はやはり終楽章にありました。圧倒的かつ怒涛の推進力でありながら、微塵も美しさを失わない。良く整備されたスケートリンクの上を一気に滑り、エッジを利かせて華麗にジャンプするかのような絶妙のスピード感と運動性能、削られた氷の破片が頬をピシリと打つかのような爆発。オーケストラは金管も木管も打楽器も弦楽器も、全てが一体となってフィナーレを演じている。

心底、久々に聴くチャイ5はええなあ~(;_;)

参考

チャイコフスキーの交響曲を聴く

2005年12月23日金曜日

ブラームス:交響曲第3番/テンシュテット&LPO






テンシュテット

ベートーベン交響曲第7番、ブラームス交響曲第3番


  1. ベートーベン:交響曲第7番
  2. ブラームス:交響曲第3番


  • テンシュテット(指揮) ロンドンpo.
  • Royal Festival Hall,London,22 November 1989(Beethoben)、Royal Festival Hall,London,7 April 1983(Brahms)
  • BBSL 4167-2



ベートーベンの7番が余りにも素晴らしい演奏でしたが、このブラームスもなかなか聴き逃せません。独特の温かみと優しさに満ちた演奏です。爆演とかいう種類のものではないのですが、フツフツと内側からこみ上げる重厚さと説得力に満ちていて音楽を聴く喜びを満喫できます。


たとえば2楽章の中間部などを聴いていると「ああブラームスっていいなあ、ベートーベンみたいに頑張んなくたっていいや」という愉悦に浸ることができますし第3楽章の寂寥感を伴った美しさは特筆モノで、いつまでも聴いていたくなります。


テンポは比較的「ゆっくり」しているように感じます。他の演奏と比べて聴いたわけではありませんので、実際はどうなのか分かりません。そう感じるのは曲全体を支配する大きな波のようなものを感じさせてくれる演奏だからでしょうか。コケ脅しのようなところは微塵もなく細部も丁寧です。終楽章も適度に抑制された表現の中にゆるぎない意志を感じます。ここでも大波のようなうねりを感じることができ、その揺れに身をまかせているうちに曲は静かに幕を閉じます。ああ、満足。




2005年12月22日木曜日

ベートーベン:交響曲第7番/テンシュテット&LPO

テンシュテット
ベートーベン交響曲第7番、ブラームス交響曲第3番
  1. ベートーベン:交響曲第7番
  2. ブラームス:交響曲第3番
  • テンシュテット(指揮) ロンドンpo.
  • Royal Festival Hall,London,22 November 1989(Beethoben)、Royal Festival Hall,London,7 April 1983(Brahms)
  • BBSL 4167-2

来年がモーツアルト・イヤーだからというわけではありませんが、iPodに入れたモーツアルトばかり聴いていたときに、Syuzo's Columnでこの盤の紹介を目にしました。その中での文章に、

ベートーヴェンを箱庭のような所に押し込めて、「ベートーヴェンって、そんなに凄くないじゃん。モーツァルトみたい」とロココ風の衣装を着せて軟弱に喜んでいる演奏ではない。これは不屈の精神と巨大な愉悦という、ベートーヴェンの凄みをしっかりと知らしめてくれる演奏である。

ということが書かれています。この文章は演奏スタイルというだけではなく、モーツアルトの音楽とベートーベンの音楽の決定的な差異について端的に語っています。ベートーベンをどのように解釈して演奏しようと、それは間違いではないのでしょうが、ベートーベンが表現した音楽は、モーツアルトという天才がどんなに技巧を凝らしても決して表現できなかった(しなかった)世界を提示していることだけは確かなでしょう。

音楽が『意志』を持ち始めた、と言ったのは思想史家の丸山眞男です。

音楽という芸術の中に『意志の力』を持ち込んだのはベートーベンです。『理想』と言ってもいい。人間全体、つまり人類の目標、理想を頭に描いて、<響き>=<音響感覚>でそれを追求し、表現する。凄まじい情熱ですね。これを『ロマンティック』と言わずして、他になにがありますか。(「丸山眞男 音楽の対話」中野雄著 P.75-76)

以前に触れましたが慶応大学教授でもある許光俊氏は「オレのクラシック」の中で、そういう近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまった(P.49)と指摘します。

しかし、こういう力強い圧倒的なベートーベン演奏を聴くにつけ、改めて音楽の持つ力と今の時代にベートーベンを聴く意味について考えざるを得ません。この演奏はもはや、弦がどうだとか、ティンパニのロールが凄いとか、そういう感想を超えています。第三楽章あたりから、もはや涙が止まりません・・・感想はsyuzoさんや以下を参照してください(;_;)

HMVサイト

2005年12月5日月曜日

年末まで更新できません3

そういえばアファナシエフのベートーベン(ディアベッリの主題による33の変奏曲)もiPodに入っていたなと思い出し何気に聴きだしたものの、またしても愕然としてしまう。これがベートーベンなのかと驚き、余程ムソルグスキーの「展覧会の絵」よりもグロテスクではないかと思う。今はアファナシエフの演奏を受け入れる余裕がこちらにはないみたいだ。



2005年12月4日日曜日

年末まで更新できません2

iPodに入れた音楽に唯一癒されているが、結局いつも聴くのはモーツアルトばかりなり。モーツアルトの音楽がこんなにも人を癒すものだとは、ついぞ知らなかったし、巷に溢れる「モーツアルト効果」というものも、あながちブラフではないのだなと思う。しかしながら、そう思っていた頭で聴いたアファナシエフのモーツアルトは従来の演奏とは余りにも違う次元を表現しており、しばし愕然。書きたいことはあるが、以上の状況につき後日。


2005年11月28日月曜日

モーツァルト

昨日寝たのが3時頃、休日も仕事をしなくてはならないと思うのだが朝は思うように起きられない。目覚ましが鳴るのを止めてウトウト・・・、そういえばタワーレコードから頼んだものが届いていたな、と思い出したら、いてもたってもいられなくてガバリとはね起きる。注文していたのは内田光子のモーツアルト廉価版ほか。
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番|第23番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番|第24番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番|第26番「戴冠式」 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番|第27番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • 鬼才アファナシエフの軌跡2 アファナシエフ・プレイズ・モーツァルト
  • 鬼才アファナシエフの軌跡3 ベートーヴェン

早速iPodに内田さんのアルバム2枚分を入れて出勤。K.466とK.491を聴く、ああモーツアルトを聴くことのできる幸せよ。途中近くの古本屋で「モーツアルト」(岩波書店 ピーター・ゲイ著 高橋百合子訳)を見つけて思わず購入、地下鉄の中でつらつらと読み始める。著者はイエール大学の歴史学名誉教授、ヨーロッパ比較思想史を専門とし18世紀から20世紀にかけての文化史研究の第一人者らしい。この間読んだ「モーツアルト」(中央公論社 H.C.ロビンズ・ランドン著 石井宏訳)もモーツアルト研究の第一人者の書ではあったが、新書の内容のせいか総花的であまり面白い本ではなかった。こちらは読み物として割と面白そう、一気に読んでしまうのがちょっともったいない(というか、そんな時間ないんだってば)。仕事をしながら2枚分聴いてしまったので、帰宅してから残りの2枚もiPodに転送、K.467を聴き余りの美しさに涙しそうになる。

2005年11月20日日曜日

オー・マイ・ガッ!ダブり買いどころか

昨日書いたスヴェトラーノフの「ローマの祭り」の感想。どうもジャケットに見覚えがあるし変だなあと思っていたのですが、何と既に購入済であり、しかもその感想をHPに書いていた盤であったことが判明。

というのも、トップページのメニューバーに「自サイト内検索」機能(ブログ以外の文書も検索)(*)を復活させ、試しに「スヴェトラーノフ」で検索してみたら、2003年3月のエントリが見つかったという次第。やっぱりサイト内検索は便利だなあと思う反面、あまりの我が身の記憶力の無さに腹を立てると同時に、感想の文章が全く変わっていないことにも愕然・・・。この2年半の間に自己に進歩はなかったということかっ!

ついでだから書いておこう。あのエントリで私は、

有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

と書いた。一方、許氏はゲルギエフが嫌いらしく次の様に書いている

これに比べれば、チェクナボリアンやゲルギエフなど、しょせんお子ちゃまが暴れているだけ、プロとアマくらいの差がある。(「オレのクラシック」(P.108))

改めてスヴェトラーノフを聴いて分かりました。許氏、貴方はある意味で正しい。ただ別のものを比較してプロとアマだ大人だお子ちゃまだというのは意味がない。おそらくは二人の「暴虐」は指揮者としての根底の部分が違っているし、従って指揮者として目指す音楽のベクトルが全然異なっていると感じた。それを言葉にする能力は私にはないのですが。

ただ個人的には私もトシをとったのか、クラシックに「野蛮性」を求める気持ちは少なくなってきましたので、引き続き二人の「暴虐の限りの差」について書くことはないでしょう。ついでに書くなら許氏的な「オーケストラ演奏を語る資格」は、かろうじて有していたようです(笑)

(*)サイト内検索機能はトップページにしか設置していません

スヴェトラーノフ/レスピーギ:ローマ三部作

スヴェトラーノフ&ソ連国立響 ローマ三部作
  1. ローマの噴水
  2. ローマの松
  3. ローマの祭
  • スヴェトラーノフ(指揮) USSR State so.
  • Live at the Great Hall of the Moscow State 1980.2.30 Scribendum SC021

許光俊が「オレのクラシック」で残酷と野蛮と官能の恐るべき『ローマの祭り』としてベタ褒めの盤であります。

残酷と野蛮と官能の限りを尽くした音の酒池肉林と言うしかないこの演奏は、クラシック史上に残る名作である。これを聴かないでスヴェトラーノフを、いやオーケストラ演奏を語ることができないのは間違いないところだ。

とまで書いています。そうか、私は今までオーケストラ演奏を語る資格さえなかったのかとフカク反省し聴いてみたのですが、爆演であることは認めるものの許氏のような手放しの絶賛を与えることができません。

というのも、この演奏はチンケな再生装置で聴いてはダメですね。再生装置の処理限界を超えるのでしょうか、音の塊はダンゴ状態となって耳にぶち当たって砕けるだけ。金管の音(特にペットとかも)もどこか貧相に聴こえてしまう・・・。やはりホールでこの爆発的な音塊を全身で受け止めなくては、おそらくはこの演奏の真価を語ることはできないのだろうと、再びフカク悟ってしまいました。(>どんな演奏でもそうなのでしょうが)

それでもとりあえず気付いた事をメモしてきますしょう。「ローマの噴水」は爆演という点からはイマひとつ、繰り返して聴くほどの演奏とは思えず。しかし「ローマの松」の「カタコンブ付近の松」は低弦の支えの分厚さは凄く壮大な音楽を聴かせてくれます。金管は限界近くまで咆哮します。一方「ジャニコロの松」のような静かなところになると、ソロのまずさが耳に付く。抒情という点でもあまりイタリア的感傷は感じない。「アッピア街道の松」はさすがに凄まじいカタストロフを演出している。最初の出だしの重さと暗さは尋常ではない。ロシア陸軍が凍土を黙々と行進しているよう。しかし最後はモスクワかどこかに凱旋しているような歓喜の爆発。オーボエとかのソロはやっぱりちょっと粗削りでイマイチだが打楽器の迫力は聴きモノ。全体のバランスとしては粗さを怒涛の迫力が飲み込んでいる、ラストの終わり方も凄い。ハマれば思考停止になることは間違いない演奏。

ローマの祭り」は、一体全体どうしたらこんな演奏が可能なのか。「チルチェンセス」は暴君ネロの祭り。この暴虐の限り、殉教者の祈りを全て斬り裂くかのような音楽には驚く限り。スヴェトラーノフはオケの多少の(多少か?)破綻は無視し、ホール全体に(おそらく)鮮血の霧を撒き散らしているかのよう。底抜けに明るいハズのナヴォナ広場の「主顕祭」も力瘤入りまくりの鉄のダンス。グロテスクさと諧謔性、え、あれ、こんな曲だったっけ。ラストに至っては空いた口がふさがらない。許氏の耳にどうしてこれが「官能」と聴こえるのか、私の感性とは違うという他ないが(>再生装置が違うんだってば)、ひとつの極地の演奏であることは認める。

褒めているんだかケナしているんだか分からない感想になってしまったが、ストレス解消になる演奏でもあるので、「アッピア街道の松」と「主顕祭」はi-Podに入れておくか(笑)

と、ここまで書いて、以前にもレビュウしていることに気づいた、何てこった!

2005年11月18日金曜日

歌舞伎座、5年後メドに建て替え決定


切られお富!さんのブログで歌舞伎座の建替えの正式発表が再びなされたことを知りました。


松竹は16日、東京・銀座の歌舞伎座の建て替えを決めたと発表した。


 今後、地元関係者らとの協議を始め、協議などに約2年、建て替えに約3年を見込んでいる。工事期間中は、代わりの劇場を借りるなどして興行を続ける。


 現在の歌舞伎座は1951年オープンで、老朽化が著しい。このため、座席の幅を広げたり、通路の段差を解消したりする。外観は、現在の伝統的な雰囲気を残す方針という。 (2005年11月16日 (水) 20:04 読売新聞サイトより)




確かに歌舞伎座は老朽化が激しいし設備もかなり古い(かもしれない)。4月21日のエントリでも書いたのですが、現在の歌舞伎座は鉄筋コンクリート造。でも中には客用エスカレータもエレベータもありませんからお年寄りには少し辛いかなとか思ったりもします。エントランス廻りも狭くて、雨の日の開演前は晴海通り前はごった返します。席も結構狭いですしね。でも私はなかなか趣があって好きなんですけどね。


新しくなるのは結構なことですが、先のエントリにも書きましたし切られお富さんも触れている「幕見席」だけはなくさないで欲しいと切に願います。あれがなければ私が歌舞伎を観続けることはなかったし、中村勘三郎の襲名披露に接することもなかったことは確実。根性出して4時間並べば最後の月の公演も観ることができましたから、一部の人に演目が独占されてしまうことを防ぐシステムであるともいえます。「古典めざましタイ」に書かれていることにはほぼ同意。「六条亭の東屋」でも触れている風情のある外観、ここがイチバン難しそうですね・・・


クラシック系にこのような公演システムがないことは「芸能」と「芸術」の違いなんでしょうか。どちらも広義にはエンタテではあるはずなのに、と思うのですが。

2005年11月17日木曜日

キーシン/ベートーベン:なくした小銭への怒り

「失われた小銭をめぐる興奮」あるいは「なくした小銭への怒り」というタイトルのベートーベンの作品。モーツアルトの「俺のケツを舐めろ」K.233などと並んで"変なタイトルの曲"として有名です。

キーシンのシューマンのアルバムに入っていたのですが、今まで気付かずにいました。改めて聴いてみますと、最初から最後までが、早いパッセージによる技巧的な曲であり、激しさの中に音の驚くべき変化も認めることができ、聴き方によってはちょっとキてしまっているとも受け取れる曲です。最近の業務の忙しさで私もキレかけていますので、こういう曲を聴くと何だかスッキリします、繰り返して数度も聴いてしまいました(笑)

どうしてこのような題名が付いたのかは分かりませんが、怒りというよりは「う"~っ!」と頭をかきむしるような悔しさとでもいうのでしょうか(笑) 快活さなのか怒りなのか良く分かりませんが過剰なまでの表現はすさまじく、この超絶技巧的な曲をキーシンは、おそらくはイレイザーヘッドのような頭を一つも乱すことなく正確にしかも驚くほどの見事さで弾ききっているようです。


Evgeny Kissin

Beethoven Rondo a capriccio Op.129 "Rage over a Last Penny"

Evgeny Kissin(p) 1997.8 BMG 09026 68911 2

2005年11月13日日曜日

歌舞伎座:吉例顔見世大歌舞伎


歌舞伎座で吉例顔見世大歌舞伎の夜の部を観てきました。

演目は吉右衛門が人形浄瑠璃『嬢景清八嶋日記』をもとに書き上げた「日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)」、富十郎の長男大の初代鷹之助襲名披露狂言「鞍馬山誉鷹(くらまやまほまれのわかたか)、幸四郎と染五郎親子による「連獅子」、そして近松門左衛門作、梅玉や時蔵による「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」の四本です。

途中に休憩が入るとはいえ、少々長いかと思ったのですが、舞台は豪華絢爛、またしても歌舞伎を見る快感を堪能できるものでありました。


見ものはやはり「日向嶋景清」でしょうか。吉右衛門の演技が実によかった。源氏との戦いに敗れた景清は自らの目を付いて盲目となり、源氏への妄執を捨て平家の位牌を守って暮らしているのですが、そこに景清の実の娘である糸滝(芝雀)が現れます。景清の娘を思う気持ち、さりとて武士の矜持も捨てきれない、その揺れ動く気持ちの様が見ていて心を熱くします。

心の中では泣きながらも、娘を無理やりに追い返すところ、その後に自らの胸中を明かすところなどは涙なくしては見られません。糸滝の置いていった文箱の中の書置きの内容を知ってからの景清の絶望と苦悩は見ていても苦しいほど。

全体に芝居は、芝雀の「泣き」が少し単調に見え、吉右衛門の嘆きや心情の変化が劇的過ぎるような、両極に触れていた印象がありますが、それでも心理的凝縮感が物凄く迫真の舞台であったといえましょうか。

ラストに景清が頼朝に帰順し、あれほどに守り続けていた平重盛の位牌を海に捨てる場面は、個人的には疑問が残るものの、それでも最後の場面はきわめて立派であり大きな物語が見て取れました。

この位牌を捨てる場面については、吉右衛門(松貫四)も今月の解説本の中でそれをハッピーエンドと捉えるか、信念を曲げたことを悲劇と捉えるか。ご覧になる方によって受け取り方は変わるでしょうと記されています。主君に忠義を示すのが武士なれども、その武士とて主君あってのもの。そこに吉右衛門が描いた景清の人物像がくっきりと浮かび上がったラストであったと思います。

それにしても、この場面での舞台の奥行きの深さ、および景清の変心を象徴する海の青の鮮やかさには思わず息を呑み、舞台演出の点でも極めて効果的であったと感じました。

続く「鞍馬山誉鷹」は鷹之助襲名のための今井豊茂氏による新作。鞍馬山の一面の紅葉が実に鮮やか、実に華やか。この書割を見ただけで笑みがこぼれる。しかも襲名を祝う脇を固めるのが、富十郎(鷹匠)、仁左衛門(平忠度)、梅玉(喜三太)、吉右衛門(蓮忍阿闍梨)そして雀右衛門(常盤御前)なんですから、これまた豪華。

鷹之助はわずかまだ6歳なのですとか。それでも花道からの入りで見得もなかなか。客席からは暖かい拍手と「うまい、うまい」との声が。私もここは素直に見入ってしまいました。舞台中央に入ってからの前半は、ひたすら鷹之助を持ち上げる演技の連続。ああ、歌舞伎っていうのは、主役がとことんに美しく強く引き立つように出来ているのだなあと改めて感心感動。後見に鷹之助が人形のように抱きかかえられての場面も、よしよし、いいぞいいぞ、といったカンじ。

途中に口上の入るのも楽しめる。「松竹株式会社の永山会長の暖かいおはからいにより~」と謝辞を述べるところに、興行的な意味合いを感じ取るものの、皆が「大ちゃん」と言って祝うのですから、ここは素直に受け取りたいところ。雀右衛門の仕切りの声にはハリもあり貫禄充分、10月の公演で体調を崩され心配しましたが、これなら当分大丈夫(笑)。肝心の富十郎はそれこそ平蜘蛛のように這いつくばったままで恐縮していたのが印象的でした。

さて、幸四郎、染五郎による「連獅子」も舞台で連獅子は初めてなので期待大でありました。ただ最後の頭の毛を振り廻す場面では二人の舞があっておらず、こういうものなのかと。染五郎が若さ故か力任せに頭を振るのと対照的に、幸四郎は淡々と振る。染五郎のそれは鋭角的な狂乱で綺麗な環になっておりませんでしたものの客席からはヤンヤの拍手。連獅子という芝居、この奇妙な毛振りを皆が期待してしまうところに歌舞伎の娯楽性を感じるのですが、その点からは私の感想はイマイチといったところ。

もっとも我が子を千尋の谷に突き落としてからの本舞台で子を探す親獅子と、花道でそれに気付く仔獅子の場面は印象的でありました。親獅子の迷う気持ちが舞台からひしひしと伝わってくるのが良かった。対して染五郎の仔獅子は親が心配している場面では、花道でじっとしているのですが、その態度が不遜に見えたのは何故か。親を超えようとする仔の気概か。そう考えると毛振りにおける乱舞もフロイト的匂いがあるのかもしれず、深読みか。

最後の「大経師昔暦」は、何ですかねこれは。近松門左衛門による世話浄瑠璃ですが「鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」と「堀川波鼓」とともに三大姦通ものとい言われる作品。喜劇と悲劇が紙一重で、なんともなあ的な終わり方にも味わいがあるものの、これを評する能力は今の私にはなし。ただ、最近夫がつれなくて他の女ばっかり口説くものだから、その女に成りすまして口説かれて見せましょ(目にモノ見せてあげましょ)とは、なんと「フィガロ的」なストーリーでしょう!ある意味においては、最も深く面白い芝居であるかもしれません。

2005年11月8日火曜日

Towerでの買い物

許光俊氏の「オレのクラシック」を読んで、以下の4つの盤をタワー・レコードに発注、早々に届く。こういう盤を今更というか、やっと入手するというのも、何だなあとは思っているのですが。


  • Rachmaninov: Symphony No 2; Tchaikovsky: Francesca da Rimini
    Pyotr Il'yich Tchaikovsky / Svetlanov USSR
  • Respighi: Orchestral Works / Svetlanov USSR
  • Beethoven :Symphony no.6 & Wagner etc / Mravinsky 1979 Tokyo
    Ludwig van Beethoven
  • Tchaikovsky : Symphony no 5 / Mravinsky, Leningrad PO (1977 Tokyo Live)


一方で9月23日にHMVに注文したルミニッツァ・ペトレの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータは、度重なる発売日延期によりいまだ届かず。まあ、届いたところでゆっくりと聴ける時間は取れないのですが(苦笑)。




2005年11月6日日曜日

金持ちとビンボー


20代後半から30代前半までを(おそらく)ターゲットとしている「SPA!」という雑誌は、「金持ちとビンボー」という図式で記事を組むことが多い([金持ちOL(ねえさん)×貧乏OL(ねえさん)]格差図鑑 11/8号)。 三浦展氏の「下流社会」も数度にわたって紹介され、「金持ちなOL」の優雅な生活を掲載し持たざる若者を不必要に刺激しています。



ここに見出される感覚は、もはや「金持ちになること」を否定的に捉えない感覚であり、拝金主義というのとはまた違った欲望のあからさまな表出が見て取れます。最近の資金バブルに象徴されるように「資本主義の原理」とかのタテマエで行われる容赦のない経済活動は、隠すことをしなくなった欲望の発露に見え、むき出しのエゴを誰も後ろめたいとは思わなくなってきた風潮には、いささかゲンナリした思いを感じます。


欲望の発散は自浄能力を失ったメディアによって拡大再生産され、持てるものと持たざるものという単純化した図式で価値観さえ二分する勢いです。こうした状況を分析する先のような書物(三浦氏を含め)が、それを煽動することに一役を買ってさえいるようです。欲望バブルな状況は、以前はあったハズのタガがはずれてしまったように思えてなりません。眉をひそめる週刊誌の中吊り広告や夕刊紙はおろか、日本を代表する経済紙にまで性愛小説が載る始末。インターネットはもはや無法地帯。「anan」がSEXを特集することは今に始まったことではありませんが、20年前と比べても感覚が鈍磨したのか先鋭化したのか。欲望の制御が利かなくなった日本が近い将来どこにいるのか私には良く分かりません。


一方で「ニート」に関する記事もあちこちで目につきますが、たとえば「週刊文春 11/10号」におけるフリーターとニート900人アンケート 考察「下流社会」 「ボクがなりたい人」「絶対なりたくない人」を読むと、彼らのあまりの世間の狭さに唖然として、「お前らはテレビしか見ていないのか?」「甘ったれるな!」と思わず紙面に向かって唸ってしまうのは、私が旧世代の人間だからでしょうか。「働いたら負け」という感覚には、ホントウに負けました。


とは書いたものの、「ボクがなりたい人」を自問するならば、それはかなり難しい質問であることも気付くのではありますが・・・。

アシュケナージ/ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲Op.42

vladimir ashkenazy rachmaninoff CD5:Variationen op.42 uber ein Thema von Corelli(LA FORIA)20:06 Vladimir Ashkenazy(p) 1973 DECCA 467 003-2

フォリアのテーマは色々な作曲家のイマジネーションを刺激しているようです。ラフマニノフの作品42はコルレリの「ラ・フォリア」を基にした変奏曲で1931年の作品です。静かで荘厳な雰囲気と激しく叩きつけるような変奏と緩急の振幅が大きい曲になっています。ピアノ技術を駆使した壮大な音の洪水は、もはや舞曲としての原型をとどめないほど。それでも核としては厳然とあの耳に親しんだ三拍子のテーマが流れており、かくも変形してまでも音楽家を捉えて放さないフォリアの魔力を感じる一曲か。

アシュケナージのピアノについて云々する知識も経験はないが、緩やかな部分の繊細さと美しさは目を見張る。それでいて情緒には溺れず、強打する部分は決然として潔くクリア。曲の持つ二つの性格の対比がうまく出ていると思います。

2005年11月3日木曜日

許光俊:「オレのクラシック」

今更、許センセに教えを請わなくても良いような気もするのですが、HMVの解説はついつい読んでしまいますし、どんな面白い演奏が発売されているのか気にもなりますので、題名につられて買ってしまいました。

「オレ」のとわざわざ書いているように、許氏の好み全開であります。今までの本でさえ一般向けの大衆迎合的なところがあったのだそうです。また一般向けでない本を求める声も大きくこの際だから、クラシックに限らず、あれやこれや書いたのだそうです。本書の大半を占める「オレのCD」はHMVのサイトに掲載された文章がベースで目新しくはないのですが・・・

許氏の少し偽悪的な文章は非常にストレートであり、「まずいものは、まずい」的に感覚的です。「○○の演奏を聴くと、この曲が△△であったことが良く分かる」というような書き方も多く一読して成る程と納得してしまうところがあるのですが、事はそう単純ではないはずです。彼が「オレが認めない指揮者たち」として例に挙げるラトル、ヤコヴス、ヘレッヴェッヘ、ゲルギエフ、アバド、シャイー、マカールなどにも賛否ありましょう。

しかし、どうしてこういう「過激さ」や「分かりやすさ」や「単純さ」を評に求めてしまうのでしょう。この傾向は何かに似てはいないかとふと考えます。現実世界があまりに混沌としている故の逆説なのでしょうか。音楽界においては、商業主義のオブラートにまみれた愚にも付かない音楽評や、専門家しか分からない用語の羅列による解説(このごろ余り見ない)のため、ホントウのところが見えなくなっているということなのか。こういう本が求められる背景こそが音楽界の問題なのかも知れないとは思うものの、所詮「音楽」のことですから深入りは止めます。

付記するならば、この本で気になったのは、実は「クラシックの未来」と題された一文です。許氏はオレはクラシックはもう滅びたと思っていると断言します。普遍性、真実、真理、理念、理想・・・・・・そういったクラシックを支えていた概念いまやウソっぽいものとなった、あるいは現代では、そもそも、ウソをつかなくても生きていけるようになったため、近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまったと説明しています。

かなりの論理的飛躍で結論だけ書いていますが、もしそうだとするならば、クラシック音楽のみならず、(許氏が前提とする)近代的な概念が崩壊しつつあることを示唆しいます。あらゆるものが変質していることになり、こと「オレ」のだとか閉鎖的なことを書いている場合ではない、と一瞬思ったのですが、

それら(普遍性とか真実とか、真理とか理念とか)はウソとまでは言わないにしても、一部の人にとってしか、正しくないことがはっきりした。別の人間は別の真実や理念を持っている可能性も明確に意識されるようになった。これはやっぱり、進歩と言って言いすぎなら、次の段階に進んだというべきではないのか?

ということは、あからさまな「オレ様主義」の台頭であるということです。時代の変化を、仮にも大学教授がこんなにサラリ書いてしまっていいものかと思うと同時に、ホントウにそうなのかという疑念も生じるのでした。

許氏のその他のCD評については、特にどうということもなし、いくつかは(是非)購入したいなとは思っていますが。

ランパルコンクール


パリのランパル・コンクールに出場していた高木綾子さんが三位入賞だったようです。おめでとうございます。本人のブログで知りました。続報を早く!(^^)



2005年11月2日水曜日

サヴァール/ラ・フォリア~コレッリ、マレの作品ほか

LA FORIA(1490-1701)
  1. 作者不詳:フォリア(聖母マリアの頌歌集のビリャンシーコ「ロドリーゴ・マルティネス」による即興曲)
  2. オルティス:「ラ・フォリア」に基づくレセルカーダ第4集
  3. カベソン:フォリア(ベネガス・デ・エネストローサのロマンセ「誰のために長くした髪」に基づく)
  4. オルティス:「ラ・フォリア」に基づくレセルカーダ第8集
  5. フアン・デル・エンシーナ:フォリア(自身のビリャンシーコ「さあ、食べ飲もう」による即興曲)
  6. マルティン・イ・コル:「ラ・フォリア」に基づくディフェンレンシアス
  7. コレッリ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ニ単調「ラ・フォリア」Op.5-12
  8. マレ:「ラ・フォリア」のクープレ
  • ジョルディ・サヴァール(指揮)、エスペリオンXX
  • ALIA VOX AVSA 9805

「フォリア」とは"狂気じみた"とか"頭がからっぽの"といった意味を持つ大衆発祥の舞曲。ジョルディ・サヴァールのガンバと指揮でいくつもの「フォリア」を聴かせてくれます。

��曲目のフォリアは、鈴の音から始まるのですが、HMVの店頭の紹介にあるように、これが三拍子の三拍目の裏というところに全く意表をつかれます。あれほど静かに始まった曲というのに、気付いたらいつの間にやらスペインのリズムと熱狂に放り投げられてしまうという、何ともゴキゲンな曲。熱狂の中にも一抹の哀愁が漂うところも絶品。あまりの素晴らしさに何度も続けて聴いてしまいました。ある意味で衝撃的な曲で、5分程度のこの曲を聴くだけでも価値があるかなと。

��曲目のスペインの風にあてられた後はオルティス(Dego Ortiz 1510-1570)の小品。深い音色でありながらも激しい。それがカベソン(Antonio De Cabezon 1510-1566)の作品になると、更にオルガンが加わって荘厳ささえ加わってくる。最初の5曲は短いもので1分半、長いものでも5分程度の短い曲。次から次へと奏されるいくつもの「フォリア」はラテン的な熱狂をまといながら、颯爽と駆け抜ける一陣の熱風のようです。

後半は、マルティン・イ・コル(Antonio Martin Y Coll ?-1734)、コレッリ(Corelli 1653-1713)、マレ(Marin Marais 1656-1728)による「ラ・フォリア」に基づくディフェレンシアス(変奏曲)です、前半とは異なり10分以上の曲。

「ラ・フォリア」はマレやコレッリのものは有名ですが、イ・コルのそれはカスタネトが加わることで独特の雰囲気を出しています。どうしてカスタネットが加わるだけで、こんなにも色彩に深みが増すのでしょう。単純で乾いた音はガンバの響きと絡み合うように、時に静かに時に激しく打ち鳴らされます。

コレッリの「ラ・フォリア」ではサヴァールはソプラノ・ヴィオラ・ダ・ガンバを使って軽快でありながらも荘厳に、次々と変奏を聴かせてくれます。単純な音形の繰り返しながらも、変化は多彩でなかなか飽きません。一番最初の「フォリア」だけで充分などと書いた事を訂正しなくてはならないと思える程。

最後はマレの「ラ・フォリア」、これは長い・・・18分もある。ここまで聴いてくると、いい加減飽きてくるし、サヴァールが弾きながら唸っているみたいで(他の曲もそうだが)ちょっと気になります。が、しかし演奏は最後を飾るにふさわしいか。

2005年10月31日月曜日

和光市方面を散策

本日は、ある目的で東京と埼玉のさかい目あたり(和光市)をウロウロと散策。iPodに入れた「フィガロの結婚」を聴き通す程度の時間、歩き続けたことになる。すぐ北は荒川なのでアースダイバー的には「湿地帯」なのかと思ったら、あにはからんや。広大な武蔵野丘陵のちょうど北端に当たるらしく高低差が多い。小高い丘には鎮守の森ではないが神社の鳥居が見える。高台からは、おそらく住宅などの構築物がなければ荒川を含む広大な北関東方面が望めるのかもしれないと思いを馳せる。

なだらなか丘陵地帯はキャベツ畑やら大根畑などが散在、水はけと日当たりの良い農地であると思われ、遠くない過去は立派な「農村地帯」であったのだろうと推測。住宅も都心にあるような狭い区画割りではなく農家のそれで随分と広い。あちらこちらに柿がなっている。晩秋というには未だ早いが、何の変哲もない長閑な風景に心和む。

しかしキャベツ畑も宅地化の波には抗えず、××不動産とかが30坪程度に小割し宅地販売している。過去にあったであろう豊かな空間と極度に凝縮された住宅空間のコントラスト。建売住宅はイタリア風のデザインとかで、農村地帯には不似合いな赤瓦の家々。ガレージにはベンツCクラスやらボルボが鎮座している。これが豊かさということなのか。


iPodにいれたもの

iPodは20GB版を購入しましたので、当面は容量を余り気にせずにどんどんiPodに音源を入れることができます。軽さや携帯性の点からnanoなどのメモリタイプにしようかと迷ったのですが、今となっては2GBを軽く超えるデータが入っていますのでHD版で正解でありました。

先にも書いたように、外でじっくりと音楽を「鑑賞」するという目的ではiPodは全く不適ですから、交響曲や協奏曲など1楽章が20分以上あるような曲を入れることはハナから止めにし、普段あまり繰り返して聴くことのない曲をひたすら入れまくっています。

iPodに入れた曲は以下。こんなに沢山の音源を入れてもまだまだ余裕です(^^)。なんだかiPodに入れることに意義を感じていたりして。iioさんの「録音ジャンキー」に通ずるものがあるな。

  • ビーバー:ヴァイオリン・ソナタ集(寺神戸亮)
  • バッハ:インヴェンションとシンフォニア(シフ)
  • バッハ:ゴールドベルク変奏曲(シフ)
  • バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1、2(アファナシエフ)
  • バッハ:イギリス組曲(シフ)
  • バッハ:フランス組曲(シフ)
  • バッハ:フランス組曲(レオンハルト)
  • バッハ:ヴァイオリン協奏曲(ハーン)
  • バッハ:無伴奏ヴァイオリン(ハーン)
  • モーツアルト:ピアノソナタ集(インマゼール)
  • モーツアルト:ピアノ協奏曲第9番、第24番(田部京子)
  • モーツアルト:レクイエム(ガーディナー)
  • モーツアルト:コジ・ファン・トゥッテ全曲(ベーム)
  • モーツアルト:フィガロの結婚全曲(ジュリーニ)
  • シューマン:リーダークライス、女の愛と生涯(シュワルツコップ)
  • シューマン:クライスレリアーナほか(キーシン)
  • フォーレ:レクイエム(ガーディナー)
  • オペラ・アリア集:(カラス)
  • プッチーニ:ソプラノ・アリア集(ゲオルギュー)
  • ラフマニノフ:プレヴィン&アシュケナージの全集より交響曲、協奏曲を除いた全て
  • ヴェルディ:椿姫全曲(C.クライバー)
  • ヴェルディ:オペラ名場面集(シノーポリ、クーベリック、セラフィン、アバド)
  • ワーグナー:指環名場面集(バレンボイム)
  • カプースチン:24の変奏曲とフーガ(カプースチン)
  • カプースチン:ピアノ曲集(アムラン)
  • ピアソラ他:(福田進一&工藤重典)
  • 武満徹:森の中で、海へほか(荘村清志&金昌国)
  • Bjork:Greatest Hits
  • Black Eyed Peas:Monkey Business

最後の2つはiTMSで購入したもの。

サザンとか平井堅とかの音源もあったので、最初は入れていたのですがガラぢゃないし、実のところ全く聴かないので早々にはずしてしまいました。

2005年10月30日日曜日

iPodのつかいみち

鎌倉スイス日記で「iPodのビデオ・・・要るの?」とのエントリ。容量が増え、かつ薄型になって軽くなるのは歓迎ですが、私も用途としてはビデオは要らないなと。写真機能でさえほとんど使っていない。というのも、iTMSを通してネットから音楽を購入せずに、ひたすら自分の貧弱なライブラリを、せっせとiPodに保存しているだけだからですが。おそらくAppleは、こういう「閉ざされた」使い方は歓迎想定していないのだろう。どんどんネットから音楽やビデオクリップを買えということか。


iPodは常に持ち歩くようになって改めて気付いたのですが、クラシックを聴くという点においては地下鉄や街中は携帯音楽プレーヤーがほとんど使い物にならない。あたりの騒音が凄まじすぎるのです。道路騒音、地下鉄の走行音、不必要な社内あるいはホームの放送音、ほとんど意味不明の街頭あるいは店内BGMなどなど・・・、こんなにもあたりは騒音にまみれているのかと。逆にこれほど多くの騒音を「無視」できるように慣らされているのだなと。


インナーイヤ方の遮音性能の高い高価なイヤホンや、ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンも発売されていますが、それを購入する前に、iPod付属の貧弱なイヤホンをしっかり耳穴に押し付け、なおかつ掌で耳全体を覆い、どの程度外部騒音が遮蔽されるか試してみました。結果としては良好な音楽聴取環境など全く得られないことに気付きました。
静かな場所に比べ、暗騒音のレベルの高いところではボリュームをかなり上げねばならないことを考えると、どこでもBGMを実現することの代償に軽い難聴への道を選択することには踏み切れません。


ということで、iPodはそぞろ歩きや夜の残業、あるいは神経が高ぶって眠れない時の子守唄代わりとなり、通勤苦を和らげる一助にはならなかったのでした。

2005年10月28日金曜日

ユメ見るオヤジ?

先に紹介した三浦展氏の「下流社会」を読んでから、iioさんのclassicaで紹介されている「オヤジ国憲法でいこう!」(しりあがり寿+祖父江慎著/理論社)についてのエントリを読むと、なるほどなと思ってしまいます。(>読んではいないし読まないだろうが)



iioさんは最後にこれってだれが読む本なんだろと書きますが、それは、外見上はとっくに「オヤジ」世代になっているのに、未だに若者の考え方を根っこに引きずっている人が、「諦め」を得るために読む本なんだろうなと。特に個性の件は、(私は余り好きではありませんが)養老孟司氏の著書でも指摘されている通なのかなと想像。


三浦氏は先の本で、「個性」「自分らしさ」というものは高度成長期の団塊世代が実現しようとした上昇志向にマッチングしたものであったが、その子供である団塊ジュニア世代においては、逆に「自分らしさ」を求めるがあまり社会的に自立しにくい下流意識の若者(ニートとかフリーター)を生み出したとする指摘は、あまりにストレートすぎる故に胡散臭さを感じるものの、首肯してしまいたい論理ではあります。


「オヤジ」世代においてもフリーターみたいな夢や妄想を抱いている人もいないわけではなく、朝のケイザイシンブンに愚劣な性愛小説が載る時代ですから、こんな本が書かれる理由も(>繰り返すが読んでない)あるのかもしれません。

三浦展:「下流社会 新たな階層集団の出現」

三浦展氏による、最近の階層化社会に関する指摘を総括するような本です。三浦氏はパルコなどで長くマーケティング活動を行ってきた人ですので、最近の階層化についても年代別・性別のセグメンテーションを行い、それぞれのセグメントについて様々な角度から嗜好や結婚観、消費行動、価値観などの変化を示すことで現在の日本、特に最近の若者の姿を炙り出すことに成功しています。

「あとがき」で三浦氏も書いているように、本書に示されたデータはサンプル数が少なく、統計学的にも優位性に乏しい(P.283)とは思いますが、それでも昨今の時代雰囲気を見事に数字で見せている点、秀逸といえましょうか。逆に時代雰囲気に合うようにデータを選択したという批判もあるかもしれませんが、そんなことをしても何の得にもなりませんから、ここは素直に数字を読み取る方が良いのでしょう。

本書の末尾には「下流社会」を考えるためとして、最近の国内文献リストがずらりと並んでいます。そのほとんどが2001年以降に書かれた本で、21世紀の日本は新たな階層化社会の入口(あるいは岐路)にさしかかっていることを改めて感じさせます。

本書の「はじめに」三浦氏は、

単にものの所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか。それは意欲である。中流であることに対する意欲のない人、そして中流から降りる人、あるいは落ちる人、それが「下流」だ。(P.6)

と「下流」を定義します。ここに氏独特の対象に対するアプローチの仕方が現れているようです。マーケティングは「割切り」と「規定」や「線引き」が重要で、ファジーで曖昧な要素とは余り馴染まないものなのかもしれない、などと余計なことを考えてしまいました。

三浦氏が本書で延々と説明している内容を読みながら、読者は自分がどこにカテゴライズされているかを知り、そこで規定されたセグメントの性格と自分考えや価値観に一致や不一致を見出すことになります。私の場合は広義の「新人類世代」にあたりますが、そのものズバリであったり違う世代の価値観を有していたりと、まあイロイロでした。

自分のことはさておき、本書で面白いのは団塊世代と団塊ジュニア世代を比較した場合の価値観の逆転現象(あるいは崩壊)ですが、日本を今のような姿に内面的にも外面的にもしてしまったのは、おそらくは団塊世代に一因があり、たとえば

団塊ジュニア女性の子供が成人したとき、今まさに拡大している格差がさらに拡大し、固定化し、階層社会の現実をまざまざと見せつけられることになるのではないかと懸念される(第7章 「下流」の性格、食生活、教育観 P.235)

と発する警告は、いまを生きている私たちが将来を規定するという意味において、三浦氏の論理を受け入れると拒否するとに関わらず、軽んじて受け止めるべき問題ではないと思います。

もっとも、「おわりに-下流社会を防ぐための「機会悪平等」」の章は、一気に論理を飛躍させており、ちょっといただけないと思うのですが、これは三浦氏ひとつの思考パターンなんでしょうか。

2005年10月26日水曜日

川原乞食としての歌舞伎俳優

現在の歌舞伎役者は、先に書いた鶴屋南北の世界に生きた「川原乞食」などと称される身分とは対極的な世界を獲得しています。歌舞伎俳優で成功している方々は、社会的な名声も富も有している存在であり、かつそれを維持しつづける家柄であるでしょう。


ここで思い出したのは渡辺保氏の「歌舞伎」(ちくま文芸文庫)にあった昭和26年の歌右衛門襲名披露における吉右衛門の「口上」のことです。渡辺氏にとって、この襲名披露における吉右衛門の口上が忘れがたいもので、この口上にこそ「口上」の原点があると書いています。


口上の間役者は観客に対しそれこそ平蜘蛛のように平伏するのが普通です。しかし、渡辺氏は吉右衛門の平伏を、他の役者のように形式的なものではなく、古い役者としての血がこういう姿勢をとらせているのだとし、それを過去の観客と歌舞伎役者の関係の差(中略)その伝統の記憶が吉右衛門の身体によみがえってくるからであろうと書いています。更に、吉右衛門の「一座高こうはござりますれども」の言葉には本来はお客様とは同じ座に座ることもできない身分の私どもがという卑下が含まれていたと書いています。そして、


歌舞伎役者はあきらかに深い階級的な差別のなかに生きている。これが「口上」の原点であることは間違いない。

としています。歌舞伎の本当のエネルギーとは差別される人間の自持の中にあるのだと。


口上は今年の中村勘三郎の襲名披露で実際に見ましたが、ずらりと並んだ裃を付けた俳優たちはひたすら平伏しており、襲名する勘三郎も平伏して「口上」を述べていたのが、口上を始めてみる目に印象的でした。この平伏に渡辺氏の示す意味が込められていたとは、その時は知る由もありません。


今年1月以来歌舞伎を見始め、渡辺氏が感じている歌舞伎世界は、その内実から大きく変質しているのではなかろうかと思う瞬間がないとは言えません。今更歌舞伎俳優の身分を低くしろとか、「乾燥した高台に住む上品な人々のための、お上品な芝居になり果ててしまっ(「アースダイバー」中沢新一 P.46)た歌舞伎をもとの姿へというのは実情にそぐう主張ではないでしょう。


だとするならば、差別をのりこえる武器であった「愛嬌」も、歌舞伎の魅力も、その意味するところはいやがうえにも既に反転しているのかもしれません。

2005年10月25日火曜日

中沢新一:「アースダイバー」 2


中沢新一の「アースダイバー」の中に歌舞伎と鶴谷南北に関する興味深い記述がありますので拾っておきましょう。

本書は縄文時代の痕跡が、長く東京(江戸)の精神世界の根底に影響を与え続けているという仮設が書かれています。現在の東京の地図に洪積層と沖積層という「固い」地盤と「湿った」地盤で示される地形を重ねることで、縄文当時の地形が生み出していた土地の性格と東京の成り立ちが、密接に結びついていることを示した点で画期的でありました。

そこで新宿歌舞伎町です。「歌舞伎町」の名前の由来が、戦後に新宿に歌舞伎座を誘致しようということから名付けられた事は、何かで知ってはいましたが、

もともと歌舞伎は湿地を住処とするような人々によって、守り育てられてきた芸能ではないか。(中略)歌舞伎を乾いた土地から、湿った土地へ取り戻そう。それは、歌舞伎という芸能にとっても、生命復活のきっかけをもたらすに違いない。(P.46)

という気運が当時盛り上がっていたのだと中沢氏は書いています。ご存知の通り、歌舞伎は江戸庶民の娯楽ですし、題材も廓(遊郭)ものが多い。そういう意味からは中沢氏の言うように「湿った」土地を基盤とする芸能であるという主張は、何となく納得してしまいます。

その後に中沢氏は鶴谷南北の「四谷怪談」について触れ、これを湿地からの逆襲という言葉で表現してみせています。四谷怪談の「お岩」さんは、史実によると決して怪談に書かれたような不幸な女性ではなく、市民生活の幸福の象徴として「お岩稲荷」に祀られています。そして「お岩稲荷」のある場所は四谷の高台(「乾いた場所」)に今も存在しています。

一方鶴屋南北の生きていた世界は「湿った土地」の「湿った社会」であり、歌舞伎役者たちは「川原乞食」とさえ呼ばれ社会的には低い身分でした。鶴谷南北は「お岩稲荷」の「お岩」という名前と、当時流行していた柳亭種彦の「近世怪談霜夜星」の主人公「お沢」に着想を得、「乾いた土地」の象徴であった「お岩」を「湿った土地」につながりをもつようなドロドロとした世界に引き摺り下ろす物語を書いたというのです。

鶴谷南北の心の中で、湿地帯の想像力がむくむくと頭をもたげだした。高台に住む幸福な武家の主婦であったという、その女性の名前は「お岩」。その名前によって、彼女は崖下の湿地帯に、秘密の通路でつながっているはずだ。お岩というこの女性は、お沢の同類でなければならない。暗い大地の底で死霊の世界につながりを持っているお岩は、なにかの原因で、ふためと見られない醜い容貌に成り果てる必要がある・・・(P.56)

かように鶴屋南北が考えたかは定かではありませんが、「乾いた土地」と「湿った土地」の絶妙な対立とバランス。これは、中沢氏の文章とアースダイバーの地図を片手に、場所を思い浮かべたり、あるいは実際に訪れるならば、夜陰に忍び寄る霧のように体のなかに染み込むように感じられる瞬間があるかもしれません。

2005年10月23日日曜日

中沢新一:「アースダイバー」


中沢新一氏による「アースダイバー」は、知的好奇心を鋭くくすぐる意味において、東京に在住する人あるいは東京に極めて感心のある人にとって、ワクワクするような本であると思います。

この本が「週刊現代」の連載であったという事実すらもはや異次元の事実(*)として感じられるのですが、本書からは東京の一皮下に隠されていた縄文時代の地形や文化が、今なお東京の深層に影響しているのではないかと教えてくれています。

(*)「週刊現代」にもときどき興味深い記事が掲載されることはありますが、まず購入することはない種類の雑誌ですから。

実は最初は単なる「地域探索もの」かと思ったのですが、宗教学者の中沢氏ですから、ありきたりな考古学的、民俗学的なアプローチを超えて資本主義に対抗すべきパラダイムでさえ提示しているようです。

天皇制も形骸化し宗教はとっくに効力を失い、高度に発達した資本主義(キャピタリズム)の様相を呈している「神の国」日本。その中心たる東京(江戸)の成立や都市住人の精神的なもところにも縄文時代の痕跡が認められる・・・。これだけ読むと何をバカなと思うでしょう。しかし本書を読み進めるうちに、いつしか中沢氏の牽強付会な論理や独特の視点(思い込み)が強いな説得力を持って読者に迫ってくるから不思議です。

何故本書が売れているのでしょう。おそらくは、かつて挫折した経験のある「中沢新一」の本であるということから手に取った人は多いのではと思います。かくいう私もその一人。意外に平易な文章を読み進めるに従い、読者は自らの内に秘められていた合理主義では割り切れない何か(もしかすると野生)を再認識しはじめます。中沢氏の指摘するのは土地の持つ霊性や地形の成り立ちであったりするのですが、一枚一枚ベールをはぐように謎が解き明かされるてゆく鮮やかさには感嘆せざるを得ません。

さらには息詰まるような資本主義的日常の裏側に、それとは対極的な縄文的世界が存在しているという裏切に近い快感と哄笑を嗅ぎ取ったとき、モヤモヤとした閉塞感を打ち破るポッカリとした穴を見つける思いがするかもしれません。

かつてロラン・バルトが『表層の帝国』で「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と指摘したのは1970年の頃。私はバルトなど読んだことありませんが、まさに今も東京は空虚の中心をグルグル回っているだけであるとするならば、こんな皮肉なことはないのですが。

林信吾:「しのびよるネオ階級化社会」


 題名に吊られて購入してしまった本です。不勉強にして林信吾氏がどのような方なのか全く知りませんが、この程度の内容が「新書」として740円で売られているということに疑問を感じないでもありません。平凡社新書はせいぜい、このレベルということでしょうか。

と辛辣な事を書いてしまいましたが、だって題名が「しのびよるネオ階級化社会~"イギリス化"する日本の格差」などという大そうな割に、内容ときたら、せいぜいが「ぼくの十年間にわたるイギリス滞在経験から考えた最近の日本」くらいのものでしかないからです。

視点は極めて個人的経験に依拠しており、たとえば森永卓郎氏の「年収300万円時代を生き抜く経済学」などを森永氏の論の立て方はてんで雑で、説得力に欠ける(P.200)と書いたりするのですが、そっくりそれは林氏の本書に返してあげたいくらいです。

林氏の指摘する「最近の日本は機会不平等の傾向が強くなってきている」「特に教育機の不平等は階層の固定化を招くこととに繋がり、それは日本の活力を奪う可能性がある」ということは、多くの人が指摘していることです。この「固定化された階層」が「イギリス型階級社会」に似ているとしている点のみが氏独自の視点と言えるでしょうか。

それでも、本書を読んでいくらか考えるべき点はあるようです。たとえば「中流意識の崩壊」ということについても、努力次第で誰もが享受できると信じられていた成長=幸福という果実が実りなきものであると認識され始めた故だとするならば、社会全体が感じ始めている無力感の根は深いと改めて思います。

どうやら林氏が一番書きたかったのは「教育機会の不平等」ということらしく、そこから生まれる固定化された階層の社会の底辺に押し込められた人たちは、のんびり生きるのではなく、単に向上心を持たないその日暮らしになると指摘し、

頑張っても大したものは得られない、という社会には、未来はない。(P.208)

と主張します。

しかし、それでは問う「大したもの」とは何なのかと。森永氏の「年収300万円生活」に対する胡散臭さなどはさておいても、結局問われるのは個人の生活であり人生であり幸福論に行き着くはずで、「階級社会」を選択するか否かも、政治家や資本的強者が仕向けているわけではなく、もしかすると「弱者」と規定されつつある、まさに私たちの日々のあり様がそれを決定付けているのかもしれません。

2005年10月17日月曜日

i-Podについて

i-Pod nanoやビデオi-Podが発売され、携帯型音楽プレーヤーはAppleの一人勝ち状態を呈し始めましたが、私もついに耐え切れなくなって数週間前にi-Pod 20GBを購入してしまいました。買った直後にビデオi-Podの発表があり、ちょっと悔しい思いです。HD版のi-Pod-photoがなくなり機種統一がなされたのが今年6月のことでしたから、あと半年くらいは新製品が発売されることはあるまいと予想して購入に踏み切ったのですが、読みは見事にはずれてしまいました。


それでもi-Podの魅力は予想以上で結構満足しています。新しいi-Podは厚さも重さもかなり改善されているようですが、旧版であってもポケットに入れて邪魔になるほどではありません。携帯することが苦になりませんからAppleのうたうように膨大な音楽ファイルを持ち歩くことができるようになったわけです。今更何をと思うでしょうが、「膨大な音楽ファイルを持ち歩く」ということはやはり画期的なことで、というのもi-Podを買って以来、音楽の聴き方が変わってしまったからです。


最初にi-Podに入れたのは、バッハやラフマニノフなどのピアノ曲とオペラでした。普段あまり聴く機会の少ない曲を入れたのですが、逆にそれらの曲の魅力を再発見したとともに、以前はクラシックを断片的に聴くことは「邪道」であると思っていたのに、それが「普通」のことになってしまったのです。


オペラはそれほどソフトがあるわけではないので、とりあえずクライバーの「椿姫」とベームの「コジ・ファン・トゥッテ」の二つを入れたのですが、i-Tunesによる再生回数を参照すると、多いもので10回以上繰り返して聴いています。静かで時間のある場所では、第2幕だけ聴こうかとか気軽に曲を選べますし、乗らなければ別の曲にジャンプするのも苦にならない。


これがCDやMD(持ってないけど)だと、いちいちディスクを入れ替えねばならず、かなり面倒、というか、そういう聴き方はやはり出来ないと思うのでした。

2005年10月16日日曜日

[歌舞伎メモ]歌舞伎の力

歌舞伎の力と魅力について考える


  • 現代に生きる伝統芸能、その中に息づく日本の歴史と文化。
  • 昔の風が現代と本質的に変わらないという心情に対する共感と懐かしさ
  • 「型」を発見することのマニアックな感心、楽しみ、深さ
  • 歌舞伎舞台の持つダイナミズム
  • 感覚と役者のライブな場での交流と相互に高め合う劇空間、場の共有、親近感。勘三郎の復活させる「芝居小屋」感覚。
  • パターンの繰り返しによる安心と快楽、芸の高まり
  • 「分かっていることを演じる」ことの新しさ
  • 芝居小屋独特のざわめきと興奮、クラシック会場の空間とは異質であること。歌舞伎は
    「芸術」ではない、「芸」である
  • 幕間に食べる、劇場で売られる甘み菓子
  • 弁当を食べながらの観劇。一方でNHKホール(N響定期の空間)との類似性。客層のせいか?→時間と金のある層、高齢者と女性
  • どの年代でも女性が消費と文化の担い手であるということ、男性は何をやっているのか!


2005年10月11日火曜日

歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎


歌舞伎座で芸術祭十月大歌舞伎の夜の部を観てきました。

演目は田之助、左團次、菊五郎などによる「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 引窓」、玉三郎の人形振りが話題の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」、そして今年12月に坂田藤十郎を襲名予定の鴈治郎による「心中天網島 河庄」です。

あらかじめ渡辺保氏の歌舞伎評と、一閑堂のぽん太さんのエントリをじっくり読んでから望みましたので充分楽しん観ることができました。

勘三郎襲名披露の狂騒の頃は、前売券も発売と同時に売切れでしたが、この頃はネットでも比較的容易に席を確保できます。一幕見で3本も続けて見てしまうと、3階席などの廉価な席を予約した方が結局は待ち時間などを考えるとリーゾナブルなので、この頃は予約してから観に行っています。それに、甘党なら(おそらく)クラクラしてしまうであろう歌舞伎座内の桃源郷を彷徨う楽しみが増えますから、断然こちらの方がお得感がありますね。


ということで感想です。まずは「引窓」から。ぽん太さんのエントリでは実直な生活感のようなものが出ないと、あたら空疎になる芝居だとあらためて感じた。と評価は高くない様子。一方で渡辺氏は、左団次の濡髪、団蔵の平岡丹平、権十郎の三原伝蔵まで。そのアンサンブルによって今月歌舞伎座一番のみものであるとえらい褒め様。私の感想がどちらに傾くか自分でも興味津々で観たのですが、結果としては予想以上に楽しんでいる自分を見つけてしまうことになりました。

「引窓」は、継子と実子と母親、そして継子の妻四人による家庭劇なのですが、母お幸の田之助が良い出来です。実子を思う母の痛ましいほどの気持ちが客席までビシビシ伝わって来ます。特に犯罪人として追われている実子の絵姿を買いたいと、なけなしのお金を差し出す場面は、(渡辺氏も指摘していますが)不覚にも涙がこぼれます。それほどに実に入っている。ときとして嘆きが大げさ過ぎるキライもありましたしたが、それを割り引いてもまず、田之助といったところでしょうか。

次に良いのは菊五郎演ずる継子の南与兵衛。町人から武士になった喜びの表現のうれしさ、母の不穏な様子に訝る雰囲気、手水鉢に映った長五郎を見つけてからすべてを悟るに至るきまりの見事さ。

水鏡で羽織を脱ぎかけて右足を伸ばしたきまりが大きく、お早とからんで三味線につく三度のきまり、すなわち右手に捕縄、左手に十手で中央に立つきまり、つづいてウラ見得、口に十手をくわえて捕縄をさばいてのツケ入りの見得が味が深く、「狐川を左にとり」を二階の濡髪に聞かせるハラもキッパリ

と渡辺氏の劇評にありますが、本当にこの一連のキマリ方ときたら惚れ惚れするほどで、思わずボゥっとなってしまったほどです。ここですよ、歌舞伎の「快楽」と呼べる瞬間は、引用していてまたボゥっとなってしまいます。観ていて、このキマリ方は「盛綱陣屋」における首実検の場面に似ていると思いました。勘三郎演ずる盛綱のキマリも見事でしたが、鮮やかさの点ではこちらの方が印象深いか。

実子を演ずる長五郎の田之助は、継子の南与兵衛と対比することで彼の実像が浮かび上がってくる。逆に言えばそれほどに菊五郎の継子としての矜持と演技が見事ということか。田之助は、なりはでかい相撲取りでありながら、母にすがり義兄弟の情けを受ける立場。終わり方も菊五郎がかっこよすぎる。

魁春のお早もいい味が出ています。与兵衛が武士に取り立てられたときの嬉嬉とした喜びようのかわいらしく、いじらしいこと。その喜びがあるから、その後の母をかばって、せっかくの幸福まで犠牲にしようとする心根が映える。

ということで、「野崎村」以来に全てにおいてハマった芝居でした。

次は玉三郎の「日高川入相花王」です。渡辺氏の劇評を見てみましょう。

玉三郎には「櫓のお七」の人形振りという傑作があるので大いに期待したが、人形振りの振りが地味でつまらず、お七のようにはいかなかった。川の中へ入って蛇体になるところも演出が一工夫足りない。

これだけです。人形振りはいただけませんでしたか? 私には初めて観る演目でしたから、菊之助の人形遣い役と玉三郎の人形振りはそれなりに面白かったのですが。

それにしても玉三郎の踊りは優美です。人形振りというからもっとギクシャクした振りを期待していたのですが、いちいち可憐で美しすぎます。美しすぎる故になのでしょうか、蛇体にまで変じるような妄念が私には今ひとつ感じられません。だから川に身を投じてからの演技にも、何か空々しさを感じてしまう・・・。ここの感じ方も、ぽん太さんとまるで逆。まったく、音楽にしても芝居にしても人によって感じ方は全然違うものだなと。(>だから劇評は「意味がない」のではなく「面白い」のです)

対岸に辿り付いて疲労のために呆と立ち尽くす姿は、おそらくこの芝居の中の一番の出来だっと思います。黒幕が切って落とされ、一面明るくなった舞台は、時間の経過とともに、彼女の妄念さえも浄化していたのではないかと一瞬勘違いさせる程でありました。

最後は鴈治郎の「河庄」です。今月のガイド本に演劇評論家の水落潔による「三代の頬かむり」と題する解説と写真が載っているのがうれしいです。これで渡辺氏の劇評にあった「(頬かむりの中に)日本一の顔」という意味が分かりました。それほどまでの鴈治郎にとっての「河庄」なんです。

これを演じて藤十郎に、と思っていましたのでこんなに嬉しいことはありません

とは鴈治郎の言葉。

しかし、私はこの「河庄」を真に楽しむことができませんでした。何故なら治兵衛の、いや鴈治郎の花道の出が3階席からでは全く見えないんですよっ!! これを見ずして何の「河庄」と言えましょうぞ。しかも、少ない歌舞伎経験から、女形としては随一でないかと思っている雀右衛門の台詞が、小さくて聞き取れないっ!! これでは「河庄」の根っこの半分くらいを削ぎ落とされたような感覚。無念っ!!

それにしても雀右衛門、大正9年生(1920年)まれですよ。それなのに漂う色香、惚れ惚れするほどの艶やかさ、脇に徹しているときの微動だにしない姿勢、舞台に居るだけで「絵」になる。足腰がかなり弱っているご様子ですが、出来る限り彼の芸に接していたいものです。

で肝心の鴈治郎、これがなかなか良いのです。先月の「植木屋」といい「河庄」といい、上方狂言は素直に楽しめます、余計なことをしなくてもそれだけで充分に面白い。しんみりした部分とツッコミのバランスは、まさに上方なのでしょうか。「じゃらじゃらした」雰囲気と良く言われますが、成る程なと頷いてしまいます。

日用帳のfoujitaさんも書かれていますが、最後の3人で絵になるところが無類というのには同感。今回の歌舞伎は「絵心」が充分に満たされる舞台でした。もう一度観なくてはということにも激しく同感なのですが、しかし・・・爆発的な忙しさの控えている10月にこの幸福な時間は再び訪れるのでしょうか・・・?

追記 10/12

歌舞伎系ブログを読んでいたら、中村雀右衛門が腰痛のためしばらく休演とのこと。ついこの間の歌舞伎座でも動きが今ひとつでしたし、立ち上がるときに介添えをそっと周りの人がするほどでしたから、大丈夫かと案じてはいたのですが。一日も早く良くなることを祈っております。

2005年10月10日月曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」 その2


198頁程の薄い本なのですが、業務多忙によりやっと読み終えました。

以前も触れたようにこの本が発行されてから50年以上が経つというのに、歌舞伎をめぐる状況は当時のありようと表面上は変化していないのではないか、というくらいに「現代」に置き換えても読むことができるものでした。

歌舞伎ファンが客席から「なな代目」とか「松音屋」とかいう片言を叫んでいるのをきくたびに、わたくしは、果たしてこれが歌舞伎が栄えていることになるのかと疑わずにはいられません。あのような人気は、過去のそれとは違っています。(「第七話 その芸術性」P.166)

現代でこそちょっとした「歌舞伎ブーム」を呈していると時々言われますが、これとて戸板氏が見ていた50年前の歌舞伎とは全く異なったものであるのだろうと思うのです。その時々で変わっていく歌舞伎に対し歌舞伎の「美」を準拠とした演技術に反抗する俳優が、およそ三十年に一人位ずつ出ている(P.166)と書いています。歌舞伎俳優について不勉強ですが、例えば中村勘三郎なども、その一人に挙げられるのでしょうか。

戸板氏は歌舞伎の台本や演技を現代劇のリアリズムから批判することは意味がなく、つまりは歌舞伎の「台本」は文学ではなく、役者重視の発想の元に役者を際立たせるため、あるいはそこに現れる美を表出するためにあると説いています。私自身はまだ役者の好みにまで言及できる程に歌舞伎に接している訳ではないものの、舞台で俳優が「きまった」ときの快感は例えようもないもので、ツケが高らかに打ち鳴らされたときの、笑みさえこぼれてしまうような瞬間が見たくて歌舞伎座まで脚を運んでいるという気もしています。

予定調和的な陳腐な筋書きを愚であるとする人には、(戸板氏も書いているように)おそらく歌舞伎の面白さをいくら説明しても無駄なことなのかもしれません。逆に歌舞伎の持つ崩してはならない「美」というものを捨て去るならば、それはその時点で歌舞伎であることを放棄しているのかもしれません。

脚本がナンセンスであるのに、それを越えたところに歌舞伎の真価があるということで、ふと思い出したのはモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」です。あの莫迦げたダ・ポンテの戯曲にモーツアルトは信じられないほど美しい音楽を付与しました。今でこそダ・ポンテの戯曲の持つ現代性や深さが見直されていますが、当時は「戯曲」などどうでも良く、モーツアルトの妙なる音楽にこそ価値があったのかもしれません。ロマン派的な価値観の持ち主にとっては、ベートーベンのみならずワーグナーさえ「コジ」には否定的な批評を残してます。

歌舞伎の台本も、心理などを深読みすることができるものもありますが、そういうアプローチは本来的なものではないのでしょう。

六代目菊五郎などの持っていたリアルな演技は、実はそういう習練を隈なく経たのちに入っていた境地であることを知ってほしいと思います。

要するに、 伝統演劇の場合は、モーション(動作)を学んでいるだけで、エモーション(感動)が内奥から起こって来るのです。新劇の場合の、役への入り方と全く違うことを強調したいと思います。(「第四話 その演技」P.127)

この一文を読んでハッとしました。音楽の話題になってしまうのですが、これはバッハの音楽を演奏する時に似ているのではないかと思ったのです。バッハの時代は楽譜には強弱やアーティキュレーションなどの表示がありません。それをロマン的な演奏手法で演奏すると何だかバッハがバッハでなくなります。「楽譜に書かれたとおりに演奏すれば、おのずと音楽が立ち上がってくる、余計なことをするな」と何かの折に聞いたことを思い出しました。ちょっと脱線した余談ではありました。

2005年10月4日火曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」

戸板康ニの「歌舞伎の話し」(講談社学術文庫)を読み始めました。本書は1950年、戦後間もない頃に刊行された同名の書を文庫本化したものです。今から半世紀も前の本なのですが、戸板氏が歌舞伎に問いかけているものは、今でも充分に通用することに驚きを禁じえません。彼が問いかけているものとは即ち「現代文化における歌舞伎の位置」というものであり、では歌舞伎とは何なのかを「批評」「歴史」「役柄」「演技」「劇場」「脚本」「芸術性」「大衆性」から問い直しています。

日本の国の特有なものが次々と変貌してゆき、それに対する価値判断が刻々にかわってゆく現代において、歌舞伎についても何かしら定義をこの際下しておく必要があると思います。(「歌舞伎の話し」P.13)

戦後から5年を経た日本は、まさに激動のように変貌を遂げつつある時代であり、戸板氏が指摘するように、歌舞伎は古臭く敬遠されるものという印象が強かったのかもしれません。そして戸板氏は歌舞伎の「芸」について、当人の意識しないところに生れる不可測の何者かが生み出す成果に、すべてがかけられていると説明し

端的に歌舞伎の脚本を理会し、演出を研究し、演技を習練したというだけで、歌舞伎を(素人が)演じるなどということは、それがどのように努力が傾けられたものであっても、素人が演じたものは本ものの歌舞伎ではない(「同書」P.17)

とし、素人の演じる歌舞伎がどこまで行っても本ものにはなり得ないという宿命的な事実が歌舞伎にはあると断言しています。他の演劇や音楽などの芸術世界とは全く異なった要素があることを示唆してます。この感覚は非常に新鮮なものでありました。先に読んだ渡辺保氏の「歌舞伎」も、「芸」という題から本章を始めており、芸は単なる技術ではないと説明していたことを思い出します。

残念ながら歌舞伎を観ていて、私はまだ芸のもった奇跡であり、幻術である。幻術は底が知れずいかがわしい。(「歌舞伎」渡辺保 P.041)と渡辺氏が書くほどの芸には接したことがありません。それを「見る」までは、私の歌舞伎通いは続くのでしょうか。(それには、3階席以上の値段の席を入手しなくてはならないのでしょうが・・・)

2005年10月3日月曜日

HMVのペトレ

いつ来るのかと首を長くして待っているペトレの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ 全曲ですが、HMVサイトで確認してみたら、何と10月17日出荷に変更になっているではなですか! 注文したときは9月30日発送だったというのに。うーん、早く言って欲しかったです。


ということで仕方なく、今日はレオンハルトの「フランス組曲」を聴きながら外出でした。


立ち読み

本日は天気も良いので丸の内オアゾの丸善へ。丸山真男の「自己内対話」でも買おうと思っていたのだが生憎売り切れだった。こんなことならネット検索しておくべきだったと後悔。

仕方ないので丸山解説本をいくつか斜め読み。丸山は最後まで「思想史家」としての立場を貫き、「思想家」「哲学者」ではなかったらしい。自分の語れる範囲の事を徹底的に研究することで、ひいては「思想」や「哲学」を語っていたという態度は、彼の音楽への接し方とも通ずると感じた。「ササラ型」「タコツボ型」ということと「執拗低音」というキーワードは、彼の中で通底する意識なのだと思う。晩年の「他者感覚」についての言及も鋭い。

その後、話題?の「原寸美術館 画家の手もとに迫る」(結城 昌子)をパラパラとめくる。その迫力には驚くばかり。ボス、ブリューゲルの絵は高校時代から凄いと思っていたが、原寸で眺めた時の凄まじさ。あるいはマネの圧倒的な筆さばき、モネやゴッホの狂気を感じる色の混沌。フェルメールの異空間。ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」の壮麗さ・・・、本当にこの企画には脱帽、今まで見えていなかったものが浮かび上がってくる。

しっかり堪能した後は渡辺保氏の「歌舞伎劇評」(朝日新聞社)を一通り眺める、すぐに読めてしまうので買うほどではなさそう。最後は「歌舞伎の話」(戸板康ニ)、「アースダイバー」(中沢新一)を購入して帰る。丸善は窓際に椅子とテーブルがあり非常に快適。

2005年9月29日木曜日

[読書メモ]丸山眞男

丸山の思想メモ


  • タコツボ-官僚的、ササラ-通奏低音(バッソ・オスティナート)。丸山を捉えて話さなかった音楽。
  • 日本の思想や制度に対する輸入感
  • 自発的ないしとしての思想、民主でないこと。過去のアンチテーゼとしての現代
  • 思想史の中でササラに対応するものとしての天皇制
  • 「である」静的、身分・階級 → 「する」動的、能力主義
  • 丸山と福沢諭吉



2005年9月28日水曜日

歌舞伎:「殺し場」の美学と「平家蟹」


渡辺保氏は著書「歌舞伎」において、歌舞伎の「殺し場」を「陶酔の場所」と副題を付け以下のように説明しています。


��歌舞伎の殺し場が)かほどに甘美で美しいのはなぜなのか。(中略)そこに実は歌舞伎の本質がある。「殺し」の瞬間において役者の身体がもっとも美しく見えるからである。(中略)歌舞伎はその殺人の甘美な身体の意味をただ絵にして見せただけだ。別にサディスティックなあるいはマゾヒスティックな趣味の産物ではない。(「歌舞伎」渡辺保著 文庫版P.268-269)


殺しの場面における精神と肉体の緊張が極度な凝縮、そこに甘美な陶酔を誘う役者の身体の緊張した輪郭が現れ、これがこそが歌舞伎の美学だと説明しています。


本書では「××殺し」と呼ばれる六つの演目と、「××斬り」といわれる二つの演目を紹介し、さらに詳しく「殺し場」について説明しています。「××斬り」とは、吉原百人斬りの「籠釣瓶花街酔醒」と油屋十人斬りの「伊勢音頭恋寝刃」のふたつのこと。

「××斬り」の方は幸いにして両方とも観る機会がありました。「籠釣瓶」において勘三郎演ずる次郎左衛門が、玉三郎の八ツ橋を斬った場面は(演技が大げさすぎるという批判も目にしましたが)思えば本当に印象的な場面でした。まさにあの一瞬のためにあの演目が存在すると言っても過言ではなかったかもしれません。玉三郎の死に様が余りにも美しすぎるため、その美しさに素直に陶酔することに対し反発さえ覚えたものです。分かりやすい「美しさ」とは言い換えるならば「俗っぽさ」をも併せ持つ、それ故に「俗さ」を許容できないという勘違いした態度です。しかし歌舞伎というもののあり様を考えてみれば、玉三郎の「死に様の美しさ」に陶然とした方が余程素直であったのかもしれません。


似た様なテーマの「伊勢音頭」は、殺される側は勘三郎が演ずる万野でありましたから「殺し場の美」というものは感じませんでした。むしろ、鞘走って過って傷させてしまったことによって、彼の中で何かが崩壊してゆく。連続した殺しの場面は適度に様式化されており、静かに人を次々と斬る貢からは妖刀の魔力や狂気が表現されていたように思えます。血糊の付いた衣装で逃げ惑う人が登場する様には少し驚きましたが、それでもナマなグロさは減じられていたようです。


ところで、九月大歌舞伎の「平家蟹」です。これは岡本経堂作で福田逸氏の演出なのですが、これがどうも後味が悪い。玉蟲が玉琴と那須与五郎を毒殺する場面なども、それでも冗長過ぎる上に、苦しみ方がヘタにリアルであるため芸に違和感がある。今月の歌舞伎座のガイド本によると芝翫丈の発案で原作に相当手を入れたとありますが、照明や音響効果を含めて歌舞伎の枠を少し広げる演出は効果的であったのかも疑問です。


経堂の主題である「狂気・執念」は嫌という程に伝わってくるものの、逆に玉蟲持っている時の流れや源氏に屈さない潔さは相殺されてしまっていないか。「妄執」を全面に打ち出すのもいいのですが、それでも殺しの場面がむご過ぎてまた滑稽でちいとも美しいと感じる場面がない。


福田氏は決して今風に新奇なことをしたわけではないが(中略)近代古典を現代に活かし、更にそれを次世代に受け渡したいといふ芝翫丈の熱い想ひを、なんとしても実現させたかったと先のガイド本に書いていますが、私はもう一度「平家蟹」を観たいという気にはなれません。また歌舞伎の演出がいたずらに「リアル」に近づくのは、私にはあまり好ましいものとは思えません。劇は理解しやすくなりますが、何か大切なものがゴソリと抜け落ちているような感覚を覚えますが、いかがでしょう。


ちなみに岡本経堂の「平家蟹」は明治45年の大阪浪速座で六世梅幸の玉蟲で初演された新作歌舞伎。玉蟲は誇り高い平家の女官。かの屋島の合戦で那須与市に射抜かれた檜扇をかざしたのが玉蟲と紹介されます。生き残った彼女の平家に対する怨念ただならぬというのに、玉蟲の妹玉琴は何とあろうことか那須与市の弟の那須与五郎と末を誓ってしまうのです。玉蟲は二人を許し祝言を挙げるフリをしながら、神酒の中に混ぜた平家蟹の毒肉で二人を毒殺し、自らも平家蟹に誘われるように壇ノ浦の海へと誘われてゆき幕となります。


縁の下に蠢く平家蟹も不気味ですが、何よりも、のたうち苦しむ二人を冷徹に見据える玉蟲の怨念が恐ろしい。それもこれも、歌舞伎でありながら演出や台詞が現代劇に近いせいでしょうか。底知れぬ暗さが全体に漂い殺しの場面だけではなく歌舞伎の持つ形式性や美学が非常に薄いように感じました。

2005年9月26日月曜日

台風が去ったら秋深く

暑い暑いと思っていたのに、台風が去ったらまるっきり秋の空気に入れ替わっている。気付いてみれば暑い盛りから鳴いていた虫たちの声も一層夜空に染み渡っている。

表に書いたが、渡辺氏の「歌舞伎」はイロイロと示唆に富む。歌舞伎を語っているのだが、その裏には時代の美学がにじみ出る。

時代がにじみ出るといえば、やっと2章まで読んだ「日本の思想」(丸山眞男)が発刊されたのは1961年のこと。マルキシズムなどの解説はさすがに時代を感じるが、彼が根底に見据えていた日本思想論は今現在も全く色褪せていないどころか、彼を越える論客が今の日本に存在していない、あるいは存在することを時代が要求していない、という事実に気付いたとき、慄然とする思いである。

2005年9月25日日曜日

渡辺保:「歌舞伎~過剰なる記号の森」

歌舞伎評論の第一人者である渡辺保氏による歌舞伎の解説書。もともと新曜社シリーズの「ワールドマップ」の一冊として企画され現代の思想、風俗、社会現象、文化などを記号論によって分析しようとしたものであったそうです。

記号論云々は私にはさっぱり理解できませんが、渡辺氏の歌舞伎に対する真摯な考え方に触れることができることと自分の中での歌舞伎観を再構築する意味において非常に有益な書でした。

私がこの本を書くことを決心した理由はたった一つしかない。私自身の歌舞伎の美学というものを書きたかったからである。(「口上」P.10)

まさにこの一言に、渡辺氏が歌舞伎の中に何を観ているのかを理解することができます。幼いころから陶然として役者を眺めてきた渡辺氏には、歌舞伎かくあるべきという信念と真摯な熱意が溢れています。面白いのは彼の本書に対する姿勢です。最初に歌舞伎の美学を書くと言っておきながら、

ところで私たちの歌舞伎の美学というものが一体どういうものであるのかは、いまのところ私にもまったく分からない(「口上」P.12)

などと書いています。本書は「解説入門書」の類とはその本質を全く異にしていると続け、

この本は、そういう私自身の自己証明のために書かれ(私と同じような感心をもたれるごく一部の方々のためにのみ書かれ)る(「口上」P.12)

としています。とは言っても偏狭な知識や見解をひけらかしたり、引用だらけの凡百の書とは雲泥であり、また難解な歌舞伎論が展開されているわけではなく、少しでも歌舞伎を面白いとか魅力的であると感じたことのある人には、充分に納得できる内容が散りばめられておます。とくに本書を読み進めると、あたかも歌舞伎の舞台が眼前に展開されているかのような心持ちになるところは流石でしょうか。

彼が本書をしたためた意図を再度確認しますと、P.13でもう一度繰り返される自己証明の意味をもつ書物自分の内なる歌舞伎を分析することによって時代の証言台に立ちたいということでした。その裏には今現在も変遷を続ける歌舞伎というものがあり、歌舞伎を観て育てている観客というものがあり、それらを含めて変遷しつづける世界の存在を渡辺氏は示唆しています。

以前も触れましたが、歌舞伎が変化する理由については時代の感覚が変わったからであるとした点には深く頷かざるを得ません。「芸」に支えられた伝統芸能である歌舞伎の変遷を辿ることは、ある意味で私たちの時代精神の自己証明でさえある点で、私の中でも興味は尽きません。

2005年9月23日金曜日

シャコンヌ

あちらこちらで話題になっているルミニッツァ・ペトレのバッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータをHMVへ注文。本来ならば京都のラ・ヴォーチェさんで買うべきであったのでしょうが、営業協力せずにごめんなさい。


丸山真男の思想の底流に「執拗低音」が流れているという記述を読んで以来、心懸かりになってヒラリー・ハーン(Vn)とキーシン(p)のシャコンヌを繰り返し聴いていたところにこの話題(les soupers du roi ubu 「ラ・ヴォーチェ京都で」9/19)、思わず注文してしまった次第。連休明けには届くことでしょう。感想は気が向きましたら、そのうち。

9月も10月も三連休ですか・・・

明日(正確には今日)から世の中三連休。あるプロジェクトに携わっている私の周辺の一部の人たちは、夏休み前後からほとんど休んでいない様子、全く頭が下がる。「昨日も帰ったの4時ですよ~(>今日だっつーの)。明日も来てくれるんでしょう~」などと頼まれると「仕方ね~なア」と思ってしまい、またしても休日出勤だよ。

打ち合わせで、得意先に行ってイロイロ情報交換をしていたら最後に担当者曰く。「ところで、いま、ウチの会社の中で貴方の会社の印象はサイアクなんですよ(笑)」。別件でのことが尾を引いているらしい・・・笑っているけど半分以上マジだな。最後に言うか>つーか、最初に言われたら何も話せないかっ!

「日本の思想」(丸山眞男:岩波新書)を購入し読み始める。成る程ねえ・・・と悟るほどには読み進んでいない。

マスコミはどうしてバカをおっかけたがるんだ? バカは放っておけよ。バカだから何するか分からないので放っておけない、というほど一流のバカでもねーんだからさ。

アサのワタナベクンは倫理観まで破壊して、いったい何を訴えたいんだろうね。

2005年9月20日火曜日

歌舞伎座:九月大歌舞伎「夜の部」


九月大歌舞伎の夜の部を観てきました。

演目は芝翫の「平家蟹」、吉右衛門の「勧進帳」、そして歌舞伎座では48年振りの狂言、梅玉と時蔵の「忠臣蔵外伝 忠臣連理の鉢植~植木屋」の三作です。

歌舞伎初級者の私のことですから、お目当ては当然「勧進帳」なのでありましたが、予備知識の全くなかった「平家蟹」も「植木屋」も、なかなかに興味深くそしてまた面白く、今回も歌舞伎の底知れぬ奥深さを知らされる思いでありました。

以下に雑な感想を綴っておきますが、後日何か思いついたら追記するかもしれません。


平家蟹」は壇ノ浦の合戦の後に生き残った官女、玉蟲(芝翫)の源氏に対する妄執を描いた怪談です。明治45年、岡本綺堂作の新作歌舞伎なのですが、観終わった感想は、いい意味での「なんぢゃこりゃぁ」というもので、歌舞伎というものは奥が深いのだなと思い知りました。岡本綺堂といえば今年2月に上演された「番町皿屋敷」も彼の作。あの時も、いまひとつ腑に落ちない印象を持ちましたが、今回も前回と同様に「?」と思うこともしばしば。岡本歌舞伎は、彼独特の美学があるようですし、この演目における不気味さ(特に蟹)は計り知れず、充分に堪能させてくれました。

実を言うと途中で芝翫が転んだりしないだろうなとハラハラしながら観ていた事も確か。芝翫の芸はまだまだ観せていただきたいと思っていますから。

惜しむらくは、今日も「掛け声」がかかるのですが、それが何とも一本調子な棒読みのような声。あんな掛け声なら発声しない方がよろしい、迷惑でしかないと言い切る。

勧進帳」は、渡辺保さんの歌舞伎評と鶴澤八介さんの床本に当たってから望んだのですが、いやはや見事でありました。私は「勧進帳」は團十郎と海老蔵の醍醐寺薪歌舞伎をTVで観たことしかなかったのですが、それでも今回はいちおう二度目ということになりますから見所も把握しておりましたから、初見のときより余裕をもって楽しむことができました。弁慶は吉右衛門、富樫が富十郎です。私は富十郎が結構好きなのですが、今回は役的にはしっかり弁慶を立てていたようです。ここは渡辺さんの評でも言及していますね。

吉右衛門の弁慶に対してワキに徹して抑えに抑えているからである。それはもう出て来ての名乗りでわかる。今までの声の浪費と怒鳴り声と違って抑えて低いところは低く、高音部は張って、緊縮自在の円熟振り、これでこそ名調子といえる。

なるほど、富十郎の「怒鳴り声」も歌舞伎座においては捨てがたい魅力を持っていますが、今回の富樫には不要か、いずれにしても二人の作り上げた緊迫感は凄まじいものでした。

その上で今回の一番の見所といえば、渡辺さんの評とは少し異なりますが、私は弁慶が勧進帳を読み上げるまでの一連の所作でありました。弁慶がハッとばかりに巻物を読み上げようとするまさのその一瞬に、彼の心持が劇空間までもガラリと変化させてしまうかのような鮮やか印象を与えてくれました。

最後の「植木屋」は全く期待せず、寝不足だし一度会社に戻らなくちゃならないし帰ろうかなと思いつつ、痛くなりつつある尻と腰をだましながら観たのですが、いやいやどうして、これが滅法面白く、併せて「つっころばし」という役がかくの如しなのかと理解させてくれた劇でもありました。確かに渡辺さんの評にあるように、梅玉演ずる弥七が、色男の役ではあるものの、ちょっとした「間」に隙を感じたのも確か。でも、こういう劇は素直に楽しめる。今後に期待したいという気にさせてくれました。

2005年9月18日日曜日

選挙も終わり秋の風


本日のサンデープロジェクトは「自民圧勝」の後追い報道でしたが、blog::TIAOのエントリ「(49:51)+(51:49)=327:153 ……民意は何か」と、そこで引用されている「「小泉圧勝」?国民の半分は「反小泉」という事実」というエントリなどは、深く心に留めておくべきでしょう。


歌舞伎などにも深い見識を持たれている一閑堂のpontaさんもこの選挙では、小選挙区制度のすさまじさを実感することができた。と「メイキング・ドラマ」というエントリで選挙を「総括」されています。民主党も党首が決定しましたし、したたかさに負けたなどと総括している場合ではないでしょう。



昨日立ち読みをしていたら、最近のTVが面白くないことに対し「聴衆をバカにしていながら、聴衆に媚びる」番組つくりが最近のTV番組凋落の原因というような文がりました。(何の本だったかは失念、元NHKの人が書いたのだとか)


これは全てにおいて言えていることではないでしょうか。例えば歌舞伎においても、音楽・芸術においても、教育においても、マスコミにおいても、政治においてもです。
全ては「作り手」と「受けて」の相互の関係性が結果を生むのでしょう。

歌舞伎の美学

渡辺保氏の「歌舞伎 過剰なる記号の森」(筑摩書房)を読み始めましたが、「口上」と題された序文の中の一文が鋭く目を射ました。

古典劇としての歌舞伎には、それ自身のなかに伝統的でかつ不変の一つの美学があるように思える。しかし実はそうではないのである。(中略)そこにはむろん変わらないものもあるが、変わったものもある。変わらないものはその形式(たとえば女形)であり、変わったものはその内容(たとえば女形の芸風)である。(P.10)

この変化がどこからくるかといえば、(中略)私は時代の感覚が変わったからだと思う。(中略)その時代の感覚の変化の基本となったものは、私たち観客の感受性の変化でもある。役者とともに、役者と交錯しながら観客の美学というものが変わったのである。(P.11)

先に紹介した中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」。丸山はカラヤンの振るベルリン・フィルをトスカニーニとNBCのヨーロッパ版言い、「なんという絢爛としたむなしさ」(P.229)という一言のもとに評しました。丸山が愛したフルトヴェングラーに象徴された音楽の時代が聴衆とともに変化したことを如実に表した一言です。

再度問う、いったい私たちは、何を観て何を聴いているのか、いや、何を守り何を求めているのかと。

2005年9月17日土曜日

関岡英之:「拒否できない日本」


関岡秀之氏は1961年生まれ、大学を卒業後、東京銀行(現・東京三菱銀行)に入稿し証券投資部門ほかを経た後に退職、1999年に早稲田大学大学院理工学研究室に入学しているという一風変わった経歴の方。早稲田大学ではある建築家の研究室に所属し、それがきっかけとなって参加した北京での国際建築家連の世界大会に参加します。そこで感じた一抹の不可解さから、彼は建築界をも超える壮大なテーマに挑むことになってしまいます。

それは一言で言えば本書副題の「アメリカの日本改造が進んでいる」ということです。アメリカの対日圧力要望書である「年次改革用要望書」の存在と、十数年の日本の歴史を振り返ると、まさにその要望書が描くように「改革」が進められてきた実態が明らかになり、アングロ・サクソン(米英)系の個人主義的価値観により日本を塗り替えようとする(ほとんど理解不能の)野望について知ることになります。



本書の内容は、建築、金融、司法、商法などあらゆる分野に「年次改革要望書」の影響が読み取れることを指摘しております。それは日本の国際化とか自由化、国際標準への準拠とか消費者、国民のためと表面的にはされているものの、結果的には米英を中心としたごく一部の勝者が日本で「自由」に動けるようにするための周到な施策と圧力であると看破します。

フリードマン(経済学者、市場原理主義の教祖的存在、1976年ノーベル経済学賞受賞)的な自由主義とは、万人の自由というよりは、投資家や企業経営者たちの自由、つまり平たく言えば金持ちがさらなる金儲けに狂奔する自由を説くものにほかならない (P.204 5.キョーソーという名の民族宗教)



ロナルド・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)特別研究員)は『日本型資本主義と市場主義の衝突 日独対アングロサクソン』のなかで、こんにちの「自由化」と言われているものは実は「英米化」にほかならず、それが求めているのは貧富の差を拡大すること、無慈悲な競争を強いること、社会の連帯意識を支えている強調のパターンを破壊することであり、その先に約束されているのは生活の質の劣化である、と述べている。(P.220)


上記の主張や引用のように、関岡氏が現在の「構造改革」の行く末に疑問と警鐘をならしています。

私事になりますが、私自身日々の「無慈悲な競争」の前線で、従来の談合も強調も崩れたゼロサムゲームに似たビジネスを強いられていますが、結果的には「貧者」から「富者」へ単に「所得移転」する役割を担わされてるだけのように感じることがあります(正直、自分達の身銭まで削って真の「勝者」に「貢いで」いる状況)。「富者」はもはや絶対的な「強者」になっており、スタンダードは「強者」が牛耳っています。契約の条件は最初から「片務」です。

関岡氏は「米英」系のやり方について、「法」に対する考え方の違いにまで言及していますが、ここで塩野七生氏の「ローマは一日にしてならず」の一文を思い出しました。

政治体制とは、単なる政治上の問題ではない。どのような政体を選ぶかは、どのような生き方を選ぶかにつながるのである。(P.168 第二章 共和制ローマ 「ローマは一日にしてならず(上)」文庫版)



改革とは、かくも怖ろしいものなのである。失敗すれば、その民族の命取りになるのは当然だが、成功しても、その民族の性格を決し、それによってその民族の将来まで方向づけてしまうからである。軽率に考えてよいたぐいのものではない。(P.172 第二章 共和制ローマ 同上)

蓋し同感。








2005年9月15日木曜日

中野雄:「丸山眞男 音楽の対話」


著者の中野雄氏は54年東京大学法学部にて丸山を師と仰ぎ、その後オーディオメーカーに入社、ケンウッド会長、常務取締役などを歴任、音楽プロデューサーや昭和音楽大学講師などもされている方と裏表紙の著者紹介にあります。そんな中野氏はもっぱら音楽談義を通じて丸山と半生を共にし、交流の中で得られた丸山氏の音楽観や思想の根底に流れるものを描き出しているのが本書です。

読んでいると、中野氏の丸山氏に対する深い敬愛と思慕の気持ちが溢れるばかりです。まさに彼の生涯のメンターの一人であったのだろうなと思われます。それ故に、本書に描かれる丸山氏の実像は、思想史家としての丸山眞男ではなく、まさに音楽に没頭し、音楽にまみれていることを至福とする、ひとりの音楽愛好家のいじましいまでの姿であります。しかしその姿は単なる愛好家というレベルを遥かに凌駕した洞察力を秘めており正鵠を射た批評には驚くばかりです。

この本には「丸山眞男」というものに代表される難解さは微塵もなく、読後の素直な感想としては「ベートーベンでも聴きなおしてみようかな」とか「丸山の本でも紐解いてみようかな」というものでありました。それほどまでに「音楽」に対する魅力と「丸山氏」に対する愛情が充満した本です。

丸山氏は日本の政治思想史において重要な足跡を残した思想家ですから、政治と音楽との関係について言及しないわけにはいきません。したがって本書では「第一部 ワーグナーの呪縛」「第二部 芸術と政治の狭間で-指揮者フルトヴェングラーの悲劇」として多くのページがナチスドイツ時代の音楽家や演奏に頁が割り当てられています(というかプロローグとエピローグ以外はこの二章しかない)。

フルトヴェングラーとドイツの関係については、Coffee Breakでも軽く引用しましたが、実存にまで関わる深い問題が横たわっています。第二章の最後にフルトヴェングラーの演奏がナチス・ドイツの支配下、しかも戦況不利な極限状態で「最良の姿」を見せたことについての二人の対話、

(中野)「でも、あんな悲劇的な状況と、悲惨な経験を抜きに最高の演奏が生まれないとしたら、<音楽>とはいたい何なんでしょう」
短い沈黙があった。丸山の言葉は、私の問いかけに対する答えではなかったような気もする。
(丸山)「人間の本質にかかわるテーマですね」
返って来たのはそのひと言であった。静かな、何かにじっと耐えているような丸山の口調であった。(p.234)

この部分は、本書の全てを言い表している部分かもしれません。いったい、私は丸山氏が聴いたものと<同じ><音>を、同じ<音楽>を聴いているのだろうかと、自問せずにはいられませんでした。

2005年9月14日水曜日

暇な時はとことん暇なのだが

今日も暑かった。9月中旬というのに34度にもなることなど、北海道育ちの人間には容易に受け入れがたい事実だ。9月中旬といえば内陸部では霜が降り、ナナカマドも一気に赤くなってゆく時期である。季節の変わりようは一日ごとに劇的でさえある。移ろいの速さには悲しみさえ覚える程だ。こうして考えると気候風土が人間精神に及ぼす影響は浅くはないと思う。

「丸山眞男 音楽の対話」の中で、フルトヴェングラーがナチス時代も(トスカニーニ達のように)ドイツを亡命しなかったことに対し

彼は頭の天辺から足の先までドイツ人だったから。彼の音楽観の根本に関わる問題 (P.193)
ドイツという国をドイツたらしめているものは何か、ナチの言うように人種なんかじゃない。武力でもない。文化だ。世界に誇ることのできる『ドイツ文化』だ。これが彼(フルトヴェングラー)の考え方です (P.201)

と丸山の言葉を紹介している。分かっているようで改めて書かれると考えてしまう。「日本を日本たらしめているもの」「北海道を・・・」あるいは「東京を・・・」それは「何」なのか、最後に残るコアなものとは何なのか・・・

2005年9月13日火曜日

選挙なんてっ!

本日(もう昨日か)の衆議院選挙自民圧勝に対し私は何も言うことができない。結局、住民票のある投票区に帰ることができなかったのである。ギリギリまで帰るつもりでいたから(選挙以外にも帰りたい理由があった)不在者投票の手続きも行っておらず、結果としていつものごとく段取りの悪さから、ささやかなる政治参加の機会を逸し、くだらない仕事に休日も忙殺されていたというわけである。

帰るのが難しいと告げたとき家人曰く、「無理して帰ってきても一票なんだし・・・」。それはそれで正しい。しかし、実はそれはその一票を投票することでしか直接的な政治参加表明ができないのであるから、個人にとっては「した」か「しなかった」かというグレーのありえない徹底的な差異である点で間違っている。

だから自民圧勝に対しても、刺客たちの当選に対しても、彼らを選んだ多数に対しても、残念だった民主党に対しても私は意見を言うことができない。古館氏の司会する番組の裏で、筑紫さんと久米氏が席を並べている番組の愚劣さなどについても書くことができない。というか、何かを書く以前に、疲れきった昨日の私の身体は22時以降まで覚醒していることを許してはくれなかった。

「丸山眞男 音楽の対話」(中野雄 著、文春新書)を読み始める(つーか、あと少し)。丸山の膨大な著作群に接することなく中年になるまで生きてきてしまったが、音楽に対する彼の指摘がいちいちツボを抑えている点に驚いている。私と音楽の好みが一緒であるかはさておき、音楽に対する接し方、探求の仕方、愛情には脱帽するのみ。ただ中野氏の文章はイマイチ、というかイマ五くらい・・・、本書をしたためた気持ちはわかるのだが。私は「丸山氏の音楽に対する愛情」は読みたいが、「中野氏の丸山氏に対する愛情」には残念ながら興味はないということだ。

考えてみれば丸山を知る人が丸山の音楽観を確認すべく書かれた本なのだから、おそらくは中野氏の丸山に対する敬意や愛情は、丸山を知ってこの本を手にする人にとっては共有できる感情なのだろう。

したがって丸山を知らない無学な私にとっても、中野氏の文章を通じて丸山の思想の片鱗に触れたいという気持ちが(すこーしだけ)起きた点で、結果的には中野氏のスタンスは正しかったと言える。(>何言いてーんだ?)

2005年9月11日日曜日

涼しくなってきました

土曜日、全然仕事が間に合わないので出勤。昨日の会議で、思い余って他部の課長にかなり強い口調で詰問および指示。それがすぐに彼の部長に伝わり、本日は彼の部内にて部長と次長の「喧嘩売るなら買うぞ」から始まる打ち合わせ。こちらもこういう展開になるとビビりながらもワクワク。その後延々と3時間近く額を付き合わせて内容確認。まあ、とりあえずは方向性を定める。それにしても、もう少し柔らかくコトを運ばねばならないな、とはいつものことながら反省。私の腹立ちは彼や部長にではなく会社のシステムそのものにあるのだが・・・てことで相変わらず瑣末的で冴えない生活が続いている。




iTunesをインストールしてから、余り聞いていないCDを暇があればHDDに入れている。

iTunesがあると音楽の聴き方が全く変わってしまうことに気付く。今もPCに向かいながらクライバーの「椿姫」を第2幕のヴィオレッタとジェルモンの二重唱から聴き始めたが、あまりの音楽の美しさに涙してしまう。そのすぐ後にベーム指揮のコジ第1幕'Soave sia il vento’の天国的な美しさに浸り、デスピーナの小悪魔に苦笑した後、アシュケナージ弾くラフマニノフのEtudes-tableaux, op. 33を聴いたり・・・もう支離滅裂。



Gパンの右ポケットに使い道不明な小さなポケットがついているが、あれはiPod nanoを入れるためのものだったとは、なんとも秀逸なジョーク。

2005年9月8日木曜日

ゲオルギュー/プッチーニ:アリア集

1月に来日してソロリサイタルを開催する予定の、今や押しも押されぬソプラノ歌手アンジェラ・ゲオルギューのプッチーニ・アリア集。以前から気になっていたのですが、仕事も切羽詰まっており難しいことは考えたくないので、こういうアリアでもバーッと聴きながら気分転換を図るのも良いかもしれません。

2005年9月7日水曜日

慣れとか


��月から他部署より転勤してきた彼、前任者から業務を引き継ぎ、訳の分からないままディープな会議に巻き込まれ上司から罵倒されまくっている。会議終了後「言ってること、やっていることが理解できん! 絶対にオカシイ!」とブツブツ。


彼をなだめながらも、ああ、そうだったよなと、君は正しい。私もココに来た当初は、意思決定者のあまりな理不尽さと理屈を越えた(理解不能の)論理、位相的に捩れた組織と業界の放つ悪臭に辟易としたものだ。改めて考えれば何も状況は変わっていない、変わったのはそういうバカバカしさに慣れ、批判の矢をかわす処世術を身に付けた惰弱な自分である。サラリーマンとしては必要な資質だが、ビジネスマンたるには排除すべきものである。


このブログにもためしにTab Cloudを実装してみた。Tab Cloudについは詳述しないが、要はエントリをキーワードをもとにしてリスト化する機能であるらしい。エントリをカテゴリ分けするより自由度が高いようだ。もっともこんなブログにタブを設定したところで便利だと思うのは書いた本人くらいなもの。カレンダーも書いた本人が便利だということで、このページにも実装してしまった。畢竟ブログは過剰なる自意識による自己偏愛と自己満足の所産でしかないと再認識、つまらん。

2005年9月6日火曜日

iTunesとSony/本

「鎌倉・スイス日記」によるとソニーがiTuneに楽曲を提供!!するらしい。やっとというか、やっぱりというべきか。

ブログマスター殿も指摘されておられるが、SMEをはじめとして日本の音楽ダウンロードサイトはデザインもいただけなく、さらに使いにくい(好みもあろうが)。さらには独自のプロテクト機能だ。音楽著作権の保護というが、あれではわざわざネットで買う気が全く起こらない。

ソニーは圧縮技術+プロテクト機能で日本のスタンダードになろうと目論んでいたが、やはり音楽ダウンロードにおいてはApple陣営にも加わらなくてはシェア拡大ができないと判断したのか?

blog::TIAOで紹介されている「拒否できない日本~アメリカの日本改造が進んでいる」関岡 英之 (著)(文春新書)、面白そう、選挙前に読めるか?

丸善で在庫があるので注文。併せて「丸山真男音楽の対話」 (文春新書)も注文、はよ届け。

2005年9月5日月曜日

勘三郎について


「歌舞伎舞台の記憶」といういサイトの勘三郎の「法界坊」は必読。私がなんとなく気にしていることを見事に文章化している。


常に伝統に立ち返ることがなければ、逆に古典の規格が崩れていくのです。このことは常に戒めなければならないことです。


先のサイトでも書かれているように、私には勘三郎の盛綱がいまひとつの印象だったが、「重い」という言葉で謎が解けた。私はそれを「軽い」と感じていたのだが逆であったのだ。

2005年9月4日日曜日

青山・表参道あたりを散策

土曜日である。休日なのだが仕事も気になる。しかし、天気が良いので仕事するのもバカらしい。ということで散歩がてらに会社に行くこととした。

取ったコースは原宿から都心の職場まで。表参道やら裏の脇道をブラブラ往復。明治通りと表参道にはさまれた地区、すなわち神宮前5丁目あたりは、閑静な中に面白そうな店が点在していたり連なっていたり、歩いているだけで飽きない。あっという間に姿を変えてしまう都市の姿がそこにはある。変化が激しすぎるという批判もあると思うが、地方都市にはありえないエネルギーや貪欲さを感じるのも確か。

銀座ともちょっと違った雰囲気で高級ブランド通りへと変身を遂げつつある表参道では、その筋で話題の安藤忠雄の建築がほぼ全貌を現していた。GUCCIやLVの豪奢な建物にも慣れてきたが、今の若者のようにTシャツにジーンズ姿で気軽に入る気はしない。

246を抜けるとおととし話題をかっさらったPRADAの向かいに、更に奇怪な形のヴェロックスが完成間近だ。こうしてみると、いったいどうやって造ったのだろうと疑問が沸いてくる。ヴェロックスではここ御幸通りとともに、明治通りでも店舗を建設中だという。どちらも日本人には思いも付かないデザインだ。

ここまで来て、そういえばと思い出し原宿駅近くまで戻り太田記念美術館で北斎を観る。一服の清涼剤というか別世界だなここは。

再びあちらこちらでグラビア撮影が行われている人だらけの表参道を抜け、根津美術館のあたりを北東に曲がると青山霊園である。ここら当たりは話題のショップもほとんどないため、人通りも交通量も極端に少ない。青山陸橋では暇を潰すタクシーが行列である。お盆も過ぎた墓地には蝉時雨が降り注ぐ、暑苦しいアブラ蝉に混じってツクツクホーシも鳴いている。夏も終わりだなあとしみじみ。蝉時雨をBGMに青空にギラギラと聳え立つ六本木ヒルズは一種独特、異様な光景だ。蝉時雨以外の静寂さが一層隔絶感を際立たせる。

乃木坂トンネルを越えた当たりから、六本木の巨大開発を目の当たりにすることになる。一つはナショナルギャラリー、もうひとつは防衛庁跡地の東京ミッドタウンである。ナショナルギャラリーはほぼ建物は完成の様子、一方の東京ミッドタウンはまさに鉄骨ムキ出しで建設の真っ最中。その大きさには改めて驚きの念を隠せない。

未だ激変しつつある東京の片鱗に触れながら職場にたどり着いたら、はっきり言って疲れきっておりました・・・

展覧会:「全揃い冨嶽三十六景展」太田記念美術館


原宿にある太田記念美術館で葛飾北斎の「冨嶽三十六景」全46点が全て展示されていると知り、もののついでに観に行ってきました。

太田記念美術館は表参道の裏手に位置していますが、美術館に入った瞬間に外の喧騒が遠い世界のような静かな空間が現出します。
大々的に宣伝しているわけでもありませんから来館者も少なく、ゆっくりと北斎を鑑賞できる至福の時を味わうことができました。

それにしても、改めて北斎の画を見るにつけ、何たる天才性であろうかと驚くばかり。また、その画に対する執念に近い凄まじい気迫まで感じ、まったくもって恐れ入ってしまいました。美術館サイトによりますと「冨嶽三十六景」は天保二年(1831年)頃に出版されたそうで、北斎60歳後半から70歳前半にかけての作品とのこと。それほどの老境にいながら、精力的に写実を試みた北斎の類稀な画境は冨嶽三十六景と併せて展示されている諸作品群からも窺い知る事ができました。

天保五年「冨嶽百景」初編において北斎は自らを「画狂老人卍」の号を用いました。その号には死ぬまで飽くなき追求をする気迫を込めているようです。習作に近いスケッチなども展示されていますが、その表現は自在で写実的意味合いにおいては日本的な様式を持ちながらも、すでに空間や空気までをも表現するリアリティを獲得しており圧巻といえましょう。

世界に目を転じればまさに西欧では印象派が花開きはじめる前の時代。まさに西欧が瞠目した浮世絵の世界は最盛期を迎えていたのですな。

2005年9月3日土曜日

疲れた・・・


金曜日19時半、何気に会社の隣席の同僚が「最近の部長の××に対する思い込みは、ちょっと異常なくらいに強すぎるよな・・・」という、つぶやきとも、ぼやきともつかない発言から始まった会話。


問題の××に関する話題から部署のありよう、幹部のスタンス、他社との比較、組織改変、社員のキャリアデザイン、会社のありよう、などカイシャにまつわる様々な話題を互いに昔作ったり稟審した資料まで引っ張り出しながら、延々と6時間近く話し続けた。


その間、食事もとらないどころか、一滴の酒や煙草、いや水やお茶さえも口にせずですよ・・・、今の旬の世間の話題は衆議院選挙かニューオリンズか菊治が冬香を殺したことだろうに(>違うって・・・)

2005年9月2日金曜日

保坂正康:「あの戦争は何だったのか」


9月2日です。日本が東京湾上のミズリー号で降伏文書に調印した日であり、真の意味での「敗戦記念日」です。

果たして私を含め日本人の多くはは、アジアに対する戦争責任とか以前に、ポートモレスビー、ミッドウェー、ガダルカナル、ラバウル、トラック島、インパール、レイテ島などの激戦地を地図上で正しく示すことができるだろうかと改めて思いました。知らないとしたならば、それほどに日本近代の歴史について無知でありすぎるのだと。

この書には、日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込まれた時代の雰囲気、軍部(軍部とは何かについても「第一章 旧日本軍のメカニズム」として記述をしている)の暴走から敗戦になだれ込むまでの経緯が、天皇や当時の人たちの話しをまじえながら淡々と描かれています。その意味から、「大人のための歴史教科書」という副題はあながち誇称ではないと思います。

本書は「歴史教科書」とうたわれていますが、いわゆる自虐史観云々から声高に侵略の歴史を正当化するようなものではありません(戦後の「反戦、平和主義」にも「新しい歴史教科書」派のどちらにも批判的)。ひとえに、

あの戦争にはどういう意味があったのか、何のために三一〇万人もの日本人が死んだのか、きちんと見据えなければならない(「はじめに」P.9)

というのが主旨です。私が日本近代史に疑問に思い続けていることを、そのまま文章にしてくれたような本でありました。ではなぜ私が近代日本史に疑問を持ち続けているかといえば、おそらく戦争に至った日本のありようは、今も継続しているのではないかと感じているからです。それは現代のプチ右傾化の政治風土というようなものではなく、もっと深く日本の組織風土、会社風土にまで根付いたもののように思えるときがあるからです。

はからずも著者は「あとがき」で次のように記述しています。

あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。(中略)その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか(「あとがき」P.240 太字は本文では傍点)

たとえばターニングポイントとなった時期の状況について、

危機に陥ったときこそもっとも必要なものは、対局を見た政略、戦略であるはずだが、それがすっぽり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることができた人材は、すでに「ニ・ニ六事件」から三国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が構成されていた。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」は日露戦争を描き、広く国民に明るい近代史とナショナリズムを植え付けた意味で画期的な本でした。しかし司馬は日露戦争の日本を描きながら、暗に昭和の日本を照射していました。明らかに明治の陸軍と昭和の陸軍は別物であったという認識です。

保坂氏も陸軍や東條の無能さを指摘してはいます。しかし常識であった「陸軍の暴走」に対し、太平洋戦争開戦について、最初に責任を問われるべきなのは、本当は海軍(「第ニ章 開戦に至るまでのターニングポイント」P.92)は意外な視点でした。真珠湾はアメリカに仕組まれたものであったとの説もありますが(保坂氏はそのスタンスに立たず)、日本の石油備蓄量と続くABCD包囲網は、海軍が仕組んだ結果であったとは・・・! もっとも保坂氏は戦争の責任を陸軍や海軍にのみ転嫁せず、当時の思考麻痺に陥ったマスコミを始めとする日本の状況にも言及しています。

また、当時の天皇のスタンスについてもかなり言及されており、保坂氏の資料が正しければ天皇は最後の本土決戦回避に向け非常に重要な役割を果たしたことが伺えます。

歴史事実や歴史認識に「客観的事実」は存在しないとは思うものの、歴史を正視する努力は怠ってはならないはずです。かようにこの本は、「戦争に対する説明責任」「日本を滅ぼそうとした政策に対する責任」、さらには現在の日本人の姿までを考えさせる良書であると言えましょう。(って私が推薦したところで、どうなるものでもないが)

太平洋戦争で将棋のコマのように犬死させられた無名の日本兵士たち、その無名の兵士たちに殺されたであろうアジアやアメリカを含む多くの方々に心よりご冥福をお祈りする次第です。

夏は終わったか?


衆議院選挙が公示されいよいよ舌戦も暑くなってきた。夏は確実に終わりつつあるが暑いところはまだ暑い。


以前仕事で付き合っていた知人から久し振りにメールが来た。彼の会社は春に会社更生法が適用され、その後外資が支援すると発表されていた。会ってハナシを聞いてみると給料は大幅カット、会社は「10年で上場させる」という方針らしく、これでは先が見えず不安なので同業他社に転職をすることにしたと。幸い彼はすぐに大手から内定を貰う幸運に巡り合えた。果たしてこの場合「おめでとう」と言うべきか・・・とりあえずは、よかったなと。


小泉首相の進める改革。痛みの中で良い方向に脱皮できる人は幸せである。経済的には「淘汰」「再編」とくくられるできごと。いまの私とて10年後どころか5年スパンで見ても先が透明なわけではない。この年になって「先が漠然と不安」というのは確かにやりきれないが、社会環境や経営責任のせいにする年齢でもなくなってきた。


病院の待合室でファッションやライフスタイル関連の月間誌をパラパラ眺めるにつけ、一体どこの世界のできごとかと思うような話題ばかり、やっぱり日本は変質しつつあるのかなと、ぼんやり思う。



ハリケーンで略奪激化 米南部、貧困層に不満

超大型ハリケーン「カトリーナ」上陸に伴い、約48万人の市民の大半が市外に脱出した米南部ルイジアナ州ニューオーリンズで、市内に残った住民による略奪や自動車の襲撃などが激化、地元警察などが警戒を強めている。(8/31)


スピルバーグの映画「宇宙戦争」でも、トム・クルーズの前妻は安全な場所に早々に避難していた。アメリカのような日本なって欲しいと思わないが、そういう将来の方向性まで今回の選挙が背負っているのかは判断がつかない。競争社会ということは上のような帰結でもあるのだから。


あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書 新潮新書 (125)
保阪 正康 (著)
を読む。感想は表にそのうち・・・。早い人なら1~2時間で読んでしまうだろうが、内容は示唆に富む。批判も多い気もするが・・・

2005年9月1日木曜日

スローライフと文字化け


Classicaの話題、スローライフって最近良く耳にするが、単に「仕事したくない、楽したい」て欲求なんぢゃないか。スローライフを満喫できるのは富裕層の中の一部と貧困層の中の一部だけだろうに、現状では。


そういえばレクサスも昨日全国展開ですか、富裕層向けって堂々と日本でも言い始めましたね。米国でも新富裕層をターゲットにしたビジネスが盛んだと数年前のHBRに論文があったよな。


でも「年収300万円で生きる」とか沢山お金持ってる評論家が言うけど、誰も彼らのことを「貧困層」とは言わないのはなぜだ?


gooのブログ検索すると、拙サイトが文字化けして表示される。原因をgooに問い合わせた。誠意ある回答は二度も来ているが原因はつかめていない。

2005年8月30日火曜日

歌舞伎:伊勢音頭の御師とは


pontaさんから紹介されたChunich Web Pressの解説「<觀翁万華鏡 おもしろ歌舞伎ばなし>芝居の際物とはなんぞや?」は面白かった。

そもそも貢の職業である「御師」が理解できないでいたからでもあります。テキストによれば御師とは私設神主と旅行代理業を兼ねたような特殊な業態。旅行代理店と言えば聞こえはいいが、要は精進落しの後は遊郭にご案内する役であるらしく。ここからも遊郭が当時の大人の健全な娯楽施設であったことが伺えますね。昼は靖国参拝して夜は六本木のニュー・ハーフ・ショーに団体で行くようなものか?(>違うような・・・)


御師の有様についてpontaさんは、武士の押しだしだが武士ではない、ぶまさ、不甲斐なさ、屈折した自尊心とそれが反転する苛立ち書かれており、成る程なと。貢が次々と人を斬ってしまうことについては、


自身の刀がなんであるかを直感できないような、武士であって武士でない男の半端な存在感が、妖刀にとり憑かれる根拠となっていることがわかるのだ


と指摘されています。おそらくは刀を掴む右手は血糊で固まり、自分ではほどくことが出来ないほどに固く握り締められていただろう無意識の狂気。


写真はChunich Web Pressから無断借用ですが、六世尾上菊五郎の福岡貢、七世尾上梅幸の油屋お紺(昭和23年7月、東劇)のもの。青江下坂をダラリと下げて、全く心ここにあらぬ様子で恋相手のお紺を見下ろしている様は、この小さな写真からでも貢の狂気が伝わってくるようです。対するお紺は相手が何をしようとしているのか理解していないようで、その無防備さがまたリアルです。


仲居の万野がなぜ貢に良い感情を抱いていないかについても、再びChunich Web Pressの解説によれば、店の経営者にとってこそ、大事な御師様だが、一介の従業員には存在意義がわからないから、御師をいやがる。その代表が万野だというのです。

舞台でも万次郎を待って引付座敷(?)に居座り続ける貢に対し、万野は「一文にもならない客相手にしていても」みたいな憎まれ口をたたいています。そう考えると単純ではありますが、それにしても、お鹿への手紙の小細工や最後の殺人に至る台詞などを思い出すに単なる「金にならない客」というレベルを越えた複雑な感情を万野からは感じます。


とまあ、かように深読みしながら芝居を反芻するのも、また楽しであります。

歌舞伎座:蝶の道行、京人形


八月歌舞伎の第二部、「けいせい倭荘子 蝶の道行~長唄連中」と「京人形~常磐津連中、長唄連中」の感想も忘れないうちに書いておきましょう。


蝶の道行」は主君の身代わりになって死んだ小槙(孝太郎)と、その後を追った助国(染五郎)が死後の世界で蝶になって戯れるという舞踏。長唄は何を歌っているのか、予備知識なしではほとんど聞き取れないため「ああ綺麗な舞だなア」という感想以上のものを持つことができないのが残念。


二人のの馴れ初めを思い出しての舞や、蝶になっての夢幻的な舞の後、一転して地獄の責め苦となります。舞踏における「地獄の責め苦」は「鷺娘」でも見られましたが、江戸のサディスティックな愉しみのひとつなのでしょうか。残念ながら、踊りの展開が読めなこともあって儚さや美しさを感じる以外は余り楽しめませんでした。


また多くの方が書かれていますが、最初は蛍光塗料の大きな蝶が二匹ブワブワと舞台の闇を飛び、明かりが付くと一面の下品なほどに大きな花に埋もれている舞台は、それだけで何か時代をトリップしたシュールさ。「地獄の責め苦」の場面も、「めらめら」と萌える燃える炎のライティングが「グルグル」まわるまわる・・・、このような演出も少し興醒め、昭和37年の武智鉄二氏の演出が古臭いということなのでしょうか。


京人形」は反して素直に楽しめる、歌舞伎らしいおおらかさに満ちた舞台。人形師左甚五郎(橋之助)が郭で見初めた花魁そっくりな人形を彫り上げ、人形相手に酒を飲んでいたら人形(扇雀)が踊り始めるという他愛のないもの。こういう題材から、廓が江戸時代の男性達の憧れの場所であり、花魁が女性の理想像(高嶺の花)であったことが伺えます。


現代から考えると「奇異」にも「ヲタク」にも、あるいは「不気味」にさえ感じられる左甚五郎の行動(人形相手に酒を飲む)に対し、女房(高麗蔵)も左甚五郎に言われるまま仲居の真似をして酒をもってきたり、そういう左甚五郎の妄想を暖かく見守ってやったりと、男性のメルヘン全開の筋立て。


私は甚五郎が一人人形と悦に入っている間に、奥方は奥にひっこんで一体なにをしているのだろうと、実のところ舞台には全くカンケイないことが、ずーっと気になったりしていたものです。かくまっている井筒姫と「男って単純で莫迦よね」とお茶菓子つまみながら悪口言っているとか・・・もしかしたら竈の前で贔屓の歌舞伎俳優の錦絵を相手にメルヘンしているとか・・・


演目自体は橋之助の笑顔といい、扇雀の踊りのコミカルさといい、歌舞伎を堪能できるスカッとするラストといい、まったくモンクの付け所は御座いませんです。

2005年8月29日月曜日

團十郎再入院・・・


本日の報道によると


歌舞伎俳優の市川團十郎(59)が、急性前骨髄球性白血病の再発の疑いのため、8月30日から半年間休養すると27日、松竹が発表した。


早く復帰することを心より祈るばかりである。私は團十郎の大らかな演技がとても好きである。海老蔵はまだ良く馴染めていない。


音楽の方は、しつこくもコジなんである。「最低の台本に最高の音楽」と称される作品だが、じっくりと対訳で聴くと何と素晴らしい音楽をモーツアルトは書いてしまったのかと思う。


しかし、ダ・ポンテの台本は本当に「最低の駄作」であるのだろうか。オペラ・ブッファという24時間での出来事と考えると単なるドタバタ喜劇であるが、そこに隠された微妙な心理劇を読み取ったとき作品の奥は結構深かったりする。

2005年8月28日日曜日

「歌舞伎」が面白いということ


一閑堂のpontaさんから「歌舞伎役者が演じるから歌舞伎」にトラックバックを頂いたのは幸いでありました。非常に示唆に富んだサイトで、読みながらウンウンと頷いている自分がいたりします。


もっとも「歌舞伎とは何か」という問いに対して、pontaさんのような理路整然とした回答は出せないものの、歌舞伎の発生の経緯を考えても歌舞伎はエンターテイメントなのだから観客にウケるように変質してゆくのは当然という類の主張には素直に頷けないでいるからです(注:pontaさんの主張ではない)。


私が歌舞伎に感じていることは、pontaさんの文章をそのまま借るならば、



  • 歌舞伎は、江戸の美意識を知るよすが
  • 幾度の拡大再生産にも耐えうるパターン化演劇システムというのが、私がなんとかとらえた、歌舞伎産業の基本のキ


と指摘する点に極めて近いものです。歌舞伎には少なくとも「美」がなくてはならないことと「単純に繰り返されることに耐えうること」が必要であると感じています。「拡大」が必要かどうかは今の私には分かりません。


現代に生きる私たちが歌舞伎を観ますと、展開が遅いし肩の凝る事も確か。だから時に「笑い」も必要ですが、奇を衒った演出や「ギャグ」には賞味期限があります。私は「十二夜」も「法界坊」も見ていませんが、例えば「研辰」に使われていたホットなギャグの数々は再演されるとしたら全て書き換えが必要でしょう(実際、初演のものとは違ったものに書き換えているのでしょうが)。


時代を先取りすればするほど、次の瞬間にそれは古ぼけたものになる、現在の時間の進み方は極めて早い。「喜劇」ならば、その中で普遍たりえる「笑い」を抽出することこそ必要。うわべのバカ騒ぎはアペリテフかトッピングでしかないと思いますし。もっとも、野田氏の演出は単なるバカ騒ぎだけで終始しておらず、現代的な悲喜劇を作品に盛り込むことに成功していることは以前書きました。その意味からは野田劇としては秀逸な出来であると思います。


自分にとって「面白い」とは何かを見極めることも、私が歌舞伎を観ている理由の一つであります。歌舞伎を観ていると、役者の仕草態度の一つが何て「イキ」なんだろうとか、女形の所作の中に限りない艶やかさを感じたりします。それは「型」として踏襲されてきた、かつての「日本」の時代精神の片鱗なのでしょうが、わたしはそこに限りない愛情を感じたりもしていますし、それを発見するのが大きな楽しみの一つでもあるのです。

歌舞伎座:伊勢音頭恋寝刃

八月納涼歌舞伎の第二部を観てきました。演目は「伊勢音頭恋寝刃」より油屋と奥庭、「蝶の道行」、「京人形」の三作です。中村勘三郎襲名披露以来の歌舞伎で久しぶりの観劇です。

今月の歌舞伎界の話題といえば、夜の部に演じられる串田和美演出の「法界坊」であることは間違いないでしょう。しかし勘三郎襲名の最後の演目は「野田版 研辰の討たれ」でしたから、いま一度しっかりとした古典歌舞伎を観たいという気持ちもありました。また渡辺保さんの歌舞伎評でも「伊勢音頭」をして今月一番の期待作と書かれていましたし、戸板康ニ氏に関するサイトでもある「日用帳」でもなんといっても三津五郎の『伊勢音頭』がたのしみでたのしみでしかたがない、三津五郎の『伊勢音頭』と聞くと当然たのしみにしてしかるべきの『法界坊』なぞすっかりかすんでしまったというエントリを読み、もう「伊勢音頭」しか眼中になくなりました。それで観終わった後の感想はといえば「歌舞伎ってやっぱり面白いなあ」という深い満足感でありました。

簡単に感想を書き留めますと、まず何と言っても渡辺さんも指摘されるように三津五郎の貢役がよかった。台詞の聞き取りやすさ、見栄の決まり方、イキの良さ、場の雰囲気の変え方、まさに歌 舞伎の型がそこにあり、そして歌舞伎を観る楽しみを充分に味わわせてくれる役周り。いったいいくつの見栄を切ったことでしょう、そのいちいちが小気味良く、胸の奥でストンと落ちるべきところに何かが落ちる感じ、これが歌舞伎の醍醐味か。

この貢にからむのが勘三郎の万野。勘三郎が舞台に出るだけで客席から笑いが漏れるのはいかがなものかと思うものの(万野が死ぬところまで笑いが漏れるんだからヤレヤレです)それが人気役者たる由縁か、それでも性根の悪い万野役をきっちり演じ切っていました。ここが生ぬるいと貢の中で鬱屈した感情が育たない、また陰湿に過ぎると舞台が暗く重くなる。勘三郎の笑いと真剣な部分のバランスは絶妙。

この「伊勢音頭」という物語、遊女お紺(福助)の愛想尽かし、妖刀「青江下坂」の魔力につられての郭での連続殺人と来れば思い出すのは4月の襲名披露の演目「籠釣瓶花街酔醒」です。あちらはどうしようもない悲劇性を帯びていたものの、こちらはラストのあり方を含めてもう少し軽い、というか、先にも触れた勘三郎の役柄が上手い具合に喜劇的性格を付与し、最後はムチャクチャな筋立てであるのに不思議とやりきれなさや救いのなさが少ない。

いや、軽いのはもしかすると三津五郎演ずる貢の性格にもあるのかもしれません。歌舞伎とは、また当時の感覚は「こんなもの」という肯定的な面が強く、逆にそれ故にといいましょうか、籠釣瓶に通じるような現代性は少ないように感じました。

舞台が廻って踊り子の華やかな音頭の後、血まみれの人物が現れての殺しの場面も残酷なシーンを楽しむというエンタテイメント性を演出に感じ(ちょっと長すぎるが)、18世紀末の江戸の文化的爛熟さを垣間見る思い。

醜女という設定のお鹿(弥十郎)がちょっとかわいそうな役回りですが、これというのも全ては万野の悪企みのせい。ではいったいに万野は何故にここまで貢を陥れようとしているのか、という謎が残ります。観ていると貢の怒りを買うような行動ばかりしている。徳島岩次とつるんで貢から銘刀を奪い取ろうと企んでいるだけにしては、ちょっとやりすぎな行動。「嫌い嫌いも好きのうち」なんて可愛い感情でもない。

こういった行動に対して一閑堂のpontaさんは玉三郎万野の平安というエントリで、

彼女の男への執着は闇のように深く、濃いのだ。あたかも煮詰まった毒酒のように…。 そんな彼女はようやく獲物をみつける。

(中略) 今日の破滅、貢に仕掛けた破滅だけは不可逆なものであって欲しいと万野は思っていたのではないか?

と1999年6月に歌舞伎座で演じられた仁左衛門の福岡貢、玉三郎の万野の「伊勢音頭」を引き合いにして書かれています。この捩れて深い業のような人間性。そのようなものまでは勘三郎の万野からは感じることはできませんでしたが、先の疑問に対する一つの回答であるのかも知れません。

愛想尽かしをするお紺についても最後にふれなくてはならないか。何故愛想尽かしをするのか、そのわけが観ていて分からなくてはならない、お紺は貢の方を見もせずに、寝入っている岩次(>たっだよな?)の懐近くに手をかざし、ひたすらに憎まれ口をきいている。ああそうか、そうかと分かる演技、女心は怖くていじらしくてフクザツだなあと。

お紺、万野、お鹿という三者三様の女模様の複雑さや深さ。これに比べたら男はなんと単純なことよのう。劇を支配する支離滅裂さと脳天気な結末は、勘三郎の「軽さ」ではなく、貢の持つ「男」というものの、どうしようもない単純さと軽さに起因しているのかもしれない。

ちなみに「伊勢音頭」は寛政8年(1796年)に近松徳三の書いた歌舞伎で、同時期に伊勢古市の油屋で起きた事件を題材にしています。一方の「籠釣瓶」は三世河竹新七により明治21年に初演、享保年間の百姓次郎左衛門の吉原百人斬が題材になっております。どちらも「妖刀」の魔力による殺人とされていますが・・・刃物は人を魅了する力を持っているのですなア、おそろしや、おそろしや・・・浴衣といい、ウチワといい、スプラッタといい、まさに納涼歌舞伎でございました。

今日も暑いな・・・


地下鉄やら電車に学生達が舞い戻ってくるまで、あと数日。甲子園で優勝した駒大苫小牧の過去の暴力事件で優勝を取り消すだの取り消さないだの無意味な論争も続いていて、つくづく世の中ヒマなのか大事なことが何なのか見えないのか。


大事なことが見えないといえば、マスコミ報道と衆議院選挙だったりするが、コイズミの目くらまし戦法によって思考不全に陥ったままで選挙に突入するのは不幸でしかない。もっとも、どこが政権を取ろうが不幸な状況に変わりはないのか。ゲームやパソコンのようなリセットボタンなどは存在しない。


相変わらずモーツアルトのコジを聴いているが、聴けば聴くほどに素晴らしい音楽であることを認識。モーツアルトの天才は螺旋を描きながら空中で明るく弾けている。人間に対する愛情と皮肉を併せ持ちながら。

2005年8月27日土曜日

台風が過ぎましたが・・・


台風が過ぎ去ったと思ったら関東圏はいきなり33度近い猛暑。体が秋モードになっていたので、突然の33度はこたえた。今回の台風の速度は非常に遅く、あちらこちらでまた甚大な被害が出た様子。


先日、即席浮月旅團が完全復帰の様子と書いたが、ブログマスター殿が「完全復活に非ず、シフトへの意向」との意思表明。(まさか本ブログへの回答とは思われませんが)


私としては、その意識をウエブログといふ日誌形式に據らず、主題別の備忘體系のやうな形式にシフトしたく考へてきてをります。同アップルプル系で鈴木さんのご使用されている a-column などの手段も見えてゐますが、まだその具體化までには考へが至つてをりません。


とエントリーにある。9月には「完全消滅」してしまうらしい。syuzoさんのサイトもブログを止めましたが、個人的にはブログの方が読みやすかったかなと・・・思っている。


当方もブログというインタラクティブな日誌を付けているという意識はない。ウェブにジャンク文を撒き散らしているのは、ひとえにそれは「書く」という行為でしか自分の意識を定在化させられぬからではあるのだが・・・結構ムダな行為であるとも感じている。


明日は久々の歌舞伎座で「伊勢音頭」を観る予定。籠釣瓶に似たテーマであるだけに、イロイロな意味で楽しみである。

2005年8月24日水曜日

ネットラジオのホリエモン


「週刊!木村剛」でも紹介されていますが、ゴールデンウィーク中にオンエアされた私(木村剛)とホリエモンのラジオ対談がポッドキャストとして提供されています。あれだけ政治に興味がないようなことを放言していながら広島6区から立候補するというのはムジュンではないかと普通の感覚の人間なら思います。しかし、おそらく彼は「普通の」人間ではないので彼なりの損得勘定をしたのでしょう、そこには個人的な興味はありません。


それでも彼がネットラジオで語っていた内容は(都市若年層住民をターゲットとしたものであったとしても)、明確なメッセージを持ってはいます。曰く、


  • 人には二種類いる、起業する人と起業する人についていく人
  • 政治家は良く知らない、政治は分からないところで決まる=だから向いていない
  • 面倒なことは考えるのが得意でない、政治は面倒、シンプルな簡単なことをしていたい=だから自分は政治家にはならない
  • 規制がなければ選挙の中でブログをやりたい(ここらは木村氏が振るための発言)、規制しているのは、そうすると若年層の投票率が上がるから
  • 携帯とかPCとか使えば投票率が上がるのに、それをしないのは投票率を上げたくない政治家が居るから
  • 投票率を上げるのは簡単、それには携帯を使えばいい(これはトートロジーか?)
  • 政治に出るなら政党は関係ない(ここらは木村氏が振るための発言)、首相にならなくては意味がない=テクニカル論で言えば、自民党で攻めるなら40億あれば党員選挙で勝てる
  • 日本の政治は外資系企業を止めた金持ちがやればいい、彼らは日本のことばかり考え日本のことを良く知っている
  • ビジネスは世界をまたにかけている(ので政治とベクトルが違う)
  • 政治家になったら外国人(何千万人単位で)を増やして少子高齢化を止めて再び日本を発展させる
  • 日本に外国人が来たい内に日本に来られるようにする
  • 外国人は出生率が高いし介護やベビーシッターに従事する人も増えれば、結果的に(日本人の)生産性も上がる


話が直接的で単純な点が受ける理由でしょうか。論理的な裏付けや深みには追求すべき点もあると思いますが、なんたって「ブログのラジオ版」での発言ですから良しとしましょう。


今回の選挙は「都市住民」(改革派)と「農村型住民」(守旧派)の闘いであると論ずる人も居ますが、
都市住民の最先端のホリエモンが広島6区で出馬したことはビミョーです。それらをさておいても、政治家をとりあえず目指し始めた彼は、結局何を成しえないこととするのでしょう。


社長業もタレント業も国会議員も、8時間睡眠してなお三股かけられるほどに余裕のある職業であることは、よく分かりました・・・ というか、この選挙はどういう意味を持つことになるのでしょう・・・時代の変わり目にさしかかってきているような気持ちだけはありますが、その先が多くの人にとって薔薇色かといえば、そうは感じませんが。

2005年8月23日火曜日

靖国問題って話題なんですか・・・?


高橋哲哉氏の「靖国問題」について言及したエントリに幾つかのTBをいただいています。こんなミーハーでノンポリ(>死語)なサイトにまでTBがかかるくらいですから、巷のネット界ではイロイロな意見がかわされていることと推察いたします。


高橋氏の論点の甘さは他人に指摘されるまでもなく明白ですし、武力なき国家とか外交など稚戯に等しいとする意見も多いと思います。それはそれで正しいし、いまの近代国家を前提とする限り武力放棄など(大国の傘下にあることも含め) 幻想に過ぎぬことも自明なことなのかも知れません。


しかし、その自明な論点から先のビジョンはどうなんでしょう。現実路線を取るのか、あるいは別なパラダイムを提唱するのか。別なパラダイムを提唱するには米国との関係を根本から問い直すことを意味します。それは武力を放棄するサイドにとっても、武力を持って自立するサイドにとっても、あるいは米国依存ではなく例えばアジア協調を提唱するサイドにとっても、今までなかった決意と決断に迫られることになります。


最近読んだ「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」(浅羽通明:筑摩書房 4480061738)によると、どちらもナショナリズムの発露ではあるわけでが、ここらあたりは政治家が真剣に考えて欲しいところです。

2005年8月22日月曜日

まだ暑いですね

ご機嫌いかがでしょうか

北海道では駒大苫小牧の甲子園夏連覇という偉業とともに
秋風が吹き始めたような印象があります
東京は相変わらずムシムシしているようですね

選挙はアホ臭さとキナ臭さが漂っています
ホリエモンVS亀井氏の対決もあまり興味がありませんが

いくら高校野球で北海道の地位が向上したとしても
「新党大地」は止めて欲しいですね。
「試される大地」ってコピーだって恥ずかしいのに・・・
ムネオもチハルも、もういいって・・・という感覚が都市重視、地方切り捨てですか?

2005年8月21日日曜日

甲子園 駒大苫小牧 4

普段は野球なんて見ない人たちも街頭のTVスクリーンの前で一喜一憂する。地元の新聞(北海道新聞や朝日新聞地方版)はブチ抜きの大見出しで駒苫の勝利を報道している。TVのニュース番組では「もうっ最高!」と涙を流す人たちの姿や、便乗商戦に踏み切るスーパーやデパートの姿を映し出している。

��7年振りの夏連覇は、昨年の北海道勢の初優勝以上に全国的ニュースバリューを持っているとは思うものの、たかが「甲子園」という閉ざされた世界での偉業である。必要以上のフィーバーやだらだらと脳が麻痺したかのような感動の再生産にはちょっと辟易。

それにしても駒苫に全く関係のない人たちをも感動の渦に落とし込んだことは確か。高校野球を通じて発揮される「郷土愛」を思いながら、「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」(浅羽通明:筑摩書房 ISBN:4480061738)を読了。「郷土愛」というのは「思想」や「理論」ではなく、体に染み込んだ皮膚感覚みたいなものだと感じる。もっとも「郷土愛」=「愛国心」でないことは自明。感想は気が向いたら、そのうち表へ。

つーか、休み中に読んだ本はこれ一冊だよ、トホホ。

2005年8月12日金曜日

国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?

「松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG」の高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)にある一文であります。「国家が戦う国家であってはならない根拠は何か?」 この問いは難しい。




近代国家が武力を背景としての国防と領土拡大(天然資源と労働力確保)を前提として成立していたものとするなら、国家間の利害を解決するため場合によっては「戦える国家」であらねばならなかった。いやこれは「近代国家」に限定せず、有史以来の「国家的」なものが有した属性であったのかもしれません。過去の歴史は戦争の歴史であり、人類が戦争をしていない時期などないかもしれないのですから。


「戦う」前提には共同体=国家に対する帰属意識と愛着(ナショナリズム)があり、それは国家が個人に対して、例えば人権保障や選挙権や庇護という、国家と個人の間での権利と義務があったはずです。


そのような国家においては「戦える国家」であることは議論の余地がないのですが、日本は戦後の米国との関係を含め捩れた関係と観念に支配された時期が長く、ここを本気で議論したことがなかったのではないかと思っています。逆に言えばナショナリズムが育たぬ故に、国家意識の希薄化と「靖国問題」が問題化する土壌が出来てしまったのかと。


好悪や感情論に帰結させるならば、国家が戦う国家であってはならない理由は、国際法的に紛争解決に戦争が禁止されておらず、どんなに戦争の大義をうたおうと、戦闘行為は破壊と殺人を伴うからという点に尽きます。相手を抹殺しなくてはならないほどの絶対悪である規定することなど倫理的にできるのでしょうか。だからといって「非武装中立」が現実的でないことは承知しますが。


で、新たな疑問が更に沸きます。では「国家」とは何なのか。真面目に考えたことないですからね学生時代も。

2005年8月11日木曜日

靖国問題は「問題」ではない


松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOGから靖国問題に対するTBをいただきました。考えがまとまっているわけではありませんが、ここにメモしてきます。松尾氏は高橋氏に対立するスタンスです。




ブログにおいて松尾氏は、長谷川三千子さん(女性の保守系言論人)の批判について長谷川さんの「靖国問題は問題ではない」の一文に私は激しく同意するとして、


国家が兵士たちを「戦争に動員して死に追いやった」などという言ひ方ほど、「人間不在」の言ひ方はありますまい」 「なによりも決定的なのは、国や人は時として、戦はざるを得ないことがある、といふ洞察が完全に欠落してゐる、といふことです」(同書・124頁)


「さしあたつて、近代民主主義といふものを基盤に話をしてゐるかぎり、国家が戦争や武力行使を想定しなかつたら、などといふ空想にふけるのは止めにした方がよい。(中略)この本の価値は、ほかでもなく「靖国問題」は問題ではないと気付かせてくれるところにこそあるのです」(同書・129頁)



と長谷川さんの一文を引用されています。「靖国問題」の孕む問題が国家のありようを規定するところにまで膨らんでいることには同意します。近代民主主義を基盤にする以上は「軍隊を有しない国家」など考えようもないことも理解します、従って「靖国的なるもの」は不可欠なものであることも仕方ないことであると思います。


長谷川さんは「戦はざるを得ないことがある」と指摘しますが、本当に戦う必要があったのか。というよりも、日本は正しい判断のもとに戦争を継続し続けようとしていたかという点に私の疑義があります。大東亜戦争と日露戦争の日本のありようは例えば司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」を思い出すまでもなく非常に違っていたようです。


ヒストリーチャンネルで放映(8月6日)された日本映画社「海軍戦記/陸軍特別攻撃隊」は涙なくして観ることができませんでした。特攻隊ですから生きて帰らぬことを前提とし「再び会うのは靖国の杜で」と誓いながら無謀な戦いに挑んでいった若者を描いています。彼らは心底から「戦はざるを得ない」と感じて命をかけたのでしょうが、その国家判断は間違っていなかったのか。政府は戦争の引き際をどう考えていたのか、大東亜戦争においては児玉源太郎は存在できなかったのか。


日本の敗戦後の戦争責任については歴史を紐解けばすでに決着済みでありますが、なぜこんなにも尾を引くかと言えば、日本国内での総括と歴史観が形成ができていないからでありましょう。現状においては高橋氏の結論の「非武装国家」は確かに妄想でしかないと思いますが、そうであったとしても愚かな指導者の間違った政策の下に死にたくはありません(>と最後は好悪などの感情論に落とすか?)。世論や政治家や評論家の言説にはまだまだ注意が怠れません。

2005年8月10日水曜日

iTunes Music Store 日本版

iTunes Music Store」日本語版がやっと立ち上がりi-Podのシェアはいよいよ伸びるだろうと予測されます。日本でも音楽配信サイトはいくつかありますが、どれもがデザイン、内容とも満足のできるものではありませんでした。特にSONYの開発した圧縮技術ATRAC3がi-Podで再生できないという点に、Apple社に先を越されたSONYを始めとする日本陣営の焦りと苛立ちを感じたものです。

i-Podは登場そのものが話題であり、機能以上に所有欲を刺激するという点で極めて秀逸な製品であり、人を惹き付ける魅力に富んでいる点においては幾多のオーディオ製品やデジタル機器の中でも群を抜いていることは今更協調するまでもないでしょう。

iTMS-Jの登場に関して、クラシック音楽関連ブログでの興味深い話題を以下に拾っておきます。

「おかか1968」ダイアリー

iTunes Music Store 日本でも開始


結局iPodがあってもiTMSが不在だった2年あまりの期間は何だったんでしょうか。この時期には「音質的にも劣る」と噂されたCCCDのリリースが相次いだこともあり、音楽ファンのレコード業界に対する「疑念」が深まっただけだったような気がします。


「おかか」でも指摘されていますが、エイベックスを始めとするCCCDや輸入CDに対する迷走は、日本の一面を象徴するできごとでした。全ては消費者の利益ではなく生産者の利益保護、これが日本のありようですが、音楽に限らず生産者は別の分野では消費者でもありますから事は単純ではないわけです。


鎌倉・スイス日記

iTunes DL始まる!


私はこの日を待ち望んできた。音楽ソフトがパッケージとして売られること自体にすでに疑問を感じていたというべきだろうか。その為に、優れた音楽文化が廃盤になり、手に入らなくなってしまうことも多かった。しかし、そうした不安はもうなくなる。安いに越したことはない。しかし、ダンピングするのは止めて欲しいものだ。音楽は文化だ。ダンピングして価値を自ら捨ててしまうようなことはもうしないで欲しい。


Schweizer_MusikさんはCDを数千枚所有している音楽関係者でありながらずてにCDの役目は終わったと言って良いと言い切ってしまうことの潔さ。自らの足を食らうような行為は慎むべきでしょうが、「安さ」は消費者にとってはうれしいのも事実。しかしその行為が結果として「文化」を破壊していたか。「売れる」という尺度だけから考えない地平はあるのでしょうか。


即席浮月旅團

私的録音録画補償金問題は「著作権者 vs メーカ」ではないのである (その1)


この話はどこでも大筋「ipod などデジタル・ポータブルプレーヤも私的録音補償金制度の対象機器に含めるべきかどうか」で著作権者とメーカが対立していると見るが、両者が各々の欲得のために利害対立しているような問題意識の立て方自体が間違いなのだ。補償金制度という著作権料徴収手段が、方法論として果たして真に妥当か否かという、その見解の相違が基本スタンスなのである。


「私的録音録画補償金」 こんなものがあること自体、初めて知りました。どこまで世の中ウマクできているのでしょう。全然ハナシは変わりますが、日本の政治とヤクザと右翼が繋がっていることは周知でしょうが、アメリカの要人でさえ「日本の闇は深すぎる」と嘆いたそうな(出典失念)。まったく、小泉郵政解散はどの方向へ?

大東亜戦争の真実

勝谷誠彦氏がご自分のサイトで、

週末何をおいても紹介しようと思っていたのは実は今号の『WiLL』だったのだ。これまたある意味では重大なスクープである「東條英機宣誓供述書」という日本人なら是非読んでおくべき記事が掲載されているからだ。戦後すぐに公刊されや否やGHQがあわてて発禁にしたというこの文章を抜きにして東條像いやもっと大きく戦前の日本政府の政策をあれこれ言ってきた連中は怠慢というほかはない。
書いているのでわざわざ買って読んでみたが何ですかありゃ。渡部昇一氏は「近現代史の超一級史料」と主張するが「参考資料」のひとつ程度ではないのか? 大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛の戦争であったと主張したい方々には、随喜の涙を流さんばかりの文献だろうが、私にはだから何なんだという感じ。

「満州の領土とか守ろうとしていたのに、大国が日本を経済封鎖するもんだから、やむにやまれず米国に宣戦布告しました、国際法的には合法な戦争」ということらしく、「あんなことされたら、ルクセンブルクだって宣戦する」って状況なのだったとか。北朝鮮が今、宣戦布告したら彼らも自衛戦争? 日露戦争後の日本国と悪の枢軸の北朝鮮では前提がそもそも違うということか?

私には自衛だったのか侵略だったのか、判断するほどの知識はないものの、日本を守るという旗印のもと結局は日本国民を滅ぼす道を(愚かにも)選択した指導者の国民に対する責任や、アジア諸国に対して行った戦争の惨禍と責任は決して薄まるものではないと思う。本当に「原爆」が落ちなければ日本は「一億総玉砕」へ進んだのか? 戦争になるように仕向け、更に日本の奇襲を知りながら成功させたアメリカのしたたかさには、物量以前に負けていたはずだが。

そもそも「大東亜戦争」という呼称が多くのことを含みすぎている。「アジア・太平洋戦争」と言い換えても良いが、「中華民国」を相手にした戦争と、「東南アジア」を舞台とした戦争の二つだ。東條英機の論理は、中華民国への足がかりを守るために行った東南アジアを舞台にした自衛戦争という論理だ。

満州の領土ということに関しては、満州南部の鉄道及び領地の租借権を得た日露戦争後のポーツマス条約にまで遡るらねばならない。戦争に勝てば領土を得ることは戦争の常識ではあるのだが、それは列強諸国が行ってきた帝国主義と何が違うのか私には良く分からない。ロシア(ソ連か)はけしからん国であるという点だけは間違いはないと思うが。

気が向けばそのうち表に書く。

ちなみに勝谷氏の意見には剋目して聞く点は多々あると思っているが、全面的な肯定には至っていない。





2005年8月9日火曜日

郵政解散

ベタベタと暑い今日、大方の予想とおり郵政改革法案が参議院で否決され衆議院が解散さた。自民は真っ二つ、野党は便乗で議席を伸ばそうと野望を燃やす。で、私はどちらを支持と聞かれても、良く分からないとしか答えようがない。

TVは「小泉首相がついに自民党をぶっ壊した」というような評価の仕方をしているが、あれだけ意見も主張も違う議員が同じ党であったということそのものがオカシイ、既に自民党は壊れていたわけで、最後のタガをはずしただけなのかもしれない。

郵政民営化が象徴するものは、地方対都市とか、既存既得権益対改革路線とかいう図式は分かりやすいが、戦後の日本を営々と支えてきたシステムさえも、小泉は崩壊させたということだろうか。

郵政民営化選挙だと山崎拓議員は言うが、本来なら郵政よりも重要な法案が山積みのハズだし、郵便局がなくなって自分的に困るかといわれると、大都会に住んでいる限りそれほど困ることもない。巨額の郵便資金がハゲタカに狙われるというが、ここについても問題意識は極めて低い。

これから9月の選挙までイロイロな動きがあるだろうし、今回の選挙に過大な期待を寄せてしまう人たちも居るように思うのだけど(今度こそ日本が変わるとか)、私はあんまり期待していない。ムードと雰囲気だけが先行したドタバタにならなけりゃいいだけどね。


ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) 新潮文庫」読む。軍役の義務と市民の権利、国を守ることは国民の使命ですか。

2005年8月5日金曜日

工藤重典/武満徹:海へⅢ

いやあ本当に暑いですね、21時に外に出ても電光掲示板は33度とか示しています。こちらに来てそれなりの暑さにも驚かなくなりましたし身体も慣れましたが、それでも夜に30度を越えるのはつらい。

思わずプールにでも飛び込んでしまいたくなりますが、そうも出来ないので工藤重典さんの武満徹を取り出して聴いています。



工藤重典/「巡り」~武満徹没後5年特別企画
  • ①そして、それが風であることを知った ②巡り ③マスク ④海へⅢ ⑤エア
  • 工藤重典(fl) 岩佐和弘(fl) 川本嘉子(va)、篠崎史子(hp) 
  • 2000年11月8~10日 那須野が原ハーモニーホール(栃木県) 
  • SONY SRCR2585

で、またしても「海へⅢ」なんですね。新ネタはないのかと思うでしょうが、まあご容赦を。

高木さん、ガロア、そして工藤さんと聴き比べてみますと、2001年に書いたレビュの通り工藤さんの音色は暖かです。尺八のような音色さえ出していたガロアとも違い、身体を包むような生暖かさを伴っていてます、自己主張するような演奏スタイルではありません、流れるか浸るかのような心地よさ。それゆえガンガンに効いた空調とは違った自然な心地よさと涼しさを感じます。反面、曲の優雅さが前面に出ていていますからスリリングさは薄い、武満的難解さも隠蔽されている。

考えてみるとガロアの三つの演奏は、よく練られた演奏なのだなと思います(それぞれ印象が違いましたし)。また高木さんのアプローチも捨てがたいなと。

2005年8月1日月曜日

高橋 哲哉氏:「靖国問題」



サンデープロジェクトの「靖国問題」を見た余勢で、最近本屋に山積みされている高橋哲哉氏の「靖国問題」(ちくま書房)を購入して読んでみました。
非常に丁寧に「靖国問題」が何であるかについて、

 第一章 感情の問題~追悼と顕彰のあいだ
 第ニ章 歴史認識の問題~戦争責任論の向こうへ
 第三章 宗教の問題~神社非宗教の陥穽
 第四章 文化の問題~死者と生者のポリティクス

と大きく四つの面から論理的に説明しています。最終章は

 第五章 国立追悼施設の問題~問われるべきは何か

として筆者の見解をまとめています。

「靖国問題」を問うことは、A級戦犯の合祀のみならず「東京裁判史観」を問うものであることは、私も何度も書いてきましたし、問題がそこにあるからこそ政治的問題に発展する要素を孕んでいるわけです。高橋氏の態度は明白です。

東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(P.69)

歴史はひとつではありませんし、国によって同じ事象が全く正反対の歴史として記述されるのも珍しくありません。また時の為政者により「造られる」のも歴史です。安倍氏のように判断を未来に委ねることも一つの手でしょうが、それではあまりにも日本的な曖昧さに満ちすぎております。政治家としての責任についても疑問を呈してしまいます。

高橋氏の態度は上記のようなものですから、現在の靖国神社のありようには否定的な見解を示すこととなります。靖国の本質については以下のように喝破します。

靖国の論理が近代日本の天皇性国家に特殊な要素-とりわけ国家神道的要素-を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を備えているすべての国家に共通の論理にほかならない(P.197)

とし、

国家が「国のため」に死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえない(p.205 太字本文ママ)

と説きます。従って彼の結論は、

非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を経つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的には軍事力を廃棄する必要がある(P.220)

となります。靖国問題が過去の戦争責任と将来の国防のありようにまで結びつく故に「靖国問題」は政治的であり、また日本政府が戦争責任を明確化していない点でアジア諸国からは「外交カード」として使われ、多くのアジアの人の感情を逆なでしています。一方で日本の戦死者たちをもある意味でないがしろにしているわけです。

「将来の国防のありよう」についても議論百出でしょうし、いまだ「日米安保」さえ明確にできない日本において「靖国問題」が決着することなどありえないと本を読んで感じるのでした。

これで「靖国問題」の全てが語られているとは思えませんが、わかり易い点であることとタイムリーである点から「売れる」本かもしれません。