世間と隔絶された1週間が過ぎてしまった。またしてもメルマで時の移っていることに気づかされる。
今回は武部農林水産大臣の話題が心に残る。彼は北海道斜里町の出身なんですね。
カリフォルニアよりも小さな国で、『「都市だ」「地方だ」という風に考えること自体、おかしなこと』というけど、それに対する是非はさておき、都会と農村という対立図式が、彼が書くようなインフラ整備だけで可能になるのかは疑問が残る。
北海道に住んでいるせいか、田舎に時間をかけていくよりも、都会から車で1時間以内のところに豊かな農村が広がるという図式が望ましいと思うのだよな。私はマンション暮らしなんで、家庭菜園どころか、せいぜい日曜日にベランダの植物に水をやるくらいですがね。
日本の農業をどうするか=何を将来食べてゆくのかという議論は「経済効率」以上に重要な問題だとは思うのですよ。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2001年6月29日金曜日
2001年6月27日水曜日
【音盤】プレビン、アシュケナージのラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18
プレヴィン 指揮 アシュケナージ(p) ロンドンso.
4.1970 DECCA
この頃業務多忙で仕事中心の生活になってしまっていた。ゲンナリした気分だったので、買ったままになっていたラフマニノフ/プレヴィン・アシュケナージのボックスから気紛れにピアノ協奏曲第2番を選んで聴いてみた。
聴いて気づいた、この曲を真面目に聴くのは実に数年ぶりかもしれないと。余りにも有名な曲なので改めて聴く気もしないでいたのだ。しかしながら、予想に反してというのだろうか、萎えた気持を奮い立たせ、内側から太いエネルギーと活力を与えてくれるかのような曲であり久しぶりに堪能することができた。
ピアノ協奏曲第2番は、解説などによると28歳の作品である。若さと独特の抒情性に裏打ちされた曲であると思う。チャイコフスキーのピアノコンチェルトと並んで評されるのもむべなるかなと思う。
第一楽章は、霧の中から現れるようなフレーズとともに、続く流れるような情緒たっぷりの旋律が奏でられる。余りにも有名なメロディだが手垢に汚れるようなことは全くなく、ストレートに心に染みわたる。深く黒い水をたたえた洋々たるロシアの大河のようなイメージが浮かぶ。冒頭部分を聴くと、この曲を映画音楽などで使いたくなる気持も分からないでもない。哀愁と憧れのような複雑な気持のない交ぜにななったような曲だ。後半の主題の再現部のカッコよさは身震いするほどであり、続く旋律の何たる切ないことか。万感の思いが満ちてゆく。
第二楽章のピアノ伴奏のもとフルートとクラリネットが奏でる旋律の、気だるさと心地よさは特筆物で目をつぶっていつまでも浸っていたい気持にさせる。中間部から哀愁を帯びた抒情的な部分に移る部分は、明るい音ながらも結構想いを詰め込んだ演奏になっているように思える。しかし、感傷的ではなく鼻につくほどではない。しかし、この楽章は本当に美しい。月光降り注ぐイメージも湧き言葉ではたとえ様がない。
第三楽章、弦楽器との掛け合いや独走ピアノのデンツァの力強さ、そして華やかさは圧巻。中間で現れる旋律の(これまた有名なものだが)素晴らしさ。ラフマニノフは何と見事なメロディメーカーなことか。若さゆえの不安や逡巡、走駆や漲る自信など…色々な感情的なドラマが詰まった楽章だと思う。ラストの再び大河の流れを思わすかのような堂々たるメロディーは、全ての苦難や悩みを乗り切った末の想いが込められているかのようだ。
こうして聴いてくると、この曲は交響曲第1番で失った自信を精神科医の治療により回復させた時期に生まれたことに思いが至る。まさにラフマニノフ回生の曲なのであろうか。自信と輝きに満ちており、生の喜びさえ歌い上げているかのようだ。内側から激しく鼓舞されるようにさえ聴こえるのは、ラフマニノフがこの曲に賭けた再生への願いなのだろうか。(そんなもの賭けてないって?)
30分強の短い曲であるが、素直にこの曲は名曲だと思う。いわゆる名曲のもつ分かりやすさ、ストレートさ、明るさや叙情性、そしてポジティブな雰囲気、その全てがここにはある。ピアノ交響曲としての面白み、ピアニズムの繊細な美しさと激しさ、オーケストレーションの雄大さなどどこを切っても名曲であると思わせる。
ピアノ曲に多く接しているわけではないので、アシュケナージのピアニズムについて論ずることがほとんど出来ないのが悲しい(^^;;; アシュケナージとプレヴィンは思い入れたっぷりに、そして若々しい演奏を展開しているように思える。アシュケナージのピアノは繊細さと力強さ、そして弱音でのコロコロと転がるような音色が見事で、その対比に聴き惚れてしまう。
なじみ易いフレーズや、耳慣れた旋律が出てくるもの疲れきった時は、名曲に浸るのが良いのかもしれないと改めて感じ入るのであった。
プレヴィン 指揮 アシュケナージ(p) ロンドンso.
4.1970 DECCA
この頃業務多忙で仕事中心の生活になってしまっていた。ゲンナリした気分だったので、買ったままになっていたラフマニノフ/プレヴィン・アシュケナージのボックスから気紛れにピアノ協奏曲第2番を選んで聴いてみた。
聴いて気づいた、この曲を真面目に聴くのは実に数年ぶりかもしれないと。余りにも有名な曲なので改めて聴く気もしないでいたのだ。しかしながら、予想に反してというのだろうか、萎えた気持を奮い立たせ、内側から太いエネルギーと活力を与えてくれるかのような曲であり久しぶりに堪能することができた。
ピアノ協奏曲第2番は、解説などによると28歳の作品である。若さと独特の抒情性に裏打ちされた曲であると思う。チャイコフスキーのピアノコンチェルトと並んで評されるのもむべなるかなと思う。
第一楽章は、霧の中から現れるようなフレーズとともに、続く流れるような情緒たっぷりの旋律が奏でられる。余りにも有名なメロディだが手垢に汚れるようなことは全くなく、ストレートに心に染みわたる。深く黒い水をたたえた洋々たるロシアの大河のようなイメージが浮かぶ。冒頭部分を聴くと、この曲を映画音楽などで使いたくなる気持も分からないでもない。哀愁と憧れのような複雑な気持のない交ぜにななったような曲だ。後半の主題の再現部のカッコよさは身震いするほどであり、続く旋律の何たる切ないことか。万感の思いが満ちてゆく。
第二楽章のピアノ伴奏のもとフルートとクラリネットが奏でる旋律の、気だるさと心地よさは特筆物で目をつぶっていつまでも浸っていたい気持にさせる。中間部から哀愁を帯びた抒情的な部分に移る部分は、明るい音ながらも結構想いを詰め込んだ演奏になっているように思える。しかし、感傷的ではなく鼻につくほどではない。しかし、この楽章は本当に美しい。月光降り注ぐイメージも湧き言葉ではたとえ様がない。
第三楽章、弦楽器との掛け合いや独走ピアノのデンツァの力強さ、そして華やかさは圧巻。中間で現れる旋律の(これまた有名なものだが)素晴らしさ。ラフマニノフは何と見事なメロディメーカーなことか。若さゆえの不安や逡巡、走駆や漲る自信など…色々な感情的なドラマが詰まった楽章だと思う。ラストの再び大河の流れを思わすかのような堂々たるメロディーは、全ての苦難や悩みを乗り切った末の想いが込められているかのようだ。
こうして聴いてくると、この曲は交響曲第1番で失った自信を精神科医の治療により回復させた時期に生まれたことに思いが至る。まさにラフマニノフ回生の曲なのであろうか。自信と輝きに満ちており、生の喜びさえ歌い上げているかのようだ。内側から激しく鼓舞されるようにさえ聴こえるのは、ラフマニノフがこの曲に賭けた再生への願いなのだろうか。(そんなもの賭けてないって?)
30分強の短い曲であるが、素直にこの曲は名曲だと思う。いわゆる名曲のもつ分かりやすさ、ストレートさ、明るさや叙情性、そしてポジティブな雰囲気、その全てがここにはある。ピアノ交響曲としての面白み、ピアニズムの繊細な美しさと激しさ、オーケストレーションの雄大さなどどこを切っても名曲であると思わせる。
ピアノ曲に多く接しているわけではないので、アシュケナージのピアニズムについて論ずることがほとんど出来ないのが悲しい(^^;;; アシュケナージとプレヴィンは思い入れたっぷりに、そして若々しい演奏を展開しているように思える。アシュケナージのピアノは繊細さと力強さ、そして弱音でのコロコロと転がるような音色が見事で、その対比に聴き惚れてしまう。
なじみ易いフレーズや、耳慣れた旋律が出てくるもの疲れきった時は、名曲に浸るのが良いのかもしれないと改めて感じ入るのであった。
2001年6月22日金曜日
【音盤】ヴェルディにの一端に触れる
ヴェルディ オペラ名場面集
もう一つ、ヴェルディを聴いてみた。人気のテノール歌手アンドレア・ボチェッリの第6段目のリリースのものらしい。人気のと言われても、オペラ音痴の私には「オペラ歌手てのはやっぱりヒゲ面の人が多いのかな」くらいのものしか分からない。
聴いてみるとなんとも伸びやかにして気持ちがいい。体の中から全ての細胞が陽性に入れ替わってしまうかのようで、何だか分からないが、これぞイタリア!これぞヴェルディ!という気持ちになってくる。こういう風に前向きに生きなきゃダメだなとさえ思う。
いても立ってもいられなくなって、両手を広げて大きな声で歌いたくなる。ヴェルディというのは、こぶしの使い方といい、「クラシック道場入門」で玉木正之さんが書いていたが、まさに「演歌師」だと思う。♪ブンチャカチャッチャ、ブンチャカチャッチャ♪だものなあ~~(笑)
- ナブッコ:シノーポリ&ベルリン・ドイツ・オペラ管
- 椿姫:クライバー&バイエルン国立管
- リゴレット:クーベリック&ミラノ・スカラ座管
- 運命の力:シノーポリ&フィルハーモニア管
- トロヴァトーレ:セラフィン&ミラノ・スカラ座管
- アイーダ:アバド&ミラノ・スカラ座管
北海道は梅雨がないとは言うものの、このごろは余り天気もすぐれず、肌寒い日々が続いている。なんだかジメジメして気分が晴れないので、以前買い置きしておいたオペラの名曲集を引っ張り出した。
クラシック音楽のダイジェスト版とか、「アダージョ・カラヤン」などに代表されるようなものは、邪道のような気がして触手は全く伸びない。オペラは全く聴かないため、素人の状態、恥ずかしい話、椿姫の「ああ、そはかの人か」さえ知らないほどである。最初は「名曲集」みたいのは抵抗があったのだが、割り切ってしまえば、こんなにオイシイ盤はないかもしれないと思う。
CD2枚組で、ヴェルディの名曲が名演奏で、それこそいいところだけ納められている。歌手もドミンゴとかカレーラスとか、超有名どころが歌っており、ヴェルディの明るい世界が堪能できる。これが2000円というのだから、お買い得であった。
オペラを聴かないとは言っても、アイーダやらリゴレットのフレーズは、どこかで聴いたことのあるものだし、何と言ってもヴェルディの曲は、スコーンと抜けた感じがして気持ちがいい。やっぱりイタリア人なんだなあと思う。
梅雨で気分のすぐれないときは、能天気な(?)イタリアものが似合うかもしれない
クラシック音楽のダイジェスト版とか、「アダージョ・カラヤン」などに代表されるようなものは、邪道のような気がして触手は全く伸びない。オペラは全く聴かないため、素人の状態、恥ずかしい話、椿姫の「ああ、そはかの人か」さえ知らないほどである。最初は「名曲集」みたいのは抵抗があったのだが、割り切ってしまえば、こんなにオイシイ盤はないかもしれないと思う。
CD2枚組で、ヴェルディの名曲が名演奏で、それこそいいところだけ納められている。歌手もドミンゴとかカレーラスとか、超有名どころが歌っており、ヴェルディの明るい世界が堪能できる。これが2000円というのだから、お買い得であった。
オペラを聴かないとは言っても、アイーダやらリゴレットのフレーズは、どこかで聴いたことのあるものだし、何と言ってもヴェルディの曲は、スコーンと抜けた感じがして気持ちがいい。やっぱりイタリア人なんだなあと思う。
梅雨で気分のすぐれないときは、能天気な(?)イタリアものが似合うかもしれない
アンドレア・ボチェッリ/ヴェルディ・アリア集
ドロヴァトーレ、リゴレット、仮面舞踏会、アイーダ
椿姫、十字軍のロンバルディア人、エルナーニ
ドン・カルロ、ルイザ・ミラー、運命の力
- メータ 指揮
- イスラエル・フィルハーモニー管
- PHILIPS UCCP-1003(国内版)
聴いてみるとなんとも伸びやかにして気持ちがいい。体の中から全ての細胞が陽性に入れ替わってしまうかのようで、何だか分からないが、これぞイタリア!これぞヴェルディ!という気持ちになってくる。こういう風に前向きに生きなきゃダメだなとさえ思う。
いても立ってもいられなくなって、両手を広げて大きな声で歌いたくなる。ヴェルディというのは、こぶしの使い方といい、「クラシック道場入門」で玉木正之さんが書いていたが、まさに「演歌師」だと思う。♪ブンチャカチャッチャ、ブンチャカチャッチャ♪だものなあ~~(笑)
2001年6月21日木曜日
2001年6月16日土曜日
酸性雨
東京で酸性雨が降っていて、その度合いが酢とレモンの酸性度の中間くらいになっているというハナシを人づてに聞いた。なめてもすっぱくはないらしいが、結構植物とかがやられてしまっているらしい。
願わくは、香港に行けなくとも、将来的にも、帽子や手袋をはめずに外出できる世界であって欲しいと思う。
オゾン層の件についてもそうだけど、半袖はダメとか日中の外出はダメとかの過剰反応もいかがなものかと思うけど。実態がどうなているのか、分かっている様で何も分からないだけに、どう反応してよいのか判断に苦しむんだよね・・・・
♪(*^-゚)⌒☆
願わくは、香港に行けなくとも、将来的にも、帽子や手袋をはめずに外出できる世界であって欲しいと思う。
オゾン層の件についてもそうだけど、半袖はダメとか日中の外出はダメとかの過剰反応もいかがなものかと思うけど。実態がどうなているのか、分かっている様で何も分からないだけに、どう反応してよいのか判断に苦しむんだよね・・・・
♪(*^-゚)⌒☆
小泉内閣メールマガジンで・・
小泉内閣メールマガジンを登録しただろうか。登録者数があっという間に100万人を超えてしまったらしく、ちょっとコワイ気もする。そういう私も登録したし、家人も登録しているのではあるが・・・
今回はジャブといったところだろうが、扇国土交通大臣の「台所からの政治」というので気になった。彼女は、スマートな週末の過ごし方として、「曜日の夜から香港に出かけて、土曜日は飲茶と夜景を楽しみ、日曜日はショッピング、帰りはETC(ノンストップ自動料金収受システム)で料金所も止まらず高速道路で空港へ向かい月曜朝には何食わぬ顔で出勤」(長いがメルマより引用)というライフスタイルを描いた。
そういうライフスタイル、できれば確かにいいよね。でも、それが実現できるのは、ハコものや制度ばかりじゃなくて、経済状況や労働環境なども重要だよね。
一体、どれだけの人が、扇さんの描く優雅なライフスタイルを享受できるようになるのだろうね。それが「台所からの政治」なのかな? 夢を語るのもいいんだけど、感覚的なずれを感じずにはいられない一文なのであった。
まあ、国民の大多数がそのような生活を享受できるのならば、多分幸せだろうから目指すことに異論はないけどさ。
今回はジャブといったところだろうが、扇国土交通大臣の「台所からの政治」というので気になった。彼女は、スマートな週末の過ごし方として、「曜日の夜から香港に出かけて、土曜日は飲茶と夜景を楽しみ、日曜日はショッピング、帰りはETC(ノンストップ自動料金収受システム)で料金所も止まらず高速道路で空港へ向かい月曜朝には何食わぬ顔で出勤」(長いがメルマより引用)というライフスタイルを描いた。
そういうライフスタイル、できれば確かにいいよね。でも、それが実現できるのは、ハコものや制度ばかりじゃなくて、経済状況や労働環境なども重要だよね。
一体、どれだけの人が、扇さんの描く優雅なライフスタイルを享受できるようになるのだろうね。それが「台所からの政治」なのかな? 夢を語るのもいいんだけど、感覚的なずれを感じずにはいられない一文なのであった。
まあ、国民の大多数がそのような生活を享受できるのならば、多分幸せだろうから目指すことに異論はないけどさ。
景気の悪化
内閣府がきのう発表した今年一~三月期の国内総生産(GDP)は、二・四半期ぶりのマイナスとなった。また、竹中平蔵経済財政担当相は、景気の現状について、「悪化しつつある」という判断に修正した。
経済の牽引であったIT産業のかげりやアメリカの景気の影響か、小泉内閣になっても、いまひとつ景気回復の兆しは見えない。そもそも「構造改革なくして景気回復なし」と小泉内閣は唱えているので、「構造改革」がまだなされていない今において、「景気は回復しない」のは予測済みというわけだ。
もっとも「構造改革」が成功すると「景気が必ず回復」するのかは疑問で、改革に伴い切り捨てられる業種の雇用や生活をどのように守るのかという論議も必要だろう。
都議選も始まったが(北海道民には余り関係ないが)、自分が「勝ち組」なのか「負け組み」になるのか、うすうすとは分かっていつつも、「最悪のことはあるまい」とタカをくくりながら改革の行く末を、傍観者的に見守っているかのようだ。企業姿勢として、この改革で「負け組み」とならないような施策は、ウチの会社ではまだ聞こえて来ない。
経済の牽引であったIT産業のかげりやアメリカの景気の影響か、小泉内閣になっても、いまひとつ景気回復の兆しは見えない。そもそも「構造改革なくして景気回復なし」と小泉内閣は唱えているので、「構造改革」がまだなされていない今において、「景気は回復しない」のは予測済みというわけだ。
もっとも「構造改革」が成功すると「景気が必ず回復」するのかは疑問で、改革に伴い切り捨てられる業種の雇用や生活をどのように守るのかという論議も必要だろう。
考えて見れば、それが上手くいけば産業構造が変革しているわけで、「構造改革」は成功したと言ってもいいのだろう。しかし、傾斜配分による一人勝ちみたいな状況が生じるのだとすると、最悪の改革結果と言わねばならない。地方と都市部でも状況は大きく異なると思う。
都議選も始まったが(北海道民には余り関係ないが)、自分が「勝ち組」なのか「負け組み」になるのか、うすうすとは分かっていつつも、「最悪のことはあるまい」とタカをくくりながら改革の行く末を、傍観者的に見守っているかのようだ。企業姿勢として、この改革で「負け組み」とならないような施策は、ウチの会社ではまだ聞こえて来ない。
2001年6月13日水曜日
大阪の小学校 殺傷事件で思う(2)
大阪の小学校殺傷事件のことを思わずにはいられない。「治療処分」「保安処分」などの是非が議論されてゆくだろう。
今日の朝日新聞は、安易な保安処分に進むことを諌め、「病院に長く閉じこめるのは、人権侵害であるうえ治りを遅くする」という基本発想のもと「不起訴などになった後の処置が、医療側の判断だけに任される」ことに触れ、「治療・社会復帰の過程に、何らかの形で司法がかかわる、という方向での論議は欠かせない」と結んでいる。
一方、産経新聞は、治療処分を「先進国では当たり前の制度である」といい、「精神障害者の犯罪は九割が不起訴になっている」現実に言及し「専門施設で充実した医療を受けさせる方が、加害者の人権を尊重する道ではないか」としている。
朝日は人権重視の前提で司法のありかたや精神治療のありかたを、産経は治療処分を前提とし治療しくみの改革などを訴えている。一方が治療処分反対、一方が賛成というような単純な図式ではない。やはり根本的に、刑法39条を含め、一般の我々が安心できるシステムが確立されていないのだ。
昨日の感想で、人権以前に極刑をという極論が生じやすいことを書いた。犯罪というものが何故発生したのか=人の心の闇がどうして生じたのかを、犯罪者を通して研究することは必要だ。もし今回、アメリカのように犯人が即刻、散弾銃で殺されていたとしたら真相はそれこそ闇の中だ。
一時的に心身喪失状態であったとしても、人間としての心や人格までもが全て消滅していない限り人権を有することは認めよう。しかしなのだ、殺されたものたちの人権は、何によって償われるのだろう。犯人が「真人間」になって社会に復帰することなのだろうか? 今回のような犯罪が起きないような社会に変ることだろうか?
一時はやったサイコスリラーものでの快楽殺人犯とは少々異なるが、彼らを調べてゆくと必ず幼児期に虐待を受けているというのを読んだことがある。幼児虐待を受けたから必ず殺人犯になるものでもない。人間の心に潜む闇に向かうには何が必要なんだろうか。
この問題を考えると、ますます混乱してしまう。
今日の朝日新聞は、安易な保安処分に進むことを諌め、「病院に長く閉じこめるのは、人権侵害であるうえ治りを遅くする」という基本発想のもと「不起訴などになった後の処置が、医療側の判断だけに任される」ことに触れ、「治療・社会復帰の過程に、何らかの形で司法がかかわる、という方向での論議は欠かせない」と結んでいる。
一方、産経新聞は、治療処分を「先進国では当たり前の制度である」といい、「精神障害者の犯罪は九割が不起訴になっている」現実に言及し「専門施設で充実した医療を受けさせる方が、加害者の人権を尊重する道ではないか」としている。
朝日は人権重視の前提で司法のありかたや精神治療のありかたを、産経は治療処分を前提とし治療しくみの改革などを訴えている。一方が治療処分反対、一方が賛成というような単純な図式ではない。やはり根本的に、刑法39条を含め、一般の我々が安心できるシステムが確立されていないのだ。
昨日の感想で、人権以前に極刑をという極論が生じやすいことを書いた。犯罪というものが何故発生したのか=人の心の闇がどうして生じたのかを、犯罪者を通して研究することは必要だ。もし今回、アメリカのように犯人が即刻、散弾銃で殺されていたとしたら真相はそれこそ闇の中だ。
一時的に心身喪失状態であったとしても、人間としての心や人格までもが全て消滅していない限り人権を有することは認めよう。しかしなのだ、殺されたものたちの人権は、何によって償われるのだろう。犯人が「真人間」になって社会に復帰することなのだろうか? 今回のような犯罪が起きないような社会に変ることだろうか?
一時はやったサイコスリラーものでの快楽殺人犯とは少々異なるが、彼らを調べてゆくと必ず幼児期に虐待を受けているというのを読んだことがある。幼児虐待を受けたから必ず殺人犯になるものでもない。人間の心に潜む闇に向かうには何が必要なんだろうか。
この問題を考えると、ますます混乱してしまう。
2001年6月12日火曜日
大阪の小学校 殺傷事件で思う
大阪の小学校襲撃事件のような事件が起こるたびに「精神鑑定」とか「心神喪失」「刑事責任能力」などの問題が持ち上がってくる。心情的には、「人を殺傷せしめた者に人権などあるか、殺された者の人権をないがしろにするような犯人の人権やら責任能力を議論するのは片腹痛い」という極論に傾く気持がないわけではない。(一時的に)判断能力が欠如していたとしても、何の罪も無い8人の子供を殺した犯人に弁護士が付き、税金を使って事件の真相を何ヶ月以上もかけて追究する必要があるのか、彼を更生させることが社会的に意味あることなのかと疑問を感じないわけではない。
しかしだ、ちょっと冷静にならなくてはならない。こういう考え方は危険な極論なのだと思う。もしそのような社会であったとしたら、つまり、情状酌量の余地のない犯罪を犯したら、即刻極刑に処せられる社会だとしたら、我々は恐ろしくて生きてはいけないのではなかろうか。そもそも、前提条件の「情状酌量の余地のない犯罪」というのは誰が客観的に証明するのか。はたまた、冤罪である可能性はないのかなど。
それだけに、重大事件が起きたときの対応については、深い議論が必要だろう。個人の命ばかりか、その周りの人たちの生活や夢を全てこなごなに砕いた責任をどう負わせ償わせるのか。犯人の死だけが償いになるとは思えない。
今回の事件は、① 精神鑑定の結果、心身喪失状態で責任を問えないとされた犯人の処遇 ② 措置入院させた場合の患者のフォロー体制 という点を考えさせるきっかけになるのかもしれない。学校の安全確保ということや、宅間容疑者のような人間を生み出さない社会の実現(鳩山代表)ということも議論されねばならないだろう。後者の議論は、倫理面と制度面の両者で考える必要があろう。倫理面での追求をするためには、犯人を詳しく調べる必要が、あると思う。
また、責任を問えないとした刑法(第39条)に問題があると思うのだが、そもそも精神鑑定の客観性などにも問題があるのかもしれない。
ただ、これらの議論が「犯罪を起こすおそれのある者を隔離する」という制度に行き着くことには、不安と恐怖を覚えないわけでもない。それを誰がどうやって判断するのか、中世の「魔女狩り」を彷彿とさせる情景がよぎるのは考えすぎかもしれないが。
少年犯罪と少年法の問題も含め、日本の社会はかつてなかったような、凶悪犯罪の増加を経験しつつある。大昔に作られた法律では現在の犯罪状況に対応できにくくなってきていることだけは確実なようだ。この問題になると、私はどちらの立場を取ってよいのか分からず混乱するばかりだ。
それにしても、何度もニュースに接するたびに、やりきれなさと凶悪犯罪に対する無力感に言葉を失ってしまう。
しかしだ、ちょっと冷静にならなくてはならない。こういう考え方は危険な極論なのだと思う。もしそのような社会であったとしたら、つまり、情状酌量の余地のない犯罪を犯したら、即刻極刑に処せられる社会だとしたら、我々は恐ろしくて生きてはいけないのではなかろうか。そもそも、前提条件の「情状酌量の余地のない犯罪」というのは誰が客観的に証明するのか。はたまた、冤罪である可能性はないのかなど。
それだけに、重大事件が起きたときの対応については、深い議論が必要だろう。個人の命ばかりか、その周りの人たちの生活や夢を全てこなごなに砕いた責任をどう負わせ償わせるのか。犯人の死だけが償いになるとは思えない。
今回の事件は、① 精神鑑定の結果、心身喪失状態で責任を問えないとされた犯人の処遇 ② 措置入院させた場合の患者のフォロー体制 という点を考えさせるきっかけになるのかもしれない。学校の安全確保ということや、宅間容疑者のような人間を生み出さない社会の実現(鳩山代表)ということも議論されねばならないだろう。後者の議論は、倫理面と制度面の両者で考える必要があろう。倫理面での追求をするためには、犯人を詳しく調べる必要が、あると思う。
また、責任を問えないとした刑法(第39条)に問題があると思うのだが、そもそも精神鑑定の客観性などにも問題があるのかもしれない。
ただ、これらの議論が「犯罪を起こすおそれのある者を隔離する」という制度に行き着くことには、不安と恐怖を覚えないわけでもない。それを誰がどうやって判断するのか、中世の「魔女狩り」を彷彿とさせる情景がよぎるのは考えすぎかもしれないが。
少年犯罪と少年法の問題も含め、日本の社会はかつてなかったような、凶悪犯罪の増加を経験しつつある。大昔に作られた法律では現在の犯罪状況に対応できにくくなってきていることだけは確実なようだ。この問題になると、私はどちらの立場を取ってよいのか分からず混乱するばかりだ。
それにしても、何度もニュースに接するたびに、やりきれなさと凶悪犯罪に対する無力感に言葉を失ってしまう。
2001年6月11日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第3番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
先のデイヴィス&ボストン響の演奏を何度も繰り返し聴き、交響曲第3番は愛らしくも節度のある曲という印象を持ち始めていた。いいかげん慣れ親しんだつもりで改めてベルグルンドの演奏を聴いてみるたのだが、これがまた全く新鮮であり、静かにして深い感動が沸き起こってくるのを避けることができないかった、非常にすばらしい演奏である。
抑えられた感情表現が深く音楽の中に透徹しており、シベリウスが「混沌の中から明らかになる思考」と表現した何かが見えてくるかのようである。演奏の感想を書こうとしたが、書いてみたら、演奏から得られたイマジネーションを書くに終始してしまったが、ご容赦願いたい。弦がどうのとか打楽器がとかいう評は、本来的には音楽を聴いていることにはならないと思うので、こういう感想でも良いじゃない、て、言い訳に近いが(^^;;
第一楽章はクリアな音質とスピード感により曲が浮き立ってくる。第一主題から盛り上がってゆくところは霧が晴れたかのような印象を受けるが、迷いからの開放の象徴なのだろうか、非常に内的な満足感を覚える部分である。この数分間はこの交響曲を貫く基本的なイメージを凝縮しているように思える、極めて密度の高いテーマ設定だ。
引き続く第二主題との明暗の対比も見事であり、ここには深く考え込むかのような姿勢が見える。中間部の静かにして複雑な絡み合う部分は、テーマが展開されてゆき色彩豊かに語りかけてくる。弱音の中にも聴き所が多くハッとさせられる美しさが込められている。
再現部は歯切れのよさと粒の際立ちがすばらしく、シベリウス自身の内的な心情の吐露のようでもあるし、あるいは北欧の光に満ちた風景の描写のようにも聴こえる。透明感と輝きはシベリウス独自の世界であり、この楽章だけでシベリウス的な音響を十二分に満喫することができる。
第二楽章は、森の精が優しく語りかけるのに耳を傾けている、あるいは、そよ風が頬をなで、移ろい流れてゆく光と影を追うかのような印象を受ける。重層的に単純なテーマが展開されてゆき、ひとつひとつの感情が織り込まれてゆく。さまよい探るように進める歩みは、何かを発見する期待と喜び、はたまた、見つけることのできない不安と戸惑いを感じさせる。この楽章のテーマは聴くたびに、違った感情を抱かせ驚くばかりである。ピチカートにより導かれる後半は、何かを見出し歩み始めた姿を見ることができる。着実に歩みはじめるが、彼の見つけたものは何だったのだろう。風を感じる・・・・・全身を吹き抜ける風・・・、立ち止まって全身で風を感じるが心は満たされており、進むことに不安はない。
第三楽章では、いきなり扉は開けられたと感じる。新たな生命の宿りと息吹をイメージさせるような冒頭、止まることのない運動性を感じる楽章である。経過的な断片的フレーズを積み重ねながら、ある結末への期待を孕ませたまま、賛美歌風の終結部に至るのだが、その移行部分の厳かさと敬虔さには、胸を打たれる。決して大げさに歌っていないのに全身に喜びのようなものが満ち溢れてくるのを留めることが出来ない。この部位でも光を感じることができ、それは、何かに対する大いなる祈りと感謝の気持ちに昇華してゆく。解説にある「賛美歌風」という表現の適切さに納得させられる。
こうして聴いてくると、この短い交響曲だが3番を抜きにしてシベリウスを語ることはできないのではないかと思う。初演時、聴衆には4番ほどではないにしろ「わかりにくい」と取られたらしが、この曲のどこに難解さがあろうか。
この演奏からは、シベリウスの描き出した光と風を全身に浴び、その至福の中に生きていることの喜びと素晴らしさ、あるいは自然の美しさを、感謝の気持ちを込めて静かに深く祈るかのような気持ちを感じ取ることができる。世俗的な雑事を離れた純粋なる感情であるだけに、曲には質素さと清潔さが必要であり、彼のテーマから得られた必然による交響曲の構成という気さえしてくるのだ。
デイヴィス盤も決して悪くはない。しかし、これほどの内的な満足を感じさせてはくれなかった。聴くほどに全く別物の演奏であると感じ入るばかりである。
2001年6月10日日曜日
何てことだ!練習日誌、実に1ヶ月ぶりではないか
何てことだ!練習日誌、実に1ヶ月ぶりではないか(日誌じゃなくて月誌だな)。
フルートフェスティバルも出られなかったし、目標がないと練習しないもんだなあと改めて反省。練習しなきゃ上手くなるわけないのにな。ゴルフの坂田信弘も言っているではないか「練習もしないで100を切れればプロになれますよ」て。
今日のレッスンは、何を吹いて誤魔化そうかと思案した挙句、ヘンデルのソナタ1の5をもう一度はじめから受けることにした。ご存知のように、指的には、あまり難しい曲じゃないので、とりあえず通して吹ければいいみたいな感じ。
ヘンデルのソナタは3楽章は、全体的に平易にかかれているものが多いらしく、ここは演奏者が独自の装飾やらカデンツァで変奏する部分であるとのこと。なるほど、とは思うが和声だの全く理解していない私には、即興に近いような演奏は全然できないのであった。
まあ、そんなわけで、「後少し指の怪しいところは練習しておくように」てな感じで、誤魔化しのヘンデルも終わってしまった。困ったことに、練習していないんで、持ち曲の駒が切れてしまった!次に何を練習するのか困惑してしまうのであった。アンデルセンのOp21の6番は当分歯が立ちそうにもないんで・・・
思い立ったように、タファネル&ゴーベールのEJ1、2をやってみるが、ああ、毎日やらないとダメだなあと・・・再び暗澹たる気分になるのであった。
フルートフェスティバルも出られなかったし、目標がないと練習しないもんだなあと改めて反省。練習しなきゃ上手くなるわけないのにな。ゴルフの坂田信弘も言っているではないか「練習もしないで100を切れればプロになれますよ」て。
今日のレッスンは、何を吹いて誤魔化そうかと思案した挙句、ヘンデルのソナタ1の5をもう一度はじめから受けることにした。ご存知のように、指的には、あまり難しい曲じゃないので、とりあえず通して吹ければいいみたいな感じ。
ヘンデルのソナタは3楽章は、全体的に平易にかかれているものが多いらしく、ここは演奏者が独自の装飾やらカデンツァで変奏する部分であるとのこと。なるほど、とは思うが和声だの全く理解していない私には、即興に近いような演奏は全然できないのであった。
まあ、そんなわけで、「後少し指の怪しいところは練習しておくように」てな感じで、誤魔化しのヘンデルも終わってしまった。困ったことに、練習していないんで、持ち曲の駒が切れてしまった!次に何を練習するのか困惑してしまうのであった。アンデルセンのOp21の6番は当分歯が立ちそうにもないんで・・・
思い立ったように、タファネル&ゴーベールのEJ1、2をやってみるが、ああ、毎日やらないとダメだなあと・・・再び暗澹たる気分になるのであった。
2001年6月8日金曜日
党首討論と外交戦略など・・・
国会での党首討論が行われTVで放映された。私はその模様を見てはいないが、小泉首相の「集団的自衛権、周辺事態、米国のミサイル防衛戦略」に関する考え方は、真意を測りかねる。
小泉首相は『「実現すれば安全保障上の考えは一変する。核兵器、弾道ミサイルがまったく意味をなさなくなるかもしれない」と高い関心を示し』『集団的自衛権は研究の余地がある』(毎日新聞)と答えているらしい。
「研究の余地がある」とは、彼一流のかわしかただが、政府の今までの見解から少し踏み込んだ、米国の期待にそった発言であるとの印象を受ける。
一方、田中外相は風聞を否定することに必死で、自らの外交理念については封印したかのような感がある。しかし田中外相の一連のリーク発言からは、米国よりの安全保障に立脚した政策からの転換を見据えているようで、21世紀の世界と日本という観点からは、二歩くらい先を進んだ理念を持っていると高く評価できると私は考えている。
「周辺事態」という造語まで持ち出して、自衛権の拡大と米国よりの戦略をとろうとするのが、大きな流れなのだが果たしてこれでよいのか、という議論、どこから火の手が上がるのだろうか。自民党内部からのはずもないが、立脚点が揃わない野党でもなさそうで、何とも情けなさを感じる。
鳩山代表や土井代表の発言を聞いていると、政党の枠組みさえ緩やかに崩壊してきたことを感じずにはいられない。
派閥どころか、政界大編成が行われなければ日本の未来への舵取りはできないのではないかという気にさせられた。
小泉首相は『「実現すれば安全保障上の考えは一変する。核兵器、弾道ミサイルがまったく意味をなさなくなるかもしれない」と高い関心を示し』『集団的自衛権は研究の余地がある』(毎日新聞)と答えているらしい。
「研究の余地がある」とは、彼一流のかわしかただが、政府の今までの見解から少し踏み込んだ、米国の期待にそった発言であるとの印象を受ける。
一方、田中外相は風聞を否定することに必死で、自らの外交理念については封印したかのような感がある。しかし田中外相の一連のリーク発言からは、米国よりの安全保障に立脚した政策からの転換を見据えているようで、21世紀の世界と日本という観点からは、二歩くらい先を進んだ理念を持っていると高く評価できると私は考えている。
「周辺事態」という造語まで持ち出して、自衛権の拡大と米国よりの戦略をとろうとするのが、大きな流れなのだが果たしてこれでよいのか、という議論、どこから火の手が上がるのだろうか。自民党内部からのはずもないが、立脚点が揃わない野党でもなさそうで、何とも情けなさを感じる。
鳩山代表や土井代表の発言を聞いていると、政党の枠組みさえ緩やかに崩壊してきたことを感じずにはいられない。
派閥どころか、政界大編成が行われなければ日本の未来への舵取りはできないのではないかという気にさせられた。
2001年6月6日水曜日
報道に対する憤り
田中外相と豪ダウナー外相との会話に関する問題はどこまでが真実なのか。
昨日、ダウナー外相は「田中外相の米国批判の内容を米国に伝えることを橋本龍太郎氏に話した」ことを「事実無根」であるという声明を発表した。
なんなんだ? 田中外相がミサイル構想に疑義を呈したのは事実のようだが、どこまでが本当なのだ?
野党はこれを機にと、外相の資質にまで言及し辞任を強く求めてくるだろう。今のままでは、外交手腕に不安を感じることは確かだ。5日の朝日新聞の社説でも「第六感」に頼るような外交を批判していた。
米国務省のバウチャー報道官は、田中発言を重視しない発言をしている。日本が今までの「協調路線」を踏み外すことはないと思っているからだ。福田官房長官の言うように「同盟国は米国」なのだから。
明らかになったのは、田中外相の大臣としての資質ではなく、政府個人レベルでの意見の食い違いである。したがって、議論すべきは、政府としての統一見解、与野党間の意見調整にこそ議論が裂かれるべきで、一外相の進退問題を汲々と論じるのはいかがなのか。田中外相も批判を浴びていることを真摯に受け止め言動を考えてもらいたいとは思うが。
それにしても、一連の報道の中で真実と真意はどこにあるのか、正確に伝わってこない憤りを感じる。それに、一番最初の情報の発信源は「誰」なんだ? 彼の目的は何だ?
昨日、ダウナー外相は「田中外相の米国批判の内容を米国に伝えることを橋本龍太郎氏に話した」ことを「事実無根」であるという声明を発表した。
なんなんだ? 田中外相がミサイル構想に疑義を呈したのは事実のようだが、どこまでが本当なのだ?
野党はこれを機にと、外相の資質にまで言及し辞任を強く求めてくるだろう。今のままでは、外交手腕に不安を感じることは確かだ。5日の朝日新聞の社説でも「第六感」に頼るような外交を批判していた。
米国務省のバウチャー報道官は、田中発言を重視しない発言をしている。日本が今までの「協調路線」を踏み外すことはないと思っているからだ。福田官房長官の言うように「同盟国は米国」なのだから。
明らかになったのは、田中外相の大臣としての資質ではなく、政府個人レベルでの意見の食い違いである。したがって、議論すべきは、政府としての統一見解、与野党間の意見調整にこそ議論が裂かれるべきで、一外相の進退問題を汲々と論じるのはいかがなのか。田中外相も批判を浴びていることを真摯に受け止め言動を考えてもらいたいとは思うが。
それにしても、一連の報道の中で真実と真意はどこにあるのか、正確に伝わってこない憤りを感じる。それに、一番最初の情報の発信源は「誰」なんだ? 彼の目的は何だ?
2001年6月5日火曜日
田中外相のミサイル発言にからめて
田中外相の「ミサイル発言」をめぐって、外交および小泉政権にまた、マイナス要因が発生してしまったようだ。なぜこのような「発現」がリークしてしまうのかも疑問なのだが、田中外相の真意が読み取りにくくなってきていることは確かだ。(発現撤回を含めて)
そもそも、アメリカの示すNMD(国家ミサイル防衛)とTMD(戦域ミサイル防衛)構想を日本が支持しないわけがない、というのが今までの日米関係である。これはアメリカを中心とした経済・軍事影響下にある諸国ならば、同調せざるを得ないものなのだろう。日本がTMD開発に対し「技術協力」を含めてこれを支援する(している)ことは以前から表明されていた。
��MDとNMDは、全く違うものだ(両方あわせてBMDという)。TMDは短距離のミサイルを対象とし、アメリカと同盟国にミサイルが落ちないことを抑止するもので、NMDはアメリカ本土への弾道ミサイルの抑止だ。当然技術レベルはNMDの方がケタはずれに大きい。
中国・北朝鮮などの軍事力が脅威であるとの前提のもと「抑止力」としての軍事だが、これは昔から議論されている「盾と矛」の論理である。(脅威がある以上)TMDについては平和を維持するために必要であるとする人も多いと思う。今の日本において、北朝鮮からのテポドンを迎え撃つ手段はないことも認めよう。
��MD推進者は上記の現実を掲げ、「際限なき軍拡とは違う」と主張するだろう。現実をよく知らない平和論者は、「ミサイルのない国際社会を目指すことこそ本筋」というだろう。
しかし、この政策を推進することで「最終的に真に利益を被るのは」誰なのか? が明確に見えねばならない。この件を調べてゆくと、TMDとNMDに対する各国の反応も微妙に異なることが伺える。しかし、日本においてはどうなのだろうか。TMDのためのミサイルを日本が有することということに対する、政策的・憲法的議論が必要な気がする。防衛庁だってTMD開発に対する「費用対効果」には疑問を投げ掛ける人もいたのではないか。
田中外相の投げかけた「波紋」というのは、日中関係を意識しての発言とか、政府の意見の不一致というよりも、日本としての意見の不一致、防衛構想に対する「迷走」ということの象徴のように思える。報道は、田中外相パッシングを繰り返すのではなく、本来の日本が取るべき道筋を議論するように導くべきではないのか。(賛成・反対論も含めて)
わたしの個人的立場としては、心情的には反対論を唱えるだろうが、複雑怪奇なる国際社会と国家関係に思いを馳せると、安易な結論を出すことが出来ず勉強不足を恥じ入るばかりである、ということを田中報道を眺めつつ感じた。
そもそも、アメリカの示すNMD(国家ミサイル防衛)とTMD(戦域ミサイル防衛)構想を日本が支持しないわけがない、というのが今までの日米関係である。これはアメリカを中心とした経済・軍事影響下にある諸国ならば、同調せざるを得ないものなのだろう。日本がTMD開発に対し「技術協力」を含めてこれを支援する(している)ことは以前から表明されていた。
��MDとNMDは、全く違うものだ(両方あわせてBMDという)。TMDは短距離のミサイルを対象とし、アメリカと同盟国にミサイルが落ちないことを抑止するもので、NMDはアメリカ本土への弾道ミサイルの抑止だ。当然技術レベルはNMDの方がケタはずれに大きい。
中国・北朝鮮などの軍事力が脅威であるとの前提のもと「抑止力」としての軍事だが、これは昔から議論されている「盾と矛」の論理である。(脅威がある以上)TMDについては平和を維持するために必要であるとする人も多いと思う。今の日本において、北朝鮮からのテポドンを迎え撃つ手段はないことも認めよう。
��MD推進者は上記の現実を掲げ、「際限なき軍拡とは違う」と主張するだろう。現実をよく知らない平和論者は、「ミサイルのない国際社会を目指すことこそ本筋」というだろう。
しかし、この政策を推進することで「最終的に真に利益を被るのは」誰なのか? が明確に見えねばならない。この件を調べてゆくと、TMDとNMDに対する各国の反応も微妙に異なることが伺える。しかし、日本においてはどうなのだろうか。TMDのためのミサイルを日本が有することということに対する、政策的・憲法的議論が必要な気がする。防衛庁だってTMD開発に対する「費用対効果」には疑問を投げ掛ける人もいたのではないか。
田中外相の投げかけた「波紋」というのは、日中関係を意識しての発言とか、政府の意見の不一致というよりも、日本としての意見の不一致、防衛構想に対する「迷走」ということの象徴のように思える。報道は、田中外相パッシングを繰り返すのではなく、本来の日本が取るべき道筋を議論するように導くべきではないのか。(賛成・反対論も含めて)
わたしの個人的立場としては、心情的には反対論を唱えるだろうが、複雑怪奇なる国際社会と国家関係に思いを馳せると、安易な結論を出すことが出来ず勉強不足を恥じ入るばかりである、ということを田中報道を眺めつつ感じた。
2001年6月3日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第3番
指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲第3番というと、人気の2番と暗い(^^)4番にはさまれた曲であり、印象が薄い曲であったが改めて聴いてみると見事なまでの構成美と簡潔な表現が心地よく、しかも随所にシベリウスの音楽の特徴とも言えるようなサウンドや書法が見て取れ、名曲であることに気付かされた。開放感と明るさは、ハ長調という調性を象徴しているかのようである。イメージ的にはベートーベンの第4交響曲のような印象を受けた。
��・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみたのだが、何故、交響曲第一番を聴いたときに彼の演奏を「シベリウス的ではない」と感じたのか疑問である。オーケストラの編成のせいもあるのだろうか、この演奏からは、スリムさと清涼感や爽快感そして、若々しい推進力を感じることのできる演奏で、曲のもつ魅力を十二分に表現しているのではないかと思うのだ。まさにどこを切ってもシベリウスの世界がここにはある。
第一楽章は、何の前触れもなくそして唐突にチェロとコントラバスの主題により始まるのだが、この細かく刻まれるリズムと躍動感は楽章全体を支配する雰囲気である。それに絡む木管とともに一気に盛り上がりを見せるが、走っている途中から至福にいたり視界が一気に開けたかのような印象を受ける。第二主題が幾分ノスタルジックに繰り返されるも、湿った感情はそこにはなく、さわやかさを全身に感じる楽章である。
第二楽章も最初にフルートで提示されたテーマが色々な楽器に引き継がれ展開してゆくが、森の中を一歩づつゆっくりと進むがごとくの感がある。時に立ち止まり森の中の鳥のさえずりや水の音に耳を傾けるかのように思えるところもある。第一楽章もそうだが、だからといって情景描写的な音楽ではない。むしろ、自然の風景や音に耳を澄ますことで、自らの内面世界を見据えているかのようなところがある。その内省もネガティブな方向に向かうことはなく、若干の寂寞感を伴う部位はあるにしても、第一楽章同様にどちらかというと躍動感と静かに満ちてくる内的な満足と至福を感じるのだ。
このような音楽のありようは、シベリウス本人が都会の生活を離れヤルヴェンバーの田園の家に移り住んだ環境の変化と無縁ではないように思える。この交響曲を聴くと、シベリウスはこの地で、新たな境地を開いたということに気付くのだ。
第三楽章は、第二交響曲でもそうであったように、性格の異なる楽章が単一楽章として有機的に結び付けられている。スケルツォからフィナーレへの移行は非常に巧みであり、いつのまにかすばやい躍動が、雄大ではあるものの過剰ではないコラールに変化しているさまは、聴くものに大きな満足と喜びを与えてくれる。しかし、その感動も第二交響曲のようなある種のあざとさというものはなく、簡潔にして慎ましやかでさえある。ラストの終わり方など、あっさりしすぎていると感じる人もいるかもしれない。演奏時間もこの8分半くらいと短いにも関わらず、短さによる不満は微塵も感じさせない。
全体を通してわずか30分弱の曲であるため、マーラーやブルックナーなどの曲を聴きなれているといかにも「短い」と感じるのだが、交響曲のもつ美しさと、シベリウス的世界の美しさが見事な構成美の中とともに、幾重にも折り重なるように微妙な襞をえがき出したている。やはり、この曲は以前のシベリウスとは完全に一線を画する曲であると認識するのであった。
��番に関しては他の演奏との比較がまだ、できていない段階であるため、デイヴィス&ボストン響の演奏について評することは難しい。明晰にして非常に歯切れの良い演奏であり、また弦楽器の切れも良く何度聴いても心地の良い演奏に仕上がっている。
シベリウスの交響曲第3番というと、人気の2番と暗い(^^)4番にはさまれた曲であり、印象が薄い曲であったが改めて聴いてみると見事なまでの構成美と簡潔な表現が心地よく、しかも随所にシベリウスの音楽の特徴とも言えるようなサウンドや書法が見て取れ、名曲であることに気付かされた。開放感と明るさは、ハ長調という調性を象徴しているかのようである。イメージ的にはベートーベンの第4交響曲のような印象を受けた。
��・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみたのだが、何故、交響曲第一番を聴いたときに彼の演奏を「シベリウス的ではない」と感じたのか疑問である。オーケストラの編成のせいもあるのだろうか、この演奏からは、スリムさと清涼感や爽快感そして、若々しい推進力を感じることのできる演奏で、曲のもつ魅力を十二分に表現しているのではないかと思うのだ。まさにどこを切ってもシベリウスの世界がここにはある。
第一楽章は、何の前触れもなくそして唐突にチェロとコントラバスの主題により始まるのだが、この細かく刻まれるリズムと躍動感は楽章全体を支配する雰囲気である。それに絡む木管とともに一気に盛り上がりを見せるが、走っている途中から至福にいたり視界が一気に開けたかのような印象を受ける。第二主題が幾分ノスタルジックに繰り返されるも、湿った感情はそこにはなく、さわやかさを全身に感じる楽章である。
第二楽章も最初にフルートで提示されたテーマが色々な楽器に引き継がれ展開してゆくが、森の中を一歩づつゆっくりと進むがごとくの感がある。時に立ち止まり森の中の鳥のさえずりや水の音に耳を傾けるかのように思えるところもある。第一楽章もそうだが、だからといって情景描写的な音楽ではない。むしろ、自然の風景や音に耳を澄ますことで、自らの内面世界を見据えているかのようなところがある。その内省もネガティブな方向に向かうことはなく、若干の寂寞感を伴う部位はあるにしても、第一楽章同様にどちらかというと躍動感と静かに満ちてくる内的な満足と至福を感じるのだ。
このような音楽のありようは、シベリウス本人が都会の生活を離れヤルヴェンバーの田園の家に移り住んだ環境の変化と無縁ではないように思える。この交響曲を聴くと、シベリウスはこの地で、新たな境地を開いたということに気付くのだ。
第三楽章は、第二交響曲でもそうであったように、性格の異なる楽章が単一楽章として有機的に結び付けられている。スケルツォからフィナーレへの移行は非常に巧みであり、いつのまにかすばやい躍動が、雄大ではあるものの過剰ではないコラールに変化しているさまは、聴くものに大きな満足と喜びを与えてくれる。しかし、その感動も第二交響曲のようなある種のあざとさというものはなく、簡潔にして慎ましやかでさえある。ラストの終わり方など、あっさりしすぎていると感じる人もいるかもしれない。演奏時間もこの8分半くらいと短いにも関わらず、短さによる不満は微塵も感じさせない。
全体を通してわずか30分弱の曲であるため、マーラーやブルックナーなどの曲を聴きなれているといかにも「短い」と感じるのだが、交響曲のもつ美しさと、シベリウス的世界の美しさが見事な構成美の中とともに、幾重にも折り重なるように微妙な襞をえがき出したている。やはり、この曲は以前のシベリウスとは完全に一線を画する曲であると認識するのであった。
��番に関しては他の演奏との比較がまだ、できていない段階であるため、デイヴィス&ボストン響の演奏について評することは難しい。明晰にして非常に歯切れの良い演奏であり、また弦楽器の切れも良く何度聴いても心地の良い演奏に仕上がっている。
2001年6月2日土曜日
外国人との対応
外国人との対応とか受け入れということでの問題は、日本が「アジアの一員」という自覚があるのだろうか。「欧米列強諸国(笑)」の一員になりたいと、今でも思っているかは別として。
韓国、中国と仲良く盟主として手をつなげるか、アジア経済圏として日本の役割の位置付けは重要なテーマであろうし、アメリカとの関係以上に論議されなくてはならない点だと思う。
中国を単なる肉体的労働力の供給源と考えるだけならば限界もあろう。将来的には韓国からインドまで含めて知的労働力の供給源になるかもしれないのだ。
そういう状況において、小泉政権の示す外交路線と対中・対韓政策および靖国問題は危うさと表裏一体の印象を受ける。
��仕事がひと段落したんで息抜き・・・・てこんなテーマで息抜くなよてか)
韓国、中国と仲良く盟主として手をつなげるか、アジア経済圏として日本の役割の位置付けは重要なテーマであろうし、アメリカとの関係以上に論議されなくてはならない点だと思う。
中国を単なる肉体的労働力の供給源と考えるだけならば限界もあろう。将来的には韓国からインドまで含めて知的労働力の供給源になるかもしれないのだ。
そういう状況において、小泉政権の示す外交路線と対中・対韓政策および靖国問題は危うさと表裏一体の印象を受ける。
��仕事がひと段落したんで息抜き・・・・てこんなテーマで息抜くなよてか)
経済財政諮問会議つらつら
経済財政諮問会議の経済・財政運営に関する基本方針が出され、徐々に改革の内容が具体化してきた。
色々な分野や、改革をすることで不利益を被る団体からの反発は予期されるだろうが、大きな流れとしては賛同できるものである。もっとも、ワタシの業界は不利益を被る典型的な団体のひとつなのだが・・・
改革に当たって、資源の再配分ということが言われていて、ひとつ気になった。
産業的には今までの土建業中心の経済から情報産業へと移行させたい、生活の場も都市型を目指すというのが根底のようだ。
さて、今後の日本社会を考えた場合、少子化は避けられず、投資をシフトさせた先の産業が隆盛になるのかというとこれには大きな疑問を呈せざるを得ない。現状の教育システムと文部省(今でもあったっけ?)の掲げた教育方針では、日本の教育は荒廃するだろう。今の企業の体力が維持できるという前提は実は破綻していると思わざるを得ない。
一方で、外国人をどのように受け入れ、日本社会を活性化させるのか。グローバリゼーションの流れにさらされ、日本社会が大きく変質してゆく様を、もしかしたらこれから体験することになるのかもしれない。
外国人に限らず、公的な負担と受けることを約束された利益(医療・福祉)という問題も横たわっており、長期的なシミュレーションのもとに正確な現状認識が、この21世紀の初頭に必要であると思わざるを得ない。
最終的に笑うのは、誰になるのだろう? 実は政治家たちだけだったりして・・・・(だって、高齢なのにあんなにバリバリ仕事して、ボケ知らず。地位も名誉もあって、というのは政治家しかいないんじゃない=て、そこに落とすなよ)
色々な分野や、改革をすることで不利益を被る団体からの反発は予期されるだろうが、大きな流れとしては賛同できるものである。もっとも、ワタシの業界は不利益を被る典型的な団体のひとつなのだが・・・
改革に当たって、資源の再配分ということが言われていて、ひとつ気になった。
産業的には今までの土建業中心の経済から情報産業へと移行させたい、生活の場も都市型を目指すというのが根底のようだ。
さて、今後の日本社会を考えた場合、少子化は避けられず、投資をシフトさせた先の産業が隆盛になるのかというとこれには大きな疑問を呈せざるを得ない。現状の教育システムと文部省(今でもあったっけ?)の掲げた教育方針では、日本の教育は荒廃するだろう。今の企業の体力が維持できるという前提は実は破綻していると思わざるを得ない。
一方で、外国人をどのように受け入れ、日本社会を活性化させるのか。グローバリゼーションの流れにさらされ、日本社会が大きく変質してゆく様を、もしかしたらこれから体験することになるのかもしれない。
外国人に限らず、公的な負担と受けることを約束された利益(医療・福祉)という問題も横たわっており、長期的なシミュレーションのもとに正確な現状認識が、この21世紀の初頭に必要であると思わざるを得ない。
最終的に笑うのは、誰になるのだろう? 実は政治家たちだけだったりして・・・・(だって、高齢なのにあんなにバリバリ仕事して、ボケ知らず。地位も名誉もあって、というのは政治家しかいないんじゃない=て、そこに落とすなよ)
2001年5月31日木曜日
小泉内閣支持率
小泉内閣の支持率が85%近くになったそうですね。驚異的な支持率といえましょう。
朝日新聞によると、支持はしているものの、実力より人気先行型であると考える人の割合も多く、アンケート自体、自己矛盾を露呈したような結果になっていて、無気味です。
「小泉さんは、なんだか今までと違うし、何か変えてくれそうだから支持する。でも政策とか細かいことはよく分からないや」ということでしょうか。
「細かいことを分かりやすく」伝えるのが、やっぱりマスコミの使命なんじゃないかと、このごろ思うのですよ。
専門家は小泉政権を今でも「あだ花」とか「いずれ崩壊する」とか否定的な見方をしています。国会じゃあもどかしいので、そういう専門の方々との公開討論とかが企画されても面白いとは思うのですがね。
小泉内閣も、そういう意見を撥ね付けるような理論武装が、そろそろ欲しいですね。
朝日新聞によると、支持はしているものの、実力より人気先行型であると考える人の割合も多く、アンケート自体、自己矛盾を露呈したような結果になっていて、無気味です。
「小泉さんは、なんだか今までと違うし、何か変えてくれそうだから支持する。でも政策とか細かいことはよく分からないや」ということでしょうか。
「細かいことを分かりやすく」伝えるのが、やっぱりマスコミの使命なんじゃないかと、このごろ思うのですよ。
専門家は小泉政権を今でも「あだ花」とか「いずれ崩壊する」とか否定的な見方をしています。国会じゃあもどかしいので、そういう専門の方々との公開討論とかが企画されても面白いとは思うのですがね。
小泉内閣も、そういう意見を撥ね付けるような理論武装が、そろそろ欲しいですね。
2001年5月30日水曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第2番
バルビローリ協会によるCDで、これは1952年の録音である。バルビローリのシベリウス・ディスコ・グラフィーが解説の後ろにあるのだが、これによると彼は交響曲第2番を四度ほど録音している(1940、52、62、66)。最後が全集として発売されているものだと思われるが、このディスコ・グラフィーを見る限りにおいては、他の交響曲で四度も録音したものはない。3、4、6番などは一度しか録音していないようで、彼の「お気に入り」だったことが伺える。
バルビローリといえばシベリウス演奏では日本で 人気のある指揮者なんだと思う。そのルーツともなるような演奏といえるか。誰かもHPで述べていたが、この演奏を聴くと、「ハレ管の演奏は非常に腰の軽い演奏である」という感想に同意することができる。録音が古いせいか音質も少々 雑であるし粗さも目立つのだが、一般的にシベリウスの演奏というものをイメージしたときの冷ややかさや怜悧さ、あるいは激情の中 にも凛とした感じを味わうことができる。
「腰が軽い」とは言っても演奏自体が軽々しいというのではなく、フットワークの軽さと言った方が良いのかもしれない。 ゆえに独特の、時に荒々しいまでの推進力を感じる部分もあるのだが、感情にまみれきった演奏ではなく清々しさが漂うという印象だ。 老齢さとか晦渋さは全くなく、若々しい演奏というように言っても良いのかもしれない。若さゆえのほとばしりはあちらこちらで聴くこともできる。聴いていて、嫌味なところがなく非常にストレートに曲が伝わってくるように思える。
そもそも、この交響曲は人気の高い曲ではあるし、続く3番以降の交響曲とは一線を画した(まだ後期のシベリウスの世界の萌芽が見られる程度)と思われがちである。形式の点では第三楽章から第四楽章を連続して構築していることから、「有機性」の現れと見る解説も多いが、むしろ私は、2楽章のありように注目してしまう。
彼の書いたこの第2楽章は幻想曲風でありしかも、そのテーマからしてもある種の暗さと死の陰を投げ掛けている。だから、終楽章のフィナーレでの圧倒的な勝利もこの曲の魅力といえるが、バーンスタインの施した解釈のような演奏があっても良いと思えるのだ。バルビローリは、迫り来る死の陰、そして、ある種の葛藤を超えた先の喜びなどを、余計な心情を付与することなく、しかもエレガンスに我々の前に提示してくれているように思える。
演奏の感想というものは、こうして書いているとつくづくと語彙の貧弱さを呪い、伝えたいことの半分も表現できないもどかしさにかられる。
ひとことで言うならば、「結構イケてる演奏じゃん」ということなのだ。HMVの廉価版CDで、もののついでに買ってみた盤ではあるが、 2番を聴いた限りにおいては、そのイキのよさと「いかにもシベリウス的な音」という意味においても、一聴の価値のある演奏ではないかと思うのだ。もっとも、バルビローリの他の演奏との比較で聴いている訳ではないので、あくまでも今の時点での感想であることは断っておく。
(*) S.SudaさんのHP(Tapiola)によると、 「バルビローリ協会の CD は、第3楽章と第4楽章の変わり目を誤って」いるとのこと。楽章演奏時間は上に示したものが正しいそうです。
2001年5月27日日曜日
ハンセン病の控訴断念と・・・
ハンセン病の控訴断念、英断でしたね。原告の方々が喜ぶ姿を見て、これだけでも小泉政権の存在価値はあったと思うのでした。
でも、ハンセン病て言っても、ピンと来ませんよね。昔は「○○病」と言っていましたし。これは現代では差別用語なのでしょうね。
ハンセン病というと松本清張の「砂の器」を思い出します。野村芳太郎監督で映画化もされていましたよね。細かいことは全て忘れたけど、涙モノの映画でした。
それにしても、本当によかったです。
でも、ハンセン病て言っても、ピンと来ませんよね。昔は「○○病」と言っていましたし。これは現代では差別用語なのでしょうね。
ハンセン病というと松本清張の「砂の器」を思い出します。野村芳太郎監督で映画化もされていましたよね。細かいことは全て忘れたけど、涙モノの映画でした。
それにしても、本当によかったです。
2001年5月26日土曜日
今、政治に望むこと・・・
小泉首相になって以来、政治に関する話題が身近になったと思うひとは多いと思う。マスコミがタレントのような扱いで書くから興味を持つ層が増えるのか、あるいは潜在的な政治に対する興味のある層を刺激したのかは分からない。実際、私だって、ある意味で政治には絶望しかしていなかった。
昨日のニュースで田中外相は、「夢を実現できるのが政治だ」と言うようなことを力説していた。思わず目をむいてしまった。なんと言う理想論を持った、そして、語れる政治家なんだろうと。
さて、そんな期待と落胆の背中合わせの現政権から、「教育問題」が出てこないのは何故なのだろう。国を作るのは次世代の子供たちだ。「新しい教科書」問題だけが教育の問題ではないと思う。
昨日のニュースで田中外相は、「夢を実現できるのが政治だ」と言うようなことを力説していた。思わず目をむいてしまった。なんと言う理想論を持った、そして、語れる政治家なんだろうと。
さて、そんな期待と落胆の背中合わせの現政権から、「教育問題」が出てこないのは何故なのだろう。国を作るのは次世代の子供たちだ。「新しい教科書」問題だけが教育の問題ではないと思う。
2001年5月25日金曜日
田口ランディのコラムマガジンと山尾三省
田口ランディのコラムマガジンの最新で山尾三省さんのことが紹介されていた。
山尾さんは屋久島に住む詩人らしいのだが、私は残念ながらこのコラムで彼の名前を初めて知った。山尾さんの書いた『アニミズムという希望』(野草社)という本のあとがきで、彼が書いている一文を引用しているのだけど、妙に気にかかかる言葉があった。
現代において宗教というものが無力になったことを前提とした上で、山尾さんは
「私達というヒト科の生物が、意識の究極を自覚したいと願う生物である特徴を喪失して、ただ享楽や情報を含む物質のみの獲得で満足できる種にこの百年かけて変質してしまったのではないという事実もよくよく見ておかなければならない」
と書いているらしい。(引用の引用なんで分かりにくいと思うのだけど)
「意識の究極を自覚したい」ということ、それは、内面的な世界と人間の到達可能な意識レベルのことを指すのだろうか。ある意味それは「悟り」という宗教的極致なのか。そういう要求を喪失しつつあるとすると、一体ヒトの未来にはどのような精神世界が待ち受けるのだろう。
世界のありようやヒトのありようを、すぐれた音楽は一面では見せてくれるのではあるが・・・・
田口ランディのコラムマガジンは以下で読めます。
��RL:http://www.melma.com/mag/26/m00001926/index_bn.html
山尾さんは屋久島に住む詩人らしいのだが、私は残念ながらこのコラムで彼の名前を初めて知った。山尾さんの書いた『アニミズムという希望』(野草社)という本のあとがきで、彼が書いている一文を引用しているのだけど、妙に気にかかかる言葉があった。
現代において宗教というものが無力になったことを前提とした上で、山尾さんは
「私達というヒト科の生物が、意識の究極を自覚したいと願う生物である特徴を喪失して、ただ享楽や情報を含む物質のみの獲得で満足できる種にこの百年かけて変質してしまったのではないという事実もよくよく見ておかなければならない」
と書いているらしい。(引用の引用なんで分かりにくいと思うのだけど)
「意識の究極を自覚したい」ということ、それは、内面的な世界と人間の到達可能な意識レベルのことを指すのだろうか。ある意味それは「悟り」という宗教的極致なのか。そういう要求を喪失しつつあるとすると、一体ヒトの未来にはどのような精神世界が待ち受けるのだろう。
世界のありようやヒトのありようを、すぐれた音楽は一面では見せてくれるのではあるが・・・・
田口ランディのコラムマガジンは以下で読めます。
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2001年5月22日火曜日
「クラシック道場入門」(玉木正之)を読む
「ベートーベンなんてブッ飛ばせ」に始まり、「生涯青春を謳歌した超ゴーマン男=R・シュトラウス」、「イタリアが生み出した最高級の演歌師=ヴェルディ」など、「斬新」な切り口でクラシック音楽を紹介してくれている。クラシック音楽は権威に満ちて偉いものという偏見のあることを前提に、そんなことはないのだ、大人も子供も楽しめる音楽なのだよと啓蒙してくれる。
内容は分かりやすく面白い、それこそあっという間に読んでしまえる。五木さんの言うように「斬新」とも言えるし、作曲家に親しみを感じるように書かれている。その点は非常に良い本だと思う。
オペラはほとんど聴かないので、ワーグナーやプッチーニ、ヴェルディの章は「なるほど、そうなの、そういうもんなの」と納得しながら読んだし、今連載中のシベリウスの章などは、面白い考え方だと感心したものである。モーツアルトの「軽いとか深いのか分からない=そういうことを超越している」という主張も納得のゆくものだ。このように、言っていることは正く聞こえる、演歌もロックもクラシックもジャズも垣根なんてないという筆者の熱い主張もよく分かる。実際私もクラシックばかり聴いているわけではない。
しかし、気になる点もある。「私はすべてわかっちゃったんだもんね」というような上から目線が、クラシック音痴の読者に対して受け狙いでクラシックを説いていたり、偏狭なクラシックファンを揶揄するみたいな部分だ。自分の娘(10歳)が「モーツアルトはエロい」と言って、クラシック会場に訪れていた御夫人の目を白黒させる様を喜ぶというのも、悪趣味という気もする。筆者は「クラシックは偉い、権威主義だと世間で思われている」と繰り返すが本当にそうなのだろうか?クラシック好きは変人扱いされることは認めるにしても。
文中の引用なども出典を明らかにしながら書き進めているので、非常に神経を使って書いていると思うし、数多くの文献に接しているところは、さすがに文章を書くことを生業としている人は違うと思わせる。でも「音楽の本質がオレには分かっている」という態度はやはりいただけない。
別にクラシックが嫌いじゃない人や私のように了見の狭い人は、改めて読む本じゃなかも知れない。もっとも、私はオペラは全く聴かないので「オペラ道場入門」という続編は読もうと思っているのだが。
【シベリウスの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第2番
指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:Oct 1986
DG (国内版)
この演奏を聴くと、今まで聴いてきたシベリウスと同じ音楽なのだろかと思わず耳を疑ってしまう。晩年のバーンスタインは、以前に感想を書いたチャイコフスキーの「悲愴」でもそうであったようにテンポが極端に遅い演奏があるようだ。それがあらかじめ分かっていて聴いてもなお、バーンスタインの求めた音楽の独自性にはただ驚くばかりだ。
全曲を通した印象としては、フィンランドの独立とか国家的な高揚などという一地方の問題よりも、作曲家の持つ苦悩や不安、そして、それを克服してゆきひとつの境地に達するかのような人間的なドラマを感じる。しかし、それではベートーベンやチャイコフスキーあるいはマーラーの交響曲が表現したことのシベリウス的解釈というだけなのか?という疑念が湧いこないでもない。さらに加え得るにだ、音楽は重厚、豊穣にして多弁であり、ある意味「シベリウス的」とは遠い世界だと思わせるのだ。
例えば第一楽章、遅いテンポで悠々と歌われ、弦の音色は時に優しく甘美であり、それ自体が「死」を内包しているかのような音に聴こえてしまう。
第二楽章の遅さは更に顕著であり、「死の客」との対話というよりも内面の吐露か深い懐古に聴こえてくる。光は見えず諦念の声さえ聴こえる様は、あたかも「悲愴交響曲」を思い出させる。ため息をつくようなゲネラル・パウゼには万感の思いがこもる。立ち現れる第二主題は永遠に女性的なるものの姿なのか(ちょと偏見に満ちすぎている気もするが・・)、暖かな衣に包まれるような安らぎと安堵を覚える。この楽章からは人間の矮小さを感じ壮大なる宇宙の前にひれ伏してしまうかのようだ。
第四楽章も非常に感動的な楽章で、今までのモヤモヤや悩みを乗り越え、光と歓喜に満ち溢れた世界に至り、全身で至福を受けるかの様だ。最後のコーダなど、大伽藍の中に高らかに鐘の音までが聴こえてくるような気にまでなってしまう。圧倒的とも言って良い。
「シベリウス的」とはどういうことであろうか。シベリウスという作曲家は、多弁とは逆方向を指向してゆく音楽家というイメージがある。1907年秋にシベリウスはマーラーと会う機会があり、お互いの交響曲感について話した件は有名であろう。シベリウスは「形式的な厳密さ、全ての動機の間の内的な関連を作り出す深遠な論理を好む」と言い、マーラーは「交響曲は世界(宇宙的)でなくてはならない。あらゆる要素が包摂されていなければならない」と答えたという。
このようなシベリウスの見解は第二交響曲の時点においても、彼の特質として有しているものなのではないかと思うのだ。音楽的に表現した世界が同一であったとしても、マーラーとは正反対の音楽を目指したと思われるシベリウスに対し、この演奏は逆のベクトルを持った演奏であると感じるのである。
ただなのだ、そうであっても大いなる感動を覚えるのは禁じることができない。バーンスタインが思いのたけをぶち込んだ、全力投球の演奏だと思うのである。この演奏を好むかと問われれば、私は迷わずにYESと答えるだろう。それは、とりもなおさず、晩年のバーンスタインが好きか嫌いかという試金石とも言えるほどの演奏かもしれない。この際、シベリウスの本質などは関係ないのだ、唯一あるのは、他者では得られない音楽的な感動だけである。そういう感動を得たければ、マーラーを聴けばいいじゃないかなどと無粋なことを言ってはいけない。
この演奏を聴くと、今まで聴いてきたシベリウスと同じ音楽なのだろかと思わず耳を疑ってしまう。晩年のバーンスタインは、以前に感想を書いたチャイコフスキーの「悲愴」でもそうであったようにテンポが極端に遅い演奏があるようだ。それがあらかじめ分かっていて聴いてもなお、バーンスタインの求めた音楽の独自性にはただ驚くばかりだ。
全曲を通した印象としては、フィンランドの独立とか国家的な高揚などという一地方の問題よりも、作曲家の持つ苦悩や不安、そして、それを克服してゆきひとつの境地に達するかのような人間的なドラマを感じる。しかし、それではベートーベンやチャイコフスキーあるいはマーラーの交響曲が表現したことのシベリウス的解釈というだけなのか?という疑念が湧いこないでもない。さらに加え得るにだ、音楽は重厚、豊穣にして多弁であり、ある意味「シベリウス的」とは遠い世界だと思わせるのだ。
例えば第一楽章、遅いテンポで悠々と歌われ、弦の音色は時に優しく甘美であり、それ自体が「死」を内包しているかのような音に聴こえてしまう。
第二楽章の遅さは更に顕著であり、「死の客」との対話というよりも内面の吐露か深い懐古に聴こえてくる。光は見えず諦念の声さえ聴こえる様は、あたかも「悲愴交響曲」を思い出させる。ため息をつくようなゲネラル・パウゼには万感の思いがこもる。立ち現れる第二主題は永遠に女性的なるものの姿なのか(ちょと偏見に満ちすぎている気もするが・・)、暖かな衣に包まれるような安らぎと安堵を覚える。この楽章からは人間の矮小さを感じ壮大なる宇宙の前にひれ伏してしまうかのようだ。
第四楽章も非常に感動的な楽章で、今までのモヤモヤや悩みを乗り越え、光と歓喜に満ち溢れた世界に至り、全身で至福を受けるかの様だ。最後のコーダなど、大伽藍の中に高らかに鐘の音までが聴こえてくるような気にまでなってしまう。圧倒的とも言って良い。
「シベリウス的」とはどういうことであろうか。シベリウスという作曲家は、多弁とは逆方向を指向してゆく音楽家というイメージがある。1907年秋にシベリウスはマーラーと会う機会があり、お互いの交響曲感について話した件は有名であろう。シベリウスは「形式的な厳密さ、全ての動機の間の内的な関連を作り出す深遠な論理を好む」と言い、マーラーは「交響曲は世界(宇宙的)でなくてはならない。あらゆる要素が包摂されていなければならない」と答えたという。
このようなシベリウスの見解は第二交響曲の時点においても、彼の特質として有しているものなのではないかと思うのだ。音楽的に表現した世界が同一であったとしても、マーラーとは正反対の音楽を目指したと思われるシベリウスに対し、この演奏は逆のベクトルを持った演奏であると感じるのである。
ただなのだ、そうであっても大いなる感動を覚えるのは禁じることができない。バーンスタインが思いのたけをぶち込んだ、全力投球の演奏だと思うのである。この演奏を好むかと問われれば、私は迷わずにYESと答えるだろう。それは、とりもなおさず、晩年のバーンスタインが好きか嫌いかという試金石とも言えるほどの演奏かもしれない。この際、シベリウスの本質などは関係ないのだ、唯一あるのは、他者では得られない音楽的な感動だけである。そういう感動を得たければ、マーラーを聴けばいいじゃないかなどと無粋なことを言ってはいけない。
2001年5月20日日曜日
報道の客観性
おとといのニュースステーションで、女性アナウンサーが「国会中継がおもしろいですね」と言ったら、久米宏はあろうことか「NHKの視聴率が上がるだけで、面白くないのですがね」と言った。
ニュース報道をする場の人間だって視聴率を気にしているのことは自明であったはずなのだが、改めて口にされると驚かざるを得ない。考えてみれば、NHKだって10時にニュースを移したのは視聴率のせいだったはずだ。企業活動である以上、当然の行為とは言える。(NHKが企業なのかという問題も残るが)
でも、視聴率という制約に縛られた報道、あるいは、雑誌の売り上げに縛られた報道。そこに純粋な客観性が求められるのだろうか。
民放や週刊誌類は「分かりやすければ、面白ければよい」みたいな視聴者や読者に媚びるような風潮はないだろうか。
報道の標的となったものは、自らを守るすべはもはや残されてはいない。政治生命、企業生命、社会的生命など一瞬にして葬り去ることの出来る報道の攻撃性。それを検証できるのは、報道を評価するという考え方や、報道に対する法的、科学的客観性の証明ということではないのだろうか。その手段は、広く私たちの手に利用されやすいようになっているのだろうか。
ニュース報道をする場の人間だって視聴率を気にしているのことは自明であったはずなのだが、改めて口にされると驚かざるを得ない。考えてみれば、NHKだって10時にニュースを移したのは視聴率のせいだったはずだ。企業活動である以上、当然の行為とは言える。(NHKが企業なのかという問題も残るが)
でも、視聴率という制約に縛られた報道、あるいは、雑誌の売り上げに縛られた報道。そこに純粋な客観性が求められるのだろうか。
民放や週刊誌類は「分かりやすければ、面白ければよい」みたいな視聴者や読者に媚びるような風潮はないだろうか。
報道の標的となったものは、自らを守るすべはもはや残されてはいない。政治生命、企業生命、社会的生命など一瞬にして葬り去ることの出来る報道の攻撃性。それを検証できるのは、報道を評価するという考え方や、報道に対する法的、科学的客観性の証明ということではないのだろうか。その手段は、広く私たちの手に利用されやすいようになっているのだろうか。
2001年5月19日土曜日
所沢のダイオキシン判決
ねぎ農家の話題を書いたが、家に帰って夕刊(朝日)を読むと所沢のダイオキシン報道に関する訴訟の結果が新聞に報じられていた。99年のニュースステーションの報道を機として所沢の野菜がダイオキシンに汚染されているかのような印象を与え、農家に被害を与えたとする件である。原告側の主張を棄却という結果だが、これはいかに考えるべきか。
消費者としては正確な情報が欲しいことは昨日書いた。それはやたら扇情的な記事や客観性を欠いた情報を欲しているのではない。ましてや、「視聴率」とか「売上」に縛られた期間による調査ではないのである。マスコミの報道というものを、どこまで信用してよいのか。または、マスコミから発せられる情報の責任ということまで考えなくてはならない。
今回の裁判所の判決は、報道側に事実誤認と考えられるものはなかった、とするものだ。一部、不適切な表現があったことは認めているがだ。
所沢の農民には気の毒というしかない判決だが、彼らは自分たちの野菜が安全だというお墨付きや確信が得られたのだろうか。そうでないとしたら、二重の悲劇である。
私には不安が残る、実際は、どうなのかと。所沢の野菜だけではなく、市場に出回っているほかの食材も安全なのかと。あるいは、それを食べつづけるとどういう確率で、どういう結果が引き起こされるのか。そもそも、調査機関の客観性は検証されているのか。
環境ホルモンの場合は、「分からないことが多すぎる→IFで話せば、種の存続に重大な影響を及ぼすらしい→よって、避けるに越したことはない」という論理である。乱暴な言い方だが、例えば40を過ぎてもう子孫を作らないと決めた大人には環境ホルモンをいくら摂取しても、実害はないとも言える。
何度も繰り返すが、欲しいのは、情報を受ける側が適切に判断することの可能な、客観的な事実(分かっていることと分からないことまで含めて)なのである。マスコミはそのようなことをきちんと報道する責があるのではないか。
消費者としては正確な情報が欲しいことは昨日書いた。それはやたら扇情的な記事や客観性を欠いた情報を欲しているのではない。ましてや、「視聴率」とか「売上」に縛られた期間による調査ではないのである。マスコミの報道というものを、どこまで信用してよいのか。または、マスコミから発せられる情報の責任ということまで考えなくてはならない。
今回の裁判所の判決は、報道側に事実誤認と考えられるものはなかった、とするものだ。一部、不適切な表現があったことは認めているがだ。
所沢の農民には気の毒というしかない判決だが、彼らは自分たちの野菜が安全だというお墨付きや確信が得られたのだろうか。そうでないとしたら、二重の悲劇である。
私には不安が残る、実際は、どうなのかと。所沢の野菜だけではなく、市場に出回っているほかの食材も安全なのかと。あるいは、それを食べつづけるとどういう確率で、どういう結果が引き起こされるのか。そもそも、調査機関の客観性は検証されているのか。
環境ホルモンの場合は、「分からないことが多すぎる→IFで話せば、種の存続に重大な影響を及ぼすらしい→よって、避けるに越したことはない」という論理である。乱暴な言い方だが、例えば40を過ぎてもう子孫を作らないと決めた大人には環境ホルモンをいくら摂取しても、実害はないとも言える。
何度も繰り返すが、欲しいのは、情報を受ける側が適切に判断することの可能な、客観的な事実(分かっていることと分からないことまで含めて)なのである。マスコミはそのようなことをきちんと報道する責があるのではないか。
【シベリウスの交響曲を聴く】 セル指揮 クリーブランド管による交響曲第2番
指揮:ジョージ・セル 演奏:クリーブランド管弦楽団 録音:May 1970 東京文化会館大ホール SONY SRCR 2539-40 (国内版)
ジョージ・セル&クリーブランド管の1970年5月、東京文化会館大ホールでのライブ盤である。この盤については、あちこちで賞賛の感想が書かれていので目にされた方も既に聴かれた方も多いだろう。加藤幸弘さんのHPや伊東さんのAn die Musikにおいても、緻密なる感想が述べられておりもはや私が付け加えることなど何もない。伊東さんに至っては、その時点で「このCDは、今年私が聴いたCDの中のベストである」とまで述べ絶賛している。
私も聴いた印象としては、非常なる熱演であると感じた。やはりライブならではの迫力と熱気がひしひしと伝わってくるすざまじき演奏である。乗ったときのセルの情熱というものを感じることの出来る演奏なのだと思う。
セル&クリーブランド管といえば、ちょっとクラシックを知っている人ならば、正確無比な演奏や統率力というキーワードでイメージされると思う。確かに第一楽章からして軽快な歯切れの良いリズムで開始され、弦の響きにも分厚いステンレススチールにも似た鈍い光沢と冷ややかさを感じる。これがクリーブランドの特質かと思わせるには十分な音色である。しかし、冷たさは音楽に微塵もない。音楽の作り方も恣意的ではなく、簡潔と清潔感に満ちており、また構成美を感じさせる。それは全楽章を通じて感じるもので、たとえば第2楽章の幻想曲風の楽章さえも、非常にきっちりと主題や副主題を感じ取ることができ、音楽を見通しよく聴くものに伝えているように思えるのだ。それはセルの指揮とともに、それに十全に答えることの出来るオケの技量の賜物なのだろうか。
叙情性とか情緒という面では、先に聴いてきたベルグルンドやデイヴィスよりも更にドライな印象を受ける。というか、この曲に求めがちなウェットさが排されているといっても良い。無駄な贅肉を感じさせない演奏で、あたかも端正にピンと張られたピアノ線のように筋が通っており、さらに演奏に緊張感をもたらせているようだ。
先にも書いたように、そして、加藤さんや伊東さんも指摘しているように決して冷たい演奏ではない。それに、クリーブランドの「透明にして冷ややかな音」とは言っても、シベリウス=フィンランドというキーワードでイメージするような冷ややかさとは違い、何かドイツ的な肉質感(あたかもブラームスやベートーベンを奏するような)を伴っているようにも聴こえるのだ。・・・ここらへん、ちょっと意味不明
それらが相まって、硬質な音の塊と金管群が咆哮するクライマックスに至るドラマは、並々ならぬエネルギーとなって聴くものを圧倒する。セルの曲に対する感情の移入度という点では、抑たもの感じるが、それは「浪花節」的な感情の抑えであり、彼が決して一本調子に演奏しているのではないことは、聴くほどに良く分かる。セルは、自在にオケをコントロールして曲を際立たせることにも成功しているのだ。それゆえにというのだろうか、変な先入観(歴史的背景や作曲時の背景)などを拭い去るような形で、音楽自体が目の前に、圧倒的な力感をもって立ち上がってくるというような演奏である。
この曲に込められたベートーベン的なもの、ベルリオーズ的なもの、チャイコフスキー的なもの、そしてブルックナー的なものまで引き出してしまった名演といえるのではなかろうか。
2001年5月18日金曜日
ねぎ農家のハナシ
ねぎ農家が中国とかの安い野菜に押されて参っているので、輸入品に関税をかけるとか数週間前に報道されていましたよね。
消費者が「安いねぎ」を買えなくなる=自分たちに不利益を被る ことを怒るのか、日本の農業を守ること=自国の生産性と一部の農民たちの生活の保護 を求めるのか、どちらの採択すべきなのだろう?
もっとも、選択の余地が増えるということは、おそらく「買える者と買えない者」という分化が進むことを前提としているような気もして、少々ひっかからないでもない。
消費者が「安いねぎ」を買えなくなる=自分たちに不利益を被る ことを怒るのか、日本の農業を守ること=自国の生産性と一部の農民たちの生活の保護 を求めるのか、どちらの採択すべきなのだろう?
自国を保護するために関税をかけるのは当然とも思うのだけど、農業自体をどうしようというのか? 安全性を含めて、我々が何を食べて生きてゆくつもりなのか、そこが見えてこない。
環境ホルモンや発ガン性を含む化学物質などを含め、選択するのは消費者である。少ない確率にびくびくして高い食材を買うのも、関係ないとして安い食材を買うのも、それは消費者の判断に委ねられるべきだ。生産者や政府が選択すべき問題ではないし、ましてや、その選択の機会や選択に当たっての情報さえないというのは、議論以前の状態だと思う。
朝日新聞も「この葱が腐るだけ・・・」なんて報道してないで、もっと突っ込んで欲しい。
もっとも、選択の余地が増えるということは、おそらく「買える者と買えない者」という分化が進むことを前提としているような気もして、少々ひっかからないでもない。
2001年5月17日木曜日
クリエイティブ・ディストラクション
クリエイティブ・ディストラクションとは創造的破壊ということだ。小泉総理が今、自民党と日本に対して仕掛けようとしているのは、まさにこういうことなのだと、昨日の答弁で理解した。
このキーワードは、企業におけるリストラクチャリングにおいても使われる言葉であるらしい。「リストラ=人減らし」ではないものの、改革を行って一時的に「食っていけなくなる人」が出ることに変りはない。
企業であれば、それでも理屈は通るのかもしれない。しかし、日本においてはそうはいかないのである。既得権益に踏み込み、ある種の仕事を中止した場合、その人たちは何を主として生きてゆくのか?
このキーワードは、企業におけるリストラクチャリングにおいても使われる言葉であるらしい。「リストラ=人減らし」ではないものの、改革を行って一時的に「食っていけなくなる人」が出ることに変りはない。
企業であれば、それでも理屈は通るのかもしれない。しかし、日本においてはそうはいかないのである。既得権益に踏み込み、ある種の仕事を中止した場合、その人たちは何を主として生きてゆくのか?
2001年5月16日水曜日
国会中継や報道のバカさ加減
ここ数日、報道も野党も田中外相の「ドタキャン」や「具体策無き改革」を集中的に攻撃しているが、ちょっと待っていただきたいという気持ちがある。
我々は、田中外相がなにやら外交上の予定を取り止めたことは知っている。しかし、その交渉の内容や、予定していた出席者、実際に出席したメンバー、そして何よりもその外交予定が何を目的としており、結果どういうことを確認し合ったかについての具体的な内容について知ることが少ない。実際は報道されているのかもしれないが、「真紀子タタキ」に比べて比重が小さいのではないか?
あるいは、「具体策なき改革」というが、首相になってから具体策を検討する時間が今のような状況であるのだろうか。我々はむしろ、国会での無益な答弁よりも、1ヶ月程度で改革にいたるためのアクションプランと具体的な達成目標、またそれを実現するためのメンバーなどを提示してもらうことを期待したいのだ。
だって、会社経営にしても小グループの活動にしても、まずプランありきじゃないの?何ヵ年計画とかさあ、中長期の計画と短期計画が明確に示されるべきじゃないの? どこの公共事業をけずるとかは、具体的施策であってそれ以前の部分じゃないのかと思うのだよ。
その実現可能な計画の項目として、何を絞るのか(重点目標てやつだよね)という議論ならばすべきだと思うけど。具体的じゃないのは野党の民主党だってマスコミだって同様だよ。「経済対策」と「構造改革」て、じゃあ何をするの(してほしいの)?
マスコミからは、知りたい情報が全然伝わってこない、野党は追及して欲しいことを全然追及してくれていない。あんたら、バカじゃないの?といいたくなってくるのだが・・・
まあ、政治音痴にしてノンポリ、俄か政治談義を吹っかける輩に言う資格があるとも思えないのではありますがね・・・・
我々は、田中外相がなにやら外交上の予定を取り止めたことは知っている。しかし、その交渉の内容や、予定していた出席者、実際に出席したメンバー、そして何よりもその外交予定が何を目的としており、結果どういうことを確認し合ったかについての具体的な内容について知ることが少ない。実際は報道されているのかもしれないが、「真紀子タタキ」に比べて比重が小さいのではないか?
あるいは、「具体策なき改革」というが、首相になってから具体策を検討する時間が今のような状況であるのだろうか。我々はむしろ、国会での無益な答弁よりも、1ヶ月程度で改革にいたるためのアクションプランと具体的な達成目標、またそれを実現するためのメンバーなどを提示してもらうことを期待したいのだ。
だって、会社経営にしても小グループの活動にしても、まずプランありきじゃないの?何ヵ年計画とかさあ、中長期の計画と短期計画が明確に示されるべきじゃないの? どこの公共事業をけずるとかは、具体的施策であってそれ以前の部分じゃないのかと思うのだよ。
その実現可能な計画の項目として、何を絞るのか(重点目標てやつだよね)という議論ならばすべきだと思うけど。具体的じゃないのは野党の民主党だってマスコミだって同様だよ。「経済対策」と「構造改革」て、じゃあ何をするの(してほしいの)?
マスコミからは、知りたい情報が全然伝わってこない、野党は追及して欲しいことを全然追及してくれていない。あんたら、バカじゃないの?といいたくなってくるのだが・・・
まあ、政治音痴にしてノンポリ、俄か政治談義を吹っかける輩に言う資格があるとも思えないのではありますがね・・・・
2001年5月15日火曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第2番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
オーケストラの音色はオーボエの音で決まるという人がいる。その人は、有名どころのオケであればオーボエの音だけでどこのオケであるのか言い当てられるという。さて、このヨーロッパ室内管の音も、出だしのオーボエの音が非常に特徴的といえるかもしれない。端的に言ってしまえば、ある種の明るさと軽妙さが感じられるのだ。また演奏の歯切れがよく、そして音がきらめいているようだ。全体にフットワークも軽く、さらさらと流れるように音楽が動いてゆくのを感じることができる。この演奏に初めて接したときハッとする何かを冒頭から感じさせてくれることは特筆に価すると思う。
軽妙と書いたが「軽い演奏」ではない。むしろ全く逆であり、終楽章を聴き終わったあとには、ため息しか漏らすことができなかった。音楽が心の深いところから満ちてきあふれてしまうのを留めることができないのである。いやはや凄い演奏だと全面的に降参である。
音のきらめきは第一楽章の出だしからして顕著である。第一主題が奏でられた後の弦セクションの透明にして艶やかな響きや、その裏での木管の複雑な伴奏など、陶然とさせられてしまう。それにピチカートの響きの繊細なこと。第一主題と第二主題が混じり合う部分においてさえ、見通しのよさがあり、それに引き続く複雑な音形からの盛り上がりも非常に正確に聴こえる。中間部、ファゴットにより第二主題が再現すると雰囲気が一変するが、あたかも回りの空気の色さえ変えてしまうかのようだ。
ここまで聴いてきて、流れるような演奏の中から、見事な音の牙城が築き上げられてゆく様を感じることができる。先のデイヴィス盤と比較してしまうと、むしろデイヴィスの方が情景描写的と思えてくる。この演奏からは、大いなる風景を前にしたような感動というよりも、内から満ち足りてきて大いなる情動と、その後に祝福と光を受けたかのような深い満足感を覚えるのである。
第二楽章のピチカートは一楽章とは雰囲気を一転させ、内面に深く降りてゆくステップのように思える。その深く降りていった先に(あるいは深い洞窟をもぐっていった先に)見えるのは、オーボエのほの暗いテーマである。それは光なのだろうかあるいは陰なのだろうか。見知らぬ場所で、ふと死の陰をまとった老人に出会ったかのようである。
この楽章は、聴けば聴くほどに幻想的であり、まるでひとつの交響詩のようにさえ感じられる。賢者のようなものから啓示を受けてひれ伏すような場面(トランペット)や、慰めのテーマなど(トランペットとフルート)。ラストの木管のトリルは確かに哄笑か悪魔的な響きにさえ聴こえるではないか。しかも、この楽章を聴くと、テーマの裏の伴奏て木管などが非常に複雑な動きをしていることにも気づかされる。オーケストレーションに独特の深みを与えているようだ。
第三楽章はさらにオーケストラは色彩豊かになってゆく。何度か挿入されるゲネラル・パウゼをはさんで、緊張と弛緩を繰り返しながら、わしづかみにされるようにしてひとつの頂点(第四楽章)に連れて行かれるさまは圧巻である。四楽章の第一主題は、山の頂から大地を望むような壮大さとも雄大さとも呼べるような感興を呼び起こす。何かひとつ抜け出たという印象を与えるところが、この交響曲の標題性を喚起させるのかもしれない。
第二主題が再現される後半で、三拍子の裏でティンパニが鳴らされる部分がある。哀愁を帯びたテーマが綿々と奏される部分だが、この部位、デイビスはティンパニを十分に響かせ効果的に感情を高めているのだが、ベルグルンドはむしろティンパニを目立たせない演奏をしている。感情を抑えた演奏のように感じたのだが、しかし、どうしたことなのだろう、コーダに至ったときに、いつの間にか臨界点に達していたかのように大いなる感動を覚え、打ちのめされてしまっている自分に気づくのだ。
ところでラストの圧倒的な高揚感は、いったい何に対する勝利だったのだろう。こうして聴いてみると、Johansenさんが自分のHPで述べられているように(曲の解説を参照)、民族的な勝利とは別の要素を感じずにはいられないのだ。1楽章の叙情性や明るい世界と、2楽章のひたすら内面世界に沈み込むような世界、このふたつの曲のありようを考えると、3楽章から4楽章への移行を単純に民族的高揚には結び付けにくいという印象を受ける。シベリウス自身の非常に内面的な葛藤と克服(Johansenさんは宗教的エネルギーとまで言う)という見方の方が、的を得ていると思うのである。我々はシベリウス鑑賞に当たって、あまりにも「フィンランディア」に拘泥されすぎてはいまいかと自省するのであった。
CD評とも曲の解説とも付かないような駄文を、またしても書いてしまったが、まあ、シベリウス的ということの解釈はさておき、つまりは最初に書いたように、もはやため息か涙しか漏らすことができない演奏であると言いたいだけなのである。どこがどうとか、うまく説明はできない、しかし、なんだか「格が違う」と思ってしまうのであった。え?これも「先入観」だって? そうかも知れないけれどね。ま、いいじゃない。
2001年5月14日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第2番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
��番の感想で、デイヴィス盤を冴えない印象を受けたように書いてしまったが、2番を聴いた今となっては、全くもって撤回せねばならないと思わせる演奏だ。先入観などを極力排してこの曲と演奏に耳を澄ませると、シベリウスの表現しようとしていた音楽世界が眼前に立ち上がってくるのを感じることができるのだ。弦セクションや打楽器セクション、そして金管群のバランスも音も良く、またダイナミックレンジも広いため、十分にこの曲を楽しむことのできる演奏であると思う。
シベリウスの2番というのは彼の作品の中でも、フィンランディアやヴァイオリン協奏曲などと並んで人気のある曲だろう。実際、親しみやすくなじみやすいという印象を受けるし、終楽章で大きな感興を得ることも出来る。
この曲が「極めてシベリウス的」であるかどうかは、よく考えなくてはならない。確かに、4楽章の音楽からフィンランドの愛国的心情を感じ取ることもできるし、暗い部分(抵抗)から勝利のフィナーレというテーマでも聴くこともできる。しかし、シベリウス自身が我々が期待するような政治的標題性を否定しているがゆえに、本来は純粋に音楽的に観賞すべきなのかもしれない。デイヴィス/ボストン響の演奏で、この曲の世界に入ってみよう。
第一楽は冒頭の序奏から意味ありげなのだが、弦のユニゾンに適度の重厚感があり曲に対する期待が高まる。さわやかにして輝くような一日の朝の始まりを感じるようで、この交響曲で非常に好きな部分である。ここだけ聴いてもシベリウス的と思うのだが、それは、弦楽器と木管楽器の合わさったメロディに特徴的なせいなのだろうか。木管で奏される第一主題は鳥のさえずりのようでもあるし、雄大な第二主題は広々とした景観を前にしたときのような思いさえ受け、頬に風の匂いさえ感じるようだ。聴きようによっては第一楽章は情景描写的であり、移ろいゆく時間と風景を楽しむことができる。この部分だけ聴いていても、デイヴィス/ボストン響の演奏は明確であり、音楽が伝える世界をストレートに聴くものに伝えてくれているように感じる。
第二楽章は、一転して暗いファゴットによる第一主題で始まる。このテーマは弦のピチカートに乗って、ホルンの音色に彩られながら進行してゆくが、迫りくる不安を象徴するかのようであり性急さとともに盛り上がる。峻厳なる渓谷かなにかに突き落とされたかのような印象を受け得るが、一転した第二主題には救われる思いがする。この主題には懐の深さや、深い慈悲のようなものを感じる。続いて奏でられるトランペットとフルートの掛け合いは聴き所である。あたかも、崇高なるものとの深き対話を聞くようで、自ずと頭が下がる。しかし、感想を書いていて思うのだが、激しさとともに彼の曲には「峻厳さ」とも言うべキーワードがあるように思える。ここが彼のオーケストレーションの特徴なのだろうか。蛇足だが、この楽章を聴くと、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を思い出すのは私だけか。
第三楽章はスケルツォである。非常に早い弦の動きが、聴くものをどこかに連れ去らずには行かないようなエネルギーを感じるが、一転してオーボエの牧歌的とも言えるテーマが始まると過ぎ去った昔を思い出すかのような気にさせてくれる。幸せな時代の、干草と陽だまりの匂いがするような、そんな懐かしさだが、シベリウスはこの感傷は長引かせない。繰り返しはあるものの、冒頭のスケルツォの速い動きによりかき消され、留まることを許してはくれない。
緊張は徐々に高まり、そしてなんとも表現のしようのないような移行により感動の第四楽章へと突入する。この部分は何度聴いても素晴らしい。つれてゆかれた先の世界が何と希望と光に満ち溢れた世界であることか。弦の第一主題は平和を獲得した喜びの声のようにも聴こえるし、トランペットの勇壮なる応答は、勝利の雄たけびのようにも聴こえる。
木管による第二主題はいろいろに変形されて繰り返し奏されるが、なんとも切ないメロディである。このメロディを聴くだけで泣けてくるのだが、それは、非常に多くの感情がこの旋律に込められているからなのかもしれない。世間的なシベリウスのイメージにらぶらせるならば、圧迫への抵抗や哀しみ、そして限りなき平和を願う声などと言うことも可能だろうが、若干の抵抗を感じずにはいられない。この曲が発表されたときに、指揮者カヤヌスなどが愛国的な心情の代弁と受け止めたのもむべなるかなとは思うのだが、デイヴィスの演奏では、それが普遍的な感情にまで高められているようにも思える。惜しいかなフィナーレでは金管群が少し崩壊している部分もあるが、これだけの高まりと感動を与えてくれる演奏である、大きな問題ではない。
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