2005年8月10日水曜日

大東亜戦争の真実

勝谷誠彦氏がご自分のサイトで、

週末何をおいても紹介しようと思っていたのは実は今号の『WiLL』だったのだ。これまたある意味では重大なスクープである「東條英機宣誓供述書」という日本人なら是非読んでおくべき記事が掲載されているからだ。戦後すぐに公刊されや否やGHQがあわてて発禁にしたというこの文章を抜きにして東條像いやもっと大きく戦前の日本政府の政策をあれこれ言ってきた連中は怠慢というほかはない。
と書いているのでわざわざ買って読んでみたが何ですかありゃ。渡部昇一氏は「近現代史の超一級史料」と主張するが「参考資料」のひとつ程度ではないのか? 大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛の戦争であったと主張したい方々には、随喜の涙を流さんばかりの文献だろうが、私にはだから何なんだという感じ。

「満州の領土とか守ろうとしていたのに、大国が日本を経済封鎖するもんだから、やむにやまれず米国に宣戦布告しました、国際法的には合法な戦争」ということらしく、「あんなことされたら、ルクセンブルクだって宣戦する」って状況なのだったとか。北朝鮮が今、宣戦布告したら彼らも自衛戦争? 日露戦争後の日本国と悪の枢軸の北朝鮮では前提がそもそも違うということか?

私には自衛だったのか侵略だったのか、判断するほどの知識はないものの、日本を守るという旗印のもと結局は日本国民を滅ぼす道を(愚かにも)選択した指導者の国民に対する責任や、アジア諸国に対して行った戦争の惨禍と責任は決して薄まるものではないと思う。本当に「原爆」が落ちなければ日本は「一億総玉砕」へ進んだのか? 戦争になるように仕向け、更に日本の奇襲を知りながら成功させたアメリカのしたたかさには、物量以前に負けていたはずだが。

そもそも「大東亜戦争」という呼称が多くのことを含みすぎている。「アジア・太平洋戦争」と言い換えても良いが、「中華民国」を相手にした戦争と、「東南アジア」を舞台とした戦争の二つだ。東條英機の論理は、中華民国への足がかりを守るために行った東南アジアを舞台にした自衛戦争という論理だ。

満州の領土ということに関しては、満州南部の鉄道及び領地の租借権を得た日露戦争後のポーツマス条約にまで遡るらねばならない。戦争に勝てば領土を得ることは戦争の常識ではあるのだが、それは列強諸国が行ってきた帝国主義と何が違うのか私には良く分からない。ロシア(ソ連か)はけしからん国であるという点だけは間違いはないと思うが。

気が向けばそのうち表に書く。

ちなみに勝谷氏の意見には剋目して聞く点は多々あると思っているが、全面的な肯定には至っていない。





2005年8月9日火曜日

郵政解散

ベタベタと暑い今日、大方の予想とおり郵政改革法案が参議院で否決され衆議院が解散さた。自民は真っ二つ、野党は便乗で議席を伸ばそうと野望を燃やす。で、私はどちらを支持と聞かれても、良く分からないとしか答えようがない。

TVは「小泉首相がついに自民党をぶっ壊した」というような評価の仕方をしているが、あれだけ意見も主張も違う議員が同じ党であったということそのものがオカシイ、既に自民党は壊れていたわけで、最後のタガをはずしただけなのかもしれない。

郵政民営化が象徴するものは、地方対都市とか、既存既得権益対改革路線とかいう図式は分かりやすいが、戦後の日本を営々と支えてきたシステムさえも、小泉は崩壊させたということだろうか。

郵政民営化選挙だと山崎拓議員は言うが、本来なら郵政よりも重要な法案が山積みのハズだし、郵便局がなくなって自分的に困るかといわれると、大都会に住んでいる限りそれほど困ることもない。巨額の郵便資金がハゲタカに狙われるというが、ここについても問題意識は極めて低い。

これから9月の選挙までイロイロな動きがあるだろうし、今回の選挙に過大な期待を寄せてしまう人たちも居るように思うのだけど(今度こそ日本が変わるとか)、私はあんまり期待していない。ムードと雰囲気だけが先行したドタバタにならなけりゃいいだけどね。

■
「ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) 新潮文庫」読む。軍役の義務と市民の権利、国を守ることは国民の使命ですか。

2005年8月5日金曜日

【音盤】工藤重典/武満徹:海へⅢ

いやあ本当に暑いですね、21時に外に出ても電光掲示板は33度とか示しています。こちらに来てそれなりの暑さにも驚かなくなりましたし身体も慣れましたが、それでも夜に30度を越えるのはつらい。

思わずプールにでも飛び込んでしまいたくなりますが、そうも出来ないので工藤重典さんの武満徹を取り出して聴いています。



工藤重典/「巡り」~武満徹没後5年特別企画
  • ①そして、それが風であることを知った ②巡り ③マスク ④海へⅢ ⑤エア
  • 工藤重典(fl) 岩佐和弘(fl) 川本嘉子(va)、篠崎史子(hp) 
  • 2000年11月8~10日 那須野が原ハーモニーホール(栃木県) 
  • SONY SRCR2585

で、またしても「海へⅢ」なんですね。新ネタはないのかと思うでしょうが、まあご容赦を。

高木さん、ガロア、そして工藤さんと聴き比べてみますと、2001年に書いたレビュの通り工藤さんの音色は暖かです。尺八のような音色さえ出していたガロアとも違い、身体を包むような生暖かさを伴っていてます、自己主張するような演奏スタイルではありません、流れるか浸るかのような心地よさ。それゆえガンガンに効いた空調とは違った自然な心地よさと涼しさを感じます。反面、曲の優雅さが前面に出ていていますからスリリングさは薄い、武満的難解さも隠蔽されている。

考えてみるとガロアの三つの演奏は、よく練られた演奏なのだなと思います(それぞれ印象が違いましたし)。また高木さんのアプローチも捨てがたいなと。

2005年8月1日月曜日

高橋 哲哉氏:「靖国問題」



サンデープロジェクトの「靖国問題」を見た余勢で、最近本屋に山積みされている高橋哲哉氏の「靖国問題」(ちくま書房)を購入して読んでみました。
非常に丁寧に「靖国問題」が何であるかについて、

 第一章 感情の問題~追悼と顕彰のあいだ
 第ニ章 歴史認識の問題~戦争責任論の向こうへ
 第三章 宗教の問題~神社非宗教の陥穽
 第四章 文化の問題~死者と生者のポリティクス

と大きく四つの面から論理的に説明しています。最終章は

 第五章 国立追悼施設の問題~問われるべきは何か

として筆者の見解をまとめています。

「靖国問題」を問うことは、A級戦犯の合祀のみならず「東京裁判史観」を問うものであることは、私も何度も書いてきましたし、問題がそこにあるからこそ政治的問題に発展する要素を孕んでいるわけです。高橋氏の態度は明白です。

東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(P.69)

歴史はひとつではありませんし、国によって同じ事象が全く正反対の歴史として記述されるのも珍しくありません。また時の為政者により「造られる」のも歴史です。安倍氏のように判断を未来に委ねることも一つの手でしょうが、それではあまりにも日本的な曖昧さに満ちすぎております。政治家としての責任についても疑問を呈してしまいます。

高橋氏の態度は上記のようなものですから、現在の靖国神社のありようには否定的な見解を示すこととなります。靖国の本質については以下のように喝破します。

靖国の論理が近代日本の天皇性国家に特殊な要素-とりわけ国家神道的要素-を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を備えているすべての国家に共通の論理にほかならない(P.197)

とし、

国家が「国のため」に死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえない(p.205 太字本文ママ)

と説きます。従って彼の結論は、

非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を経つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的には軍事力を廃棄する必要がある(P.220)

となります。靖国問題が過去の戦争責任と将来の国防のありようにまで結びつく故に「靖国問題」は政治的であり、また日本政府が戦争責任を明確化していない点でアジア諸国からは「外交カード」として使われ、多くのアジアの人の感情を逆なでしています。一方で日本の戦死者たちをもある意味でないがしろにしているわけです。

「将来の国防のありよう」についても議論百出でしょうし、いまだ「日米安保」さえ明確にできない日本において「靖国問題」が決着することなどありえないと本を読んで感じるのでした。

これで「靖国問題」の全てが語られているとは思えませんが、わかり易い点であることとタイムリーである点から「売れる」本かもしれません。

2005年7月31日日曜日

サンデープロジェクトの靖国問題


本日のサンデープロジェクトでは自民党・安倍晋三幹事長代理と共産党・志位和夫委員長が「靖国問題」を議論しておりました。安倍さんと志位さんですから、どこまで行っても平行線であることは最初から見えていましたが、それにしてもここまで全くかみ合わない議論を聞かされると正直ちょっと辟易します。




志位氏が安倍氏に対し「A戦犯は戦勝国の一方的な裁判による、"ぬれぎぬ"に過ぎぬと考えているのか」「過去の戦争は侵略戦争ではなかったと考えているのか」と問うても「一政治家がそのような判断をすることは影響が大きすぎる」「判断は歴史が定める」との回答から外に出ることはありませんでした。


大東亜戦争が「正戦」であったのか「侵略」であったのかは議論が分かれているところですし、「過去の判断を現在の価値観から評価することはできない」とする安倍氏のスタンスも理解はできます。「正しいか悪か」という二元論で割り切ることの危険性も確かにあるでしょう。


それであっても、いやだからこそなのでしょうか「靖国問題」は極めて政治的な問題でありますし、過去の歴史認識と現在の国家をも炙り出す問題であると思うだけに、明確な意志を表明できない日本政府代表の一人にはある種の失望を感じます。結局過去を清算も総括もできていないのだと。


安倍氏が引用していた塩野さんの「ハンニバルは罰せられなかった」ということは、先日紹介した「文芸春秋 八月号」のコラムでも書かれていたエピソード。塩野さんは戦犯という言葉からして私には馴染まない、敗戦イコール戦犯と見なされるようになったのは、第二次世界大戦からの現象にすぎないとの立場。


また塩野さんは靖国問題は、たいした問題ではないことをたいした問題にしてしまった、歴史上の好例と書きますが、靖国のありようを考えるとそれを利用しようとする人たちが居る以上「捨てては置けない問題」であると私は感じるのです。特にこれを「日本文化」と結びつけて論ずることには全く同意できず、「文化論」が出てきた瞬間に、これは何かをカモフラージュするためのレトリックでしかないと思っています。

2005年7月30日土曜日

靖国問題と宗教観

そろそろ8月になります。国会が8月13日まで会期延長され、終戦記念日の8月15日に突入するわけです。「文藝春秋 八月号」は靖国問題に関して以下のような特集を組んでおり、興味深く拝読いたしました。

  • 決定版 日VS中韓大論争 靖国参拝の何が悪いというのだ~櫻井よしこ、田久保忠衛、劉江永、歩平
  • 小泉「靖国参拝Xデー」の内幕~富坂聰
  • 胡錦涛「靖国非難」は世界の非常識~古森義久

コラムにおいても

  • 日本人へ・二十七 帰国中に考えたこと~塩野七生
  • 人声天語 十年前の夏に私は『靖国』のプロローグを執筆していた~坪内裕三

と言う具合です。「文藝春秋」ですから、首相の靖国参拝については肯定的な味方なのですが、例えば「大論争」においては、日本と中国および韓国の歴史認識はどこまで行っても交わらない平行線で、相互理解は不可能とさえ思え正直ゲンナリしてしまいます。

それでも、一連のコラムやら論文を読んでおりますと、「靖国問題」の根底には日本人の「宗教観」が深く横たわっていることを思い知らされます。これだけ面倒な問題なんだから「分祀」すればよいではないかと単純に考えても、「神道」において「分祀」ということはそもそも考えられないという大前提のもと全否定されてしまうのです。

「人は死ねばみんな神様」や、お盆には仏様がこちら側に来る時期というのも「日本人の宗教観」なわけです。中国や韓国には日本人の文化に根ざした宗教観が理解できないのだろうと、主張するわけです。

中国や韓国が政治カードとして「靖国」を利用している点も理解できるものの、靖国擁護派が主張する「日本人の宗教観」や「死生観」も一体どこまで浸透しているのか、日本人は「無宗教」といわれていたはずですが、実は深い信仰心を持ち続けている民族であったのか。「無宗教」とは西洋的概念での「無宗教」でしかないのか、同レベルに考えることが間違いなのか。私は「文藝春秋」を読んで、混乱するばかりです。

坪内裕三氏のコラムでは柳田國男氏の文章を引用しながら日本民族における死後や霊の認識に触れ、

(従来の日本信仰などの)そういう「なつかし」さの喪失、すなわち超越的なものに対する感受性の摩滅への不安が私の『靖国』の最大のポイント

と書いています。死しても国土を離れず、故郷の山の高みから子孫を見守っているという宗教観、それが「靖国」の基本であると主張するならば「靖国」問題は解決不能という気になります(中国や韓国があきらめるか別のカードを見つけない限り)。

ただ、この種類の「魂」の問題は、今の日本において「靖国」をキーワードとしてしか語られてはいないようにも思えるのですが、どうなのでしょう。

2005年7月29日金曜日

地震Xデー

先ほども関東地方で地震がありましたね。ドンという縦揺れの後に横揺れがやってきました。この間の震度5の騒ぎほどではないようですから、この程度では交通マヒにはなりますまい。

週刊誌では「Xデー」とかの見出しで危機意識を煽って販売部数を伸ばすことに余念がありません。不用心な私でも防災グッズなど最低限のものだけでも揃えようかという気になりますが、はて最低限のものって何でしょう。


以前、某大手商社に行ったとき、女子トイレの近くに「ミュール禁止、貴方はその脚で震災時に家まで歩いて帰られますか?」との張り紙があり妙に感心したことを思い出します。震災になったら体力勝負だなと・・・



2005年7月23日土曜日

【音盤】ガロア/武満徹:海へⅡ、Ⅲ

Takemitsu:I Hear The Water Dreaming
④Toward the SeaⅡ ⑥Toward the SeaⅢ
Patric Gallois(fl) Fabrice Pierre(hp) Goran Sollscher(g) BBS so. 9/1999 London Warehouse Deutsche Grammophon 453 459-2

先日書いたようにガロアのアルバムには三つのバージョンの「海へ」が納められています。この構成を「しつこい」と思う人もいるかも知れませんが、私は興味深く三つの違うバージョンを楽しんでいます。

「海へⅡ」ハープと弦楽合奏による演奏ですが、これがなかなかいいんですね。弦が加わることでアンサンブルの美しさが加わり曲も重層的に深みを増したように聴こえます。響きも三つのバージョンの中では一番「現代音楽的」に聴こえるかもしれません。もっとも耳障りな音はどこにもなく美しく抒情的な音楽に仕上がっています。ハープも弦との伴奏の中でしっかりと存在感を主張しており、アルト・フルートと三位一体で音楽を作っているという感じです。ガロアの木管による抑えれた音色は弦の音色とも良く合っています。Cape Codなどは圧巻で舌を巻いてしまいます、こんなに美しくてよいのだろうかと疑問が沸くほどです。

「海へⅢ」はハープとの演奏ですが、「海へⅡ」の後に聴くと驚くほど新鮮に聴こえるから不思議です。歌舞伎の始まりは浅黄幕を切って落としますが、弦がない響きはそのくらい劇的な効果を生んでいます。弦がない分フルートとハープの役割は相対的に高まるのですが、その効果がこんなに鮮やかに曲のイメージの違いとして現れるとは。ギターとハープの音色の違いも微妙で、どちらにも味わいがあります。強いて言うとハープとの共演の方が、お互いにぶつかり合うような「強さ」を感じます、意外とハープは骨太なのですね。「海へⅡ」のデッサンのようでありながら、しかし曲としては別物。完成度が極めて高く曲の輪郭も際立っています。

かようにして聴いてみるとⅠからⅢまで通すことで面白さがみつかるのだなあと思えます。

2005年7月20日水曜日

ガロア/武満徹:海へⅠ

武満徹の「海へ」は全てアルト・フルートの曲ですが、伴奏によってギターとのⅠ、ハープと弦楽合奏のⅡ(1981)、そしてハープとのⅢ(1989)の三つのバージョンがあります。一番多く演奏されるのはⅠとⅢだと思いますが、このガロアのアルバムには全てのバージョンが納められていてお得です。

Takemitsu:I Hear The Water Dreaming
    ①I Hear The Water Dreaming ②Toward the SeaⅠ ③Le Fils des etolies ④Toward the SeaⅡ ⑤And Then I Knew 'twas Wind ⑥Toward the SeaⅢ ⑦Air
  • Patric Gallois(fl) Fabrice Pierre(hp) Goran Sollscher(g) BBS so.
  • 9/1999 London Warehouse
  • Deutsche Grammophon 453 459-2


ガロアが吹くのはChris Abellの木管フルート。最初の出だしから絶妙に抑制された音色が、モノトーンな武満の世界を提示してくれます。意図的なのか「尺八」的な表現も聴こえてきますから、先に聴いた高木綾子さんの「海へⅠ」よりも余程日本的な湿度を伴った演奏に聴こえるから不思議です。落ち着いていながらにしてスリリング、変に煽るようなところは全くない深い演奏です。

高木さんの演奏は、以前も書いたように音色表現の幅は広いものの、エネルギーレベルも高く挑みかかるようなチャレンジングな演奏です。それゆえに「人間と対峙する孤独な鯨」というような印象を受けます。一方でガロアの演奏は木管フルートというせいもあるのか、自制(自省)的で「対峙」や「闘争」はありません。ひたすらどこかに潜行する巨体が想像できるだけです。どちらも表現としてはありかなと思いますが。

武満はこの作品をメルヴィルの「白鯨」から次の言葉を引用して説明しています。

Let the most absent-minded of men be plunged in his deepest reveries...and he will infallibly lead you to water...Yes, as everyone knows,meditation and water are wedded together.

spiritual domainとか言われても実際のところは「なんのこっちゃ?」という感じなのですが、ガロアの「海へⅠ」を聴いていると、自分の深い部分と対話しているようで落ち着いた気分にさせてくれます。その意味からは私にとって非常に貴重な一枚です。

ちなみにガロアが木管フルートに興味を持ったのは武満徹のノヴェンバー・ステップスに影響を受けてのことだそうです。

映画「宇宙戦争」の三本脚とか


以前「宇宙戦争」の感想を書きましたが、k-tanakaの映画的箱庭の次の言葉に激しく肯首。


世間的には「スピルバーグにしてはふさわしくない凡作」とか「内容がない」とか言われている本作ですが、なんの、「ガメラ 大怪獣空中決戦」以来、最高に楽しめる怪獣映画でしたぞ!


「タイタンの戦い」は知りませんが、「影武者」との類似にも素直に肯首。


ところで、あの三本脚の怪獣は「トライポッド」と言うのだそうです。ちなみに左の写真は、アップルストア銀座に生息する「i-Pod」に寄生した「トライポート」(BOSEのヘッドフォン)です。二つの円板をつなぐ曲がったアームが恐怖を誘います。円盤状のウレタンパッドが、いったい何人の耳汗を吸ったかと想像するだに身震いを起こします。そういえばハリウッドでは「寄生獣」も映画化されるんですよね。

同じくBOSEの「クワイアットコンフォート2」は、金がかかっている割にはこの映画同様ちょっと期待はずれ。SHURE E2cも良さげだけどどうなんでしょう・・・。この手の映画はDVD買ってホームシアタの立体音響やらヘッドフォンで鑑賞するよりも映画館で観るのが正しいですね。


・・・と、こんな内容でTBして良いのかと迷いつつも打つ。(このごろサーバー遅くて重複TBになっているようです>多謝)




PS.「Coffee Break」というカテゴリを増やしました、というか復活したというか・・・。ノンジャンルのことを書く場所がなかったので。(この話題で「映画」や「音楽」や「IT」では酷すぎますから)

2005年7月15日金曜日

高木綾子さんの録音レポート by 岡野博行

コロンビアの岡野博行さんのサイトに「海へ」の録音レポートが掲載されているのを見つけました。

今回の録音場所であるスイスのベインウィル修道院ってどんなところだろうと思っていたのですが(ライナーには全く紹介がないですから)、バーゼル郊外にひっそり佇む修道院の姿を写真で見ることができて満足です。


岡野さんは高木さんの演奏を高木さんの本能的な音楽への肉迫力と書いていますが、確かにちょっと荒削りに聴こえるところもあるのですが、フルートという枠を少し外れて、どこか人を惹き付ける魅力がある演奏家ではあると思います。


高木綾子/武満徹:海へⅠ

高木さんのアルバムを何度かに分けて紹介していながら、アルバムタイトルとなっている武満徹の「海へⅠ」をスルーしてしまうのも気になりますので簡単に感想を書いておきましょう。 


アルトフルートとギターのためのこの作品は、1981年に作曲されグリーンピースの「Save the Whales」のキャンペーンに寄贈された作品で、「Es、E、A」(=Sea)の三つの音を旋律動機としている三楽章形式の曲です。それぞれが「夜」「白鯨」「鯨岬」と題されていて、どれもが神秘的で深い味わいを持った曲です。聴くたびに母なる海を悠々と泳ぐ鯨を想像させてくれ、近づき難いイメージのある武満作品の中でも、数あるフルート作品の中でも私の好きな曲の一つです。

アルトフルートの少し低い音や、フラッタータンギングやフルートの特殊奏法を駆使した音楽は、静かで深い感銘を与えてくれます。高木さんは表現の幅が広いようで、ピアニッシモの弱音から限界に近いフォルテッシモまで幅広くある意味で芯のある音できかせてくれています。息も良く続くなあというくらいに、音色を変化させながら音を引き伸ばしたりする様はさすがかなと。ちょっとドキドキするような展開だったりします。

ただ、ヘッドフォンなどで音量を大きくして聴きますと、ピアニッシモの際に聴こえるホイッスルトーンのような音とか、どうしても入ってしまうブレス音が少々気にならないわけではありません。随分と奏者に近い位置にマイクをセッティングしているようです。

それでもこのアルバムの中にあっては、意欲的な演奏で高木さんの別の魅力に触れることができると思います。生で聴いてみたいものですね。

高木綾子 福田進一/海へ
⑥海へ(武満徹)
高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000

高木綾子さんがキャンペーンモデル

高木綾子さんのブログによりますと、青葉台東急スクエアのオータムキャンペーンのモデルになるのですとか。ポスターは東急線のごくローカルな場所でしか貼られず、しかも期間は8月18日から10月26日なんだそうです。


下北沢のお洋館と和館の混ざったお屋敷で撮影したとのことで、駒場公園内の「旧前田公爵邸」かなとも思うのですが、あそこあたりは個人のお屋敷もまだ結構あるかなあと。ブログに特徴的な窓の写真が掲載されていますので、ヒマな休日の散歩がてらに確かめてみようと思います・・・(>行ってみたら、違いました。ものの見事にはずしたなあ・・・)

2005年7月14日木曜日

スターウォーズとニーベルングの指環2

自分で書いておいて、没企画(「CDでワーグナーの歌劇・楽劇を聴く」という無謀なシリーズ)になっていたものだからすっかり忘れていました。スター・ウォーズと指環の類似性について言及した海外サイトが、そういえばあったのですよね。


Richard Wagner Web Siteというサイトの中の「スターウォーズ・シリーズとワーグナーの《指環》~構成、主題そして音楽のつながり(The Star Wars series and Wagner's Ring
Structural, thematic and musical connections
)」というページです。あの時は内容を読まずにスルーしたので今まで全く忘れていました。テキストは膨大でまだ触りしか読んでいませんが、せめてタイトルだけでも拾っておきましょう。



Introduction

■Structural identities


  1. The dimensions
  2. The non-linear realisation
  3. To create a World
  4. The need for total control
  5. The cult following

■Thematic identities

  1. The Old Sin which is Atoned by Youthful Heroism
  2. The Conflict Between Power and Love
  3. Father and Son : The Central Conflict, and Two Battles of Life and Death
  4. Father and Daughter - a Conflict of Will
  5. The Magic Sword
  6. The Orphaned Hero
  7. Tuition and Initiation by a Dwarf
  8. The Incestuous Hero Twins
  9. The Symbols of Power
  10. The Evil Dragon
  11. The Forced Marriage, the Tyrannical Husband
  12. Magic Sleep and Sex Change
  13. The Magic Helmet

■Musical identities

General similarities

  1. The importance of the orchestra
  2. The opening effect
  3. The use of leitmotifs
  4. The construction of the leitmotifs

Specific identities of construction

  1. Luke Skywalker = Siegfried
  2. Obi-Wan Kenobi / the Force = Siegfried as tragic hero
  3. Siegmund & Sieglinde, twins = Luke & Leia, twins
  4. The Death Star = The Ring
  5. Leia = Brünnhilde
  6. Darth Vader = Hunding
  7. Han & Leia = Tristan & Isolde

タイトルを眺めるだけで、ワーグナー好きな方でスター・ウォーズも好きな方には興味深い内容ではないかと思います。英語が読めない人でも、ライトモチーフの項は楽譜とMIDIファイルが提供されていますので両者の類似性を目と耳で楽しむことができます。あまりにも鮮やかな解説です。(>そうか、デス・スターがリングだったのか!)

2005年7月12日火曜日

スターウォーズとニーベルングの指環

スターウォーズがワーグナーの「ニーベルングの指環」に似ているというのは、あながち私だけの感想ではないようです。つらつらと読んでいた感想にも、ライトモチーフについての言及が結構ありました。

ルークとレイヤは双子との設定ですが、ジークムントとジークリンデの関係に似ていますか。ただし二人は愛し合ってしまう前に互いを制御するのはハリウッドの倫理観でしょうか(>って、一般人の倫理観だよ)。

またルークとレイヤを生んで母親のパドメが死んでしまうのも、ルークをジークフリートと考えるとこれも同じです。ジークフリートはミーメに育てられますが、ルークもタトゥイーンで育てられそしてその枠を破って外の世界に飛び出しました。そしてジークフリートはヴォータンの力の元である槍を折ってしまうのでしたよね。ルークがダース・ヴェイダーとの闘いとある意味で似てます。

ジェダイのライトセーバーはノートゥングかとか、ヴォータンがダース・ヴェイダーならワルハラ城はデス・スターかよとか(ヴェイダーがエピソード3で満足げにデス・スターの建設されている様を眺めるのは印象的)、だから神々の黄昏かよとか(>だんだん記憶があいまいになる・・・)

じゃあ、ブリュンヒルデは誰なんだとか、グートルーネは、アルベリヒやラインの乙女たちは、ローゲは?トネリコの木はここでは何を意味するんだよ、フォースはどうだ・・・ヨーダは・・・などとやりだすとキリがありません。私もワーグナーに詳しいわけではありませんので、ここらへんでボロが出ないうちに止めるとしましょう。誰か、後お願いしますm(_ _)m >てことでclassicaにトラバして寝ます。

2005年7月11日月曜日

映画:宇宙戦争

長くなったのでエントリを改めましょう、続いてスピルバーグの「宇宙戦争」です。思い出せば「スター・ウォーズ エピソード4」日本公開が1978年、それとほぼ同時期に「未知との遭遇」が公開されていたのですよね。あれから27年の歳月を経て両雄の映画を観るというのも奇遇なものです。

さて「宇宙戦争」はH.G.ウェルズの名作の映画版であり、「地球最後 の日」(51)のジョージ・パルが映画化した50年代SF映画の名作のリメイクでもあるのですが、この作品ときたら一体何なんでしょう。

というか、まず何だって私も含めて大勢の人達は「都市が破壊されるシーン」だとか「立ち向かう気力さえ失わせるほどの圧倒的なパワー」「感情抜きの冷酷無比さ」なんてものを見たがるんでしょう。それ程世の中平和であるとも思えないのですが。

「都市が破壊される」とか「人間以上の知的生命」で思い出すのが、ローランド・エメリッヒ監督の「インデペンデンス・デイ」(96)ですが、両者にはイロイロと共通点がありますね、突っ込みどころ満載な点においても。「カンフーハッスル」ではありませんが「ありえねー」の連続です。

それはさておいても、特撮系の信じられない映像という点では同種の映画の中でも群を抜いております。人を満載した船が横転するシーンは「タイタニック」よりリアルですし、都市破壊のシーンはスピルバーグがノルマンディ上陸を描いた「プライベート・ライアン」冒頭20分間に相当するほどの恐怖と迫力を感ます。(「プライベート」観て心底戦争には行きたくないと思ったもの)。密室系では「戦場のピアニスト」などに共通する圧迫感も味わえます。

スピルバーグの徹底したリアリズムには舌を巻きますが、それにしても彼のこのテの手法は「激突」「未知との遭遇」「ジョーズ」において既に完成していたことが、この映画を観ると良く分かります。

かように特撮リアリズムは超A級ではあるのですが、ストーリーや展開はB級映画そのもの。娘役のレイチェル(ダコタ・ファニング)がよく演じていますが、父親のレイ(トム・クルーズ)には共感できない点も多いです。

「インディぺ」もそうでしたが、ラストは「何だそりゃ?」てなもので、後半に行くに連れトーンダウンするところは、隕石追突、地球侵略ものの最近のパターンかなと。製作者も地球をメチャメチャにするところで力尽きてしまうんでしょうな。今回の知的生命に至っては、いしいひさいちの「地底人」にも劣ります。

テーマも100万年前からの知的生命がいなけりゃ家族再生もできないなんて、「外的がいないとまとまらないアメリカ」そのものではないですか。

ということで、褒めてんだかけなしてんだか分かりませんが、テロを経験したアメリカ人監督が描ける恐怖のリアリズムはあると思います。ただ、彼のリアリズムには救いがないという気がしますが。(リアリズムと映画のテーマが分裂してますからね)

映画:スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐


本日はユナイテッドとしまえんにて話題の「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」と「宇宙戦争」のダブルヘッダ、どちらも並ばずに観ることができました。スター・ウォーズと宇宙戦争は休憩をほとんど挟まず、劇場出て券買ってまた劇場に入ったら、もう本編が始まっていましたので結構疲れました。


内容は、細かく書くと「ネタバレ」(っていうんですか?)になりますが、あちこちでイロイロな方が熱く語るでしょうから、私はさらりと書くに留めます。




本エピソードはアナキンが次第にダークサイドに堕ちて行くさまが書かれるているのですが、アナキンの行動が短絡的にして性急で説得力に乏しい。また展開が速すぎる点など気になる点も少なくはないですが、それでもスターウォーズは本作をもって再び伝説になったような気がします。


まず、全てのシーンが今まで見たこともないようなものばかりで度肝を抜かれます。1978年のエピソード4も当時本当にびっくりしたものですが(そもそも最初から「エピソード4」だったのが話題になったのが懐かしい)、この作品で円環のように様々な事象がひとつにつながり、完成された物語になりました。ようやく今までのスターウォーズを観終わった後に残った不完全燃焼を覚えることもなく、全き満足感を得ることができました。


考えてみたら当時高校生の私が、27年も経てスター・ウォーズの完結編を観ることになるなど、思いもしなかったものです。現代のようなスピード化社会において、構想の壮大さだけにおいても賞賛に値するものです。全てが繋がる環のようという点においても、観ていてワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」を想起してしまいました。ダース・ベイダー誕生のあたりで彼のテーマが流れるなど、示導動機的な音楽の使い方をしています。思わず「剣の動機」を思い出したりして・・・


当時のパンフレットに確か「懐かしい(ノスタルジーを感じる)未来」というフレーズがあったと思います。今回も描かた映像空間は極めてSF的ですが妙に既視感ある風景として描かれている点には驚きます。27年前の映画を思い出すからでしょうか。映画の最初から最後まで、どこのシーンを取っても完璧な映像で、ヲタク的に「語られる」内容を持っている映画です。その意味からもシリーズ中の傑作のひとつと言って間違いないでしょう。


あまりにも楽天的過ぎるな感想ですが、深いことや難しいことは考えずに楽しむのが正解かと。ラストのタトゥイーン(実際はチュニジア)に昇る二つの太陽は、ルークとレイアを示唆し、物語の終焉と新たなる始まりを表していて、まさに象徴的でありました。

2005年7月8日金曜日

【音盤】工藤重典&福田進一/ピアソラ:タンゴの歴史

工藤さんと福田のデュオによるタンゴの歴史は1991年の録音。工藤さんと福田さんのデュオはこれが3枚目のもので、ライナーによるとこの作品(タンゴの歴史)を日本で流行らせた仕掛人であるらしく。久しぶりに聴いてみての印象は「さすがに工藤さんのフルートは洒落ていて上手いなあ」というもの。


工藤&福田◎黄金のデュオ3

    ①花を分ける(ヴィラ=ロボス)②フルートとギターのためのソナチネ(ニャタリ)③アリア~ブラジル風バッハ第5番より(ヴィラ=ロボス)④サウダージ第3番(ディアンス)⑤コルコヴァード(ミヨー)⑥タンゴの歴史(ピアソラ)⑦愛の歌~映画「緑の館」より(ヴィラ=ロボス)

  • 工藤重典(fl) 福田進一(g)
  • 1991年11月
  • 日本ビクター VICC-93

高木さんのようなアクや押しはあまり強くはないのですが、細かなフレーズに成熟した味のようなものが感じられます。装飾の付け方もフリルのような丁寧さで、ブラジル風というよりフランス風とでもいうような上品さや優雅さを感じます。工藤さんならではでしょうか。美しさや洗練された感じだけではなくキレも極めて鋭く、最後の4目の「現代のコンサート」など流石といった表現力。

もっとも「タンゴ」に流れる血とか太陽とか土臭さみたいなもの、身体に沁みこんでいる情熱とリズム、みたいな感覚を求めるならば、ちょっと綺麗にまとまり過ぎているという気がしないではありません。高木さんのタンゴの歴史と比べてみて、新ためて音楽の目指した方向性はまるで違っているなと思った次第。どちらが好きかは趣味のモンダイでしょうか。

ところで久しぶりにこのCDを取り出して聴いたのですが、CDは工藤さんの直筆サイン入りでした。コンサート会場でサインしてもらったのですね・・・(覚えてなかった)

2005年7月6日水曜日

高木綾子/ピアソラ:タンゴの歴史

タンゴの歴史はアストル・ピアソラによるフルートとギターの定番的な作品ですが、このアルバムでの高木さんの演奏には、これまたたまげてしまいました。彼女の演奏の芯の強さとスピード感、それに思い切りの良さが加わって、女性が吹いているとは到底思えない演奏です。他の人の実演でも何度かこの曲に接していますが(誰の演奏かは失念)、こんなタンゴの歴史は初めて聴きました。

「Bordel1900」の出だしからして、ザックっとした切り口で鮮やかです。ほとんどフルートの限界近いまでに吹き込まれ伸ばされた音の効果ときたら、あいた口がふさがりません。「Nightclub1960」での特殊奏法とバラードの部分の緩急強弱自在の鮮やかな対比の見事さ。ピアソラに強烈な高木節を乗っけたといったところでしょうか、人によっては好みが分かれるかもしれませんね。

それでも人を惹きつける何かがある演奏であることには間違いなく、ライナー・ノーツに福田さんが若さに溢れた明快さ、ある意味で音楽に対する動物的な本能を併せ持っていると書かれていることに素直に頷いてしまいます。時に荒々しいまでのノリは凄みさえ感じます。

もっとも、全面的に彼女の演奏を肯定するわけではありません。素人が何を書くかという気もしますが、素早いタンギングでのキレやトーンの膨らませ方に気になるところもあるのですが、まあそれがどしたというレベルではあります。

高木綾子 福田進一/海へ
②タンゴの歴史(ピアソラ)
高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000


2005年7月2日土曜日

高木綾子/イベール:間奏曲


高木綾子さんのイベールの間奏曲を聴いていて、驚いてしまいました。あれ?この曲ってこんなにもスピード感溢れたゾクゾクするような曲だったかしらと。で、この曲の印象が誰の演奏で刷り込まれたのかと、家の少ないアルバムを探してみたら、何とこれがマルセル・モイーズの演奏でした(>それしか持ってないのかよ・・・)。

フルートの神様とも称されるモイーズの余り飾り気のないながらも一本筋の通った音と、現代風な高木さんの演奏を比べることには若干の抵抗を感じるものの、この二つの演奏から感じる印象は全く違ったものでありました。(>だから、比べる対象が違うって・・・)

福田さんのギターもなかなか激しいのですが、それ以上に彼女の圧倒的な技量に裏付けられたスピード感、少しオーバー目な抑揚は、追い立てられるかのような切なさと儚さと美しさを秘めて、キラキラと走り抜けます。冒頭の細かな音符の部分の素晴らしいこと。

スペイン風な曲調にアンニュイな抒情も加わり、たった3分11秒の演奏ですが心の中に一陣の風が颯爽と吹き抜けたかのような演奏です。


高木綾子 福田進一/海へ

⑤間奏曲(イベール)
高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000




2005年6月29日水曜日

高木綾子 福田進一/海へ

梅雨だと言うのに暑いですね、今日は35度にもなったのですとか。外に出ると熱風が全身を包みます。うんざりしながら涼を求めて新宿のHMVに入ったら、高木綾子さんの新譜が発売されていましたので思わず手に取りました。何と福田進一さんとのデュオではないですか。



ジャケットも梅雨時期なので最初は白カビが生えているのかと思ったのですが、水滴のついたガラス越のポートレートだと気付きました、とてもスィテキ(素敵)です。

さて内容ですが、ピアソラや武満徹の有名曲をはじめ、ボザやイベールなどのフルート関係者にはお馴染みの作曲家の曲や、アルゼンチンのギタリスト兼作曲家のブホール、カンヌ生まれの名ジャズ・ピアニスト、作曲家、指揮者であるボーリングの曲なども交えて楽しめるアルバムになっています。ありきたりの選曲でないところが、うれしいです。

高木綾子 福田進一/海へ
    ①ブエノス・アイレスの雲(ブホール) ②タンゴの歴史(ピアソラ) ③子守歌とセレナード(ボザ) ④イストワールより金の亀の番人、ガラスの鳥籠 (イベール) ⑤間奏曲(イベール) ⑥海へ(武満徹) ⑦ハバネラ形式の小品(ラヴェル) ⑧古き良き時代ノカンドンベ(ブホール) ⑨アイルランドの女(ボーリング)
  • 高木綾子(fl) 福田進一(g)
  • 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院
  • コロムビア COCQ84000


高木さんのフルートは、実は生で聴いたことがないのですが、CDを通して聴く限りにおいては、独特の抵抗感のある音色に特徴があり魅力になっています。特に低音での迫力は、音楽だけを聴いているとジャケ写真のような女性が演奏しているとは思えないかもしれません。このアルバムでも、最初の曲から、歌声で言うなら「ちょっとハスキー」な感じの音色でグイグイと迫ってきます。

しかし、ここが誤解を招くと思うところなのですが、CDをヘッドフォンを通して聴くのと、ホール空間で聴くのでは全く異なったものであると思いますので、実際がどうなのかは、いつか補正しなくてはならないと思っています。

曲はどれもが良いですね、「タンゴの歴史」や「海へ」はもちろんですが、「ブエノス・アイレスの雲」や「子守唄とセレナード」などの、のびやかでゆったりとした曲も聴きこたえがあります。疲れた体が「ああ、海にでも行きてーな」と叫び始めます。いくつかの曲は楽譜でも入手して練習してみようかな、という気にさせてくれます(ボザとかボーリングとか)。

ギターの福田さんも絶妙な音色で聴かせてくれています、まさに余裕、貫禄といったものまで感じますね。福田さんの「タンゴの歴史」といえば工藤重典さんとのアルバムも実家にあるはずなので、いつか聴き比べて見ます。個々の曲の感想を書くには疲れすぎているので、これにて。

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2005年6月22日水曜日

サマー・タイムとかクール・ビズとか


今日は夏至だったんですね。イロイロと不調な上に仕事は適当に急がしく、ばたばたしております。札幌(北海道?)はサマー・タイム導入ですね。効果はいかがでしょう。


「効果」というとすぐに「経済波及効果が○○億円」とか、金に換算してしまいがちですが、なんでも金に換算しなくちゃ気が済まない。経済波及効果がないことは意味がないとでも言わんばかりのような。個人的にはサマー・タイムは歓迎ですが「意識改革」が必要なんでしょうね。


「意識改革」といえば、今日はO会長率いる某社団法人に行ったのですが、担当者はノーネクタイ+半袖でした。「クール・ビズですか?」と切り出したら「クール・ビズをまともにする余裕はないですが、会長が率先していますからね」とのこと。対する我が社の面々はダークスーツにネクタイ締めて汗かいておりました。


夕方からは、某外資系40代の執行役員を交えた社内会議をしたのですが、その方はしっかりスーツ+ネクタイ姿でしたね。対するわが社の面々も当然ネクタイ締めていたわけですが・・・(当然会議室のクーラーは全開で)


スーツ・ルックは好きですが、東京の夏にはやはりあいません。サマー・タイムも含めて何とかして欲しいものです。


(この頃ネタないんで、既出のヘタ絵と駄文で場を濁すのでありました)



2005年6月14日火曜日

僕はまだ「クラシカル・クロスオーバー・ガイド」を見ていない

iioさんのCLASSICAのエントリで紹介されていた「クラシカル・クロスオーバー・ガイド」(洋泉社MOOK)、まだ手にとっていないのですが、どうなんでしょう。


やすらぎの時間をくれる

優雅で上質な大人の音楽!

「クラシックを聴きいてみたい(だけどよく分からない)層」というのは確かに存在するはずで、それは「ベスト・クラシック100」が大ヒットしていることや、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの成功などからも伺えるのですが、それは決してクラヲタ的な追求の仕方ではなく、ちょっと高級な衣裳を身に纏いたいというような、一歩上(>クラシックが上だとはちっとも思わないが)をいきたいという願望と、ある意味でシンクロしているような気がしています。




現状の雑誌を俯瞰しますと、「レコ芸」や「クラシック・ジャーナル」は、ちっとも手引きになってくれませんし「音友」は重くて持てません。「Mostly Classic」はイイ線いくかと思ったのですが、やはり取っ掛かりにはなりにくかったようです。音楽界の中心的な話題(?)のゲルギエフもラトルも、ハーンでさえ「優雅で上質な安らぎ」は決して与えてはくれませんから、まともな方向ではクラシックに近づけません。

クラシックを新たに求めたい層は、最初からは熱い熱狂を求めていないでしょうから、ゆったりとしたリラックスタイムを過ごせる音楽、癒しの音楽というコンセプトの重量も軽そうな雑誌の作り方は、アリかなと思うあわけです(>って読んでから書けよ)。


クルマ雑誌に「日本の車雑誌は、いつの間にか車の性能をうたうことを止めて、車周辺事情へと話題を切り替えている。高級車雑誌は、さらにクルマを巡るカルチャー的なものが話題の主体だ。」みたいなことが書いてありましたが、車とか音楽を直球で勝負できないってことなんでしょうかね。


更に言うと、ヲヤジ専門のゴルフ雑誌だって、坂田信弘やレッド・ベターを延々と使ったゴルフ直球勝負のものよりも、ゴルフ周辺事情や文化的なものを主にしたものの方が、楽しそうだしょうし。

2005年6月12日日曜日

【音盤】キョンファ/プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番

チョン・キョン=ファとプレヴィンの盤でプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。録音は1975年ですから、キョン=ファが27歳の演奏。キョン=ファがプレヴィンとの共演で強烈なデビューを飾ったのが1970年ですから、その5年後の演奏ということになります。

チョン・キョン=ファ/プロコフィエフ、ストラヴィンスキー
  1. プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調
  2. プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 第2番 ト短調
  3. ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

  • アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドンso.
  • 1975年1月(No.2) 1975年10月(No.1)
  • DECCA 452 003-2


ヴァイオリ協奏曲第1番は、ヴァイオリンのあらゆる技巧が短い曲の中に詰め込まれていて、多彩な奏法が次から次へと繰り広げられる曲です。一方では「夢見るような」第一楽章の第一主題が曲全体を支配している、極めて叙情的でメロディアスな曲でもあります。この叙情性と前衛性がミックスした二面性のあるプロコフィエフらしい曲を、どう表現するかということがポイントだと思います。

キョン=ファの演奏は、そのテーマに真正面から堂々と取り組んでいるように思えます。叙情的な旋律の歌わせ方は繊細で、それでいてたっぷりと、技巧的な部分においては一転して技の切れ味も鋭く、グイグイと聴く物に迫ってくる感じです。グロテスクと評される第二楽章のスル・ポンティチェロ、コン・トゥッタ・フォルツァ(駒の近くを弾くように全力を込めて)の部分も力強く情熱的です。キョン=ファは情熱的な演奏をする印象がありますが、全体的には感情過多という程ではなく、むしろ若さとか、音楽を奏する喜びとかが伝わってくるような演奏です。だから聴いていて何だか気持ちがいい。

もっとも、この間のヒラリー・ハーンの演奏からは、もっと違ったものが聴こえてきたような気がしていたのですが、もはや確認することができません。

もうひとつの、ヴァイオリ協奏曲第2番は、第1番に比べてより前衛性が交替し、円熟と叙情性の強い曲です。プロコフィエフが亡命を終えてロシアの地に永住することを決めた心理的なものが影響しているのかもしれません。キョン=ファの演奏は、こちらも、それはそれは熱演であることに変わりはありませんが、聴いていてちょっと飽きてしまうところがある。それが曲のせいなのか、演奏のせいなのかは分かりません。何度も繰り返して聴いてしまったせいでしょうかね。

ストラヴィンスキーは機会があればということで。

2005年6月7日火曜日

ヒラリー・ハーン&N響のプロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番

昨月来日しN響(パーヴォ・ヤルヴィ指揮)と共演したヒラリー・ハーンによるプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番の演奏が昨夜のN響アワーで放映されました。期待して番組を観ましたが、まさにCDで聴いていたようなキレのよい演奏が展開され、会場で聴きたかったものだとつくづく後悔しました。

ハーンのヴァイオリンは、色々な人が指摘する様に技巧の正確無比さが図抜けており、輪をかけてCDのジャケットや公式サイトのイメージから硬質な演奏を想像させるのですが、しかしそれは機械的で無機質な演奏というわけではありません。今回もプロコフィエフ的な技巧的パッセージの鮮やかさとともに、ヴァイオリンを歌わせる部分においても懐の深さのようなものを聴くことができた気がします。

プロコのヴァイオリン協奏曲を演奏するのに当たってのインタビューで「印象派的なところもあれば、ロックのようなところもある」とハーンが語っていました。映像で見るハーンの演奏は実にキビキビとしていて高い運動性能を示しています。プロコフィエフの複雑なリズムと一体になっているかのような演奏からは、爽快感さえ漂います。特に第1楽章の中盤、ピチカートが荒れ狂う当たりから後半にかけての表現の適確さ、そして第2楽章は圧巻といったところ。しかも、演奏はベタベタと熱くならないところが凄い。

「印象派的」と言うところも私には分らなかったのですが、そう言われれば第1楽章後半で、フルートと絡んだするところなどは、そういう雰囲気がありますかね。プロコの音楽は印象派とは対極にあるように思っていましたから、意外でありました。もっともプロコのこの曲には、あまり親しんでいるわけではありませんので、機会があれば他の演奏で聴いてみたいと思います。

2005年6月4日土曜日

オー・マイ・ガーーッ! 高木綾子さんのブログ

音楽界の動向から遠ざかっていて、ヲジさん見落としていたよ。フルーティストの高木綾子さんがブログをはじめていたんだ!


有名人ブログは花盛りで、ちょっとなァと思っていたのですが、ヲジさんは許す。ブログのデザインが少々悪かろうが、あまりめぢゃーでないブログ・サービスだろうが認める、毎日通うっ! ヲジさんも村治佳織さんとツーショット撮りたいっ!(イヤ、スリーショットがいいっ) 東京フィルの斉藤和志さんと焼肉食いたいっ・・・かは微妙っ!


さすがに、こんな内容でTBする勇気はヲジさんには、ない。



2005年6月2日木曜日

歌舞伎役者が演じるから歌舞伎

「野田版研辰の討たれ」が賛否両論であり、私の中でも評価が分かれている事は以前書きました。戸板康二の「続歌舞伎への招待」も読了し、通勤電車の中とかトイレの中とかであれこれ考えているんですが、考えはまとまりません。




ひだまりのお話しというブログで、4回にわたり劇話「歌舞伎の今日性『研辰の討たれ』とするエントリが掲載されていました。歌舞伎とオペラのありようなど比較しながらの論は興味深く拝読しました。


タイムマシンでもなければ体験できない200年前の芝居小

屋の雑然として猥雑なアナーキーさこそがエネルギーの根源

だっただろうと想像されるかつての歌舞伎のような公演が、

今月の『研辰』であったことは疑いようがない。



これは第1回目のエントリです。歌舞伎のもつ猥雑なアナーキーさは歌舞伎成立史を考慮するとその通りなのですが、歌舞伎としてのエッセンスは一体どこにあるのか、どこまでが歌舞伎として許容されるのかということが、私の最大の関心事でありまして。なぜならば、この点をはずしてしまうと、歌舞伎を観る意味そのものが曖昧になってしまうからです。


オペラへの新演出は最近では意表をつくものが多いようですが、音楽はあくまでもワーグナーであり、ヴェルディのものです。「野田版」はバイロイト祝祭管弦楽団&合唱団を使って劇団四季のミュージカル演じても「クラシック」なのかと問い始めることに近いのですが、一方でこういう問いそのものが愚問のような気がしてもくるんですね。


何を表現していればギリギリに歌舞伎(あるいはクラシック)足りえるのかを問うているのですが、音楽と演劇と映画と読書の日々というブログでの


この作品は、野田舞台を歌舞伎役者が演じているから歌舞伎なのであって、もしそうでなければ普通に舞台作品として成り立つ作品だと思う。


という認識は、最初に提示していた回答の一つではあるものの、この言い切りは潔く、一刀両断にしてこれ以上詮索しても無意味であろうかと思わせる説得力を感じましたです。

歌舞伎役者が演じるから歌舞伎

「野田版研辰の討たれ」が賛否両論であり、私の中でも評価が分かれている事は以前書きました。戸板康二の「続歌舞伎への招待」も読了し、通勤電車の中とかトイレの中とかであれこれ考えているんですが、考えはまとまりません。




ひだまりのお話しというブログで、4回にわたり劇話「歌舞伎の今日性『研辰の討たれ』とするエントリが掲載されていました。歌舞伎とオペラのありようなど比較しながらの論は興味深く拝読しました。


タイムマシンでもなければ体験できない200年前の芝居小

屋の雑然として猥雑なアナーキーさこそがエネルギーの根源

だっただろうと想像されるかつての歌舞伎のような公演が、

今月の『研辰』であったことは疑いようがない。



これは第1回目のエントリです。歌舞伎のもつ猥雑なアナーキーさは歌舞伎成立史を考慮するとその通りなのですが、歌舞伎としてのエッセンスは一体どこにあるのか、どこまでが歌舞伎として許容されるのかということが、私の最大の関心事でありまして。なぜならば、この点をはずしてしまうと、歌舞伎を観る意味そのものが曖昧になってしまうからです。


オペラへの新演出は最近では意表をつくものが多いようですが、音楽はあくまでもワーグナーであり、ヴェルディのものです。「野田版」はバイロイト祝祭管弦楽団&合唱団を使って劇団四季のミュージカル演じても「クラシック」なのかと問い始めることに近いのですが、一方でこういう問いそのものが愚問のような気がしてもくるんですね。


何を表現していればギリギリに歌舞伎(あるいはクラシック)足りえるのかを問うているのですが、音楽と演劇と映画と読書の日々というブログでの


この作品は、野田舞台を歌舞伎役者が演じているから歌舞伎なのであって、もしそうでなければ普通に舞台作品として成り立つ作品だと思う。


という認識は、最初に提示していた回答の一つではあるものの、この言い切りは潔く、一刀両断にしてこれ以上詮索しても無意味であろうかと思わせる説得力を感じましたです。

2005年6月1日水曜日

クラシック選曲集CD「ベスト・クラシック100」

以前classicaで話題になっていました東芝EMIの「ベスト・クラシック100」が売れに売れているのだそうです。

ビバルディ「四季」、ベートーベン「運命」、ホルスト「惑星」など、定番の100曲を収録。のべ約7時間分の6枚組にもかかわらず、3000円という前代未聞の価格もあり、発売約1カ月半で約15万セットを売り上げた。

「ちょっとだけクラシックを聴きたい」人とか、「長ったるい一曲丸ごと(楽章であっても)なんて聴く気ないけれど、有名でオイシイところだけなら聴きたい」「ちょっと文化的だし教養にもなるし」と考える人は多いんだと思います。「どっかで聴いたことある」という曲ばかり集めているようで、そいういう意味からは、まさにツボをついた企画かも知れず。

しかし、リストをざっと眺めてみましたが、知らない曲(聴けば分るかもしれない)、曲調が思い出せない曲も結構あります。「俺ってホントにクラシックファン?」と思ってしまいました。

通称「ブルマラタコ」から、ブルックナーが落ちたのはやはりでしょうか・・・(^^;;; フランス系ではラヴェルも落ちたりするんですね。プッチーニ、ヴェルディ、ビゼーは数曲エントリされているもののワーグナーはなし。

選曲を眺めますと色々考えさせてくれます。CD1枚当たり75分とすると1曲当たり約4分半ということになりますから、ブルックナーやワーグナーがないのは、むべなるかな。4分半ならば、ケージの《四分三十三秒》を是非いれて欲しかったですな。

テーマ毎にCD6枚に分けられているのですが、名前順(和標記)でソートかけた結果を以下に記載しておきましょう。

  1. J.S.バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 第2楽章(メニューイン、クリスティアン・フェラス他)
  2. J.S.バッハ:G線上のアリア(マリナー&アカデミー室内管弦楽団)REALWMP
  3. J.S.バッハ:ゴルドベルク変奏曲よりアリア(ジュリア・ソーントン)
  4. J.S.バッハ:シオンに至る汝らの門より (南ドイツ・マドリガル合唱団他)
  5. J.S.バッハ:トッカータとフーガ(ウェイン・マーシャル)REALWMP
  6. J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びを (マリナー&アカデミー室内管弦楽団)
  7. J.シュトラウス:ラデツキー行進曲(ボスコフスキー&ウィーン・ヨハン・シュトラウス管)
  8. J.シュトラウスII:美しく青きドナウ(カラヤン&ベルリン・フィル)
  9. アダン:クリスマスの歌~聖らに星すむ今宵(ロベルト・アラーニャ他)
  10. アルビノーニ:アダージョ(マリナー&アカデミー室内管弦楽団)
  11. アレグリ:ミゼレーレ(キングス・カレッジ合唱団他)
  12. ヴィヴァルディ:「四季」より「春」より(メニューイン他)REALWMP
  13. ウィリアムス:シンドラーのリストのテーマ(タスミン・リトル他)
  14. ヴェルディ:「アイーダ」より凱旋行進曲(ムーティ&ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)
  15. ヴェルディ:我は嘆く(レクイエムより)(パヴァロッティ、ムーティ他)
  16. ヴェルディ:行け、我が想いよ、黄金の翼にのって(歌劇ナブッコより)(ハイティンク&コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団)
  17. ヴォーン=ウィリアムズ:グリーンスリーヴス幻想曲(バルビローリ&シンフォニア・オブ・ロンドン)
  18. ヴォーン=ウィリアムス:揚げひばり(終結部)(ナイジェル・ケネディ他)
  19. エルガー:ニムロッド(エニグマ変奏曲より)(ボールト&ロンドン交響楽団)
  20. エルガー:威風堂々より行進曲1番(終結部)(デイヴィス&ロンドン・フィルハーモニー管)
  21. グノー:オラトリオ「死と生」より(ハンドフォード、ハレ管弦楽団)
  22. グノー:サンクトゥス(聖セチリア・ミサより)(ハルトマン他)
  23. クラーク:トランペット・ヴォランタリー(アンドレ、ジェーン・パーカー=スミス)
  24. グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調より第1楽章(冒頭)(ウーセ&ロンドン交響楽団)
  25. グリーグ:朝 (ペール・ギュントより)(マリナー&アカデミー室内管弦楽団)
  26. グルック:エウリディーチェを失って(歌劇オルフェオとエウリディーチェより)(バルツァ、ムーティ&フィルハーモニア管)
  27. グルック:精霊の踊り(オルフェオとエウリディーチェより)(ムーティ&ニュー・フィルハーモニア管)
  28. クワラントット:タイム・トゥ・セイ・グッバイ(デイヴィッド・アベル&管弦楽団)
  29. サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」(終結部)(プラッソン&トゥールーズ)
  30. シベリウス:フィンランディア(バルビローリ&ハレ管弦楽団)
  31. シベリウス:組曲「カレリア」より行進曲風に(バルビローリ&ハレ管)
  32. シューベルト:アヴェ・マリア(デイム・ジャネット・ベイカー、ジェラルド・ムーア)REALWMP
  33. シューベルト:ドイツ語ミサよりサンクトゥスD,872(マイヤー、ベルリン交響楽団他)
  34. ショスタコーヴィチ:ロマンス(タスミン・リトル)
  35. ショパン:ピアノ協奏曲第1番第2楽章より冒頭(オールソン、ポーランド国立交響楽団)
  36. チャイコフスキー:あし笛の踊り(くるみ割り人形より)(プレヴィン&ロンドン交響楽団)
  37. チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番より第1楽章(プレヴィン&ロンドン交響楽団)
  38. チャイコフスキー:ロメオとジュリエットより幻想曲(抜粋)(ヤンソンス&オスロ・フィル)
  39. チャイコフスキー:花のワルツ(くるみ割り人形より)(プレヴィン&ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)
  40. チャイコフスキー:序曲「1812年」終結部(ヤンソンス&オスロ・フィル)
  41. チャイコフスキー:白鳥の湖より情景(プレヴィン&ロンドン交響楽団)REALWMP
  42. ドヴォルザーク:月に寄せる歌(歌劇ルサルカより)(ルチア・ポップ他)
  43. ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」第2楽章(冒頭)(ヤンソンス&オスロ・フィル)REALWMP
  44. ドビュッシー:月の光(モーラ・リンパニー)REALWMP
  45. ドリーブ:花の二重唱(歌劇ラクメより)(メスプレ、ロンバール他)
  46. バーバー:弦楽のためのアダージョ(オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団)
  47. ハイドン:天は神の栄光を語り(天地創造より)(ウィルコックス、アカデミー室内管弦楽団他)
  48. バイレロ~オーヴェルニュの歌(伝承歌)(ヴィクトリア・ロスアンヘレス他)
  49. ハチャトゥリアン:アダージョ(スパルタクスより)(テルミカーノフ&ロイヤル・フィルハーモニー管)
  50. パッヘルベル:カノン(マリナー&アカデミー室内管弦楽団)REALWMP
  51. ビゼー:花の歌(歌劇カルメンより)(ゲッダ、プレートル他)
  52. ビゼー:聖なる神殿の中で(二重唱)(真珠採りより)(ゲッダ、デルヴォー他)
  53. フォーレ:イン・パラディスム(レクイエムより)(キングス・カレッジ合唱団他)
  54. フォーレ:ピエ・イエス(レクイエムより)(クリュイタンス、ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス他)
  55. フォーレ:ラシーヌ雅歌(ダウンサイド・アビーの僧及び少年合唱団)
  56. プッチーニ:可愛がって下さいね(歌劇 蝶々夫人より)(レナータ・スコット他)
  57. プッチーニ:私のお父さん(歌劇ジャンニ・スキッキより)(アンジェラ・ゲオルギュー他)REALWMP
  58. プッチーニ:誰も寝てはならぬ(歌劇トゥーランドットより)(ホセ・カレーラス他)
  59. プッチーニ:冷たい手を(歌劇ラ・ボエームより)(ロベルト・アラーニャ他)
  60. フランク:パニス・アンジェリクス(ハレ合唱団&管弦楽団)
  61. ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番より第2楽章(冒頭)(メニューイン他)
  62. プロコフィエフ:トロイカ(テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)
  63. プロコフィエフ:ロメオとジュリエットより(ムーティ&フィラデルフィア管)
  64. ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」(モーラ・リンパニー)
  65. ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」より第1楽章(抜粋)(ギレリス、セル&クリーヴランド管)
  66. ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」より第1楽章(ザンデルリンク指揮)REALWMP
  67. ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」第5楽章(ムーティ&フィラデルフィア管)
  68. ベートーヴェン:交響曲第7番第2楽章(抜粋)(ザンデルリンク他)
  69. ベートーヴェン:交響曲第九番より「喜びの歌」(ムーティ&フィラデルフィア管)REALWMP
  70. ベルリーニ:清らかな女神よ(歌劇ノルマより)(マリア・カラス他)
  71. ベルリオーズ:羊飼いの聖家族への別れ(キリストの幼時より)(クリュイタンス他)
  72. ヘンデル:オンブラ・マイ・フ(歌劇セルセより)(リチャード・ルイス他)
  73. ヘンデル:サラバンド(ブリジャー&アカデミー室内管弦楽団)
  74. ヘンデル:シバの女王の入城(マリナー指揮・アカデミー室内管弦楽団)
  75. ヘンデル:ハレルヤ・コーラス(メサイヤより)(アンブロージアン・シンガース、マッケラス&イギリス室内管弦楽団)REALWMP
  76. ヘンデル:われは知る、わが主は生きたもうことを(エリザベス・ハーウッド他)
  77. ヘンデル:司祭ザドク(A.デイヴィス&ロンドン・フィル)
  78. ホーナー:マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン(映画タイタニックより)(デイヴィッド・アベル&管弦楽団)
  79. ホルスト:惑星より「ジュピター」(終結部)(ラトル&バーミンガム市交響楽団)REALWMP
  80. ボロディン:だったん人の踊り(イーゴリ皇より)(ビーチャム&ロイヤル・フィル)REALWMP
  81. マーラー:交響曲第5番第4楽章アダージェット(終結部)(バルビローリ&ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)
  82. マイヤース:カヴァティーナ(映画ディア・ハンターより)(バルエコ)
  83. マスカーニ:インテルメッツォ(歌劇カヴァレリア・ルスティカーナより)(ムーティ&フィルハーモニア管弦楽団)
  84. マスネ:タイスの瞑想曲(アンネ=ゾフィ・ムター、カラヤン&ベルリン・フィル)
  85. メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 第2楽章より(メニューイン他)
  86. モーツァルト:「フィガロの結婚」序曲(コリン・デイヴィス&ロイヤル・フィルハーモニア管)REALWMP
  87. モーツァルト:Laudate Dominum(証聖者の荘厳な晩とうより)(ヨッフム他)
  88. モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス(キングス・カレッジ合唱団他)
  89. モーツァルト:クラリネット協奏曲より第2楽章(ザビーネ・マイヤー)
  90. モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番より第2楽章(ハフ、ハレ管)
  91. モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲 第2楽章より(ジェイムズ・ゴールウェイ、カラヤン&ベルリン・フィル)
  92. モーツァルト:ホルン協奏曲第4番第3楽章ロンド(マリナー指揮)
  93. モーツァルト:ラクリモーザ(レクイエムニ短調より)(ベル、ウェルザー=メスト&ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団)
  94. ラフマニノフ:パガニーニの主題による変奏曲(ウーセ、ラトル&バーミンガム市交響楽団)
  95. ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番より第2楽章(冒頭)(ウーセ、ラトル&バーミンガム市交響楽団)
  96. ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番より第1楽章(冒頭)(ルディ、ヤンソンス)
  97. リムスキー=コルサコフ:シェヘラザード(冒頭)(ムーティ&フィラデルフィア管)
  98. レハール:昔ある所にヴィリアという森の妖精が(喜歌劇「メリー・ウィドウ」より)(エリザベート・シュワルツコップ他)
  99. ロッシーニ:絹のはしご 序曲(ポーランド室内管弦楽団)
  100. ロドリーゴ:アランフェス協奏曲より第2楽章(冒頭)(ブリーム、ラトル&バーミンガム市交響楽団)

2005年5月23日月曜日

戸板康二:歌舞伎への招待



先に触れた戸板康二の「歌舞伎への招待」「続 歌舞伎への招待」が岩波現代文庫で復刊されているのを知り、早速入手して読んでみました。

全くの私見ですが、戸板康二氏と吉田秀和にどことなく類似点を感じるのは私だけでしょうか。(>無理に音楽ネタに振らないと歌舞伎サイトになっちまう最近のエントリ・・・)

  • 戸板康二監「歌舞伎への招待」岩波現代文庫 ISBN:4006020805
  • 戸板康二監「続歌舞伎への招待」岩波現代文庫 ISBN:4006020813

「歌舞伎への招待」は昭和25年に暮らしの手帖社の前身である「衣裳研究所」から刊行され、歌舞伎入門の書としてばかりではなく、歌舞伎評論の先がけともなった本であると理解しています。内容は戸口氏が僕の立場はエトランゼの立場であると書くように、初めて歌舞伎を接する人にも分かりやすいように書かれています。(何で読んだか忘れましたが、戸板氏は、この本をそのまま英訳しても良いような文章と内容にしたのですとか)

例えば「花道」において

六法ほど、花道というものをうまく利用した演技はない。
僕はひそかに、これを、歌舞伎におけるカデンツァと呼んでいる。

という有名な文章から分かるように、歌舞伎を外から見る視点が新鮮です。

内容的にはこの本より以前に発刊された「わが歌舞伎」「続わが歌舞伎」と重複する内容も多いのですが、早稲田演劇博物館所蔵の写真などをふんだんに用いている本書は、昔の歌舞伎の雰囲気や歌舞伎役者の面立ちを伺い知る点でも、極めて貴重なものであると言えます。(写真がもう少し鮮明で大きければ良いのですが・・・文庫本ですから仕方なしか)

解説は山川静夫氏が書いていますが、歌舞伎は学問ではない。娯楽である。の言葉は的を得ています。しかし、たた漠然と観ているだけでは、平成の現代では娯楽足りえないのも歌舞伎。ここ数日、歌舞伎関連の本を読むにつけ、歌舞伎が江戸の庶民の嗜好を踏まえながら、いかに柔軟に発展してきたか、ということが何となく分かってきました。

また、歌舞伎の演目を読み解くことで、江戸時代から明治にかけての庶民の常識的な教養や生活振りも伺う事ができ、まあ、そういう点では、余りにも知らないことが多すぎる自らの無知を恥ずるとともに、興味も尽きず、娯楽をするのも骨が折れるなァと思うのではありました。(そもそも紹介されている演目の、ほとんどを、まだ観た事がないんですから)

2005年5月22日日曜日

歌舞伎とは何なのか


中村勘三郎による「野田版研辰の討たれ」を観てから、歌舞伎ってなんだろうと思い、今日は書店と豊島区中央図書館をハシゴして、つらつらと歌舞伎関連の本を斜め読みです。


  • 吉田弥生「江戸歌舞伎の残照」 ISBN:483557947X
  • 橋本治「大江戸歌舞伎はこんなもの」筑摩書房 ISBN:4480873295
  • 戸板康二監修「歌舞伎鑑賞入門」創元社 ISBN:4422700677
  • 岩波講座 歌舞伎・文楽 第4巻「歌舞伎文化の諸相」 ISBN:4000107844



橋本氏いわく


歌舞伎なんていうものは、そもそもが「ルールに取仕切られた混乱のページェント」だったりもする訳

戸板氏いわく


歌舞伎の第一義は戯曲になく、俳優の演技における美の追求にあったと見なければならない

分かったような分からないような気分ですが、学者ではありませんから、このくらいの認識でよしとしましょう。今日読んだ本の中では、橋本本が秀逸です。相変わらずの橋本節ですが、色々斜め読みした中では圧倒的な分かりやすさです。特に「時代物」「世話物」「時代世話物」の概念はまさに彼ならではのものです。


Flamandさんのコメントにあった特に歌舞伎の世界は先の戦争後に存続そのものの危機的状況を迎えたということも気になったので簡単に調べてみました。


昭和19年3月の戦時中「高級享楽停止」の名の下に全国19の劇場が閉鎖されます。翌20年には空襲で歌舞伎座が消失、そして十五世羽座衛門の死と続きます。戦後はGHQにより封建制度を賛美するような内容の歌舞伎の上演が禁止される憂き目に会いました。これを救ったのは他ならぬマッカーサーの副官として日本語通訳を務めたフォービアン・バワーズ(来日当時二十八歳)のアメリカ陸軍少佐であったというのですから、不思議なものです。


しかし戦後においても戸板氏が指摘するように歌舞伎は古くさい、愚劣だ、見るに耐えないといふやうな意見が多かったのだそうです。昭和24年は歌舞伎の名優を相次いで失っています。七代目幸四郎、七代目宗十郎、そして六代目尾上菊五郎です。戸板康二の「歌舞伎への招待」が発刊されたのは、そんな歌舞伎の衰退が懸念された昭和25年になるわけです。


なかなか勉強になりましたです、はい。難しいことなど考えなくても楽しめるのも歌舞伎ですが、深く知るともっと面白いのも歌舞伎でありますな。

2005年5月20日金曜日

歌舞伎座:五月大歌舞伎 野田版研辰の討たれ


夜の部の「野田版研辰の討たれ」は評価の分かれる演目だと思います。初演当時ほどの反響や批判はさすがにもう薄れてきているように思えますが、それでも「果たしてこれは歌舞伎なのか」という議論は今でもあると思います。私のような新参者が、歌舞伎の世界に子供の頃から浸かりきってきた人の芸をとやかく論ずることはナンセンスだとは思うのですが、時間が経つと考え方も変わりますから、現時点での感想を素直にまとめておくとします。


私はあまりテレビを見ませんので、最近のお笑い系の新ネタどころか芸能界の動きには極めて疎い人間です。それでも次から次へと繰り広げられる演出や台詞には(分らない部分もありますが)圧倒されましたし、今までの歌舞伎には全く見られなかったエネルギーや若さを感じますから、数ある歌舞伎演目のひとつとして、こういう芝居があってもよいのかなと思います。

五月夜の部の演目は、人気古典歌舞伎の「義経千本桜」と玉三郎の「鷺娘」、そして「野田版」ですから、現代見ることのできる「カブキ」の最高峰が出揃ったような感さえありました。三ヵ月の襲名披露公演を振り返ってみるに、歌舞伎の持つ表現世界の広さと奥深さをまざまざと見せ付けられました。歌舞伎がまさに九頭龍(ヒュドラ)にも例えられる訳も分ろうというものです。

夜の部最初に演じられた「義経千本桜 川連法眼館の場」は非常にケレン味溢れる芝居です。ケレンとは俗受けを狙って演じられる芸(「肩透かし」や「仕掛」「早替り」など観客の意表をつく演出)のことを指します。歌舞伎が江戸時代においては武士の能と対照的に、庶民の芝居であったことを考えれば、筋とは関係のないところのケレンそのものを楽しむという観方もあったのだと思います。歌舞伎は論理的な「筋」をあまり重視せず、型の美学を見せるものであるような気がしていますから。(これとて一面的な歌舞伎観ではあります)

そのケレン味たっぷりの「川連法眼館の場」の後だというのに、「野田版研辰の討たれ」を観てしまうと、それまでの芝居の細やかな所作の印象などが消しとんでしまいます。玉三郎の「鷺娘」の苦悩と悲しみと嗜虐美さえも忘却の彼方に行ってしまうほど、とにかく「野田版」には全く異質なものを感じました。

「野田版研辰の討たれ」が歌舞伎であるのかということは、観ながらずっと考えていたことです。八代目幸四郎(初代白鸚)は「歌舞伎役者が演じればそれは歌舞伎です」と答えたらしいですが、果たしてそうなのでしょうか。赤穂浪士の討ち入り事件を皆で「聞いたか」「聞いたか」と初っ端から噂話するところなど実に歌舞伎風ですし、義太夫も登場するので確かに歌舞伎らしいのですが、それでも私は「歌舞伎風野田劇」という感をぬぐえませんでした。

全員が動き駆け回る演出方法も、二人にスポットライトが当たり語る場面も、全員がダンスのようなステップを踏む場面も、現代劇では見慣れたものかもしれませんが歌舞伎においては斬新です。歌舞伎を歌舞伎たらしめている見得にしても、福助が「天晴れぢゃ」と言って切った素っ頓狂な見得を、更に「お裾が・・・」と言ってツッコミを入たりするのですが、これではギャグ・マンガです。これらの演技からは、歌舞伎独特の間や美学が感じ取れず、観ていてちょっと疲れる。いったいドタバタ喜劇をわざわざ歌舞伎座で演ずる意味は何なのか、首をかしげる気持ちも少なくはないです。

夢の遊民社の野田を見たのは、恥ずかしながらもう20年も前です。下北沢の本多劇場で観た野田の言葉遊びとスピーディーな劇には驚嘆しましたし、好きか嫌いかは別として強烈なエネルギーを感じたものです。野田氏と勘九郎氏の出会いは結構古いらしく、何かの本によりますと、意気投合した二人が夜中の歌舞伎座に忍び込み、野田氏が「ここで芝居をやりたい!」と叫んで舞台の上を走り回ったときから「野田版~」は生まれたのだそうです。廻舞台を使った演出は、意表を付くもので、かつ極めて効果的であり、なるほどと舌を巻きました。

実のところ自分の中でも賛否両論なのですが、全体としては「観客をわしづかみにしてしまう点、野田秀樹はやはり天才だな」とは思います。劇としての密度も高く、テーマも現代的で上出来でありましたから、観ておいて良かったと思います。でも、多くの感想にあるように「楽しくて仕方が無い」「面白すぎ」「最後にホロリ」などとは素直には思えず、面白いとは思いながらも、野田のあざとさが見えてしまい、そうするともう、そこに踊らされるのが何だか阿呆らしくなってしまうのも確か。

もっとも、この芝居を評価する人には、野田劇か歌舞伎かという議論さえが不毛でありましょう。面白くて何がダメなのか、現代的な要素を取り入れて発展してゆくのが歌舞伎のありようではないかと言うでしょうね。歌舞伎とは何かということになると、勉強不足な私には実はさっぱりでして、ヒュドラに例えられるほどに捉えどころのないのが歌舞伎であると先ほど書いたばかりです。間や歌舞伎の美学がないと書きましたが、このスピーディーさも現代の間と美学であると言えないこともないわけですし。

勘三郎の「野田版」にかけた熱意は彼の発言から十分に伝わってきますし、勘三郎が歌舞伎の将来を誰よりも考えていることも理解はしています。しかし、こういう劇が心底に楽しまれるのだとしたら、これは歌舞伎にとって幸福なことなのか、あるいは不幸なことなのかと思ってしまうのです。これをきっかけにリピーターが増えれば、これほど幸せなことはないのでしょうが。

概して批判的な意見ですが、私は結構保守的でクソマジメなところがありますから、こういう感想を持つのも仕方ないでしょうな。翻って、このごろ話題さっぱりな、クラシック界の現状についてもつらつらと考えたりしてしまったので、こんな文章になっちまいました。以上。

◇

「てぬぐいぶろ」さんのブログに、はからずもその3。 歌舞伎でアルか?というエントリがありましたので紹介しておきましょう。

古典にも面白みを感じますが、面白いと思うのはそれが古典だからではないでしょう。
なかには「ふんっ」て思う作品も古典と呼ばれていたりするわけで(私見)。
 :
別に「野田版」に心酔しているわけではありませんが、「歌舞伎座では伝統を重んじた歌舞伎を」と声高に云う方は、
��通し狂言」のみを歌舞伎として認めるのか、
と疑問に思い……、ちょっと鼻息荒くしてみました。

歌舞伎に疎い私は「通し狂言」だけが「伝統を重んじた」ものであるとの認識はありませんが、歌舞伎として認められるには何が要件なんだろう、とそれが気になっているだけです。Flamandさんがコメントで書かれている継承・破壊・創造などというサイクルも理解しますが、どこまでが創造的破壊なのかの見極めは私にはついていません。歌舞伎に接している以上、勘三郎からは目が放せないといったところでしょうか。

2005年5月16日月曜日

歌舞伎座:五月大歌舞伎 夜の部


5月の歌舞伎座も中村勘三郎襲名披露公演でいよいよ賑わっています。前売り券はそれこそあっと言う間に売り切れ、幕見席であっても2時間前に歌舞伎座に着くようでは立見必死なのを知り、本日は何と12時半から列に並んで夜の部を観てきました。

この時間ですと、まだ昼の部の幕見のお客さんが並んでいます。夜の部は16時10分から発売ですから、我ながら頭がオカシイのではないかとは思ったのものの、東京に居ますと2時間くらい並ぶのは平気になりましたので、ハナシの種に3時間半くらい並んでみようかと・・・。それでも歌舞伎座に着いたときには、既に5~60人もの列になっておりました。係の方によると「早い人で朝の8時半から」並んでいたそうです、やれやれ。

それもこれも、夜の演目が菊五郎による「義経千本桜 川連法眼館の場」、玉三郎による「鷺娘」、そして「野田版研辰の討たれ」なものですから、これを見逃してなるものかという気になったからであります。(昼の「菅原伝授手習鑑」と「芝居前」も観たかったが・・・もう気力なし)


さて、前置きが長くなりましたが、前評判が高いだけあり「野田版研辰の討たれ」が他を圧倒していたという印象です。野田秀樹の演出ですから、歌舞伎を見慣れた目には非常にスピーディでダイナミックです。特に幕が引かれてから赤穂浪士の討ち入りから道場の場面にかけての演出は(歌舞伎以外では目新しい物ではないものの)うまいなあと、のっけから感心。テーマの取り方も、大衆の軽薄さや無責任さをあぶり出し、更に「仇討ち」の意義に斬り込んだ点、現代的な視点を見せています。

随所にギャグがちりばめられており(例えば芝のぶのギター侍ネタとか)、言葉遊びの天才野田と吉本好きの勘三郎ならではといったところ。何の予備知識がなくても楽しめるという点から歌舞伎初心者(>私もそうですが)にもウケたわけが分ります。

もっとも「野田版研辰の討たれ」は、歌舞伎というものを考えさせてくれる演目でしたので、ヒマを見つけてまた書くこととします。

「義経千本桜 川連法眼館の場」は、狐の恩返しみたいな演目であります。渡辺保さんが芸の完成度ということでいえば、今月一番の出来である。第一に菊五郎の忠信が、菊五郎型の古格を守って、手本となるべき舞台だからである。というだけあり見ごたえ十分。すでに六十を過ぎてあの演技というのには驚きます。「桓武天皇の御宇~」などの狐言葉が濁ってイマひとつだったのは、ご愛嬌でしょうか。

玉三郎の「鷺娘」はメトロポリタン歌劇場で絶賛されたというもので、それはそれは見事な舞踊。照明効果と衣装の引き抜きが見事にマッチして、幻想的なまでの美の世界を表現していました。4月の勘三郎による「娘道成寺」と並んで、娘心をこめた踊りですが、醸し出す雰囲気は全く別物で、「玉三郎版鷺娘」といった趣でしょうか。確かに一見の価値ありですが、幕見席では遠すぎて十分に鑑賞でききれないのが残念ではありました。

蛇足ですが、16時近くそろそろ昼の公演がひけると思った時、突如突風とともに凄まじい雷雨となました。(こんな凄まじい雨、久しぶりに見た!)あまりの突然さに列の皆々騒然、歌舞伎座の前の甘栗売りのテントなど吹き飛びそうですし、幕見席列上のビニールのテントにはホースでぶちまけているとしか思えないような雨がザバザバと落ちてきて、それはそれは爽快を通り越し恐怖さえ感じるような雨でありました。雹まで降ったんですな。

日本列島は15日、気圧の谷が上空を通過した影響などで、東北から関東甲信、北陸の広範囲で大気が不安定になり、東京・大手町では午後3時50分ごろから同4時ごろまで雷を伴った激しい雨が降り、ひょうも観測された。

 気象庁によると、都心でひょうが観測されたのは、2000年7月以来。雨は10分間雨量で8ミリだったが、同庁は「短い間に一気に降ったようだ」と説明している。