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2004年3月31日水曜日

国旗と国歌にまつわる話題

『東京都教育委員会の2003年10月23日通達』(10.23通達)というものをご存知でしょうか。都教委が発した卒業式・入学式などの学校行事を行う際に国旗・国家の扱いを事細かに定めたもので、教師には「服務上の責任」が求められています。私もネットでこの通達本文を読みましたが(今は探せなかった・・・)、あまりの細かな規定に違和感と不信感を持ったものです。

(以下、長いですよ)

ちょっと前の話題ですが、3月26日の産経新聞の社説は「国旗・国歌 都の徹底指導を見習おう」というもので、教育界で騒然となった10.23通達を見習えと主張してます。更に、

ふだんの授業で国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば、むりなく国旗に向かって起立し、国歌を歌うことができる。国歌斉唱時に起立して歌わないことは、生徒の自主性と何の関係もない。

という主張を展開しています。


岩波書店の『世界 4月号』では『「日の丸・君が代」戒厳令』という特集が組まれており、『脅かされる思想・良心の自由』というテーマで憲法学者やジャーナリスト、弁護士などの論説を掲載しています。

『世界』で主張しているのは将に、国旗・国家の強制が、教育の目的である「人格の完成」と子供の教育を受ける権利、そして憲法で保障されている思想、信条、良心の自由を侵害するものであることに対する反論です。両者の持つスタンスの間には、掛け渡す橋さえないような深い溝がうがたれているのを感じます。

さて、「壇上の日の丸に向かって直立し、君が代を斉唱して下さい」と言われたなら、私だったらどうするでしょう。「歌うも自由、退席するも自由です」ともし告げられていたとしても、せいぜいが斜に構えて口パクをする抵抗が関の山といったところでしょうか。「ムキになって反対するほどの思想的根拠も持っていないけれど、朝日的な気分からは反対しておこう。」という心情です、何とも情けないですね。「イデオロギー」なんてもはや「死語」ですし。

しかし、「君が代を声を出して斉唱しないものは、服務不履行として厳重注意する、あるいは国民としての義務違反だ。」みたいなことまで言われるとしたならば、少しは穏やかではなくなりますね。そこまで国家が内面的精神活動である「思想や良心の自由」に踏み込んでいいのかと思うわけです。でも、やっぱり国歌だけの問題ならその場を適当にしのいで誤魔化してしまうというのが、処世術というやつでしょうか。

産経新聞は、そういう態度にならないようにするために「きちんと教えておけば」問題ないと主張します。教育がいけないから、君が代や日の丸を疎んじたり愛せない子供ができるのだと言っているわけです。これは小泉首相をはじめとして、教育基本法の改正まで目論む方々の共通認識です。

『世界4』の論説では、ジャーナリストの斉藤貴男氏は『国家にとって教育とは一つの統治行為』であり『必要最小限の共通認識を目指す義務教育については、国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ協力に行わなければならない』という「21世紀の日本の構想懇談会」の最終報告書を引用した後に、

『"統治機能としての教育"を前面に掲げることのできる人間観が導く社会の実相。あるいは伝統や歴史を纏った<国旗><国家>をシンボルに統合された国民は、どのような世界に連れて行かれようとしているのか。』(P.88)

と危惧をあらわにしています。教育という点については憲法学者の西原博史氏も『教師における「職務の公共性」とは何か』という論説の冒頭で

政治的な権力を持つ者が、自分たちが目指す政治目的を実現するための道具として教育を利用する動きがある。[...] 政治的に色の付かない「真実」を主権者国民が共有するには、政治権力が教育内容をねじ曲げることは明らかに好ましくない

私の国旗・国歌に対するスタンスは先ほど述べたように、きわめていい加減であるので、お二人の意見には同調はするものの、教育とは為政者にとって常に都合の良いようにできているものなのではないだろうか、という疑問にもぶち当たるのです。国家としてまとめてゆくためには、教えるべき情報と、隠蔽すべき情報があり、『政治的に色の付かない』教育などというものが、果たしてこの世に存在しえるのかと思うわけです。

ただそう思うようになったのは、社会人になってかなり経ってからでしょうか。教育というのは一面的であること、世界は自分の知るところだけではないことを知るのは、二次元に住む人がZ軸のあることを気付くよりは容易なはずではあったのですがね。

話がまとまりませんが、政府が国旗や国家を持ち出さなくては「愛国心」の養成ができないということ、そのことこそが危機的な状況で、偶像的なものにさえすがらなくては、もはや日本としてのアイデンティティと求心力が失われてしまっていると考えているのならば、為政者と旧世代の焦りのようなものを通達からは感じることができ、やっぱり日本は大丈夫だろうかという心配が逆に沸いてくるのです。

以前も君が代問題は、ここここに書きましたが、彼らが守りたい世界と、私が望む世界にはあまりにも隔たりがあるような気がしてなりません。ここでも書きましたが、そうまでして維持しようとる世界はどんな世界なんですかね。

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