2004年2月28日土曜日

チャイコスキー:交響曲 第5番/ガッティ

  1. チャイコフスキー:交響曲第5番ホ単調
  2. チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』
  • ダニエル・ガッティ指揮、ロイヤルpo.
  • 2003/8/31-9/1 Abbey Road Studios,London

ガッティの新作であるチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いてみました。チャイコフスキーの第5番は私の非常に好きな曲です。

ダニエル・ガッティといえば数年前に発売された、マーラー交響曲第5番が思い出されます。衝撃のマーラーみたいな売り出し方で、私も乗せられて聴いてみましたが、確かに素晴らしい熱演で、特に終楽章の終わり方など凄まじいものがありました。しかしその後の演奏はあまり話題に上らず、私もあの1枚で忘れ去っていたというのが本当のところです。そういうガッティが今回 harmonia mundi に録音したのがチャイコフスキーの第5番と知り、HMVが宣伝しなくても気になっていました。

さて二度ほど聴いてみた印象としては、熱く押しまくる激情型の演奏とは若干違うもののように感じました。激しくないというのでは、全くないのですが、それでも情よりも知の方が勝っているのではないかと感じるのです。

激しくないわけではないと書いたように、始終テンションは高い演奏です。ガッティは緩急を織り交ぜ、自在にテンポを操りながら演奏を進めてゆきます。表現も豊かで、激流とその裏腹のよどみのような柔らかな表現を交錯させるさまは見事です。こういう明暗の描き方はあざといほどで、躁と鬱を複雑に移り変わる感情を表しているようでもあります。ロミオとジュリエットでもそうですが、音楽の造詣は彫が深く秀逸な録音のせいもあるのか情報量が豊富な盤だといえます。こういう演奏を「キレの良い演奏」と言うのでしょうかね。

私はチャイコフスキーのこの曲は昔から非常に好きな曲でありまして、この曲のレビュを書くために「チャイコフスキーの交響曲を聴く」というシリーズを数年前に立ち上げたほどです。この曲はベートーベンと同様に「運命」がテーマとされているように言われますが、私はむしろ特徴的に現れる上昇音型と下降音型に示されるように、引き裂かれた自我の二面性を感じるのです。第二楽章の圧倒的な静謐と美しさも、喪失した美しさや、訪れるであろう(または訪れた)哀しみと虚無を感じます。終楽章もそういうコンテクストで聴くと、自らを鼓舞する駄目押しの祝祭のように思えます。

ガッティの演奏は、激しさと緩やかさの色彩変化が鮮やかで、チャイコフスキーの泣き笑いが透けて見えるようです。演奏は熱演のようでありながら計算と抑制が効いており、単なるお祭り騒ぎに終わらせていないように思えます。テンポの変化も情に訴えるというよりも、聴きなれたこの曲に新たなエネルギーと息吹を与えるような効果であるように思ったのですが、いかがでしょうか。(何度も聴いていたらわけが分からなくなってきたのでここらへんで止めます)

麻原被告の死刑判決

オウム真理教の麻原被告に東京地裁は27日午後、求刑通り死刑の判決を言い渡しました。あまりにも長い裁判に憤りを覚えたり、なぜ即刻死刑にしないのか、という声も多いと思います。かくいう私も、疑問に感じるひとりです。

しかし、これほど影響力のある事件だからこそ、しっかりと裁判を行い事実認定を行い法が裁くという姿勢こそが大切なのではないかという気もしています。最近、宮部みゆきの「クロスファイア」を読んだばかりなので、こういう輩こそ私刑に処すべきという感情論も分からないわけではありません。
死刑制度の是非については、賛成とも反対とも言いがたい気持ちです。国が法のもと犯す国家的暴力としての殺人という意味は、しっかり考える必要があると思うのです。被害にあわれた方々の気持ちを考えると複雑ですが、殺人で報復したところで最終的には救済されることはなく、事件の全面解明と再発防止のために私たちがどうするか、ということこそ重要なのだと私は思うのです。
今のように麻原被告の黙秘と心神喪失のフリのような不遜な態度には、理性を超えて怒りを覚えることも確かなのですが、そこで負けると、映画「セブン」のブラッド・ピットと同じことになってしまうのではないかと思うのでした。

2004年2月26日木曜日

【本棚】宮部みゆき:クロスファイア、燔祭


私は読書家でもなければミステリファンでもありませんので、実を言うと宮部みゆき氏という押しも押されぬ人気作家の作品をほとんど読んだことがありません。従ってこれから書くことは、見当はずれな感想となるかもしれないためご容赦願います。また内容にも触れますので、ご注意ください。 

さて、まず「クロスファイア」から読みましたが、念力放火(パイロキネシス)という超能力を扱う女性が主人公が、凶悪犯罪を犯しているのに法的に大きな罪を得ることなく生きている者たちを、被害者たちに成り代わって復讐することが自らの使命であると信じて殺りくを繰り返す。その設定に乗ることができず、安っぽさとB級サスペンスを読む思いで、実はゲンナリしてしまいました。(読んでいるときは面白いのですがね)

宮部氏は、超能力を題材にした作品はほかにもあるらしいのですが、能力に対する必然性や、何故それを行使するに至ったのかが不明で(いくら悪を滅ぼすとは言っても、立派な殺人ですから)、暗さと殺伐とした雰囲気が漂います。悪い奴らをやっつける、という勧善懲悪的なカタストロフも感じることができません。作品イメージは炎が象徴するものとは裏腹に陰湿です。ラストのあり方にも解放とか救いを私はそれほど見出しませんでした。

主人公である青木淳子のラブストーリも挿入されたりし、法を逃れて生きる犯罪者を私刑する行為や人が生殺与奪の権を持つということに対する問題提起らしきものも見えるのですが、それらは付け足しのようにしか感じられません。

この作品で宮部氏が書きたかったのは、強力な破壊兵器である超能力をもった女性=「装填された銃」という設定に魅せられ、それを書ききったのだなと読み終わって思いました。内容とテーマが微妙な齟齬をきたしているようで、しっくりこないという印象さえ受けました。ぼろくそですね。

ところでこの作品のもととなったのは「燔祭」という中篇小説です。まあついでですから、こちらも読んでみました。主人公も同じで、「クロスファイア」で挿入された事件の発端を書いた作品です。「クロスファイア」だけならば、私は宮部みゆき氏を見限っていたかもしれません。しかし「燔祭」は全然質の違う小説でした。


文庫本には「朽ちゆくまで」「鳩笛草」とふたつの中篇がおさめられているのですが、どちらも超能力を持ったが故に、その能力と折り合いをつけてゆかなくてはならない、個人の軋みを書ききっています。「クロスファイア」よりも小説の重心が低く、文体も落ち着いています。それが個人としての悩みや苦しみ、能力を持つゆえの喜びなどが、沁みるような語り口で描かれています。私はこの作品を読んで、やっと落ちるべきものが落ちたと感じました、これならば納得できます。(文庫本解説の吉田伸子さんとは全く逆の感想ですね)

こうして考えると、「クロスファイア」はエンタテイメントに重心を移し、万人受けするような派手さを持った小説に仕立ててしまったが故に、話も大きくなってしまい、隠されたテーマとの間でアンバランスさを生じたのではなかろうかと思った次第です。読むならば迷うことなく「燔祭」から読むことを勧めます。それにしても青木淳子というヒロインの哀しさよ。

2004年2月20日金曜日

新生銀行の再上場

新生銀行が再上場したことが話題になっています。新生銀行といえば破綻した日本長期信用銀行。バブルの時の乱脈融資が破綻の引き金で、国会でも何度も答弁を繰り返していたことを思い出します。

買収したのは、米投資ファンドのリップルウッド・グループなど。上場に伴う株の売却で約2300億円を得ています。1210億円
余りだった投資資金の2倍近い収入を得て、なお時価7千億円以上の株式を保有するわけです。国が投入した公的資金は約7兆9000億円、そのうち債務超過分の穴埋めとして金銭贈与した約3兆6000億円は損失が確定。悪名高く批判された「瑕疵担保条項」を積極的に利用して、三年間で300社以上の債権を国に買い取らせての再生です。旧長銀の連鎖倒産は民間信用調査機関の調べによると、152社、負債総額約11兆円に上っているそうです。(以上、日経、朝日、読売新聞より)
この企業再生劇を成功と見るのか、苦い経験と見るのか、経済に疎い私には判断ができません。国民負担は4兆とも5兆円とも言われています。確かに新生銀行は徹底した業務改善などに取組んでいるようで、日本の銀行が出来ないようなサービスを提供しつつあります。銀行では多くの優秀なインド人を雇って効率化に取組んでいるという話も聞いたことがあります。
釈然としない思いは残るものの、外資だからこれほど早く再生させることができたのでしょうか。まさに竹中金融相の思い通りになったわけえですから、成功というように受け止めるべきなのでしょう。私には分らないことだらけですが、非常にエポックメーキングなことで記憶にとどめておくべきことだと思っています。

2004年2月19日木曜日

米タワーレコード破綻

ちょっと古い話題ですが、今月9日に米タワーレコードを運営する「MTS」が破綻したようですね。連邦破産法第11章の適用というのは日本の民事再生法のようなものだそうです。

従来型のソフト販売の大手が破綻というのは象徴的な出来事のように思えます。

ネットでの音楽配給というビジネスモデルは、これからますます盛んになると思われますから、CDやDVDを売るという従来型のビジネスモデルは、転換を余儀なくされるということでしょうか。
もっとも、ネットの大手アマゾンでさえ、経営的には実は苦しいという話も聞いたことがありますので、ネットを媒体とした企業が「勝ち組」と単純に言い切れるわけでもなさそうです。
私はどちらかというと、CD店に行ってぶらぶらと迷いながら選ぶというスタイルが非常に好きなのですがね。

2004年2月15日日曜日

【音盤】テンシュテット/ドヴォルザーク交響曲第8番

  1. ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調
  2. スメタナ:歌劇『売られた花嫁』序曲
  3. ヤナーチェク:シンフォニエッタ
  • クラウス・テンシュテット(指)ロンドンpo.
  • ロイヤル・フェスティヴァルホール(ステレオ・ライヴ)
  • 1991年4月2日ロンドン

昨年、ベートーベン交響曲第9番のリリースで話題になったテンシュテットによる、オールスラブプログラムです。演奏は1991年4月1日ロイヤル・フェスティヴァルホールによるライブ録音です。


1991年4月2日のライブ録音はテンシュテットによるオールスラブプログラムです。テンシュテットのスラブものというのは珍しく、スメタナに限らず、ドヴォルザークの交響曲第8番でも、あまりスラブらしさを感じさせませんでしたが、それでもテンシュテットらしい演奏を満喫できる盤であるとは思います。

■スメタナ:「売られた花嫁」序曲

冒頭はスメタナの「売られた花嫁」序曲から始まります。のっけからオケを煽るかのごときスピードと躍動感に圧倒されます。メロディの裏の弦の刻みが凄まじく秘めたエネルギーを蓄えているかのような感じで、それだけに蓄積されたエネルギーの放逸は凄まじいものです。まさに爆発といってもいい響きを聴くことができます。低弦の刻みなど堂々としすぎていて、ドイツものを聴かされているような印象を受けないわけではありません。スラブ的とはどういうことか、と問われると答えに窮するのですがね。

■ドヴォルザーク:交響曲第8番

ドヴォルザークの交響曲第8番も、これはこれは素晴らしく堂々とした演奏でした。一瞬ベートーベンを聞いているのではないかという気にさせてくれる点でも稀有の演奏かもしれません。(特に第2楽章の後半を聴いていてそう感じました。)

それでもスラブ特有(?)の弾け方や体の内側から、固い殻を突き破って溢れ出るかのような生命力というものを感じないわけでは全くなく、むしろ演奏のダイナミズムと相まって劇的なまでに興奮が増幅された演奏になっているように思います。ここらあたりは、さすがにテンシュテットというところなのでしょうか。

エネルギーの放逸という点では、本当にもう脱帽するほどで第一楽章ときたら壮大なドラマさえ感じます。第2楽章などは、十分に歌を聴かせてもらいたいところですが、HMVのカスタマーズレビュにもあるように、ちょっとやりすぎという気がしないでもありません。この楽章にこんな劇的さを私は求めていませんよと(笑)。

誰が演奏しても「スラブ的」になるはずの第3楽章も振幅の大きさは凄まじいですね。実は、ドヴォルザークの8番というのは、高校時代に私は非常に好きだった曲で、久しぶりに聴きましたが、フレーズのひとつひつを口ずさんでしまうほどなのです。ここでも頭の中に刷り込まれた演奏(誰のでしょう?)を反芻しながらテンシュテットの演奏を聴くのですが、体の芯が痺れてしまうような演歌的な臭さはついぞ感じません。

この勢いで怒涛の終楽章に突入するのですが、ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラの金管群とティンパニの猛打が印象的ですね。ヤナーチェクでもそうですが、狂ったような木管の吹奏もかなりすごいです。この明朗なドヴォ8をここまで追い込むとは、テンシュテットっていったい何なんでしょうね。

■ヤナーチェク:シンフォニエッタ

私はクラシックファンのようなフリをしていながら、ヤナーチェクのような作曲家の曲を実は聴いたことがありませんでした。したがって、これまた凄い演奏であったとしか書けないところが情けないです。

2004年2月13日金曜日

年金は誰のものなのか


先日、年金問題についてちょっとだけ書きましたが、本日の読売新聞は『[年金改革]「“保険料流用”の廃止が先決だ」 』とする社説を掲載していました。社説は以下のように書いています。



 国民が納める保険料は、現在の高齢者の給付を支えるとともに、将来に備えた積立金となる。それを官僚は湯水のごとく浪費し、目減りさせている。


 「無駄遣いの象徴」とされるのが、広大な敷地に豪華なホテルやプールなどを備えた大規模年金保養基地(グリーンピア)だ。一九七〇年代から八〇年代まで全国十三か所につくられた。


 経営難のため二〇〇五年度までに全廃されるが、それでも建設費や借入金の利払いなど、最大で約三千八百億円の損失が年金資金に重くのしかかる。




 これだけではない。病院やホール、スポーツセンターなど、年金資金で建設された福祉施設も、合わせて二百六十五に上る。建設費も維持管理費も、すべて保険料に“おんぶにだっこ”だ。累計では一兆五千億円を超えている。

この手の話題について、マスコミは時々思い出したように記事や番組にしていますが、今ひとつ国民(私たちですが)の憤りにまで結びつかないような気がしています。いわゆる「年金たれ流し」問題は、ジャーナリストの櫻井よしこさんも鋭く著書で批判していますし、あまり好きな雑誌ではありませんが、「週間ポスト」などでも特集記事をみかけます。


いったい納めている年金がどのように使われているのか、国民をはじめほとんどの人が知らない、知らされていない、知ろうとしない、知ろうとしても分らない、という状態は、やっぱり怒るべき自体なのだと思います。そういう実態があるから最近の年金情報が「目くらまし」に見えてくるのですが。

2004年2月11日水曜日

年金問題ですが

このごろ「年金が危ない」という手の特集やら記事がやたらと目に付きます。週刊誌や隔週刊誌、月刊誌などで記事にしていないときがないくらい。新聞も年金問題を特集し、書店にも「年金崩壊」の本が山積。

実際そうなんでしょうけれど、これって実は情報操作で「危ない、危ない」と危機感を煽ることで国民を慣らしてしまっているという面はないのでしょうかね。

2004年2月9日月曜日

展覧会:パリ/マルモッタン美術館展


東京都美術館へマルモッタン美術館展を観て来ました。本展覧会では印象派のクロード・モネと、日本ではあまり知られていない画家であるベルト・モリゾの作品を一挙に見ることができました。

印象派のクロード・モネは非常に有名ですし、高校時代には彼の絵に心酔して画集を数種類そろえるほどでしたが現物をこれほどたくさん観るのは今回が初めてでした。

モネの絵は絵葉書は勿論、お皿になったりテーブルクロスになったり、本当にあちこちで溢れていますし、画風の分かりやすさから日本では大人気のことはご存知の通りです。今回モネの実物に接して感じたことは、彼の風景画は誰もが持っている「記憶の風景」を呼び起こす働きをするのではないかということです。タッチは風のように荒く、それでいて一瞬の移ろいのはかなさを秘めた風景を彼は描き出します。それが遠い昔の夏の風景だったり、懐かしくも楽しかった水辺での思い出だったり、人によって想起される記憶はそれぞれだと思いますが、彼の絵からは風景以上の情景に心乱されてしまいます。単なる風景画以上のものをそこから感じてしまうのです。

モネは晩年に白内障を患いました。この時期の彼の絵は具象から抽象へと向かったと、よく解説されますが、今回晩年の彼の幾枚かの作品に接し、そういうものではないのではないかと感じました。

例えばジベルニーの庭で書かれた睡蓮や太鼓橋などは色の中に形を崩し溶解してゆきますが、絵のタッチを見ると、色は互いに塗り重ねられていても濁ってはいません。下の色が十分に乾いた後に、荒々しいタッチで再び筆を重ねていることがはっきり分かります。ここには何か計算づくの怨念のようなものさえ感じます。そういえば色彩も赤系統を多用するようになり、さながら情念の炎が燃え上がっているかのようです。

形象が崩れた後に立ち現れる記憶としての風景は、晩年の絵においても顕著で、近くでは絵の具の塗り重ねとしか見えなかったものが、離れて目を細めて眺めれば、そこには紛れもない光そのものがキャンバスに定着されていることに気づかされます。彼は抽象に向かったのではなく、光そのものを彼の全精力を費やして固定したのだと思うのでした。彼には抽象とか具象とかいう概念はなかったのだと思います。

ベルト・モリゾについては事前の知識が全くありませんでした。モリゾは女性ですが、繊細でやさしい色彩を使う絵でした。ずっとそばにおいておきたくなるような絵です。ルノワールやシスレーなどの絵も1枚か2枚ありましたが、これはこれで彼らの画風を再認識させるものでした。それと展覧会の最初の一枚にあった、コローの絵(画集を買いませんでしたので名前は覚えていません)。この絵は素晴らしかった。いかにもコロー風の絵なのですが、画面の両側には黒々と覆いかぶさるような樹木が、そのむこうに広々とした湖と対岸が見えるという風景ですが、この湿度感を伴った空気ときたら、私はおもわずその小さな絵を見て吐息をもらしてしまいました。

2004年2月8日日曜日

上野の旧法華ホテル

上野の不忍池の際に建っている、菊竹清訓設計のソフィテル東京(旧法華ホテル 1994年開業)。
日本を代表する有名な建築家の作とは言え、景観的にどうなんでしょう。


右手には三井不動産のマンションが建設中です。



建築家 菊竹清訓の日本建築界に果たした役割は大きいものの、作品は好きになれません。

【本棚】斉藤孝:「三色ボールペン情報活用術」


三色ボールペンを使って情報を活用しようという本です。10分の立ち読みで内容を把握できるように、本文の大事なところは太字になっています。

三色の使い方とか、何をすればよいのかはさておき、氏の言う「情報整理術では駄目なのだ」というのには、賛同します。私も京大式だのカード式だのリフィルだの色々媒体を用いましたし、IT機器が手軽になってからは、プレーンテキストをベースに、grepやsedなどのスクリプト系コマンドを使って整理したり、DBソフトや電子手帳などにも手をを染めました。

結論として言えたことは一つ。整理した情報は二度と使わなかったということでした。なかなか悩ましい問題ですね。まあその程度の仕事や趣味の世界でしかないということですな。

ちなみに私も3色(正確には4色ですが)ボールペンを持っていますが、氏の言う通りには多分使いません。それにくだらない本にボールペンで線を引いてしまおうものなら、Book Offに持っていっても売れなくなってしまいます。

2004年2月6日金曜日

【本棚】森永卓郎:続年収300万円時代を生き抜く経済学

題名の通り続編です。読んでみますと前編の実践編ということになりましょうか。

森永は金持ちなのにどうしてそういう本を書くのか、というキモチは私も持ちましたが、そう思った読者の方は多かったようです。

前作を読んで成る程と思う反面、ちょっと違うなあということも感じたのですが、共感できる部分も多かったため、ついでに続編である本書も読んでみました。前書が2003年3月1日発行、本書が11月25日発行ですからその間約半年程度しか経っていません。ですから森永氏の経済に対する考え方には全く変化はありません。(むしろ半年の間で経済状況は悪化していると指摘していますが。)

そういう本書のテーマは「まえがき」の以下の部分に要約されています。

前作を読んでいただいた方々から、たくさんのご意見をいただいた。[...] 一つは、具体的にどのような対策をとれば年収300万円で暮らせるのか教えて欲しいというもので、もう一つは年収300万円で暮らせると言いながら、実は森永は金持ちではないかというご批判だった。(P.4)

このように書かれていますので、前編の実践編というふうになりましょうか。森永氏は所得格差は絶対に進む、数年後には必ず意図的なデフレ脱却が起こり土地や資産は上昇し、そうなったらもう日本は過去のような皆が平等であった時代には二度と戻れないと警鐘を発しています。

彼はそういう市場原理と戦っていくという姿勢よりも、300万円で身の丈にあった生活をした方が人間的な生活を回復できますよと説いているのです。第4章で森永氏で自らの前書の書評を紹介していますが、まさに「『逃散』の勧め」というわけです。ですから、そういう生活を選択した方々の生活ぶりについても第3章「心豊かなライフスタイルを模索し実践する人たち」として紹介しています。

ちょっと違うのではと思うのは、世の中が1億以上稼ぐ社会の数パーセントの人と、社会の6割り程度を占める年収300万円代の人と、年収100万円以下の三つの層に分化するということでしょうか。(P.65) 確かにアメリカ社会は数パーセントの超金持ちと一般の人に分化しているという話は聞きますが、本当にそうなるのかとなると、鈍いせいか実感を伴いません。それでも彼は書きます。

一つだけどうしても言っておきたいのは、「これから日本が市場原理主体の社会に変貌するなかで、能力や成果が政党に評価されるようになるのだから、きちんと仕事で成果を出していけば、それが出世に結びついていく」と考えるのは、完全な誤りだということだ。(P.235)

会社生活にはもはや夢も希望もないと言い切っているのと同じです。会社の中で「ラットレース」を繰り返し身も心もボロボロにするよりもっと豊かに暮らせというのですが、確かに会社生活は厳しい面もありますが、皆そこの中で自己実現を重ねてきているわけです。急にそういう人生を止めなさいと言われても、実のところ戸惑うばかりです。自分の足元の階段をはずされるようなものですから。

森永氏の考え方に同調できる部分も実は多いだけに考えどころです。思うに、日本の会社勤めの人の大部分はあまりにも忙しすぎ、家庭はおろか、近隣や社会、自国の政治、さらには国際社会としての役割に、個人的に関わっている時間がないと感じています。あるいはすごく忙しく働くことが、社会やその他の人たちと直接結びついている人たちは幸せかもしれません。多くの会社勤めの人は、自分の成果を社会に還元して納得できにくくなっているのではないでしょうか。

会社勤めはどんなに頑張っても、役員や顧問にならない限り長くて60歳で定年です。リストラ後の再就職がままならないように、普通の会社勤めの人が、そこでのキャリアを定年後にも生かせる機会は稀有と言ってよいでしょう。会社という肩書きを外れた個人として、自分が自分以外のものとの繋がりが薄すぎることが日本人とそして日本の最大の不幸なのかもしれないと思うこのごろです。

2004年2月5日木曜日

【本棚】森永卓郎:年収300万円時代を生き抜く経済学


先のようなことを考えていたのは、森永さんの本を読んでいたからです。

森永さんの経済に関する考え方についての論評はできませんが、内容は示唆に富むものでした。相容れないところもなくはありませんが。

テレビ朝日のニュース・ステーションに出演されている森永さんの本です。最近この人の書いたものを良く目にします。特に経済系の週間・月間誌、30代ビジネスマン向けの雑誌をぱらぱらと捲れば、人の良さそうな彼の写真をすぐ探すことができます。だから本の題名が良くないですね。「あちこちで結構稼いでいるくせに、人には年収300万円で生き抜けとご教授を垂れるのか」と、やっかみにも似た反発を覚えるものです。

そうは言っても、何を言っているのか、とりあえず読んでみました。

景気回復と不良債権処理の考え方は、竹中金融相や木村剛氏の考えとは真っ向から対立しているようです。森永氏は不良債権をなくしてもデフレからは脱却できず景気も回復しない、むしろマネタリー・ベースを増やして流通現金量を増やし、更に土地担保主義の金融システムを復活させよと主張しています。一方の木村氏は「悪臭の源は不良債権である」(日本資本主義の哲学:木村剛)と言い切っているのですからね。

デフレ処理と不良債権処理に関するテクニカルな問題については、私はその是非を判断する知識を持ち合わせていません。興味のある方は両者の著書を読み比べて判断されると良いかもしれません。

私が面白かったのは、「日本に新たな階級社会が作られる」(2章)、「1%の金持ちが牛耳る社会」(3章)などの部分で、全てではないにしてもかなり説得されてしまいます。薄々私が感じていることと似ているからです。森永氏は最初控えめながら、こう書きます。

不良債権処理を進めても、マネーは増えず、景気も回復しない。[...] (政府は)何ひとつ良いことが起こらない金融再生プログラムをなぜ強行しようとするのか。一つの可能性は、小泉内閣のブレーンたちが、とてつもなく頭が悪いということだ。[...] (そんなことはありえないので)むしろ、小泉内閣の正体が「金持ちをますます金持ちにする」ことになるのだとしたら、この金融再生プログラムは実によくできている (P.49)

これを実現させる手順は以下のようだと書いています。

  1. ITバブルを引き起こして「頭金」を作る。
  2. 金融引き締めによるデフレを仕掛けて、資産価格を急落させ、不動産を借金で購入した企業を追い込む。
  3. 不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める。
  4. デフレを終わらせて、買い占めた不動産価格でキャピタルゲインを得る。
  5. 一度たたき落とした旧来肩の企業や一般市民が、這い上がってこないように弱肉教職社会へ転換する。

今、東京で起きている現象に妙にラップする部分を感じてしまうのは私だけでしょうか(まさに日々そういう事象を仕事でも目にしていますから)。現象は②~③に達しています。

しかしここからが良く分からないのです。森永氏の言う「勝ち組」とは具体的にどこに居る人たちのことなのでしょう。私の業界(完全な「負け組」ですから)では、全く実感を伴いません。

また彼の論では、家族もかえりみず寝る暇も惜しんで働き1億円の年収を得る一部のサラリーマンと、「負け組」の年収300万円のサラリーマン、更にそこにさえ達さない三つの層に分かれると書いています。これは少し私の感覚と異なります。年収1億円のサラリーマンも、年収300万円のサラリーマンも、同じように死ぬほど働いているのが現実のような気がします。(死ぬほど働く期間は異なるでしょうが)。

真に恩恵をこうむるのは、どこに居るのか分からない、死ぬほど働くことを一生しないですむ「資産家」「投資家」のような気がします(それこそ、そんな人たちはどこに居るのだと思いますが)。また、森永氏が主張するように300万円でよしとして、ガリガリ働くことを放棄して優雅に過ごせるような人など、それこそ僅少であるように思うのです。

日本において価値観の転換が必要ということは、おそらく言われなくても皆が気づき始めています。でも理不尽に思うことは、世界でもトップクラスの平均年収を誇り、物質的にも衣糧・教育環境とも豊かな日本国民が、なぜにこんなに「幸福感」を実感できないでいるのでしょう。それは労働時間や高い地価だけのせいでしょうか。

彼の主張は私に色々なことを考えさせてくれました。それはまたおいおい書いていきましょう。

夢のような生活:成功報酬

平成16年の日本における「夢のような生活」とはどのようなものでしょう。サラリーマンの場合、早く成果主義を導入してもらって若いうちは死ぬほど働き、同僚はもちろん上司も蹴落とし、スーパー・サラリーマン(そんな言葉あるのか?)にいち早くなり、

40代までに一般のサラリーマンがもらう生涯年収くらいの金額を稼ぎ出し、更に運用可能な資産も保有し、どんなレストランやブティックに入っても、値段を気にせずに注文することができて、豊かな不動産(当然ローンではない)と物資に恵まれ、時間も気にせず気のあった仲間たちと生活を送るのが「夢のような生活」でしょうかね。


50代前半にして会社の役員となって部下や関連会社を奴隷のように使って会社業績を上げることがそうなのでしょうか。あるいは若くして引退して海外に移住して趣味の世界やゴルフ三昧をすることが、それに当たるのでしょうか。


なんだか違いますよね。だとすると「夢のような生活」という設計図を、以下に書いて、さらには次世代に伝えることができるのでしょう。自分中心の小さな「オレ様の世界」にまとってしまうことを、どうして否定できましょうか。

スレイブ:奴隷


中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授が、青色発光ダイオードを発明した報酬として、日亜化学から当時報奨金として2万円からもらえなかったということを、海外の研究者に話したところ「スレイブ」の呼ばれたということが頭にひっかかっています。


世のサラリーマンの大半は(個人の能力の差はさておき)サービス残業を前提にして勤務していますし、大手・零細企業を問わず、忙しい部署の社員は帰宅時間が24時を回ることも、それほど珍しいことではないと思います。


それでも報酬は残業時間とは一切関係なく一律で支給されていますから、頑張る社員(能力がないだけかも知れませんが、誰も客観的な評価ができません)もそうでない社員も給与格差はほとんどないというのが現状でしょう。


「会社や組織は一割の社員が支えているのだ」という意識だけが(本当に意識だけですが)彼や彼女らに小さな誇りと自負とモチベーションを与えているのかもしれません。仕事の大義とか意義という点になると、サラリーマンは自分の意志とは反する業務も行わなくてはなりませんから、言い方によっては「企業の奴隷」とも称されても否定できない状況なのでしょうね。


そういう今の「会社中心主義」「会社での実績に自己実現を重ねる」という生き方に夢も希望も感じないという若者が増えても、不思議なことではないとは思います。


では、そういう現実を打破するために「出来る社員」に高給を払う「成果主義」を導入するという事に対しても、総論賛成各論反対という意見が大半でしょうか。自分が組織の中で「勝ち組」になる確証はありませんし、そもそもJOB DESCRIPTIONや数値化された目標と達成度の評価というような客観的評価基準やそれに代わる尺度が無い以上、人の業績を図ることができないわけです。

2004年2月4日水曜日

【音盤】カルロス・クライバー/ベートーベン交響曲第6番「田園」

  • カルロス・クライバー(指)バイエルン国立歌劇場管弦楽団
  • 独ORFEO C 600 031B
  • 1983年11月7日

昨年話題となったカルロス・クライバーの「田園」を聴きました。

ネットでの感想を読む限り、賛否両論でしたが、演奏、録音回数ともに少ないC・クライバーですから期待が過剰になっていたふうにも伺えます。私にとっては、これはこれでとても素晴らしい「田園」となりました。

ベートーベンの交響曲では4番、5番、7番などがいずれも名演の誉れ高いのですが、クライバーは生涯の中で「田園」を振ったのは、ここに納められている1983年11月7日の演奏が唯一なのです。クライバー・ファンならずとも注目をしてしまいます。

そもそも「田園」という曲は、ベートーベンの交響曲の中でも損な役回りをしているように思えます。中学の音楽の時間に名曲鑑賞という名の下で聴かされたであろう「名曲」なのですが、ベートーベンの他の曲のように、「よし、今日はひとつ天気も好いし公園に行く変わりに《田園》でも聴くか」とは絶対にならないのです。天気が良かったら家で音楽など聴くなよという突っ込みはおいておくにしても、「田園」をこの前いつ聴いたかというと思い出すのが難しいほどです。

私にとってはそんな曲なのですが、クライバーの演奏を聴いてみて、果たして「田園」という曲を見直す思いでした。牧歌的なイメージとは裏腹に、他の曲と同様のベートーベン的苦悩と歓喜の交替を聴くことができます。かと言って力瘤を溜めまくったベートーベンでは全くなく、クライバーの4番や7番と同様に、疾走するかのようなスピード感、第4楽章に見られるような畳掛けるような激しさ(本当に凄まじいの一語に尽きます)、そして圧倒的な平穏が訪れる第5楽章など、起伏の激しく切れの良い音楽を聴くことができます。

「田園」の定盤は知りませんが、今回この盤を聴くに当たって、東京に持ってきていたフルトヴェングラーとベルリン・フィルによる1947年5月25日のライブと比べてみました。比べることが間違っていると思えるほどに、フルトヴェングラーの演奏は立派であり感動的です。テンポもしっかりしていて重厚で激しいベートーベンを聴かせてくれます。

さて再度クライバーの演奏に立ち戻ってみると、やはりそのテンポの速さは圧倒的です、異常とも言えるかもしれません。83年当時は誰も振らなかったであろう程の速さ(あるいはベートーベンが楽譜で意図した速さ?)で駆け抜けます。きっとアファナシエフならば「君の演奏は速すぎる」とまたしても言うでしょう。それでもそこから立ち上ってくる音楽は、紛れもなくベートーベンの音楽以外の何ものでもなく、音質の多少の悪さなどを差し引いても、真に感動的な音楽に仕上がっていると私には思えます。

演奏の後には3分50秒もの拍手が録音されています。演奏終了後、すぐには拍手が起こらず、数秒遅れてまばらな拍手が、そして割れるような熱狂的な拍手へと変わっていきます。CD解説はLillian Kleiber、解説を引用して私の感想を終えることいたしましょう。

applause was slow in comming;[...]. A few concertgoers began hesitantly to applaud,but the rest of the audience continued to sit there as though under a spell,Only when Carlos Kleiber brought the orechestra to their feet a few moments later did jubilant applause break loose.
拍手を聞くだけで鳥肌が立つ思いです。ただ、ネットで読む限りでは賛否のうち否に傾いているように思えました。

2004年2月2日月曜日

【本棚】三島由紀夫:仮面の告白


読む本がなくなると、本屋に行って無駄な時間を費やしてくだらない本を買うくらいなら、昔読んだ本でも読もうという気になるものです。それで、今回は何の脈絡もありませんが、三島の代表作のひとつ「仮面の告白」を読んでみました。この作品が書かれたのは昭和24年(1949年)ですが、作品価値は全く色あせていないことに改めて驚かされます。

三島由紀夫の文壇デビュー作である「仮面の告白」を改めて読んでみたが、小説の内容と語り口の瑞々しさは今もって新鮮で驚くばかりだ。この小説を始めて読んだのは高校生くらいの頃であったろうか。三島といえばナルシシズムの極地の人であり、耽美的であり、背徳的であり、そして男色家であるという印象が強く、また「仮面の告白」は三島の半自伝的な小説であろうという面にばかり感心が向いていたように思う。しかしながら、実のところこの小説はそのようなことは余り重要ではないのだと思い至った。

読み進めるうちに、これは告白という自叙伝風の小説でありながら、その実、極めて精巧かつ作為的に作られた小説であることに気づいてしまう。主人公に「男色」というアブノーマルな性格を付与することで、自己認識や自己嫌悪を行う一人の個人の内面を、えぐいほど痛烈に描き出している。更には主人公の嫌になるほど理性的な自己分析の過程をさえ読むことになる。

彼が「仮面」と称したのは、男色であることを隠し一般の男性のように振舞ったことを指すのではなく、逆に男色を前面に出すことで、更にもう一度自分の真意を隠蔽したところにこそ仮面性が潜んでいるように思える。

どういうことかというと、主人公が強烈なる(肉体的にも精神的にも)コンプレクスとの裏腹に強烈なる自意識を持っているが故に、その自意識を隠蔽しなくてはならないからである。強烈なる自意識は決して敗北してはいけないのである。彼は確かに男性として不能であると認識し、苦い挫折感を味わいはするが、しかしながら自己愛と彼自身の男色傾向にすがることができるため徹底的な敗北はしないのだ。

主人公は誰よりも「日常生活」を怖れていたくせに、実は彼の深い内実はもしかすると「日常生活」を送ることを願っていたのかもしれない。それをかなえることができないと把握している主人公は、自分を幾重にも裏切ることで敗北を塗布しているかのような印象を受ける。彼が「初恋」とした近江への傾慕も、自分が男色家であるが故に女性を愛せないと結論付けた園子への愛情もしかりである。彼が戦争によって自分の意志とは無関係に死ぬことを漫然と望んでいたのも、人生への決定的な決着を自分では付けたくはなかったからであろうか。

そういう意味においては、確かに究極の自我であり究極のナルシシズムであり、さらに高度なる告白ということになるのであろうか。誠に世の三島論など読んだこともない私には、勝手な解釈であるが、どのようにも読める点、やはりタダモノではない小説である。

2004年2月1日日曜日

中村教授の200億円判決

中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の職務発明をめぐる訴訟で東京地裁は、中村氏がかつて勤務していた日亜化学工業に200億円の支払いを命じました(1月30日)。大手新聞各社の社説は、賛否に分かれていたようでした。

私個人としては200億円という法外な金額にまず度肝を抜かれましたし、払う方の企業も大変だなあとは思いましたが、かといってこの訴訟が報酬額のみが先行した行き過ぎの判決であったという印象も受けないのです。

世の中、拝金主義がまかり通ることや、お金さえあれば幸せという風潮には反発は覚えますが、それでもお金が解決することは多々ありますし、お金はないよりはあったほうがよいに決まっています。
で、何を思ったのかというと、日本の子供たちがドリーム(あえて夢とは書きませんが)を描くための将来の職業を考えた場合、野球選手をはじめとする一部のスポーツ選手か、あるいは芸能界というだけでは何だかさびしいと思うのですよね。研究者が自分の頭脳で対価を貰うということに、将来的なドリームを乗せる余地があるのならば、この判決には色々な意味があると思うのです。
サラリーマンは今までは大差ない給料を皆貰っていたから「サラリーマン」と卑下されていたのですが、こういう訴訟が最近の流行の「勝ち組」と「負け組」に更に分化されてゆくための助走でないとも言い切れないという気もいたしますが。
��00億円という額は「法外」というよりも、一体そんなに貰ってどうするんだろう、という気がしましたが、あれほど頭の良い学者さんですから、再び研究に投資するのでしょうね。それこそ夢を追い続けるという意志がかなえられるというところなのでしょうか。

2004年1月29日木曜日

産経新聞の今週の主張より

いつも読んでいるわけではないのですが、産経新聞Web版の「今週の正論」は、靖国問題などに関する他国の態度は内政干渉であるという態度を一環として取り続けている東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏でした。繰り返しますがいつも読んでいるわけではありませんので、氏がどの程度の頻度で「正論」を書いているのは私は知りません。

さて果たして読んでみますと、古色蒼然とした文体も相変わらずで、首相の靖国参拝について「大いに結構」とし、氏の持論を展開しています。

日本人の死者の霊に対する感情のあり方にせよ、靖国神社に於ける英霊合祀(ごうし)の経緯にせよ、民族に固有の宗教感情や祭祀(さいし)の伝統に関はる一切に関して、相手の理解を求めるといつた空(むな)しい宥和(ゆうわ)的努力を潔く放棄すべきである。(中略) 何よりも有効なのは、相手が抗議に疲れて黙りこんでしまふ迄、総理大臣が頻々と靖国神社に参拝を重ねることである。

とし、もし公約通りに8月15日に靖国参拝を首相が実現できた暁には、

独立主権国家としての日本国の面目を国際社会に恢復(かいふく)し得た名宰相としての名を歴史に刻むことができよう。

と述べ、次のように締めくくっています。

本年は日本が世界史の流れの大転換の原動力となつた日露戦争開戦百周年の記念年である。昭和二十七年の平和条約発効から数へても五十二年の歳月を経た。毅然(きぜん)たる内政干渉排除の決意を以て祖国再建の年としたいものである。

成る程、今年は日露戦争開戦百周年でしたか。靖国問題については昨年の1月にも「ゆきひろの意見箱」で書いていました。更にその前には、靖国神社の遊就館の完成を祝う同じく小堀桂一郎氏の「今週の主張」を紹介しました。あれからずいぶんの月日が経ちましたが、私の中での歴史観などは一向にあやふやなままで、今回の小堀氏の主張を読んでもはなはだ納得生きがたいものを感じます。小堀氏の主張の中には、靖国神社は日本古来からの守護神信仰にもとづくものであり、日本古来の文化、習俗に対して政治的な干渉を受ける筋合いはないというものです。1月26日のClalaブログで小沢さんが答えていた施設とは全く異なる概念なのですね。もう接点さえ見出せない気分です。

2004年1月28日水曜日

古賀議員の学歴詐称について

昨年11月の衆院選福岡2区で自民党の山崎拓前副総裁らを破って初当選した民主党の古賀潤一郎議員(45)の学歴詐称事件が話題ですね。
 
本日の全国紙の社説(朝日、産経、毎日)ともそろって議員の資質そのものを批判しています。福田官房長官も「何なんですかねぇ。過失なんですか。それともウソをついたんですか。『ウソは泥棒の始まり』と言いますからね」などと相変わらずとぼけたことを言っています。
 
さて、私も古賀議員は議員を辞職すべきだと考える一人です。選挙によって選ばれた議員であるという責任ですよね。 結局学歴社会を否定するような風潮がありながらも、学歴なしには生きてゆけないことを自ら示してしまったこと、また誤魔化しをしても、謝れば責任を取ったことになること。志が多少高ければ、多少の不正は目をつぶっても良いと考える倫理観。加藤紘一の「みそぎ行脚」を思い出しますが、そんなものが許されるのでしょうかね。 

大人がこれですから、子供がおかしくなっても当然ですね。最近の「借金は踏み倒すが勝ち」とか「開き直ってごまかす」というのも、どこかの大企業や、どこかの国の首相の態度に顕著ですからね。 子供の最近の意識の変化を「栄養が足りない」と主張する一派もいますが、彼らこそムカシ栄養が足りなかったのではないでしょうか・・・

【音盤】ヴェルディ:歌劇「アイーダ」

ジェイムズ・レヴァイン(指)メトロポリタン歌劇場po.

こちらのDVDは指揮がジェイムズ・レヴァイン、演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。録画も1989年10月のメトロポリタン歌劇場でのライヴ映像です。エジプトの騎兵隊長を務めるラダメス役にはプラシド・ドミンゴが起用されています。

あまりにも有名なこの歌劇ですが、映像を伴って鑑賞したのは初めてです。

先の「リゴレット」がロケを行った映画仕立てであったのに対し、こちらは舞台映像ですが、メトロポリタンの舞台の豪華さと華やかさは、もはや言葉を失うほどです。オペラが高価なのも頷けるというものです。舞台セットの神殿は何でできているのでしょう、ここまでするか、という驚きもないでもありませんが。何しろ凱旋シーンでは本物の馬にひかれてラダメスは登場しますし、第4幕の神殿の前では篝火が炊かれます。日本の舞台なら消防法でNGでしょうね。

ドミンゴの歌うラダメスはまったくもって素晴らしく、アイーダ役のアプリーレ・ミッロの歌声も惚れ惚れします。悪役ということになっているアイーダの恋敵アムネリスを演ずるドローラ・ツァーイックは、いかにも憎まれ役的な好演で惚れ惚れします。あまりの演技にアイーダよりもアムネリスの方に感情移入してしまいます。

「アイーダ」といえば第2幕の凱旋更新のシーンが有名ですが、確かにあの場面は壮麗で「絵になる」とは思いますが、劇としては第3幕移行がやはり面白いですね。ラダメス、アイーダ、アムネリスの感情の振幅が深い味わいを出しています。

あまりの音楽と映像の素晴らしさに、私は観ながら何度も涙してしまいましたよ。

More...(いつか書きます)

2004年1月27日火曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「リゴレット」


  • リッカルド・シャイー(指)ウィーンpo.

ヴェルディの代表的なオペラ「リゴレット」のDVDですが、指揮はリッカルド・シャイー、演奏はウィーン・フィル。好色なマントヴァ公爵にはパヴァロッティ、ジルダにはグルベローバ、リゴレットにはヴィクセル、演出はジャン=ピエール・ポネルと名前を聞いただけで涎が出てきそうです。さらにこのDVDが特徴的なのは、映像が劇場の生録画ではなく舞台をマントヴァに現存するパラッツォ・ドゥカーレなどを用いた映画仕立てとなっていることです。

劇が始まった当初から、数々の名曲のオンパレードで圧倒されてしまいます。まるでオペラのオムニバス版を聴いているような錯覚さえ覚えます。

またセットの豪華さにも目を見張るばかりです。爛熟した貴族社会の饗宴シーンは、私のような善良な小市民には少し過剰であり、若干の嫌悪を覚えなかったわけでもありません。しかし、何度も見るうちに耐性が出来てくるものです。

すると、もうヴェルディの芸術世界にどっぷりとはまってしまい、頭の中はパバロッティの歌うカンツォーネが高らかに鳴り響いてしまいまうのです。もう完全に突き抜けた歌声は快感の粋に達してしまいます。

それにしても「どの女も私にとっては同じ」(第1幕第1場)とは…、モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」もそうですが、この時代には、女心に対する根深い不信感があるのでしょうかね。

More...(そのうち書きます)

2004年1月26日月曜日

昨日のサンデープロジェクトに小沢さんが出ていましたね

あまり真面目に見ていませんがでしたが、以下のような発言が耳に止まりました。

小泉首相は正月の靖国神社参拝を「初詣」と称した。一国の首相が靖国参拝するということは政治的決断を伴うもので、それを「初詣」と称するとはデタラメもいいところだ。マスコミも誰も騒がないのはオカシイ。

全くもって同感です。こんな首相を支持している日本は脳死状態ですな。田原氏に小沢さんは靖国に参るのかと問わましたが、明治の官軍以外でも等しく戦死した日本人を祭るような施設になるならば、参拝すると答えていました。

でも、そういう施設はやはり戦没者慰霊碑ですよね。神社という概念が私には馴染めません。

パウエルさん、認めたのですね


パウエルが "open question"としながらも、大量破破壊兵器がなかったかも知れないと認める発言をしていますね。


ちょっとしばらく時事から遠ざかっていましたが、新鮮な驚きです。どうやって落とし前をつけるのでしょう。


Secretary of State Colin Powell said on Saturday it was an "open question" whether stocks of weapons of mass destruction would be found in Iraq and conceded it was possible Saddam Hussein had none.(REUTERS)


朝日新聞の本日の社説にも本件について言及されていますね。


米英首脳がなぜ誤った情報や分析に踊らされたのか。湾岸戦争以来の宿願であるフセイン政権の打倒が先にありきで、WMD問題はそのための方便だったのではないか。米英両政府は真相を調べあげ、包み隠さず国際社会に説明する責任がある。(朝日新聞)


と書いていますが、そんなこと最初から分っていたことですよね。でどういうストーリが展開するのですか。日本の立場(どこまでも対米追従ですが)は、どう動くのでしょうか。


こんなバカなことがあっても、政権は転覆しないのですね。

【音盤】テレマン:パリ四重奏曲集

以前紹介したテレマンの「6つの四重奏曲(クァドリ)」に続く四重奏曲です。こちらも「クァドリ」にも増して素晴らしい音楽に仕上がっています。

金曜日に所沢で有田氏の演奏会が催されたのですが、一度彼の演奏を生で聴いてみたいものだとつくづく思わせる演奏です。


有田正広:テレマン/パリ四重奏曲
  1. 四重奏曲 第1番 ニ長調 TWV43:D3
  2. 四重奏曲 第2番 イ短調 TWV43:a2
  3. 四重奏曲 第3番 ト長調 TWV43:G4
  4. 四重奏曲 第4番 ロ短調 TWV43:h2
  5. 四重奏曲 第5番 イ長調 TWV43:A3
  6. 四重奏曲 第6番 ホ短調 TWV43:e4
  • 有田正弘(フラウト・トラヴェルソ) 
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン) 
  • 上村かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 
  • クリストフ・ルセ(チェンバロ)
以前紹介したテレマンの「6つの四重奏曲(クァドリ)」に続く四重奏曲です。1730年にハンブルク出版された「クァドリ」がパリでも注目を集め、テレマンをパリへ招聘しました。その時に作曲されたのが、ここに納められた六つの四重奏曲です。テレマンを招聘したのは当時の名手であるプルートのプラヴェ氏(彼自身のフルート曲も有名)、ヴァイオリンのギニョン氏、ガンバのフォルクレ氏、そしてチェロのエドワール氏などです。

「クァドリ」でもそうでしたが、この曲集は明らかにプロの演奏者のための音楽になっています。当時は、アマチュア演奏家のためにも曲集は作曲されており、例えばテレマンの「忠実な羊飼い」などが、フルート吹きには有名でしょうか。

CD解説によれば「おそらくテレマンが書いた最もフランス的な作品」とあります。しかも"プロ仕様"の曲だけあって、きわめて音楽的かつ躍動的で華やかな色彩にあふれた音楽に仕上がっているように思えます。

この演奏においても有田氏のフルートトラヴェルソの音色は際立っているのですが、先の「クァドリ」と比べてピッチが高い(a'=415)せいでしょうか、音色の粒立ちや切れが一層鮮やかです。私はこのCDの第1番ニ長調の冒頭をはじめて聴いたときに、その音色の素晴らしさに思わず声を上げてしまいました。テレマンのパリに対する思いの表れとも受け取れます。今も昔もパリはまさに「華の巴里」であったということなのでしょうか。ヴァイオリンの寺神戸氏についてまったく触れておりませんが、私は寺神戸氏として意識して音楽を聴いたことがないので、感想らしものをまだ書くことができません。

「クァドリ」も確かに素晴らしい演奏なのですが、こちらと比べてしまうと、どうしてもくすんだ色彩に感じられてしまいます。それが曲の完成度によるものなのか、あるいは演奏や楽器によるものなのかは私の拙い知識では分かりません。しかし、私はこの2枚組みのCDを飽くことなく何度も聴いてしまっています。

ちなみにこのCDは文化庁芸術作品賞という有難い章を受賞しているそうです。

2004年1月24日土曜日

映画:ラスト・サムライ

渡辺謙が主役のトム・クルーズを食ったとか、「日本人でよかった」と涙ながらに映画館を後にする若者の姿が宣伝で流れ話題となった「ラスト・サムライ」を観ました。

私は「ミッション・インポシブル」のようなトム・クルーズの「オレ様映画」というのが実は大好きです。出来過ぎの設定や、見栄を切るかのごときポーズも観ていてカッコいいなあとワクワクしてしまいます。

今回の映画も内容云々よりも、トム・クルーズがサムライに扮したくて作ったような映画であろうと観る前から思っていたのですが、その通りの映画でしたので、勿論大いに楽しむことができました。

「武士道」とか「サムライの精神」については、どうでしょうか。映画の言わんとしていることは分かりますが、政治でも文化でも日本を占領した当の米国に、精神性まで教えていただかなくても結構です、という反発を覚えなくもありませんが、新渡戸稲造も読んだことがない無学な拙者のようなものは、ただ平伏するしかありません。

そういう映画のテーマなどはこの際無視をして、素直にトム・クルーズや渡辺謙、そして真田広之、小雪たちの立ち回りを楽しめば良いと思います。小雪がトム・クルーズに衣装を着せ替えてあげるシーンは、ヘタなラブ・シーンよりも美しく色っぽいです。

ロケ地は明らかに日本ではないようで、風景に若干違和感を覚えますが、それをおおめに見れば、ディテールまで凝りに凝った良質のエンターテイメントであると思います。もっとも、世の中の大絶賛の嵐には、少し疑問を感じますが…

2004年1月18日日曜日

【本棚】正高 信男:ケータイを持ったサル


正高信男氏は京都大学 霊長類研究所教授にして比較行動学の研究者である。サルの研究にいそしんできた正高氏が、比較行動学の手法を用いて現在のケータイに依存した若者と、それを生み出した家庭環境、ひいては日本社会を鋭く分析して見せた書である。

「ケータイを持ったサル」という少々過激なタイトルに、若者を侮蔑するような響きを感じる方も居るかもしれないが、読み進めると、週刊誌にあるような単純な若者嫌悪や批判とは全く論旨を異にしていることに気づく。特に氏の得意とする研究分野でのサルの行動との比較や、データを用いた若者や家庭分析がユニークである。

例えばメル友を300人以上持つグループと、ケータイを持たないグループでの簡単な投資ゲームの結果が第4章(「関係できない症候群」の蔓延)に記されている。いわゆるゲーム理論の「囚人のジレンマ」である。ゲームの参加者は2名、利益を確保するために相手を信頼あるいは裏切る選択を迫られるシミュレーションだ。この結果は私には驚くべきものであった。両グループで、これほど如実に差があるのかと、少し薄ら寒くなる思いさえした。詳しくは本書を読んでもらいたい。

正高氏は、ケータイでメル友と繋がらずにはいられない若者と、ルーズソックスに踵を踏み潰した靴で闊歩する若者を、公共領域に出ることの拒絶と捕らえ、その背景を「子供中心主義」で子供たちを育ててきた、家庭環境、ひいては日本社会にあると論理を敷衍してゆく。子供中心主義や「親離れしない子」「子離れできない親」ということも、正高氏が始めて言ったことではないが、一連の論理の中では説得力がある。

ちなみに、メル友で繋がる若者を「サル」と称するのは、ごく単純なコミュニケーション手段を用いて、連帯感を確認する行為はサルにも認められる行為であり、自分の属する集団から一生離れて生活することの稀なサルと似ていると見るからである。

イメージや感覚だけで述べた本ではないため、読んでいて明快である。氏の結論に同意できるか否かは個人によって様々だろうが、私には頷ける点も多く面白く読むことができた。

2004年1月17日土曜日

【音盤】テレマン:6つの四重奏曲


<1730年ハンブルク版>
テレマン
  1. コンチェルト第1番ト長調
  2. コンチェルト第2番ニ長調
  3. ソナタ第1番イ長調
  4. ソナタ第2番ト短調
  5. 組曲第1番ホ短調
  6. 組曲第2番ロ短調
  • 有田正弘(フラウト・トラヴェルソ) 
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン) 
  • 上村かおり(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 
  • クリストフ・ルセ(チェンバロ)
 
イタリア語のQuadriと題されいるこの四重奏曲集は「2つの協奏曲、2つのバレット(舞曲、フランス組曲)、2つのソナタ」とされてる。細かな様式の違にまで言及することはできないが、器用で時流に乗ることのうまかったテレマンらしい音楽になっている。曲集はプロフェッショナルな演奏家を対象としているというだけあり音楽的な技巧も楽しむことができる。

有田、寺神戸、上村、ルセ氏の4人の名手については、いまさら解説は不要というところだろうか。柔らかにして軽やか、そして暖かな有田氏のトラベルソの音色は長く聴いていても疲れることがない。ピッチも現代よりもかなり低めに設定されているせか(a'=398)、音楽全体がしっとりと落ち着いた華やかさに輝いている。アンサンブルの響きは絶妙であり、そこからくっきりと浮かび上がるトラヴェルソの音色は、まさに至福の時間を与えてくれる。

もっとも、ずーっと聴いていると、美しさと心地よさにうっとりはするものの、だから何なのだ?という疑問が沸く瞬間がないでもないが、それをこの時代の演奏に求めることに無理があるだろう。

2004年1月14日水曜日

人柄と音楽性あるいは音色

演奏や音色に人柄は出るものなのだろうか。
あの人は生真面目な人だから、固くかっちりした音。
彼は奔放だから、大胆でおおらかな音。
彼は、スケベだから「いやらしい」音。

生真面目でなくても、スケベでなくても表現できるのが
上級者ということなのでしょう。

するというと、普段のレビュで
「○×ならではの清冽にして怜悧な音は・・・・」
「知的な演奏構成は、△□に今回も特徴的で・・・・」
などと書くことに、どれほどの意味があるのでしょうか。

2004年1月11日日曜日

【音盤】ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス

以前にも書いたことがありますが、私はベスト版とかオムニバス版はあまり好きになれません。どうしても全曲を聴きたくなりますし、全体あっての部分であると考えるだけに「おいしいところ」だけを取ったというような構成に馴染めないのです。

そういう偏狭な態度がレパートリーを狭めているのではとも思い、まあ年の初めだからと軽い気持ちで購入してみました。


ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス
●プッチーニ:ある晴れた日に(蝶々婦人)●ビゼー:恋は野の鳥(カルメン)●ガタラーニ:さようなら、ふるさとの家よ(ワリー)●ロッシーニ:今の歌声は(セビリャの理髪師)●ベルリーニ:清らかな女神よ(ノルマ)●サン=サーンス:あなたの声に心は開く(サムソンとデリラ)●ヴェルディ:慕わしい人の名は(リゴレット)●花から花へ(椿姫)●グノー:私は夢に生きたい(ロメオとジュリエット)●プッチーニ:私の名はミミ(ラ・ボエーム)●モーツアルト:あの恩知らずは約束を破って(ドン・ジョバンニ)●マスカーニ:ママの知るとおり(カヴァレリア・ルスティカーナ)●ボンキエルリ:自殺!(ジョコンダ)●プッチーニ:お父様にお願い(ジャンニ・スキッキ)●この宮殿の中で(トゥーランドット)●歌に生き、恋に生き(トスカ)

マリア・カラスのベスト版とのことですが、日本語解説を読むと「舞台で歌わなかった役のアリアが半数近くを占めて」とあります。オペラ門外漢の私には、それさえも「そうなのか」と思って読みながらカラスの歌声に聴き入りました。amazonのレビュでは「もしあなたがマリア・カラスにまつわるすべての大騒ぎの背後にある理由を知りたいのなら、このCDを買いなさい。(中略)このCDは16人の女性を訪れるようなもので、彼女たちはすべて興味深く、全員が偉大な歌手なのだ!」とあります。

果たして私は、これがカラスの歌声と意識して聴くのは、おそらく初めてなのだろうと思います。印象としては、決して転がるようなソプラノの美声ではなくことに驚きました。むしろメゾ・ソプラノのような声質をひきずっています。それゆえにというのでしょうか、独特の存在感と迫力を聴かせてくれます。歌声の背景から、何かが迫ってくるかのようです。

全部で16曲収録されているが、思いの他の満足を得ると同時に、やっぱりカラスは実演で聴いていたら魅せられているのだろうなと思わせるものの片鱗を感じることができました。

2004年1月5日月曜日

【本棚】天木直人:さらば外務省!― 私は小泉首相と売国官僚を許さない

天木氏は元レバノン特命全権大使、小泉政権のイラク攻撃に反対する意見具申(「対イラク攻撃に対する我が国の立場」)を官房長官宛に打電し、それが小泉政権批判になるとして辞職させられた人である。彼に対する退職勧告は君は組織の枠を踏み外したというものだったらしい。本書は外務省批判本であり、元外務大臣の田中議員が「伏魔殿」と称された以上の腐敗状況を実名入りで書き綴った本でもある。

手元に本書がないので、引用や紹介はできないが、この本を、辞職させられた腹いせの、単なる暴露本と捕らえるのでは、天木氏の、それこそまさに血を以て書かれた書に対しては失礼であると思う。天木氏は外務省と政府批判を書いてはいるが、実のところ今の日本社会を活写している

外務省に限らず、批判を全く受け付けず、体制を批判する者を容赦なく排除する組織体制。組織を維持することが目的と化し、組織から得られる利権のみを求める組織員。これは何も外務省のことばかりではないと思い至る。これは外務官僚や小泉政権に対する批判に留まらず、広く日本国民への批判の書となっている。

驚くべきは今日の日本に、国民のため、国家のために役立とうという高い志を持った官僚は皆無、全ての官僚は、時の権力者に取り入って出世すること生き甲斐を感じるか、出世競争に敗れたと悟るや否や、少しでも見返りを確保しようと躍起になるかのどちらかと天木氏に書かしめる体質である。自己の信念のためことを成し遂げようなどと思うものはいないとまで言い切っている。

読んでいて、言い知れぬ無力感にとらわれると同時に、天木氏の書く内容は内容はストレートで分かりやすいが、少し感情的になっているのではないかも思わないわけではない。天木氏の言うように、志の高い官僚は皆無なのだろうか。批判するのは良いが、独善的な感想から全外務省を敵に回し反感を買っても得策であるとは思えないのだが。

彼のような官僚が働くことのできない日本政府、あるいは日本の社会というのは一体何なのだろう、誰のものなのだろうかと、読み進めるうちに怒りと諦めの気持ちがないまぜになってくる。それを打破する道があるのかないのか、天木氏は最後にいくつかの提示をしている。この書が日本の政治システムの夜明けになることを期待すると天木氏は締めくくるが、日本の場合「市民運動」のようなものは盛り上がらないのだよなあ……

2004年1月4日日曜日

高村薫:照柿


「照柿」。"てりがき"と読むのだそうだ。高村氏の小説の中では、一般的にあまり人気がないようだ。内容が暗く、そして重いとのこと。高村氏の小説を読み難いという人は多いが、この小説はその最たるものらしい。

しかし、私の中では、この小説の持つ意味は大きい。ベストセラーとなった「レディ・ジョーカー」も凄まじい小説であったとは思うが、もしかするとこちらの小説のほうが、純度と内容が濃いのではと思わせるものがある。現代の「罪と罰」と帯にはある。成る程、そういう見方もあるのかと。付け加えるならば、間違ってもこの小説は「ミステリー」ではない。


舞台は東京と大阪。8月の狂いそうになる暑さの夏。合田雄一郎(「マーククスの山」や「レディ・ジョーカー」でお馴染みの)は、たまたま乗り合わせた電車の人身事故(飛び込み自殺)に遭遇する。そして、そこで一瞬出会った美保子に一目惚れしてしまうところから話は始まる。

高村氏が女性を、しかも「男女の愛情」を書くというのも珍しいが、彼女が書くとこういう小説になってしまうのかと、私は愕然としてしまった。18年振りに会った旧友の達夫が、なぜ殺人を犯すこととなるのかというもうひとつ大きな軸もあるのだが、私にはこの小説は「解体」の物語と読めてならない。

何の解体か、言わずもがな「合田雄一郎」の解体だ。その意味から、小説の中の二つの轢死事件は、肉体の解体と死滅が、合田自身の精神的解体の物語の暗喩となっているように思える。熱心な高村小説あるいは合田ファンには、本小説で合田が「崩れていく」様を見るのがつら言うが、それは当たらない。むしろ辛いのは、そこまでに至る意志の厳しさだ。

「解体」とは、すべての内実を曝け出し、脱ぎ捨て、そして解体の後には、別の何ものかになることを示唆している。解体されたのは、合田だけではなく達夫もしかり、二人の間での激しい愛憎がスパークし、何者かに変わった(あるいは戻って何かを取り戻した)のかもしれない。自分をギリギリまで見据え、それでも自己を解放しさる軽々しさと重々しさ。高村氏の小説に一貫して共通するテーマ。

高村氏は、この小説の中で、ダンテの「神曲」のくだりを引き合いに出す。

「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」(加納)
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」(雄一郎)
「意志だよ、意志。すべては。」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
(P.254)

��冷静に考えると、義兄弟でこんな会話をする二人こそ「お化け」に見えなくもないが)合田と達夫は「地獄」「煉獄」を経て「天国」を見ることができたのだろうか。ラスト491頁から最後までは、涙なくして読めない。そうくるだろうなと分かっていてもだ。

2004年1月2日金曜日

【本棚】養老孟司:<逆さメガネ>、バカの壁


書店に行くと「バカの壁」が山積みで記録的なベストセラーを記録しているとのこと。更に養老氏の本が何種類もバナナの叩き売りのように積まれているのを見て、まあ話題だし読んでみようかという気になって2冊ほど購入。しかしながら、正月早々、くだらない本を読んでしまったというのが正気な感想か。amazon.comのカスタマーズ・レビュにざっと目を通しても、否定的な感想が多いようである。

この2冊は4ヶ月をおいて発行されているが、内容はどちらもほとんど同一。さらに、養老氏自らが執筆しているのではなく、これは私の話を、新潮社の編集部の人たちが文章化してくれた本(「バカの壁」P.3)という、なんともバカにした本である。


なぜこのような本がバカ売れし、しかも二匹のドジョウならぬ数匹のドジョウにまで化けねばならぬのかと思うことしきり。「バカの壁」という風変わりで、少し過激なタイトルでなければ、あるいはここまで売れなかったかもしれず、新潮社の商売のうまさには感服する。

内容批判をする前に、くさしてしまったが、考えてみれば内容を書くのもばかばかしい。要は、話が単純、短絡的、牽強付会、一面的、こじつけ、例題が貧弱、理論が貧弱。縁側で経験豊富でちょと賢い爺さんが話す小言をまとめたような本と言ってよいかもしれない。

もっとも、もののひとつの見方を提示するという点では確かに一理あるかとは思う。養老氏が「都市化」と称する考え方には同意できる部分も多い(<逆さメガネ>)。しかし個性と身体性云々のところは、成る程とさえ思えない。養老氏は「バカの壁」と常識を疑う「逆さメガネ」を強調するが、彼自身の中で「壁」があるのではなかろうか。ただどちらかを読むとしたならば、<逆さメガネ>が良い、こちらの方が氏の考え方がストレートに出ている。

先にも書いたが、今日も書店に行ったら山のように養老氏の名前を冠した本が山となっていたが、どんなに「良い本」であろうと、二度と氏の本は読まないだろう。