2006年3月27日月曜日

NHK芸術劇場:吉右衛門の「日向嶋景清」


昨日のNHK芸術劇場は、中村吉右衛門が松貫四の名前で書き下ろした「日向嶋景清」を生み出して行った過程と、吉右衛門の本作に賭ける思いを密着取材したという点において、非常に見ごたえのある番組でした。


歌舞伎座での公演を昨年11月の吉例顔見世公演で運良く観劇することができ、大いに感銘を受けたものです。




「日向嶋」の原作は人形浄瑠璃の「嬢景清八嶋日記」。吉右衛門の実父である八代目幸四郎が1959年に新橋演舞場で二日間だけ試演したことがあるという演目です。歌舞伎の時代物の新たな境地を目指そうとしていた八代目幸四郎の役者生命を賭けた舞台であったと吉右衛門は語ります。


娘のことを思って見えない眼をカッとばかりに見開く場面があります。八代目は、あの時代にあって眼の玉の大きさばかりの赤いハードコンタクトを、麻酔を打ちながら眼にはめて舞台に望んだことですとか、娘の糸滝を哀れんで遠ざかる船を追おうとする、その場面での気迫は渾身の力で押し留めなければ舞台から客席に落ちてしまうほどのものであったとか、若き吉右衛門にとっても強烈な印象を与えたものであったと言います。


そんな実父に対する思いと、歌舞伎に対する思いが、おそらく還暦を前にして吉右衛門の中で発酵し、「八嶋日記」の歌舞伎化として結実したのだということがよく分かりました。


吉右衛門は語ります。「昔の演目は全てが新作だった。今は型などが伝承されて演ずるだけになったが、新作を演出し演ずる苦労をすることによって、型の大切さなども再認識する。」のだと。伝統をただの継承に終わらせない、次世代へつなげるという筋肉質で強靭な精神をそこに観た思いがします。


「ヤワではやっていけないよ」


ジムで汗を流しながら台本を読み続ける吉右衛門が漏らした台詞も印象的でした。

2006年3月22日水曜日

iPod用 Apple純正インナーイヤ型ヘッドフォン


iPod用のヘッドフォンとしてApple純正のインナーイヤ型ヘッドフォンを購入してみました(5000円以下)。いわゆる耳栓型ですので遮音性は極めて高く、周囲の騒音はかなりシャットアウトされる点は予想以上のもの。地下鉄のアナウンスにより音楽が全く聞こえなくなるということはなくなります。(そもそも、毎日毎日、なんであんなに頻繁に、しかもあんなにウルサク放送するのだろう・・・)


ところがインナーイヤ型であるため、歩行時に踵が地面を踏みつける音が骨伝道として耳に伝わる、コードが衣服などにすれる「ガサゴソ」といった類の音も非常に耳障り。自分の呼吸音や咀嚼音も結構気になる。ということで、アウトドアな環境では、ほとんど使いものにならないというのが正直な感想。



音質に関しては付属のヘッドフォンよりも格段向上というレビュがほとんどですが、私としてはクラシック音楽には全く向いていないと言わざるを得ません。具体的には、ピアノやオーボエの音に対し、共振するようなビビリ音がヘッドフォンを通じて聴こえ、全く鑑賞に耐えません。


このヘッドフォンをCDプレイヤーやステレオのヘッドフォン端子につないで同じ音源(ピアノなど)を聴いてみると、ビビリ音はほとんど気にならないのです、これはどういうことなのでしょう。不良品というわけでもないと思いますが。


一方オーケストラのフォルテッシモ、ヴァイオリン・ソロ、ソプラノのアリアなどはクリアな音質です。こういう音楽では付属品とは違いがはっきりします。洋楽系の曲も聴いてみましたところ(BJORK、Black Eyed Peas)、上記のビビリ音は全く発生せず(気にならず?)、余程酔狂でなければ付属品のヘッドフォンを使おうという気にはならないと思えるほど音質の向上が実感できます。


時々使っているAKGのK26Pは、低音を重視した音楽を聴く方には満足のいく音質だと思いますが、クラシックを聴く分にはAppleのインナーイヤ型に比べると「こもり」が感じられます。音のヌケという点ではAppleのインナーイヤ型の方が優れている。


iPod用で、安くてそこそこクラシックを満足して聴ける(音質に優れているといっても所詮ACCファイルの音質ですから多くは期待しません)形体も携帯性に優れたヘッドフォンというのはないものでしょうか。ちなみに在宅時にはSENNHEISER HD575を使っています。

2006年3月19日日曜日

歌舞伎座:三月大歌舞伎 夜の部

歌舞伎座で三月大歌舞伎の夜の部を観てきました。今月の公演は十三世片岡仁左衛門十三回忌追善狂言を兼ねており、昼の部では仁左衛門による「道明寺」が、夜の部では我當による「近頃河原の達引」が演じられています。

昼の部の道明寺や吉野山も観たかったのですが、休日の11時前に自分を東銀座に立たせることは困難ですので、夜の部を観ることにしました。夜の部は先の演目に続き、富十郎と菊之助による「二人椀久(ににんわんきゅう)」、そして幸四郎による「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」です。

今回はイヤホンガイドを借りて観劇をしました。

賛否はイロイロありましょうが、夜の部で一番良かったのは「二人椀久」です。この舞踏は遊女松山(菊之助)に入れあげて発狂してしまった大坂の豪商椀屋久兵衛(富十郎)が、松山を恋焦がれて踊るというもの。富十郎と雀右衛門の当たり役ですから、今回初役となる菊之助には少し荷が重過ぎる、というのが従来からの歌舞伎ファンの感想かもしれません。確かに雀右衛門が全盛であったなら、それはそれは素晴らしかったであろうと思います。あの年齢でありながら雀右衛門はいまだに妖艶なオーラを放っていますから。

しかし、この踊りを始めて観る私には、松山を演じる菊之助の若さと美しさ、久兵衛との恋の駆け引きや廓遊びの艶やかさ華やかさなど充分に満喫することができました。最後に松山が消えた後の舞台の上の虚しさとはかなさは格別でありました。また「劇場の天使」というブログのハンナさんの感想とはとは全く異なって、舞台からは「濃厚な官能」をビンビンと感じました(演じている二人の年齢差など全く関係なく)。ハンナさんは続けます。

大ベテランでこの踊りで一時代を築いた富十郎と初役の菊之助に同じレベルを求めるのは酷な話ではある。

通の眼から観ると、それほどまでに違いがあるのでしょう、それは否定しません。渡辺保氏も菊之助の松山は初役で仕方がないが、体が硬く、動きが重いと劇評で書かれいます。でも私にとっては、この「二人椀久」は良かった。

それにしても今風に言うならば、キャバクラ嬢に入れ揚げて、挙句の果てに昼間(夜か?)から幻想を観てさ迷い歩く・・・という風情。歌舞伎にはこの手の退廃的なテーマが多いですなあ。「保名」にしても恋に迷って踊り狂うというテーマでしたよね。

つづいては「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」。明治維新により武士階級がなくなり、筆職人として極貧生活を強いられる船津幸兵衛(幸四郎)の物語。妻に先立たれ、借金取りに追い立てられ、乳飲み子や眼の不自由な子ら三人を養うことができないあまり、幸兵衛は一家心中を図りますが、あまりの苦悶に気がふれてしまいます。この演目は泣かせとともに、この発狂に至る演技が見ものになっています。歌舞伎には、こういう具合に「発狂する過程」とか「酩酊してゆく過程」を純粋に楽しむという嗜虐的な嗜好があります。

幸四郎は、こういう芝居はなかなかうまく、ついつい引き込まれてしまいます。しかし、ふと我にかえると、演技の余りのリアルさに「これは歌舞伎なのだろうか・・・?」という疑問が胸に沸いてこないわけではありません、どこかナマすぎる、幸四郎の演技は歌舞伎と現代劇のギリギリの境界を行ったりきたりしている。そういう点に抵抗を感じないわけでもありません。

芝居は河竹黙阿弥による明治一八年(1885年)の作。ツケも浄瑠璃も入る歌舞伎のスタイルを踏襲したものですし、ラストのハッピーエンドも、あまりにお気楽な歌舞伎的ファンタジーの世界を描いています。もっとも私はこれがなければ暗い気持ちで歌舞伎座を後にしなくてはならなず、救われません。

さて肝心の十三世片岡仁左衛門十三回忌追善狂言であった「水天宮利生深川」は、あまり書くことがありません・・・というか、寝てしまいました(^^;;; つまらなかったというわけではありません。体調が悪かったのです。

「近頃河原の達引」も「水天宮利生深川」も、貧乏な市井のつつましい人たちが主役になっていますが、舞台では極貧はあんまり観たくないなあと。莫迦らしくても退廃でもいいから、豪華で華美で阿呆のような放蕩の方が歌舞伎的精神にはあっているかなと・・・。生活が苦しくて発狂するってのは、なんだかドストエフスキーらの描いたロシアを彷彿としてしんどいです。

2006年3月15日水曜日

【音盤】ベートーベン:交響曲第3番&8番/クナッパーツブッシュ

Archipel RecordからクナッパーツブッシュのベートーベンがHMVで1000円という廉価盤で販売されていました。「クラシック・ジャーナル 17号」でSyuzoさんが53年盤の「エロイカ」をベースにクナッパーツブッシュを語った企画を思い出し購入してみました。 

しかし、こと「エロイカ」に関しては、この盤は「失敗」でした。音質が悪く、この演奏で楽しめと言われても、それはちょっとムリかなと。クナの片鱗くらいは伺えるのかもしれませんが、後日もう一度聴こうという気にはなりませんでした。クナの熱烈なファンであるSyuzoさんも交響曲第3番は塩ビの長いパイプの中で鳴っているような音と評されていますが、それは聴き終わった後に読みました。機会があれば別の盤を入手することとしましょう。(>仕方ないので二度聴いてみたら慣れてきて、それなりに楽しんでいる自分がいたりしますが・・・、それでも人には薦められません)

一方、交響曲第8番は非常に良いです。「塩ビパイプ」の中で鳴るような貧弱さを耐えた後では、一気に「土管」にまで空間が広がったというか、あるいは土管の中から眺めた空のよう視界が開けた感じ。もっとも、あくまでも音質上からの印象に過ぎませんが。

演奏の方は、これはもう堂々としたベートーベン。しかもベートーベンにしては深刻に傾かない曲の輪郭をくっきりと描ききっている。ベルリンフィルの個々の技量も安定感があります。特に第3楽章のホルンの部分は良い。第4楽章も着実に演奏は進む、急くことはせず確信的な響きを刻んでいるように聴こえる。曲調は軽いのに演奏は演奏は決して軽くはない。

2006年3月13日月曜日

【本棚】森まゆみ:谷中スケッチブック


先週は日暮里から谷中、根津を通り本郷から御茶ノ水に抜けて散策をしてみましたが、谷中、根津(それに千駄木)といば森まゆみさんです。この本が書かれたのはかれこれ20年以上も前のこと。85年の東京といえばサントリーホールもまだなく六本木ではアークヒルズがまさに建設中、バブルの狂乱はこれからという時です。

本書は谷中は動坂に生まれ育った森さんが、谷中の歴史的な成り立ちから今の姿までを限りない愛着と憧憬と希望を込めて描ききった秀作です。背表紙は焼け埃をかぶっていた本書を久方ぶり(20年振りに)に本棚から取り出して読み返してみました。

谷中の印象といえばお寺とお墓、そして下町情緒といった印象でしょうか。森さんは谷中の古い家や町のたたずまいは残り、今も「江戸のある町」といわれるくらい、昔の面影がある。人情もまた一段と濃い。職人の手仕事、人びとの生活ぶりなども無形の文化を伝えている。 と書き、

この町の姿はどこまで存続していくのか。それを考えながら、谷中の町を逍遥してみよう。(「江戸のある町」P.25)
と読者を誘っています。本書を読んでいると、この言葉の通り森さんと谷中の町をプラプラと歩き、店先で立ち話でもしているような気持ちになれて大変楽しい。そして露伴や鴎外、漱石を始めとして明治の文豪やら芸術家らの舞台となったこの街が、限りなくいとおしく感じられてきます。

ところで、こうした谷中の魅力が現在にあっても効力を失わないということはどういうことなのでしょう。失われた(または、つつある)ものへのノスタルジー、日本人の原風景、マスコミ主導の流行など、いろいろな要素があるのだと思います。それでも連綿と谷中が谷中であり続けているということは、日本人の深層に訴えかける重層的かつ根源的な精神風景が、谷中の断面からはいまだに立ち上ってくるからではないかと本書を読んで感じました。谷中には人を通じた歴史的連続性を見出すことができると言うこと。

私は生粋の道産子ですから江戸や東京下町的な「皮膚感覚」は皆無です。それ故になのでしょうか、肌で感じることのできる連続性にはゾクゾクするほどの興味を覚えてしまいます。

森さんがこの本を書かれてから20年、いったい今の谷中は何が変わって何が変わらないでいるのでしょう・・・。暇があれば、幸田露伴の「五重塔」でもポケットにつっんで再び谷中に訪れてみたくなりました。

2006年3月10日金曜日

音楽の持つ力


仕事でボーっとした頭で何気にいつも訪れるブログをチェックしていましたら、鎌倉スイス日記の「消費文化と芸術・・・難しい!!」というエントリが目に止まりました。今はこれについてあれこれと考えるほどの気力もありませんので、思いついたことのみメモしておきます。Schweizer_Musikさまに対する問題提起でも批判でもありません、単なる自己確認です。



「芸術」という言葉は、私はサブカルチャーが台頭してきた1980年代後半を境に死語となったのではないかと思っていますので、改めて「芸術とは何か」と考え始めると正直アタマが混乱してきます。


「売れる音楽」=「普遍的音楽」=「芸術」であるなんて誰も思っていませんし、ましてや現代において「売れる」ためには大掛かりなプロモーションも重要な要素であることはSchweizer_Musikさまご指摘のとおりだと私も感じています。オリンピックを期に売れ続けている「トゥーランドット」も、荒川静香というプロモーターが居たからなのでしょう。


もっとも、いくら大々的にプロモーションしても売れないこともあるわけです。音楽が良くなかったということの他に、受け入れる側にそれを受容するだけの準備が出来ているかということも重要なことかもしれません。時々「○○は生まれるのが早すぎた」だとか「やっと時代が○○に追いついた」と言うような評を目にします。


音楽は師弟関係や、さまざまなスタイルが影響しあっていますから、「ある前提(音楽)」の上「その音楽」が成立しているのだとは思います。ですから、例えばありえないことですが、モーツァルトの時代にストラヴィンスキーやBlack Eyed Peasの音楽が奏でられたとしても、当時の人達にとってはおそらく騒音でさえないことでしょう。

しかしそれであっても、音楽を進歩論的あるいは進化論的に捉えることには若干の疑問を感じます。上記は極端な例ですが、短期的な「売れる・売れない」は、時代の有する雰囲気との乖離を示しているに過ぎないと思います。


ハナシが全然それてしまいましたが、売れる音楽には売れるだけの理由があり、「音楽の力」があるという点です。


売れるということの中に、本当に人々の心の琴線に触れる何かがある。だから売れるのだという部分が存在することを、忘れてはならないのではないでしょうか。

良いメロディー、良い詩・・・、かっこいいアレンジ、サウンド、ルックス、ヒットする要素の中には色々なものがあるのですが、たとえばスマップの「世界にひとつだけ…」という歌は、スマップの人気だけでなく、歌そのものに力があるように思います。


私自身「音楽の力」を認める発言し、かつ「音楽には力がある」と実際思っているのですが、「多くの人に売れる」ということ、つまり音楽的なマジョリティが存在すること。このことに私は少なからず疑問を感じています。つまりある音楽がヒットするような社会ないしは個人が醸成されているということ。ヒットする条件としてのマジョリティの存在です。オンリー・ワンと唄いながらも、等しく共感するオールの存在。もっとも、個々に眺めれば個人が音楽から受ける風景は異なっているのだと思いますが。


私の場合はクラシック音楽を聴き始めたきっかけのひとつに「スタイルとしてのマイノリティへの逃避」という意味合いがあったことは否定しません。しかし、その狭い世界の中ではマジョリティに迎合している自分が居ます。もう一度考えます。プッチーニは売れてラフマニノフがそれほどでもないのはどうしてなのかと。(実は私が目にしないだけで両方売れているのか?)。うまく表現できなくて申し訳ありません。

2006年3月8日水曜日

音楽が語る以上のこと

「クラシック音楽の垣根・・・?」というエントリに、ぽん太さんからコメントをいただき、レスを書いていたら予想に反して長くなってしまいましたので、ここに改めることとしました。

(とりあえずコメントに対するレスなので)こんばんは、かの本を読み始めたのですね。私自身、久々に楽しめる新書であったと思っています。

ところで西洋芸術音楽の「時代を超えた大きな思想」とか「精神性」についてですが、そこに着目しすぎると音楽本来の持つ魅力からどんどんずれていくように思うことがあるのです。少し前まで(今も?)日本の音楽界の本流はドイツ・オーストリアの音楽であり、ベートーベンなどに比べてチャイコフスキーは「精神的に深みが足りない」などと評されたものです。また指揮者にしても、ドイツ・オーストリア系を振らない指揮者、あるいはピアニストは、どんなに人気があってもホンモノではない、という評価は未だに耳にするところです。

ところが、この「思想」とか「精神性」、あるいは「ホンモノ」というのが、どこか胡散臭い。純粋音楽に標題性や歴史性を、更にはそこから思想や精神性を聴き取ることは、妄想とは言わないまでも結局はごく個人的な事柄でしかないという思いが捨て切れません。

個人的なことになりますが、私は小学生の頃から国語が大嫌いでした。特に「この文章のテーマは何か、作者の言いたい事は何か」という問いは、ほとんどはずしていました。どんなに読んでも、回答のようには考えられない。それ以来、作者が意図したとおりに読者に伝わるということは、私の経験からすると、ほとんどありえない、万人が万人的に解釈することこそが正しく、正解を求めることが間違っている、と勝手に思うようにしました。

ですから、作曲家のごく個人的な事情(作曲の背景や主要主題の意味的なもの、あるいは極めてプライベートな書簡類)まで理解した上でないと西洋芸術音楽を理解できないとしたならば、それって一体何なんだろうと思うわけです。モーツァルトにしても、自分の音楽を聴く人が作曲家のスカトロ趣味や妻との性生活を熟知した上で作品に接することになるだろうなんて、想像だにしなかったハズです。

音楽ではなく美術に転じますと、キリスト教の宗教画や17世紀頃のオランダの静物画またはブリューゲルの幻想絵画などに隠された寓意を知ることは、作品解釈において重要なファクターですし、その理解する過程そのものがスリリングな楽しみを伴うことは否定しません。しかし、ぽん太さんのお好きな歌舞伎にしても、時代背景や文学性に拘泥しすぎると、歌舞伎本来のもつ魅力が硬直化したように感じる瞬間はないでしょうか。それらを知らなければ作品を楽しめないということは、決してないはずです(各人が各様に楽しむだけ)。

音楽も同様に「そこから聴こえる以上のこと」に拘泥しすぎること、何かが聴こえなくなることもある、音楽の聴き方を自ら制限することもあるのではないかと。(ここは、こう聴かねばならない、とか、こんな音楽ばかり聴いていてはダメだとか。中途半端な聴き方ではだとか・・・) 

私は学者でも音楽家でもなければ演奏家でもありません。そういう深い理解まで、作曲家が果たして期待していたのかと思うと、案外そうではないかもしれないと思うこともあるのです。

たとえば、トリノオリンピックで金メダルを取った荒川静香さんの演技の裏話は、週刊誌やワイドショー的には面白いでしょうが、彼女の過去や境遇を知らなければあの演技に感動できなかったか、といえば嘘になる。「演技が語る以上のこと」を知る必要が一体どこにあるのかと。

2006年3月6日月曜日

クラシック音楽の垣根・・・?

岡田暁生著「西洋音楽史」のエントリに対するぽん太さんのコメントを読んで、あれこれと考えていたところ、音楽ジャーナリスト林田直樹氏のブログ(LINDEN日記で引用されていた石田衣良氏の言葉がたまたま目に止まりました。

石田さんはモーツァルトや現代音楽などがお好きだった理解しています(確かロマン派はダメみたい)。

「実は本当に一番素晴らしいのは、芸術そのものではなくて、それを『素敵だ』『面白い』と感じることができる人の心である。三百年前のオーストリアの作曲家が注文仕事で書いた音楽を聴いて心から感動できる。人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ」(石田衣良)

全く同感。クラシックの敷居をすごく下げてくれる言葉ですね。「大作曲家の残した偉大な音楽」という権威よりも大事なもの、それは「聴き手の感受性」だと言っているのですから。

え? 本当にそうなのか?素晴らしいのは聴く人の心で、感受性が一番大事であるということ。

それはそうなのですが、魚の小骨のようにひっかかる言葉です。私の深層のどこが「違う」といっているか、掴むことができません。従って、このエントリは批判ではなく留保です。芸術を「面白い」と感じる心がなければ、その芸術がどんなに偉大な可能性を秘めていても当人にとって意味のない(つまらない)ものであるということは対偶として真でしょうか。

私は芸術が、作曲家の思想や理念こそが個人を凌駕すると思ってはいません。また、芸術の権威やブランドをことさら持ち上げる気持ちも、できるだけ少なくしたいと思っています。万年クラシック初級者の私のこと、ついつい有名作曲家の評価の高い演奏ばかり聴いてしまいがちですから。自分の目や耳を信じて、これが「良い」と感じること、すなわち自分の感受性や感性を信じて評価するということは、意外にも物凄く難しいことだと感じています。なぜなら、今まで積み重ねてきた自分が全て露見される瞬間だからです。

仕事の場面においても、「女性的感性」だとか「感性の豊かさ」が必要などという場面に遭遇します。感性は何もないところから生まれてくるものではないし、生まれつきのものでもない。それこそ、裏で磨いたり研ぎ澄ましたり鍛え上げたりすることをして、初めてキラリと光る感性が生まれる。感受性というのは、そういう極めて自発的で主導的な活動を通じた末の偶発的な産物であると思うのです。磨かれた感性は、モノの本質をズバリと見抜くことも場合によっては可能でしょう。

内田樹氏のブログにある以下の文章が、似たようなことに言及しています。(内田樹 研究室「言葉の力」より)

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」

では、そういう練磨の上での感受性がなければ、例えば西洋芸術音楽(クラシック)を受け入れることができないかといえば、これまたそうでもない。ある瞬間にあるフレーズを聴いてバーン目覚めることもあれば、これってイイね、としみじみと思うこともある。しかし、何故目覚めたのかを自分の中で追求すると、感性の変化を生じた遠因がどこかに潜んでいることに気付くはずです。

ところで石田氏や林田氏の発言は『自分達の好きなものが素晴らしいもので、感受性の豊かな貴方達が聴けば、きっとどこかで「感じる」部分があるはず』ということをは一方的に期待しています。その発言の裏には、そういう音楽を、自分達はやっぱり素晴らしいと感じていて、感動できる自分達の感性が素晴らしいと認めています。では、そういう音楽を「面白い」と感じられない『感受性』の存在を彼らはどう考えるのでしょう。『え?こんなに素晴らしい音楽を「感じられない」なんて、君たちの心のキャンパスは濁っているのか?』とは言わないでしょうが。

こんなことをついつい無意識のうちに考えてしまったので、彼らの無邪気で無自覚な感受性賛歌には一瞬ひっかかってしまったようです。私のこういう回りくどい感じ方や態度こそが、知らずのうちにクラヲタ的偏狭さに陥ってるという査証なのでありましょうか。あるいは、今読んでいる本の影響でしょうか(その話題はまたいつか)。

ぽん太さんの問いには未だ答えられず。

暇なわけではないのだが、天気がいいとヤル気にならない

仕事が溜まっているので日曜出勤でもしようかと思っていたのだが今日も天気が良い。昨日も好天でだったのに、意に反し15時から22時まで会社で悶々としてしまったので、さすがに今日も出勤するのがアホくさくなる。本とiPodを鞄にぶち込んで目的もなくJRに乗り込み、以前から気になっていた方面を散策することとした。(注)以下は本人以外はほとんど意味のない文章。

まずはJR日暮里駅で降りて谷中霊園に向かう。谷中は観光スポットとしても有名になってきたので休日の霊園だというのに線香も持たずカメラを携えた人が多い。桜並木をぽくぽく歩いて気分を良くするが、開花にはまだまだ。霊園だけあってカラスが多くウルサイ。石原都知事に抹殺対象とされたかの鳥達は、こういう場所をネグラとしていたのか。

霊園内には徳川慶喜の墓があるというので行ってみたが、塀の外から伺い見ることしかできない。もっと堂々としたものかと期待したのだが意外と簡素。その後寛永寺まで足を伸ばす。街頭の地図を見て初めて気付いたのだが、寛永寺は上野の東京国立博物館のすぐ裏に当たる。航空写真で上野方面を眺めると(寛永時の境内にある)JR線が大きな河の流れのようだ。上野と合わせて考えると徳川幕府の都市計画の一環が透けて見える。ここらあたりは「上野の山」といわれるだけあり、寛永寺越に御徒町方面を眺めると遠くのビルの屋上が同じ視線に見えている。

寛永時の前を過ぎ国立博物館を裏手から正門に廻る。今月末から「最澄と天台の国宝展」と「国宝・天寿国繍帳と聖徳太子像展」が企画されている。おおっ!と思ったものの、これまた会期中は激混みなのだろうなと観る前から気分が萎えてくる。博物館の敷地内を伺い見ると梅が咲いていた。

東京芸術大学旧奏楽堂の前を通り藝大美術館へ。何かやっていたら観ようと思ったが、入試シーズン中なので閉館中。ちょっと残念に思いになりながらも、まあいいやと言問通を根津の方へ歩き始める。ここら当たりから道はグッと下がっている。坂の途中には墓地と寺というのは中沢新一氏の「アースダイバー」的風景。

谷中や根津の周りは、いかにも「下町」的。若者達がもの珍しげにウロチョロしている(私もその一人、ただし若者ではない)。現代のガラスと金属やコンクリートの建物を見慣れた目には、単に古いだけの木造下見板の家など、それだけで珍しいのだろう。街を歩いているとどこか懐かしい気分になることは否定できない。一体、日本は何を造って何を壊してきたのか、などということは考えない。

下町情緒をちょっとだけ感じながら、なるほどなるほどと訳の分からないことを思う。不忍通りを越えると、道はまた登りに転じる。その転じた先にあるのが東京大学。

考えてみたら東大って行ったことがなかったなと思い弥生門からキャンバス内へ入る。垂直線を強調したデザインの建物が権威と上昇志向を象徴しているよう、ただし施設は恐ろしく古い。某学部に勤める旧友から聞きいていはたが、ここまでとは。建物に歴史的価値があるようなので壊すに壊せないジレンマを抱えているのだろう。

安田講堂は初めてホンモノを目にしたが驚くほど小さいことに拍子抜け。放水銃と火炎瓶の記憶はどこを探しても見当たらない(当たり前)。キャンバス内は休日のせいかカップルや観光客や犬連れの家族などがチラホラする程度で人影もまばら、平和である。三四郎池もせっかくなので見てみる。ここの水はどこから沸いてくるのだろう、上野の不忍池とともに繋がっているのだろうかと、東京の地下を脈々と流れ、行き場を求めてさまよう暗い水の流れに思いを馳せる。窪地になったこの場所は東京とは思えないような空間を形成していてとても素敵だ。

赤門を潜り抜け、ついで(何のついでだ?)なので本郷通りを通って御茶ノ水にまで出てみる。神田川を越えた途端に若者がウジャウジャ沸いてる。神田川は相変わらず汚いが、紅梅が川沿いに咲いていた。御茶ノ水駅を降りた景色というのは、東京の私学の方々にはおなじみだろうが、私からするとグロテスク以外の何ものでもない。そのグロテスクさを更に際立たせるように、秋葉原方面に更に巨大な建造物が聳えている、イヤハヤ。こういうグロテスクさも、キライではないのだが・・・度を越しているな。

いささかゲンナリしながら御茶ノ水駅前の喧騒を避けニコライ堂向かう。教会はこれからまさに夕刻の祈祷の時間、燭台に蝋燭を灯し始めている。ドームのステンドグラスが西日を投下して天井にきれいな光を投げかけている。キリスト教の精神にはちょっとついていけないので、祈祷が始まる前に退散。そういう割りに、このときiPodで聴いていたのは、やはりバッハだったりする。

かなり疲れてきたが頑張って神保町の古本街へ。日曜日はこの街は半分くらい眠ったみたい、ほとんどの古本店のシャッターが下りいる。平日来なくてはダメなのだな。ただ神保町界隈には魅力的な喫茶店が多いことを発見。旨い珈琲でも飲みながら持ってきた本でも読もうと、ある店に足を踏み入れたら「あと15分で閉店です」と言われ断念。楽しみはまた後ということだろうか。


2006年3月5日日曜日

【音盤】バッハ:インヴェンションとシンフォニア/グールド

定期的に拝読しているブログ日用帳で『インヴェンションとシンフォニア』についての言及がありました。グールドの盤がiTunesに入れてあったなあと思い出し、エントリで触れられている四方田犬彦氏の文章を読みながら演奏を聴いてみました。

2006年3月2日木曜日

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番&2番/小澤&Zimerman

あちこちで絶賛されていた盤、去年買っていてiPodにも入れていたのですが、オリンピックも終わりましたし、このたびやっと落ち着いて聴いてみることとしました。

まずピアノ協奏曲1番の冒頭の打鍵の凄まじさに思わずのけぞります。激しいながらも暴力的ではなく、硬質なガラスが一気に砕け散るかのような爆発的美しさ。Zimerman弾くピアノの粒立ちは特筆もので、どこの断片を切り取ってもキラキラと何色にも光っています。表現も鋭利ではありますが、しかし演奏は少しも冷淡ではない。いやむしろ硬質な光の中に熱い火が隠されているかのようで、ヘタに触れるとやけどしそうなくらい。第1楽章はあっという間に過ぎてしまいます。

第2楽章は、打って変わって泣きたくなるほどに美しい。しかし表現は抒情と感情に溺れてはいない、適度に理知的にコントロールされた演奏は一線を越えることを踏みとどまります。

Allegro Vivaceの第三楽章は再びZimermanのピアニズムが弾けます。どこまでも曇りのない音色は快感と眩暈さえ覚えるほど、高度なピアノ演奏を聴く愉悦を充分に堪能できます。

続くピアノ協奏曲第2番の冒頭の和音の重いこと。低い重心から奏でられる音塊はまるで鉛のようでありながら、驚くべき機動性を発揮します。実に強靭なピアノニズムです。この通俗名曲に近いメロディーから、こんな迫力を生み出すとはっ!重さと軽さ、深刻さと軽やかさを自在に行き来しながら、バックでは小澤のボストン響が端正かつ、きっちりと抑えています。出すぎてこないところが好ましい。

これまた第2楽章が夢見るほどに美しい。ゆったりとしたピアノのアルペジオを聴いているだけで、静かな別世界で悠久の時を思うかのよう。チャイコフスキーの交響曲第5番の第2楽章を彷彿とさせるロシア的ロマンティシズム。第3楽章はもはや文句なし、ラストなどカッコ良すぎて惚れ惚れ。

「言葉野遊戯」というブログで

このラフマニノフの旋律をピアノで表現するのって、高貴さが必要。

気品が感じられないと、それはまるでR・クレイダーマンのショウを思わせる(^^;)、

と書かれているますが、一方で逆の方向で間違えると泥臭くなったり土砂降りの演奏になりかねない。泣き崩れないリリシズムこそがラフマニノフには美しい、そしてそこがチャイコフスキーとは一線を画するところだと思うのです。

しかし、ここまで「褒め殺し」のような書き方をしましたが、アシュケナージの名盤と聴き比べてみると、私はアシュケナージの演奏の方を好ましく感じます。それが何故なのか、その差異を表現する語彙を私は持ちません。

2006年3月1日水曜日

【本棚】八柏龍紀:「感動」禁止!―「涙」を消費する人びと


先日やっとトリノ・オリンピックも終わりました。今回はあまり観戦することができませんでしたが、荒川さんの演技は素直に素晴らしかったですね。

ところで、某所のロビーに設置された大型液晶画面に流れるフィギュアの録画中継を見ていたところ「アラカワは凄かったけど、アンドーはいらねーよな~」との話し声が聞こえてきました。安藤さんについては日本スケート連盟の思惑、本人の精神的弱さ、それに調整不足など指摘すべき点は多々あり、思うような成績は上げられなかったものの、何もしていない我々が彼女の結果だけを非難できる筋合いではなかろうにと、見知らぬ二人の会話を聞きながら思ってしまいました。

ところで、オリンピックやサッカーに限らず、スポーツを観戦して感動することは否定しませんが、最近のメディアの感動の押し売りや「感動をありがとう」というコトバには言いようのない気持ち悪さを感じています。一方でスポーツ選手の「私の笑顔を見てください」や「皆さんに楽しんでもらえたら」などの発言も、プロでもないのに何故観客をそこまで意識するのか、という違和感を感じずにはいられません。

あるいは「今年一番泣ける映画」というフレーズです。いかに泣いたかということを臆面もなく語る若者の姿をテレビの宣伝などで目にすることも多いでしょう。

しかし、ちょっと待てよと、泣くことを求める者たちは、もしかすると泣くことでカタルシスを得る以上に「泣ける自分」に酔っているのではないか。すなわち映画や小説という虚構の世界で泣ける自分の純粋性こそがいとおしいのではないかと思い至りました。

さらに敷衍すれば、自分のも含めてですが、ブログが隆盛なのは、手軽さ故ということもありましょうが、自分を顕示することで暗に自己愛を表現しているのではないかと感じています。皆んな「自分が一番」で「自分が大好き」なのではないかと。(>感情的なCDの感想をタレ流している私の言う台詞ではありませんが)

そういうモヤモヤとした疑問にひとつの回答を与えてくれるのが本書です。八柏氏は最近の日本のこうした傾向を「消費行動」という観点から幅広く考察し分析しています。語られている内容が余りにも広すぎ、テーマが逸散してしまいそうになっている点や強引な点散見されますが、ある種の総括を与えている本ではあります。

中でも同感できた点は、感動を消費する彼や彼女らが、きわめて無自覚であり、かつイノセントであるという点です。私事ですが、30代前半の同僚と、東京ディズニー・ランド(TDL)について話していたときの会話を思い出しました。

    同僚「TDLって、すっごくよく出来ていますよ。客を楽しませるにはどうしたらいいかってことが、考え抜かれている。一度、行ってみたらいいですよ。」
    私「・・・そもそも、ミッキーとかドナルドとか全然好きでないし、ああいうところで楽しませてもらうのって、ノセられているようで恥ずかしいって言うか・・・(オリエンタル・ランドではなく)ウォルト・ディズニーのコンセプトの凄さは認めるけどね(能天気なアメリカは嫌いだし)・・・」
    同僚「私だってミッキーとか別に好きなわけぢゃないですよっ。でも、行きもしないで批判するのってオカシイですよっ! ゼッタイ、楽しめますよっ!」
ああ・・・このイノセントさに反論する術を私は知らない・・・いや、いいんですよ、楽しんでいるヒトは。ン十年前に二度ほど行ったことはありますし、私も。

って、これは本の感想なのか?

2006年2月27日月曜日

【本棚】夏目漱石:「こころ」


息子の冬休みの課題図書であった夏目漱石の「こころ」が居間のテーブルの上に載っていたので、懐かしさから何気に頁を捲っていたら止まらなくなってしまい、結局最後まで読み通してしまいました。

「こころ」は今更言うまでもなく夏目漱石の傑作とされる作品ですが、この本が名作足りえているのは、読む人によって色々な読み方、受け止め方ができるテーマの広さと、人間の本質にかかわる問題を有しているからでありましょう。エゴイズム、我執については現代に生きる若者にも容易に理解できる感情であると思います。

以前は先生の苦悩を前提に読んだ記憶がありますが、今回は、先生にしてもKにしても漱石の描く明治時代のインテリというものが、いかに自己の内面世界に滞まり自己耽溺の中で完結していたかということが気にかかりました。恋というにはあまりに観念的な恋しか演ずることが出来ぬまま、過去の罪の意識と自己否定、そして自己疎外の中で自らの命を断つ先生という存在。それって何なんだ、と。ここに漱石文学の閉塞性と限界が見えてきます。(鴎外ほどには「閉塞的」「限定的」ではありませんが)

一方で、明治のインテリが感じていた淋しさや孤独、あるいは自己否定については、現代に生きる私には理解しえない事柄ではあるものの、漱石が先生の死をもって物語を閉じた(閉じざるを得なかった)ことは、明治精神の終焉を意味していたという点において、改めて着目して良い事項であるのだなと。

2006年2月25日土曜日

岡田暁生:「西洋音楽史」を読んで

一部で話題(こことか ここ)の岡田暁生著『西洋音楽史』(中公新書)を読んでみました。

新書で西洋音楽の中世から現代までを俯瞰するなど、随分と乱暴な企画だなと最初は思ったのですが、読んでみますとこれが実に面白く、私にとっては西洋音楽というものにくっきりとしたパースペクティブを与えてくれる内容でした。左帯にあるように、まさに「流れを一望」です。

読んでいて、いたるところで成る程と思い、いかに私がクラシックファンを自認していながら、何も知らずに音楽を聴いていたのかということを思い知らせてくれました。

本書ではバッハやモーツァルト、ベートーベンなど教科書的に偉大な作曲家に多くの頁を割くことはしていません。「西洋音楽という大河」の流れの中で、彼らがどういう意味をもっていたのか、なぜ彼らのような音楽が生まれたのか。それを時代背景などを絡めながら、実に簡潔に示してくれます。

記述の仕方に説明不足や決め付けのようなものを感じる部分もありますが、それは新書という制限の中では仕方のないこと。むしろ筆者が「あとがき」で書いているように、音楽の専門家ではなく一般読者が音楽史の大きな流れを理解できるような本にしたかったという意図は、見事に成功していると思います。巻末には豊富な「文献ガイド」がありますので、本書を契機にテーマを深めることも可能です。

本書は知識を問い直すとともに、音楽の聴き方も問い直してくれます。すなわち、何も知らずに音楽を聴いていたどころか、いかに「一面的」な音楽の聴き方に自分が硬直してしまっていたのか、ということにも気付かされるのです。音楽の聴き方は、おそらくは自らの嗜好の反映ではあるものの、一方においては日本の音楽教育や西洋音楽受容の歴史にも影響しているのだろうと思い知らされます。

岡田氏は中世のグレゴリオ聖歌から現代のポピュラー音楽までを、連綿と続く「楽譜として設計された音楽」である西洋芸術音楽を語り、第七章「二○世紀に何が起きたのか」の次の言葉で締めくくっています。

カラオケに酔い、メロドラマの映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々はどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。 (P.230)

筆者は、無意識的であるにしても宗教的なもの(人間を超えた絶対的なものへの寄与)が人間に必須であるとの前提に立っているようにも思えますが、ここだけは安易に首肯できない部分です。というか、数行で決め付けるには大きすぎるテーマですので。

2006年2月20日月曜日

【本棚】ムンクを追え!


本書は1994年、リレハンメル・オリンピックの際に起きたムンクの「叫び」盗難事件を中心に、ロンドン警視庁の敏腕捜査官、チャーリー・ヒルの活動と美術闇社会の実態について書いたノンフィクションです。

面白い本というのは、まさにこういうものを言うんだよなとワクワクしながら頁を繰り何度も電車の駅を乗り過ごしそうになりました。美術品の想像を絶する値段、盗んでくれと言わんばかりの防犯体制、絶えることのない盗難事件、嘘付きでケチな盗人やギャングたち、怪しい画商、美術品に対する警察の意識の低さ、そしてチャーリー・ヒルという一匹狼的な囮捜査官。内容はそのまま映画化も可能なくらいにドラマチックです。

ロンドン警視庁の囮捜査官という存在自体が「映画的」です。高価な美術品の辿る数奇な運命と黒幕の「ドクター・ノオ」は存在するのかなど、盗難事件をめぐる実話には、さまざまな妄想をかきたてられます。誰もが知る名画を盗んだ後に、盗人達は一体それをどうやって売買するのか? ということに興味は尽きませんからね。

しかし、美術盗難品の奪還に異常なまでの執念を燃やす、この本の主役であるチャーリー・ヒルに「ドクター・ノオ」あるいは「ミスター・X」のような黒幕の存在について話そうものならば、

そんな話を持ちだすやつは、自分が底なしのマヌケで、他人の仕事を邪魔しにきたと宣言するに等しい(P.233)

と憤慨します。マスコミや一般大衆が夢想する「ミスターX」などいないのだと。超有名絵画を盗むということには色々な理由や思惑があるようですが、主たる理由は金銭的価値に対する期待値でしかないのだと。

今日も裏社会の市場では盗まれた美術品が国を超えて売買され、麻薬密売人のシケたアパートのベット下には、日の目を見ない名画が汚い毛布にくまれているのかもしれません。この本を読む限りにおいて、美術品を盗む奴らは盗品の芸術的価値など全く理解しておらず、「ブツ」を貴重に扱うなんてことには、これっぽっちも神経が働かないようですから。

ちなみに、ムンクの「叫び」は2004年にも再び盗まれていますが、それは本書とは別バージョンの「叫び」。今はまさにトリノ・オリンピックの真っ最中。時期を狙っての発売なんでしょうか。2004年の事件の様子は、下記のエントリに以前少しだけ書きました。

2006年2月19日日曜日

【音盤】ベートーベン:交響曲第6番「田園」ほか/ムラヴィンスキー

ムラヴィンスキー/交響曲第6番『田園』、ワーグナー:『ワルキューレの騎行、ほか
  1. ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調『田園』
  2. ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より 前奏曲と愛の死
  3. ワーグナー:楽劇『ジークフリート』より 森のささやき
  4. ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』より ワルキューレの騎行
  • 1979年5月21日東京文化会館
  • ムラヴィンスキー(指)レニングラードpo.
  • ALT063
これは芸術を愛し、芸術に耽溺する人間なら、拝跪するしかないような、最高の芸術である。こんあ芸術は人間から平和を奪う。社会性を奪う。常識を奪う。それどころか、人間を狂わせる。(許光俊著「オレのクラシック」 P.126)

おなじみの許氏による評であります。彼特有の眉唾かハッタリを覚悟しながら聴いてみたのですが、《田園》には全く恐れ入ってしまいました。《田園》を聴いてこんなに感銘を受けるとは、思ってもみませんでした。といいますか、こんなにも素晴らしい曲であったのかと再認識した次第です。

西岡昌紀氏や音楽評論家の平林直哉氏が1979年当日の演奏会終了後の様子を含めて解説を書かれていますが、言語を絶する演奏であったことはCDを通しても伺い知ることができます。演奏会に接した人にとっては、生涯忘れることのできない経験になったようです。

音質はムラヴィンスキーにしては良いとのことですが、強音部は割れていますし客席のノイズも大きく録音状態は決してよくはありません。再生装置にもよるでしょうが、私の安価なCDコンポでは随分と硬質な音に聴こえてしまいます。「繊細さ」とか「柔らか」さとは無縁な無骨な演奏に聴こえる怖れもあります。

そういう録音でありながらも「しかし」なんですね。ムラヴィンスキーの《田園》から聴こえてくる音楽を一体なんと表現して良いのか。いや言葉で表現するということを超えている音楽世界です。実のところ私は何と、第一楽章から終楽章までずっと打ちのめされ放しで、涙腺のタガ外れてしまったのではないかと自ら訝しんだほどです。

演奏は決して煽るようなことはしてはいません。淡々と進むのですが、そこには《田園》というのどかなイメージとは違った確固としたベートーベン的世界が屹立しているのです。《田園》という標題や田舎風景の奥に隠されたベートーベンの苦悩と悟りと希望、しかしそれを表立ってあからさまに表現することはせず、演奏を通して分かる人に語りかけるといったような、そんな演奏なんです。

西岡氏はムラヴィンスキーの音楽を特徴付けるものが「孤独」であるとして、

この《田園》には、ムラヴィンスキーの孤独な感情とその孤独を乗り超えようとする強い意志のようなものが感じられる。孤独は彼の音楽の最も重要な感情要素

と解説に書かれています。孤独はムラヴィンスキーの音楽を彼の音楽にたらしめて来た彼の芸術の秘密であると西岡氏は指摘します。彼の指摘に全面的に首肯できるほど、ムラヴィンスキーの演奏に接してはいないですし、この盤に納められたのがベートーベンの音楽なのかムラヴィンスキーの音楽なのかという議論もありましょうが、《田園》がかくも「名曲」であることを示し、さらにムラヴィンスキーの音楽の峻厳さ、それとは逆の優美さを聴かせるたという点において類稀な名盤であると思います。

誰もが絶賛している「ワルキューレの騎行」は、ライブを聴いていたならば、あたかも超新星爆発を目の当たりにしたかのようであり、演奏会の後はブラックホールが生じたかのような虚脱状態になっていただろうと想像いたすほどです。

2006年2月16日木曜日

【音盤】ベートーベン:交響曲第1番/テンシュテット






テンシュテット ベートーベン交響曲第1番


  1. Adagio mlto-Allegro con brio 9:02
  2. Andante cantabile con moto 7:45
  3. Menuetto:Allegro molto e vivace 3:31
  4. Adagio-Allegro molto e vivace 5:36


  • テンシュテット(指揮) スヴェーリン・メクレンブルク州立管弦楽団
  • 1968.8
  • Weitblick SSS0056-2



同時収録は以前紹介したベートーベン交響曲第5番(何度聴いても凄い)とエグモント序曲(何度聴いても息が止まる)。キール歌劇場オケとの演奏も壮絶ではありましたが、1968年の東独時代のこの演奏もエネルギーレベルが極めて高く、そして瑞々しさに溢れた演奏に仕上がっています。


ベートーベンの1番なんて滅多に聴こうという気になりませんが、改めて聴いてみると、こんなにも良い曲であったのかと気付かされます。第1番はベートーベンらしさと、古典派のテイストが旨い具合に溶け合っていて、そんなに気負わずに聴ける曲ですが、テンシュテットの演奏からは、しっかりベートーベンの息吹を感じ取ることができます。


やたらと刺激的ではないものの重厚さと迫力は充分。さらっと流して聴ける演奏ではないです。第一楽章はそれこそあっという間。第二楽章も悠然としていながらも、演奏全体からは若々しい力を感じます。第三楽章などは、もうすこし綾とか余韻が欲しいところですが、テンシュテットの推進力はグングンと勢いを増し圧巻の終楽章に進みます。このキビキビとした運動性能の心地よさ!


聴いていると体内の奥底からフツフツと喜びが沸いてくるというのは、ベートーベンの持つ音楽の力です。なんだかんだ言っても俺ってベートーベンが好きなんだなと思ってしまいます。

2006年2月14日火曜日

【本棚】絲山秋子:沖で待つ~第134回芥川賞受賞作

第134回芥川賞を受賞した絲山秋子氏の「沖で待つ」が文藝春秋3月号に掲載されているので読んでみました。読んだ感想としては、これが現代の純文学賞のレベルなのかと疑問符を持つものでありました。

作品そのものは、懐かしくて、いとおしいくらいに切ないテーマーを扱っている点で秀逸だと思いますが、一方でこのくらいのテーマと内容であればコミックの世界を探せば類似の作品は幾らでもあるのではないかと思ったりします。

瑞々しさや優しい気持ちには満たされるのですが、なんだか、私が文学に求めるものとは違っているなと。純文学とはなどと論ずる気は毛頭ありませんが(論じる土台もないし)、あまりにもフツー過ぎて拍子抜けといいますか・・・。純文学はやっとマンガの世界に追いついたってことなんでしょうか。(具体的にどのマンガ作品に似ているかと言われても困りますが)

賞の選考者の多くが本作の「新しさ」や(河野多恵子氏)、総合職同期入社の男女という関係性(黒井千次氏)、あるいは友人以上恋人以下の関係(山田詠美、高樹のぶ子、池澤夏樹氏)を描ききったことに評価を与えていますが、石原慎太郎氏のように「本質的主題の喪失」とまでは思わないものの、作品と評者の座標軸のズレを感じないわけではありません。村上龍氏が選評で本作に全く触れないのは彼らしいか。

補足しますが「芥川賞」と考えなければ良い小説です。「芥川賞」とか純文学とかに、とっくに意味などなくなっているということなんでしょう。「○○賞」とは、賞の権威で雑誌やら本を買ってしまう、浅はかな私のようなヲヤジのためのキャッチコピーでしかなかったか。

2006年2月13日月曜日

映画:ホテル・ルワンダ

k-tanakaの映画的箱庭で何度も紹介されていました、話題作「ホテル・ルワンダ」をユナイテッド・シネマ豊島園で観てきました。あちこちで絶賛の嵐ですから、あえてここでは内容の詳細については触れません。

映画は本当に良く出来ています。メッセージ性も極めて高く感動的です。日々報じられるメディア裏側の真実とメディアの限界、国連平和維持軍の実態などイロイロ考えさせられますが、素直に訴えかけるのはドン・チードルが演じるホテル支配人ポール・ルセサバギナの家族愛と行動力。

彼が最後までホテルマンとして振舞ったことは、一見滑稽でありながら極めて意義のあることです。彼が「アフリカ人」であるがゆえに、彼の勤めるベルギー系4星ホテルの「支配人」にはなれても決して「オーナー」にはなれない。はからずも国連平和維持軍のオリバー大佐に指摘され、彼も自分が「思い上がっていた」ことに痛烈な侮恨を感じますが、それでも彼を支えているのは「ホテルマンとして社会に位置づけられていた自我」であることを映画は描いています。それを捨てては全ての繋がりを失う。

彼は高邁な理想を持ったヒーローでもなければ、ハリウッド的超人力を発揮するわけでもありません。また家族を守るためだからと自ら武器を持つこともありません(持とうともしない)。銃声の鳴り止まぬ絶望的な状況の中で、彼は限りない家族愛を示し、ホテルマンとしての矜持を失わず、可能な限りの等身大の行動を取ります。ポールが家族と別れホテルに残ることを突然決心したことも、彼が高次の人間愛に目覚めたというよりは、彼のものであったホテルに「客」が残っている以上、それ以外に選択できる行動がなかったのだろうと思います。

この映画を観ることは、やたら政治的になることよりも、自分の中に「内なるルワンダ」が居るかもしれないことを恐れると同時に、自らの「ポール的なるもの」を問い直すことになるような気がします。ラストのポールの言葉「いつでも部屋は空いていた」は、全てを言い表しています。

2006年2月12日日曜日

表参道ヒルズオープン

本日オープンした表参道ヒルズに行って来た。行ってびっくりした。地下鉄表参道駅からヒルズまでは、まるで初詣の境内か勘三郎襲名披露時の歌舞伎座前のような混雑状態。建物の前には行列と歩行者がひしめきあっていてもうグチャグチャ、なんと入場制限しているらしい。田んぼの真ん中にできたイオンのオープン日ぢゃあるまいに・・・基本的にイナカモンの小生には意外な光景。

2006年2月11日土曜日

【音盤】伊福部昭:NAXOS日本音楽家選輯


伊福部昭:シンフォニア・タプカーラほか
  1. シンフォニア・タプカーラ(1954、1979改訂)
  2. ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ(1961)
  3. SF交響ファンタジー 1番(1983)
  • ドミトリ・ヤブロンスキー(指揮) エカテリーナ・サランツェヴァ(p) ロシアpo.
  • 2004.5
  • NAXOS 8.557587J

��日夜、伊福部昭氏が亡くなりました、91歳というご高齢であったことをニュースや「鎌倉スイス日記」などで知った次第です。伊福部氏といえば「ゴジラ」ですが、それ以外の音楽も改めて聴いてみようと思いNAXOSの「日本作曲家選輯」を購入、例によって片山杜秀氏の恐ろしく充実した解説付です。HMVでなんと790円でしたからお買得といえましょう。

シンフォニア・タプカーラのタプカーラとはアイヌの舞踏の一形式なのだそうです。ストラヴィンスキーを思わせる強烈なリズムに土俗的色彩、どこか郷愁と暗い情念が漂う独特の雰囲気。アレグロであってもアダージョ楽章であてっても、どこか血が騒ぐかのような音楽は彼が守ろうとした日本的なものを深いところで想起させるからなのでしょうか。

リトミカ・オスティナータにおいては、様々な伝統音楽で使われている5音音階を包括的に内蔵させた6音音階を用いているのだとか。ホルンに導かれて登場するピアノの旋律は、限りなくノスタルジック、音楽からは限りないイマジネーションとふくらみを感じます。ピアノのクラスター風奏法は、ストラヴィンスキーやプロコフィエフよりもラウタヴァーラなどの北方の音楽に通ずる峻厳さを感じます。

こうして伊福部氏の音楽を聴いてみると、彼を「ゴジラ」だけで記憶に留めるのは全く一面的でありそして、もったいないことだと思います。2度ほど音盤を通して聴いて改めて冥福。

NAXOS盤の演奏はyurikamome122さんも書かれているように、ちょっと不満です。伊福部臭がちょっと薄いような・・・、東京で食べるジンギスカンとかホッケの開きみたいな感じ。ちょっと聴いていて気恥ずかしくなったりする(笑)。には半面的に首肯。鎌倉スイス日記:伊福部昭・逝去の報に接してとyurikamome122さんのエントリには敬意を表してTBしておきます。


2006年2月10日金曜日

ベスト100とかが、さらに売れていること

昨年の東芝EMI「ベスト・クラシック100」に引き続き、クラシックのサビだけ集めた部分のCDなどが売れているのだそうです。似たような企画は

  • 「どこかで聴いたクラシック101」(ユニバーサル)
  • 「100曲モーツァルト」(エイベックス)
  • 「クラシック・ベスト200」(ワーナー)
  • 「ベスト・オペラ100」(東芝EMI)
  • 「ベスト・モーツァルト100 6CD』(東芝EMI)

などで、かつての「アダージョ・カラヤン」のブームをふと思い出させます。

こういうCDの普及がクラシックファンのすそ野を広げることになるのかは議論の分かれるところ。昨今の「モーツァルト効果」「モーツァルト・セラピー」などの紹介のされ方と受容を含め、流行が過ぎ去った後に何が残っているのかが問題となるでしょう。

忙しい(とされる)現代人にとって、クラシック音楽は「長すぎる」娯楽です。映画だって2時間を越えると「いい映画なんだけど長すぎ~」という感想が目に付きます。コンサート・ホールやオーディオの前で1時間以上もぢっとしていることに耐えられない人も増えてきています。長時間にひとつのことに没頭することがなくなってきたということなのでしょうか。ロックやポップス系の曲でも1曲5分近くになると「長い」と感じる傾向があるようです。

じっくりと物事に取組めないという傾向は、例えば映画や演劇、出版業界にも当てはまるのではないでしょうか。映画はテンポの速さと刺激の倍増に反比例して内容は薄くなる。ベストセラーとなる新書は本の値段と厚さの割には活字数が少なく、結論ありきの理論の飛躍が目に付く。歌舞伎も刺激とスピード感のある勘三郎に人気が集まるなどなど・・・。こういう傾向は「白か黒か」というように単純化された理論が受けている最近の傾向とどこかでつながっている気がしないでもありません。(と、こういう考えそのものが、結論ありきの論理の飛躍ですが)

話を戻しますと、クラシック音楽は十八世紀頃から二十世紀における西洋の思想を代弁していたとする許氏の指摘には一理あると思っています、「普遍性」「真実」「真理」「理念」「理想」などが「嘘っぽい」「欺瞞である」という認識の土壌に現代人が立っているならば、クラシック音楽は耳障りの良い、あるいは爆音でストレスを解消させる、といった効用しかなくなるのではないかと思うのです。クラシックの断片化と商品化は、堪え性のない現代人の志向を強化することはあっても、その中から「のだめ」と「ベスト100」から脱皮した21世紀的クラシック・ファンが大勢育つと考えるのは楽観的かもしれません。それであっても「音楽の持つ根源的な力」を信じる人は、聴く人をいつしか目覚めさせることができるという希望を抱くのでしょうか。

〔追記〕 とここまで書いて、気になるブログのエントリが2件。

Syuzo's Weblogで紹介されていた「西洋音楽史」、これは是非とも読んでみなければ。次に「おかか1968」ダイアリーでの「クラシック音楽 ネット界での明暗」とうエントリ。西洋音楽(クラシック音楽)の受容のされ方は、私の固定観念を超えるとこころが、もしかするとあるのかもしれないなと。(February 10, 2006)

備忘録

メモしておかなくては忘れてしまうもの。
  • アルテミス弦楽四重奏団:リゲティの弦楽四重奏曲 情報元
  • 吉田秀和:くりかえし聴く、くりかえし読む 情報元
  • 小泉浩:海へ~現代日本フルート音楽の諸相 情報元
  • クーベリック:1969年ライブ録音による「運命」 情報源
  • 星川清司:『小村雪岱』 1996 平凡社 情報源
  • 岡田 暁生:西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 情報源

2006年2月8日水曜日

【本棚】「女系天皇論」の大罪


本日7日、秋篠宮妃紀子さま(39)が懐妊されたことが判明したそうです。あまりにもタイムリーな話題は、今国会で提出される予定の拙速な「皇室典範改正案」にも影響を与えそうです。(タイムリー過ぎて、皇室からの「ささやかな意思表明」とまで思えてしまいます・・・)

本書は、小堀桂一郎氏、櫻井よしこ氏、そして八木秀次氏によるニ度に渡って行われた鼎談をまとめたもので昨今の性急な動きに意義を唱える《緊急出版》の書。小堀氏が「鼎談を終えて」に記しているように、同じ趣旨の反復等の形式上の不備が目に付きますし、本書の主張をまとめたら、おそらくは最初の50頁だけで足りてしまうだろう内容ではありますが、三者の「皇室典範改正」に反対する強い意気込みは、ズイズイと伝わってきます。

小堀桂一郎氏について、私は本サイトの中で批判的な文章を数度も書いてきました。天皇あるいは皇室の現代日本における存在意義については、私は未だ明確な見解を持ちえていませんが、それでも「今国会で」ということが理解できません。素人集団であった有識者会議の面々や、延30時間程度の議論で出した拙速な結論については釈然としません。

小堀氏や櫻井氏らは「万世一系の天皇家の伝統」「男系維持の原則」「日本文化の秩序の核心」として皇室を位置付けていますし、GHQにより解体させられた旧皇室を含めて、皇位継承についてもっと慎重に議論すべきだとしています。有識者会議は皇籍離脱した人を「今更皇室と国民が受け入れるか」と排除しながらも、一方で皇族のスコープを拡大することになることについては、「皇室の安定的維持」以上に、皇室とは何かという問題を提起はしないのでしょうか。

国会でも国民の間でも、議論は分かれるでしょう。「女性」と「女系」の違いなど基本的なことも重要ですが、私は議論すればするほど泥沼に陥る気がしています。「国家の品格」の藤原氏ではないのですが、理論の限界や「ならぬものはならぬ」ということは、どうしてもあるのではないかと。小泉首相はここにきて日本国の「ある部分」を完全に解体する気なのでしょうか。

実のところ数年前に森元首相が「日本は天皇を中心とした神の国」という発言で物議をかもし、私も当時は随分と違和感と不快感を持ってその発言に接したのですが、実は案外と本質をついているのではないかと考える時もあったりします。かように天皇制の問題は国歌・国旗問題を含めて私の中では自己矛盾に満ちたままです。

蛇足ですが、小泉首相の発言。

女系天皇を認めないということは、仮に愛子さまが天皇になられた場合、そのお子さまが男でも認めないということだ。それを分かって反対しているのか

全然わかってない・・・こんな人が、改正しようとしていることに、もっと非難を集中すべきでありましょう。マスコミもバカかいな。

2006年2月3日金曜日

モーツァルト本

今年はモーツァルト・イヤーということですからCDショップに行きますと、モーツァルトの「有名なところ」だけ集めたCDが山積みだったり、モーツァルトのコーナーができています。昨年の「のだめブーム」や東芝EMIの「ベスト・クラシック100」のヒットなどもあり、(どうみても普段はクラシックなんて聴きいていなさそうな)若者たちも、それらのCDを手に取ったり視聴しているのを目にすることができます。

クラシックの裾野が広がる意味では喜ばしいことだわいなあと素直に受け止め、しかしモーツァルトはどうして世界中で「フィーバー」になるのだろうか、考えてしまいます。

少し古いですが「音楽の友 1月号」では海老澤敏氏が『後世に受け継ぐべき「鳴り響く文化財」』と題して特別寄稿されていました。海老澤氏もシューマン歿後150年、バッハ歿後250年などと比較しても、モーツァルトがまさに異常ともいうべき扱いを受けていると書いています。氏は日本におけるモーツァルト研究の第一人者ですから、モーツァルトの商品化やメディアの情報供給からくるモーツァルト像の歪曲化などを危惧しながらも、モーツァルトという奇蹟の文化財を後世に受け渡してゆくことを切に願っています。

従来からの研究者やファンも同じような思いかも知れませんが、モーツァルトがここまで「商品化」されるほどに人気なのは何故なのでしょう。以前も少し触れましたが、昨年から4冊ほどモーツァルト関係本を読んでみました。

  • H.C.ロビンズ・ランドン:モーツァルト 音楽における天才の役割(中央公論社)1992年初版
  • 井上太郎:わが友モーツァルト(講談社現代新書)1986年初版
  • ピーター・ゲイ:モーツァルト(岩波書店)2002年初版
  • 井上太郎:モーツァルトと日本人(平凡社新書)2005年9月初版

今までモーツアルトはあまり馴染まなかったのですが、彼の生涯は非常にドラマチックであり、多くの研究者の興味をそそらせる存在であることは、4冊の本を読むだけで改めて知ることができました。最初の2冊は1991年、モーツアルト歿後200年の時に購入したものの再読。絶版本のようですが、わざわざ探して読むほどではないと思います。(同類の書は他にもあるだろうと思われる故)

ピーター・ゲイ氏の本は、手紙からの引用を豊富に用い、モーツァルトと父親の関係に重点を置いて記述している点で一読の価値があります。最近出版された井上太郎氏の本は、「モーツァルトへの愛」が紙面から溢れるばかりで、モーツァルト愛の薄い私などには、ちょっと辟易するところもある文章です。なぜ「日本人」はモーツァルトが好きなのか?ではなく、「私はかくもモーツァルトが好きである」というモーツァルトに耽溺したごく私的な心の軌跡を、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、吉田秀雄、遠山一行を引用しながら吐露した本です。ああ・・・吉田秀和氏の初期のモーツァルト論でも再読したくなりました。


2006年2月2日木曜日

【本棚】P.F.ドラッカー:企業とは何か


P.F.ドラッカーが1946年に著した世界的名著「企業とは何か(Concept of the Corporation)」をボチボチ読んでいます。 本書はGMの内部調査から、組織論およびマネジメント論を生み出し、その後、企業だけではなく世界中のあらゆる組織で教科書として用いられた本です。

この本が偉大であるのは、今日の企業経営では常識的な問題を既に示唆しているに留まらず、ひろく組織と人間の関係を炙り出している点です。すなわち人間を社会的な存在として位置づけ、1940年代半ばの大量生産社会において人間が幸福でありえるかということを問いかけています。

特に「第Ⅲ部 社会の代表組織としての企業」は圧巻。ドラッカーは本論のスコープをキリスト教の伝統をもつアメリカ社会という特定の社会における信条、目的、目標にかかわる問題として、個の尊厳と機会の平等、産業社会の中流階級、働く者の位置付けと役割について論じています。

まさに機会の平等という名の正義、社会における位置づけと役割という名の尊厳を統合して実現することこそ、産業社会の代表的組織としての企業の最大の課題である(P.140)

ドラッカーは機会の平等、自己実現の約束は個としての人間の重視という際立ってキリスト教的な思想から生ずる政治哲学の基本であるとします。企業が(アメリカ)社会の代表組織であるなら、アメリカ社会の信条を体現しなくてはならないのだと。

翻って日本社会の信条とは、日本の政治哲学とは、根本原理とは何なのか。これらを考えることは日本政治思想的な考え方や天皇制をも避けて通ることができず、たとえば昨今の皇室典範の改正や、企業の本質論、更には相次ぐ企業の欺瞞やニート問題など、トータルに考える必要性があるのかもしれません。(物理学の統一場理論のようなものを求めるつもりはありませんが・・・)

ドラッカーの著は60年前に書かれたものですが、極めて今日的な話題(60年経ってもやっと日本で議論されはじめた問題)も扱っており、その慧眼には驚くばかりです。

2006年1月29日日曜日

【本棚】ジャック・ウェルチ:「わが経営(下)」


ジャック・ウェルチの「わが経営」を上下巻読み通し、ジャックと一緒に長い旅を終えたような気になりました。社員数30万人近い多国籍企業のCEOになるには、どういう道のりがあるのか、そしてCEOに備わる資質とは何か、企業経営とはどういうものか、また企業とは何なのかということが、そして人生とは何なのか。本の端々にはジャックの人生哲学が読み取れます。

数多くの企業買収を手がけ、数え切れないほどのリストラを実行し、GEを根本から変え大きく発展させた二十世紀最高の経営者、その人間性の一端に触れたとき、深い感動さえ覚えてしまいます。

特に「第24章 CEOという仕事の本質」は、下巻の中で必読部分でしょうか。ジャックはCEOという仕事は最高、最高だ。(中略)これほどすばらしい仕事が他にあるだろうか。報酬は確かに高額、しかし本当の報酬はその楽しさにある(P.271)熱く語ります。

また、彼が後継者を選ぶに当たっての内実を語った「第26章 「ニュー・ガイ」」は、この章だけでひとつの物語が書けそうなくらいのドラマです。ジャックが後継者選びを本格的に始めたのは、まだ任期を7年以上も残している1993年11月だと言います。後継者を23人に絞り込み個々の候補者の教育プランを入念に練り上げ、2000年までの昇進の筋書きを一人ずつ組み上げた(P.332)と説明しています。人材を選別し、育てながらGEの企業文化に最も合った、最高のリーダーを徹底的に選び抜く、その過程において「政治的」なものがほとんど介入されないように、最新の注意を払って!

何が彼をここまで駆り立てるのか。エピローグにある2001年1月にジャックがGEを去るに当たって催されたボカ・ラントでの上級管理職ミーティング最終日でのスピーチに全てが言い尽くされています。

われわれは力を合わせて、想像もしなかったことをなし遂げてきた。そしてとても届かないと思っていたところにまで到達した。われわれはみな、不可能だと考えていた夢をかなえてしまった。私はと言えば、みんなとほとんど同じ立場からスタートし、そして社員全員の立派な仕事のおかげで幸運を手にすることができた。みなさんのすばらしい仕事に感謝したい(P.383)

ジャック入社三年目の1963年、ピッツフィールドのプラスチック工場を爆発させてしまったように、

これから先には全く新しい勝負が待っている。変革を起こそう。(中略)GEという組織をひっくり返し、揺さぶり、そして屋根を吹っ飛ばせ(P.380)

ユーモアも含めジャックにしか言えない言葉です。

本書を読み終えて、これに先立つ20年前、彼がCEOになることを推していなかった当時の副会長ジャック・パーカーの言葉を思い出します。

私は君を指示しなったし、GEを経営するにはふさわしくない人物だと思っている。この会社をめちゃくちゃにしないでくれ(上巻 P.146)

真の改革者、リーダーとは、どういうものであるのか、本書はその一例を見事に示しているといえます。

2006年1月27日金曜日

なんでも「市場原理主義」が悪いわけではなかろうに

ライブドア堀江氏の逮捕についてマスコミや識者が色々書き始めています。1月25日の読売新聞では「国家の品格」の著者である藤原正彦氏が、今回の事件を生み出した現在の日本の姿について持論を展開されております。

市場原理主義が経済学の中でどどまっていれば、まだいい。(中略)ところが市場原理主義は、人間の価値基準、行動基準まで書き換える。それが恐ろしい。

市場原理主義の広がりによって、日本は世界でも特異な国柄を捨てつつある。成果主義に追いまくられ、雇用が安定せず、人間を幸福にしない社会にしている。

市場原理主義によって情緒という日本人の行動基準、特に弱者に配慮する"惻隠の情"が根こそぎやられた。

実はまだ「国家の品格」は読んでいないのですが、この言説によって凡その主旨は掴めました。藤原氏が「市場原理主義」をどのようなスコープで使っているのか不明なのですが、一企業に身を置く立場からは、感情的に理解する点はあるものの、「市場原理主義」が全ての弊害ではあるまいにと考えます。

この問題は、資本主義に換わる大きなパラダイムシフトや「幸福論」を示唆しますので簡単な問題ではありません。藤原氏の提唱するのは、グローバリズムや自由を制限的に考え「武士道」精神の復活ですが、それが日本「国家」の品格につながるのか。現代の日本を憂慮する気持ちは伝わってきますので、全否定しているわけではありません。ただ傾聴すべき点は多いものの、議論がストレートすぎるなと。

さて、議論を縮小して「多様さ」を前提に考えを展開しようとしたとき、今の日本には「幸福感の多様さ」を受け入れる土台が出来ていないように思えます。「多様さ」を受け入れることは、「選択」と「選別」も避ることができず、「多様さ」の結果として「結果の不平等」を是認する以上、システムとしては「機会の平等」の整備も必要となります。そういう点からは政府の役割や企業、NPOなど組織の存在価値について、もっと議論されても良いと思います。

「国家の品格」という本は、おそらく買わないだろうなと。大新聞のコラムで大きな問題を簡単に結論づけてしまうような態度に藤原氏の「思い」先行の危険性を感じますし、最近の新書のレベルと品格は、著者の品格や主張とは無関係に、一昔前に比べて随分と低下していると思いますので(>ムカシに比べて、値段の割に文字数が少なくて内容が薄い・・・気がする)。

2006年1月26日木曜日

歌舞伎座:伽羅先代萩


「伽羅先代萩」ですが、これはまず子役が良くないと面白くなかろうと思っていましたが、千松を演じる虎之介は見事に初舞台の重役をこなしていました。「常々教へておいた事、幼な心に聞き分けて、よくぞ覚えたり、出かしやった/\、天晴ぢゃ」という程の出来。人形のように華奢な体から発せられる高く通る声は、それゆえに健気さと哀れさをさそいます。


イロイロ予習して望んだのですが、政岡については先に紹介した「祝福に対する予見性」というような屈折した感情を藤十郎の芝居からは感じませんでした。また、政岡は床本を読む限り気丈夫な女という印象でしたが、藤十郎の正岡はもっと柔らかく情が強い。理よりも情が勝った政岡像という具合に感じました。


ここのところを「一閑堂」のぽん太さんは「生理に根ざした政岡」と書いておられます。それと似たような印象を覚えたのは「飯(まま)炊き」での演技です。


風炉にかけたる茶飯釜湯の試みを千松に飲ます茶碗も楽ならで


「飯炊き」は芸談を読むといろいろな型があるようですが、藤十郎は茶の手前に時間をかけることなく手早く済ませているようです。むしろ湯を飲ませた後の千松を眺めやる、眼差しと手つきに緊張感を強調したのかなと。米を研ぐ場面では茶筅を用いず手で研ぐことにより「飯炊き」に生々しさとリアルさが入ったように感じられます。そして、藤十郎は米を研ぎながら、三味線に乗ってこうツイと左肩を落とすきまりを何度か繰り返します。若干のおかしみを伴う仕草で、観客からは笑いも生じるのですが、私はここに政岡の口には出せぬ悲しみの表現を感じました。


「一閑堂」のポン太さんがここは本質的にギャグであり、役者の工夫をみせる見世場に違いないと指摘しますが首肯すべき指摘かもしれません。おそらくここは作者の観客へのサービスなのでありましょう。鶴千代や千松の戯れとともに、ほのぼのとした温かみを感じさせる場面です。陰謀渦巻くお屋敷の中で、このつかの間の平和があるからこそ、後の悲劇も大きくなります。しかし、ここが喜劇であることに同意するとしても、藤十郎は喜劇の底に潜む母の悲しみと、将来的な悲劇の断章を垣間見せてくれたように思えます。


さて、その酷いまでの悲劇の場面。


となぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先へこたゆる辛さ無念さを、じつとこらゆる辛抱は、ただ若君が大事ぞと涙一滴目に持たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鑑、いまにその名は芳しき。


鶴千代の安全はは守りながらも、駆け出しそうに、あるいは崩れ落ちそうになる体を柱で支えつつ、子の最期をひっしと見守る。その辛さ悲しさ狂おしさ。それは芝居を見ていてもヒシヒシと伝わってくきます。決して文字面から見えてくる「烈女」はそこには居ません。


「飯炊き」での肩を何度かツイと落とすきまりは、千松の死骸に向かって袱紗を口に含んでの場面でも見ることができました。そこには政岡が最愛の我が子を亡くした悲しみが凝縮されているように感じました。


千松を殺した八汐は、どうしてあそこまで子供に対して無残になれたのでしょう。


ムヽスリヤこれでも此方は何ともないかや、これでもかこれでもか


と言いながら千松に何度も刃を突き刺す八汐の心は、お家騒動そのものよりも、政岡その人にあったのかもしれないと考えたりしました。「御殿の段」の前は「竹の間の段」で、鶴千代を亡き者にしよとする政岡と八汐の駆け引きが書かれています。この段では八汐が分が悪くなり引き下がっていますから、続く「御殿の段」では、どうしても政岡をやり込めたかったという、女の私讐心が八汐にはなかったか。


政岡は千松の遺骸を抱いて泣き叫ぶ場面。鶴澤八介氏のネットで読める床本では、


君の御為かねてより覚悟は極めていながらも、せめて人らしい者の手にかゝつても死す事か、素性賎しい銀兵衛が女房づれの刃にかゝり


とあります。藤十郎は「素性卑しき八汐づれのの刃にかかり・・・」と言っていたように聴こえましたが、いずれにしても、政岡のそういう感情を知っての八汐の私怨もあるのかなと。その復讐心の激しさ故に、千松を殺した後に引き下がるときの八汐の見得は、悪女の勝ち誇りそのもの。悪役ながら観る者をその場でグッと惹き付けます。そういう悪女の憎らしさと誇らしさを梅玉の演技から感じました。


政岡が八汐を返り討つ場面は(観客にとっても)「憎たらしい」八汐を仕留めたことにより溜飲を下げ、同時に歌舞伎の持つ型の美しさが充分に発揮された場面でありますから、これぞ歌舞伎を観る快楽と言わずに何といいましょうか、ということになるわけです。


「床下の段」はオマケみたいなものですが、さにあらず。吉右衛門の荒獅子男之助、幸四郎の仁木弾正と全く贅沢な組み合わせ。吉之助は何と初役とのことですが、吉右衛門らしい力強さ、爽快さ、明るさがいい、彼の芸を観るだけで心が晴れます。対する幸四郎の仁木弾正は、もう笑いたくなるくらいにハマっていて、どうしたらそこまで不気味な仁木弾正になりきれるのか、肩をたたいて問いかけたくなるほど。政岡の悲しみも、千松の哀れも、全てこの二人の荒事で厄落とし、爽快に幕となります。まさに「一粒で二度おいしい」演目です。


もっとも新藤十郎に全く問題なかったかというと、そうでもありません。歌舞伎初級者以下の私が書くのも憚られますが、声が少し枯れており、連日の襲名披露公演のお疲れか?と少々心配したことも確か。あれが藤十郎の「芸」なのでしょうか・・・


ちなみに、この演目は気になりましたので二度ほど観ての感想です。やはり二度目の方が面白く、感慨も深いものがありました。とは申しましても、かなりいい加減な感想ですので歌舞伎ファンの方は、テキトーに読み流してください m(_ _)m

2006年1月25日水曜日

モーツァルトの音楽に関するメモ

モーツァルトの音楽は彼の私生活の美しさとは無関係に成立している。彼の音楽にロマン派的な解釈論を持ち込むことの間違い。


神を讃えるのでも、自らの内的告白でもないとしたとき、モーツァルトの音楽はどこに立脚するか。単なる慰めと享楽というには完成され、美しすぎ、神聖さえ帯びる矛盾をどう許容すべきか。

2006年1月24日火曜日

歌舞伎座:初春大歌舞伎~坂田藤十郎襲名披露公演


 歌舞伎座で「初春大歌舞伎の夜の部」を観てきました。今回は中村鴈次郎改め坂田藤十郎の襲名披露公演を兼ねています。

演目は扇雀が初代中村鴈次郎の当たり役であった藤十郎役を曾孫の扇雀が演じるという「藤十郎の恋」。続いては坂田藤十郎の「襲名披露 口上」、そして新藤十郎が難しい役どころの正岡を演じる「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」。最後は福助の「島の千歳(しまのせんざい)」、そして橋之助、染五郎による「関三奴(せきさんやっこ)」の四本です。

それぞれ大変楽しむ事ができました。(読み返して思ったが、歌舞伎ファンでなくては意味不明の文章だな↑・・・まあいいや。)

「藤十郎の恋」は江戸時代の初代藤十郎を描いた菊池寛の作品。この芝居から当時の藤十郎の姿が彷彿とするというわけではありませんが(そもそも初代藤十郎の芸がどんなであったか、正確には残っていないわけですし)、芝居としてみたときには、それなりに面白いかなと。

芝居の見せ場は、藤十郎がお梶に偽の恋を仕掛けるところです。藤十郎は熱い思いを打ち明けながらも、それは全ては芝居演技の参考に女心を観察するため。対するお梶は、秘めていた感情をかき乱されてしまう。藤十郎の告白に必死の覚悟を決めたお梶が、ふと行灯を消す。「どきり!」としたのは、舞台の上の藤十郎だけではないでしょう。あらかじめ筋を知っていたのに、思わず冷や汗。その後は、だんまりになって藤十郎は事の成行きに慌てて逃げるように部屋から出てしまうのですが・・・。ここに男と女の強さの違いを感じました。いざとなると肝が据わっているのは女かなと。

当時は遊郭での売春は許容されていても、結婚した者との不義密通は磔刑になるほどの重罪。藤十郎は芸に命をかけ、お梶は一瞬の恋に命をかけた。

藤十郎の芸の人気が女子一人の命などで傷つけられてよいものか

藤十郎がよろめきながらも、自らを納得、鼓舞するかのように叫ぶ様は、近代的倫理観では肯定できない科白ですが、藤十郎の写実を重んじた芸の厳しさを表したということなのでしょうか。「芸の為なら~♪」という演歌もありましたっけ・・・(演歌は全く聴きませんが)

初代藤十郎を演じる扇雀はホンモノの藤十郎に遠慮したか、観終わった感想としては時蔵のお梶の印象の方が強い。「女」の凄みですかね。それとは対照的な芝居小屋の楽屋裏のがやがやした雰囲気が、何ともにぎやかで楽しめる舞台でした。

「襲名披露 口上」はおめでたい席ですから、素直に楽しめます。両脇を幸四郎と吉右衛門が押さえているところなど「飛車角で固めた」という印象。「藤十郎」という名前を襲名していますが、「四代目」とは名乗らず、ただ「坂田藤十郎」と名乗っているところに、江戸歌舞伎の市川團十郎との違いや、新藤十郎の強い意志を感じました。

「島の千歳」は、福助の島の千歳が個人的には良かったですね。艶やかさ、優美さ、福助の踊りはやはらかく観ていて気持ちが良いです。橋之助、染五郎の「関三奴」は、快活な舞踏。歌舞伎に疎い私には、どちらが誰なのか最後まで分かりませんでしたが!!( -_-)=○☆)>_<)、充分楽しめました。

「伽羅先代萩」はエントリを改めます。

2006年1月23日月曜日

歌舞伎座の川端龍子

何度も歌舞伎座に行っていたのに、西側の階段踊り場に川端龍子の絵が飾ってあることに今日初めて気が付きました。緑色の獅子が白い牡丹をくわえた大きな絵です。


なるほど眺め、うむうむと唸り、三歩下がって離れて観ようとしたら、階段からコケそうになりました。気をつけて鑑賞いたしましょう(笑)

2006年1月22日日曜日

雪とか歌舞伎とかモーツァルトとか


土曜日は、朝カーテンを開けると天気予報通りに雪が降っていました。東京の雪だし・・・と軽く思っていたのですが、一日中降り続いていましたね。東京では珍しいのでしょう、子供たちが遊ぶ姿が窓から見えました。雪国育ちの私は、うれしいというよりも、なんかめんどくせーな、といった感じ(笑)

池袋HMVはダブルポイント・デーで賑わっています。いきなり店内のスピーカーからベト7が。開始と同時にモリモリと盛り上がるエネルギーに思わずおおっと思った演奏は、やはりC.クライバー指揮バイエルン国立管の演奏。買おうかどうしようかと迷っているうちに、店内で終楽章まで聴いてしまいました。第ニ楽章も暗さはほとんどなく、クライバーらしく疾走する演奏。買ってゆっくり聴きたいとは思いましたが、今月は出費が多いのでCD購入は控えます。

その後、池袋ジュンク堂に行って歌舞伎関連本を「座り読み」。白水社の歌舞伎オン・ステ-ジから「伽羅先代萩」の底本を再度熟読。「御殿の段」の前の「竹の間の段」から読み始めると、政岡の立場や飯炊きに至る経緯が理解できます。巻末に収録されている芸談なども読み、なるほどと勝手に納得。ついで「演劇界」で坂田藤十郎の襲名披露に関する記事やグラビアを眺めたり読んだり。扇雀時代の写真を見て、「ほう・・・」これは確かに美しいわいなァと関心。歌舞伎界の発展には江戸歌舞伎と上方歌舞伎の双方の発展が必要なのですとか。最近の「お笑い」ブームで関西も元気になってきたので、この時期に「藤十郎襲名」ということなのでしょうか。

扇雀時代から「藤十郎襲名」は悲願であったらしいのですが、当時は「まずは鴈治郎を名乗れ」といわれ、そしてこのたび大竹会長から「そろそろ藤十郎を名乗ったらどうか」と言われたのだそうです。歌舞伎の興行主は松竹ですから、松竹なりの計算もあるのだろうなと思って雑誌を閉じます。

結局歌舞伎関連の本は買わず、重さも値段も軽めの井上太郎著「モーツァルトと日本人」を購入。電車の中で読み始めたところ、買うほどの本ぢゃなかったかと若干後悔。ネットからダウンロードした菊池寛の「藤十郎の恋」も読み終え歌舞伎座への準備も整いました。