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2001年7月18日水曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第4番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Sep 1995 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
シベリウスの4番は本当に暗く救いのない音楽なのだろうか。今まで、デイヴィス、カラヤン、マゼールと聴いてきたが、これらの演奏は暗さだけではなく静かな煌きを感じさせる演奏であるように思えた。
ベルグルンドの盤も、どちらかというと美しさや静謐さが強調された演奏であると思える。加えるに、先の盤と比べて決定的なのは、ベルグルンドとヨーロッパ室内管で奏でられる音楽の純度の高さと、孤高という言葉さえ浮かぶような美しさ、そしてシベリウスの音楽に対する深い造詣のようなものさえ感じることができる演奏であるということだ。
端正さという点では、思わず居住まいを正して聴かざるを得ないような雰囲気さえある。演奏自体に贅肉がなく、室内楽を聴くかのごとき簡素さを感じるが、それが何と曲の雰囲気に合っていることだろうか。以前にも書いたが、オケの響きには雑なところや粗さは全く発見できず、完成された美しはまさに特筆ものである。隅々まで神経の行き渡った演奏からは、暗い楽句であっても救いや解決のないというイメージよりも、深い思慮に沈む哲学的静けさを感じる。いろいろな人が「別格級」と称する意味が分からないでもない演奏である。
第一楽章冒頭の低弦とチェロの響きは本作品を特徴付ける部分だと思うのだが、この演奏からは余計な感傷や感情のようなものを感じず、虚空に投げ出されたかのような所在無い印象が受ける。その枯れた感じは極限まで切り詰められた緊張感に満ちており、何かひとつが加わっただけで崩れてしまうかのような、純度の高さを感じる。続いてかぶさるヴァイオリンの透明な美しさには宇宙的な広がりさえ感じ、音楽のイマジネーションの豊かさには陶然としてしまう。
曲の解説などによると、風光明媚で知られるコリへの旅行から曲のインスピレーション得たことに言及されている。シベリウスの音楽はR・シュトラウスのような標題音楽ではないことには同意するが、一方で過度に作品の成立背景を解釈の足がかりにするのもいかがなものかと思う。確かに聴きようによっては、視界がひらけたかのような音楽的な広がりが、「アルプス交響曲」にも似た感興を湧かせる部分がないわけでもない。しかし、音楽のありようと演奏を聴く限りにおいては、ベルグルンドは何か音楽そのものを忠実に演奏しているようなスタンスを感じるのだ。そこから湧き上がってくるのは、純粋に音楽的な満足と広がりである。
第二楽章にしても、風景描写的な演奏と感じるのは聴き手のイメージのふくらみ、あるいは思い込みのせいだろうか。俄かに翳をさすかのような音楽の移り変わりにしても、浮き沈みする感情の振幅と感じさせる場合もあれば、北国の短い夏を思わせる場合もある。しかし、音楽に深く耳を傾けるならば、そのどちらもイメージは正しくないのだと思い至る。あるのは、流れ行く音楽だけだ、この楽章も言葉には還元できないことを知らされる。
第三楽章はフルートの調べやホルン、チェロの響きがあたかも幽玄の世界をさまようかのごとき感がある。フィンランドの深く暗い森の中を、あてどもなく逡巡する姿や、楽章最後に現れるテーマが断片的に見えるさまは、霧の中から垣間見える雄大な景色か、あるいは作曲者自信の哀愁の感情表現なのだろうか。風景描写的と思って聴けば、そう聴こえるし、過度に思い入れを入れると、あたかも悲愴なる運命との出会いのようにも、シベリウス本人の嘆きにも聴こえる。
シベリウスはこの曲を「心理的交響曲」と呼んだらしいが、これにさえそれほど拘泥する必要はないのかもしれない。主題群が断片から姿をあらわし始めるさまなどは、ここでも宇宙的な創造を、あるいはブルックナー的な峻厳ささえ漂わせているではないか、何と美しき音楽であることか。もしかすると、この楽章はシベリウスの書いたレクイエムなのではないだろうか。
終楽章の明るい煌きから、全てが解体され殺ぎ落とされるラストの対比も見事である。今までの虚飾や光を全て失い、丸裸の状態で放置されるという音楽のありようは、残酷さや救いのなさを感じる人もいるかもしれない。しかし、ラストは決して孤独や絶望、諦めだけではなようにも思える。
もっとも、以上のイメージとて、これを聴いたときの感情に支配されるものだろう。ただ、ひとつだけ言える事は、交響曲第4番というのは、暗いだけの音楽ではなく、素晴らしくイマジネーション豊かな世界であり、また北欧的な美しさや静謐さ、北国的な生命力や死生観、人生における喜びや哀しみ、感情の振幅など多くの要素を、非常に凝縮した音楽に結実した稀に見る名曲なのではないか、と思い至ったのである。地味目の曲だが広がりはまさに宇宙的なのである。
繰り返すが、まさにそういう印象を与えるという点においても、ベルグルンドの演奏は別格級であるのかもしれない。こうなると、暗さの極致といわれるケーゲル盤をぜひとも入手して聴きたくなるのであった。

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