2003年11月23日日曜日

【ゲルギエフを聴く】

今となっては押しも押されぬ指揮者の一人となりましたが、初めてCDでチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いたときの衝撃は忘れられません。それ以来注目の指揮者の一人です。

演奏会の感想

CDレビュ

その他

NHK音楽祭 ゲルギエフのマーラー交響曲第3番

日時:2003年11月22日 14:00~
場所:NHKホール
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
合唱:キーロフ歌劇場合唱団

マーラー:交響曲第3番 ニ短調)

コンサートにのぞむにあたって、あるいはマーラーの交響曲第3番という異常に長い演奏に接するにあたって、私は余りに精神的にも肉体的にも疲れていたかもしれない。結果から言ってしまうと、ゲルギエフという贔屓の指揮者の演奏であったにも関わらず、演奏から得るものは必ずしも多くはなかった。演奏を聴きながら「このまま終わってしまうのか」と半ば諦めと虚しさを感じていた。

マーラーの交響曲第3番は合唱を伴う大曲であり、テーマも死を連想させる要素は薄く、冬を押しのけた夏の勝利、夢のような矛盾、甘美さと目も眩む様な壮大な境地にまで高まった神の愛さえ感じる曲だ。合唱が登場するのは第4、5楽章、時間にして十数分である。しかしピンポイントで入るソロや少年合唱は、この曲を際立たせており、そうしたことで得られる最終楽章の美しさは、何ものにも変えがたいものがある。ティンパニーの強打とともに締めくくられるラストでは、大きな感動に包まれるはずであったのだが・・・。では、今回の演奏に何が不足していたのかと思い出そうとするのだが、それを適確に表現することは難しい。

第一楽章冒頭のホルンのテーマの吹奏は、音量的にもはっとするほどのものであったし、音響的重心の低さと分厚さは、オケの実力を十分に感じさせるものであった。NHKホールで、あれほどの音を聴けるとは思っていなかっただけに驚きとともに期待は高まった。

ゲルギエフの演奏なだけあって表現の巾は広いし、分厚い音響に支えられた音楽は聴き応えは十分、甘美で優雅な旋律も悪くはなかったと思う。しかし、結局のところ複雑で矛盾に満ちたマーラーという雰囲気はあまり感じることができず、全体的な表現としてストレートすぎるようにも感じられた。

演奏を聴きながら、ゲルギエフのマーラー観というものは、いったいどうというものなのだろうかと自問していた。バーンスタインやテンシュテットの演奏だけがマーラーではないことも認める。バーンスタインの印象を私は引きずりすぎていると思うときもある。いや、ちょっと待てだ。そもそも、私のマーラー観とは何なのか。この演奏が良いとか気に食わないというほどに、私はマーラーを聴き込んでいるわけでも、マーラーに通じているわけでもないではないか。

それでも、私の拙い音楽経験の中で築かれたマーラー像と今回のマーラー演奏の間に微妙なズレがあり、それを私は認容することができなかったということなのだろうか。音量が大きければ感興が得られるというものでもないわけだ。

個人的には注目の演奏会であったが残念な結果であった。クラシックBBSで有名な「クラシック招き猫」の「音の余韻館」も覗いてみたが、わずか1名の方の書き込みしかなかった。今回のゲルギエフ来日の目玉がキーロフオペラにあったとしても淋しい限りではある。

2003年11月15日土曜日

PMF2004にゲルギエフ登場  

「モーストリー・クラシック」のサイトを見ていたら、来年のPMFにゲルギエフが登場するらしい。以下は、同HPから引用。

個人的にゲルギエフは嫌いではないが、PMFにゲルギエフが適切なのか、資金面から疑問を感じるのは私だけか。人気の指揮者を招待して、クラシックファンの裾野を広げようという意図なのかもしれないが、PMFというのは、本来的には一発もののイベントではなく、もっと地道な活動のように思えたのだが。

いずれにしても、札幌にいない間にゲルギエフが札幌に1ヶ月近く滞在するというのは、穏やかな気持ちになれないことだけは確かだ。

●札幌で毎夏開かれている教育音楽祭「PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)2004」の記者会見が14日、東京都内のホテルで行われた。会見には、PMFの前田龍一常務理事、PMF首席教授・芸術主幹を務めるウィーン・フィルの首席クラリネット奏者ペーター・シュミードル、そして、来年の首席指揮者を務めることになった指揮者のワレリー・ゲルギエフらが顔を揃えた。
●PMFは1990年、指揮者で作曲家の故レナード・バーンスタインの提唱でスタート。教育音楽祭としては、米国のタングルウッド、ドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭と肩を並べる存在に成長した。来年は7月10日から8月4日まで行われ、オーケストラコース、コンポジションコースの教育が行われ、オーケストラ演奏会、教授陣による演奏会、ミニ・コンサートなど40公演の開催が予定されている。
●オーケストラコースでは、ワレリー・ゲルギエフの指揮、ニコライ・ズナイダーのヴァイオリンによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィッチの交響曲第11番「1905年」をはじめ、ファビオ・ルイージによるマーラーの交響曲第6番「悲劇的」、チエン・ウェンピン指揮によるバルトーク「中国の不思議な役人」、リヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」などのプログラムが組まれている。
●会見でシュミードルは、「PMFは来年で15年目を迎えますが、常に新しいことを取り入れていくことが大事だと思っています。これからも世界的にビッグな指揮者を招く努力をしていきたい」と語った。一方、ゲルギエフは「PMFの発足前から、バーンスタインからこの素晴らしい計画のことを聞いていました。若い人に教えるだけでなく、彼らから学ぶことも多く、若い学生と新しい体験ができるのを楽しみにしています」と語った。

2003年11月13日木曜日

【ヒラリー・ハーンを聴く】



(2003年当時の記事であり、リンク切れになっています)

アメリカの若き天才バイオリニスト、ヒラリー・ハーン。今、最も注目されるバイオリニストという評価がある一方で、彼女の人気は一過性のものであるとするクラシックファンも存在しているようだ。気になる演奏家であることは間違いない。ジュネスさんの投稿レビュもアップしました。

ディスク・レビュ

サイト内のその他の書きこみ

  • 音楽雑記帳 ~ ヒラリー・ハーンの音楽 2002/02/02
  • 音楽雑記帳 ~ ヒラリー・ハーンのバーバー、メイヤーのアルバム 2001/03/14

ヒラリー・ハーン ファンのレビュ

音楽のBBSに時々書きこみをしてくださっているジュネスさんは、アマチュアのバイオリニストであり、そして熱烈なるヒラリ-・ハーンのファンです。演奏会の感想のレビュをメールで読ませていただき、せっかくの文章ですのでジュネスさまにレビュを本HPに公開しないかと持ちかけてみました。うれしいことに快諾いただけましたのでここに紹介いたします。

ヒラリー・ハーン/バッハ バイオリン協奏曲



ヒラリー・ハーンのグラモフォン移籍の1枚目はバッハのヴァイオリン協奏曲だ。今では当たり前のようになってしまった古楽器系の演奏ではなく、現代楽器による颯爽とした演奏である。では、ここに納められた演奏は、今の評価からすると「異端」なのか。ここにバッハ音楽の奥深さと複雑さと歪曲と、そして誤解があるように思える。

バッハは演奏家からすると「試金石」のようなものであるらしく、高名な演奏家であってもバッハと対峙するのは相当の解釈論と経験をつんでからでないとできないという人も多い。ハーンはデビューからしてバッハのソナタを演奏し世界をあっと言わせたのだが、私はここでもあっと思ってしまった。

1曲目のヴァイオリン協奏曲 ホ長調の出だしのスピード感ときたらどだろう。一瞬にしてハーンの巧みな音楽世界にさらわれてしまう。そして Adagio での憂いと翳りの表現。見事なまでの対比が、それこそ一分の隙もない音色で奏でられる。だからといって、感傷的であったり感情表現に傾きすぎているというわけでもない。聴いてみれば、切れの良い表現で淡々とバッハの音楽的世界が語られているように思える。

2003年11月11日火曜日

ワルキューレ 第1幕

「CDで聴く初めてのワーグナー」というシリーズが春から全く停滞しているのだが、久しぶりに「ワルキューレ」の前半を聴いてみた。

ワルキューレの第1幕は、ジークムントがジークリンデの家へ迷い込むところから始まります。またしてもお互い一目惚れしてしまいます(兄弟なのに)。上で旦那のフンディンクを眠り薬で眠らせて、二人で陶酔的な愛を交わすという、とんでもない幕である。

しかし、音楽を聴いていると一時にワーグナーの異常な世界にどっぷりはまり、第3場の「剣のライトモチーフ」とともに、ヴォータン(ジークムント兄弟の父)の与えた剣を手にするシーンは、まさにに圧巻という印象を受けます。凄まじきはワーグナー、映像を見ずともこれほど鮮やかに劇が再現されると驚くばかり。

第2幕第1場は、ヴォータンが娘のブリュンヒルデ(ヴォータンが女神エルザに生ませたワルキューレの一人)とつるんで、息子のジークムント(ヴォータンが人間に生ませた双子の兄)を助けようと企みます。それが、ヴォータンの正妻であるフリッカにはたまらない。しかもジークムントとジークリンデは近親相姦してしまっているのだから、結婚の女神のフリッカは許すことができない。それで、夫であるヴォータンにキレまくっているシーンなのだが、ここはとても笑える。ワーグナーって、一体どういう倫理観だったのだろう・・・

日本フィル 第137回サンデーコンサート




日時:2003年11月10日 14:00~
場所:東京芸術劇場
指揮:小林 研一郎
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
ヴァイオリン:二村 英仁

リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン(ジプシーの歌)
ラヴェル:演奏会用狂詩曲「ツィガーヌ(ジプシー)」
モンティ:チャールダーシ
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」

コバケン+日フィルの演奏会に出かけた。リストのハンガリー狂詩曲に始まり、二村氏のヴァイオリンが3曲、そして「展覧会の絵」と親しみやすいプログラムであった。

しかし、日曜日14時のに始まる「サンデーコンサート」という気楽な雰囲気の演奏会のためか、会場が始終ざわついていてどこか緊張感に欠けていた。それは演奏中でもそうで、開放咳ならまだしも鞄やパンフレットのガサゴソする音が始終絶えない。そういう私も体調があまりよろしくなく、なかなか演奏に没頭できないで終わってしまったというのが正直な感想。

二村氏のヴァイオリンは優しく温かみのあり、それでいてなかなかに聴かせる演奏だったと思うのだけど、心には響いてこなかった。二村氏と日フィルとの相性という点ではどうだったのだろうか。「ツィゴイネルワイゼン」のような通俗名曲を技巧でブイブイ弾きまくる演奏が、二村氏のスタイルには似合わないのかもしれないとも思った。

ラヴェルやモンティは、私には始めての曲で、全くもったいないのであるが、とにかく楽しめないままに二村氏は去ってしまった。二村氏は、機会があればもっと近い席でじっくりと聴かせて貰いたい音であったことは付記しておこう。

次は「展覧会の絵」である。コバケンの展覧会なのだからとかなり期待して聴き始めた。しかし、本番であるから事故やミスは止むを得ないと思うのだが、金管群が不安だ。弱音でのアンサンブルの乱れも気になり、どことなく雑な印象を受ける。そして時々、自分の耳がおかしいのでは訝ったのだが、音程がどうもピンとこない。それも弱音での出だしの音だったり、重要な部分での音程であるだけに演奏全体の印象がぼやけてしまった。(プロのオケなので、音程が悪いということはありえないと思う。私は当日は風邪気味であったから、頭と耳がぼやけていたのだと思う。)

展覧会の絵は、強弱や緩急取り混ぜながら、最後のキエフの大門に向かって盛り上がる曲だが、最後のクライマックスも弱音での緊張が維持されてこそ壮大な感興が得られるものだ。肝心の弱音での繊細さや緻密さ、美しさに乗り切れなかったため、今日の演奏には満足できなかった。

アンコールは、何か1曲やった後に(忘れた)キエフの大門のラスト数分をもう一度演奏した。こういうアンコールもありかなとは思ったのだが、コバケンの生真面目さとサービス精神、そして音楽と日フィルへの深い愛情は感じたが、今日の演奏の印象をくつがえすものではなかった。

4月に東京に来て日フィルの演奏を聴くのはじめてであったのが、今まで数度聴いた東響と比較すると、弦の音色や雰囲気が異なっているように思えた。東響はどちらかといえば透明感が際立っているが、日フィルには音に粘性を感じ重心も低く、良い意味での雑味も感じることができる。それだけに全体のバランスが崩れてしまうといただけないというのが、今日の感想ではあった。体調の良いときに再度、コバケン+日フィルを聴いてみたい。

蛇足になるが、コバケンは3階席にいてさえ、その唸り(叫び?)声が聴こえるほどである。それでも、帰り際にクラシックファンたちが「コバケンも年をとったなあ」と感慨深げに話す声が、なぜか耳に残ったのであった。


2003年11月10日月曜日

冬に期待するもの

ストレス解消のひとつに、私の場合はレビュとかを書くというのがある。誰に向かって書くわけでもないのだが、自分の中で鬱々と溜まる感情を放置しておくと、霧散するか蓄積してしまうので吐き出すという作業をしている。仕事の関係でHPの更新を現在できない環境なので、鬱々とした感情は発散しがちになりる。 

そんな中で最近私が期待しているのは、なんと言っても11月23日のゲルギエフのマラ3だ。これはNHKホールなので若干不安もあるし、最近のゲルギの音楽性を考えると凶と出るか吉と出るか。マラ3も長い曲だが、終楽章の美しさをゲルギはどう表現するのだろう。 

CDで期待するのは、12月に発売されるアムランのショスタコか。アムランのヴィルトオーゾ性というのは、感情を交えないピアニズムの極致のように思え、例えばホロヴィッツのヴィルトオーゾとは対極的な位置にあるのではないかと思ったりする。そういう意味から、彼はどんな難曲を弾いても深刻や意味深にならず、ひたすら曲の構造美が浮き出てくるように思える。

HMVではクライバーの「田園」が山積だった。私としては、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」の方が魅力的だった、6000円を超えているのでしばし保留。同じくトリスタンではカラヤン盤も出ており、本当は両方とも欲しいところ。そろそろDVDドライブでも買って、レヴァインの指輪でも観ようかとは思っているのだが・・・

2003年10月20日月曜日

【音盤】Durufleのレクイエム


Maurice Durufle (1902-1986)
 Requiem Op.9 (1947)
 Quatre Motets Op.10 (1960)
 Missa 'Cum jubilo' Op.11 (1966)

St.Jacob's Chamber Choir ( S:t Jacobs Kammarkor )
organ: Mattias Wager  baritone: Peter Mattei
mezzo-soprano: Paula Hoffman  cello: Elemer Lavotha
1992&1993, BIS Records AB

フォーレの「レクイエム」に並ぶヒーリング系レクイエムというHMVのキャッチに惹かれて購入してみた。聴いてみれば、確かに心の奥底に染み渡るような美しい音楽が展開されている。さて作曲者はとみれば、Durfule とは何と20世紀の作曲家ではないか。しかも「レクイエム」の作曲は1947年とある。

私は常々、どうして現代の作曲家が、いわゆる「クラシック音楽」を作曲しないのか不思議でならなかった。時代背景や嗜好というものもあろうが、新たな視点から古典音楽やロマン派的な音楽が作曲されたっていいではないかと思うのである。(もちろん現代音楽を作曲してくれてもよいが)

とにかく聴いてみていただければ分かる。「レクイエム」はフォーレのそれのように「怒りの日」を入れていないため、安心して聴くことができるし、オルガンとコーラスのハーモニーがうっとりするほどに絶妙である。続く二曲もコーラス付きの曲だが、まるでグレゴリオ聖歌のような曲だ。

解説によれば Durfule は、音楽のキャリアをルーアン大聖堂から始めたらしく、そこでオルガンを学んでいるらしい。しかし、たた古典的な様式を模倣しただけでの音楽ではなく、聖歌のような清らかなコーラスと輝かしい音響がマッチし類い稀なる音楽を生み出している。

「癒し系」とか「ヒーリング」という言葉やムードは好きではないのだが、心も体もズタズタで脳も充血しているのにアドレナリンだけが噴出し体温が1.5度くらい上昇しているような夜(どんな夜ぢゃ!)に聴くと、細胞の隅々にまで冷気が行き渡る心持だよ、はあ~。

【本棚】李小牧:歌舞伎町案内人


何とも痛快な本だ。帯びにもあるようにマスコミ各氏や新聞でも話題になった本だから、題名を聞けば「あの本か」と思う人も多いだろう。

1988年に中国から日本に憧れてやってきた若者が、新宿歌舞伎町にどっぷりとはまり込み、ラブホテルの清掃から「お見合いパブ」のティッシュ配りなどを経て、歌舞伎町の「案内人」(彼は「キャッチ」とは違うと主張する)として成功するまでの、波瀾万丈の人生と歌舞伎町の裏社会を、生き生きと活写して見せた本である。ヤクザの「ケツ持ち」の話しや、中国マフィアや福建人の話など、実話だけあって迫力もすごい。

この本で感心するのは、李氏の類稀なバイタリティと行動力、そして犯罪には絶対に関らないという信念であろうか。それがあるから、彼の明るさと身軽さと、そして不思議な健康さが本書にノリと勢を与えている。馳星周の小説は読んだことがないが、ふと高村薫の「李歐」の背景などを思い出したものだ。

それにしても密入国者や外国人による犯罪が増加していることを考えると、不況とはいえ、今でも日本はアジアのなかで、自己防衛にマヌケでかつ金のなる国であると思われていることに改めて気づかされた。

2003年10月19日日曜日

東京交響楽団第507回定期演奏会


日時:2003年10月18日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:井上 道義





ソプラノ:佐藤 しのぶ   メゾ・ソプラノ:エルザ・モールス
合唱:東響コーラス   合唱指揮:郡司 博
演奏:東京交響楽団

マーラー:交響曲 第2番 ハ短調 復活

またしても東京交響楽団の演奏会を聴きに行った。東響のファンであるというわけではないのだが、たまたまタイミングが合っているというところか。しかも演目が井上道義氏による「復活」、ソプラノが佐藤しのぶさんとあってはいやでも期待してしまう。

「復活」は、私の中で迷うことなくベスト5に入るほどの好きな曲である。前日にテンシュテット/LOPのCDを聴いて予習するというほどの気の入れようだ。さて井上氏の率いる東響はどう聴かせてくれたか。

最初に結論から書いてしまうと、とてつもなく素晴らしい演奏であったということに尽きる。私は最終楽章の当たりから横隔膜が上がりっぱなしで、いつのまにか流れてしまう涙を抑えることができず何度も目尻を拭わなくてはならなかったし、最後のコーラ―スが始まる当たりでは体がどうしようもなく震えてしまうほどの興奮と歓喜にのまれてしまった。音楽を聴いていたというよりも壮大なる賛歌と歓喜の光の中に放り込まれたような強烈な音楽的経験であった。

ゲルギエフ/キーロフ(99年 東京芸術劇場)で聴いた復活も脳天が炸裂するような演奏であったことを思い出すが、今回の演奏はそういうものとは質が違った演奏であったように思える。何か物凄く大きなものを演奏からもらうことができた。

とはいうものの、最初から最後まで演奏に満足していたというわけでもない。第一楽章冒頭、ヴァイオリンのトレモロに乗って低弦の強奏から始まる不安な旋律を聴いた時、東響独特の弦の繊細さと美しさを感じながらも、高音の海の中に低弦が浮遊するような、不思議な分離感をまず味わっていた。

第一楽章は葬送行進曲であるが、激しさと劇的さの間をつなぐ線がどこか頼りなげで、ひとつのストーリーとして胸に迫らない。もともとマーラーの曲は分裂気味ではあるのだが、何かマーラーらしい暗さが不足していると感じたりしていた。音量的にも、中音域が不足するような感じで、第一楽章は最後まで満足のゆくものではなかった。第二楽章のアンダンテも、マーラー的な官美さには少し遠く、今日の演奏は期待したほどではなかったかと軽い失望を覚えたほどではあった。

しかし第三楽章のあたりから少しずつ気分が変化し始め、第四楽章でメゾ・ソプラノの " Roshcen rot!(おお、小さな赤バラよ) という歌が挿入された当たりから、それは健著になった。何といってもモールスさんの歌声が素晴らしく心底聴き惚れてしまった。声量といい声色といい、なんと美しく芳醇な歌であることか。まさに祈りの歌がそこにあった。

バックで支える東響も美しい。第三楽章から楽章間がほとんどなく連続して演奏されることも、次第に緊張を高めてるのに一役買っていた。

第五楽章に至って、マーラーの複雑にして多彩な音響にほとんど翻弄されるがごとき。曲がどう進んでいくのか分かっているというのに、合唱が " Aufersteha, ja aufestehn wirst du (よみがえらん、まこと汝はよみがえらん) と唄いはじめた時には二の腕にざわざわと鳥肌が立つ思い。中間部は木管も金管も素晴らしい音楽を聴かせてくれていた。そしてソプラノとアルトの二重唱 " Shcmerz, du Alldurchdringer ! (おお苦しみよ、汝いっさいを刺しつらぬくものよ!)が美しいこと。

合唱団が立ち上がって唄い出す(お決まりの?)あたりから、ラストに向っての盛りあがりは凄まじいもので、第一楽章で物足りなく感じた音量はなんだったのかと思う。打楽器と管と弦が渾然とフォルテッシモを奏でるとホールの底が沸騰するかのよう。一気呵成に音楽は進行し、冒頭に書いたように私は完膚なきまでに叩きのめされてしまったのである。

終演後のブラボーも凄まじかったが、演奏会にこれ以上何を望むことができようか。今年聴いた東響の中どころか、今まで聴いた演奏会の中でもベストに数えられるようなものであったと思う。

2003年10月17日金曜日

高村薫:レディ・ジョーカー



読み終わった後に静かに、そして深く震撼してしまった。この小説は高村作品の中でも、また日本の現代小説の中でも最高傑作のひとつなのではないかと思った。彼女は自分の作品について、ミステリーを書いているつもりはないと言っている。読んでみれば確かに小説の中で書かれるビール会社を相手にした企業テロは、江崎グリコ事件を題材にしてはいるが、ミステリーはひとつの素材でしかない。

最初に読み始めたときは、初期作品に認められた高村らしさが薄く、大衆性を得て変化したかと感じさせたものだ。ふと横井秀夫氏や貫井徳朗氏の小説のような雰囲気さえ感じた。

しかし読み進むにつれ、個人というものを阻害してできている組織社会、日本社会に縦横に張り巡らされた裏社会、どうにも変え様のない現実をしょった個々の人生などが、どこに焦点を当てるというわけでもなく、全てに無影燈のように等価に光を当て、しつこいほどの描写で綴られてゆくことに引き込まれてしまった。

何がテーマかということを考えるのをためらうほどに、込められた思いは複雑だ。ただひとつ言えるのは、この物語は、すべて日本と組織で働く、あるいは日本と組織から阻害された男たちの、自己清算あるいは自己解放の物語であるといえる。(女性はほとんど脇役以下なのも相変わらず高村小説である)

合田刑事が、半田との最終決着をつける前の場面、

合田はもう何年も味わうことのなかった深い解放感に満たされた。(中略)己の人生を、こうして全て放り出そうとしている解放感といっても、実態は身の丈相応の、その程度のものだった。(下巻 421頁)

毎日ビール副社長の倉田が社長の城山に、内部告発とその後の刑事被告の件を告げた場面で城山がひとりごちる、

時分と同じサラリーマン人生を歩んでいた男が、ここまで完璧に己の三十数年を捨てて新たな世界へ飛び出していけるものなのか。(中略)城山はその場は結局、まったく自分の頭を整理することができずに終わった。(下巻 323頁)

その城山が最終的に辿りついた境地は、

志半ばの無念や失意よりも、間もなく訪れる自由への手放しの渇望の方が、自分の中で確実に大きくなっていることに、城山は驚いていた。会社と決別してまったく新しい何者かになることが、長年背負い続けてきた肩書きや懸案をすべて下ろして裸に戻ることが、これほど心を躍らせ、沸かせるとは。まさに、この自由の悦びを味わうために、長年の会社生活があったのかと思うほどだった。(下巻 411頁)

自己清算あるいは自己解放ということは、己の中で燻るもうひとつの自分の解放でもあり、あるいはそれが「悪鬼」であったりもする。東北戸村出身の老人である物井の場合、自分の兄 清二が亡くなったときに感じたことは、

<人間なんてこの程度のものだ><これが明日のお前だ>といった自分の声が聞こえ、そのざわめきがやがて形もなくなると、代わりに降りてきた放心の隣で、物井は今度は<清二さん、仇を討ってやるぞ>という別の声を聞いた。(上巻 162頁)

生きることや働くことの意味、日々の仕事の中で忙殺され、つかの間の充足感を味わいながらも、一方でさらさらと広がる巨大な虚無と空洞を鋭く抉りながら、男たちのつまらなくも重い人生を書ききっている。そして、凡百の男たちには、いくらあがいても変えようのない巨大なシステムと不公正の存在。そんな憤りと燻りの中から、生と破壊への暴発を始める男たち。自己発見をできたり何者かに変わることができた者は幸せで、結局何を起こしても身の丈程度とうそぶくか、あるいは完全に自己を破滅させてしまうか、その差は何であったか。

そうだ、書きながら気づいた。『レディ・ジョーカー』も、高村小説が一貫して追及してきた「いまのどこにもない、もうひとつの自分」への物語なのだ。その意味では集大成とも言える小説に仕上がっている。

企業テロの詳細や、表社会と裏社会と政治の結びつきなど、ここでも背景となる組立ては緻密で高村の取材力には改めて関心するのだが、この点は割愛する。

物凄い小説ではあるが、一点だけ言えることはある。細部と人物の緻密な描写によって書かれた驚くべき現実感を有した小説であるが、これは高村理想郷に住むの男たちの物語ということだ。往年の少女マンガが絶対にありえないプロットで成立していたように、高村の小説もそれに似たところがある。

というのは、彼女の小説の男たちは、あまりにナイーブで誠実で潔癖で禁欲的すぎるのだ。倉田や城山のみならず、自らの命を絶った杉原や三好の自己清算の方法もそうだが、どこの世界に盗み取った20億もの金に執着しない男たちがいるというのか。どこに、激務に近い仕事の後にヴァイオリンを弾き、寝る前は台秤で150グラムと計ったウィスキーを飲み、グレン・グールド著作集第1巻『フーガの技法』か『商行為法講義』あるいは、『日経サイエンス』を読みながら寝るクリスチャンの刑事がいるというのか。どこにシモーヌ・ヴェーユを<無人島に持っていく十冊>にしたいと考えている新聞記者がいるというのか。いや、私の廻りには皆無なだけだけで、そういう人は、きっと沢山いるんだろう・・・な・・・・チェッ

2003年10月8日水曜日

【本棚】平野啓一郎:一月物語


何とも美しい小説ではある。平野氏の小説は「日蝕」でも感じたが細部の描写が見事だ。特に今回は森の中の描写が生きていて、燐粉を放つ鴉揚葉や夕影鳥(ほととぎす)の鳴き声など幻想的な雰囲気を小説に与えている。例えばこんな具合だ。


庭は、背後の森に守られて、降り濺ぐ煙雨のような月光を恣にしている。色鮮やかな蘭や文目は、裂けんばかりに花弁を広げ、磨かれて将に現れようとするする刹那、螺鈿の飾りのように、暗がりに浮かび上がっている。躑躅の緑条は、その旺んな枝振りを注意深く潜めながら、咲き乱れた花の色に裏切られることを嬉しんでいるかのようである。(P.92)


物語りは明治の頃を題材としているが、取り立てて新規性のあるものでははなく、むしろ陳腐と言ってよいような怪奇譚を、彼独特の世界観で包み込み、怪しいまでの美しさで展開してくれたというところか。ここでも文体と独特の漢字使いについて言及しなくてはならない。擬古典的な文体と現在では使わない漢字使いと小説独特の世界のマッチングしている。「日蝕」では『何かを隠蔽している』のではないかと思わせたが本作ではそういう感想は湧かない。擬古典的な文体とは言っても読みにくいのは漢字だけであって、内容については晦渋なところはどこにもなく(むしろ平易)、これも質の良いファンタジーとして楽しむことができる。

もうひとつ気付いたことがある。平野氏は何者かとの一体感や成就感(今回は報われることのない愛だが)、そして一瞬ではあるが永遠の幸福感に憧れていると思わせることだ。「日蝕」では『究極の至福と統一感』について感情移入できなかったと書いたが、実はこれこそ彼の根底に流れる情念であり、小説を書かせる源泉のひとつなのかもしれない。それを表立って表出することを憚るがために、回りくどい表現になっているのだろうか。

それにしても、ラストの男女の森の中での掛け合いはいただけない。お互いを求め合うその愛の詞が、宝塚かオペラの一幕を見ているようで、今までの世界観と齟齬を来たしているように思えたのだが、いかがであったろうか。

2003年10月1日水曜日

【本棚】平野啓一郎:日蝕


(素人のネガティブな感想なので、読まれる方はご注意ください)

小説を読む愉しみという点で考えるならば、平野氏の「日蝕」は私に何を提示してくれたか。史上最年少での芥川賞受賞、三島由紀夫の再来というキャッチ、それなりに期待して読んだのだが私には芥川賞を取るほどの力がどこに隠されているのか、ついぞ分らなかった。

物語は15世紀フランス、一人称形式の追憶のかたちで書かれる若きドミニコ派修道士の不思議な体験が骨子。主人公は、基督教と異端哲学を融合させたいという野望を持って旅を始めるが、師の勧めもあり錬金術師と出会う。更には両性具有者までもが登場し、両性具有者は当時流行した厄疫の汚名のもと異端審問の果てに焚刑に処せられる。そのときに霊的な奇跡(?)が生じ主人公にとって究極の至福と統一感をもたらす体験となるというもの。

しかしながら、四方田犬彦氏が文庫本解説で「通過儀礼」と称する程には個人としての軋みが感じられず、傍観的で受動的な印象しか受けないところは大いに不満。平野氏は1頁以上の空白頁を挿入することで、体験の全きさを表現したかったのかもしれないが、私には主人公への感情移入もできなかったため、頁のごとく白々しい気持ちが残るのみ。

「日蝕」というタイトル、基督教と異端哲学の融合、錬金術、両性具有者という素材からは、陽と陰の融合あるいは統合という、主人公が求めたテーマが見え隠れするのだが、当の平野氏は陽と陰の融合を希求しているわけでは全くなく、従ってそれを感覚的にのみ表現しようとしているところに弱さを感じる。

そもそも三島との共通点が一体どこにあるというのか。耽美というにはどこか即物的であり、身を恥じ入るような背徳も読み取れない(三島を耽美と背徳という言葉に単純化することに意義はあろうが)。平野氏に特徴的な古典的な文体(鴎外の文体を模したらしいが)は確かにひとつの世界を作ってはいるものの、物語内容や描写、詳細に読めば文体さえ、(当たり前のことではあろうが)若く現代日本的的な感性の横溢を感じる。それ故、古典的な文体はわざとらしく、逆に何かを隠蔽しているのではないかとさえ思えてしまう。

中世の基督教の神学論争などを舞台としている点は、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を彷彿とさせるが、内容世界において比肩するべきものはない。洞窟の場面と焚刑の場面などは、話題性の点からも読み応えはあるかも知れないが、私には村や洞窟に至る森の描写の方が見事に感じる。

畢竟彼の小説は細部と描写美によって成立しているだけのようにも思え、一読した限りにおいては芥川賞受賞という作品価値を見出すことが私にはできなかった。

ただ、難解といわれる文体が読みにくかったかといえば全くそういうことはなく、始めの数頁で彼の漢字使いに慣れてしまえば、薄い本でもあるしファンタジー小説を読むのと何の変わりもない。

・・・・・ううむ、ケチョンケチョンだな・・・・・平野さん、ごめんなさい。この小説を高く評価する方、すみません、自分にはこの作品は合いませんでした。

2003年9月21日日曜日

東京交響楽団第506回定期演奏会

日時:2003年9月20日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ヘンリク・シェーファー
ピアノ:梯 剛之   ソプラノ:天羽 明惠
演奏:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
マーラー:交響曲 第4番 ト長調



本日東響を指揮するのはヘンリク・シェーファーという68年ドイツ生まれの若き指揮者である。2000年にはアバドの指名でベルリン・フィルのアシスタント・コンダクターに選ばれている実力の持ち主らしい。演奏会パンフレットには「未来のマエストロの呼び声高き、注目の指揮者」と紹介されている。ピアノの梯氏については説明はもはや不要だろう。今日の演奏会は、彼のピアノを聴くことが先ず目的ではあった。

梯氏が演奏するのはモーツアルト絶頂期のピアノ協奏曲21番である。明るくモーツァルト的天真欄間さのなかに見え隠れするちょっとしたアンニュイや寂しさが表現された、親しみやすい名曲である。ややもすると、あまりに耳障りが良すぎて逆に災いするところがあるのだが、梯氏のピアノは評判のとおり非常にピュアな音を奏でてくれ、清朗にして明瞭、モーツァルトの美しさを十全に表現しつくしているように思えた。

��階20列であったので遠くてよく見えなかったが、梯氏の打鍵はあまり強く、あるいは深くないようで、そこに彼の感性がかぶさることで、梯氏の独特の繊細な音楽が生み出されているように感じられた。(ピアノにも詳しくないので、頓珍漢かもしれないが)

シェーファーの氏振る都響も、適度に贅肉を落としたフットワークの良さを聴かせてくれ、梯氏のピアノとのアンサンブルは絶妙であった。プロのオケを相手にして言うのも何だが、確かに都響の弦はクリアで独特の艶やかさがあるように思える。

梯氏のアンコールはモーツァルトのニ短調幻想曲であった。モーツァルトの短調というのは、どうしてこんなにも哀しく美しいのだろう。この一曲を聴くだけでも雨の中サントリーに行った甲斐があったというものだ。

マーラーの交響曲第4番は、マーラー作品の中では短いため "親しみやすい" ということになっており、しかも演奏回数が1番や5番と比肩しているのではないかと思う。私も拙い演奏会経験の中で、この曲には何度か接している。

しかし私にはこの曲は結構難物で、特に第3楽章とソプラノ独奏の入る第4楽章がうまくつながらず、交響曲としてまとまった完成度という点では疑問を感じていた。「マラ4は第3楽章で聴くのを止める」という人もいたくらいだ。

私が今日の曲を聴いて驚いたのは、その第3楽章のまさにクライマックスとなる盛りあがりの中で、ソプラノが左手から静々と登場したことだ。こういう演出(?)は普通なのかしら。勝利を告げるかのようなファンファーレ(トランペットとティンパニが強打されるところ)とともに表れたソプラノの天羽明惠さんは、あたかも天国からの使者のように見えた。なるほど、こういうつながりもあったのかと関心してしまった。

指揮者のシェーファー氏がどういう芸風なのかは知らないが、彼のマーラーは全く感情に溺れず、淡々と音楽を提示してくれているように感じた。マーラーの曲はどれもバラバラな断片が組み合わされているが、彼の指揮はモザイクのひとつひとつにピントをくっきりと合わせているようで、そのため独特のパースペクティブを感じることができた。第3楽章のマーラー的なアダージョにおいても、音楽が陶酔してしまうことはなく、そのようなアプローチから現代的なマーラー像が浮かび上がっていたようにも思える演奏であった。

2003年9月14日日曜日

【音盤】アムランのアルカンほか


Adolf von Henselt (1814-1889)
 Piano Concerto Op.16
 Variations de Consert Op.11 (Frist Recording)
Charles-Valentin Alkan (1813-1888)
 Concerto da Camera Op.11/1
 Concerto da Camera Op.10/2 (First Recording)

Piano:Marc-Andre Hemlein
Conductor:Martyn Brabbins
BBS Scottish Symphony Orchestra
Recording in Govan Town Hall, Glasgow, on 2 3 December 1993

ここに納められている Henselt と Alkan は、リストやショパンと同時代の作曲家であるらしい。Alkan は名前くらいは聴いたことがあるが、Henselt は読み方さえ分からない。この盤のふたつの曲がともに世界初録音とは驚く。

数多くの作曲家の中で現代でも聴き続けられているのには理由があるのだろうが、歴史の中に埋もれてしまっている作曲家も、私が知らない以上に多いのかもしれない。アムランが発掘したこの二人の作品も、これが何故に今まで誰も演奏しなかったのか不思議でならない、あまりに不当な扱いではないか。

どちらの曲もピアノの技巧をこらした、壮大なる曲である。音楽的な起伏も大きく、しかも深刻になりすぎず良い意味で刺激的でかつ健康的な美しい曲であると思う。特に凄まじい速さで速さで上下する旋律はロマン的な華やかさに満ちていて、アムランの精巧なテクニックで聴かされると、ふつふつと快感のようなものまで感じる。

しかし、何度もこの曲を聴いていると、「彼は、素晴らしくて、とてもいい人なんだけど~」的なつまらなさを感じることがなきにしもあらず。これらの曲が埋もれてしまった理由は、そんなところにもあるのかもしれない。もっともアムランのような者が弾けば、作品は生き生きとして蘇るのではあったが。

2003年9月9日火曜日

【音盤】アファナシエフのベートーベン ピアノ協奏曲


ベートーベン  
 ピアノ協奏曲第3番
 ピアノ協奏曲第5番『皇帝』

指揮:Hubert Soudant
ピアノ:Valery Afanassiev
演奏:Mozarteum Orchester Salzburg
Recording:December 12&13,2001(No.3)/June 10&11,2002(No.5)


アファナシエフとしては初のピアノ協奏曲録音は、モーツアルテウム管弦楽団と、東京交響楽団の首席客演指揮者もつとめるユーベル・スダーン氏との共演。2001年の同楽団定期公演のベートーベン協奏曲チクルスの一貫の中で録音されたものらしい。アファナシエフと聞けば、つい遅い極端な演奏を想像してしまう。ここに納められたベートーベンの協奏曲も例外ではなく、非常にゆったりとしたテンポで鳴らされている。ピアノに造詣の深い方の中には、どこが遅いとか、あの演奏と比べてどうだとか評することができることだろう。

聴いてみれば、確かに第3番 第2楽章など遅い! 私は今手元に比較できる盤がないので、感覚的なことしか書けないが、それでも中間部など眠ってしまうかのようなテンポである。第5番「皇帝」も例外ではない。

しかし全体を通して聴いてみるならばテンポの遅さを、それほど意外にも奇異にも感じなくなってくるから不思議だ。アファナシエフの演奏は、のべつくまなく遅いわけではなく、細かなパッセージの部分など軽やかに疾走する部分も聴かれる、むしろ緩急の綾が自在というべきなのだろうか。「皇帝」の第3楽章も、最初の出だしはつんのめりそうなテンポとして感じたが、慣れるにつれて曲が染み入るように体に馴染んでくるのだ。ヴィルトオーゾをひけらかして弾ききった演奏では、なかなかそうは感じない。

協奏曲第3番は、まだモーツアルト風の古典的な響きを残した曲に、ベートーベンらしさが萌芽しつつある曲だが、彼の演奏からは何かを予感させるような響きが説得力をもって迫ってくるように思える。第5番「皇帝」にしても、やたらと力瘤を固めたベートーベンとしてではなく、曲本来の優美さや構成力をしっかり伝えてくれているように思えるのであった。

この話題のアファナシエフであるが、今年の秋に来日してベートーベンなどを聴かせてくれることになっている。



2003年9月7日日曜日

【音盤】ホロヴィッツ・カーネギーライブ


Horowitz Carnegie Hall Recital
  1. シューマン:花の曲集Op19、
  2. ピアノ・ソナタ:第3番Op14
  3. ラフマニノフ:前奏曲 Op32-5、
  4. 絵画的練習曲 Op39-5  
  5. リスト:忘れられたワルツ第1番、泉のほとりで
  6. ショパン:ワルツ Op34-2、スケルツォ第1番 Op20
  7. ドビュッシー:人形のセレナード、シューマン:トロメライ
  8. モシュコウスキ:花火、絵画的練習曲 Op39-9
  • Recording:カーネギーホール 1975

ホロヴィッツの1975年カーネギーホールのライブ録音をアンコールまで全て収録した2枚組のCDである。ホロヴィッツは超絶的名技巧と少しアクの強い演奏で、好みが分かれる演奏家だと思のだが、ここで聴くシューマンの2曲は限りなく美しく、シューマンがこんなにも素晴らしいものであったかと再認識させてくれた。

二枚目の小品集は、非常に多彩で次から次へと形の変わる万華鏡を見ているようだ。アンコールにはホロヴィッツお得意のモシュコウスキなども納められているが、ラストの音が鳴り響く前に聴衆の叫び声と拍手がかぶってきており、ライブの興奮が伝わってくるようだ。軽妙な曲も素晴らしいが、ラフマニノフの絵画的練習曲やショパンのようなパッショネートな曲での打鍵はやはり凄まじく、緩急や濃淡の表現と対比など、まさにピアノの技芸とホロヴィッツ節を堪能できた。



2003年9月4日木曜日

【音盤】ケーゲル/ショスタコーヴィチ交響曲第7番















ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード

指揮:Herbert Kegel
演奏:Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig (MDR Sinfonieorchester)
録音:1972年 Kongreβhalle Leipzig Konzertmistschnitt

許光俊という評論家の影響か、ケーゲルという一般的には(そして独逸的にも世界的にも)あまり知名度の高くない指揮者が、日本の一部のファンの間では脚光を浴びている。

許氏曰く、
ついに、待望久しい超弩級の名演奏が日の目を見た。これほどまでに感情豊かに演奏された「レニングラード」は他にないだろう。(中略)こんなに身近で、人間的で、表情豊かで、楽しくて、悲しい、ロマンティックでセンチメンタルな音楽だったのだ
と。

そして、クラシックのイロハも分からないような私のような輩も、許氏とHMVに乗せられて盤を求めてしまっているというのが現実だろうか。私は定番さえ聴いたことがないというのに、ケーゲル盤について語ろうとしている。

さて、ゲルギエフ/ロッテルダム盤を聴いた後にケーゲル盤を聴くと、演奏の違いに若干驚かされる。ケーゲル盤は何と言っても、冒頭からして推進するエネルギーに満ち、それでいて軽やかで美しい。非常に素直な曲を聴いているようで、心洗われるような印象を受ける。この印象は、最後まで変わることがない。静かで強い推進力により曲はあっという間に進行するという印象だ。タコ7がちっとも長いと感じない。

全曲を通して表現の巾が広く、そして感情的だ。決してエモーショナル過ぎなエグイ演奏というわけではない。演奏解釈上は非常に正当なのではないだろうか。爆発する部分の表現も凄まじいが、弦や木管を中心とした旋律の部分の歌い方も、ときに哀しいほど明るく、そして、ずしりと重い。そこかしこに、ケーゲルの繊細さと誠実さが聴こえる音楽に仕上がっているように思える。

それは第一楽章のティンパニが鳴り始める「戦争の主題」に至る部分もそうだ。しかし、これが真の明るさなのか、表面的なものなのか。『酔っぱらいの千鳥足踊り』という許氏の表現は的確かもしれない。滑稽にして明るいだけに、カタストロフへ向うスピードと得体の知れない恐怖は、あたかも明るいお化け屋敷のようだ。許氏も指摘する13分以降のカタストロフには慄然とする。なんだろう、この凄さは。ゲルギエフ盤ではただ音量が大きいことで押しまくっていだけなのではなかろうかとさえ思える。ここにはただならぬものがある。何かが完全に崩れてしまった絶望と恐ろしいほどの悲しみがある。これは爆演という種類のものとは明かに異なった表現だ。演奏が凄いことも確かなのだが・・・。21分を過ぎるあたりからの弦による旋律も深く流れるようで心を打つ。そこかしこに、戦場に咲く花のような哀しい美しさや、瓦礫の中で聴こえる故郷のラジオのような懐かしさを覚える。なんとセンチメンタルな音楽であることか!

劇的な第一楽章と第四楽章にはさまれた、第ニ、三の両楽章も彫りの深い音楽になっている。特に第三楽章は、アダージョ楽章であるが、感情的にも複雑なものが込められているように感じる。特に私の好きなフルートソロの部分の静寂さと美しさは、どこか違う世界を夢見るかごときだ。感想が抽象的にして感傷的になるので、ここらあたりで留めるが、ケーゲルの音楽からは様々な風景や感情が沸き起こってくる。特に第三楽章のラスト2分の表現と懐の深さには目を見張る思いだ。よく聴くとケーゲルの唸り声が聞える。

第三楽章から最終楽章に向けては一気加勢だ。ゲルギエフ盤と比べるとこの楽章も4分も速い、スピード感を感じるのはそういうわけか。圧倒的なカタストロフと歓喜に向けての推進は、白馬に乗った騎士が髪をなびかせ駆け抜けるかのような颯爽ささえ感じる(<もう少しまともな表現ないのかね)。

クサイ比喩が出てしまうほどに、許氏も指摘するようにケーゲルの音楽は表情豊かだ。『ショスタコを一部のマニア向け作曲家』『やたらと暗い内向性の音楽』『石像かロボットかと思っていた音楽』というのも許氏がケーゲル盤以外に抱いている、ショスタコーヴィチの一般像であるらしいが、ケーゲル盤からは確かに違ったものを感じる。

当然、ここまで感極まった音楽のラストは素直に私は歓喜として捕らえる。そう、勝利の歓喜である。

2003年9月3日水曜日

ふたつのショスタコーヴィチ交響曲第7番

Gergiev
Rotterdam Philharmonic Orchestra

Kegel
Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig

HMV池袋店に行くと魅力的なタコ7が並んでいた。怪物的な爆演らしいスヴェトラーノフ盤や、最近出されたビシュコフ盤、そして、最近話題になったゲルギエフ盤、そして許光俊氏も絶賛するケーゲル盤などである。ここではゲルギエフとケーゲル盤を買って聴き比べてみた。

ショスタコはそれほど親しんでいる作曲家ではないのだが、両者とも凄い演奏であった。大音量で聴いていたら耳がガンガン、聴き終わってもティンパニの刻みが耳から離れず、まさに"耳にタコ"なのであった。

【音盤】ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第7番


ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード
指揮:ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管&ロッテルダム・フィル 録音:2003年 Live Recording ロッテルダムのデ・ドゥーレン
ショスタコーヴィチの交響曲第7番について、どのような背景の音楽として考えるかは大きな問題かもしれない。戦争を扱った表題音楽としての見方や、スターリン、ヒットラーなどから完全に自由になって解釈することの是非もあるとは思う。しかし、音楽をいつも成立背景と結びつけて聴くことについての疑問がないわけでもない。ゲルギエフの満を持して録音した演奏が、どのようなスタンスに立つ音楽であったか。
この演奏は、ロッテルダム・フィルとキーロフの合同演奏という形で、彼の最近の公演のパターンを踏襲した演奏になっている。合同演奏から醸し出される音響は圧倒的であり、私の現在の拙い音響装置を通してもその迫力がビシビシと伝わってくる。
第一楽章の冒頭の弦ユニゾンからして力強い。明るく重層的な深い響きに、しっかりした打楽器が打ち鳴らされ音響的にも盛りあがりを見せる。最初からこれはただ事ではない演奏であると期待は高まる。
中間部から始まる「戦争の主題」、スネアドラムに導かれボレロ風に始まるところが第一の聴きどころのひとつだ。徐々に緊張が高まって行くが、長調であるために雰囲気はグロテスクに明るい。次第に音量が大きくなって、刻みも力強くなるが、レニングラード包囲をやはり表わしているのだろうか。近づく軍隊を象徴しているのだとすると、こんなに諧謔的な音楽もないものだ。最初はオモチャの兵隊と思えたものが、いつのまにか鋼鉄の大編隊に変わっている。トロンボーンが奏でる当たりになると、繰り返されるテーマは変わっていないのだが不気味さが増してくる。それにしても、この劇的な破壊性はどうだ、裏で奏でる旋律が歪みまくり悪魔的な響きを醸し出している。どこまで音量が増大するのか計り知れない。切迫感と緊張をはらみ圧倒的な迫力で押し寄せるさまは凄まじいの一語に尽きる。
大音量は第一と第四の両楽章で極端で、第四楽章の次第に高まるテンションと壮大なラストは、まさに歓喜へ向けての爆発とも言える音楽になっている。どこかマーラー的な歓喜の片鱗を感じないでもない。
大音量で奏でるだけではなく、例えば第二楽章の叙情的にして寂しげなメロディなどは、実に丁寧にかつ美しいし、第三楽章のフルートソロも哀愁に彩られた美しい旋律を聴かせてくれる。少し力を入れて吹き過ぎているようにも感じるが、逆にそこに喪われつつあるものへのパッションが感じられる。
まさにブラボー連発の演奏と言えるが、では私はこの演奏で心底感服したかというと、今ひとつの印象も拭えない。彼のまさに得意とする分野の音楽において、更に音量的には全く申し分のない演奏ではありながら、どこか鬼気迫る切実なものが感じられない。それが何なのかは分からないが、もしも作品にロシア人の持つ、悲しみや絶望や希望が込められているのだとしたら、それが少し大味になって表現されてしまったという気がしないでもない。彼特有の、獣じみた、あるいはロシアの黒く冷たい大地をイメージするような生々しさが、少し薄いように感じるということだ。ロッテルダム・フィルとの混声だからというわけではないのだろうが。
決して演奏の質は低くないと思う、ゲルギエフの力量とオケの緊張は最高レベルかもしれない。別な日に聴くとまた違った感想を持つことだろう。
石原 俊は「クラシック・ジャーナル 002」において、『私の聴くかぎり、ゲルギエフの演奏に標題音楽的なわざとらしさは微塵もない(中略)ゲルギエフは七番を、普遍的な「交響曲」として描きたかったのではなかろうか』と書いている。演奏を聴いた後に彼の解釈を読んだので、先入観があったわけではないし、逆にこの曲を聴いた後でも、彼の考えに同調できるほどに、私はこの曲に親しんではいない。よってこれ以上コメントすることもできない。

2003年8月25日月曜日

【風見鶏】柳井一隆 写真展 ~ Metal road

アサヒカメラでも紹介されていた柳井一隆氏の写真展(KODAK PHOTO SALON Gallery1)を観てきた。この写真展は高速道路の夜景を撮ったもの。


ポストカードの写真を見ても分かるように、普段見慣れていて、むしろ酷い景観の代名詞とも言える高速道路が、妖しく光彩を放ちながらも圧倒的な重量感を有して細部まで曝け出している。

夜の高速道路(深夜ではなく、まだ人が生活を営んでいる時間帯)を、長時間露光によって浮かび上がらせているが、出来あがっている写真は驚くほど美しい。これが、渋滞と排気ガスで充満している高速道路であるとは到底思えず、擬似都市の写真を見ているような気にさせられる。

細部までにピントの合った写真は、見ていて快感を呼び起こす。高速道路や橋脚、光る螺旋階段などが、かくも美しいものであったかと認識を新たにする。

しかしながら現実世界においては、このような色彩は決して現出するわけもなく、柳井氏の美意識によって構築された "Metal road" と現実のギャップに、心がざわめくような異質な軋みを感じる。美の感覚は、ものごとをちょっとした角度から眺めることで再発見できるものであるし、また柳井氏が "高速道路" という素材に拘った理由も、ある意味で同時代的であると感じ、共感を覚える。

HIYORIみどり 「柳井氏によると、この写真はネガフィルムなんですって。焼き上がりをイメージできるのなら、ポジよりもネガの方が格段に扱いやすいんですって」
KAZAみどり 「写真技術のことはよく分からないけど、思ったとおり若手の写真家だったわね」

2003年8月23日土曜日

【音盤】スヴェトラーノフのシェヘラザードと法悦の詩



Nikolai Rimsky-Korsakov
 Mlada:Procession of the Nobles
 Scheherazade, Op.35
 London Symphony Orchestra
Alexander Scriabin
 Le Poeme de l'extase, Op.54
 USSR State Symphony Orchestra

Evgeny Svetlanov
Recording:
Royal Festival Hall,London, 21 February 1978
Royal Albert Hall,London, 22 August 1968


今年の夏は記録的な冷夏だとかで、夏休みも気温が上がらずに全く冴えなかった。北海道から来た身には涼しいに越したことはないのだが、都会のうだるような酷暑を心の底で期待していた私には、肩透かしな思いであったことも否定はできない。気温が上がって欲しいときに思ったような結果が得られないと、気分まで萎えてしまい、日の当たらないモヤシのような気分になっていた。

しかし、今週半ばから、思い出したかのように暑さがもどってきた。休日の今日などは軽く30度を越える暑さで息をするのも苦しいほどであった。こうなると気分は単純に盛りあがり、「ガーッ!!」とした音楽を能天気に聴いてみたくなるものである。

そういう訳で登場するのが、スヴェトラーノフの「シェヘラザード」と「法悦の詩」である。スヴェトラーノフの演奏であるから、ここは細かいことを考えないで音響の洪水に浸りたい。

「シェヘラザード」の爆演としてはゲルギエフ版が記憶に新しいが、こちらも負けずとエネルギー全開の演奏になっている。弦はうなる、シンバルははじける、打楽器は轟然とロールする、ハープは手から血が出るのではと思うような音を奏でる。それでいて音楽には破綻を来さない。もっとも少し力任せのように聴こえる部分もある。例えば、第三楽章の"The Young Prince and the Young Princess"でバイオリンが甘いメロディを奏でる部分などは、もう少し絡みつくような熱情やロマンが欲しいと感じる部分がなきにしもあらずではある。にしても演奏はLSOであり決して性能は悪くない。特に第四楽章のスネアドラムの硬質な刻みと弦の凄まじいばかりの強奏、麻薬でもやっているのではと思うようなクラリネットの節回し、血管がブチ切れそうなトランペットのタンギングなど軽い眩暈さえ覚える。クライマックスの大音量はもはや底を抜けている。冷静に聴けば結構粗いところも気付くのだろうが、全てはラストの静けさに入る前の一撃で吹っ飛んでしまう。

「法悦の詩」もゲルギエフ版があるが、私はこの曲になかなか馴染めないでいる。男女の営みを音楽的に表現したものだと言われるが、経験が浅いせいか(^^;;どうもその気になれない。スヴェトラーノフ版を聴いてみたが、もしこれが「男女の営み」だとするならばあんまりであるとは思った。音楽は相変わらずストレートに押し寄せる音の洪水を聴かせてくれているし、スヴェトラーノフファンならば垂涎の演奏とはなっていると思う。それに、クライマックスのモノ凄さときたら、もはやバーバリアンなエクスタシーに満ち溢れ、更には超新星爆発を起こし宇宙と一体になったかのような感覚さえ覚える。要するにブッ飛び演奏ということだ。たぶんこれが「行為」だとしたら全てのエネルギーを発散し尽くして死んでるな。そうは思ってみても「法悦~」に、乗りきれない自分を感じる。演奏そのものよりも、演奏終了後の聴衆の気が狂ったような絶叫と拍手に驚いてしまう。紳士然としたロンドンの人の秘めたる情熱か?

それでも、狂おしいほどの暑き夏の夜には、これ以上ない濃い音楽ではあった、嗚呼汗だくだよ。

【風見鶏】表参道の界隈

久々に表参道をウロウロしてみた。33度は越えるのではないかという中、JR原宿駅を降りると、何やら聴きなれた民謡調ロック音楽が流れている。まさか!と思ったら「スーパーよさこい2003」というイベントであった。ほへ~と関心、ついに、よさこいも竹の子の聖地に戻ってきたか(藁)
そのまま表参道を青山一丁目方面へ歩く、青山には超高級ブティックが目白押しだ。超某人気ブランド店の前で親子連れが記念写真を撮ろうとして、警備員に咎められていた。写真くらいいいぢゃないの・・・。
高級ブランドは大胆な建築意匠を用いてイメージを高めようと躍起だ。ブランドには全く興味がないのだが、建物を見ているだけでも興味はつきない。
しばらく歩くと同潤会アパートのあったところは、工事現場に様代りしていた。延々400m近くもあったはずの同建物がなくなった景色は異様だ。安藤忠雄氏設計の建物ができるのは2006年1月とか。
更に進んで246の手前には、今の日本の建築会では無敵である隈研吾氏設計による商業ビルが完成を間近に控え聳え立っていた。
さて実は今日の目的は、246を越え根津美術館の近くに出来たプラダ ブティック青山店をこの眼で見ることである。この建物は、今をときめく建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計で、日本の建築家たちに大きな衝撃を与えた建物だ。(ゴメンなさい、写真は「日経アーキテクチュア750号」のものです) 




写真を見てお分かりのように、常識的な形態を全く逸脱したガラスのボックスだ。わたしもこんな建物を見るのははじめてだ。
意を決して(藁)中にも入ってみたが、近未来映画のセットにタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。ちなみにふと手にとったサマーセーターの値段も、一瞬頭が白くなるようなものでもあったが(獏)
こうして1.5km程度の距離を歩いてみると、日本の商業ビジネスシーンの実験場のような体裁を現していることに気付かされるのであった。


HIYORIみどり 「とにかく、建物もいいけど暑かったわね。歩くだけで水を1リットルも摂取したわよ。日差しはお肌に悪いし、こりごりだわ」
KAZAみどり 「オープンカフェで飲んだ、アイスモカショコラが美味しかったわ。スタバの2倍以上の値段だったけどね」

2003年8月19日火曜日

某室内楽ホールの音響改善後の演奏会

東京都内の某室内楽専用ホールで音響改善工事が行われたとかで、改善後のお披露目兼音響測定会の機会を得たので行ってきた。

音響設計者にも会ったので今回の改修の経緯を伺ってみた。ホールは出来てから10年近く経っているのだが、ホールが出来て直ぐにピアノ演奏用に向くようにデッドなホールに改装してしまったたらしい。そのため弦関係の演奏家からは苦情が多かったとのこと。このたびホールの所有者が室内楽専用ホールに改めたいとの意向を示し音響改善を行った(というか改装前の原設計に戻した)とのこと。目指したのは、ホールの音響性能の指標のひとつである残響時間で示すならば、約1.2秒程度にすること。測定の結果、空席時および客が入った状態でほぼ想定の残響時間が得られたらしい(ホールの性能は残響時間だけで測られるものではないのだが)。

さて、そういうホールでの演奏は、アマチュアの弦楽四重奏によるモーツアルトのティベルティメントと、N響コンサートマスターの篠崎史紀氏によるヴァイオリン演奏会であった。弦四はアマチュアながら、ハイレベルな演奏。篠崎さんのソロに至っては言うことは何もない。アンコール三曲を含め、ヴァイオリンを堪能させていただいた。

音を聴いた感想としては、個人的には木質系の柔和な響きを特色とするホールになっているように思えた。一方で伴奏のピアノの音がモコモコと聴こえ、もう少し響いても良いのではないかと思ったものである。今回の改修は残響時間を長くする方向のものであったと後で聞き、何と私の耳は主観的で当てにならないかと思った次第。ホールの良し悪しなど聴き分ける高度な耳など持ち合わせていないようだ。

2003年8月16日土曜日

【本棚】夏目漱石:それから


何故に今さら漱石なのかと思うだろうが、盆休みに読むものがなかったので、書棚にあった本書を戯れに読み始めたら、思いのほか面白かったのということなのだ。文庫の発効日が昭和5×年とあるので、中学三年生の頃に読んだようだ。

当時は漱石を結構読んでいたようで、「虞美人草」「坑夫」「明暗」など、あまり読みやすいとは言えないような作品も本棚で埃をかぶっている。"読んでいたよう"などと他人事のような書き方をするのは、今回改めて「それから」を読んで気付いたのだが、小説の細部をほとんど覚えておらず、始めて読むがごとき新鮮さを味わうことができたからである。というよりも、中学三年生で「それから」を読んでいたとしても、読めたことになっていたのかとも思う。

ご存知のように「それから」は恋愛小説であり、前作の「三四郎」と続作の「門」で三部作となっている漱石の代表作のひとつだ。主人公の代助は30歳でありながら、働きもせず親からの支援でのらりくらりと生きている。その彼が、親友の妻である三千代と道をはずれた恋の道に落ちるというストーリーだ。

漱石は、代助という「食うために働くのは堕落だ」と思うような主人公を設定し、自分の信念も、家族も、親友も、全てを裏切って愛の道を取るというテーマを書ききった。今でもかつても不倫であることに変わりはないが、その重さも意味もまるで異なる時代においてのそれは非常にスリリングだ。後半に代助が三千代に愛を告白する場面、嫂に自分の思いを語る場面など、まさに手に汗握る展開である。

しかし、少し本を置いて考えてみると、これを単に代助と八千代の不倫の物語と捉えるのだけでは済まない問題が含まれているようにも思える。職を持たずに親の援助だけで生活しているモラトリアム人生の代助と、彼の親友であり、いち早く実社会で成功と挫折を経験している平岡との葛藤や対立、そして代助自らは意識しないところでの平岡に対するコンプレックスなどと絡め、何故代助が現在の安住した生活を捨て、八千代との茨の道を選んだのか考えなくてはならないようだ。

代助は父親の進める政略結婚によって父や兄の住む実業の世界に絡み取られることこそに反発を覚えた。食うために働くことは堕落であると自覚しながらも、結果としてそれを放棄しなくてはならない八千代との愛の路を選んだことは、彼の矛盾した心象を表している。いやむしろ、他人に絡み取られることを拒むが故にこそ、自らの墓穴を掘り、新たな世界に飛び出すために八千代との愛を選択したというように読めないこともない。

自立するために職を選ぶにしても、今の自分の世界を捨てる理由が欲しかったということなのだろうか。社会的道徳理念とは反するが、自らの心情に従った純粋な愛の形を漱石が書きたかったのかどうか、詳しい漱石論を読んでいないので真意はわからないが、代助の屈折した感情が印象的ではあった。このような、一見積極的な愛の形に見えるものが、一方で消去法的な逃避的な愛の形にも見えるてしまうのだが、気まぐれな彼の情熱が覚めた先の世界については、本書では語られていない。

それにしても漱石はなかなか面白い。休日にぶらりと、この小説の舞台となった今の神楽坂でも見てこようかという気にさせられた。

2003年8月10日日曜日

【本棚】桐野夏生:顔に降りかかる雨


本作は93年、第39回江戸川乱歩賞を受賞した作品である。桐野氏といえば、もはや押しも押されぬミステリー作家としての地位を築いているとは思うが、これは彼女の初期の作品に当たるのだろう。

ミステリー界には三F現象とか四F現象という言葉があるらしい。すなわち作者、主人公、読者の三者がいずれも女性なのが三F、これに翻訳者が加わると四Fなのだとか。


言われてみると、この小説は女性が書いたという雰囲気や匂いに満ち溢れている。登場人物を紹介するときの描写の仕方、服装や香水・アクセサリーなどの小物についての記述など、ブランド名が明確に用いられており、記号として知る人ならばイメージが膨らむように書かれている。あるいは、主人公の村野ミロと一緒に失踪した女性を追う村瀬の描写の仕方、そしてラブシーンへと至る描写・・・あざといほどの「女性の視点」という描写が、逆に私には鼻についてしまう。主人公の村野ミロが、最初は嫌悪しながらも成瀬に惹かれてゆく過程も、やっぱりなあ・・・という思い。

こういう気分は何なのだろうかと、読みながらずっと考える。男社会の描写や視点に慣れすぎている事から来る違和感か、我々男性がしがらみに縛られて逆立ちしてもできないような垣根を、女性たちが軽々と越えてしまうことへの羨望か、あるいは営々と築きあげられてきた男性社会に対して、そういう生きざまをみっともないと思わせられることへの悪あがきか。

もっとも桐野氏はそんなことを意図して書いているのではないようではある。女性にも気持の良い、フットワークの軽い、そして面白いミステリーを書いているだけなのだろう。従ってミステリーとしての面白さは十分、そこにアングラ的なSM風俗や、東独逸のありようとの対比、女性の野心と願望などが織り交ぜて書きこまれており、読物としても悪くはない。

しかし読後感としては、ミステリーとしての味わいよりも彼女の文体そのものの印象が強すぎるため、ゲンナリしてしまう。女性のビビッドなパワーに当てられたというところだろうか。彼女がロマンス小説やレディースコミックの原作者としても活躍している、との解説を読み、成る程と納得した次第。世の中の、女性と男性の妄想の違いに思い至る小説でもあった。

こうしてレビュを書いて気付いたが、私はミステリー読んでも、ミステリーのトリックや質そのものには全然関心も感心もないのだな・・・

2003年8月4日月曜日

【本棚】貫井徳朗:迷宮遡行


貫井氏は「慟哭」が絶賛を博したため、第二作目を書くことにかなりのプレッシャーを感じたらしい。彼は悩んだ末に「烙印」(1994)を書き上げるが、作品として成功したものとは言えず、そこで今回「迷宮遡行」という作品に全面改稿しとのこと。

貫井氏は今となっては、書店の人気ミステリーコーナーを賑わしている作家であることは認めるのだが、この作品を読んでも、私にはピンと来なかった。

貫井氏は、本作においては、会社をリストラされ、恋女房にも逃げられた冴えない男性を主人公とし、女房を探すうちに、まわりには暴力団の陰がちらつき始め、そして意外な結末へと向うのだが、それを意図的に軽妙な語り口で書いている。

(主人公がヤクザに脅されながら吐く言葉)

「そんなつもりはありません。で、でも教えてくれるなら、ちょっと嬉しいかなぁ―――って嘘です。冗談です。」(P.152)

こういう文体や作風については好みが分かれると思う。喜劇として読むならば良い。それだけに、「慟哭」でもそうであったが、どうしてもラストが承服できない。

いったい貫井氏は何を書きたいのだろう。意外さや奇抜さで読者をあっと言わせたいがために、ハードボイルドやミステリを選択しているのだろうか。手品やコントを見るような楽しみはあっても、私はその先に進めない。

それに、貫井氏は若いのに(というのも変だが)、どうして「全てを失った男」が好きなのだろう。喪失と再生というテーマならば良い。貫井氏の場合は、喪失から喪失へなのだ。それは悲劇であろうが喜劇であろうが、私には救いが見出せない。

水の塔

 

哲学堂水の塔

2003年8月1日金曜日

【本棚】横山秀夫:動機


陰の季節」で否定的なレビュを書いた気持のまま、ほとんど期待もせずに本書を読み始めたのだが、その感想を全面撤回させていただかなくてはならない。横山氏の小説は、非常に面白いし着想にしても、確かに言われてみれば今までになかった視点だと、やっと分かった。

今回の4つの小説は、警察もの(「動機」)だけではなはない。前科物の出所後の運命的な物語(「逆転の夏」)や、地方新聞の女性記者(「ネタ元」)、そして地方の裁判官が主人公(「密室の人」)だ。これらの物語に共通しているのは、生じる事件がごく身近なものであり、時にそれは「陰の季節」でもそうだったように、内部組織の不祥事に近いものだったりする。それのどれもこれもが、人間の一寸した「魔」をついて生じた事件に端を発している点が、題材に対し感情移入しやすくなっている。また、彼の書く人物は、殺人前科者であっても裁判官であっても、結局は「ただの人」として描かれ、それが極めて印象的なのである。

例えば「密室の人」の「魔」とは、裁判の審理の間についつい居眠りをしてしまうということから、話しは予想もしない方向へ展開してゆくし、「逆転の夏」においては、事件の発端が女子高生の中絶手術代稼ぎの売春に、これもひょんなことからひっかかってしまった男が、金銭トラブルから女子高生を成り行きで殺してしまったという事件が鍵となって物語は進行する。

「ネタ元」にしても、地方新聞の女性記者を中央新聞が「引き抜き」をかけるということを題材して扱っている。引き抜きという人間の虚栄心や出世欲などを微妙にくすぐる誘いに対し、男社会で果敢に奮闘している主人公の心が揺れる様の描写は見事だ。

横山氏の書く小説は、人間に対する活写が(少しステロタイプに感じることもあるのだが)非常に生き生きとしており見事だ。ごくふつうの人生を真面目に送ってきた人たちの姿、あるいは、暗い過去や哀しい過去を背負った人間の苦悩や悔しさというものが、実にギリギリとするほどの迫力で描き出されている。そして、やはり彼の小説からは、そういう人間たちに対する暖かい視線があるのだ。

こういう営みや描写が。「陰の季節」では、わざとらしく、そして少し古いタイプの小説であると感じ、違和感を覚えたのだ。彼や彼女らが守ろうとしているものや戦っているものが、あまりにも小さな組織内のできごとであり、矮小な世界の出来事であるため、目を塞ぎたい気持になってしまったのだ。

しかし、こういう世界に目をつぶってしまったならば、そして、普通の営みを否定すると嘘いてしまったならば、いったい自分自身は何を守っているというのか、自分の矜持はどこにあるのかと問わねばならないだろう。

「聞いたふうなことぬかすんじゃねえ! てめえらの仕事って何だよ。俺らは体張ってんだ。街ィ守ってんだよ。てめえは何守ってんだ? 本部長か? てめえ自身か? 言ってみろ!」

「馬鹿野郎、そんなもん家族に決まっているだろうが!」

増川の手がふっと緩んだ。(「動機」P.53)
「鬼畜じゃなかった。山本はただの男だった。気が小さくて……誘惑に弱くて……どこにでもいるつまらない男だった。獣でも鬼畜でもないただの……」(「逆転の夏」(P.179)

こういう描写が、ちょっとクサイというかわざとらしく、鼻白む思いもするのだが、今回は許す。何故なら、私はここの表現に救いを見出し、そして打たれてしまったのだから。

ああ、大事なことを書くのを忘れていた。横山氏の小説は人情ドラマではない。あくまでも、そういう世界を基盤とした上質なるミステリーである。横山氏が今では押しも押されぬミステリ作家であることは誰もが認めるところだが、やっと端っこを掴むことができた思いだ。

(……にしても、こうまでレビュ変わるかよ(--;;;

2003年7月24日木曜日

【本棚】横山秀夫:陰の季節


解説曰く

横山秀夫『陰の季節』が決定的に新しかったのは、警察小説でありながら捜査畑の人を登場させなかったことだ。(中略)横山秀夫の警察小説は、捜査小説というよりも、「管理部門小説」といっていい

(中略)読み終えても残り続けるのは、管理部門で働く人間の悲哀をも描いているからである。その切なさが、我々と同じような些細な悩みをかかえる日々の営みが、鋭く活写されているからこそ、読み終えるとふと隣の人に話しかけたくなるのである。(北上次郎)

これは褒めているのだろうな、と思う。帯も「驚愕の警察小説」だ。私はこういう小説に少しばかり馴染めない。「中間管理職の悲哀」というステロタイプのテーマだけでゲンナリだ。スポーツ新聞や夕刊フジ、整髪料と育毛剤の匂い、肩から下がる型の崩れた黒い鞄。会社では人事と自分の保身に全神経を集中させ、陰では罵倒しながらも表では上司を媚び、組織を維持することを是とし、小さなムラの中で階級がひとつ上がること人生の目的とする。

毎日そんなものを、嫌でも見せられて、そして自らもその一部をしっかり演じていて、いまさらミステリ小説で、その姿を活写されたところで、もう結構だよという気になる。小説の中での彼らの奮闘振りに共感を覚えるより、私達は何と下らなく、ばかみたいな問題に汲々として、何かを捨てて残り少ない人生を走っているものかと改めて思ってしまう。

もっとも、殺人や猟奇ばかりで救いのない小説などよりは、かなり良質な作品であることは認める。また作者の人間に対する暖かい視線が滲み出ており、単なる警察小説の枠を越えた味わいがあるとも思う。ただ、何と言うか浪花節というか演歌的というか・・・そういう点が、私が好きになれない点なのだろうと思う。

「動機」も合わせて買ってしまったので、こちらも読んではみるが。

2003年7月17日木曜日

【本棚】貫井徳朗:慟哭


本作は93年に発表され世間を驚かせた作品である。作品の内容や質、仕掛けられたトリック、そしてこれが貫井氏のデビュー作であり、かつ彼はまだ24歳程度であったということにミステリファンは驚いた。文庫本の高村氏の帯びが振るっている(上)。たった3行のキャッチに惹かれて私は本書を手に取った。私にとっての貫井作品を読むのははこれが始めて。

物語は、心に大きな傷と空洞をかかえ職も放棄してさ迷う松本という男と、警察内ではエリートコースを走る佐伯警視(キャリアで刑事部の捜査一課長)の二本立てで進んで行く。佐伯は妻の父親が警視庁長官というであるため、さまざまな妬みや中傷を浴びながらも、孤独に峻烈なまでな厳しさで自己と他者を律して行動する男として書かれている。私生活においては、家庭とは全く疎遠になり、妻とは別居状態、娘からは憎まれてさえいて、愛人宅から通うという生活だ。一方の松本は、絶えられない心の傷を癒すため、新興宗教に救いを求めて行く。そして両者の物語は連続幼女誘拐殺人という今時の事件を鍵として収斂して行く。

読みながら、ラストに佐伯の警察人生を変えるほどの「悲劇的」物語が仕組まれているのだろう、おそらくは佐伯の娘が誘拐され、そこに「慟哭」ともいうべきものが生じるのだろうとは想像できた。ラストまでグイグイと読ませる。文庫本解説でも、ネット上の多くのレビュでも、トリックの奇抜さ、殺人に至るまでの心理、まさに慟哭というべき悲しみ、ミステリを越えたテーマ性、そして独特の文体について絶賛している。私も最後のトリックにまでは思い至らなかったため、作者の陥穽にまんまとはまってしまったと言えなくもない。

でもなのである。ミステリの上手さは認めるものの、私はこの小説に心酔も承服もできない。読後の救いのなさと、希望のかけらもない虚無さに私は耐えられない。

一旦、小説の構築に合い入れないとなると、否定的な面ばかりが目に付く。例えば黒魔術だ。作者は小説を書くに当たって新興宗教をボーリングしたふしはあるものの、宗教に対する偏見を感じるし黒魔術が登場した時点でリアリティが飛んでしまった。娘を失うという深い喪失感のため宗教に救いを求めるということまでは是認したとしても、その後に、黒魔術を駆使して娘を蘇らせるなどという行為に走ることをどうして承服できよう。亡くした子供を蘇らせるという物語だと、ホラー小説だがS・キングの「ペット・セマタリー」を思い出すが、こちらもこれも全く救いのない小説で読後感はサイアクだった。

自分の子供を誘拐殺害された父親が、別の目的で連続誘拐殺人を行う、このことも認めがたい。子供をなくした親が、連続誘拐殺人犯ではありえないと言ったのは、はからずも佐伯の恋人であったはずだ。

妻とも不仲になり、愛人からも見放され、職場でも自らの厳しさゆえに孤立し、自分を唯一支えていると考えた娘(それは彼の一方的で勝手な思い入れなのだろうが)さえも、自ら陣頭指揮をしていた事件に巻き込まれ死なせてしまう。しかも、妻から娘が誘拐されたかもしれないというメッセージを無視し、捜査一課長としての体面を取り繕うために初動が遅れたという落ち度を犯すというオマケまで付けてだ。この時点で、彼は最後の砦である職場での立場さえ失い、まさに自分を支えるもの一切を喪失することになる。ここまでの悲劇に見まわれたならば、私ならばとてもではないが耐えられないだろう、もはや正気でいられるとは思えない。

よほど気がふれてしまった方が楽であったろうにと思う。彼の脳は現実から逃避するという方向には向わない。ただ救済されたいがために宗教へと、そして娘を蘇らせる目的での魔術と殺人に走る。悲しみの深さには同情できても、そこから筋に乗ることができない。自分も同じ立場になるとオカルトにでもすがるのであろうか。

もうひとつ、気になるのことがある。そこまで佐伯が娘を愛していたのならば、普段の家庭を無視した行動は何だったのかということだ。仕事に没頭し、夫であることと父親であることを放棄し、疲れた自分を癒すのは家庭でなく不倫相手。そういう彼が、実は子供だけは心から愛していると言うのは、彼にとっては本心なのではあろうが、娘や妻にとっては自己中心的な愛でしかなく不実以外の何物でもないように思えてしまうのだ。彼は事件の後、妻との関係を修復する方向にも、犯人をとことん追い尽くすという方向にもパワーを向けることができず、深い喪失感ゆえ捩れた考えを持つようになってしまう。あくまでも自分中心の考えのように思えてしまうのは、私だけだろうか。

これらの仕組みは、トリックがすべて明かされた読了後に始めて分かる事柄だ。従って、ミステリとして読むならば極めて秀逸であると思う。ただやはり、救いのなさにおいて読後感はサイアクで、私はこういう小説を好きになれない。

2003年7月13日日曜日

東京交響楽団第505回定期演奏会

日時:2003年7月12日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ユベール・スダーン   ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
演奏:東京交響楽団

ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
ベートーベン:交響曲 第7番 イ長調 作品92




ピアノのオピッツ氏といえば、1994年のNHKテレビ「ベートーベンを弾く」という番組で出演されていたので知っている方も多いと思う。彼は「ドイツ・ピアノの正統派」としてその筋では有名である。そういう彼がブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するというので期待してでかけた。
ブラームスのピアノ協奏曲第2番は、1番と違って明るく美しい曲であるが、「ドイツ正統派」がどういうことなのか全く理解していない私は、ガッチリと構成的で硬い演奏を思い浮かべていたのである。しかしオピッツ氏の奏でる音楽は、そんなイメージのものでは全くなかった。

この曲は冒頭で薄靄の中から立ちあがるホルンの響きと、それに導かれて登場するピアノのカデンツァが印象的だが、今日この部分を聴いた時、大げさではなく私はこのまま死んでもいいと思ってしまった。それほどの至福の音色が聴こえてきたのだ。オピッツ氏のピアノは風貌とも風評から抱いたイメージとも全く異なり、そっと撫でるような、あるいは天使がもらす溜息のような(ゲロゲロ!恥かしい表現!)柔らかなタッチで、全く私を別次元の世界へと誘ってしまったのであった。自我や自己を主張しすぎず、バックのオーケストラに柔らかく溶け込むかのような音色は、夢見るごときであった。

決してもって弱々しく女性的という演奏なのではない。締めるところは締め、そして感情の高まるところでは激しくあるのだが、全体的な印象としてはブラームスのアンニュイな感じや、優雅さ、そしてどこか懐かしんだり物思うような雰囲気が非常によく表現されているようで、そういう語りの部分がとにかくCDなどを聴いていては決して感じることができないような雰囲気として伝わってくるのだ。

そうなんだよなと思う。ブラームスは押し付けがましくないのだ。技巧をバリバリとひけらかしたり、力瘤をためて挑みかかるようなことはしないのだ。嗚呼、今までブラームスをベートーベンのように聴いてはいなかったか、と彼のピアノを聴いていて思った。

だからというわけではないが、3楽章はチェロの主旋律が美しいくチェロ協奏曲とでも言いたくなるような部分なのだが、オピッツ氏のピアニズムとは少し異なった表現に聴こてしまったのが惜しい。チェロの音色はふくよかで、それだけを取り出して聴くと全くもって実に素晴らしい演奏なのだが、オピッツ氏のピアノと対話する部分になると、違った話しをしているように聴こえてしまったというのは、私だけの感想だろうか。

満足いかなかったのはそこだけで、全体にピアノを中心とした懐古や対話、そして訥訥とした語りなどを、明るい光の注ぐ部屋で、香り高い紅茶でも飲みながら聞いているような、あるいは寄せては返す波を見ているような、激しすぎずに流れる奔流か、色々なイメージや光を見せてくれる演奏であった。激しい感動ではないが、深い心地よさにブラボー!

さて、お次はベートーベンの第7シンフォニーだ。第一楽章を聴いていて私は思わず笑ってしまった。演奏にではない、こんなに単純にしてくどいフレーズの繰り返しなのに、期待して高ぶってしまう自分がおかしく、そして何とブラームスとは異なるのだろうと改めて思ったのだ。

スダーン氏の指揮に注目すると、彼の指揮は非常に分かりやすいように思えた。キビキビと弾ける様に奏でて欲しい時には、あたかもバスケットボールのショートパスのような振りで指示を投げかける。第2楽章では、主旋律が重々しいテーマを奏でるとき、ビオラなどが裏旋律を奏でるのだが、スダーン氏は主旋律の方は見向きもせず、ビオラにガシと正面から対峙し音を引き出してくる。そういう指揮振りから音楽が多重的かつ立体的に浮き上がってくる。

まあそれ以外にもイロイロあるのだが、ベト7には細かいことはいらない(^^;; 小気味良く歯切れの良い音楽がビュンビュン進んで行くことを楽しめればよいとも思う。スダーン氏の指揮においても、この軽快さは第3楽章からラストまで延々と続く。あたかもはずみ車が、慣性によって一度廻り始めたらもはや止まらないとでもいうかのようだ。非常に健康的な感情の発露を全身で表現しているかのようで、例えばかりで恐縮だが(悪文の典型ってやつだな)陸上の400m走のように、ひと時も力を抜かずに走り抜けたかのような感じを受けた。

実際、弦セクションは猛働きであったようで、演奏が終了し拍手喝采を浴びているときに、コンマスの大谷さんは汗を拭うような仕草をしていたし、大谷さんの隣の奏者は「手がしびれちゃいましたよ」みたいな仕草で大谷さんに笑いかけていた。

東京交響楽団を聴くのは今日が二度目なのだが、ヴァイオリンセクションの上手さには改めて感嘆した。少しハイキーで透明な感じの音色を特色とし、特に弱音での美しさが際立つ。ブラームスで聴かれた、ピアノをバックに静かに裏で支えている部分など、涙ものの美しさだった。ヴァイオリンだけではないが、フレーズの出だしのアンサンブルの合い方は、若々しさと小気味良ささえ感じる、実に丁寧だ。そして演奏からは音楽以上の、いや音楽というものの喜びそのものが伝わってくるような気がするのだ。それがコンマスの大谷さんのキャラクターによるものなのか、このオーケストラを育てた秋山和慶氏の影響なのか、それは分からない。

今日は定期演奏会ではあったが、明日は新潟公演になる。それだからだろうか、アンコールにはシューベルトの「ロザムンデ」から第3楽章が演奏された。アンコールについて語るのはもはや野暮というものであろう。