小説ではなく、「新潮45」に97年から98年にかけて1年間連載した「言論」である。読んで、横っ面をひっぱたかれたような感触を受けた。
柳が言論をしかけている小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」や、その他の者たちの文章や主張は、オリジナルを読んでいないため分からない部分が多いのだが、彼女が何に苛立ち、何を言わんとしているのかは十分に伝わってくる。
もっとも時にその鋭すぎる舌鋒が気にかからないでもないのだが、先に読んだ「命」や「魂」で感じたような、全身鎧をまとい自ら隠れることも逃れることもせずに、傷つくことさえ自明の事としたその主張は鮮烈である。
例えば、カレル・ヴァン・ウォルフレンと猪瀬直樹の対談で、「官僚をコントロールしていいるのはアメリカだ」とウォルフレンが答えたことに対して、猪瀬はコメントを控えた、みたいな記述がある。猪瀬といえば「ミカドの肖像」を始めとする、鋭い日本論で記憶されている作家だが、ウォルフレンの指摘など、猪瀬にとっては自明だと思うのだが・・・
小林よしのりや渡辺昇一、渡辺淳一などを批判しているのはよろしいが、村上龍や田中康夫の何に噛み付いているのかは、彼らの主張や反論が掲載されていないので、よくは理解できない。
この手の批判の書は、往復書簡のような対比で読ませてもらいたいと思う。
神戸市須磨区の幼児虐殺犯人による「懲役13年」も、残念ながら私は読んだことがない。
ここから炙り出されるのは、1997年当時の日本の状況だ。本書を通して今を見直すと、より悪い方向に向かいつつある「仮面の国」としての日本が透けてくる。常に真相を隠し、責任を回避しようとしている姿は、彼女が批判する言論の場に身を置くものたちばかりでなく、政治家もジャーナリズムも、また家庭にも当てはまる。
彼女は、見せ掛けの論理じゃなく、真の敵を打てという。また、人間蔑視、えせ人権主義者を猛烈に批判する。
日本国全体が、彼女の言うような状況に陥っていることは、残念ながら確かに認めざるを得ないのかもしれない。
言論の持つ力に彼女は限界を感じてしまったようだが、では何に日本を変える力があり、どうすると再生可能なのか。先にあげたウォルフレンも、しきりに自著で日本人の覚醒を呼びかけているが、大きなうねりには程遠い。
しかし、最後に彼女がやむなく批判した村上龍や、現状認識の甘さを批判した田中康夫は、彼らなりに次なる一手を講じているように思える。小説家という母体から一歩飛躍した活動として。
1998年当時も自民党からは絶対に離れないだろう、と指摘された加藤・山崎両氏も、予定調和の範囲内での反乱と言われはするが、今まででは考えられにくかった動きをはじめた。
世の中が変わるのかなどと、傍観者的に見ている場合ではない。少なくとも自分のスタンスについては見極めなくてはならないと思い知らされた。
彼女は言論を1年で離れ、文学に変えると書いているが、彼女自身はどこに向かうというのか。
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