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2005年7月30日土曜日

靖国問題と宗教観

そろそろ8月になります。国会が8月13日まで会期延長され、終戦記念日の8月15日に突入するわけです。「文藝春秋 八月号」は靖国問題に関して以下のような特集を組んでおり、興味深く拝読いたしました。

  • 決定版 日VS中韓大論争 靖国参拝の何が悪いというのだ~櫻井よしこ、田久保忠衛、劉江永、歩平
  • 小泉「靖国参拝Xデー」の内幕~富坂聰
  • 胡錦涛「靖国非難」は世界の非常識~古森義久

コラムにおいても

  • 日本人へ・二十七 帰国中に考えたこと~塩野七生
  • 人声天語 十年前の夏に私は『靖国』のプロローグを執筆していた~坪内裕三

と言う具合です。「文藝春秋」ですから、首相の靖国参拝については肯定的な味方なのですが、例えば「大論争」においては、日本と中国および韓国の歴史認識はどこまで行っても交わらない平行線で、相互理解は不可能とさえ思え正直ゲンナリしてしまいます。

それでも、一連のコラムやら論文を読んでおりますと、「靖国問題」の根底には日本人の「宗教観」が深く横たわっていることを思い知らされます。これだけ面倒な問題なんだから「分祀」すればよいではないかと単純に考えても、「神道」において「分祀」ということはそもそも考えられないという大前提のもと全否定されてしまうのです。

「人は死ねばみんな神様」や、お盆には仏様がこちら側に来る時期というのも「日本人の宗教観」なわけです。中国や韓国には日本人の文化に根ざした宗教観が理解できないのだろうと、主張するわけです。

中国や韓国が政治カードとして「靖国」を利用している点も理解できるものの、靖国擁護派が主張する「日本人の宗教観」や「死生観」も一体どこまで浸透しているのか、日本人は「無宗教」といわれていたはずですが、実は深い信仰心を持ち続けている民族であったのか。「無宗教」とは西洋的概念での「無宗教」でしかないのか、同レベルに考えることが間違いなのか。私は「文藝春秋」を読んで、混乱するばかりです。

坪内裕三氏のコラムでは柳田國男氏の文章を引用しながら日本民族における死後や霊の認識に触れ、

(従来の日本信仰などの)そういう「なつかし」さの喪失、すなわち超越的なものに対する感受性の摩滅への不安が私の『靖国』の最大のポイント

と書いています。死しても国土を離れず、故郷の山の高みから子孫を見守っているという宗教観、それが「靖国」の基本であると主張するならば「靖国」問題は解決不能という気になります(中国や韓国があきらめるか別のカードを見つけない限り)。

ただ、この種類の「魂」の問題は、今の日本において「靖国」をキーワードとしてしか語られてはいないようにも思えるのですが、どうなのでしょう。

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