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2001年3月19日月曜日

演奏者の演奏に対するのめりこみ度など

バーンスタイン&ニューヨーク・フィルの86年の「悲愴」を聴き、指揮者の主観が入りんだ演奏に対する私見を最後に述べた。 基本的には、過度の感情を移入した演奏であっても、私はそれを是とする態度であるが、改めて現状での私の考えを記しておきたい。
 私が音楽を聴くのは、作曲家が示した音楽世界を追体験したいがためである。それは言葉や絵画などにはできない、音楽でしか表しえない表現世界であり、曲はきっかけでしかないと思う。曲を聴くことで作曲者が感じたのと同じ感情を聴衆が受ければ幸せである。しかし、それが歪曲されたり誇張されていたとしても、あるいは、作曲者がまったく意図しなかった類の感銘を受けたとしても、少しでも演奏に感動したとするならば、(曲を媒体として)ひとつの表現世界に接したことになる。私は音楽にそれ以上のものを望んではいない。私は音楽を通して学問したり哲学しようとは思っていないし、難しいことは抜きにして「楽しみ」を与えて欲しいと思っている。
 そういう意味からバーンスタイン晩年の「悲愴」を聴くと、彼の展開した音楽的世界の豊穣さに心打たれるばかりである。
 バッハの音楽はポップスを含め色々な分野でアレンジされているが、バッハの音楽の持つ気品や崇高さ、すなわち音楽の持っている力は失われることがないように思える。そういう音楽がクラシックに限らず名曲といわれるのではなかろうか。どんなに勝手にアレンジしても、曲の輪郭はおそらく崩れないのだ。
 ・・・・ただ、ここら辺りは、自分で書いていても異論が生じそうな部分だ。改めて考えることがあれば、記すこととしたい。


バーンスタインの「悲愴」を評して、「感動的な演奏だが、初めて聴いてはいけない」とか、グールドの弾くモーツアルトやバッハを「この演奏から聴き始めることを薦めない(あまりにもユニークであるため)」ということを、色々なサイトのCD評を読んでいると目にすることがある。
 何故だめなのか?作曲家の意図した以上のことを、演奏者が付与してしまったからなのだろうか。クラシックというのは、学究的にかつ、忠実に音楽家の示した思想や世界を提示しなくてはならない種類のものであるという前提があるからなのだろか。バーンスタインをしてさえ、グールドとのブラームスのコンチェルト(62年のニューヨーク・フィル カーネギーホールでのライブ)は「彼の演奏は自分の意志とは反する」と言ってから演奏を開始したはずだ。(もっとも、それを価値あるものと認めた彼は偉大なり!)
 内田光子などを引き合いに出すまでもなく、おそらくほとんどの指揮者や演奏家が、作曲家のオリジナル楽譜を入手し、細かな標記ミスまで含めて研究と解釈を繰返し演奏に望んでいるのだと思う。それらの演奏は深く我々を感動させもするし、曲の新たな面を見せてもくれる。
 しかし、ケーゲルやストコフスキー(いっしょにすると怒られそうだが)などのトンデモ系の演奏であっても、それに深く感動できるのならばいいのじゃないか?と私は思ってしまう。「・・・してはいけない」「○○○は邪道である」という類の感想は、クラシック音楽をある枠の中に閉じこめこそすれ、広くポピュラリティーを得ることを阻害する大きな要因であると思うのだ。
 この駄文自体「一体なんなんだ? どうしてそんなことに拘るのか?」て気もしてきたのでこれにてやめるが・・・



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