時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2001年5月15日火曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第2番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
オーケストラの音色はオーボエの音で決まるという人がいる。その人は、有名どころのオケであればオーボエの音だけでどこのオケであるのか言い当てられるという。さて、このヨーロッパ室内管の音も、出だしのオーボエの音が非常に特徴的といえるかもしれない。端的に言ってしまえば、ある種の明るさと軽妙さが感じられるのだ。また演奏の歯切れがよく、そして音がきらめいているようだ。全体にフットワークも軽く、さらさらと流れるように音楽が動いてゆくのを感じることができる。この演奏に初めて接したときハッとする何かを冒頭から感じさせてくれることは特筆に価すると思う。
軽妙と書いたが「軽い演奏」ではない。むしろ全く逆であり、終楽章を聴き終わったあとには、ため息しか漏らすことができなかった。音楽が心の深いところから満ちてきあふれてしまうのを留めることができないのである。いやはや凄い演奏だと全面的に降参である。
音のきらめきは第一楽章の出だしからして顕著である。第一主題が奏でられた後の弦セクションの透明にして艶やかな響きや、その裏での木管の複雑な伴奏など、陶然とさせられてしまう。それにピチカートの響きの繊細なこと。第一主題と第二主題が混じり合う部分においてさえ、見通しのよさがあり、それに引き続く複雑な音形からの盛り上がりも非常に正確に聴こえる。中間部、ファゴットにより第二主題が再現すると雰囲気が一変するが、あたかも回りの空気の色さえ変えてしまうかのようだ。
ここまで聴いてきて、流れるような演奏の中から、見事な音の牙城が築き上げられてゆく様を感じることができる。先のデイヴィス盤と比較してしまうと、むしろデイヴィスの方が情景描写的と思えてくる。この演奏からは、大いなる風景を前にしたような感動というよりも、内から満ち足りてきて大いなる情動と、その後に祝福と光を受けたかのような深い満足感を覚えるのである。
第二楽章のピチカートは一楽章とは雰囲気を一転させ、内面に深く降りてゆくステップのように思える。その深く降りていった先に(あるいは深い洞窟をもぐっていった先に)見えるのは、オーボエのほの暗いテーマである。それは光なのだろうかあるいは陰なのだろうか。見知らぬ場所で、ふと死の陰をまとった老人に出会ったかのようである。
この楽章は、聴けば聴くほどに幻想的であり、まるでひとつの交響詩のようにさえ感じられる。賢者のようなものから啓示を受けてひれ伏すような場面(トランペット)や、慰めのテーマなど(トランペットとフルート)。ラストの木管のトリルは確かに哄笑か悪魔的な響きにさえ聴こえるではないか。しかも、この楽章を聴くと、テーマの裏の伴奏て木管などが非常に複雑な動きをしていることにも気づかされる。オーケストレーションに独特の深みを与えているようだ。
第三楽章はさらにオーケストラは色彩豊かになってゆく。何度か挿入されるゲネラル・パウゼをはさんで、緊張と弛緩を繰り返しながら、わしづかみにされるようにしてひとつの頂点(第四楽章)に連れて行かれるさまは圧巻である。四楽章の第一主題は、山の頂から大地を望むような壮大さとも雄大さとも呼べるような感興を呼び起こす。何かひとつ抜け出たという印象を与えるところが、この交響曲の標題性を喚起させるのかもしれない。
第二主題が再現される後半で、三拍子の裏でティンパニが鳴らされる部分がある。哀愁を帯びたテーマが綿々と奏される部分だが、この部位、デイビスはティンパニを十分に響かせ効果的に感情を高めているのだが、ベルグルンドはむしろティンパニを目立たせない演奏をしている。感情を抑えた演奏のように感じたのだが、しかし、どうしたことなのだろう、コーダに至ったときに、いつの間にか臨界点に達していたかのように大いなる感動を覚え、打ちのめされてしまっている自分に気づくのだ。
ところでラストの圧倒的な高揚感は、いったい何に対する勝利だったのだろう。こうして聴いてみると、Johansenさんが自分のHPで述べられているように(曲の解説を参照)、民族的な勝利とは別の要素を感じずにはいられないのだ。1楽章の叙情性や明るい世界と、2楽章のひたすら内面世界に沈み込むような世界、このふたつの曲のありようを考えると、3楽章から4楽章への移行を単純に民族的高揚には結び付けにくいという印象を受ける。シベリウス自身の非常に内面的な葛藤と克服(Johansenさんは宗教的エネルギーとまで言う)という見方の方が、的を得ていると思うのである。我々はシベリウス鑑賞に当たって、あまりにも「フィンランディア」に拘泥されすぎてはいまいかと自省するのであった。
CD評とも曲の解説とも付かないような駄文を、またしても書いてしまったが、まあ、シベリウス的ということの解釈はさておき、つまりは最初に書いたように、もはやため息か涙しか漏らすことができない演奏であると言いたいだけなのである。どこがどうとか、うまく説明はできない、しかし、なんだか「格が違う」と思ってしまうのであった。え?これも「先入観」だって? そうかも知れないけれどね。ま、いいじゃない。
2001年5月14日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第2番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
��番の感想で、デイヴィス盤を冴えない印象を受けたように書いてしまったが、2番を聴いた今となっては、全くもって撤回せねばならないと思わせる演奏だ。先入観などを極力排してこの曲と演奏に耳を澄ませると、シベリウスの表現しようとしていた音楽世界が眼前に立ち上がってくるのを感じることができるのだ。弦セクションや打楽器セクション、そして金管群のバランスも音も良く、またダイナミックレンジも広いため、十分にこの曲を楽しむことのできる演奏であると思う。
シベリウスの2番というのは彼の作品の中でも、フィンランディアやヴァイオリン協奏曲などと並んで人気のある曲だろう。実際、親しみやすくなじみやすいという印象を受けるし、終楽章で大きな感興を得ることも出来る。
この曲が「極めてシベリウス的」であるかどうかは、よく考えなくてはならない。確かに、4楽章の音楽からフィンランドの愛国的心情を感じ取ることもできるし、暗い部分(抵抗)から勝利のフィナーレというテーマでも聴くこともできる。しかし、シベリウス自身が我々が期待するような政治的標題性を否定しているがゆえに、本来は純粋に音楽的に観賞すべきなのかもしれない。デイヴィス/ボストン響の演奏で、この曲の世界に入ってみよう。
第一楽は冒頭の序奏から意味ありげなのだが、弦のユニゾンに適度の重厚感があり曲に対する期待が高まる。さわやかにして輝くような一日の朝の始まりを感じるようで、この交響曲で非常に好きな部分である。ここだけ聴いてもシベリウス的と思うのだが、それは、弦楽器と木管楽器の合わさったメロディに特徴的なせいなのだろうか。木管で奏される第一主題は鳥のさえずりのようでもあるし、雄大な第二主題は広々とした景観を前にしたときのような思いさえ受け、頬に風の匂いさえ感じるようだ。聴きようによっては第一楽章は情景描写的であり、移ろいゆく時間と風景を楽しむことができる。この部分だけ聴いていても、デイヴィス/ボストン響の演奏は明確であり、音楽が伝える世界をストレートに聴くものに伝えてくれているように感じる。
第二楽章は、一転して暗いファゴットによる第一主題で始まる。このテーマは弦のピチカートに乗って、ホルンの音色に彩られながら進行してゆくが、迫りくる不安を象徴するかのようであり性急さとともに盛り上がる。峻厳なる渓谷かなにかに突き落とされたかのような印象を受け得るが、一転した第二主題には救われる思いがする。この主題には懐の深さや、深い慈悲のようなものを感じる。続いて奏でられるトランペットとフルートの掛け合いは聴き所である。あたかも、崇高なるものとの深き対話を聞くようで、自ずと頭が下がる。しかし、感想を書いていて思うのだが、激しさとともに彼の曲には「峻厳さ」とも言うべキーワードがあるように思える。ここが彼のオーケストレーションの特徴なのだろうか。蛇足だが、この楽章を聴くと、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を思い出すのは私だけか。
第三楽章はスケルツォである。非常に早い弦の動きが、聴くものをどこかに連れ去らずには行かないようなエネルギーを感じるが、一転してオーボエの牧歌的とも言えるテーマが始まると過ぎ去った昔を思い出すかのような気にさせてくれる。幸せな時代の、干草と陽だまりの匂いがするような、そんな懐かしさだが、シベリウスはこの感傷は長引かせない。繰り返しはあるものの、冒頭のスケルツォの速い動きによりかき消され、留まることを許してはくれない。
緊張は徐々に高まり、そしてなんとも表現のしようのないような移行により感動の第四楽章へと突入する。この部分は何度聴いても素晴らしい。つれてゆかれた先の世界が何と希望と光に満ち溢れた世界であることか。弦の第一主題は平和を獲得した喜びの声のようにも聴こえるし、トランペットの勇壮なる応答は、勝利の雄たけびのようにも聴こえる。
木管による第二主題はいろいろに変形されて繰り返し奏されるが、なんとも切ないメロディである。このメロディを聴くだけで泣けてくるのだが、それは、非常に多くの感情がこの旋律に込められているからなのかもしれない。世間的なシベリウスのイメージにらぶらせるならば、圧迫への抵抗や哀しみ、そして限りなき平和を願う声などと言うことも可能だろうが、若干の抵抗を感じずにはいられない。この曲が発表されたときに、指揮者カヤヌスなどが愛国的な心情の代弁と受け止めたのもむべなるかなとは思うのだが、デイヴィスの演奏では、それが普遍的な感情にまで高められているようにも思える。惜しいかなフィナーレでは金管群が少し崩壊している部分もあるが、これだけの高まりと感動を与えてくれる演奏である、大きな問題ではない。
2001年5月13日日曜日
なんだかこのごろ、全然練習していない
気を取り直して、ヘンデルのソナタ1の5あたりを吹いてみる。これからレッスンで見てもらおうとしている曲だし。フンフン、ニ楽章はほとんどタファネル&ゴーベールの世界だな、とは思うものの、ああ、こんな簡単な音階もまともに吹けない(;_;)
どんどん、下手になる自分を呪い、暗澹たる気分で曲をさらうのって、趣味のフルートなのに全然楽しくないぞ! ああ・・・時間といつでも音を出しても文句のこない部屋が欲しいなあ・・・
ハナシは変るが、広島の知人から「春に新しく家を建てました。オープンバルコニーとオーディオルームのある部屋です。小さな夢を叶えました。」と葉書にある。「ああ、そうですか。オーディオルームですか、そりゃよござんしたね。これで心置きなく、マーラーでもショスタコでもかけられますな。趣味のコーラスも練習できて何よりですね!」と、なんだか八つ当たりに近い感情を覚えてしまう、心の狭いワタシなのでした・・・
鬱々としてしまうのは、今年のフルートフェスティバルも出られないせいもあるんだよね。ああ、1年に一度の市民会館・・・。フルートオケが好きかどうかはさておき、演奏する方は結構楽しいんだよな。
え? こんなもの書いていないで、練習しろって? そうですね。でも、こんなところ読んでいる人がいると思えないし、いいんじゃあない・・・
2001年5月12日土曜日
田中外相のドタキャン
政治家には、アカウンタビリティの責がある。ある行動が批判の対象となるならば、国民が納得する形で説明しなくてはならない。そういう立場にいると思う。その上で、行動や言動に対する批判が成立する。
政治というものを動的なものに変えるという流れの中で、今回の件は決して小さな問題ではないと思うのだが。
2001年5月11日金曜日
9日の衆議員代表質問
「改革という言葉は41回も使っているが、何ら具体的な内容が示されなかった」と鳩山民主党代表は批判しているが、まだ内閣始まったばかり、もう少し様子を見たい。
ただ、与野党の対立構図や政策論争まで考えると、従来の政党や派閥の枠組みがゆるやかに溶け出しているのを感じずにはいられない。自民党や連立内部が一枚板ではないのは自明だが、民主党も鳩山氏と菅氏の間の溝が浮き彫りにされてくるかも知れない。
政治に疎い私でさえ、なんとなく感じるのだから、もっと政治にセンシティブな層はどのように今の動きを捉えているのだろう。
「期待先行内閣」とは言われる。しかしだ、政治家たちを含め、我々は何を今期待しているのだろうかと疑問になる。「ただ変ればよい」というものでもない。既得権益に踏み込むことは「天に向かって唾を吐く」のと同義であるかもしれない。だって、私だってあなただって、既得権益の恩恵のどこかには関わっているのではないだろうか。
目指すべき政治・経済そして社会の姿はどこにあるのか、改革の結果の着地点はどこなのか? 例えば全てがうまくいったときの理想の社会とはどんな社会なのか。私には見えないなあ・・
2001年5月8日火曜日
「映画音楽のよう」という比喩
「映画音楽的」というのはどういうことだろうか。情景描写的ということなのか、ロマンチックや抒情に傾きすぎたということなのか。こういう言葉を使う時は暗に「きれいだが内容が空疎」という意味をこめていることもあると思う。そういう意味からは一段見下した、揶揄的に使われる言葉であると思う。
実際わたしも、デイヴィス指揮 ボストン響のシベリウス第一番交響曲の4楽章第二主題を聴いて、そのような感想をもらしてしまった。もっとも、彼の演奏を空疎だなどと言うつもりは毛頭ない。あたかも「映画音楽を聴いているかのように美しい」というほどの意味合いで使ったが、誤解の多い表現であるかもしれない。
しかし、ここではたと疑問を感じてしまうのだ。音楽の「内容」とか「精神性」とかいうことは良く論じられるが、一体それは何なのかと。「深み」と表現する人もいるかもしれない。いわく、「バッハやベートーベンの曲には、深みと確たる精神性に裏付けられた高い芸術性がある。反して・・・」
上記の論述には正しさとともにある種の欺瞞性やスノビズムを感じてしまう。考えてみれば「映画音楽のよう」だっていいじゃないかと思う。そんな偏狭な見解を何時までも振りかざしているからクラシック音楽は皆から見放されるのじゃないか、とも思うのだ。
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第1番
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
2001年5月7日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第1番
デイヴィス盤とて、先に書いたように名盤である。しかし聴く前に先入観や偏見が入ってしまうのだろうか? ベルグルンドから聴こえた涼しげにして冷ややかな空気は、デイヴィス盤からは感じないのだ。また、ベルグルンド&ボーンマス響盤よりも、ロマンティシズムに傾いていた演奏のように感じられる。
例えば、アッチェレランドの掛け方や、逆に旋律を劇的に盛り上げるためのリタルダンドのかけかた、はたまた強弱の付け方も大きく、それ故オーケストラは壮大にして華麗になっている。美しい旋律はあくまでも美しく、甘い旋律はひたすら甘い。ソロの部分は協奏曲のように処理されているように感じるし、オーケストラの個々の音も非常に明確である。そういう意味からは、非常に説得力をもった演奏と言えるのかもしれない。
しかしなのだ、全体を通してシベリウス的な匂いがないのだ。ベルグルンドが表現していたフィンランドの息吹、息遣いが聴こえない。例えば第1楽章にしても、ベルグルンドではものの数分も経たぬうちに、これがシベリウスの記念碑的な第一交響曲であることを否がおうにも感じさせてくれた。あまりにもシベリウス的な匂いと賛歌に充満しているのだが、デイヴィスはそのように処理していない。あれほどの感動を与えた第一楽章が、核を失ってバラバラな音楽に聴こえてしまう。
あるいは、第2楽章の弦のテーマの裏にフルートが繊細な伴奏をつけている部分。ベルグルンドが表現した風のような、そして思わずゾクリとするような感触が、この演奏からは聴こえないどころか、非常に野暮ったい処理にさえ感じる。
第4楽章の中間部のメロディなどは、ゆっくりと悠々とオケを歌わせているのだが、ふと気付くと「映画音楽のよう」に聴こえてしまうではないか! これは一体どうしたことなのか。
デイヴィスはロンドン響を従えた演奏をサントリーで聴いたことがある。そのときは、ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番であった。非常に満足を覚えてホールを後にしたことを覚えているが、この盤の演奏からはシベリウスのエキスが抜けてしまっているように思えてならない。特集を続けてゆくことで、二人のシベリウスへのアプローチの違いが如実に見えてくるのだろうか?ベルグルンドにあって、デイヴィスにないものは、もしかしたら「情念」なのかもしれない。
最後に、付け加えておくが、決してこの演奏が「ダメ」とか言っているのではない。何を表現しようとしているかの違いなのではないか、と思うのだ。デイヴィスの「何か」は、今はまだ見えない。
2001年5月6日日曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ボーンマス響による交響曲第1番
指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ボーンマス交響楽団 録音:Sep 1974 EMI TOCE-19004 (国内版)
曲について
シベリウスのこの第1番交響曲は1899年、彼が34歳のときの作品である。
この曲を聴くと分かるが、既にシベリウス独特のサウンドが充満しており、非常に立派な交響曲に仕上がっていることに改めて気付きそして驚かされた。
彼のオーケストレーションは、激しく燃え上がる部分であっても、どこか冷ややかであり、青白き炎がたぎるという印象を受ける。彼のこの1番交響曲は、その成立過程からしても、解説にもあるように「フィンランド的情緒」とか「民族としての共感を代弁する」などの要素を汲み取ることはできるかもしれない。しかし、そのような歴史的な背景を考えずにこの曲に接したとしても、内から鼓舞されるかのような印象を受け、力が漲ってくるのを禁じることができない。
そういう意味からすると、第一楽章が一番力強く、そしてエネルギーに満ち、そしてなおかつシベリウスらしいと言える。曲の構成と分かりやすさと共感のしやすさという点でも、第一楽章が一番かもしれない。メロディラインも美しくそして、ハープが独特の色彩を与えている。力強さだけではなく、何か物悲しさと不安感の間を揺れ動くような微妙な感情も聴くことができる。しかし、総体的に支配しているのは、やはり誇りともいうべき堂々とした雰囲気であろうか。
第二楽章は緩徐楽章であるが、冒頭の弦と木管のメロディはゆったりとして、ロマンチックな気分にさせてくれる。途中に入るトライアングルやフルートのトリルも美しく効果的である。しかし、この甘さをシベリウスは余り引きずることをしない。不安げな木管のメロディに乗って到達するのは、やはり揺れ動く感情であるようだ。4分半から始まるチェロのテーマとその裏で奏でる風のようなフルートの伴奏の部分は、ものすごくシベリウス独特の色彩であり、ここを聴くだけで背筋に電流が走るような感情を覚える。そして、この楽章のラストは高揚感のある力強き感情の高まりである。激しいテーマの奏し方やその後の静かな歌い方は、チャイコフスキーの影響を感じる部分である。
スケルツォの第三楽章は、この盤の解説によると「トリオはフィンランド的田園の調べ」とある。確かに田園風景を感じさせる部位もないわけではないが、楽章の印象は性急にして非常にゴツゴツとしたものであり経過句的な印象を与える。
第四楽章は「Quasi una fantasia = 幻想曲のように」と記されているように、自由な形式をとっている。第一楽章のクラリネットの暗い主題がここでは弦で再現されるが、前楽章の性急さは受け継がれある方向性を持って動いてゆくように感じる。3分半ころから始まる、弦による第二主題は何かの唄だろうか、ハープの響きも加えられ、この曲の聴き所の一つと言えるかもしれない。この旋律にかぶさるように始まるトランペットの響きの扱いなど、本当にシベリウス独自の世界だと思う。激しさと性急さと、そしてメランコリックな雰囲気をごちゃ混ぜにしたような印象で、「幻想曲のよう」と言われれば納得はするのだが、気まぐれな印象を受けないわけではない。最後に向けてひとつのところに求心してゆくようなエネルギーには少し欠けているようにも思える。もっとも、9分に再現される第二主題は、以前よりも確信を持っており決然とした感情さえ漂わせている。二つの感情の間を揺れ動いていたシベリウス自身が、ある結論をみたようであり、ラストは今までにないほどの明確な意思をもって曲を終えるのかと思いきや(!)、弦のピチカートによるで(第一楽章と同じように)締めくくられる。私はここに、不安を残したまま煮え切らない印象を受けて少々当惑する。
このような感情の揺らぎや自身と不安の表出は、シベリウス自身の境遇や、当時のフィンランドの情勢を映しているものであることは予想がつくのだが、いまの段階ではあまり詳しく調べていないのでここに書ける事はない。また、シベリウスの交響曲はチャイコフスキーの影響を色濃く受けていると良く評されるようだが、私が聴く限りにおいては、二つの交響曲は目指すテーマにおいても別物であると感じざるを得ない。
確かに形式だけ考えれば、第一楽章冒頭のクラリネットのテーマが第四楽章において弦楽器で復活するなどの手法も、チャイコフスキー的と言われれば、なるほどとは思う。また、民族的なものを鼓舞するような部分も見られはするが、一番の違いは、チャイコフスキーのような「激情の赴くままの吐露」というものは、彼の曲からは感じない。むしろ不安さとナイーブさの点ではシューマンに近い感情を感じるのだ。
この演奏について
シベリウスといえばベルグルンドというくらいに有名なのだが、この盤は彼の3つの全集のうち、一番古い録音で、ボーンマス響とのものである。
弦の音色の重心が低く、そして打楽器も決然として力強い。そのため、ちょっと粗削りな印象は受けるものの、シベリウス独特の冷ややかさと劇的さがうまく表現されているのではなかろうか。緩徐楽章なども甘くメランコリックになりすぎず、節度をもった奏し方であると思う。
この段階では、ベルグルンドの最新盤を聴いていないので、彼の解釈がどこを指向しているのかを明確に言うことはできないのだが・・・・
2001年5月5日土曜日
【シベリウスを聴く】
シベリウスの交響曲といえば2番が有名である。しかし、傑作の誉れが高いのは4番、7番あたりではなかろうか。彼の交響曲には独特の雰囲気と色彩があると思う。順番に聴いてゆくことで見えてくる世界があるだろうか。また我々がイメージする「シベリウス的」というのはどういう演奏なのだろうか。
全集はベルグルンド&ヨーロッパ室内管弦楽団と、コリン・デイヴィス&ボストン交響楽団のものを用意。それ以外にも聴き比べの盤を数枚足しながら、連載を始めてみたい。
(以下リンク切れ。本ブログ内検索結果はこちら)
交響曲
交響曲第1番
- <第1回>交響曲 第1番 ベルグルンド/ボーンマス響<1974>)2001/5/05
- <第2回>交響曲 第1番 デイヴィス/ボストン響<1975> 2001/5/06
- <第3回>交響曲 第1番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管2001/5/07
交響曲第2番
- <第4回>交響曲 第2番 デイヴィス/ボストン響
2001/5/13
- <第5回>交響曲 第2番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管
2001/5/14
- <第6回>交響曲 第2番 セル/クリーブランド管
2001/5/18
- <第7回>交響曲 第2番 バーンスタイン/ウィーン・フィル<1986>
2001/5/21
- <第8回>交響曲 第2番 バルビローリ/ハレ管<1952>
2001/5/29
交響曲第3番
- <第9回>交響曲 第3番 デイヴィス/ボストン響<1976> 2001/6/02
- <第10回> 交響曲 第3番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管<1997> 2001/6/10
交響曲第4番
- <第11回> 交響曲 第4番 デイヴィス/ボストン響<1976> 2001/7/7
- <第12回> 交響曲 第4番 カラヤン/ベルリン<1976> 2001/7/8
- <第13回> 交響曲 第4番 マゼール/ウィーン<1968> 2001/7/9
- <第14回> 交響曲 第4番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管 2001/7/17
- <第17回> 交響曲 第4番 ケーゲル/ライプチヒ放送響<1969> 2001/9/2
交響曲第5番
- <第15回> 交響曲 第5番 デイヴィス/ボストン響<1975>
2001/8/15
- <第16回> 交響曲 第5番 バルビローリ/ハレ管<1957> 2001/8/16
- <第18回> 交響曲 第5番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管<1996> 2001/9/8
- <第19回> 交響曲 第5番 ヴァンスカ/ラハティ響<1995>(オリジナル1915版) 2001/9/29
交響曲第6番
- <第20回> 交響曲 第6番 デイヴィス/ボストン響<1976>
2001/11/24
- <第21回> 交響曲 第6番 ベルグルンド/ベルリン放送響<1970>2001/11/25
交響曲第7番
- <第22回> 交響曲 第7番 デイヴィス/ボストン響<1976>
2002/01/01
- <第23回> 交響曲 第7番 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管<1996>2002/01/02
- <第24回> 交響曲 第7番 バーンスタイン/ウィーン・フィル<1988> 2002/01/03
- <第25回> 交響曲 第7番 マゼール/ウィーン<1966> 2002/01/04
生演奏と再生された演奏
自宅の再生装置の前で音楽を聴くには、あまりにも眼や肌を通して伝わる雑音が多すぎるのだ。再生装置の前で音楽を聴く時、リスナーはライナーを読んだり解説書や楽譜を追ったり、はたまた見るとはなしに外の景色やら室内のものをぼんやり見ていることが多いと思う。音楽とは無関係な情報が否が応でも流入してきて集中力を阻害してしまう。
眼をつぶればよいという気もするが、人は音楽を聴くときであっても何らかの情報を眼から得ているという気がしてならない。音楽は聴覚、視覚、触覚(皮膚感覚)を通して伝わる情報なのだと思う。 名演も映像が伴うと、格段に感動が増してくることは、DVDなどを持たない方でも、NHKの過去の名演フィルムを見て感じることではないだろうか。
演奏会場は、ともすると眠くなってしまうことも否めないが、音楽に集中するには格好の場であると思う。自らの体調と音楽への集中度が高まったとき、それは演奏家の熱気などとは無関係に音楽は人の心に深く染み渡るのではないかと思う。
2001年5月3日木曜日
小泉総裁の理想と青臭さ
かつての細川元総理の「麻呂然」とした雰囲気とは異なると思う。
さて、「青臭さ」というが、理念とか理想は青臭さから始めないと駄目なのだと思う。その青さを「地に根付いた緑」にするための理論武装と実行計画が重要なのは当たり前だが、理念、理想がなくて、何のプランだろうか。
憲法と武装
昨日「戦場には行きたく、行かせたくない」と書いたが、「民族解放のための闘争と、血と犠牲を乗り越えて勝ち得た権利と憲法」という歴史を持った国においては、どのような「憲法」が制定されているのだろうか、とふと考えを及ばさざるを得ない。
朝日新聞17面「私の視点」での土井香苗(弁護士)の視点と、「憲法9条の役割は国際的にも終えてはいない」という論点に、私は賛同の意を覚えるのである。
【本棚】鈴木光司:シーズ・ザ デイ
小説としては非常に面白く、独特の力強さに満ちている。最初の数ページを読むだけで、「これは、なみなみならぬ覚悟で書かれた小説なのだろう。鈴木光司は、おそらく大きな感動を与える場として海を舞台にした小説を書いたのだろう」と予感させるものであった。
しかし、どうも私は彼の想定したプロットに乗り切ることが出来なかった。海洋を舞台にした小説を読むのが初めてで、例えばではあるが、山岳を舞台とした小説よりも臨場感を得る準備が自分にできていなかったということも理由にはあるかもしれない。山岳にしても海洋にしても、自分の実体験としてあるわけではないのだが、考えてみれば海洋を舞台にした小説というのを余り読んだことがないのだ。
いやいや、そんなことは、あくまでも背景の問題であり、乗り切れなさは他にある。主人公の船越を始め、彼をとりまく岡崎や裕子、昔の恋人の月子やその娘の陽子など、十分に魅力的な人物が登場するのだが、彼らに感情移入が出来ない点が一番の問題だ。なぜか?
船越というのは、小説では妻子に逃げられ、家も売り払い、ヨットで生活を始めるという、一般的な価値判断からはアウトローと思われるような主人公として登場する。生まれた時に既に父親が蒸発するような形で姿を消しているなど、幸せな人物とは書かれていない。しかも、16年前に太平洋をヨットで横断中に遭難事故を起こしてしまい、その挫折感からいまだに立ち直れないでいる人物である。
この小説のテーマを非常に乱暴な言い方をしまえば、ダメ人間としての岡崎が、過去の挫折の日や自分の過去に遡る行為を通して、「運命」的な意味を発見し、かつ新たな生きる価値とエネルギーを得るという、「謎解き」と「再生」の物語である(て400頁を超える小説を言い切るなよて思うが)。
でも、なんだか全てが、ご都合主義的に見えてきてしまうのだ。人物の登場の仕方も、「運命的」とも「因縁的」ともl「因果応酬」とでも言うべきものも含めて。「何だよこれは、まるでループか」と毒づいてしまう。ラストに何が待ち受けているものも、本の半ばでわかってしまう。だって、そういう風に書かれているんだから。
それに、何と言っても、主人公の船越が、既に十分にうらやましい存在なのだ。定職とはいえなくても自分の好きな道(海に関係する仕事)につき、いざとなれば会社を辞めてでもどこかに旅立てるという自由さを獲得している。妻子や社会的しがらみみたいな束縛からは既に解放された存在だ。だからといって孤独ではなく、彼を理解する知人に恵まれている。
残念ながら、彼が大いなる挫折の人生を歩んでいたとしても、心の狭い私には、彼に共感することが出来ないのだ。翻って考えてみると、かくも自分が心の奥底では「束縛されている」と感じていることなのかと、複雑な思いさえ抱いてしまうのだ。
彼と自分の一番の違いは、「自由」への可能性なのだと思う。または、彼が最後に掴み取った、ひとりで人生を力強く生き抜いてゆくことのできるエネルギーなのかもしれない。小説の中で彼の理解者である岡崎が「人生こんなもんだ、なんて思わないほうがいい」と言う場面がある。人生の可能性を狭めているのは他ならぬ自分なのかもしれないのだが。
もっとも、小説を読んで感じることは人それぞれである。物語としては非常に良く出来ているし、小説を読む面白さは満ちているし、ある種のエネルギーを得ることもできる。そういう意味からは読んで損はないと思う。でも、読んだら分かる。人生のエネルギーを得るには、本なんか読んでいるだけじゃあだめだと。「バタン!」と大きな音を立てて、自らメインセールを張り、進み始めなくては駄目なのだと。だから、心にしこりが残るのだ。
(追記)
5月15日の朝日新聞に、鈴木光司が「シーズ・ザ デイ」について語っていた。この物語は「父性」の物語なのだという。「父が子供に何を伝えてゆくのか」といったことがテーマなのだと。
え?「父と子」だって? あまりにも意表をつかれたテーマじゃないかと思った。
だって、突然振って沸いたような「娘」を戸惑いの中で受け入れ、航海を通しお互いの過去を話してゆくことで理解しあうようになることはあっても、親の子に対する愛情みたいなものとか、理解しあうところなんて全然感じなかったのだ。それが、鈴木の言う、従来の父性とは違うということなのか。
主人公 船越は娘 陽子にヨットに関する技術を短期間で教え込み、厳しい状況にも敢えて立ち向かわせ、人生を航海してゆくエネルギーを与えている。娘は期待を見事に答え、帆を張って自ら進み始めるのだが、でも、それが「父と子」の新たな関係性なの?それがこの小説の隠れたテーマの「父性のありかた」なの?
そういう風には「全く」読めなかったのである。最後まで私には船越と陽子が父子であるという実感を得ることができなかったし、それに陽子という主体が訴えかけてこなかった。更に、どうしてそんな簡単に航海技術を習得してしまうのか?彼女は天才なの、船越はヨット教授の天才なの、それともヨットてそんなに簡単なの?て、だからご都合主義て書いてしまったのだ。
陽子は船越なんて現れなくても強く生きていったと思うのだよ。腑抜けで生きていたのは船越おまえじゃないか。それが「父が子に何を伝えるか」だって! 冗談じゃあない。(あ、思わず怒ってしまった)
やっぱり乗れないなあ、この小説には・・・・・。あ、繰り返すけれど、面白い海洋冒険小説ではあるんだよ。決してつまらない本じゃないのです。
もっとも、だから小学生のときから国語は嫌いなんだよ。「この小説のテーマは何でしょう」「作者の本当に言いたかったことは何でしょう」ていう設問は、大抵はずしていたもんな。
【音盤】ディーリアスの「春はじめてのかっこうを聴いて」
この曲からは、ほんとうにカッコウの鳴く、のどかな春をイメージすることができ、なおかつ、あたかもイギリスの風景画家ターナーの描く水彩画のような夢幻の雰囲気を漂わせており、安らぎの境地へといざなってくれる。7分ちょっとの曲だが、目を閉じて曲に聴き入るとイギリスの田園美の中に入り込んだかのようである。
上に示した盤はトマス・ビーチャム指揮の演奏だが、もう一つ家にあるバルビローリ/ハレ管のものよりも情感豊かに感じる。
2001年5月2日水曜日
小泉政権と憲法改正
憲法改正と自衛隊の位置付けというのは、非常に深いテーマで私など手に余るのだが、ひとつだけいえることはある。
「徴兵されて兵役義務を負うのはイヤであるし、次の世代にもさせたくない」ということだ。
ある年齢になると兵役義務がある国や、貧困層を士官学校などに組み入れている国もないわけではなかろう。
自衛のための軍隊というのも分からないではない。しかし、結局、軍隊というのは相手を殺傷することを前提としている。理屈などとこにあろうか。国際社会の役割だの周辺事態への対応なども、理屈はわかるが、あなたは自分が戦場に行くことを良しとするか?と問いたい。
我々や次の世代が目指べきは、甘いと言われても別の理想形なのだと思う。
武満 徹の音楽て…?
例えば、先月に書いた武満 徹である。彼の音楽は、静謐さとか沈黙とか、音楽とは相反する要素を含んだ深淵なる曲が多いような気がする。自宅で聴くには、氷のような透明な音楽が、猥雑さに溶け出し、現代音楽という部分のいやらしさしか残らなくなってしまう気がするのだ。
武満の音楽を、家人の寝静まった夜にヘッドフォンを通して聴いてみると、真暗な中から、豊穣なる世界が静かに立ち上がってくるのを味わうことができる。日常性の中に彼の音楽を投げ出し聴くことができないと思うのである。しかし、こういう鋭敏なる音楽というのは「癒し」という側面よりも、極度の緊張をリスナーに要求するものだと感じるのだ。
2001年4月30日月曜日
【音盤】工藤重典/「巡り」~武満徹没後5年特別企画
巡り
マスク
海へⅢ
エア
工藤重典(fl) 岩佐和弘(fl) 川本嘉子(va)、篠崎史子(hp)
2000年11月8~10日 那須野が原ハーモニーホール(栃木県)
SONY SRCR2585
工藤重典による武満徹へのオマージュのようなCDである。武満徹がフルートという楽器を好んでいたことは、良く知られていることだろう。彼の曲は、静寂さと豊穣さを併せ持ち、また、それが雄弁になることとは全く逆の方向へ深化するように感じるのだが、フルートの素朴にして自然な音の流れは、彼の表現しようとした世界と、ある一致を見たのかもしれない。
彼のフルート作品は、例えば遺作の「エア(95)」など、ドビュッシー的な色彩が色濃く反映しているように聴こえるものの、どちらかというと西洋とも東洋ともつかない不思議な魅力があると思う。武満はフルートの特殊奏法や時に日本の伝統楽器である尺八を思わせるような音色さえ、要求しているし、「マスク(59-60」などはまさに能楽を意識して書かれた曲ではある。だからと言って彼の音楽が純日本的というわけではないようにも思えるのだ。それは、いわゆるタケミツトーンと呼ばれる、彼独自の音なのかもしれない。
彼の曲を読み解くキーワードとして「風」や「水」などとともに、「間」とか「時間」というものもこの盤から感じることができる。「マスク」など日本のフルートでの掛け合いと呼吸が、絶妙なる間を作り出し、目の前を流れてゆく時間を感じることができる。彼にとっては時の流れはまさしく、水や風のごとくあったのだろうか。そういえば、風の中からふとはっとするような光や音を感じる瞬間はないだろうか?そんな感触さえ彼の音楽からは聴こえてくる。
もっとも、武満の曲を多く耳にしているわけでもないし、彼の膨大なる著作群に目を通したわけでもないので浅はかな想像の域を出はしないのだが。
工藤重典は、今年3月の王子ホールでの演奏も聴いてきたが、彼のフルートの音色は独特のふくよかさを備え、ある種の安心感があると感じている。非常に聴きやすくのだが、「日本人のフルーティストの音」と感じる瞬間がある。具体的にどうと言うことが難しいのだが、あくまでも直感的な印象である。
そんな彼が奏する武満徹の世界であるが、透明にして流れるように演奏され、武満の持つ静謐なる世界を十分に表現してくれているように思う。特に親しみやすい「海へⅢ(88)」などは、豊穣にして深淵なる世界を目の前に見せてくれて、音の大海の中へ身を委ねる快感を覚える。ここでも彼の音は柔らかく暖かい。まるで暖流系の海の中を泳ぐようだ。
エアに至っても、一種の子宮に抱かれるような心地よさと暖かさは失われない。エアこそ、題名が示すように風に乗って漂う表層とそれから受ける変化なるイマジネーションを感じることができる。
ところで、レコード芸術4月号の「ディスク・ディスカッション」に、この盤が俎上に乗せられている。その中で工藤の武満の「危うさ」について述べていて興味深い。非常に乱暴に要約すると、『最近武満を癒し系として聴く傾向がでてきた。武満のもつ音楽の美しさを「美しいだけ」と捉えかねられないような演奏はいかがかと思う』というような内容だ。
確かに、工藤のこの盤を何度も聴いてみると、武満のどこが前衛なのかとも思うし、先にも書いたように、しみいるように体に音楽が入り込んでゆくのを感じることができる。これが「癒し」と言われればそれまでなのだが、それが何故、武満にとって「不幸」なのかは分からない。武満は音楽に「癒し」を求めてはいなかったということなのだろうか。
武満のフルート作といえば、ニコレやガロワそして小泉などの演奏などとも比較して論じなくてはならないのだろうが、私には彼らの演奏の違いを述べることがまだできない。また、武満の曲を大雑把に述べることも、どうしてもはばかられる。彼の作品については改めて、ひとつずつ取り組んでみたいと、ゆくゆくは考えている。
尾高&札幌交響楽団&シャンドス
内容は尾高氏とこの盤の選曲のこと、そして武満氏の音楽と細川俊夫氏の音楽に関することである。武満の音楽を理解するキーワードのひとつとして「死と水のイメージ」があるとした上で、今回選曲された武満の「波の盆」もそのイメージを踏襲するものであり、また細川の「記憶の海へ ヒロシマシンフォニー」も、武満の軌跡を辿っていると評する。
「死と水を巡る想念が、武満の旋律的に豊穣な『波の盆』の音楽から細川のクラスター的に豊穣な《記憶の海へ》と伝承されてゆく場に立ち会っている心持になってくる」と片山氏は書く。
現代音楽にうとい私には、細川がポスト武満の最右翼ということさえ知らなかったが、改めてそういう観点からこの盤を聴いてみるのも面白い。畳み込むような音響と独特の色彩感のある曲だが、そこから「海」を感じ取ることができるかは、聴き手のイマジネーションに委ねられる。私はどちらかというと、屋久島の杉のような巨大な樹林を感じたのであるが・・・・
蛇足になるが、この曲にしても、先のマーラー8番にしても「浄化」「再生」というのは、昨今の政治状況に限らず魅力的なテーマなのだなと改めて妙に得心するのであった。
2001年4月28日土曜日
シャイ-&コンセルトヘボウによるマーラー交響曲第8番「千人の交響曲」
2000/01 DECCA 467 314-2 (輸入版)
シャイ-のマーラー・チクルスとしては7番目の録音であるらしい。シャイ-といえば48歳、いま最も注目される指揮者の一人であることは疑う余地もないのだが、彼の演奏に本格的に親しんだのはこの盤が始めてといってよい。(なんて、浅いクラシックファンなんでしょう ^^;;)
レコード芸術4月号の"New Disc & Artists"では、吉村渓氏が「"宇宙が鳴動する総量としての音響体"ではなく"声を主体として組み立てたオペラの極限的な姿"」とおおむね好意的に評している。また、レコード芸術5月号では「新譜月評」に取り上げられていが、小石忠男氏は推薦なしで不満が残るとし、宇野功芳氏は推薦にあげている盤である。また、加藤幸弘さんのHPにおいてこの盤が取り上げられており(2001年3月のCD評)彼は、「この作品の演奏史のターニングポイントとなる録音」とまで述べている。
さて、聴いた感想といえば、この壮大にして、ワタシ的には非常に取りとめない印象を持っていた大曲を、最後の最後まで聴くものを飽きさせず、なおかつマーラーにしてはどろどろとした情念に溺れることなく、なんとも瑞々しい演奏を聴かせてくれる演奏であると感じた。合唱なども美しいうたいであり、音楽の切り口が新鮮で、ラストに向けて徐々に高まる(高みに導く)ほどよい緊張に満ちている。
ご存知のようにこの曲は1部と2部に分かれており、それぞれがCD1枚に納められている。長いと思われる曲だが1部は23分程度であるため、これを機会に繰り返し聴いてみたが、聴くたびに曲の美しさと完結した感動を味わうことができ、マーラーの示した賛歌を堪能することができた。小石氏は「響きに集中力がない」「音程に疑問」「説得力が不十分」と、結構ボロクソなのだが、私にはそのような感想がどうして生まれるのか、まだ分からない。
2部は50分以上であるため、こちらは何度も気軽に聴くというわけには行かないのだが、至福の時間がゆったりと流れるのを感じることができる。独唱や混声合唱は、何度も繰り返しても足りないほどなのだが本当に美しく、対訳を見ながら聴いていると肝心の曲の素晴らしさが損なわれるようで、途中で歌詞カードを放棄せざるを得なくなる。目をつぶって合唱とオーケストラの響きに身をゆだねていると、光が舞い降り高みに上ってゆくような感動さえ覚えるのだ。
また、ラストの神秘の合唱に至る当たりの音響の迫力は言葉にすることが難しい。2部でもこの部位だけは何度も聴いてみたのだが、いくら性能が良くてもヘッドフォンで聴くよりは、音量を絞ってもスピーカーを通して=空気を振動させ 身体で曲を味わいたいと思った。大音量でヘッドフォンを通して聴いてもさしたる感動は得られないのだ。しかしスピーカーを通して改めて聴いてみると、体の奥底から得も言われぬ情動が沸き起こるのを禁じることができない、やはりマーラーは生で聴かなくては駄目なのかと思う瞬間だ。
ところで、マラ8といえば家にはバーンスタイン・WPO(75年ザルツブルク)盤しかない。こういう比較は意味がないとは思いつつも、試しに2部の最後だけ聴いてみた。バーンスタインというのはマーラーの背後霊か何かが乗り移っていたのではないだろうか。ここだけ聴いても、なぜか泣けてしまうのだ。ふたりの演奏の違いは何なんだろう、バーンスタインだと思って聴くからそうなんだろうか。神秘の合唱は混声合唱の中からソプラノが立ち現れる部分ときたら背筋から腰まで貫かれるような感触を覚えてしまうのだ。
シャイ-の目指したマーラーがこの部分だけ聴いても、バーンスタインとは全然違うことに気付かされる。こういう切り口でマーラーを聴かせてくれるとなると、シャイ-の他の盤も気になるのであった。
偉そうにマーラーの盤の感想を述べてみたが、歌詞内容や音楽的な内容に踏み込むには、まだまだ浅い聴衆であることを認めざるを得ない。しかし、マーラーて長いんだもの、やすやすとは聴けませんよねえ(^^)
2001年4月24日火曜日
読売巨人軍 一軍の年棒について
年棒で1億円を何年間もらえるのかは分からないし、所得税により実質的な可処分所得がずいぶんと少ないことも分かるが、一般的なサラリーマンの平均生涯年収が2億から3億程度であることを考えると、うらやましい限りである。
芸能人にしてもスポーツ選手にしても、有能にして人に夢を与えうる職業の者が高額な年収を得ることは悪いことではない。むしろ厳しい実力主義の頂点に立つのが彼らなのであり、特に野球選手たちなどは、小さい頃から普通の子供の楽しみを捨て去さり、あの地位を築いているのだ。批判すべき点があるとすると、巨人の人材集中などだろう。
さて、「人生の成功をそれに見合った金銭的な報酬」と考えるならばだが、今の子供たちには、何が夢とか希望とかに映るのだろうか、と疑問を感じざるを得ない。
ジャパニーズ・ドリームというものがもしあるとするならば、それは起業家精神から発するものではないことだけは、確かなのではなかろうか・・・・
また、「人生の成功」を「金銭的報酬以外」のものとして示すことが出来るだろうか。いや、さらには「人生に成功」なんてあるのだろうか。これが、私が気にかかる、次世代に示しうる「希望」にかかわる部分である。
小泉新総裁
しかし、その何かとは、必ずしも彼の掲げる政策ではないのだと思う。「今までにない、何か変えてくれるだろう」というムードが先行したような気がする。
今の閉塞的な状況(これの定義さえ難しいが)において、ムードでしか希望を示せ得なかったことにも政策論議の限界が見える。
政策論においては、野党がどのように小泉氏と対してゆくのか。私には、政策論においても野党と与党の差異が見えてこない。「日本再生」というキーワードにおいては同じなはずである。
しかし「再生された日本」の着地点をどこに見据えているのか。このヴィジョンこそ重要であると思うのだが、一体それを誰が示してくれているのだろうか? また、我々はどういった社会を望み、子孫に伝えてゆきたいと願っているのだろうか。
2001年4月23日月曜日
政治報道について
要約すると、あまりにも最近のマスコミは政治家の悪い部分のみを強調して、面白おかしくスキャンダラスに報道しすぎる。分かりやすいという理由で、芸能人を扱うのと同じようなスタンスで政治家に接している。ジャーナリズムがスキャンダル性を前面に出すため、それを覆い隠すために「正義」という仮面をかぶる・・・・というものであったと思う(手元に紙面がないため、不正確だと思うが)。かの失策という烙印を押された橋本元総理でさえ、あの時期の勤めとしては仕方なくいのではないか、むしろ「失策」というのはマスコミが作り上げたイメージが大きいと読み手に印象を与える一文さえあった。
橋本氏の部分はおいておくにしても、何と的確に、最近のマスコミの馬鹿さ加減を言い表していることか。確かに、マスコミは政治を冒涜しすぎたのではなかろうか。政治家が醜聞にまみれていることも確かである。しかし、いまの社会において、マスコミはどこにも「希望」を見つけ、若き世代に提示してやることもできていない。
私の小学6年になる息子は、マスコミ報道の政治家の馬鹿さ加減(そればかりだから)にあきれ返り、政治や社会にたいして不信感というものを植え付けられつつあるようだ。平安時代の蘇我氏などの歴史などを覚えるにつれ、「全然変ってないんだね」と感想をもらすのである。
自民党総裁選裁選
それにしても、小泉氏に何を期待したのだろうか。脱派閥や新しい政治の雰囲気は確かに持っている。橋本氏や亀井氏では今の閉塞した自民党から抜け出せないとの意識も分からないでもない。それにしても、圧倒的勝利なのである。
私には、実のところ今回の総裁選の4人の掲げる政策の、根本的な違いというものがよく見えなかった。今でも見えていない。「構造改革」「財政再建」、キーワードはわかるが今までだって試みていたじゃないか。何が根本的に違うのか? 自民党を変えるというが、どうするのか? 既存の既得権益と重層的な利益構造をどう枠組みしてゆくのか? 郵政事業の民営化だって、小泉氏は昔から唱えているが、それだけなのか? 色々疑問はある。
YKKはどうなるのか? 敗軍の将たる加藤・山崎と新たな再生日本を目指すのか? 田中真紀子の果たす役割は? 自ら「変人の産みの親」というくらいだ、これからも重要な位置を占めるだろう。
しかし、政治もよく分からない。
2001年4月22日日曜日
【音盤】カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる「春の祭典」
ヘルベルト・フォン・カラヤン(cond) ベルリンpo.
録音:1963、1964 DG(LP国内版)
カラヤン・ベルリンの63年の演奏である。この組み合わせなのだから、立派な演奏にならないはずはなく、ここでも力強く構成美豊な音楽が展開されている。 音楽雑記帳でも書いたが、この盤を買ったのは高校1年生のときであったと思う。非常に衝撃を受けたと同時にクラシック音楽の奥深さを垣間見た思いがしたものである。
久しぶりに聴いてみたが、かつての記憶がよみがえるかのような名演であると思う。しかし、バーンスタイン、ブーレーズと聴いてきて、カラヤン盤の特徴や限界(?)も見えてきたような気もする。素人の戯言であるので、あくまでも印象と思っていただきたい。
この演奏だけ聴いている分には迫力も満点であり、豊なの色彩美を感じることもでき、非常に満足を受ける。他の盤になくてこの盤に聴こえるものとするならば、無数ともいえる細かな光と色彩の乱舞であるともいえるかもしれない。それは、冒頭の部分から明らかであり、聴き進むにつれて豊なる音の洪水となって押し寄せ、音楽に酔うことができる。そういう点から考えると、この演奏に難を付ける部分はどこにもないと思う。
しかしなのだ、音の迫力も音楽の推進力もあるにも関わらず、何か物足りなく感じるのである。それは何なのだろうか?よくは分からないのだが、カラヤンがこの曲に求めているもが、少なくともバーンスタインやブーレーズとは若干異なっているのではないかと感じるのである。具体的に指摘することは難しい。不正確な表現を承知で書くとすると、どうもカラヤンは、この20世紀の幕開けたるべき偉大なる前衛の音楽を、非常に真っ当に、前衛的にとか原始的なエネルギーを込めてというのではなく、19世紀までの音楽的手法の延長のようなアプローチで立派に演奏している、というように感じるのだ。
先にも書いたように、音楽的には申し分なく、明の部分から暗の部分への移行や対比も見事であるし、暗い戦慄の奥で鳴る複雑な音色も良く聴き取れる。どこを切っても、豊穣なる音の塊が聴こえるしそれで十分とも言えるし、この音楽の持つ複雑性を見事に表現しているとは思うのだが、何か肝心なものが嗅ぎ取れないのだ。それは、ギリギリの線からはみ出しているかのような、危うさやスリル、鋭さなどが欠如していると言ってもいいかもしれない。もっともこれは「好みの問題」だとは思う。
この盤に対する他者の評は読んだことがないし、聴いた盤もポンコツプレーヤーで昔のLPである。ノイズがカリカリ言うのを我慢しながら聴いているので、再びもっと良い音で聴けば、印象は変わるかもしれないが・・・
フルートの頭部管の凹みもきれいに治って戻ってきました
レッスンは、練習もしていないのに着々と進みまして(@_@;;、プラヴェのソナタは3楽章、4楽章、5楽章と進んでしまい、とりあえず終了なのでした。この手の曲は装飾音をいかに美しく入れることが出来るのかがポイントなんでしょうが、トリルは音ごとに回数が異なり、ひどいモンです。早い部分もうまく吹けないし。替え指とか教えてもらうのですが、かえってこんがらがっちゃって、全然簡単にならないてのも、カナシイものがあります。
笛吹くという作業も、結構指のコントロールなどは運動神経が大きく影響していると思いますね。頭で分かったことをそのまま指に伝えることのできる能力と言うんですか?あるいは、目からの情報を頭を経由しないでそのまま腹筋(横隔膜)と指に伝える能力、ていうんでしょうか。私の場合、絶望的ですね。
アンデルセンの練習曲は3番をもう一度レッスンで受ける。速度が遅くなったり、もとに戻ったりの部分が、うまくコントロールできておらず全体として流れが悪い。それに音が跳躍する部分は相変わらず、喉が「グエ」とか鳴っちゃって、全然音が鳴りません(><)。あーあー、やっぱ練習足りないねえ。
2001年4月19日木曜日
総裁選が熱いのですが・・・・
総裁選が熱い。かつてこんなに話題になった総裁選があっただろうか?
小泉候補は「私が総理になったら、総理を国民の投票で選べるように変える、自民党を変える」と力強いです。人気のあるのも分かる。田中真紀子氏は、少々口が滑ったという印象も受けるけど、古賀幹事長もやりすぎだった。お互い、虚実の駆け引きがあるのは分かるが、野中さん含めて、どこまで現状に対する危機感があるのだろう、と疑問府はつく。
ところで、小泉候補て外見がいいという定評だけど、「ぼのぼの」の ぼのぼの か しまりすくん に似てません?近親の田中真紀子もリス系ですよね。だから応援していたのかな。亀井候補はさしずめ「あらいぐまラスカル」ですな。麻生候補と橋本候補はコメントしません。あまり好きな(顔の)タイプじゃないんで。人の好みはそれぞれで、「橋本さんはいいけど、亀井さんだけは(スタイルの点で)許せない」という人もいるんだよね。私は4人の候補を顔で判断するなら、橋本さんが一番ヤだなあ。
冗談はさておき、政策的には・・・・うーん。どうでしょうね。私たちが選ぶわけではないのですがね。
2001年4月17日火曜日
【音盤】ブーレーズ指揮 クリーブランド管弦楽団による「春の祭典」
ピエール・ブーレーズ(cond) クリーブランドpo.
録音:1969 SONY SRCR(国内版)
ブーレーズもこの曲を四度ほど録音している。この盤69年版は、ブーレーズがクリーブランドと組んで録音したもので、「春の祭典」の歴史的名盤とさえ言われている演奏だ。現代においても、これ以上の演奏は91年、やはりブーレーズとクリーブランドの二度目の演奏しかないという者もいるらしい。それほどの演奏なのである。
演奏の感想というものは、比較する盤や始めて聴いた盤での刷込みや、他者の批評や感想から完全に自由な状態で書くことはほとんど不可能と言ってよい。特に、ある演奏での刷込みがある場合、それが先入観となってしまい、その盤の印象をぬぐい去るためには、現在聴こうとしている盤を、新たな刷込みとするほどに聴き込まなくては感想を書くことなど望めないのではないかと暗澹たる気分に襲われる瞬間さえある。これから書こうとする「歴史的名盤」に対して、どれほど「束縛」から開放されているのかは、自分自身知る由もないのだ。
さて、言い訳が長くなった。ご多分に漏れず敢えて書かせてもらうなら、この盤から聴き取ることが出来るのは、豊饒なる色彩の乱舞と作品の持つ複雑さと美しさ、そして強靭さである。
バーンスタイン盤(58年)で感じるような、感情が高ぶり畏怖さえ感じるような部分や、ほとんどデモーニッシュな雰囲気は少ないと言えようか。しかし、それだからと言って、作品の輪郭がぼやけたり曖昧であるということは微塵もないのだ。むしろ、この盤との比較で考えるならば、バーンスタインの演奏は、若さ故の突っ走りと情動の部分に偏り過ぎているようにさえ思える。
例えば、第一部の「春のきざしと若い娘達の踊り」の部分など、単純なリズムの連続の中においても単調さはかけらもなく、常に変化し続ける動きが見えるし、曲が進むに連れて次第に色彩豊になってゆく様は見事な描出力を感じる。「誘拐の遊戯」にしても抑制を効かせた表現が、いたずらにして無意味とさえ思えるカタストロフを演じることを避けているようにさえ思えてくる。そして、これは録音のせいなのか、オケの特徴なのか、指揮者の力量なのか、実に色々な音が見えかくれし、どの瞬間を切っても新たな驚きと、新鮮さに満ちているのだ。
バーンスタインの演奏が、切ると血が出るような生々しさと凶暴さに満ちているとするならば、ブーレーズの演奏は、切口が鋭利で鋭く、歯切れよく、瑞々しい植物の細胞の一つ一つが潰れることなく、試験薬に染まりその姿をあらわにしているかのような感触さえ覚える。
また不調和の調和の美というものが、たぐいまれな精緻さの中でこれでもかとばかりに描出されている。ここらあたりも、バーンスタインが一気に押しまくっているのに対し、実に丁寧に色々な色彩のパレットを使い分け、互いの色が混ざらぬようにに描き分けていると感じるのである。第二部にしても暗黒的なミステリアスさの表現は、息を飲むほどの美しさであり、イメージ豊であるがために情景描写的であるとさえ思える。
このように、精緻かつ鋭利にこの曲にアプローチすることで、「分析的」とか「明晰な」いう表現を与えられるのかも知れないが、それでいてこの作品の持つ強靭さやエネルギーが失われていないことが名盤たる所以なのであろうか。(それにしても、音楽音痴な私には、どこが「分析的」でどごか「明晰」なのかは判然としないのだけどね・・・・)
ただひとつだけ、バーンスタイン盤と比べて欠けているのは、この曲を聴いて感じる圧倒的な内からこみ上げる肉体的とも言える情動感であろうか。根源的な、あるいは本能的な有無を言わさぬパッションと言ってもよいかもしれない。そういうものをこの演奏から感じることは、ない。もっとも、それがこの曲に「不可欠」なものであるのかは、私には分らないのだが。
2001年4月16日月曜日
【音盤】「春の祭典」聴き比べ
ハルサイといえばブーレーズが定番だったので、 91年盤にしようかと思ったが、69年盤を入手してしまった(^^;;
まずはバーンスタイン盤から始めよう…、この盤が数ある「春の祭典」の中でどういう評価を受けているのかは知らないが 衝撃度はピカ一なのではと思う。それは単に私が、バーンスタインの音楽を受け入れやすい性格だからなのかも知れないが。
ファジル・サイ
2000年夏に発売され、方々で話題になったファジル・サイ。かのClassicaJapanでも絶賛されていた(当該HPのDISK WOW!参照)。キワモノ的なイメージが付きまとい、気にはなっていたのだが購入意欲までは湧かずにいた。春になったし、やっぱりここはディーリアスかハルサイかななんて思って購入(1000円ちょっとだし)。続きはCD試聴記で!
春の祭典を初めて聴いたのは、たぶん高校1年のときだったと思う。友人「凄い音楽がある」と教えてくれた。その時に買ったのが、カラヤン・ベルリン(63-64年)の演奏であった。「春の祭典」は紛れもない前衛的な音楽で、不協和音のカタマリであったのに、それは衝撃的な音楽として深く心に刻み込まれた。LPのノーツによると年をまたいで録音した演奏のツギハギということなのだろうか?非常なる名演ではあると思うが、何かが足りないと思うことも事実なのであった・・・
バーンスタイン ニューヨーク・フィル
バーンスタイン・NYPの58年の演奏。ハルサイといえば、ブーレーズが有名らしいが、クラシック初級者の私は聴いたことがない。それを前提として書くと、改めてこの演奏を聴いてみると、体の底を貫くような衝撃を覚えてしまった・・・・。残念ながらCD試聴記はまだ書けない。ここ数日、ハルサイ漬けである。
バーンスタイン版(58)の後に聴くのは、「春の祭典」の歴史的名盤とまで言われる、ブーレーズ・クリーブランドの69年の演奏である。ブーレーズは91年にも同オケと再録している。「歴史的名盤」といわれるものであるため、嫌でも色いろな批評が目に入ってしまう。それらから全く先入観なしに曲を述べることは、難しいと感じざるを得ない
2001年4月15日日曜日
【音盤】バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルによる「春の祭典」
録音:1958.1 SONY SRCR9941-2(国内版)
「春の祭典」の魅力と言えば、音楽的には色々あるとは思うが、ワタシ的には原始的なリズムと荒々しさ、そして内側からこみ上げてくるような生命力ではないかと思っている。
そもそも「春の祭典」というのは、野蛮にして暴力的な音楽である。ストラヴィンスキーが着想したテーマもさることながら、厳しい寒さを経験した後の北国の爆発的な春を象徴するかのような激しさと、強烈な色彩感に満ちている。固く閉ざされた生命が一気に沸き出し乱舞するさまは、地面がバリバリと音を立てて割れるかのような印象さえ与える。さらには、土俗的というかバーバーリアンな雰囲気さえ漂い、とても近代的とは思えないテーマを、それとは逆に非常に前衛的な雰囲気で構成した音楽だと感じる。
今ではこの曲をを前衛的という人は少ないかも知れない。しかし、改めて聴いてみれば、私はこれを現代においてもきわめて「前衛的」であり「挑発的」であると思うのだ。これほどの不協和音の連続でありながら、広くポユラリティを獲得し得ている音楽というのは、他ではないのではないかとさえ思う。不協和音のカタマリみたいな音楽でありながら、旋律的であるという、よくワケが分らない音楽でもあり、そこにこの曲の不思議な魅力があると思うのである。
バーンスタインは「春の祭典」を3度ほど録音をしている。この盤は一番若いときのものであり、1958年といえば彼がNYPの常任首席指揮者楽督に就任した年だ。
この盤から聴こえるのは、若さとすざまじきまでの荒々しさと凶暴さである。若き獣が牙をむいて地の底から硬い殻を突き破って襲いかかってくるかのような、壮絶なる迫力に満ちた演奏であると思う。それは若きバーンスタインの野心そのものとさえ思えてくる。録音のせいだろうか、ともすると迫力は満点なものの、少々明晰さを欠き、モコモコした音に聴こえる部分もないわけではない。打楽器群の音も生の編集されない音なのかは疑問も残るが、CD芸術として聴くならば、その凄さは特筆ものであると思う。
バーンスタインは、この曲の持つ生命力を十二分に引き出すことに成功していると思えるし、その乱舞する音楽とスピード感は非常に刺激的である。ただ、不思議なことに演奏時間を見ると、それほど「快速」系の演奏ではないようだ。以下にこの曲の聴き所を見てゆきたい。
第一部の「序章」は、様々なものが春になり萌え出ずる雰囲気が良く表れている。非常に美しい部分だと思う。「春のきざしと若い娘達の踊り」は有名な部分だが曲全体としてみると、まだ整然とした雰囲気を残しており、序の口といった印象であることに気付いた。単調なリズムは高まる地の鼓動であろうか、色彩感も豊かで非常に聴きごたえがある。「誘拐の遊戯」の迫力は聴くものを鷲掴みにして地上から空中高く放り投げるかのような狂暴さがあるし、圧倒的なスピード感がある。「春のロンド」の重々しい雰囲気、コントラバスのこれでもかというばかりの響きと、春の荒々しい開花を表す部分(?)は、脳天を直撃という程の迫力だ。「競い会う部族の遊戯」に至っては、バーンスタインの語り口の凄さにもはや言葉を失ってしまうのだ。バランスを崩しそうな微妙なギリギリのところで保つ均衡と緊張、全てを圧する力を感じる。「大地の踊り」の部分など冒頭のティンパニーの連打は言語を絶し、押し寄せる音の塊には感動を通り越し、恐怖さえ感じる。
第二部に至っても、この迫力はいささかも衰えるところがないばかりか、秘めたる暗さやある種の暗黒性が宿すミステリアスさと、根源的な生命力まで表現されており、聴くものの体の底から震撼させる音楽に仕上がっていると思う。「若い娘達の神秘な集い」に移る当たりからの部分は、この演奏の白眉たるところだ。もはや、聴いてもらうしかない、とにかく凄い! ものすごく太い棍棒でぶったたかれたかのような衝撃を受けた。
ここで、「春の祭典」はバレエ音楽として構想されていることに改めて思い出す。バレエといっても、「白鳥の湖」のような優雅さではなく、舞踏という表現の方が適切なのかも知れない。舞踏というと、私の場合、ともするとある種の暗黒性と生命力をイメージせずにはいられないのだが、バーンスタインのこの盤は十分過ぎるほど、これらを表現しつくしていると思うのだ。
この拙い感想を書くために、実はこの演奏を十回くらい繰返し聴いただろうか。聴くたびに決して色あせることなく、その度に新たなる力を与えてくれる演奏である。いささか、感想が単調になってきてしまったきらいがないではない。しかしだ、バーンスタインと言うものは、聴衆の深いところにグサリと入り込んでしまうような、不思議な魅力が確かにある。
正当な「春の祭典」評価において、この盤がどういう位置付けかは分らないが、私にとってはこれ一枚あれば、他の演奏がどうであれ、正統的な演奏が何であれ、どうでも良いとさえ思えてしまう。
2001年4月9日月曜日
家で練習していたのです。そうしたら携帯が鳴りました
すぐに楽器店に持っていきましたが、たまに練習するとろくなことはありません。やっぱり楽器は飾っておくのが一番てか?
練習していたのは、ヘンデルのソナタですが・・・「ヘンデル=ヘコンデル」ていう刷り込みが、ああ・・・
2001年4月8日日曜日
ファジル・サイによる4手ピアノ版「春の祭典」
ストラヴィンスキー:「春の祭典」 ピアノ版
ファジル・サイ(p)
録音:1999 TELDEC WPCS-10570(国内版)
昨年(2000年)、いろいろなところで話題になった盤である。トルコ生まれのピアニスト、ファジル・サイがストラヴィンスキーの「春の祭典」4手ピアノ編曲版を、多重録音で一人で奏した演奏である。
クラシックで多重録音ということで、保守的なリスナー(要はオレのことだ)にはキワモノ的なイメージが付きまとったのではないかと思う。輸入版だと1000円以下、国内版でも1200円と安いので(録音時間も30分だが)、まあ物は試しと半年以上の前の新譜だが聴いてみた。
私もピアノができたら、好きな曲を思う存分弾いてみたいと思ったことがある。最近ではMIDIにより。一人あるいはコラボレーション作業でオーケストラをシミュレートし自分の好みの演奏を作り上げることができるようになってきていると聞く。ファジル・サイがこのような試みを行ったときのきっかけは、自分の好きな曲を、自在に操って演奏したいという強い欲求があったのではないかと思うのだ。
聴いた感想としては、非常にスリリングな演奏であるばかりか、ファジル・サイの曲への思い入れと愛情があふれた、一種独特の世界が形成されていると感じた。ファジル・サイの演奏は物凄く激しく、もはやピアノと性交しているのではないか(表現が下卑ているが)とさえ思わせる。サイの唸り声ともうめき声ともつかぬ音まで入っているのだ。
だからと言って、トンデモ的なイメージは全く無い。ここにはストラヴィンスキーが「春の祭典」で表現しようとした(と思われる)、原始的な暴力的とも言えるリズムと、内からこみ上げてくるような生命力が見事に表現されており、将に正攻法の演奏と言ってもよい。
ピアノの内部奏法をまで駆使するところには、彼の並々ならぬ情熱を感じるし、それがピアノという楽器が出すことのできる音色を限界までに引き出し、ピアニズムの極致とモノクロームな色彩がはじけていると感じた。色々な奏法や弾きかたをすることでオーケストラの音色を思わせるような部分も多く楽しめる。弦のピチカートを模したような音もあり、非常に豊穣である。
激しいだけではなく、例えば第一部の序奏などは、透明感があり一瞬JAZZを聴いているのではないかと思わせるような雰囲気さえ漂うのだ。第二部の序奏などオケ版よりもミステリアスに感じるかもしれない。
もっとも、オケ版との比較ということでこの演奏を聴くことは無理があると思う。ピアノが表現しうる限界までを追及した、特異なる盤と言えるのではないか。ただ、録音のせいなのか激しい演奏であるものの、思ったよりダイナミックレンジは大きくない。そこら当たりに不満を感ずる人もいるかも知れない。それに、何より、ファジル・サイによる生演奏を聴く事はおそらく叶わないのだ。
2001年4月2日月曜日
【本棚】トマス・ハリス:レッド・ドラゴン
ハンニバル・レクターという類まれなるキャラクターが初めて登場した小説である。おなじみのクロフォードやグレアムといったFBIの捜査官が主人公である。
小説ではすでにレクターは人喰いの連続殺人犯として重度の警備体制が敷かれた牢獄に捕らえられているものの、精神学界などに貴重な論文などを提示しつづける高い知性の持ち主という設定が与えられている。また、グレアムが捜査上のアドバイスをレクター博士にもらい、レクターが何度か意味深いレターをしたためるというのも、この頃から彼に与えられた性格であったようだ。レターは藤色の便箋に書かれ、趣味のよさの片鱗も表している。
とは言ってもこの小説はレクターの小説ではない。ダラハイドという人喰い連続殺人犯とそれを捕まえよとするグレアムの壮絶なる物語である。レクターが果たす役割は、さかれたページにしてもごくごくわずかである。また、この小説では「ハンニバル」のように作者がページの中から顔を出すこともない。従って「ハンニバル」の小説の雰囲気や、レクターのルーツを求めてこの小説を読むならば、期待はずれを感じることだろう。
「レッド・ドラゴン」というタイトルが示す、自らを「赤き竜」と名乗る殺人犯ダラハイドの描写は非常に不気味である。しかし、幼児期の悲惨な過去がトラウマとなり分裂気味の性格が連続殺人を犯したとするような、まあ今となっては定型的(といってしまうと語弊があるが)な犯人像が、読者に安心感を与えていることも否めない。つまり荒唐無稽なメチャメチャなキャラクターではないわけだ。ここらあたりは、ベストセラーとなった「FBI心理分析官(1994)」などが世に出され(それとて「羊たちの沈黙」のメーキングを示す形で出版されたと記憶しているが)、「快楽殺人犯」の過去を暗黙のうちに了解しているからかもしれないのだが。
この小説が書かれたのは1981年、サイコ・ホラーなどという言葉はまだない時代だったかもしれない。そういう状況にあっては、この小説の不気味さや異彩は格別であったろうと思う。
ラストに向けては、作者の中で悪の中に救いを求めようとする姿があるような気持ちも汲み取ることができる。悪を救うのが、どういう形であれ「愛」であるという結論を持ってくるところは(ハッピーエンドは決して得られていないが)、このような怪物を生む原因も「愛」の欠如であるという点から導いていることからも、妥当であると思う。考えてみれば、「ハンニバル」でレクター博士を救ったのもやはり「愛」だ。
もっとも、このような「絶対的な悪」「悪魔的」な人物像と言うものを憎む気持ちよりも、冷徹に「善」と「悪」をどこか違う境地からトマス・ハリスは眺めているような気がしてならない。また、「悪」は必ず「愛」の前では無力であるみたいな、楽観的な見方についても疑問符を投げかけているようにも思える。
最後にふと思うのだが、はからずも「ハンニバル」での一説が脳裏に蘇るのだ。
「猥褻で俗悪なものに絶えずさらされた結果、大方の人間の神経が鈍麻してしまった現在、われわれの目にいまなお邪悪に写るものを確認しておくのは、無益なことではない。われわれの柔弱な意識のじめついた贅肉を激しく打って、いまも強い関心を書きたてえるものは何か?」
そう、われわれは既に「レッド・ドラゴン」の凄惨さには慣れてしまっているのだ!!









