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2002年1月17日木曜日

ゼネコンの贈収賄事件に思う(その1)

茨城県石岡市長への公共工事受注に絡む競売入札妨害容疑で逮捕された「業際都市開発研究所」(東京)の捜査を進めるかなで、山形県の県立病院の受注工作に動こうとした際、大手建設会社 鹿島(東京本社)の贈賄申込み疑惑が既にあったことを知り、手を引いていたとの記事が18日付の北海道新聞夕刊 社会面に報道されていた。

鹿島は古くから東北地方には絶大なる強みを持っているゼネコンであり、前回のゼネコン疑惑(宮城県知事への贈収賄)のときも副社長以下数名が逮捕されている(他の大手ゼネコン幹部も数名逮捕されている)。

このような記事に接するたびに「またか」という気持ちと、深い怒りが込み上げてくる。何度、反省すれば気が済むのか、何度摘発されれば懲りるのか。いやいや、絶対に懲りることなどなく、あるものがスケープゴードとして祭り上げられれば、別なルートをまた考え闇で暗躍しようとするのだろうか。

表向きは不祥事とあれば、「世間」に向けて頭を垂れ、社外には綺麗ごとばかりならべ、首をすくめてやり過ごす。責任も罪も実際は感じてなんかいない。酒を飲んで運転を繰り返す、確信犯と同じである。信用失墜は当事会社のみならず、業界全体に及び、最終的には発注者への不利益=国民への裏切りと不信ということにつながるというのに。

なぜこのような体質が改善されないのか。「悪」が元から絶たれていないから、ということもある。しかし「悪」の元とは特定の幹部のみではないのではなかろうか。企業や業界体質というのは受け継がれるものだ。企業としてのDNAは、入社したときから社員の体の中に組み込まれてゆくものだと思う。いくら「私はちがう」「会社の中には真面目な者も居ます」と言った所で所詮は同じ穴の狢、腐敗のDNAは体の中に潜んでいるのだ。いつそれが増殖するかは本人の資質次第であるにしても、ある外的刺激により知らぬ間に自己増殖していないとも限らないのだ。

ゼネコンの不良債権問題も根深いものがある。銀行の再編成も始まっており、まさに不良債権をどう処理するかに経済界の論点は移行しつつある。このような時期に、いくら96年時点でのものであるとは言っても、私は総入れ替えのようなことでも起こらない限り改善されないのではないかと暗澹たる気持ちになる。

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