2002年6月24日月曜日

歌劇「ローエングリン」全曲 ショルティ指揮/ウィーン・フィル

2002年6月17日(月) ボックス届く、封を切る

HMVに注文したショルティのワーグナーコレクションが届いたことは音楽雑記帳に書いた。

届いた日は、あまりの量の多さに改めて呆然。解説もついているが輸入版なんで英語も満足に読めない私には暗号でしかない。Palmの辞書片手に読み始めるが、字が小さく眼が痛い・・・今日は、封をあけておしまい!寝る!

2002年6月18日(火) 第一幕前奏曲を聴く

せっかく初モノを聴くのだから、聴いている過程をそのままトレースしてみることにした。つまりは、体験したことを脚色せずに、読み手のことも考えずそのまま書く。

ワーグナーコレクション、まずは「ローエングリン」から聴くことにした。どうして「ローエングリン」か? 吹奏楽をやっていたものにとってワーグナーというのは、序曲だとか前奏曲だけは馴染みが深い。タンホイザーやらマイスタージンガー序曲を演奏された方も多いのではないだろうか。ローエングリンは第一幕や第三幕への前奏曲が有名である。特に第一幕前奏曲はゆったりした曲調と美しさは印象的だ。かの有名な結婚行進曲も入っている。

そんなわけで、「ローエングリン」からはじめることに決心したわけである。しかし学のない私、「ローエングリン」て何よ? というので、手っ取り早くGoogle検索。以下のサイトで情報を得る。

http://www02.so-net.ne.jp/~ars/lohengrin.html
ローエングリンよもやま話
後者のサイトの説明はわかりやすい。「独逸版 鶴の恩返し」てのが笑える。ローエングリンが白鳥にひかれて登場するってのも素敵だ。聖杯王てのも良くわからないが魅力的!

登場人物の名前もイケてる。主人公のエルザに、白鳥になっちまったエルザの弟ゴットフリート、敵対するテルラムント伯爵にその魔法使いである妻(なんじゃそりゃ=奥様は魔女かよ)オルトルート、舞台はアントワープ、なんて素敵なひびきなの。

名前を聞いているだけで、一気に中世の騎士の世界(あるいは銀河英雄伝説の世界)へひとっとび。で、前奏曲だけ聴いて今日は寝る!

2002年6月19日(水) 第一幕をとりあえず聴く

それにしても前奏曲の美しさといったらどうだろう。耽美的というにはコトバが足りない。ショルティ/ウィーンフィルのクリアにして精密な音作りは、ものすごいテンションをもったまま始まる。
そしていよいよ、第一幕ははじまった。

第一幕は、エルザが無実の罪を着せられてから、ローエングリンが現れてテルラムント公爵と戦い勝つまで。それにしても強引なストーリーだ。しかし音楽はすごい、ぞくぞくするような快感が立ち上る。

「こ・これがワーグナーなのか」

と思わず唸ってしまう。映像はなくとも引き込まれる思い。

しかし、せりふを読んでいないから何が何だか未だわからない、どの声がどの役なのかさえまだ掴んでいない。こんなことでワーグナーを聴いていると言えるのか?

やっぱり解説本は必要だなと思って今日は暮れる。

2002年6月20日(木) 改めてこの演奏について

歌詞が分からないどころか、誰が歌っているのかさえ知らずに聴いていた(ヒドイ聴き方!)。改めてライナーを参照してみると、










プラシド・ドミンゴ(ローエングリン)
ジェシー・ノーマン(エルザ)
エヴァ・ランドヴァー(オルトルート)
ジークムント・ニムスゲルン(テルラムント)
ハンス・ゾーティン(国王ハインリッヒ)
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(軍令使)
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン・グロール)
1985年11&12月、1986年6月

この陣容が凄いのかどうかは、オペラ無知の私にはわからない。でも土民児いやドミンゴが白鳥の騎士ですかア! ディースカウも歌っているのね、ジェシー・ノーマンも名前だけは知っているわ。
それに今日まで、オケはシカゴ響だと思っていたのに、ウィーン・フィルなんぢゃない!(前の間違いは直した)

「おおシカゴはさすがに精緻で精密な音を聴かせるな、それに甘さも繊細さもあるな」なんて思っていたのに、ウィーンだったのね・・・・どうせそんなものよ。

ということで、オケと配役がわかって満足、今日はここまで。

2002年6月21日(金) そして第一幕を聴き終える

さて、対訳(英語だけどね)を読みながら第一幕をやっと聴き終えた。

第一幕を聴いてみての印象というと、すっかりワーグナー節に嵌ってしまったというのが正直な感想だ。前奏曲も良いが、ローエングリンが白鳥に乗って現れるところの曲の美しさといったらどうだろう、目くるめく思いがする。そして、その後のエルザとの誓い、畳み込むような決闘前の熱唱、ローエングリンの勝利の唄など聴き所が多い。

「ローエングリン」をワーグナーの代表作として挙げる人は少ないと思う。でも入門用にはとっつきやすい曲である、と何かで読んだ。ローエングリンの第一幕だけ聞いて「ワーグナーの音楽は・・・」などと早計なことは、さすがにオッチョコチョイの私でも書けない。

でも、何故ワーグナーがこれほどまでに偏愛されているのかが、少しだけ分かったような気がする。オーケストラと合唱が、グチャングチャンに入り混じってソプラノが駆け上ってゆくような音響を聴いていると、脳天が麻痺してしまう。マーラーのイイところが延々と続くような(たとえば復活のラストのような)快感だ。

さて、細かいことは気にせずに第二幕に突入することとしよう。聴かねばならないCDはまだ20枚もあるのだ。

2002年6月22日(土) ワーグナーの歌劇についてちょっと調べる

考えてみたら、「ローエングリン」というのはワーグナーの歌劇の中でどういう位置付けなんだろう、とサイトで調べてみた。

すると、"ワーグナーは、「ローニングリン」を書き終えた段階で「私はもうオペラ(歌劇)は書かない」と言った"という記述を見つけた。どういうことなんだ?? と思っていたら、ローエングリン以降の作品は楽劇というとあるではないか。(飯守先生インタヴュー~ワーグナーと『指環』を語る(新交響楽団HP)

うーん、よく分からないが、そうだったのか(^^) 無知とは恐ろしいものだ・・・。

で、ワーグナーの作品を年代順に調べてみると、以下のようになることも知った。

歌劇「さまよえるオランダ人」全3幕 1841~42年
歌劇「タンホイザー」全3幕 1843~45年
歌劇「ローエングリン」全3幕 1846~48年
楽劇「トリスタンとイゾルデ」全3幕 1857~59年
楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」全3幕 1862~67年
楽劇「ラインの黄金」全1幕 1853~54年
楽劇「ワルキューレ」全3幕 1854~56年
楽劇「ジークフリート」全3幕 1856~71年
楽劇「神々の黄昏」序幕と全3幕 1869~74年
舞台神聖祝典劇「パルジファル」全3幕 1877~82年

��以上ワーグナーの作品紹介(ワーグナーの歌劇な部屋)を参照した。
ここまでたどり着いてなお"で、「指輪」は入ってないの?"などと大ボケをかましているのであるが、無知とは恐ろしいものだ・・・。

そして第二幕を聴く

さて、その第二幕は、戦いに敗れたオルトルートとテルラムントが、ローエングリンとエルザの結婚式の前に彼女をそそのかす場面だ。つまり、「素性を明かさないなんてとんでもない、決闘に勝ったのも魔法を使ったからだ」とエルザに告げ彼女を惑わすのだ。

まあ、言っていることも分からなくもない。せめて名前だけでも知りたいと思うのは人情というものだ。しかし、決して親切心でエルザに告げているんでないから、やっぱり悪いやつらだよな、性根が腐っている! オルトルートは魔法使いであり、かつ異教徒という設定らしい、こういう感覚はキリスト教に親しんでいないと分からないよな。

次第に膨らむエルザの疑惑とローエングリンの悲嘆は聴いていて胸が痛くなるほどだ。このシーンは人間的な葛藤と欲望、詮疑などがドロドロと渦巻き大きな聴き所になっていると思う。

そういう中にあって、第4場の音楽の美しさは圧倒的だ。エルザが行列をひきいて寺院に詣でようとする場面だが、木管で導かれる動機を聴くだに思考が停止し感涙してしまうほどの美しさだ。このよく知られているフレーズが、こういう場面で登場しているものとは、想像だにしなかった。

劇としてもこの第二幕の後半は大きな山場であると思う。

2002年6月23日(日) 第三幕を聴き終える・・・

第三幕の前奏曲は余りにも有名だ。金管群が咆哮し爆発するような音楽は吹奏楽向きの曲かなと思うが、この前奏曲に導かれる形で、かの「結婚行進曲」が現れてくるとは、これまた知らなかった。何たる劇的な音楽に仕上がっていることだろう。そして、あれほど通俗名曲として陳腐化しているフレーズが、かくも優しく、そして哀しく美しいとは!

ストーリーを知った今となっては、後の破局が見えているだけに、この結婚行進曲の美しさは逆に痛ましい。もはや第三幕は涙なくしては聴けない音楽=劇に仕上がっている。すっかり感情移入してしまっている自分に気付かされる。

エルザの嘆願と、ローエングリンの嘆きと告白、そして突如として現れた白鳥とエルザの驚愕の叫びの劇的なこと!

Die Frauen
Der Schwan ! Weh,er naht ! ( The Swan! Woe, it approaches ! )
Alle Manner
Er naht, der Schwan !
(The swan appears round the foremost bend in the river.)
Elsa
Entsetzlich ! Ha,der Schwan ! (O horro! Ah,the swan !)

ここに至って、私は、ワーグナーの音楽と劇の不可分なる世界を垣間見た思いがした。なぜなら、歌詞を追っていたその目の前に、まさに白き白鳥の姿が確かに見えたのだ。
ローエングリンを聴き終えて

日記風の体裁を取りながらローエングリンを聴き終えたが、上演時間3時間にわたる歌劇である。しかし、それでも聴き取れない所は二度、三度と聴きながら約1週間かけた。

ワーグナーは数夜に渡って上演されることもあるので、こういう聴き方も良いかなと思ったが、何か見えざる力でぐいぐいとひき込まれるような思いであった。ワーグナーの歌劇は麻薬のようなところがあるみたいだ。

ショルティ/ウィーンのこの演奏も、クリアで非常に良いパフォーマンスであると思う。初めて聴いた印象では、悲劇のエルザ(ジェシー・ノーマン)よりも魔女のオルトルート(エヴァ・ランドヴァー)の方が印象深いのは、映像を見ていないせいだろうか。

いずれにしても、初めて聴くワーグナーではあったが、長さゆえに敬遠しているのはもったいないと思わせるに充分であった。さて、次は何を聴くべきやら・・・

2002年6月19日水曜日

ワーグナーボックスセット届く

��MVのサイトを見ていたら、ショルティ/シカゴ響のワーグナーコレクションが激安で発売されている情報を見つけた。これがなんとCD21枚組で16,990円、一枚当たりに直すと809円(消費税別)、激安も極まれりという感じだ。内容は「指環」以外の6作品、つまり「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルシファル」全曲という膨大なる量。昨日そのボックスセットが郵送されてきたが、その大きさに圧倒されてしまった(^^;;
��右:写真もHMVのサイトのものを借用)

私は歌劇は(も?)全く持って不案内、素人状態である。まあ、ちまちまとワーグナー作品のダイジェストを買ってジャンクCDと化してしまうよりは、安さで一気に買ってしまう方が良いかなとも思い入手してみた。しばらくは楽しめるかなあ、と思うのであった、もっとも聴けばだけどね。

さてさて、私は今年中にワグネリアンになることができるでしょうか・・・・? どなたか買われて挑戦してみてはいかが>て、人ごとにするなよ

それにしても、いきなり宅急便でHMVからあんな大きな包みが家に届いたんで、「いったい何を買ったの?」と追求されちゃいました。「ワーグナーだよ」と答えたら「ぜんぶ?ぜんぶ わーぐなーなの??」と更に聞かれたのでした、誰だってそう思うよな。


2002年6月17日月曜日

【ワーグナーを聴く】

【特集】CDで聴くはじめてのワーグナー あるいはワーグナーな雑記

ワーグナーどころか歌劇の知識が全くない筆者が、突然ショルティのワーグナーボックスセットを買ってしまった。
せっかく買ったので、ワーグナーを聴き始めたのだが、始めて接するワーグナーであるので素直な感想を書きとめておくこととした。

乱暴な文章であることを了解した上で、時間が余って余って仕方がなく、かつ、かなり長いへたくそな文章を読むことが苦痛ではないという方に限り読めるように作ってある。��つまり普通の人は読まないだろうことを期待して=>ぢゃあ何のために書いるのだか!



高木綾子のインタビュー記事

��6日の北海道新聞の「21世紀 人」で、フルーティストの高木綾子が登場していた。高木綾子といえば、J・クラシック界(レコード会社の付けた名前だろうが)を代表するプレーヤーで、テレビCFやたけしの誰でもピカソなどにも出演しているため、クラシックに馴染みのない人でも、顔くらい見たことがあるかもしれない。

彼女の吹く笛は、独特の芯があってゾクリとする魅力があるのだが、そんな彼女が今考えていることは、「いろいろな楽器の音色を、フルートだけで表現できるようになりたい」ということだというから、少し驚いた。「曲を演奏していて、フルート以外の楽器が欲しいと、切実に思う」「フルートだけで、いろいろな楽器の音色を吹き分けるような技法があるのではないかと考えている」と続けている。

以前に、フルートオケの音色についての限界について書いた。フルート単体の音というものも、力強さや邪悪さなどの点で聴き劣りがすると思うことも確かにある。逆にそこが魅力ともなっていると思うのだが「フルートの音色をクラリネットとかオーボエの音色に自由に変化させて吹いてみたい」と彼女は考えているのだ。フルーティストは自らの音楽を追及しながら、楽器を選びそして改良を重ねてきている。

その試みがどういう結果として結実するのかは分からない。しかし、興味深いテーマを目指して新たな可能性を探っていることには着目しておきたい。そんなことを考えながら、彼女のCDでも久しぶりに聴いてみるのも悪くはない。


【演奏会】宮田あやこ in Half Note


以前紹介した「Half Note」というジャズバーで、ボーカルの宮田あやこ さんと ピアニスト豊口 健さんのデュオがあると知り聴いてきた。クラシックな話題ではないが、まあせっかくなので雑記帳に書きとめておきたい。 

宮田あやこさんは、札幌を代表するボーカリストで、現在も「Fantasia」という店で豊口健さんらと演奏をしている。Half Noteでの演奏は、「Vocalist 3 Days 」という企画で、私の聴いたのは最終日であった。
宮田さんの歌声は、非常にソフトで、チャーミングで、あたたかく、そして力強い。
「 限りなく心温かい!魔法のような宮田あやこさんの ミラクルヴォイスは大人のための極上の子守り歌」
という彼女の紹介文も豊口さんのものだろうか? ジャズシンガーの多くを知っているわけではないので、誰に似ているという表現は難しいのだが、私は最初の一声を聴いたとたんに、あやこマジックにかかってしまうのだ。 

彼女のうたをジャズと分類してしまうにはすこし抵抗がある。というのも彼女の歌のキャパシティーはジャズという限定された分類では納まらないような魅力があるからだ。彼女は、心の底から歌が好きなんだと思う。歌を聴いているだけで、さまざまな情景が心に沸き起こり、かなしくなったり、なんだかうれしくなったり、そんな演奏を聴かせてくれる。
歌う合間に「私の歌を聴いて、始めて聴く歌であっても、なにか昔のことを思い出したり、いろいろな情景が浮かんだり、皆さんの奥にあるものを引き出せたらと期待しながら歌います」と語る彼女。 

一方、豊口さんのピアノも、これも彼女に言わせると抜群とのこと。 

「トリオなどで歌うのと違い、ピアノとのデュオの場合、ピアニストはベースの役割もドラムの役割もしなくてはならない。えてして旋律線だけ弾いてしまいボーカルが歌いにくいピアニストもいるが、豊口さんは非常に歌いやすい」というようなことを語られていた。「歌をしらないと、ボーカルのバックピアノはできない、豊口さんもきっと歌が好きなんだと思います」とも。 

宮田さんと豊口さんの関係もずいぶん長い、阿吽の呼吸で始まる曲は、ほんとうに見事に響いてくる。ひさびさに、ほっと一息つけるひとときを与えてくれた二人に感謝(^^)

2002年6月3日月曜日

第14回 日本フルートフェスティバル in 札幌

日時:2002年6月2日(日) 14時~  場所:札幌市民会館

ヴェルディ:歌劇「椿姫」第一幕前奏曲br> G.ビゼー:組曲「美しきパースの娘」(指揮=阿部博光)
ライヒャ:シンフォニコ ニ長調より アレグロ(指揮=永野秀行、中学生アンサンブル)
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タファネル:ミニヨンの主題によるグランドファンタジー
J.S.バッハ:無伴奏パルティータ
カミュ:シャンソンとバディネリ
サラサーテ:カルメンファンタジー
ゲーリー・ショッカー:イン・メモリアム
サン=サーンス:アレグロモルト

フルート:加藤元章 ピアノ:石橋尚子

休憩
J.S.バッハ:トッカータとフーガ ニ短調(指揮=佐々木信浩)
トップラー:ハンガリー田園幻想曲(フルート=加藤元章)
ヴィラ.ロボス:ブラジル風バッハ
ビゼー:「アルルの女」よりメヌエット(フルート=加藤元章)

指揮:佐々木信浩  フルートオーケストラ:札幌フルート協会ほか

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早いもので今年で14回目を迎えるらしい。昨年は高木綾子さんを、今年は加藤元章さんをゲストとして招いてのフェスティバルである。年々フルートオーケストラのアンサンブルのレベルも上がっているように思える。

フルートという同属楽器だけで構成されているため、とかく音色の変化に乏しかったり、低音が不足気味のになる。そのため、今ひとつ楽しめないという方もいるのだが(かくいうわたしも昔はそうだった)、今年の演奏は良かったのではないかと思う。

古田戸フルートのコントラバスフルート(チェロの音域)4本に、日本で1台しかないというダブルコントラバスフルート(コントラバスの音域、製作者の古田戸さん自らが演奏に参加)を加えた音色は、独特の重心を得て聴いていて気持ちが良かった。また、数えたわけではないがアルトフルートの層も厚くなったように思える。中低音が優しくしっかり支えることで、本来のフルート音域の高音部分が映えて聴こえたように思う。ヴェルディやビゼーで聴かせてくれた第一列目のフルートの響きは、軽やかできらびやかで、本当に美しいものであった。

ただ、フルートオケの音というのは、低音を増強してはいても頼りなげである。和音の美しさと透明感が魅力ともいえるのだが、キレや強さもどうしても欲しくなる。それをどう表現するかが、フルートオケの限界と、これからの課題かもしれないなどと思うのであった。

なお今回のフルートオケ用の曲は、全て佐々木信浩先生が編曲しているもの。佐々木先生は元札響のフルーティストであり指揮者であったため編曲のツボを心得ている。日本にあまたフルートオケはあるものの、佐々木先生の編曲モノを演奏できる幸運に恵まれているのは札幌だけだろう。

中学生のアンサンブルもここ数年来の企画である。中学生の場合、吹奏楽(ブラバン)でフルートに触るのがほとんどだと思うのに、あれだけの演奏をできるとは驚きである。若いため上達も早いのだろうが、それにしてもと思う。

何と言っても圧巻は加藤元章さんのソロ演奏。脳天を吹っ飛ばされてしまった。これはページを改め書いておきたい。


2002年6月2日日曜日

第14回 日本フルートフェスティバルin札幌での加藤元章の演奏

日時:2002年6月2日 14:00~
場所:札幌市民会館
フルート:加藤元章
ピアノ:石橋尚子

タファネル:ミニヨンの主題によるグランドファンタジー
J.S.バッハ:無伴奏パルティータ
カミュ:シャンソンとバディネリ
サラサーテ:カルメンファンタジー
ゲーリー・ショッカー*1):インメモリアム In memoriam*2)
サン=サーンス:アレグロモルト

札幌でのフルートフェスティバルにゲストとして加藤元章さんが呼ばれた。生加藤さんを見るのも聴くのも始めてである。加藤さんが日本屈指のテクニシャンであることは聞き及んでいた。また、彼の精力的な録音活動も知ってはいた。それでも、今日の演奏には、脳天を吹き飛ばされてしまった、凄いの一言に尽きる。

彼の吹く楽器はプラチナ製である。プラチナというのは金よりも高く重い楽器であるのだが、そこから鳴らされる音の柔らかさ、力強さ、そして豊穣さときたら何と例えたらよいのだろう。芯はしっかりしているのだが、独特の懐の深さを感じるのだ。

音楽は加藤さんらしく技巧を要求するタファネルのファンタジーから始まった。音楽の自在さ、音色の変化の幅の広さ、そして信じられないような響きの低音から、これまた超人的な高音部分でのすばやいパッセージなど、何もかもがすごい。魅了されてしまうというのは、こういうことだろう。わたしはしばらく空いた口がふさがらなかった。

技巧だけでバリバリ押しまくっていたわけではない。2曲目のバッハ無伴奏が始まったとき、わたしはバッハが教会音楽のために作曲していたという事実を、今更ながらに思い知らされた。彼の音楽の彼方から教会の大伽藍と壮大なるパイプオルガンの響きが聴こえるように感じてしまった、実はこれにもかなり、びっくりしたのだが。

比較的静かな曲であるカミュやゲーリー・ショッカー(Gary Schocker)などにおいても、充分に聴く者の深くに染み込んでゆくような演奏であった。

そうは言ってもだ、サラサーテのカルメンファンタジーなどを聴いてしまうと、なんだか細かいところはどうでもいいやてな気になってしまう。とにかく凄い(今日はこればっか)。いやはやフルートというのを、こんなにもいともたやすく自在に扱えるものなんだろうか。めまぐるしい音の変化とダイナミックさ、スピード感、そして音曲げの技巧などを駆使して作り上げる音楽の素晴らしさ、もはやソロリサイタルと変わるところがない、ブラボーの一言だ。

彼の演奏からは偏執的で貪欲、旺盛な探求心と持ち前の明るさと楽天性、そして強靭な意志による弛まぬ努力というものを感じた、何かエネルギーを発散させているかのような印象であった。従って、後にフルートオケと2曲ほどアルルの女とハンガリー田園幻想曲を演奏したのだが、もうおなかがいっぱいという感じで、もはや受け付ける事ができなかった>ヤワなヤツ
  1. ゲーリー・ショッカー(Gary Schocker)
    アメリカのフルート奏者、作曲家、ピアノ奏者。ジュリアード音楽院で、J.ベーカーに師事。作曲と演奏の両面で、精力的な活動を続けている。
  2. イン・メモリアム(In memoriam)
    標題は「…を記念して」「…を悼んで」の意味。1993年出版。

2002年5月27日月曜日

有事関連法案とは何なのか 追記

��7日の朝日新聞「私の視点」は「特集・有事法制を考える」として、四名の識者が見解が掲載されていた。前回書いた不安が決して私だけの杞憂ではないことを知り、改めて本法制の意味について疑念を強めた。

■ 高知県知事の橋本大二郎氏は、「自衛隊の存在を否定しないなら、隊員が国民を守るために存分に活動できるよう法を整えることは必要だ」とまず主張する。これには異論はない、私個人としても、自衛隊を今の時点で否定する考えにまでは至っていない。

しかし、橋本は「武力攻撃事態」など個別の問題を考える前に「米中の間で、日本がアジアとの連携や結びつきをどのように作ってゆくか、もう少し引いたところで考えてもいいのでは」「アジア諸国のなかでの役割や取りまとめなど横への地域的な取り組みをもっと考えるべき」と主張する。この点にも、全く同意するものだ。ただ政治家であれば、具体的にもっと説明してもらいたい、行動として何が必要なのかということをだ。でなければ、単なる理想主義者と言われかねない。

■ 日弁連有事法制問題対策本部本部長代行の村越進氏は、今回の法案の不備を指摘し反対の立場を明確にしている。彼の一番の懸念は、「有事法制法案は強大な権限を首相に付与する授権法であり、基本的人権を侵害し平和主義に抵触するおそれがあり、民主的な統治構造を変容させ、国家総動員への道をひらく重大な危険性を有する」という点だ。また、「首相がNHKに対し、指示権や直接実施権を有する」点についても疑義を表明している。「首相が「やめる」といわない限り有事は終わらない」のだとすると、メディアおよび国民のチェック機能がどこまで健全であるかということは、重要な問題だ。メディア規制についても未知数で、正確な情報は国民に知らされるのか、改めて疑問に感じる。その場でも「こちらの発表することだけ信じろ」と官房長官は言うのだろうか。

■ 神戸大学教授の栗栖薫子助教授(国際関係論)は、「法律の策定には賛成」という立場を取るが、「あらかじめ原則とルールを決めておくことが重要」と主張している。特に有事法制が「架空の脅威を創造する結果になってはならない」とし、「必要以上に国民の意識に「北朝鮮脅威論」を植え付けることにならないか」と危惧している。脅威を特定したら逆にその脅威から狙われるという危険もないのか、その点も不安である。

■ 最後に石川島播磨重工業の渡辺鋼氏の指摘は生々しい。私が民間の経済活動が有事の影響をどの程度受け、そして有事への協力を要請されるのかわからないと投げかけた、その一例の回答ともいえる。彼によると、911テロの後、テロ対策特別措置法に基づき派遣した自衛隊に対し、すぐに防衛庁から技師への派遣要請があったという。更に、危険地域への出張業務には「厳しい箝口令が敷かれ」たという。「派遣される社員の法的な身分や、だれが安全を保証してくれるかなども不明で」という状態で協力要請に答えていたとは驚きである。更に改正自衛隊法では民間企業に対する守秘義務が加わり、組合活動なども罰則規定のある「漏洩」と見なされかねない危機感があると言うのだ。

かなり割愛して書いているので、新聞のある方は読んでいただきたい。さて、自分自身「自衛隊の存在は許容するものの、有事関連法案は賛成できない」と書いたとたん、自己矛盾を露呈しているようなものであることは認めるものの、この問題はYesかNoか、賛成か反対かと言えるほど単純ではない。

いずれにしても、多くのことが未知であり、曖昧なままであることだけは確かだ。「自衛権とは何か」という根本から考えなくてはならないのだ。やはり、このまま法案が成立してしまうことだけは現時点で反対である。


2002年5月26日日曜日

【音盤】サイモン・ラトルのシェーンベルク 「グレの歌」


  • サイモン・ラトル(cond) 合唱指揮:サイモン・ハルゼイ ベルリンpo.
  • ライプツィヒ中部ドイツ放送合唱団(合唱指揮:ホワード・アーマン) 
  • エルンスト・ゼンフ・ベルリン男性合唱団(合唱指揮:ジーグルド・ブラウンス)
  • ベルリン放送合唱団(合唱指揮:ジーグルド・ブラウンス)
  • カリタ・マッティラ(トーヴェ:S) アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(森鳩:Ms) トーマス・モーザ(ヴァルデマル王:T) フィリップ・ラングリッジ(道化のクラウス:T) トーマス・クヴァストホフ(農夫、語り手:Bs、Br)
  • 2001年11月ライブ録音 EMI TOCE-55391-92

シェーンベルクというと無調の12音技法を駆使した難解な現代音楽というイメージがあが、「グレの歌」(1901年)は、彼が20代後半に作曲した作品で、ドイツ後期ロマン派の影響を強く受けた音楽である。実際彼の生まれたころは、ワーグナー、マーラー、ブルックナーの全盛期であったのだ。この作品にもワグネリズムの影響を聴く事ができるかもしれない。彼の「浄夜」(1899年)と同じような系列にあって「甘美で叙情的」な音楽といっていい。

しかし「浄夜」は弦楽合奏だが、「グレの歌」はマーラーの千人の交響曲を凌ぐ規模の大きさだ、肥大化したオケは極限とさえ言っても良い。五管編成以上に三つの合唱団、5人のソリストが加わり、演奏者は総勢400人にものぼる、数字を聴いただけでたまげてしまう。この編成から鳴らされる音響は驚異的であり、さらに陶酔的さえある。

さて、そういう音楽を話題のラトル&ベルリンの録音で聴いてみた。

2001年9月18日、20日、11月9日のデジタル録音、同年のベルリン芸術週間の目玉となった記念碑的公演をライヴ収録したもの。サイモンラトルがベルリン・フィル芸術監督就任後の初レコーディング盤である。この壮大なる音楽を、非常に緻密にそして美しく表現している。

日本盤の解説によると、ラトルは「グレの歌」を昔の恋人のようと称している、それこそ10歳か11歳のほんの子供だった当事、この総譜の虜になってしまったと言うのだ。それだけに、満を持してという感じなのだろうか。

冒頭の序章からして瑞々しく美しい、まるでラヴェルの「ダフニスとクロエ」のような優雅さが漂う。実際ラトルは"ダフニスとクロエ"のように演奏すれば良いとオーケストラに言っていたらしい。だとするとその試みは大成功しているといえる。フランス的な感性が、ドイツ的ロマンを身にまとい、ほんとうに見事な音楽を形作っている。

「グレの歌」のストーリーについては割愛するが、簡単に言ってしまえば悲恋と魂の救済のようなものだ。こういう音楽をラトルは、感情の奔流が溢れるというような情緒的な演奏ではなく、理知的にまとめているように感じる。メリハリがないとかいうのでは全くない。それはむしろ全く逆で、そこかしこに劇的なオーケストラの効果を聴き取ることができる。それでいて、音楽としての透明感とパースペクティブがきっちりした演奏というように感じるのだ。今の段階で他の演奏と比較しているわけではないので何とも言えないが・・・。

いずれにしても、壮大なるオーケストレーションによる音の洪水を体験することができる盤である。できうるなら、大音量で楽しみたいものである。

中国領事館亡命事件で考える

福田官房長官と小泉首相が、野党民主党の中国領事館亡命事件の調査結果を「自虐的過ぎる」と称した。真実を追求する報道、調査が何故に自虐的なのだろう。この発言を聞いたときに、もはや小泉=福田内閣はファッショではないかと耳を疑った。「自虐的」という言葉で思い浮かべるのは、「新しい歴史教科書をつくる会」だが、「自虐的」とは一方的過ぎる見解に思えた。

中国にODAとして莫大な額を投入しながら、中国に実は蔑視されていることここそ自虐的だと指摘する週刊誌もある。今回の事件は、TVカメラがなければ闇の中だった。主権だの領事館の独立性だの言う前に、日本の外交力のなさを露呈させたことになる。恥ずべきなのはどちらだろうか。

しかし、今回の事件は少し感情的過ぎると思ったことも確かだ。23日の朝日新聞「記者は考える(百瀬和元 編集長)」によれば、今回の一件は主権侵害とまではいかず、『外交施設の「不可侵権」を「国家主権」に置き換えて論ずるのは乱暴すぎる』と書いている。領事館に「治外法権」は存在していないのだ。改めて指摘されてはっとした。

更に、『国際法では在外公館が駆け込んだ亡命申請者を保護する権利(外交庇護権)は確立されていない』と、ペルーの「アヤ・デラ・トーレ事件」の名前を引用し、『外交施設による保護は人道的な配慮から「不可侵権」を盾にして成り立っている』と説明している。

今回の事件で繰り返し報道される、他国の領事館に集団で駆け込み、亡命に成功して歓喜している外国人の姿を見るにつけ、違和感と不思議な思いを抱いた人も多いだろう。彼らにとっては人権と生存をかけた行為なのだろうが、何か滑稽なゲームを見ているような違和感だ。

その問題はさておき、中国領事館の事件は亡命問題に冷淡な日本政府の態度も浮彫りにしたことになる。日本も難民や亡命者を受け入れているのだろうが(細かい数字は調べていません)、国境を接している欧州諸国などとは実情が異なると思う。

大量の外国人労働者が流入したドイツでは多くの社会問題が発生した。26日のNHK日曜討論(9時から)でも、難民を受け入れるなら相当の覚悟が必要だと主張している議員がいた。たしかにそうだ、しかし、それらを受け入れた上で自国の難民政策について考えることが大人の外交で、国際社会の一員としてのあり方ではなかろうか。日本は「異質」なものとの接点があまりに少なすぎ、今でも鎖国をしているのかと思うときもある。有事法制のあり方も、国際社会の中での日本を考えるよりどころになってはいるが、欧米よりの政策だけが正ではなかろう。

「甘い」とか「理想論」と言う人もいるだろう。「では具体案を出せ」とも反論するかもしれない。しかし、私は政治家ではない(急に開き直る)。そういう世界観を示す指導力を持った政治家はいないのだろうか。


2002年5月25日土曜日

有事関連法案とは何なのか

民間防衛に関する法整備(「国民の保護のための法制」)を2年以内に、福田官房長官をリーダーとしてまとめると、20日のニュースは報じていた。有事関連法で自衛隊の超法規的な動きだけは先に法制化し、民間防衛は後回しにする・・・そこまで急ぐ理由は何なのだろう。今期の国会には、まだ郵政関連法案、個人情報保護法案など重く重要な案件が控えているというのにだ。

今回の内閣と国会の動きを見ていて感じるのは、その真意が読み取れないもどかしさと、どこまで本気なのか判じかねる答弁、そして、法案そのものの内容があまりにも不備なことからくる漠然とした不安感だ。国会での与野党の議論さえどこか他人事で白熱していない。

本法案への支持ということで言えば、橋本龍太郎元首相も「私が見ても急いでやりすぎているとの不安が残っている」と言い、古賀誠前幹事長も「私は積極論者ではない」と語っている。自民党内部でさえ積極派と慎重派に分かれているのだ、国民が分かるわけがない。

そもそも私には法案の内容について基本的なことさえ分かっていない。


改めて憲法九条を引用してみよう。

日本国憲法第九条【戦争の放棄、 戦力及び交戦権の否認】
��1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平 和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
��2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「あたらしい憲法のはなし」(中学校社会科の副読本 文部省 1947年8月)
「よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないことをきめたのです」
「戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです」

なんとも明快である。「集団的自衛権」「周辺自体」、定義が必要な言葉はどこにもない。戦争を放棄したという意思が強く感じられる説明だ、50年前、日本は心の底から悔いたのだ。

いつの時期にも憲法改正論というのあったが、実際に憲法九条が改正されてはいない。92年成立の国連平和維持活動(PKO)協力法も、99年成立の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法も、憲法の基本原則との枠組みで多くの議論がなされた。(実際は危ういところは多く、賛成しかねるのだが)

「なぜ今の時期に」という問いに中谷防衛庁長官は「なぜ今の時期にではなく、いままで整備されていなかったのかと問うべきだ」と主張しているのだが、それならば法案の内容が具体的かつ国民に合意されたものでなくてはならない。


「備えあれば憂いなし」と小泉首相は唱えるが、単純なスローガンにしか過ぎず、議論を不毛にする危険性をはらんでいる。25日の朝日新聞は「歴史的課題を処理する責任の重さも、骨太の国家観も、感じられない」と批判するが、全く感情的に同意する。

国を守ること、国民生活を守ることの重要性は認めよう。では以下の疑問にまず答えてもらいたい、私が無知で勉強不足なだけなのかもしれないが。

  • 何物かが日本を攻撃するとした場合、その組織(国家)はどこをさすのか。
  • その場合の目的と背景は何と予想されるのか。
  • ブッシュの言う「悪の枢軸国」という指摘に日本は同調するのか。
  • 以上を認め「敵」がいると想定した場合、当面の帰着点として何を求めるのか(何をもって戦闘=有事の終結とするのか)
  • 米国、日本を含む連合国と悪の枢軸国という対立の中で、日本の応分の役割についてどう考えるか。
  • 悪は武力による攻撃でしか殲滅できないという感が方か、最終的にはどのような世界観を取るのか。
    要は、攻撃してくる敵がいた場合、武力攻撃で根絶やしにすることを是とするのか、それ以外の道を探るのかということだ。


その「それ以外の道」という代案を、「有事に備える武力と体制を整備する」という古来から広く指示されてきた方法への対立軸として具体的に提示することは、極めて困難な作業である。その困難さと理想論に脱する点が、武装派から鋭くつつかれてしまうわけである。

たとえば、911米国へのテロについて、アフガニスタンの貧困やイスラム社会の問題を提示することは簡単だが、テロを発生させない平和的手段となると難しい。


仮に攻撃される可能性が否定できないとしよう。では「有事」とは何を指すのか。それさえ今の答弁でははっきり見えてこない。

「武力攻撃事態」は内閣によって認定され、国会の承認を経ることになっている。しかしその判断基準と論拠は国民に知らされるのだろうか。明らかに攻撃を受けた場合は別だが、「予測される事態」などは、最高レベルの国家機密でろう、国民に知らされるとは思えないが。

ある日突然、NHKが「今から有事体制に入りました。NHK他報道機関、地方自治体は総理大臣の指揮下に置かれました。」とか報ずることになるのだろうか。

「武力攻撃事態」の言葉の定義はさておき、たとえば

「北朝鮮がミサイルが日本のA市に向けて配備されたいう、かなり確かな情報を偵察衛星などによりアメリカ筋から入手した。」

「別な情報では、北朝鮮がその射程距離のミサイルを保有開発していたという事実は確認されていない」

さて、これらは「有事」に該当するのだろうか。あるいは、下の場合はどうなのだろう。

「国際的テロ組織からB市に1ヶ月以内に、大規模なテロ行為を展開するという犯行声明ないしは、確かな情報を入手した」

私にはよく分からない。


「有事」と定義された事態になったとしよう。そのとき、国民生活のどこまで影響が及ぶのだろう。

  • 日常生活(仕事したり学校行ったり、買い物したり)はどこまで制限されるのか=いわゆる外出制限
  • 物価はどうなるのか、物資の不足による急騰ということはあるのか、配給という言葉まで出てきているが
  • 交通規制はどうなるのか(自衛隊は道路交通法の適用外になるのでしょう?)
  • 住民避難はどのうな体制で行うのか、周辺自治体との関連は
  • 住民避難の際の自治体の権限はどこまで有しているのか
  • 不安感などから騒動が予想される場合、あるいは犯罪防止(治安維持)のための警察の役割権限の範囲は
  • 教育機関への影響は、一時的に教育が行われなくなった場合の受験などへの影響は
  • 通常の経済活動は行われるのか、企業活動はどこまで「有事」にシフトするのか
  • 報道機関はどう統制されるのか

個々の事例を細かく今から考えることは難しかろう。でも想定はしなくてはなるまい。

一見、自然災害と似たような事態を思い浮かべる。阪神の震災のことを思い出しても、あれもひとつの「有事」だった。神戸は「戦場」と化していたが、梅田では夜のネオンは華やかであった・・・。しかし、「有事」となると「局所災害」ではないのだ。もはや日本全体が巻き込まれているのだ。災害と同様には考えられない。

災害訓練と同様な、有事訓練というものも実施されることになるのだろうか(福田官房長官は視野に入れているという発言をしていたが)

また、25日朝日新聞の「私の視点」で、大東文化大学の富井幸雄教授(公法学)は、有事の際に国会を重視する姿勢が法案に欠けていると指摘している。先に有事と認定するのは内閣で国会が承認すると書いた。有事において権限が集中する内閣に対し、国会が常に開会しており機能しなくてはならないことは、確かに一番重要な問題かもしれない。そこさえ、議案は曖昧なのだ。


悪いことに、事態は更に進展したとしよう。

この段階で、日本はまだ攻撃されていない。しかし、日本を標的としたテロリストが北朝鮮の山奥に居ることが判明。米軍が中国軍とともに大陸北西から特殊部隊を展開し始めた。米軍は政府に自衛隊の支援を要請してきた。
さて「周辺事態」法の適用となった場合、どこまで日本は関与するのだろう。「集団的自衛権」は行使しないとか主張してられるの?

��市において予告声明とおりテロが発生し、市民に死傷者がでた。 セカンドアタックも予告されているため、自衛隊が派遣され、テロ組織の探索を開始したそのとき、第二のテロが発生し、不幸なことに自衛隊員にも死傷者がでた。

自衛隊用の専用病院がいくつか指定され、また臨時の医療施設も設営された。 一部の学校は医療活動の拠点となり、優秀な医者に労働協力の依頼(罰則規定なし)が布達された。


ここまでくれば、明らかな「有事」だろうが、非戦闘員とは言っても拠点の人たちと、被害を全く被らない人たちも居る。我々はこのような事態を50年以上経験していない。私にはそのときどのような生活が待っているのか想像ができない。

自分の職場が有事協力を要請されることはないのか。戦闘地域の定義さえはっきりしないが、少なくとも「専守防衛」を唄うなら、それは国内だ。協力はどの範囲にまで及ぶのか・・・、協力を拒めるのか(現在は罰則規定なし)。

医療・燃料・食料の自衛隊への優先的提供(罰則規定あり)により、非戦闘員(国民)への影響はどうなるのか。逆に戦闘員が目の前で自らの財産を損なってゆく場合、どこまで権利は主張できるのか、そのときの相談相手は誰なのか、その相談相手に権限はあるのか。

最初にも書いたが私は、基本的なことがまだ分かっていない。政治家は誰一人として分かりやすい説明をしてくれてはいない。答弁は内閣内部でも日替わりで変わっている。

そんな首尾一貫性がない内容であるというのに、しかも、自分達の問題であるのに議論が白熱しないもどかしさを感じる。それとも、可決にはそれほど意欲がないのだろうか、あるいはサッカーワールドカップで国民が浮かれている間に可決してしまおうとしているのだろうか。それさえ分からない。


2002年5月19日日曜日

【音盤】エマニュエル・パユ/夢のあとに


大きな鳥篭(「動物の謝肉祭」より)~サン=サーンス
パヴァーヌ~ラヴェル
ボレロ~ラヴェル
夢のあとに~フォーレ
春、夏、秋、冬(「四季」より)~ヴィヴァルディ
ジャンボの子守唄(「子供の領分」より)~ドヴュッシー
トルコ行進曲~モーツアルト
見知らぬ国から~シューマン
無窮動~パガニーニ
熊ん蜂の飛行~リムスキー=コルサコフ
ヴェローチェ~ボラン
エマニュエル・パユ(fl) ジャッキー・テラソン(p)
EMI TOCE-55396(国内版)
音楽雑記帳でも触れたがパユの新譜を聴いている。5月9日に日本先行発売、日本オリジナルジャケットの採用と限定のオマケビデオ付というEMIの策略にすっかりはまってしまった(^^;;

「クラシックの名曲をジャズ風にアレンジする」というのは簡単なようで難しく、危険な作業だと思う。名曲であればあるほど、通俗的にイメージが固定化されているため、聴かせる編曲に仕上げることは至難だ。ジャズやラテン風アレンジもちょっと間違うと「クサイ」演奏(編曲)になりがちで、センスも問われる。さて、このアルバムはどうだろうか。

聴く限りにおいては、パユの演奏は通俗に脱しそうになる数歩手間で踏みとどまっており、独特のドライブ感を感じさせてくれる。それは、彼の抜群のテクニックに負うところが大きいようだ。ありふれたフレーズのすぐ後に、意表をついた断片を垣間見せてくれる。彼の発する音は空気を切り裂き、または絡めとる。消え入るように天上に上ったかと思えば、再び艶やかに舞い戻ってくる。硬質さと柔らかさを自在に使い分ける表現力と軽ろやかさ、まさに笛を吹くために生まれてきたかのような印象だ。音色の色彩感、リズム感、躍動感など、どれをとっても音楽のよろこびが凝縮されていると思う。アレンジされる作曲者にフランス系が多いと言うのも、洒落た雰囲気に仕上がった一因だろう。

ところで、ここ数日ずーっと聴いているのだが、「ジャズアルバム」としてこれを捉えることには抵抗がある。ジャズとかクラシックとか分類することに意味があるのか、ということはさておいてだ。特に生粋のジャズファン(私じゃないよ)は、物足りなさを感じるかもしれない。ビデオの中でジャッキー・テラソンはパユに向かって「ファンキーに!」と繰り返す。「好きにやれよ、後はついてゆく」みたいなノリだ。確かにビデオの中のパユは、最初まるでバッハの無伴奏でも奏でているような雰囲気だったが、次第にJazzyに傾いてゆくようで興味深かった。(ビデオの構成がそういう作りだから、そう感じたというのもあるが)

それでもJazzくささというものは希薄なように感じる。ジャズの真髄がどこにあるのかは、クラシックについて語るよりも難しい、何が物足りないのだろう。JAZZ的な泥くささや力量感と書いてみても、少し違うようだ。もしかしたあら、パユはジャズを演奏するには、ウマすぎるのではないかとも思う。例えばジャズピアノの元祖セロニアス・モンクはミストーンバリバリで弾きまくっていたが、非常にソウルフルだ。パユの音楽はパーフェクトで、聴いていて心地よく感心するのだが、JAZZ的な音楽として聴いた場合、ソウルの部分が食い足りないように思うのだろうか。(ミストーンがあるのがソウルフルといっているのでもない。ジャズピアニストでも技巧派もいることは認める)

あるいは、パユは今回そういう「いかにもJAZZ的」な音楽を目指さなかったのかもしれない。それ故に、何度もこの盤を聴いていると、計算された意外性(=高度な戯れ)というように感じられてしまうところもなきにしもあらずだ。また一流のジャズプレーヤーが見せる、恐ろしいまでの緊張感に満ちた即興性にまでは至っていない、まあ、そういうところが、純粋ジャズとして聴くと物足りないかなと・・・あ、欲張り?(>だからそういう音楽ぢゃないんだってば)

どんんなに優れた演奏も、繰り返して聴けば飽きるのは当たり前なのだが、飽きるほどに続けて聴いてしまうほどの盤だということは保証する♪(*^-゚)⌒☆ (褒めているんだか貶しているんだかわかりゃしない=パユファンの方 気を悪くしたらごめんなさいね)

2002年5月17日金曜日

【音盤】エマニュエル・パユの「夢のあとに」


「今度のパユの挑戦は・・・ジャンルを超越した"コラボレーション"!!!」という謳い文句が踊る。今年再びベルリン・フィルに復帰したパユが録音したのが、ジャズとは驚きだ。
彼は2000年に、ベルリンフィルを退団、その理由の一つが「家族と一緒時間が余りに少なすぎる」というものだった。私は、パユというキャラクターがベルリン・フィルという枠内に、もはや納まることに満足しないのだろうと思っていた。予期された退団だった。しかし、ソリストとなりジュネーブ音楽院の教授になった後は、ソリストとしてのレパートリーの狭さに不満を感じ、教授として教えることを退屈であると言うのだ。彼の音楽に関する追及は貪欲であり、果てが見えない。
そういう経緯を考えると、今回のコラボレーションアルバムというものも、パユとして一つの帰結であると思えてならない。ここに展開されている音楽は、クラシックをやっている人が戯れにジャズも演ってみたという類のものではない。一つのかっちりとした音楽世界が表現されており、それが聴くものを捉えて放さないのだろう。
曲目は、クラシック系の有名な曲のアレンジだが、その独創性とスリリングさ。一見陳腐なフレーズが飛翔する驚き。こればかりは聴いてもらうしかない。

2002年5月16日木曜日

内閣官房内閣とは大本営か、そして哀しき絶望

天下の外務省がボロボロである。機密費問題に始まり、田中外相との対立、瓢箪から駒のような鈴木宗男疑惑、そして今回の中国瀋陽の日本総領事館亡命事件での不手際である。

現在のところ日本と中国側の主張が大きく異なっていることは報道にて周知の通りである。TVを見ていると、小泉総裁や福田官房長官は「日本の報道よりも外国の報道を信じるのですか」と開き直る。

この論理を聞いて、私は怒りを通り越して絶望を感じた。確かに中国は当初、この問題を国内で全くと言っていいほど報道しなかったらしい。日本が現地検証などをTVカメラ監視のもと実施していても、何が起きているのか理解している市民は少なかったという(私の情報源はTV朝日のニュースステーション:偏向していると言われりゃそれまでだが)。それは報道管制かもしれないし、あるいは、何かを守るために事を大きくしたくなかったと言う配慮だったのかもしれない。守る対象が中国政府かもしれないし、もしかしたら日本政府そのものだったかもしれないのだが、それは分からない。

客観的な事象に基づいて、双方の主張をどこまで信用すべきかを我々が知る手段はないのだ。

しかし、少ない報道情報から両者を比較した場合、どちらにより真実が多く含まれるらしいかということに気づかないほど、我々はばかではない。中国政府発表を全面的に信用しているというわけではないものの、最近の日本政府および内閣官房のやり方を、どうして信用できようか。

現在国会は、経済再生については「底を打った」とし、有事関連法案、個人情報保護法案などの超重要案件を通そうとしているのだ。この2関連法案の提出のされ方からして、政府あるいは内閣官房の言を信じることはできない、思い上がりもはなはだしい!

書いていて、あまりのことに情けなくなってくる。国民には一番重要な事を知らせず、話さず漏さず、政府の言うことだけ信じろという。「民は知るべからず」か、まさに今の内閣官房は戦時(有事)中の大本営そのものなのではないか。

この事件を機に、私は今の内閣をついに全否定しているということにやっと気づかされた。信頼しないということは、支持しないということだ。もう福田官房内閣は支持しません、あ小泉内閣か。

蛇足だが、先日のニュースステーションで、久米宏がビルマ(ミャンマー)のスー・チー書記長に「ちなみに最近の外務省がガタガタなことはご存知ですか」と愚問を発した。スー・チー女史は、笑いを押し殺し、そして少し困ったように(私には見えた)「それは外務省だけではないのでは」と答えたのだったよ、トホホ・・・

エフゲニ-・スヴェトラーノフの訃報

先週の金曜日(5月10日)朝のNHK FMを聴いていたら、ド派手な「スペイン奇想曲(リムスキー・コルサコフ)」がかかっていた。フィナーレなど、心地よい笑いを抑えなくてはならないほどだったのだが、演奏はロシア国立交響楽団を率いるスヴェトラーノフ指揮のものであった。

そのスヴェトラーノフが、5月3日に73歳の若さで亡くなっているのを知ったのは今週になってからだ。朝比奈、ヴァントに続きまたか・・・という失望の念を禁じえない。

実演に接したことはないが、CDを聴く限りにおいても、彼の演奏は独特のエネルギーに溢れていて驚くばかりだ。いわゆる「爆演系」「大音量系」の演奏が多い。作品解釈の点では異論はあるのかもしれないが、難しいことを抜きにして「好きか嫌いか」という選択を迫られる指揮者の一人だったのではなかろうか。

スヴェトラーノフといえば、エフゲニ-・スヴェトラーノフのページというファンサイトがある。多くの追悼文が寄せられていることからも、彼がいかに愛されていた指揮者であったかと言うことが偲ばれる。しばし、スヴェトラーノフの盤でも聴きながら黙祷・・・



2002年5月15日水曜日

「政治家秘書的なるもの」~鈴木宗男の側近逮捕

鈴木宗男の側近と言われた外務官僚である佐藤優・前国際情報局主任分析官ら外務官僚2人が背任容疑で逮捕された。 鈴木宗男の疑惑解明に向けて、更に外堀が埋まってきたという感を受けるが、一方で何故に「佐藤優的なるもの」が生まれたかとを考えざるを得ない。(佐藤優に限らず、いわゆる「政治家の秘書的なるもの」ということだが)
彼は鈴木という権力の元に自分の能力を発揮し、成果を得る中で彼自身も各方面への影響力を拡大させていった。彼の影響力の根源がどこにあるのかといえば、利益誘導型の政治家本人に行きつくことは間違いない。 5月15日の日本経済新聞社説で、
鈴木議員の威光を笠(かさ)に着て外務省内で権力を振るい、その意向を実現するため奔走したのが、逮捕された佐藤前主任分析官らである。幹部職員も、その行動を放任し、かえって鈴木議員の意に添うよう部下に指示していた実態が外務省調査で浮き彫りになっている。
と説明している。ここの斜体部分を替えて読んでみると、全ての不祥事に当てはまるように思えてしまう。政治家のみならず一企業内においても、自らがいつ「佐藤優的なるもの」になってしまわないとも限らないのだ。
おそらく、自分がそのような存在になってしまっていることは、「組織を俯瞰する外部からの眼」を持たない限り気づくことはないのだろう。それが組織風土というもののやっかいさだ。
蛇足だが、今回こそは外務省は鈴木宗男問題に切りを付けたいのだろうが、「外務省の調査で浮彫り」って、内部調査では浮彫りににはならないんですよね。

2002年5月11日土曜日

レッスンメモ

��月は色々と予定があるので、思い立ってレッスンを受けてきた。今日の練習は、休憩なしの延々と2時間半にもわたるものであった。相変わらず基礎練習であるが、基礎練習の仕方をそう何度も教わる機会はないと思う。一つ一つが重要であると思うのでメモ替りにまた記録しておきたい。


○ ソノリテの練習
時間を計っていたわけではないが、ソノリテだけで1時間以上かかっている。いかに「響き」「音色」を重視しているレッスンかということが分かっていただけると思う。

ソノリテを持っていらっしゃる方ならば分かると思うが、やっているのは中音から下がる1、2、3番、それと高音の1、2、3番である。メトロノームを四分音符60にセットして、ひたすら、ひたすら響きに注意しながら吹く。以下に欠点を箇条書きにしておく。前回指摘されたことが一向に直っていないことに気付く。

  • 何度も注意されるのは楽器の角度、顔の縦の線とフルートが直角になるように(唇とフルートがスクエアになるように)と、それこそ吹くたびに注意される。クセになっているので、他のことに集中すると直ぐに忘れてしまう。
  • 出だしのH2の音を、最初からポーンと明るい響きで出すこと。恐る恐る出したり、吹きながら膨らませることのないように。これが意外と難しい。「今日のような天気でなく、明るく抜けた空をイメージして」
  • 息の幅を広げすぎないで、焦点を絞って響かせる。
  • (2番、3番と練習するに従って)音の間が広がってきても、響きが変わらないように。Dsを明るめに、Cisを暗めにいつも注意する。
  • 低音に向かうに従って、大きなディミヌエンドを感じて消え入るように終わる。
  • 例えば2番のBから下がる音形などは、旋律は違うがドビュッシーのシリンクスを吹くように。
  • いつでも曲を吹いているつもりで滑らかに、レガートに。
  • ゆっくり吹いていても指の動きは速い、音の移り変わりを曖昧にしない。指をばたつかせるとアクセントになるので注意。
  • 高音域でも口を締めすぎないように、舌もリラックスさせる。
このように注意されまくりであった。とにかく響きを得ること、均質な音になるようにと強調されるのは毎回のとおり。4番など音間隔が広がったのも練習するようにとのこと。 とにかく疲れる練習だ、とくに出だしの音が満足な響きが今日は得られない。アンブシュアは鍛錬していない身なので日々ばらつきがある。今日は息がまとまらず焦点が定まらなかった、フウ・・・ ○ T&G EJ1 今日は音の乗りが良くないと言うとおり、案の定EJ1の低音を吹こうとしたら音にならない。いつも順番どおりに練習しなくても良い、とのことで、しばらくはドシラソファソラシ・・・と下降-上昇する音形にして練習するようにとのこと。特に息の使い方が悪いらしく、ここの注意も箇条書きにしておく。
  • 低音でももっと息を使う。フォルテで充分に響かせるように。
  • それには息を下のほうに溜めるイメージで、おなかの上の方ではなく、もっと下のほう。例えばデボストは(だったよな)息を「膝まで溜める」ようにイメージすると言っている。
  • 緊張を上にとる場合と下に持ってきた場合では響きが全然違う(実際に吹いてみる)
  • 息が足りなくなったのならば、無理をしないでブレスしもいい。とにかく、充分に響かせることに注意する。
  • アンブシュアが広くなり過ぎないように、そして喉が締まってしまわないように。
  • いい楽器を使っているのだから、息をもっと使って。
低音は難しい、私のヘナチョコ低音は楽器のせいではなくて、やっぱり奏法の問題であるようだ。 あとはG1から通常の音形で最高音まで吹く。できない指はできるまで練習させられる。例えば最後の行のE-F-G-A-B-A-G-Fというところは、できなければテンポを落とし、隣り合う二音、次に三音を取り出し、リズムと開始音を変えた部分練習を、ひたすらひたすらできるまで。最後に4つの音で仕上げる、できたら少しテンポを上げる・・・うげげのげというくらいのしつこさである。まあ、確かに一時的にではあるができるようになるから恐ろしい。 「自分の音を良く聞いて、良く聞けば滑っているのが分かるので修正できる、出来てないのは聞いてないから!」 確かにそうかもしれない・・・。 いつもこんなに集中して練習してへんで(>o<;; ○ 音の跳躍 さて、ここまでで軽く2時間、注意されることが多い上に音が出ず、へとへとになっていたのだが、先生は、「さて次に何かやっているものは?」と言う。そこで、「音の跳躍のためにEJ12を少し・・・」と答えて吹き始めたのだが、「それをやるよりも・・・」と言って二つのエチュードを紹介してくれた。 ひとつは、M・モイーズの「Gammes et arpeges, 480 exercices《音階と分散和音、480の練習》」と、同じくモイーズの「Etudes et exercices techniques《練習曲と技術練習》」。どちらも有名なエチュードだが私は持っていない。前者は少し難しいのだが「全部やる必要はない、音の跳躍ならばこちらの方を少しづつやったほうが良い」とのこと。 例えば、以下のような音形。 先ほどの息の使い方の練習にもなる。低音ではお腹の下のほうで支える、中音に移るときに支えは少し上に、最高音の時に更に上方へ。上昇するときは「緊張」を、下降するときは「緩和」を。うーん、これは難しそう・・・。 どの練習でも、ソノリテでやった響きを忘れないこと。 ○ タンギングの練習 まだ続く。「タンギングも少し練習した方がいいね」とのこと。練習は例えばT&GのEJ4のB-durを用いてゆっくりから始める。
  • まずはシングルタンギング「ディ・ディ・・・」とやって、舌の位置を覚える。
  • ゆっくりのテンポのまま、ダブルタンギングをする。その場合「ディ・ギ・ディ・ギ・・・」と」逆の「ギ・ディ・ギ・ディ・・・」の両方をやる。舌の位置をしっかりと覚えこませる。
  • 一つ一つの音は短くしないで充分にテンポ内で伸ばす。シングルタンギングでもできるスピードなので、音を短くしては意味がない。テンポが速くなれば自然と音は短くなる。
  • むかしは「Tu・Ku・Tu・Ku」などと教えていたが、「ディ・ギ」の方が舌つきのイメージが柔らかいようである。
  • 「Ku・Ku・・・」だけを練習することを薦めている人もいるが、ジェフリー・ギルバートは否定的である、私も同様にそれは薦めない。


以上が今日のレッスンの全容であるが。「響き」と「音のイメージ」の重要性は何度繰り返しても言い足りないほど強調されている。「音をイメージする」ということは、ちっとも具体的でないと感じる方もいるだろう。「明るく」「暗く」ということに対する技術的なサジェスチョンは少ないからだ。しかし、やってみると分かるが「イメージする」だけで音が劇的に変わることがある。考えてみれば音楽というのは感性の産物だ、機械的に音符を並べるだけで音楽が出来上がるわけではない。イメージの重要性については決して過小に考えてはならないと思う。

最後に先生いわく「ゆきひろさん、曲とかやりたいのあったらやっていいですよ」 うげげのげ! 曲を吹くために基礎練習初めて半年、上達しているのかどうなのか全く自分では分からないのだが、曲ねえ・・・この練習に更に曲を加えるというのは至難の技なのであった!>何のために笛吹いてんだよ(^^;;;

今思ったのだが「曲」とは練習曲のことかな、それとも楽曲かな? バッハの100年くらい早そうだし、かといってモーツアルトも難しいし、テレマンなんてとてもとても・・・、実は伊藤康英の「古典組曲」なんてカッコいいなと思うけど、変拍子と臨時記号の嵐のような曲だし・・・、基礎体力を付ける練習方法は教わったが、肝心の基礎体力はまだまだだと思うのであった。

2002年5月6日月曜日

【本棚】宮部みゆき:パーフェクト・ブルー


「パーフェクト・ブルー」は、宮部みゆきのデビュー長編小説だ。ミステリは嫌いではないのだが宮部の作品を読むのは初めて。「模倣犯」から読んでもよかったのだが、長いのでこちらを選んだ。

初めて読む作家でも、読んでいる最中から引き込まれる場合と、今一つピンとこない場合があるが、この作品に関しての感想は後者のもの。ストーリーそのものは悪くないし、裏の社会的なテーマ(?)も、実際にありがちな話であり鋭くよく考えられている。(ミステリなので詳細を述べるのは避ける)

主人公のひとり進也少年は、大友克彦の名作「アキラ」のひたすら元気でくたばらない、金田少年とだぶるキャラクターだと感じ入ったり、するってーと加代ちゃんはケイに当たるし、おお、進也が出入りする「ラ・シーナ」は「青木屋」か、などと勝手にイメージさせて読んだりしたのだが、それでもいけない。

犬のマサが一人称で語るというスタイルに乗れないというのでもない。犯人が最初に分かってしまったからというのでもない(だって最後までその動機については明確にできなかったし)。

作品の持つ迫力と緊張感が乏しいところが、私にとってマイナスなのだ。描写が甘いとか言うのではなく、作品の持つ雰囲気に乗れないのだ。彼女の小説は、この作品を読む限りにおいては、解説に鮎川哲也が書いていることがぴったりと当てはまる、そのまま引用してみよう。

「ミステリの多くは陰惨な殺人事件を描くものなのだから、読了した読者までが救いのない暗い気分になるようではいけない、と私(鮎川)は考えているのだが、宮部さんの描くものは軽快な筆さばきに加えて内容が明るい、これは作者の生来の気質からくるようで」

鮎川の前半の考えに同意するかは別として、独特の明るさとTVのホームドラマのような雰囲気、あるいは、火曜サスペンス劇場そのままのようなテイスト、これに乗れない。まあ、救いのないミステリを読みすぎて健全なる精神を損なってしまっているんだろうかと反省しないでもないが。あ、宮部ファンの方、ごめんなさいね、今度は「模倣犯」読みます。

2002年5月5日日曜日

Kitara子どもの日コンサート

日時:2002年5月5日 14:00~
場所:札幌コンサートホール Kitara
指揮:現田茂夫  管弦楽:札幌交響楽団
ソプラノ:足立さつき  オルガン:ファン・マリア・べドレロ  フルート:森圭吾
司会:うじきつよし

ビゼー:歌劇「カルメン」より前奏曲
モーツアルト:歌劇「フィガロの結婚」より”恋とはどんなものかしら”
プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より”愛しい父よ”
マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
チャイコフスキー:歌劇「エフゲーニ・オネーギン」より”ポロネーズ”
フレディリック・ロウ:ミュージカル「マイ・フェア・レディ」より”踊りあかそう”
休憩
J.S.バッハ:管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV1067
プーランク:オルガン、弦楽器とティンパニのための協奏曲

音楽雑記帳にもこのコンサートのことを書いたが、ここでは後半の2曲について感想を述べておきたい。私の座った席は1階11列40番である。
バッハの管弦楽組曲 第2番はフルートの活躍する曲で、第5曲のポロネーズ、第7曲のバディネリが特に有名である。編成は室内楽に近いような小規模の弦楽器とチェンバロに独奏フルートを加えたもの。曲はロ短調という悲劇的な調性を表してか、悲愴な雰囲気を帯びて開始されるが、ロンド、サラバンドと続くにつれ、フルートの独奏色も表に出てきて華麗な舞曲を形作っている。フルート独奏はもちろん札響の顔とも言える首席奏者の森圭吾さんである。

曲の聴きどころはフルートと弦楽とチェンバロの掛け合いにある。森さんのフルートは今年になって何度か聴いてきた(1月6日ニューイヤーコンサート、3月16日キクヤミニコンサート)。今日は改めて森さんの音に耳を傾けたが、だんだんと彼の音に関するイメージというものが私の中で固まってた気がする。森さんが信条とするところは暖かにして柔らかな音色ということなのだろうか。森さん自身が「春の陽だまりの中のような」と言う雰囲気にまさにぴったりな音色を届けてくれた。ポロネーズにおけるテクニックの流麗さも際立ち、札響のオケやチェンバロとの音色のとけぐあいも良い。フルートが全般にわたって強く主張しすぎず、オケと絶妙なるバランスの上に気品を保っている。日光によって温まった藁のような香りがほのかに漂うかのような、そんな演奏だった(決して「田舎くさい」という意味で使っているのではありませんよ)

あと一つ付け加えておくと、この演奏に指揮者は立たなかった、というか森さんが自身で吹き振りを行ったのだ。森さんは最近指揮の勉強を本格的に始めているらしい。こんなところにも、彼の意欲と試みが現れているのかと思わせられた。

少し残念なところもないわけではない。森さんが独奏フルートとしてオケの中央に立っての演奏である、今年のニューイヤーでのカデンツァを思い出すたびに、更に彼らしい(?)バッハが聴けるのではと期待したのだが、今回は正攻法バッハというところか。どうも私は森さんに「押しの強い演奏」を期待する傾向にあるようだ(笑)。実際には、森さんは演奏の中でイロイロやっていたのかも知れないが、残念ながら私にはそれを聴き取るほどの音楽的素養が備わっていないようだ。音量の点では、チェンバロとフルートだけに限って言えば、あとほんの少しだけ大きな音で掛け合いを聴かせてくれても良いと思った。もっともフルートで大音量を出すことは、一方で微妙な響きやニュアンスを消すことにもつながる、バランスは演奏者にとって難しい問題かもしれない。

こうして聴かせて貰って思ったことがある。普段のオケのメンバーと室内楽を組むという活動が、音楽家にとってどのような意味を持つのかは計り知ることができないが、例えばパユとベルリン・バロック・ゾリスデンの関係のように、もっと活動するような場がもっとあっても良いのではないかということだ。室内楽というのは残酷な編成である。音楽が精緻で繊細であるだけに、音楽の構造やアンサンブルの密度が聴き手にダイレクトに伝わってくる。ほんの少しの出だしの呼吸の乱れ、弦のボウイングひとつさえアンサンブルの質に影響してくる。演奏終了後、弦楽器メンバーが足を踏み鳴らし森さんを称えている姿を見るにつけ、今回の演奏に対する彼らのスタンスの一端を知る思いだ。しかし聴き手としては室内楽的な完成度という意味においてもう一つ踏み込んだものが欲しいと感じたのは、これも欲張りな期待だろうか。(まあまあ、子どもの日コンサートなんだから・・・)

プーランクのオルガン、弦楽とティンパニによる協奏曲を聴くのは、今回が始めて。プーランクは数年前に生誕100年を迎え、色々なディスクが出回っていたが、聴かずに過ごしてしまった。

初めて聴く曲というのは、どこで盛り上がるのか全く分からないし、音楽の構成などもつかんでいないため、得てしてピンと来ないものだ。この曲は、出だしのオルガンの強奏が決定的な響きとして音楽を支配しているように思えた、不協和に近いオルガンの音は圧倒的で強い印象を残す。管楽器や木管楽器が使われておらず、その全てをオルガンが替りに奏するというものらしい。随所に木管的な響きや金管的な音色を聴くことができ、オルガンの多彩な音色に感心しながら、森の中で宝捜しをしているかのようだ。

オルガンの音量と弦楽器のみの透明感のある音色の対比が見事であり素晴らしい。オルガンとティンパニの掛け合いというのも初めて聴かせていただいた、フムフム・・・。こうして聴くと、札響の弦セクションというのは本当に綺麗な音を出す、ティンパニの響きもよい。現代音楽というほどには難解ではなく、19世紀までの音楽とは全く違った音色を聴くことができ、そういう意味からも楽しめるものであった。

なおこの演奏は、6月23日(日)NHK-BS2で放映されます。

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(雑記)
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子どもの日コンサートに家族で行ってきた、曲目は上記のとおり。うじきつよしが司会をつとめるというので、オーケストラや管弦楽の魅力を紹介する企画なのかと思っていたのだが、肩すかしを受けたような印象だ。事前にろくにプログラムの内容も確認していなかったということもあるのだが、コンサートの対象者と、狙いが伝わりにくい企画であると個人的には感じた。

前半は、足立さつきを中心に据えたオペラのさわりを聴かせるプログラムだ。音楽や構成の仕方そのものは悪くない、知名度の高いものや親しみやすいフレーズのものを選んでいることもあり、楽しめるものだった。指揮者の現田茂夫はかの佐藤しのぶのハズバンドである、どうりでオペラものにこだわるわけである。しかしここで司会のうじきは、道化のような格好で笑いをとるような役割を演じさせられている。登場の仕方からして少し浮いていた。来場者の年齢はうじきのキャラクターが期待するほど低学年ではなかったのではないだろうか。

後半は、音楽と対象年齢を上げた演出ということなのだろう、うじきは道化役を止め普通の司会に転じていた。そこで演奏された2曲がバッハとプーランクである。これにも「うーん」と唸ってしまった。子どもの日コンサートである、子どもたちに「オーケストラの音って凄いなあ、綺麗だなあ、迫力あるなあ、面白いものだなあ」と思わせることが目的だとすると、この2曲が適切であったかは(企画者の意図は理解するものの)今でも疑問である。

編成を考えても、全曲を通してフルオーケストラで演奏しているものが、ビゼーくらいというのも淋しい。バッハは室内楽に近い編成だし、プーランクは弦楽器と打楽器とオルガンという編成なのだ。オケといえばドイツものを、しかもベートーベンやブラームス、あるいはブルマラタコ系をやらなくてはならないというわけでもないというのは分かるのだけどね。オルガンとオケの混成ならば、サン=サーンスの交響曲第3番のMaestosoだけやったって良いと思う、ピアノだって加わるし。

この企画今年が初めてではなく、主催者もマンネリズムに陥らないようにプログラムを考えているのだと思う。毎年楽しみにこのコンサートに来る人もいるのだろう。でも、こういうコンサートはマンネリズムで数年毎に同じ企画であってもいいと思う。

実のところ、家族でいきなり聴きに行って楽しめるオーケストラのコンサートというものは少ない。それだけに、この種の企画というのは、もっと分かりやすく楽しいものであって良いと思った次第である。司会者が道化のようにおどけて笑わすことが「面白く楽しい」わけではない。主役のオケが本来の実力で「面白い」と思わせることこそ重要なのだと思う。演奏会に行かれた方は、どのように感じただろうか。私の息子がもっと小さかったら、全然違う感想を持ったかも知れないが。

とここまで書いてから、肝心のうちの息子(中1)に感想を求めたところ、な・なんと(@_@)「プーランクが一番良かった」そうである!!(書く前に聞けよてか?) うーーん、結局親の思惑とは関係なく、結果的には良い企画であったということなのだろうか(^^;;; 企画された方、演奏された方、そして、うじきさん、ご苦労様でした、勝手なことばかり書いて済みませんm(_ _)m

2002年5月3日金曜日

小泉政権の1年を振り返る

小泉政権が誕生してからほぼ1年が経った。新聞マスコミでは政権の評価や世論調査の記事が載せられていた。現在の支持率は40%を上回るもので依然として従来の政権よりは高支持率であるものの、発足当初から見れば激減しているということになる。

私の小泉政権に対する評価は複雑である。まず彼の靖国神社参拝に代表される歴史認識の甘さには全く賛同できない。有事関連法案と個人情報保護法案(作家城山三郎は「治安維持法より悪い」と言い切る)を提出したことにも危機感を感じる。米国テロの時の自衛隊なし崩し派遣を含め、彼がどこまで有事法案に本気なのかが見えない点ももどかしい。彼の論は分かりやすいぶん単純で深みがない、従って、これら外交を含めて小泉内閣へは評価できないどころか、歴史的に汚名さえ残す政権になるのではないかと危惧する。

一方で、彼の掲げるスローガンの構造改革と景気回復についてはどうだろうか。倒産も相次ぎ失業率も上がった。これが「痛み」であり、構造改革の現れだとするならば、ひとつの「変化」ではある。また彼が意図したかどうかは別として、与党、野党の対立の構図というものも、小泉内閣にて完全に崩壊したように思える。引き続いて露呈した鈴木・加藤・辻本・井上議員などの離党、離職は、政党政治そのもののメルトダウンさえ予感させるものだ。彼の「自民党を壊す」ということが図らずも実現しつつあるのかと皮相的な見方さえできる。少なくともYKKは完全に崩壊したわけだ。

彼が昔から変わらず主張していた郵政民営化は、クロネコに10万本のポストを要求した郵政議員により事実上先送りされた(葬り去られた)。特殊法人改革も形だけで実際は変わってはいない。道路公団の件もしかり、医療費の個人負担増も根拠が不明確なまま先送りされた。景気回復のための構造改革では企業倒産が相い次いだが、流通大手のマイカルは潰すがダイエーは政治的配慮から存続を決断、残る不良債権のカタマリであるゼネコンは中堅の数社が倒産したのみ、3月危機がなかったかのような振る舞いだ。

こうしてみると、彼を評価できる点は少ないことに気付く。もっともこれがたった1年の間にあった事柄なのかと考えると改めて驚くが。彼が政権になってから、良くも悪くも政治への感心は高まった。逆にそれが不信と期待はずれに終わったとしてもだ。

評価点が少ない(どころか危ない面も多い)のだが、それでもまだ私は小泉政権が存続することを期待している。小泉首相の力量や政策に同意しているのではない。何か今までの体制が流動的に崩壊しはじめており、小泉というトリガーがそれを加速させているように思えるからなのだ。彼の政権下にある限り、まだ何かもう少し起こりそうな予感がする。それを見極めたいという気がしている。まあ、捨て鉢なようだが「ダメになるところまでダメになってしまえ」という心境だ。ここまで来たら一度ウミは出し切らなくてはダメである。


2002年5月2日木曜日

ゼネコンの再編について(2)

4月29日朝日新聞に「実るかゼネコンの再編策」という記事が掲載されていた。内容は、国土交通省がゼネコンの再編促進策を打ち出しているとの内容なのだが、業界の再編策については疑問を感じている。

昨年末から青木建設、佐藤工業など倒産、三井建設と住友建設の経営統合など、遂に動きが見え始めたかという印象を受けたが、実際にはまだ多くの問題企業が存在しいる。それどころか、業界の持つ体質など構造的な改革に至っては何一つ解決されていない。巷では「3月危機」と騒がれながらも、問題は全て先送りされたというところだろうか。

「談合体質」や、自民党の鈴木、加藤、井上議員の例を持ち出すまでもなく、古くから建設業と政治の癒着や談合体質という問題も根深い。このような風土はスーパーゼネコンだろうが、地元ゼネコンだろうが温度差こそあれ同じ土俵だ。いつまでも変わらない土建国家の古きDNAだけが受け継がれてゆく。

公共工事の受注に関しては、経常JVの導入や、銀行の履行保証割合の引上げ、更には入札ボンド(保証)制度の導入の検討も開始している。後者の対策は金融機関にリスク負担させゼネコンを選別させ業界を淘汰させようという意図が見えいささか他力本願的である。

しかし、一番の問題は業界自体が、自らを改革して生き残っていこうという気力に欠けていることのように思える。会社のメッセージでは「市場縮小の中で新たなビジネスモデルを構築し、本業で収益を確保すること」といううたい文句がのぼっているようだが、業界全体にわたる視点に乏しいのではなかろうか。まだまだ、業界の改革は始まったばかり、いやもしかしたら、まだ始まってさえいないのかもしれない。


  • 建設投資額と建設業者の数:建設投資額は1996年の役83兆円(うち政府投資額35兆円程度)をピークに2002年には56兆円(政府投資額26兆円程度)にまで縮小してきている。この数字はバブル以前の投資額にまで落ち込んだことを意味している。それに対し、建設業許可業者数は2000年の60万件をピークに、減ってきているとは言っても約57万件である。バブル期の1990年において登録業者数が51万件であったことを考えても、まだまだ業者数からして多い。この57万社の中に、年間売上高が1兆5千億円近いスーパーゼネコンから、1億円以下の会社まで含まれる。
  • 履行保証割合の引上げ:公共工事を受注した企業が、工事途中で倒産することに備えて金融機関に保証させる制度。保証額の割合を昨年度から3倍に引上げた。金融機関は保証額の一定割合を引当金として積まなければならないため、保証に慎重となることを狙ったもの。
  • 入札ボンド制度:公共工事に参入するゼネコン(総合建設会社)に対し、経営状態や施工能力について第三者からの保証を義務付ける制度。入札ボンドは米国などで、落札企業の辞退や倒産のリスクを避ける手段として導入されている。保証が得られないゼネコンを入札に参加させないことで、業界の再編・淘汰を進めるのが狙い。


2002年5月1日水曜日

 東京・国立マンション紛争から景観論を考える

2月14日に国立市のマンション紛争について書いた。朝日新聞を読んでいたら、この問題が清水書院の「新中学校公民」で憲法と絡めて教材として扱われていることを知った。教科書を読んだわけではないが、「街の住みやすさや美しさ」「環境権」「眺望権」ということで人権を主張する住民運動の例として扱っているらしい。

そういう扱いをすれば、確かに「人権」と「地域のエゴ」という観点での論争になってしまうだろう。しかし、論争になることそのものが不毛なことのように思えてならない。

日本という国は、以前も書いたが都市景観や都市環境への認識が希薄であるように思う。それは、極論するならば西欧と日本の建物のありかたの違いに行き着くとするのが一般的な認識だろう。つまり西欧は石でできた堅固な建物で、地震や火災被害が少なく歴史的な延長上に現在がある。一方で日本の建築は木と紙でできており、地震や火災、西欧文化の流入と更には戦災にて過去と現在が連続していない。スクラップアンドビルドを原則とするような再開発により、更にその不連続は加速されている、というものだ。

いささか乱暴なまとめ方ではあると思うが、一面はうまく捉えているのだと思う。しかし、都市環境は、そこに住む人たちの内面世界の表れでもあると思うのだ。都市の外郭が人を決定付けるのか、人のありようが都市を形成に影響するのか、どちらが先かを考えるより相互に作用しあっていると考えたほうが自然だと思う。

現在の我々が住む都市を、過去の連続性の上に築き上げようとする考えがあるならば、地域との調和と周辺環境に配慮した上で、新たな都市像を模索する計画となるであろう。現在の都市再開発には、地域の歴史的背景やコンテキストを取り込んだものは少ない。ある地域に突然、振って沸いたような(藪から棒のような)計画が当てはめられる。開発者としては地域環境に配慮したと主張しても、それが外壁のタイルの色だとか、昔の建物の一部を保存するだけというのは淋しい話だ。

一方で、地域の連続性などは不要であると考える方もいるだろう。過去の狭く貧しい環境など忘れて、清潔で綺麗で便利な環境を創造すべきだ、まだまだ日本は西欧に比べたら都市化が遅れているではないか。過去の街並みがいとおしいなどとは懐古主義でしかない、というものだ。これはこれで一理あるわけである。ボロボロの木造住宅の横にドブと傾いた電信柱が続くような環境を積極的に残したいと考える人はむしろ少ないだろう。

都市の連続性ということと、古い時代の都市に住む人たちの人権ということは同列に扱える問題ではないと思う。更にそこに、懐古主義的な感情まで持ち込むことは議論を更に複雑にするように思える。

まず考えるべきは、我々が後世に残したい、残さなくてはならない都市環境とは何なのか、今我々が手にすべき新しい都市環境とは何なのかという視点なのではないだろうか。両者を総合的に比較し、「あるものを失ってまで得るものの(コストを含めた)パフォーマンス」を客観的に評価できる尺度が必要なのではなかろうか。一企業の経済原理だけで都市環境が決定されること、それに対抗する手段が人権とかエゴのような論理しかないということにアンバランスさと不自然さを感じるということなのだ。

このような尺度を考え、総合的な都市像を提示することは、行政と都市エンジニアのみならず、地域内外の多くの人たちが関わって議論すべき問題であろう。

(*)意識的に本文中では「都市環境」という言葉を使っています。いわゆる環境問題の「(自然・地球)環境」とは異なるスコープで使っております。

演奏の質と楽器について

私はアマチュアの笛吹きなので、フルートの演奏者がどのような楽器を使って演奏しているのかを考えることは大変興味深いものです。しかし、個人的にして偏狭な見解かもしれませんが、このごろ思うことがあります。それは私のような素人が、楽器の差異を云々するようなレベルに演奏者はいないのではないか、ということです。

彼らの練習量や、こなしてきた演奏の量と質を考えるに、例えどのような楽器であっても音色表現を変えることは、ごくたやすい事のはずで。その上で、楽器による特性が加味されることは、全体の音楽性の中で数パーセントしか占めないのではないだろうかと思うのです。

プロはその数パーセントにこだわるということなのでしょう。野球選手が自分のバットにこだわるのも、スケート選手が、コンマ数ミリ単位でのエッジを気にかけるのも、ゴルファーがヘッドの数グラムの重みやグリップにこだわるのも、同じ境地なのかなと。

その数パーセントの差異が、結果として劇的な効果をもたらすことも、観衆や聴衆である我々は、もちろんよく知ってはいるのですが、それが結果として道具による違いなのか、意図的なパフォーマンス能力の違いなのか、私には判断がつかなくなってきました。

よくシングルのゴルファーがバックティーからプロとラウンドすることがあります(私のことではありません)。ドライバーも同じくらいの距離が出て、ハーフを同じようなスコアで回ったときに「プロって大した事ないぢゃないか」と思うことがあるらしです。しかし、アマチュアと回るときプロの真剣味は全くないものです。素人の驕りに近いつぶやきがプロの耳に入ってしまい、彼らが本気になってからの強さは、素人の到達できる域ではないそうです。

プロとアマの間には、絶対に埋められないものが横たわっているのではないかと・・・。そういう意味から、プロの演奏のレビュをすることに後ろめたさと疑念を感じることも否めないのでした。



2002年4月28日日曜日

フルートカルテットを聴く

フルートというのは同属楽器だけでカルテットやらオケを組んでしまえるという、幸せにして排他的な(笑)楽器である。フルートカルテットといえば、女性4人組のリンクスがその筋では有名であるが、今日紹介するのは男性ばかりでの演奏。それでも全員が本当のオケ(爆)で活動しているメンバーが集まっての演奏である。

ベルトミュー:猫 ザ・フルート・カルテット
��.ベルトミュー:猫
��.ボザ:4本のフルートのための3つの小品
��.ドビュッシー:小舟にて(小組曲より)
��.サン=サーンス:アダージョ(交響曲第3番より)
��.リムスキー=コルサコフ:若い王子と王女(シェエラザードより)
��.ドヴォルジャーク:アレグレット・グラツィオーソ(交響曲第8番第3楽章)
��.H.グリーグ:前奏曲(組曲「ホルベアの時代から」より)
��.ドヴォルジャーク:スラブ舞曲第1集 No.7
��.ワーグナー:ローエングリン 第三幕への前奏曲
相澤 政宏(東京交響楽団)、大村 知樹(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)
神田 寛明(NHK交響楽団)、柴田 勲 (日本フィルハーモニー交響楽団)
MISTER MUSIC MM-1108

メンバーの名前を見るだけで何と贅沢なカルテットなんだろうと思ってしまう。曲それぞれで受け持つパートも入れ替えての演奏である。例えば一番知名度があるN響の神田さんは、ドヴォルジャークとグリーグでトップを吹いている。

ベルトミュー(1906-91)という作曲家ははじめて聴いた。解説に「フルート・カルテットをたしなむ人にとってはおなじみの名前」なんだとか、非常に洒落た曲である。それにしてもドボルジャークなどの聴き慣れた名曲が、何とチャーミングに変身していることか。スラブ舞曲の柴田さんのピッコロの美しさなど、いやあ惚れ惚れ。

最後はローエングリンだが、「フルート4本でワーグナーをやるか(!)だから、フルート吹きって閉鎖的て言われるんだよな」とか思いつつも、しっかり楽しんでしまっている(^^)

こういう盤につついて、個々の音色の違いや原曲との差異などを述べるような野暮はしない。何も予定のない午後に、珈琲か紅茶でも飲みながらゆるやかに聴きたい。

ここからは、ローカルな話題だが、アーティスト・プロフィールを眺めて、「なになに相澤さんは宮城県、大村さんは北海道出身か、なるほどねえ。あれー?柴田さんがムラマツ(DN)を吹く以外は、他の3人ともパールを吹いているんぢゃない! 何これ、パールが後押ししているの? パールていえば音質的には・・・・なるほどねえ、ほー」とか思いながら聴くのも楽しいものである。


2002年4月27日土曜日

【音盤】「展覧会の絵」を聴く(2)

引き続き「展覧会の絵」を聴いてみた。かのチェリがミュンヘンを振ったEMI盤である。これも有名すぎて聴きのがしていた1枚である。

チェリビダッケ指揮 ミュンヘンフィル
1993年 ミュンヘン、ガスタイクザール ライブ

この有名なる「展覧会の絵」を評することには大きな困難を伴うことをまず述べねばならない。CD解説の中で、チェリビダッケの息子が指摘するように、CDで聴く限り「遅すぎるテンポ設定」と感じてしまうからだ。しかし、ライブを重視し「与えられた会場の音響とそこで生じる副現象をすべて計算していた上で、いつも指揮していた」チェリビダッケにとっては、当然の帰結のテンポであり音楽だったのかもしれない。

1976年の演奏時間の比較を以下に示しておきたい。こういう対比自体が無意味であるとは思うのであるが・・・CDで聴く限りふたつの演奏はもはや別物である。

表 チェリビダッケ ふたつの演奏時間の比較
曲  目 1976 1993
プロムナード 2:10 2:33
グノムス(小人) 3:06 3:30
プロムナード 1:13 1:29
古い城 4:19 5:10
プロムナード 0:40 0:44
テュイルリーの庭 1:09 1:16
ビィドロ 2:39 3:42
プロムナード 1:00 1:09
卵の殻をつけたヒナの踊り 1:12 1:22
サムエル・ゴールデンベルクとシュレイク 2:42 3:01
リモージュの市場 1:22 1:36
カタコンブ 2:14 2:33
死者との対話 2:22 2:56
パパヤガーの小屋 3:42 4:22
キエフの大門 6:06 6:52

2002年4月26日金曜日

【音盤】チェリビダッケ指揮/ミュンヘン・フィル 「展覧会の絵」



ムソルグスキー組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
録音:1993年9月24,25日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
ムソルグスキー ボレロ
録音:1994年6月18日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
演奏:ミュンヘン・フィル
EMI TOCE-11608


音楽雑記帳に1976年のシュツットガルト放送響との演奏時間の比較を記載した。これを見ても分かるように尋常なるテンポ設定ではない、ここまで遅いとは思ってもいなかったというのが正直な感想だ。しかし、雑記帳にも書いたように、録音された演奏を聴くだけで、遅いだの速いだのと評することに意味があるのかは疑問である。チェリビダッケの演奏は、そのEMIからリリースされたいきさつからして、演奏評を拒絶しているところがある。そういう意味からはCDの感想を書くことには困難がつきまとうと感じざるを得ない。

しかし、考えてみれば私はクラシック初級者で一ファンでしかないので、まあそういうことを気にかける必要もないだろう。

さてだ。プロムナードの開始最初からして遅い出だしである。他の部分も全てが遅い。まるでオケが練習でもしているのではないかと思わせるほどのテンポだ。

しかし、その遅さゆえに、例えばトランペットの柔らかい響きはやゆっくりとしたリズムは、諭すようだったり、回顧するようだったりで、限りなく慈しみと優しさが根底に流れるかのようである。遅さが逆に音楽の構成や意味を見事に聴かせてくれるかのようだ。「死者との対話」がこんなにも美しい音楽であったか、しかも極めてムソルグスキー的なサウンドであることは、この演奏で再発見させてくれた。

「バーバヤガー」も「キエフの大門」も、止まるのではないかと思うほどだ。もはや今まで聴いたことがない音楽が展開されている。しかし最後まで聴き通したとき、言い知れぬ感動に包まれていることに気づかされる。なにか大きなものに懐かれるかのようなあたたかさと、安心感、そして宗教的な境地にも似た至福さえ覚える。

それにしても、遅いテンポが、音楽の構成をこんなにも残酷なまでに露わにしてしまうものなのだろうかと、驚きを感じてしまう。ここに納められている15の断片のどれもが、顕微鏡的な精度で眼前にその細部を表した上で、マクロな調和と統一の結晶を見せている。CD解説の中で、許光俊があらゆるリズムや音型が目の前で生々しい形をもって誕生し、全体を構成していくという壮大な演奏を実現したと書いているが、これには全面的に同意する。まさに私が感じた感覚もそういうものであった。細部の拡大と再構築された全体像のすばらしさは、言葉にできないほどだ。

私はチェリのこの作品を何度も聴き返すことは止めにした。チェリのEMI録音がどのような経緯で発売されたかは、皆さんはご存じだろう。チェリの息子の言葉をいまは尊重しておきたいと思うからだ。

聴き手は、録音を繰り返し再生すればするほど、自発的に演奏というイヴェントを共同体験する意欲を失います(セルジュ・イオアン・チェリビダッケ)

そうとばかり言えない面もあるとは思うが、とにかく今はその意見に賛同する。

ゼネコンの再編について

4月29日朝日新聞に「実るかゼネコンの再編策」という記事が掲載されていた。

内容は、国土交通省がゼネコンの再編促進策を打ち出しているとの内容なのだが、実際に業界にいて再編策については疑問を感じている。

2002年4月24日水曜日

フェルマータコンサート 山崎 衆&武川 奈穂子

日時:2002年4月22日(月)19時00~21時00時
場所:カフェ フェルマータ(札幌芸術の森 入口前 011-592-9131)
演奏:山崎 衆(フルート)*1)、武川 奈穂子*2)

J.S.バッハ: ソナタ 変ホ長調
ヘンデル: ラルゴ
ドニゼッティ: ソナタ ト長調
ドビュッシー: シリンクス(フルート独奏
フォーレ: シシリエンヌ
フォーレ: コンクール用小品
シュテックメスト: 「歌の翼」による幻想曲
休憩
イベール: 間奏曲
アッセルマン: 泉(ハープ独奏)
ニールセン: The Fog is Lifting
ドップラー=ザマーラ: カジルダ幻想曲
ドップラー: 愛のうた
アンコール
山田耕作: この道
ドップラー: 森の小鳥

山崎衆さんと武川奈穂子さんのデュオコンサートが、札幌芸術の森のすぐ目の前の喫茶店で催された。2階も含めて40人も入ると満席になってしまうような開場であったが、演奏は行く前に考えていた以上のものであった。演奏会が終わった後に誰かと話したくなる演奏と、ひとり静かに演奏を反芻してい演奏とがあるが、今日の演奏は後者のもので、久々に充実したひとときを過ごすことができた。演奏者には感謝の意を称したい。

山崎さんの演奏を聴くのは三度目、武川さんは始めてである。曲目は上記のようであったが、客層(高齢の女性が多い)に合わせてか、親しみやすい曲目が並ぶ。しかし量的には休憩をはさんで2時間、ものすごい密度の演奏ではあった。

山崎さんはご存知の方も多いだろうが、フランスのルイ・ロットという19世紀後半から20世紀前半にかけて製作されたフルート(木管、銀管)を吹く。ルイ・ロットに関する造詣においても日本で屈指の方ではないかと思う。ロットの銀管は現在のモダンフルートと見た目は変わるところがないのだが、音色においては現代のフルートとは少し性格を異にしている。オケの中で音量を確保するために改造されたモダンフルートと木管の響きの間に位置すると言うのは、素人の乱暴な説明だとは思うものの、まあそういう感じである。彼はロットの音色に関しては非常にこだわりを持っていると聞く。

武川さんは、今日始めて聴かせていただいた。楽器は札響のハープを借りての演奏である。彼女は「(ハーピストは楽器の移動が大変なので、私は山崎さんのように)楽器そのもに関しては詳しくはない、むしろどんな音楽を奏でるかの方に興味がある」と話していた。

さて、そういう二人での演奏はバッハのソナタから開始された。ここで山崎さんは木管(初代ルイ・ロット 1871年製作 円錐管)を用いて演奏した。山崎さんの言を借りるならば、「バッハなどの演奏は、本来はトラベルソを使いたいところだが、(1キーシステムであり)指使いが難しい。しかし金属で吹くよりはベーム式(モダンフルートと同じキーシステムの楽器)の木管で吹くことを好む」とのこと。最近では、日本の工藤さんや細川さんを筆頭に木管フルートがブームではあるが。

このバッハは、いい表現ではないと思うが「枯れた風情のバッハ」であった。木管だけあって、きらびやかさよりも明るさとぬくもりのある音ではあるが、さらにそこに独特の音がかぶさる。低音で幾分くぐもったように、中音も独特の音に聴こえるが、それは会場のせいだけではないかもしれない。しかし、その暖かみのある音色は独特であり、その音に慣れてくると、緩やかな音楽の流れに身を任せることが、この上なく心地よいもとなる。ヘンデルのラルゴも、非常にポピュラーな曲、「ウィスキーのCFでキャスリン・バトルが歌っていた曲です」と解説をして始めたが、これもゆったりとした中に、大きな流れを感じさせるような悠久の時間が流れてゆく。一方で、この音色と対比した場合、バランス的にハープの伴奏は少し金属的に響きすぎると感じた。

ドビュッシーのシリンクスは、同じ木管でも円筒管に持ち替えての演奏である。こちらもロットであるが、1900年初頭の楽器であり、先の木管よりも響きが大きくなっているのを聴くことができた。先の円錐管では音量やパワーの点で、多少物足りなさを感じるが、こちらはシリンクスには十分なものである。フルート関係者にポピュラーなこの曲は1912年の作、ドビュッシーの頃は銀管も製作されてはいたが、木管フルートもずいぶん製作されていたとのこと。木管でシリンクスか、と少し意外な思いにとらわれていたのだが、奏でられた音楽には少なからぬ驚きを覚えた。最初の一音からして何かが違うのだ。木管の抑制された音色が、逆にシリンクスの焦がれる気持ちやら悲しさを如実に伝えるかのようで、全身に鳥肌が立つような音楽であった。

ここで、以前にパユの演奏するシリンクスを聴いたことを思い出した。あの時は、パユの硬質の音がサントリーの隅々まで浸透し、水を打ったような冷ややかにして透明な世界が現出して驚いたものだ。今回の演奏は雰囲気が全く違う、パユは全面に感情を歌い上げているのに対し、山崎さんは草葉の陰から想いを寄せるような雰囲気なのだ。これはこれで強烈なシリンクスだ。全く見当はずれな解釈かもしれないが、そういうふうに聴こえた(演奏を受け手がどう勘違いしようと自由なのだ、ワハハ参ったか)

今日は長いな、少し休憩しようか・・・・(^^;;;

さて、演奏の方も休憩をはさみ、次には銀管に持ち替えての演奏となった。銀管とは言ってもやはりこちらもルイ・ロット(初代 No.1850 1873年製)の楽器である。

最初に奏でられた曲はイベールの間奏曲。アレグロの強い音から開始されるのであるが、今までの木管の柔らかな響きとは性格を異にした音色表現で、激しさとスピード感あふれる演奏であった。その音楽表現の差の演出は憎いばかりで、颯爽と吹きぬける風のような演奏であった。ここに至ってはハープとの相性も良い、武川さんの演奏は粒立ち、すばらしくスリリングなデュオであった。出だしの部分の中高音域の音はまだ耳について離れない。

しかし、ここでもなのだ、イベールを吹いてもと言うべきか、山崎さんの奏でるロットは、強く押し付けがましくはない。変な言い方をさせてもらえば、高音域であっても聴いていて疲れないのだ。それは、包まれるかのような音色だったり、漂よう羽衣のようだったり、天から降り注ぐ柔らかな光のようだったり、何と表現したら良いのか適切な言葉が浮かばない、とにかく心地良いのだ。誤解されると困るが、そのように感じることの裏返しとして、表現としての幅が狭いとかいとか、パワー(音量)が足りないとか、芯が細いと言うことなのではない。

ルイ・ロットは現代の「大きな音」の出る楽器と比べると、絶対的なパワー(音量)はないのかもしれないが、「音」にそういう「パワー」が必要なんだろうかと思ってしまう。彼の奏でる音楽は、聴衆を捕らえてはなさない魅力を持ったもので、そこからは「音楽のもつパワー」というものが伝わってくる。その上で、その心地よさに浸ることで、いつまで聴いていても良いと思ってしまう、これを音楽の至福と言わずして何と言おうか。

「音」あるいは「音色」と「音楽」というものを微妙に混同しながら書いているきらいもあるが、雰囲気は分かっていただけるだろうか・・・

ここまで聴いていて気づいたことがある。山崎さんの音楽表現と音に関してなのだ。彼はどちらかというと、音楽の中に自分の主張を込めまくるというタイプではなさそうだ。出きるだけ音楽に忠実に演奏するということに神経を使っているように思える。ビブラートなどが抑制された音色やアクのない音楽の作り方にもそう言うものを感じる。とは言っても一辺倒な音楽であったり、W.ベネットのような端正が前面の音楽でもない。例えば(木管であっても銀管であっても)高音からトリルや速いパッセージで下降してくる音形の品のある表現など、全く持って惚れ惚れする。彼がオケの中でピッコロなどを吹くことが楽しいと感じているようなスタンスと、通じるものがあるのかもしれない(違っていたらメンゴ!!)

私がフルート吹きなので、フルートのことばかり書いて恐縮である。実は曲目も多すぎて、個々の演奏に付いてはさすがに覚えきれていない。またちょっと休もうか。

ハープの武川さんの演奏は聴くのが始めてだし、ハープの生演奏といえば吉野直子さんを二度ほど聴いたことがあるばかりなので、詳しいことはわからない。ただ、ハーピストは舞ちゃんもそうだが、みな美人であるなあと感心。

ヲヤジセクハラ発言はさておき、ハープというのは優雅で華麗というイメージがあるが、彼女の演奏は、粒がしっかりしていて力強い印象。表現の嫌味さが少なく、かっちりとした構成美とともに音楽を作ってくれるように感じた。ソロで演奏された「泉」も、ハープとしては有名な曲であるが、これまたとてつもなく素晴らしいものであった。

という具合に、二時間の演奏はあっという間に過ぎ去ったのであった。アンコールを含めて13曲、それぞれが小品であるとはいえ、非常に盛りだくさんな演奏会で、終わった後は「おなかいっぱい」という感じ。そして改めて、感動をかみしめるのであった(反芻動物かえ?)

アップする前に慎重に読み返してみたが、ちょっと思い入れの強いレビュになってしまっていることは自分でも認める。演奏会の雰囲気が覚めないうちに書いているので、まあご容赦願いたい。

ふーーーーっ、レビュ書くの疲れた、もうよろしいでしょうか。聴かれなかった方や山崎さんを知る方、雰囲気が分かったでしょうか(^^;;
一部の「関係者」の方におかれましては「何書いているんだか・・・まった分かってねーな」と思うことがあったら教えてください。

山崎 衆(フルーティスト)
東京藝術大学音楽学部器楽科卒業 その後ドイツ留学 札響在籍

武川 奈穂子(ハーピスト)
桐朋学園大卒業 パリ国立高等音楽院にてパープ専攻。ISSEKIミュージックスクールハープ教室主催

2002年4月22日月曜日

【音盤】カラヤン指揮/ベルリンフィル ショスタコービッチ交響曲第10番(モスクワライブ)


カラヤン モスクワライブ
J・S・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
録音:1969年5月29日

指揮:カラヤン
演奏:ベルリンフィル
露ARS NOVA ARS 008


以前掲示板で話題にしたカラヤンのショスタコービッチ交響曲第10番 モスクワライブを聴いた(通称カラタコモス)。

ショスタコービッチ(以下ショスタコ)の作品について書くことは難しい。どうしてもその歴史的背景などに言及せざるを得ない気にさせられるからだ。しかし、ショスタコの全ての作品をスターリンや戦争と結びつけたり、「証言」を参照したりすることが、作品を鑑賞する上で幸福なことなのかは疑問がある。作品が作られてから50年の歳月が経っている、作品背景の束縛がいつまで有効なのかを考えることは難しい判断かも知れない。

それで、このカラヤンの演奏だ。カラヤンはショスタコに関しては10番だけ録音しおり、この盤も入れると4つの録音を耳にすることができる。81年のBPOとの演奏がタコ10の演奏として名高いことはファンとしては周知のことだろう。最も現時点で私は81年盤は未聴であるし、また作品背景についてもCDライナー以上の知識があるわけではないので、ここは素直にCDを聴いた印象だけを記しておきたい。

この演奏は、カラヤンがモスクワに乗り込み、会場にいるショスタコービッチの前で演奏したもので、終了後ショスタコービッチが感動のあまり舞台に上がったという有名な演奏である(カラヤンとショスタコが一緒に写っている写真もある)。今回のCDはLPからの復刻盤であるらしくLPのノイズも聴き取れるが音質は非常に良好。

カラヤンの他の演奏と比べ、このモスクワライブがどういう演奏であるかを論ずることもできないが、はっきり言って私はたまげた。カラヤン壮年期の演奏であるが、流麗とか華麗とかいうものでは全くなく、非常にアグレッシブにして戦闘的な演奏が展開されている。作曲者自らの前で演奏するという気負いもあるのだろうか、また東側諸国というアウェーでの演奏と言う意味もあるのだろうか、とにかく攻めに攻めている。その演奏からは、恐怖感さえ感じるほどだ。(2楽章を何度も聴いていたら、家人が何事かと部屋に飛び込んできたよ)

演奏を聴いて印象に残るのは、これでもかというぐらいに重い低弦の響きだ。LPからの復刻ということもあるのだろうか、多少もこもことくぐもった音であるのは残念だが、低い重心から奏でられる弦の響きは圧巻である。そして、もうひとつは打楽器、とくにスネアドラムの機関銃掃射のような硬質にして破壊的な響きである。実際の演奏でこんなにもスネアが響くだろうかと疑問を感じないわけではないが、このスネアの響きが演奏そのものの方向性を強く決定付けていることに異論はなかろう。それ以外の打楽器でも、特徴的なフレーズを与えられている木管群(オーボエ、クラリネット、フルート、そしてピッコロ)もすごい。強烈なトランペットの響きと共に炸裂するシンバルの音などは、破壊的でさえあり、何か鬼気迫るものを感じる演奏である。低弦とスネアに支配された音楽は、アダージョだろうとアレグロだろうと、一部の隙もなく怒涛のごとく進む。

タコ10と言えば、暗い出だしと短いアレグロの2楽章、そして少し冗長な3楽章と混沌とした4楽章という感じで、決して親しみ、理解しやすい音楽ではない。圧迫や慟哭、葛藤や闘争、諧謔やユーモア、そしてカタルシス、非常に多くの複雑な心情がこめられた曲で、一筋縄でゆくものではない。「今日はちょっとブルーだからタコ10でも聴くかな」なんていう気分で聴ける曲ではない。クラシック初心者に「これ聴いてみたら」と薦められる曲でもない。はっきり言って、レビュを書くためにこの曲を聴きつづけるのはしんどいものである。しかし、一度は聴くべき衝撃の音楽であることは認めざるを得ない。

ショスタコも恐るべしだが、それ以上にカラヤン恐るべしである。カラヤンがここに示されたような危険なアグレッシブさを発揮できるとは考えてもいなかった。

2002年4月20日土曜日

【音盤】「展覧会の絵」を聴く

ゲルギエフの展覧会の絵を聴いたついでに、家にある他の盤を2枚ほど聴いてみた。2枚しかないのでは聴き比べも何もあったものではないとは思うが。いまさら展覧会でも・・・という気持ちもあり、盤は増えないのである。

カラヤン指揮 ベルリンフィル
イエスキリスト教会 1965年

私が初めて展覧会を聴いたのは、このLPだ。高校生の時に購入したのだと思う。カラヤンというカリスマと、曲のもつおもしろさ、ソロイスティックなフレーズに魅了され、何度針を落として親しんだことか。グラモフォンの両開きジャケットは高校生には高嶺の花で、買ったときはジャケットの分厚さと解説の量に、感動の涙を流した(ウソ)ことを思い出す。

演奏は、カラヤンとしては二度目の録音で、その実力を十分に発揮している時期であり、独特の華やかなサウンドに仕上がっている。ベルリンフィルのソロも旨い、申し分ない出来であるとは思うのだが、一方で逆にそれ以上のものが聴き取れない、というのは高望みなのであろか。

チェリビダッケ指揮 シュツットガルト放送響(Stuttgart Radio Orchestra)
1976年 ライブ

チェリビダッケの晩年の演奏(1993年9月24,25日、ミュンヘン)ではないが、それでも十分に「遅い」演奏であると思う。ゲルギエフ盤との比較で話せば、演奏時間にしてチェリは35分56秒、ゲルギは32分5秒である。また最後のキエフの大門だけ比較しても、チェリの6分6秒に対しゲルギは5分23秒で駆け抜ける。この時間の差は、数字でみるよりも聴いてみると顕著で、二つは全く違った音楽として聴こえる。

チェリの遅さはしばしば指摘されるものだが、嫌みなものではなく、地から沸き上がるように音楽を積み重ね構築してゆくさまは、確たる足取りとともに聴衆を音楽に引きずり込む。この演奏でも、着実な歩みは、あたかもゆっくりと味わうかのように展覧会場を巡るようであり、目の前に彷彿とその情景が浮かんでくる。ラストのキエフにしても、遅くはあるが大きな盛り上がりを見せ、決して不完全燃焼で終わってしまう演奏になっていない、さすがと言うべきだろうか、聴き終わったあと、ひとり静かにブラボーと叫んでしまう。


ゲルギエフ指揮 ウィーンフィル
2000年 ムジク・フェライン ライブ

ゲルギ盤は何度聴いても異質であり、すさまじい。全身の肌が粟立ちラストに向かって放心状態となってしまう。しかし、そういう演奏がこの曲にとって幸福なことだろうかと疑問を感じないわけではない。特にチェリ&ミュンヘンと比べると、ゲルギエフのグロテクスクなまでなまでの音楽性というものが顕著だ。しかし、雑だというのではない、これまたチェリとは対極にある究極の演奏と言うことだ。

2002年4月19日金曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮/ウィーンフィル 「展覧会の絵」


ムソルグスキー
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
  録音:2000年4月28日、ムジークフェラインにおけるライブ
歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲(モスクワ河の夜明け)(ショスタコーヴィッチ編)
交響詩「はげ山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編)
ゴパック:歌劇「ソロチンスクの市」から(リャードフ編)
  録音:2000年12月22日、ムジークフェライン

指揮:ゲルギエフ
演奏:ウィーンフィル
PHILIPS UCCP-1053

何とも凄まじい「展覧会の絵」だ。私はゲルギエフのファンであるので贔屓として聴いてしまう傾向がなきにしもあらずではあるが、この演奏には心底驚かされた。あの「春の祭典」の後のリリースであるので、発売と同時に購入し(ゲルギエフ読本もオマケでついてくるし)何度も聴いているのだが、聴くたびに何度も打ちのめされてしまっている。

「展覧会の絵」というのはご存知のとおり、非常に描写的な曲である。そのため聴き所も多いと思う。「ブイドロ」の重々しさ、トランペットソロの秀逸な「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」、「カタコンブ」の暗さ、そして「バーバ・ヤーガの小屋」から「キエフの大門」に至るクライマックス。どこを取っても音楽的に申し分がない。

そういう音楽なだけに数多くの名演奏があるのだと思うが、これほどに衝撃的な演奏は少ないかもしれない。何といってもものすごいのは、ウィーンフィルの音である。もはやこれがウィーンの音なのだろうかと訝ってしまう。

ゲルギエフとウィーンの組み合わせと言えば、チャイコフスキーの交響曲5番もすごかった。この演奏を聴いて、改めて思う、オケのイメージなどどれほど正しいのだろうかと。ウィーンだから「洗練された美しさ」というイメージのみで語ることが間違っているのだと思わされる。彼らこそ世界一流のスーパースター軍団、指揮者の好みに合わせて優雅にもなれば破壊的な暴力を振るうことさえ茶飯事なのかもしれない。それほどにゲルギエフ的な(=と聴衆が期待し予測する)サウンドが展開されている。

それでもウィーンだけあってというべきなのか、細かな描写力もさすがである。力強く荒々しいだけの野蛮で雑な音楽になっていない。ソロの説得力もなるほどと思わせるし繊細な表現もある。

しかし、「バーバ・ヤーガの小屋」を聴いた瞬間には、あたかも棍棒で殴られているかのように脳天が白く弾けてしまい、正常なレビュを書くことができなくなってしまうのだ。それほどに凄まじき力と引力だ。「土俗的」とか「バーバリアンな」「ロシア的」「土臭さ」なとかのキーワード好まれるが、音楽を聴くとそれらの言葉の陳腐さと限界に思い知らされるだろう。

グイグイと引っ張られて強烈なシンバルの音のはじけた先の「キエフの大門」の広がりとパースペクティブの壮大さ。ものすごいドラマチックな音楽が構成されている。ラストに近くの鐘の音の乱舞と、ワンテンポ遅れて入る大太鼓の強靭なる響き(何と効果的なことか)に彩られた大伽藍を目の当たりにすると、もはや涙がこぼれてくるのを止めることが出来ない(・・・て、簡単に泣くなよ、音楽聴いて)。何度聴いても、何回聴いても、同じように打ちのめされる。音楽が終わった後の、壮大なるカタルシスときたら何に例えることができようか(たとえなくたっていいよ)。

この演奏はライブらしい。CDには拍手が入っていないので良く分からないが、こんな演奏を生で聴かされたら、理性を数万光年彼方へ吹き飛ばされたまま、当分社会復帰が出来ないかもしれないと思うのであった。(じゃあ、帰ってこなくていいよ)

ただだよ、付け加えておくと、「展覧会の絵」でこんなに感動するなんて、まだまだ甘いなあ、若いなあ、とも思うのだけどね、冷静になるとだよ。(冷静にならなきゃ分からんかね)

この盤にはまだ他にもイロイロな曲が収録されているのだが、力尽きた、他のレビュについてはマタコンブ(=また今度)!(ゲロゲロ)

2002年4月15日月曜日

【本棚】夢枕獏:陽陰師



「来たか」
「よくわかったな、どうして俺が来ることが分かったのだ」
言いながら、Yはソファの上に胡座をかいた。
「公園駅の前のコンビニで、ワインとチーズを買ってきただろう」
「ああ買った。どうしてそんなことを知っている」
Sはそれには答えず、ふふんと小さく笑って奥の方を見やった。
「あちこちに色人(しきじん)を置いて見晴らせているという噂だが、本当か?」
「まあ、よいではないか、それより今日は何の用だ」
「うむ、実はおまえと酒でも飲みながら、話したいことがある」
「Yにしては珍しいな」と言って、二人は酒を飲みはじめた。
「うむ」
「うむ」
「これはブルゴーニュのワインだな、良い酒だ」
「うむ」

「で、話とは何だ」
「陰陽師というのを知っておろう」
「あの、呪を操るとかいう平安時代の幻術師の話か」
「そうだ、そうと分かっているのなら話は早い。そのことについての書を読んだのだ。劇画にも映画にもなっているから、相当有名なものなのだが、恥ずかしながらやっと読んだのだ」
「それで」
「憑かれたのだ、やはりよくできている、面白いのだ。夢枕の語り口もうまい。人気が出るのもうなずけるというものだ、いやはや大した力量だよ。しかし今更言うのも気が引ける」
「ふふん」
「何がおかしい」
「Yは正直者よの」
「冷やかすなよ、おまえはどう思っているのだ」
「さてな、ところでその包みの中はチーズだろう、早く食わせろ」
「ずうずうしい奴だな、遠慮というものを知らんのか」
「わかっているよ、おまえはよい漢だな。しかし、まさか、そのまま持ち帰るために、わざわざ包みを下げてきたわけではなかろうに」
「鬼に食わしてやってもよいのだが、おまえは口がうまいな」
そういって、いつの間にか切り分けられたチーズが皿に乗っている。
「美味いな」
「ううむ、美味い」

「で、続きを聞かせろ」
「うむ、でだな、妖怪や化け物退治というオカルトB級の話かと思って読んでいたのだが、何かこう独特の雰囲気が書に漂っているのだ。平安時代という雅な闇の時代の雰囲気と、瓢とした男の雰囲気がとても良いのだ。話のリズムもよい。まさに人気がでるのも宜なるかなというところなのだ。闇の中で鬼の話をしているのに、どこか健康的な雰囲気さえあるのだが、これは夢枕の性格なのだろうかな。で、おまえの意見も少しは聞かせろ」
「いましがた、あのワインを飲んだろう、コンビニで売っているのだ、値段はそんなに高いものではあるまい。」

「人の酒を飲んでいて失礼な奴だな」
「値段の安い酒でも、極上のものもあるであろう、それを美味いと言ったからと、恥ずかしがることなんてなかろうさ」

「ううむ、ワインと書が同じだというのか、よく分からないが、そういうものか」
「わからぬでもいいさ、してまた読んでみるつもりか」
「うむ、そうだな」
「では行こうか」
「これからか」
「おれも笛の音でも聴きながらその書をまた読んでみたくなった」
「よかろう」
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(注)夢枕の小説を「安物のワイン」と言うつもりは全くありません。ファンの方、誤解しないでくださいね。

2002年4月14日日曜日

レッスンメモ

��ヶ月ほど空いてしまったが、レッスンを受けてきた。


○ ルイ・ロットを吹く
今日のレッスンは、先生のルイ・ロットを借りて行った。先生のとは言っても普段演奏で使っているものではなく売りに出しているもの。ロット4代目で製造年で言うと1900年初頭だが程度は非常に良い。

私のヘインズ(78年頃)と比べると、巻管と管厚のせいなのかドッチリと重い感じ、吹奏感も密度と抵抗感がある。最初は鳴らしにくいと感じたのだが、ポイントを探してゆくうちに響きを得ることができた。

先生の印象では楽器から音が鳴るのではなく、その背後から響いてくるようで非常に良い、私のヘインズは柔らかな印象、どちらも良い音で吹いているが、ロットの方が遠くまで響いて行くような感じ、とのこと。

ここで先生は面白いことを言っていた。ロットの音を傍らで聴くのは非常に気持ちがいいと。高音域では、私の耳元でビンビン鳴っているので、うるさいのではなかろうかと思うのだが、嫌な感じが全くせずに非常に気持ちが良いとおっしゃる。自分の持っている楽器を自分で吹いても、その楽器の音は聴けないからねというような意味のことも言っていた。そりゃそうだ、半分以上はお世辞だろうが、音が良いと褒められれば悪い気はしない(と思うのは気のせいか?)

さて、そこでロットを借りたままレッスンにかからせていただいた。行っているのは変わらずにソノリテとT&Gだけである。

○ レッスンのポイント
あとで詳しく書くが(自分のメモとしてだが)、今日のレッスンで修正しなくてはならないと感じたのは以下の点である、箇条書きにしておこう。以下の欠点は全て同じ根っこに行きつくような気がしている。

  • 楽器の角度が下がりすぎている、頭を右に少し傾け楽器はもっと持ち上げる
  • 右手の指が、楽器に対して斜めに傾きすぎている、自然な指の形で楽器と垂直になるような指の角度でキーを押さえる
  • 音階をレガートに吹くのと同じように、運指もばたばたさせずにレガートにする
  • 指はできるだけキーからあげないように、特に右手の薬指と小指、左手の親指と人差し指、薬指の行儀が悪い(ほとんどではないか!)


○ ソノリテの練習
さて、それでは練習内容についてメモしておこう。まずはソノリテ、半音ずつ下がるものからはじめ2音、3音・・と増やしてゆく。注意されるところは依然として変わらず、音柱の長さが変わっても響きが変わらないようにとは繰り返し注意される。響きを作る、なめらかに、低音で強く吹きすて響きを壊すことのないように・・・などなど、単純だが難しい練習だ。

高音に向かう場合も同じ。最初から響きを作ってノンビブラートで吹く。「CiSやDisは特に響きが暗くならないように気をつけるとのこと。何も考えないで吹くのと、意識して吹くのではまるで変わってくる。ちょっとした注意で変わるのでそれを常に心がければ、自然と意識しなくても吹けるようになる」と言われる。

実はこのときに先生は、ダメな吹き方と良い吹き方の手本を奏して下さっているのだが、音色の違いをどうやって得るかの具体的な指導はない。音を明るくするには自分でもどうやると良いのかよく分からないのだが、口蓋を大きく喉を開いた状態で吹くようにすると「明るく」なっているらしい。これで良いのだろうか?

○ T&G EJ1の練習
��&GはEJ1を八分音符で112のスピードで吹く。できない運指は徹底した部分練習をやらされる。「難しい指ほどそこをゆっくり吹くつもりで意識する。えてして難しい部位は滑って速くなりがちになる。」 なるほど。部分練習の付点のリズムは、できるだけ付点を短くするようにとのこと。「高音のクロスフィンガリングはひたすら脳に覚え込ませて、条件反射的にできるようになるまでたたき込むしかない。できない部位ほどたくさん練習すること」 はい(^^;;

今日新たに注意されたのは、右手の指の角度が少し傾きすぎているとのこと。手を下にだらんと下げた脱力した状態のままキーの上に乗せたい。斜めになりすぎているので、低音のCis、D、Disなどが出にくくなっているようである。もう一つは指のアクションをできるだけ小さくすること。指のアクションを小さくすることが目的ではないものの、ランパルなどは遠くでみていて指が動いていないかのようである。鏡を見て練習するように言われる。

でも前回よりは、力が抜けてきているとのこと、響きからも堅さがとれてきたと言われる、うーん、自分では何が変わってきたのか余りよく分かっていないのだが、そう言われれば、少しは良くなっているのだろう。歩みは遅々としていて、自分でも嫌になるのだが、かといってそんなに練習時間がとれる訳でもない、仕方がないなあ。

「言われたことをすぐできるようにはならないけど、少しでもうまくなれば良しとしなくては。今からランパルになるわけでもないでしょうし、ゆっくり、あせらず、今みたいな練習をしていれば、指の回転を速くするのは難しくないよ」と再び励まされる。

○ ロットについての感想
今日は自分の楽器を吹かず、ロットを吹かせていただいたが、自分の楽器に持ちかえると、慣れのせいもあろうがよく鳴っているように感じる(気のせい?)。最近色々な楽器を試奏してみて、ピンとくる楽器が全然なく楽器に対する未練どころか、楽器による違いも分からなくなってしまったのかと思うようになっていた。

今日、長々とロットを吹かせていただいて、楽器によってこんなにも吹奏感が違うものかと改めて感じた。非常に気に入った楽器であったが、手の届くようなものではないし、私のような腕前ではロットが泣いてしまう。どなたか腕の立つ方がお持ちになって演奏会で音色を聴かせてもらいたいものである。

○ おまけ
実は私のレッスンの後に来られた方の楽器も見せていただいた。数日前にアキヤマフルートを買われたとのこと。ネットオークションで購入したというトラベルソまで持参である。先生のトラベルソなどもずらりと並べた様は壮観であった。もっとも、かなり偏った品揃えであることは否定しないが(笑)

楽器のありようと言うのは難しい。それぞれが、それぞれに工夫を重ね自分の楽器と音楽を作っている。万人が良いという楽器は、フルートには存在しないように思える。その点において、ルイ・ロットという年代物の楽器と、たとえばバイオリンのストラディヴァリウスとでは違いがあるように思える(素人考えだが)。それにしても、楽器へのこだわりというものは、プロにとって思想と音楽そのものであるのだなと思うのであった。