2007年5月31日木曜日

では、ギーレンのマーラーはいかに


ギトギトしていないベートーベンを好感に思い、ついでなのでNMLでマラ6を聴いてみる。




録音は1999年なのでかなり新しい演奏。ギーレンの路線は変わらず、硬質にして整然。クリアにして透明。美しくはあるが耽美には傾かない。激情はあっても、あからさまで無制御な感情の放出は皆無。すなわち、音楽的な峻厳さや落差は十分に表現されるが、そこから情念のようなもの、あるいは破滅的な暗さまでは感じない。それ故というのだろうか、計算された演奏は音楽的な美しさと構成美を際立たせる。


では、これがマーラーなのかと問う。マーラー好きには、マーラーに求めるカタルシスは得られないかもしれない。このマーラーを通してギーレンは何をしたかったのか。たった二つの演奏を、ラジオ並みの音質*1)で聴いただけで、これ以上語る無謀はできない。ただ、このテの指揮者は、録音と実演の印象が全然異なるような予感はある。もしもホールで聴いたならば、その音響世界にブチのめされる可能性は否定できないなと。


クラ界定番の下記サイトに詳細レビュあり。


◇


  1. NMLが「ラジオ並の音質」というわけではない、念のため・・・。会社PCのヘッドフォンが酷いだけのことである。

2007年5月30日水曜日

疲れたときのギーレンのベートーベン


��MLは私の場合、会社のPCでも聴取可能です。毎日が仕事にただ流されていく中、NMLの薦めるままに、ギーレンのベト3を聴く。聴いて、思わず愕然として、心が洗われる。そして、やはり何か書かなくちゃという気にさせる、そんな演奏。





これって、本当にベートーベンなんだろか。第一楽章の軽快さ、優雅さ。一瞬シューベルトかと思う程の天国的リピート。


私はコアなクラシックファンではない。だからギーレンが、どちらかというと熱血系とは対照的な指揮者であることくらいしか知らない。従って食指の動く指揮者とはならず、彼の音盤が私のCD棚に存在するかさえ確認したことはない。


しかし、これは良い。というか、コテコテ演奏を受け付けない位に疲弊した体には、滋養のように染み込む。カラダに悪い脂肪分が取り除かれたサラサラの液体のよう。しかもそれでいて、ベートーベンなのである*1)。ドライな印象であってもベートーベン的なるものは細胞の核のように残り、そしてサプリメントのようにどこかを鼓舞してくれる。

◇


  1. コレステロール1/2のマヨネーズとか、カロリーを抑えたギガ・マックとか(←ないって、そんなもの)

2007年5月19日土曜日

【本棚】ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則


「Good to Great」というのが原題。

ドラッカーの書もしかりですが、優れたビジネス書は働くものに多くの知見や啓蒙ばかりでなく、人生に対する希望や可能性さえ与えてくれる指南書であることが多い。そこには目新しいことは書かれていないかもしれないが、現状に閉塞感を感じているならば、何かしら目を開かせてくれる言葉に出会うものです。

そんな中にあって前書の「ビジョナリー・カンパニー」(→レビュ)は目からウロコ級の極めて優れた書でしたが、本書も同様であり、ベストセラーの名の下の二番煎じやドジョウなどでありません。

ここでは本書の要旨やポイントについて言及するつもりはありません。手軽に知りたければamazonのレビュを参照すればよく、また章ごとに要約が端的にまとめられています。

私が一番感心したのは、本書のスタンスです。筆者のジェームズ・C・コリンズと今回の調査研究に携わった研究者達の膨大な尽力には畏敬の念さえ覚えます。そして、それこそが本書の大きな魅力だと思います。

前書でもそうでしたが、「自社ビルを見つける」落とし穴を避けるという問いの立て方は重要です。ビジョナリー・カンパニーに共通する特徴を見つけるのではなく、これらの会社が本質的に違う点は何か。ほかのグループの会社と比べて際立っている点は何かという問いを立てろと主張します。今回はビジョナリー・カンパニーの替わりに、飛躍した企業に対し同様の問いを立てて調査研究が進みます。

前書の読者からの素朴な疑問に立ち向かうため、前書の前提を一旦捨てた所からスタート、5年間に渡る徹底的な調査と討議。ともすると陥りがちなはじめにあった理論を調査によって試すか証明する方法は取らず、データと事実にのみ準拠する姿勢、その結果から導かれた結論の重い説得力。プロセスに妥協は無く、驚くべき真剣さと熱意に打たれます。

そして、これらの活動の根本にあるのは、あふれるばかりの好奇心。

こういう質問をよく受ける。「そこまで大がかりな調査研究を進めた動機は何なのか。」的を射た質問だ。この問いの答えは一言でまとめられる。好奇心である。答えを知らない疑問をとりあげて、答えを追及していくことほど面白いことはない。(P.8)

そうなのです。だから本書は読み始めたら止まらない程に面白いのです。ビジネス書でありながらワクワクし、ドキドキし、自分の自身や所属する組織に思い巡らし、そして何かに気づきます*1)。

一方で、しかし、とも考えます。

GEの偉大な経営者であったウェルチもそうですが(→たとえばこれ)、なぜ発展すること、勝つこと、Greatになることが重要なのか。拡大することを宿命付けられた資本主義の幻影を追っているだけなのか。否と筆者は応えます。

「なぜ偉大さを追求するのか」という問いはほとんど意味を持たない。(中略)

ほんとうに問題なのは「なぜ偉大さを追及するのか」ではない。「どの仕事なら、偉大さを追及せずにはいられなくなるか」だ。

つまりそこそこの成功で十分ならば仕事の選択を間違えているのだと断言します。

このような疑いのない明るさをベースとしたポジティブさに抵抗を覚える人もいるでしょう。理解はしても斜に構えたくなる人もいるかもしれません。それでも本書の語ることを無視はできません。どこかで成功するとか何かを達成するということに対し、そして少しでも人生の意義を見出そうとするする人であれば、本書から何かを得られるはずだろうと*2)。

◇

  1. 気づくことの多くは、ゲンナリさせられるものばかりなのだが・・・_| ̄|○
  2. 逆に言うと、そういうことに全く意義を見出さない人には役に立たない、というか、そういうことに興味のない人は・・・そもそも、こういう本を決して読まないだろう。

2007年5月7日月曜日

【音盤】連休の終わりにシェーファー

今年もGWは終了。有楽町方面の熱狂は今年も全くスルー。来年こそ熱狂デビューできることを、ひそかに期待しながら、さて明日から仕事である。別に今更憂鬱にもならないが、初日からトップ・ギアで月末まで走らないと間に合わないだろうことは予想され、やれやれではある。

ということで、クリスティーネ・シェーファーを数枚聴いている。まずはNMLで、バッハやハイドン、メンデルスゾーンを。

バッハはコーヒー・カンタータも良いが、結婚カンタータの方がレチタティーヴォを含めシェファーの歌声を堪能できる。

続いてHMVでゲットしておいたシューベルトとシェーンベルク。


        
  • 457 630-2 シェーンベルク:月に憑かれたピエロ/ブーレーズ
  • C450971A シューベルト:歌曲集

シェーファーは、クラ系ブログでもチラホラ話題に上る期待の歌手(例えばここ→Takuya in Tokyo)。薦められるままにNMLでシューベルトの「冬の旅」を聴いて以来、その歌声が気になって仕方がないのである。古楽やロマン派も良いが、やはり予想に違わず現代曲も素晴らしい。彼女の硬質にしながらリリカルな歌声は確かに現代的であるように思える。ただし、感想を書けるほどには至っていないので、これにて。

これもTakuyaさんのブログで知ったのだけど(→http://blog.livedoor.jp/takuya1975/archives/50324383.html)、古楽と現代曲しか聴かないクラシック・ファン(「中抜き」)というのが存在するらしい。私の知る知人には居ないが、著名人では石田衣良氏などがその典型なのだろう。彼の小説は読んだことがないので分からないが、外見から判断する限り、テンシュテットのマーラーとか聴いて泣いたりはしないのだろうな・・・と。

2007年4月22日日曜日

[NML] マルティーヌ


��MLでボフスラフ・マルティーヌの室内楽を聴く。



アムラン(→hyperion)の演奏でも聴こうと思ったら、ゴドフスキーかマルティーヌしかない。アルベニスやアルカンはまだ収録されていないらしい。仕方ないのでカナダのレーベルANALEKTA(→公式サイト)によるマルティーヌの室内楽を聴いてみた。


ヴァイオリンはレーベルを代表するカナダの女性ヴァイオリニストAngele Dubeau(→公式サイト)、フルートはマリオンである。この組み合わせは何と言うか、とても素晴らしい。マリオンの的確なフルートに、硬質なアムランのピアノ。そしてデュボーの引き締まったヴァイオリン。2曲目 H.274ではアムランのハープシコードも聴ける。フルートとピアノためのソナタ H.308やフルートとピアノためのスケルツォ H.174Aではアムランとの掛け合いでマリオンのフルートが冴え渡る、結構快感。他の曲もリズミカルでベタ付かない、これは持っていてもいいかも。というか、こういう曲を小ホールでピリリと聴きたい!


ちなみにマルティーヌは宮下誠氏の「二十世紀の音楽」では下記のように数行説明されている。宮下氏的には余り重要な作曲ではない様子。


ヤナーチェク以降、チェコを代表する作曲家の一人。(中略)無調、新古典主義など同時代西欧前衛の影響を受けながらも、象徴的、叙情的な独自の音楽を多く生み出した。


説明の通りマルティーヌの曲からは前衛や無調より抒情面を感じ、懐かしささえ覚える。アムランのピアノを聴く筈が、マリオンのフルートでマルティーヌを堪能するハメになってしまった。まあ、これはこれでいい。あ、デュボーもいいと思うよ。


当然のことながら、マルティーヌは今年の「熱狂の日」でも取り上げられる重要な作曲家(→作曲者説明)である。ついでながら熱狂の日で取り上げられるヤナーチェクの曲は以下らしい(>どれも行けないけど)。


  • おとぎ話(チェロとピアノのための)
  • 草陰の小径を通って 第1集
  • 霧の中で
  • ピアノ・ソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」
  • 弦楽のための組曲
  • 野鴨(無伴奏合唱)
  • 狼の足跡(女声合唱、テノール、ピアノ)
  • 天にいますわれらの父よ(テノール、合唱、ピアノ)
  • コンチェルティーノ
  • 弦楽四重奏曲 第2番「内緒の手紙」


さあ、今日は引きこもっている時間はない。お出かけっと!

モーツァルト:ピアノ協奏曲 K.414、K.467、K.488/ファジル・サイ

  1. ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414
  2. ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
  3. ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488
  • ファジル・サイ(p)
  • チューリヒ室内管弦楽団、ハワード・グリフィス(cond)
  • naive V4992

随分前に買って*1)iPodにも入れて何度も聴いていた曲なんですが、まだ感想を書いていませんでしたので、ちょっとだけ記して*2)おきましょう。

モーツァルトのピアノ・ソナタであれほど個性的な演奏をしたサイですから、ピアノ協奏曲となると一体どうなってしまうのだろう、彼の個性は発揮され得るのだろうかと若干の不安を持って聴きはじめた盤ではありましたが、まさにここには紛れもないサイの演奏が、そしてサイの美学がぎっちり詰まっていました。やっぱりサイのモーツァルトは素晴らしい。

例えば冒頭のK.414が始まったと同時に、低くかすかな唸り声が入ります。これが耳障りという人も居るでしょう。しかし、その繊細な舞うがごとき演奏からは、サイがすぐにモーツァルトの音楽世界に没入していることを知らせてくれます。協奏曲でも、サイの弱音のピアノのタッチ、鳴らし方、唄い方は絶妙であります。緩徐楽章のAndanteの美しさときたら、ここを聴くためにだけでも何度も本盤を取り出したくなります。

K.414の軽いジャブの後は、あまりに聴き慣れた名曲のK.467です。グリフィス率いるチューリヒ室内管弦楽団も小気味良い軽さでオケを鳴らしているようです。さりげなく滑らかに入るサイのピアノの明確さ、少し暗転するモーツァルトの翳と陽の妙。モーツァルトを聴く至福がこの最初の数分間に凝縮されています。サイのピアノとオケによる波状攻撃は、この曲を初めて聴くかのような興奮と哀しみと悦びを与えてくれます。

そしてサイ・オリジナルのカデンツァのドキドキする展開、茶目っ気とユーモアと美しさ、・・・言葉は余りにも無力か。Andanteの夢見るような旋律は、安穏とした午睡ではなく、モーツァルト特有の喪失の予感が巧みにオブラートされているかのよう。これまた眩暈がするほどにメランコリック。水晶を通して乱反射する硬質な陽光。終楽章ラスト近くのピアニッシモは冗談ではなく息が止まるかと思うほど。

最後のK.488も、これまた長調の明るくメランコリックなモーツァルトが炸裂しています。川田朔也氏は「CDジャーナル」に、

ショッキングなほど音を切る23番第1楽章のカデンツァが如実に示しているように、サイが目指すのはスタッカートを軸にした軽い音作り。同じ23番第2楽章のスタッカートを、譜面通りに、しかもやや強調して弾き、嬰ヘ短調の憂愁に異分子を混入させたかのような奇異さで耳を引きつける

と書き(→amazon)、宇野功芳氏は日本版のライナーで

シンプルな「K.488」の第2楽章は、あの長い主題を最弱音だけで進めてしまうが、それでいてだれず、小手先に終わらず、その独白がなんともいえない。

と絶賛しています。この余りにも有名な嬰ヘ短調のAdagio。確かにモーツァルトのペーソスではある。くぐもったペダルワークによる旋律、強調されたスタッカートによる上昇。霧の中、着地点も目標も見えない彷徨。聴きようによっては、ここにない、どこか他の場所に通じる場所に向って歩むかのような趣さえ感じます。それだけに終楽章が始まったときには、こちら側の世界にグッと引き戻された思いさえしてホッとします。モーツァルトって、やっぱりコワイ。そして、演奏からこんな「夢」を見させてくれるサイに改めて感服。

◇

  1. サイは私が注目している鍵盤奏者の一人。Clala-Flalaのエントリは音盤DBから。
  2. ちっとも「ちょっとだけ記して」おくことはなりませんでした。聴く作業と同時進行的に文章をしたためていると、私の場合、大体こういう情動優先の文章になってしまうんですよね、反省。

NMLでシェーファーとかIJAとか

#CredoさんとTakuyaさんが絶賛しているので、何気に聴いてみたNML提供によるシェーファーの「冬の旅」 シェーファーは初めてだけど、Takuyaさんの以下の例えは、思わず吹き出すほどに絶妙!座布団10枚!
フィッシャー=ディースカウのは、舗装も電化もされてないようなドイツの辺鄙な農村を、人生に絶望したくたびれたお爺さんが足を引きずりながら歩いているような感じでしたが、このシェーファー&シュナイダーは、ICEに乗ってベルリンのツォー駅から出発し、車窓から寂しげな眼差しで去っていく街の景色を眺めているような、そんな感じです。
ベルリンに行った事もないしICEになんて乗ったこともないけど。NMLにはバッハやハイドンの曲などが納められています。この歌声で、シェーンベルクとかベリオとか聴いたら、かなりクラクラするかもしれない・・・。

NMLといえば、こんなのもあったので聴いてみた。 IJAの切れ味に、ムローヴァのヴァイオリンが乗っかります。ムローヴァのヴァイオリンには、あまり親しんでいないので感想は保留。とりあえず忘れないようにメモということで。それにしてもNMLでIJAが聴けるなんて!

2007年4月21日土曜日

【本棚】桐野夏生:魂萌え!


団塊の世代の大量退職時代を迎え、熟年離婚という言葉が珍しくなくなった現在において、桐野氏が問う改めての夫婦あるいは家族、そして個人としての女。

彼女の作品は、「黒い作品」にしても本作のような「白い作品」にしても、閉塞的な状況にある現代女性の解放とサバイバルをテーマにしています。今回は夫の定年と突然の死という、どこにでもありそうな事件を通して、いままで「のほほんと」暮らしていた主婦が、様々なことに目覚める過程(解放)と、その後の人生を生き抜く決意みたいなもの(サバイバル)を描いている点で、まさに桐野氏の作品世界です。

前半は寡婦となった敏子に言い寄る男性とのヨロメキ遍歴を読まされるのか、といささかゲンナリしたものですが、やはり桐野氏です、そんな安易な方向に作品を流しません。

この小説には「OUT」や「グロテスク」に見られたようなサスペンスや非日常はありませんが、それゆえに、読むものと等身大の話題であり、自らを問い直すことになります。上巻は見ていられないほどに無知で世間知らずであった彼女が、最後は清濁を含めて受容しながらも生きていけるようになったことは、小説的ファンタジーです。しかし、何かをきっかけとし、自己を問い直し、「不満」という言葉で片付けて見ないようにしている現実と向き合うことの重要さ、そして、そんなネガティブな要素から逃げていては損であることを、この小説は教えてくれます。

あの日、関口の機嫌が悪くて、私に不満があるんだろう、と尋ねた。私はこう答えたのよ。『不満というものが何かも忘れた』って。関口は衝撃を受けたみたいで、こう言った。『わかった。後で話がある』って。

ささやかに、「恙無く」生きようとする市井の大勢に対する、かなり強いエールでもあります。それにしても、彼女の小説では、既に昭和的家族観は完全に崩壊していますね・・・。

蛇足ですが、高村薫と同様に、私は桐野氏はミステーリー作家であるという意識が希薄であろう感じているので、こういう小説展開は、彼女にとってごく自然の成り行きだと思っています。

2007年4月17日火曜日

[読書メモ]高村薫:晴子情歌


以下は、高村薫の「晴子情歌」(→感想はこちら)に興味のある人にしか面白くないと思います。


本小説は晴子という女性に軸を置いた「情歌」であるということを忘れてはならない。彼女の何と言うこともない、時代の中ではありふれた人生を、晴子の書く手紙という形で作者は丹念に救い上げている。その「書く」「掬い取る」という作業そのものに本小説の意味がある。掬い取る人生に対する慈しみといとおしみ。そして取るに足らない人生の何たる重さか。そして、そこに生きるということの本質がある。多様な読み取りと、汲んでも尽きぬ深みがある。

「書く」ということによって晴子は、自分の人生を刻み続ける。三十年以上に渡る夫婦の帰着が、夫に描かせた油絵、「青い庭」の中のたった3センチの自身の姿であったとしても。それは彼女自身の譲れない矜持であり、自己発見、自己確認、自己定着という痛ましいほどに些細ではあるが確かな作業であった。彼女は絵の中で福澤家に住み続け永遠の位置を得る。それが彼女の勝ち取ったもの。

彼女が手紙を通して刻み続けたのは「情歌」。すなわち、彼女の堰き止められた思い、彼女の「情」の歌、あるいは彼女の恋心でもある。彼女の抱いたささやかで実現されなかった、そして自分でさえ意識していたのかさえ知れない多くの思い。それらを彼女は息子に書き送った。「情」という火とともに。その息子こそ、この世で彼女の唯一の分身ではなかったか。

その息子は、これまた福澤家の男の特徴である「放浪する半身」を有した男、自分自身を特定、固定できない。女と平気で酷薄に別れ、そしてそれをまた客観視する半身。何をも信じられず、それでいて何かを信じたく、いつも皮膚をチリチリさせている。彼の苛立ち、所在の無さの原因は何か。彼の背負っているもの全てに対する苛立ちか、あるいは怨み? 高村小説共通の主人公キャラだ。

彼は母の手紙を読みなが母を捜し、自分を確認する。大学を出ながらにして漁業の道に進み、自分自身を捨てながら、実は母なる海に身を委ねて放浪している。彼が大学で専攻した烏賊の生態、生物学的特質を思い出そう。では彼は何者であったのか。

彼の最終的な結論がラストの数ページに凝縮される。確かに母の思いは生の歓喜と孤独の中で確かに伝わったか。

俺はひとりだ。母もひとりだ。------お母さん。

この膨大なる小説の中で、ただ一行。他の全ての箇所から、温度差を持って浮き上がる、このラストの一行。そこから彰之の第二章が始まるのか。

【本棚】俺たちのR25時代、R25つきぬけた男たち

音楽家14人、作家10人、コメディアン・キャスター6人、スポーツ選手・格闘家6人、映画監督など5人、俳優5人、漫画家4人、イラストレータ・コピーライター2人、アーティスト1人、会社員(ゲーム名人)1人、総勢54人が文庫本2冊の簡単なインタビュー記事掲載者達の職業であります。とかく元気のないらしいR25世代に対する、メッセージといいますか、いまをときめく有名な方々も、25歳前後は悩んでいたんだよ、という企画らしいです。

私も社会に入りたての頃は、理想と現実の、そして今までの生活と社会人のギャップや上下関係に悩んだりしたものです。自分が大切にしていた多くの事を犠牲にしなくてはならないことや、先の見えないこれから始まるレースみたいなものに怖気付いて迷ってしまったことも確かです。社会人になる前に、よく考えれば良かったと思わなかったわけでもありません。

そんな社会人としての思春期にある君たちに、頼もしい「アニキ」達が、恥ずかしい失敗談を含めて語ってくれる・・・。結構なことでございます。読んでいて、私のようなヲジサンには名前さえ初めて知る人も少なくはないものの、社会で大成した方の言葉ですから傾聴に値する金言も少なくはありません。

しかし、なんといいますか、R25世代の「憧れの対象」が彼らに代表される職業なんですか? 偶像化し、伝説化し、自分もできれば彼らのように生きたいと考える対象が、先の54名に代表されているのですか?

彼らに共通することは、「好きなことを追求してきた、組織の枠にはまらずに自分の能力を信じ、自らをプロデュースし、成功してきた」という図式のようです。本当にR25世代は、そんな(しんどい)生き方に憧れるのでしょうか? 彼らでなくてはR25世代の琴線に触れないのですか? 

雑誌「R25」はリクルート社の、そして文庫本化は日経新聞社が行っています。夢を語るのも結構ですし、若者を鼓舞することも結構ですが、現実から目をそらせてはいけません。私には、とても面白い本でしたから、この本が「目くらまし」であるとは言いませんよ。しかし・・・何だか方向が違わないかと・・・、日本は技術もビジネスも捨てて、国際的にはサブ・カルチャーで生きていくってワケ?(>本も企画者も、インタビューされた人たちも、決してそうは言っていませんが・・・、やっぱアタマの固いヲジサンなんでしょうかね、わたしゃ)


2007年4月16日月曜日

Naxos MLでいくつか曲を漁る

NMLで音楽をいくつか。
ファイのハイドンはNMLの「今週の一枚」。ファイの音楽は相変わらず良い。彼の演奏をNMLなんかで聴いていて良いのだろうか?
ハイドンの作品の中でも異色な存在であるこの「受難」を、古楽系の中で最も異色な指揮者であるトマス・ファイが指揮しました。弦はモダン楽器でノン・ヴィブラート、管はナチュラル・ホルンとモダン・オーボエを採用。師アーノンクールゆずりの過激なアクセントが印象的な録音です。(satt)
というのが推薦文。ファイが古楽系で最も異色ですって? モダン楽器でハイドンといえば、アダム・フィッシャーもそうだったかしらなどと、拙い知識をゴソゴソしても何も出てこない。

ランパルのフルートは、久しぶりに聴けばやっぱり惚れ惚れするんだけど、曲がつまらない。というか、ベートーベンのリズム、旋律が物足りない。全部聴き通す忍耐が今日は得られず。

春だし、やっぱり「四季」だよなと、CDでイル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏を聴いた後に、NMLに戻ってPinchas Zukermanのヴァイオリンの演奏を聴いたら、重くて音悪くて聴きとおせず。口直しに何かないかなと選んだのが、Paul Dyer指揮、Elizabeth WallfischのヴァイオリンでAustralian Brandenburg Orchestraの演奏。ABOは音楽監督のDyerがオーストラリアで初めてのピリオド楽器によるオーケストラとして1990年に結成したものらしく(→公式ページ)。悪くないっす、こういう四季は安心して聴けます。ヴァイオリンのWallfishも品があって良いです。無知な私は彼女の名を初めて知りますが、情報はhyperionに(→こちら)。

ラウタヴァーラは鎌倉スイス日記のSchweizer_Musikさんが「良いぞ」と書くものだから(→http://suisse.exblog.jp/5873821)聴いてしまいました。いや、よかったです。なんたってヴァンスカっす。良いものを良いとだけ書いてオシマイにするというのは、これくらい楽な作業はないっす。

それで、今プレートルのラヴェルっす。私はフランス音楽は全く苦手なんですが、このオーケストレーションには、やはり脱帽です、敵いません、御免なさい。泣きそうになります、ラヴェルの音楽って、マーラーとかとは違う地平において。
  1. ケータイEdyとか、Google検索とか、ブログとか、私は普通だと思っていた。しかし同年代の友人らに会うと、Edyを使う奴なんて始めてみたと言われる。ブログを書く友人も中には居るが、ディープさが違うみたいだということに、最近気付きつつある・・・。
  2. 私は煙草は吸わない。しかし飲みに行くと、スーツに染み込む煙草の匂い! 喫煙者よ、この不快感を貴方達は理解しているかね?
  3. ハンカチの「耳」ってどこだ?
  4. 東京単身赴任生活も今年で5年目になってしまった・・・。

高村薫:晴子情歌


高村薫の「晴子情歌」をやっと読了、とてもではないが、安易な感想など私には歯が立たない。従って、以前書いた読書メモ(こことここ)の続きになりましょうか。

そもそも何と言う小説でありましょうかと読みながら呆然とし、決して面白い内容の本ではないものの、それでも読むことを断念はできない、そういった類のもの。しばらく中断して再び読み始めると、ああそうであったなと、漁船の中で母晴子からの手紙を読む彰之になる。そして晴子の実像を探そうとする自分。

ストーリを書いても仕方がありません。ここには昭和という大きな「時代」と、そこを生きた人間が確かに描かれています。しかし、それでいながら、晴子や彰之の、淳三や康夫の、人間に対する、どうしようもない興味のなさ。あるいは自分の人生に対する諦念や無関心は何なのかと。これは昭和人的な感覚ではないのではないかと思う点も否定できず。

筒木坂、土場、野辺地や魚場の船上での圧倒的な、そして高村的しつこさを備えたリアリズムに反して、主人公たちの所在のなさ。彼らは何を求めているのか。高村小説に共通の「ここでないどこか」を茫とあるいは無意識に希求し、自分さえも客観視し突き放しながら放浪する半身*1)に委ねるという有り様。あるいは爆発する水*2)か。ニヒリズムでもシニシズムでもない。晴子の天性の呑気さと、彰之の自分が何者であるのか分からないとでも言うような、皮膚がチリチリするような焦燥。そうだ、彰之は合田なんだと。

この小説の描いた世界は、あまりにも壮大で、私の拙い筆致ではその片鱗さえ掴むことができません。青森という片田舎で晴子の目を通した半生を描きながら、その周辺を轟音を上げて動いている政治と世界。それの息吹を語らせることはあっても、それはまだ「晴子情歌」のテーマにはならない。すなわち本作品は「新・リア王」に至る、壮大なる序章であるのだと。市井の人間や生活と、時代を動かした政治との対比。関係と無関係。夫婦、家族、そして人間模様。時代は動いても、野辺地の土間の空気がしんとして動かないように、変わらない世界がある。それが昭和という時代であったのか。

それを書きたいがために、そして彰之という男が何を求め掴むのかを書きたいがために、高村氏は筆を取り続けるのか。

しかしそれは、「晴子情歌」後のテーマです。この小説はその題名にもあるとおり、「晴子」の「情歌」です。晴子が何ゆえに息子にこんなに膨大な手紙を送り続けたのか、という点に対しての言及こそ、おそらくは成されなければならないでしょう。この点も今は保留です(→少し書いた)。

この壮大な小説は、系図を見ながら読むのに限ります。私は読み終わって、下のサイトに詳細な系図があるのを知りました。また過去拙レビュ参照用に高村薫インデックスを作っておきました。

◇

  1. 伊藤静雄の「晴れた日に」の一節。(「From 2005.04 Roomazi dokusyo nikki」→http://kens-bar.blogzine.jp/200504/2007/01/post_b297.html 参照)
  2. 谷川雁の詩の一節。どちらも、作品テーマに関わる重要なタームであると思うが、今は語る言葉なし。

2007年4月14日土曜日

【音盤】 Vivaldi Operas

  1. La verita in cimento
  2. Juditha triumphans
  3. L'Olimiade
  4. Orlando finto pazzo
  • Academia Montis Regalis,Alessandoro De Marchi
  • Concerto Italiano,Rinaldo Alessandrini
  • Ensemble Matheus,Jean-Chistophe Spinosi
  • naive OP30401

naive社から出されているヴィヴァルディのオペラ集を聴いてみました。4つのオペラからのコンピレーションもので、演奏者も雑多です。こういうアルバムの印象は得てして茫洋としてしまうのですが、じっくりとアリアを聴きこみますと、ヴィヴァルディの才能の多彩さに目を見張る思いがしてきます。というか、イロイロな人が絶賛している通り、splendid!!です。

演奏は四つのペラを下記の三つの団体が演奏しています。

  • Juditha triumpahns「勝利のユディタ」」, Orlando finto pazzo「狂気を装うオルランド」/Academia Montis Regalis,Alessandoro De Marchi
  • L'Olimpiade/Concerto Italiano,Rinaldo Alessandrini
  • La verita in cimentoEnsemble「試練の中の真実」/Ensemble Matheus,Jean-Chistophe Spinosi
その四つのオペラからのアリアを総勢11人の歌手陣が唄っています。ライナー・ノートではその関係が分かりにくいので表にしてみました。[9]と[13]はオーケストラだけの曲です。

この中で一番驚かされたのは[12]番、《Orlando finto pazzo》からのアリア、Lo stridor, l'orroでしょうか。この不安過ぎるアリアは何度も聴いて癒されるという類のものではありません。しかし、この音楽の奇妙さ、異彩さ、凄さは聴いてみないと分からないかもしれません。ソプラノのいきなりハイキーにスパイラルアップする多少の狂気さえ感じられる歌は、実にゾッとするほどの和音を奏でる弦が伴奏しています。中間部はレチタティーヴォ的になってハープシコードやハープ(?)などに乗って唄われます。これがバロック時代のメロディなんでしょうか、バロック・オペラの範疇内なんでしょうか。だとしたら深過ぎます、バロック音楽という世界は。いや、それとも、ヴィヴァルディの独創性なんでしょうか。それを判断するほどに私はバロックやヴィヴァルディに無知すぎます。

《la verita in cimento》からの[14][15][16]そして[8]はSpinosiの演奏。彼の演奏方法については賛否があるようです。確かにかなり鋭角的で硬質な弦の響きは耳障りと感じる人もいるかもしれません。しかし私には非常に新鮮であり、しかもクリアさ、抜けた空気感、そしてバロック時代のザラつきのような息吹を感じ、それはそれで受容します。

その中で[14]はAnima mia, mio benは五重唄です。前半と後半のしっとりとした歌、中間部の急な部分の差が素晴らしい。[15]のMi vuoi tradir, lo soはアレグロのアリア。ヴィヴァルディの技巧が炸裂し、Spinosiの伴奏がこれでもかとばかりに迫ってきます。ヴィヴァルディが良く好んで用いるようなフレーズが散りばめれ、驚くほどの歯切れの良さで展開します。スピード感と強烈なアクセントが爆発するSpinosiの最たる演奏は[4]のAgita infido flatuでしょうか、もう息もできぬほどの演奏。あたかもイタリアの渓谷を流れる激流か。

Spinosiとて、ガリガリやるだけが能ではありません。[1]の天から降ってきたのではないかとさえ思えるカウンター・テナーの歌声による悲痛な歌、Tu m'offendiや、ソプラノのアリアである[8]Amato ben tu sei la mia speransaは張り裂けそうなばかりの思いをしっとりと聴かせてくれます。

ここにはSpinosiばかりでなく、Alessandriniの演奏も納められています。比べて聴くとSpinosiの演奏との違いが際立ちます。例えばコントラートによる[3]Gemo in un punto e fremo。スピード感がありながらも、どことない余裕と厚みがあります。刺激的な演奏ではあるものの、鋭角に過ぎない彼の演奏センスが光ります。ソプラノの[5]Lo seguitai feliceは官能的でいながら力強いソプラノが脳天を貫きます。[10]の二重唱も捨てがたい、珍しいバス独唱の[11]も聴きのがせません・・・。

[2]のVieni, me sequera fidaには、何とchalumeauという、クラリネットの先祖のような楽器(→Wikipedia)が使われています。[2]と[6]を唄うメゾ・ソプラノKozenaの声も極めて魅惑的、眩暈がしそうです。[7]Andeo,volero,grideroは《Orlando finto pazzo》から、バルトリのヴィヴァルディ集にも納められているアリア。iTunesにこれらの曲は入れてありますので、両者を比べて聴いたりしています。

という具合に、イチイチ書いていてはキリがありません。とりあえず、本アルバムを言及しているサイトをリンクして終わりとします。他にもあるんでしょうが、探せませんでした。

2007年4月12日木曜日

ハイドン:ピアノ・ソナタ/ファジル・サイ

  1. ピアノ・ソナタ第37番ニ長調 Hob.XVI:37
  2. ピアノ・ソナタ第43番変イ長調 Hob.XVI:43
  3. ピアノ・ソナタ第35番ハ長調 Hob.XVI:35
  4. ピアノ・ソナタ第31番ホ長調 Hob.XVI:31
  5. ピアノ・ソナタ第6番ハ長調 Hob.XVI:10
  • ファジル・サイ(p)
  • naive V5070
ハイドンの鍵盤曲に私は全く馴染みがありません。従って、サイ*1)のピアノで初めての曲に、しかも愉悦の宝庫であるハイドンを聴いていいものか*2)、若干の迷いはありました。しかしモーツァルトの世界でも異色ではありながらも、実は極めて繊細で真っ当な音楽を聴かせてくれたサイでしたから、やはり聴かないわけにはいきません。 

 サイは本アルバムで、ハイドンの曲に対する愛情と敬意をライナーで示し、演奏においてハイドンの曲の魅力を余すところなく伝えてくれています。ハイドンの鍵盤曲は、おそらく(他の作曲家に比し)技術的にはそれ程難しくないのでしょうが、平易と思われる曲、あるいは聴きなれた曲から驚きと輝きを引き出すことにかけてサイは天才的です。 

 アルバムはHob.XL:31の軽快なallegroから始まります。最初から唸り声も聴こえ早くもファジル・サイ節が炸裂です。ハイドン的な明確な明るさを、サイが楽しげに軽やかに奏でます。バッハを思わせる深みをたたえた、サラバンドを模した荘厳なLargoの中間楽章を経た終楽章の対比は鮮やかで、この1曲だけでハイドンの鍵盤曲とサイの演奏にノックアウトです。 

 バッハを思わせるといえば、極めて完成度の高いHob.Xl:31も魅力的です。allegrettoは確かにバッハ的ですが、それをはさむ両端楽章の鍵盤の高度な技術はまさにハイドンの世界です。 ハイドンの持つ明確さ、明朗さ、至福感は、どの曲からも聴くことができます。例えばHob.Xl:35のallegro con brioときたら。これまた輝かんばかりの明るさ。あたかも子犬と戯れる少女の幸福。無数のシャボン玉が舞う緑と光あふれる公園。サイがどの曲のどの楽章をイメージしたかimpression of two little girls playing the gardenといった言葉そのままの世界。

続く打って変わった雰囲気に驚かされるadagioの美しさ。疲れた子供が午睡する、それを眺めるゆったりとした時間の流れ。ああ、これ以上の至福がありましょうか、本当にここは涙が出るほどに美しくそして軽い。サイの絶妙のペダルワークによるソフティケーとされた弱音の美しさには溜息以外発することができません。

もっとも、ハイドンの明と暗の対比、あるいは光と翳の対比は、モーツァルトのような深さとか、何か深淵を覗きこんでしまったかのようなところはありません。(というか、それがモーツァルトのモーツァルトたる所以なのですが・・・) ハイドンの真作かどうか疑われているHob.Xl:43にしても、ライナーにも書かれているように、それがこの曲を堪能することの支障になるものではありません。両端楽章における粒立ちの良い音の転がり、弱音部の羽毛を地肌に着るような肌触り、強打部の品の良いそれでいて決然とした表現。サイのピアニズムを充分に味わいつくせます。クレバーなハイドンの洒脱でそれでいて高度な遊戯。

 ◇
  1. サイは私が注目している鍵盤奏者の一人。Clala-Flalaのエントリは音盤DBから。
  2. 2004年来日時にハイドンを演奏しており、評論家の宇野功芳氏はその演奏を絶賛している(→梶本音楽事務所)
    。

2007年4月6日金曜日

[NML]ニマ・ベン・ダヴィドのクープランなど


��MLの今週の一枚は仏ALPHAのクープランのヴィオール曲が紹介されています。



こういう曲は、雑誌やネットで見つけても「買おう」というところにまで踏み切れない。それだけにNMLは大変にありがたい。Nima Ben Davidはフランスを中心に活躍するヴィオール奏者。


NMLの推薦文は、


華やかさや煌びやかさではなく、まるで冬の夕陽に包まれているかのような哀愁を帯びたヴィオール。


一方でGoldberg The early-music portalというサイトで、本CDが以下のように紹介されている(→ここ)。同じ盤の紹介でも、随分印象が違う。


Her playing is technically assured, with a lovely tone, beautifully articulated, and musically compelling. The whole effect is sumptuous, voluptuous, captivating.


いずれにしても、ゲットせずとも一聴の価値ありかと。


If you don't yet have these works in your collection, don't wait. Even if you have Kuijken or Savall, you won't regret adding this reading to your collection. Most warmly recommended.

2007年4月5日木曜日

ヲ!ヲヂさんは、素直に祝福する(^_^)


http://yaplog.jp/takagiayako/archive/416


しかし、フルートとトロンボーンの二重奏なんて、聴いたことないぞ。それに、ヲヂさんよりハンサムぢゃん!


http://blog.yahoo.co.jp/brilliantdays_hideya


堂々とブログに書くところが、今風ぢゃな。影ながら祝福しますぢゃ。今後の演奏活動にも、期待しとりますぞ。


2007年4月3日火曜日

【音盤】ヴィヴァルディ:Arie d'Opera

  1. La Candace RV 704
  2. La Silvia RV 734
  3. La vertia in cimento RV 739
  4. Tito Manlio RV 738
  5. Tieteberga RV737
  6. Medea e Giasone RV 749.13
  7. 'Zeffiretti che sussurrate' RV 749.21
  • Sandrine Piau(S)、Ann Hallengerg(Ms)、Paul Agnew(T)、Guillemette Laurens(Ms)
  • Mode Antiquo, Federico Maria Sardelli
  • naive OP30411
naive社から出されているヴィヴァルディ・エディションからFoa28を聴いてみました。Foa28は、ヴィヴァルディの個人選のアリア集で1717年から1721年の間に作曲されたものとされています。この中には47のアリアとアンサンブルが含まれており、ヴィヴァルディのアリアの多様性を知るのに格好の選集となっています。何の目的で編まれたか判然とはしませんが、いくつかの失われたオペラ・アリアなども含まれており貴重な音源です。

本アルバムは、その中からソプラノ5曲、メゾソプラノ5曲、テノール4曲、四重唱1曲、二重唱1曲の全16曲が選ばれています。ソプラノはバロック界を代表するSandrine Piau、テノールはPaul Agnewです。それぞれのアリアは6つのオペラからのもので、RV749.13のみ元オペラを特定できていません。


その中ではPiauが唄う、'Zeffiretti che sussurrate'RV749.13'が何といってもこのアルバムで特筆モノでしょうか。「四季」を思わせるヴァイオリンの旋律に導かれて、何とも匂い立つような歌声で唄われます。ソプラノに呼応するエコー(aria co eco)、Vieni, vieni o mio diletto (Come, come, my beloved)で始まる中盤の力強い歌声への変化、そして再び冒頭の響きの再現。たった5分の曲の中に、これほどの技巧と美しさを湛えていようとは。何度聴いていても飽きないラストの超高音の凄さ。

Piauといえば、アルバム冒頭に納められた《LA CANDACE 第1幕》からのアリア'Certo timor ch'ho in petto'も素晴らしいの一語。Piau節全開といいますか、力強く美しく、そしてキモチの良いほどの抜けです。イタリアの乾いた空、ベタついたところなど微塵もない。

同じオペラからの'Usignoli che piangete'は、鳥(ナイチンゲール)を模した極めてアクロバティックな曲。鳥といえば'Quell augellin che canta'も鳥が歌う声を模してアリアを歌わせています。

アルバムでPiauのソロは全部で5曲あります。'Mio cors'io ti credessi'は一転して短調のアリア。《LA SILVIA》の中から冷たく嫉妬深いNerinaが、恋人Nisoに対する秘められた怨みをみたいなものを、弦の短調なユニゾンに乗って切々と唄います。技巧的なアリアとは全く趣が違う、オペラの筋は分からないけど、こんな女性に恨まれたらコワイなと。ヴィヴァルディの音楽の作り方は、確かにうまいですね。


メゾ・ソプラノの曲も随分と聴かせてくれます。Ann Hallengergの唄うL'innocenza sfortunata'など、始まったら思わずにウキウキとして一緒になってリズムを刻んで鼻歌まで歌ってしまうほどです。オペラ《TIETEBERGA》の筋など全く知りませんが、不幸な女王を救って裏切り者を懲らしめろと唄っています。ソレ、ソレ、パシィ~ッ!!です。

イマひとつ弱いかなと思ったテノールのPaul Agnewにしても、何度も繰り返し聴いていると、これはこれで柔らかくて良いではないかと思えてきます。重唱も勿論のこと良いです。最後の曲'lo son fra l'onde d'irato mare'はメゾソプラノとソプラニーノの二重唱といったところ。輝かしい音色で締めくくってくれるのも嬉しい(技術的には、難しいんだろうなあ・・・リコーダーだもの)。

買った当初は、オペラ・アリア集というオムニバス的な作りから、軽く聴きながしてオシマイにしていたのですが、それではとても勿体無いことに気付いたわけです。しかし、こんな具合に1曲ずつ書いていたらキリがありません。とにかくに、ビックリし、うっとりし、惚れ惚れし、スッキリし、ワクワクします。ヴィヴァルディ恐るべし、であります。

敬意をもって、TakuyaさんのエントリにTBしておきます。生Piau聴いてみたいなあ(^^)

2007年4月2日月曜日

【本棚】パトリック・ジュースキント:香水

 映画「パフューム~ある人殺しの物語」の原作は1985年にパトリック・ジュースキントによって書かたベストセラー小説です。映画を観た後読んでみたのですが、かなり印象が異なります。

映画と小説を比べることは愚で、それらは別物と考えた方が良いことは本書においても変わらないことは承知しているものの、それでも比べてしまうのですよね。主人公グルヌイユの描き方が余りにも異なりますので。小説では生まれながらにして「悪意」を持った存在として明確に描かれます。誤って殺してしまった少女の香りを再現したい、などというメルヘンチックな結論に至るお話しではありません。

人間離れした嗅覚とブレンドさせる天才的能力を持ったグルヌイユは、香りの持つ「力」に気付いて以来、匂いの創造者として、香りで他者を支配するという野心のため現在を耐える人生を選択します。作者が何度も書いているように、彼はまさに「毒虫」。人間的な感情、神などというものははなから理解していません。

彼の作り出した究極の香水も、全く神聖とか崇高な効果などは上げていない。処刑場での奇跡の場面では、

誰もが青い服の小男によって、自分の一番敏感なところをまさぐられ、しっかと掴まれたような気がした。性的な中心に命中。

そして誰彼構わずの大乱交。万余の人間の饗宴。地獄絵さながらの光景だったというのが小説の描写。

しかし、その中で彼は残酷な事実に気付くことになります。自分こそ神と勝利を味わったその直後に、自分の人間に対する憎悪さえも、彼らから憎悪を持って反応されないことに。再度に渡る存在の否定。一度目は生れ落ちた直後に母親から。ニ度目は自分に体臭がないということに起因する自己による存在の否定、そして三度目の支配したはず他者からの絶対的な存在の否定、純粋さと恐るべき孤独。もはや彼に残された道は、ラストに至る道しかないと考えたのはごく自然です。

それにしても、ジュースキントのこの小説、あらゆるところに悪意に満ちたウィットが散りばめられています。こういうセンスがドイツ人のユーモアなんでしょうか(黒すぎる)。パリに戻ってのラストシーンも小説こそ強烈。彼が一筋もあまさず地上から消え失せていた。という事が「意味」していたもののおぞましさと後味の悪い「笑い」!

しかし「匂い」というものに、これほどまでに拘ること、更には体臭と個の存在をこれ程まで強烈に結びつける文化は日本にはないように思えます。

2007年4月1日日曜日

映画:パフューム~ある人殺しの物語




音楽をベルリン・フィルとラトルが担当というだけで、クラ界ではそれなりの話題性があるハズなんですが、定期巡回しているブログではTakuyaさんとyusukeさんのところにエントリがあるくらい。そろそろ上映期間も終わりに近づきましたので観てきましたが、直後の第一印象としては随分とおぞましい映画を観てしまったなと。映像の綺麗な官能サイコパス映画と捉えても良いけど、それだけぢゃあ、つまらないので少し・・・



おぞましさは、映像のグロさや主人公グルヌイユの猟奇性に起因するわけではありません。それは犯罪性とか人間の生活にまみれた汚濁とか醜悪さの中から、群集はおろか司祭や為政者までをも支配してしまうほどの力と神聖さを獲得するという、そのこと。彼の「行為」と目的の無垢さと純粋さ、その純粋な悪意に胸が悪くなる程のおぞましさがある。


彼が自身、体臭を持たないと気付いた時、彼は自分の存在の欠落に気付きます。しかし、それをきっかけとして彼が人間的感情を欠落させたわけではありません。彼には天賦の才能(「香り」の世界のモーツァルトに匹敵する天才性)がありながらも、人間性をもともと有してはいなかった。それ故にかどうかは分かりませんが、失われた香り(彼が初めて嗅いだ女性ではなく、それは最初から失われていた)への強烈な焦燥と固執、地獄のような欠落を埋めるために神をも怖れぬ邪悪な行為を続け、その結果が神をも惑わす奇跡に繋がる・・・なんて茶番を、いったい正視できましょうか。


いや、いや、それでも正視してしまうのです。全くに意表を付く処刑場のシーンは苦笑を禁じえないと同時に、このクライマックスが何故に必要であったのかと、やはり考えざるを得ない。すなわち彼の獲得した全能性は彼を幸福にはしない、彼の欠落を埋めることもない、悪意の野望は実現しない。彼の与えた奇跡は一過性のもので、万人の記憶に留めたくない類のものであった。


人間性すなわち愛を欠落したままの彼は、生まれた場所に引きずられるかのように帰り、自らの存在証明である香水の魔力ゆえに群集に蛙(=グルヌイユ)のように押しつぶされて死ぬというのは余りにも暗示的です。彼の存在はその瞬間に無と帰しましてしまいます。ああ、やりきれません。


それにしても、映像における18世紀のパリの描写のリアルさよ。街が汚いだけではなく、衣服も人も汚い、手も首も爪も!汚れて真っ黒であるということ。そういう世界から生まれた香水。香水は日常を聖へ、汚濁を清浄へ、処女性から性愛へ、そして憎悪を愛へと導くということか。いやァ~、本当にドイツ人の考えることは、良く分からんス。やっぱ香りと同じで文化の違いなんでしょうか。


あれ?ラトルは?ベルリンは?



2007年3月31日土曜日

安藤忠雄 特別企画~2006年の現場 悪戦苦闘

東京ミッドタウンにできた安藤忠雄設計による21_21 DESIGN SIGHT(→公式HP)に行ってきました。オープン特別企画は「安藤忠雄 2006年の現場 悪戦苦闘」(→公式HPより)という、まさにこのスペースを造るためのメイキングのような企画展。黒川紀章の国立新美術館でのオープン企画と異なり、ここに入るには1000円が必要です。

建物の殆どは地中に埋められており表参道ヒルズや直島地中美術館など最近の安藤作品のスタイルが踏襲されています。

展示内容は、主として本建物が現在の形に至るまでの数多くのエスキスやスタディ模型が時系列に並べられており*1)、ひとつのプロジェクトにかける無数のアイデアと労力を知ることができます。また東京で現在進行形の5つの新プロジェクトについても俯瞰できます。


伊藤豊雄の建築展でもそうでしたが、安藤氏も素材感とか現場の肌触りに拘ります。特に安藤氏は昔から職人と一体になって建築を造るという意識を強烈に打ち出しています。建築家のイメージなりディテールを具現化するには数多くの他者を介さないと実現できない。自らのアタマと手が一致していない。安藤氏は自分の世界観を他者に向って徹底的に語り、自ら描き、コミュニケーションによってそれを理解させ、恐るべきパワーでカタチにします。彼は啓蒙者であり教育家でもあり革新家でもあるわけです。

もっとも、そうして出来た空間に共感を覚えるか否かは個人的な問題になります。それでも彼の存在と活動には敬意を覚えます*2)。大きなガラス面からの光は、地下の中庭を通してホールや展示空間にまで柔らかく届きます。極めてストイックでシンプルなコンクリートの壁に、際立ったエッジ。若者は彼の研ぎ澄まされたデザインに共感を呼ぶのでしょうか、来館者にも若い人が多い。

ワンパターンと言ってしまえばそれまで、しかしやはり説得力はある。少なくとも彼の建築は今の時代には合っているのように思えます。安藤のモチーフを用いた空間が東京においても増えることは、否定すべきものではないと考えます*3)。

◇

  1. これで1000円かよ、事務所に積んでいたものを寄せ集めて企画展なんて、安易過ぎる!などと不満に思ってはいけない。作家のイメージの変遷に直接触れることができる点にこそ観るべきものがあるのだと・・・思おう。
  2. 好きか嫌いかと言われれば・・・、独逸ロマン派も良いけどたまにはクセナキスだって聴いてみたいだろう、みたいな。ん?ちょっと違うか(<-->クライアント側が、あまりにも無難に安藤氏や隈氏などの流行作家を選ぶことに疑問を感じないわけではない・・・。またかよみたいな、世界にはもっともっと前衛的な作家がいるのに、みたいな。

東京ミッドタウン オープン

六本木ヒルズのすぐ近く、六本木防衛庁跡地に三井不動産他が手がけた都心最後の巨大再開発とも呼ばれる「東京ミッドタウン」が30日にグランド・オープンしました。桜も満開となりかけた本日、早速ですが行ってきました。


都心の一極集中度は凄まじいものがあり、銀座や青山の高級ブティック店や丸の内などの最新のオフィスビルなど、凝った建物も、いい加減見飽きてきた気もしていましたが、さすがに三井不動産が自信を持って提供する物件です。規模といいグレードといい類を見ない。

再開発広さは約7haの防衛庁跡地と隣接する桧町公園との一体的な開発により、六本木という一等地で10haという巨大な土地を取得したのが2001年のこと。土地取得からあっという間にグランド・オープンに漕ぎ着けた手腕には感嘆するとともに、巨大プロジェクトのスピードアップの度合いに驚かされます。

ランドマークとなるのは、ミッドタウン・タワーと呼ばれる54階の超高層ビル。47~53階にはリッツ・カールトン・ホテルが陣取ります。まさに東京のホテル戦争がこれから始まろうとしています。

正面は、巨大な三次元曲面のトップライトを有した空間が各施設をつないでいます。振り返ると六本木ヒルズが見えますね。


私は三井不動産の回し者ではないですから、施設概要を述べることは止めます。それにしても、これほどの床面積と公園を有する開発というのは今後は難しいでしょう。ガレリアから外に出ますと、東京タワー、泉ガーデン六本木、アークヒルズ、山王パークタワー、TBS周辺再開発(建設中)などなどの超高層ビルがズラリと公園の緑を囲むように眺めることができ、メガ都市ならではの景観を呈しています。

平日のオープンですが、観光客や冷やかしなどの連中を含めて結構な人だかりです。マスコミ関係者や、いかにも六本木~みたいな綺麗な方や洒落た方が多くて楽しめます。

ここには安藤忠雄設計のアート・スペースと隈研吾監修のサントリー美術館もオープンしています。なんだかんだと話題の施設であり、明日の休日は相当混雑すると予想されます。六本木なんて、日中は訪れるようなマチではなかったんですがね。オープン記念なので、ガレリアではイル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏が行われ・・・るワケがありません。

それにしても、またしても巨大な物欲と妄想と時間と金を吸収する施設が増えたということで、六本木周辺の人の流れは(六本木を芸術の街にしようという目論みもあるそうですから)全く変わったものになってしまうかもしれません。

ちなみに三井不動産は今年から来年にかけて、ラゾーナ川崎、ららぽーと豊洲、ららぽーと柏の葉、ららぽーと横浜と、相次いで関東近郊に巨大商業施設をオープンさせ、周辺には中高層住宅をドカドカ建てまくっています。そして都心部では高付加価値型の再開発により、土地の価値を上げまくっています。土地デフレを脱却したということで「持たざる経営」も修正を加えつつあります。恐るべし勝ち組不動産の代表格。プチ金持ちからも超金持ちからもドンドン金を吸い取って、どんどん裕福になあれ。・・・と。*1)

ちなみに、いつも巡回しているブログの中では、やはりといいましょうか弐代目・青い日記帳が一番乗りでしたね(^o^)/こちから、ご覧くださいな。











2007年3月26日月曜日

[NAXOS ML]ハイドン:ピアノ三重奏曲

syuzoさんがハイドンのピアノ三重奏曲が良いというものだから、NMLをガサガサ*1)やってGryphon Trioによるアルバムを聴いてみる。


Gryphon Trio*2)はトロントを拠点としたカナダのトリオ。ハイドンばかりではなく、ベートーベン、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、モーツァルトそしてカナダの作曲家の音楽も録音している。


演奏は鋭角的なバロックではない、Prestoもひたすらに柔らかいので安心してハイドンの明るさを満喫することができる。練習曲みたいなものですって? とんでもない! 確かに一聴して平易なようですが、この楽しさときたら!まさに春ってカンジかなァ。有名な25番の第2楽章Poco Adagioの優雅さときたら*3)。


◇


  1. ネットなので「ガサガサ」なんて音はしない、書くなら「チクチク」である。
  2. Annalee Patipatanakoon, violin、Roman Borys, cello、Jamie Parker, piano
  3. いい加減、買ったCDの感想書けよと言われそうですが・・・

2007年3月25日日曜日

【本棚】山本七平:日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条


毀誉褒貶、賛否両論の多い山本氏の本(初出1975~76年「野生時代」)、2004年初版以来19版を重ねています。帯の奥田硯会長が「ぜひ読むように」とトヨタ幹部に薦めた本というキャッチが効いています。世界の大企業と真っ向勝負をして時価総額を高めているトヨタの会長が薦めるのですから最強です。

私にとって山本氏とは「胡散臭い」というイメージが刷り込まれています。学生時代は朝日新聞、本多勝一的な思想の影響を少なからず受けていましたし、イザヤ・ベンダサンの名で出した「日本人とユダヤ人」も成る程と感心する以上に浅見氏の批判の方が印象に残っています。ですから今更山本氏の本を読むことに抵抗はあったのですが、あれから私も随分齢を重ねました。

もっとも、虚心に読むならば、山本氏のメッセージは割りと素直に現代に生きる私に届いてくる。山本氏の根底にある、自虐的な日本人観に違和感や嫌悪感を覚える人もいましょうが、許容できる部分と、そうではない部分を切り分けて味わってみれば、考えなくてはならない点は多々あるのだと思います。

本書は、軍属としてフィリピンに赴き、捕虜となった小松真一氏が、戦争当時に書き綴った「虜人日記」と「敗因二十一ヶ条」をベースに、太平洋戦争の敗因とその後の日本について言及した本です。太平洋戦争に対する疑問や反省、敗因分析の妥当性にのみ論点を見出すと、山本氏の提示した問題点を矮小化してしまいます。私は所謂「山本学」に私は精通しているわけでもないので、欧米と比較した「日本人論」として読むこともしません。

そうした中から抜き出したエッセンスは、組織論と意思決定という点。本書を貫くのは各章で繰り返される「組織内における自己規定の問題」に尽きています。そして明確に、通常の自己と組織の自己が連続したものとして規定されていることが重要であると説いています。

本書の最後の4行は、私には衝撃的な一文でした。

戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を! どこに自由と、それに基づく自由思考と、それを多人数に行う自由な談義があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だわれわれを拘束しているということである。(P.311-312 「第十二章 自由とは何を意味するのか」)

この言葉は、戦中の国民の潜在的意見(すなわち国民の日常性における戦争への疑問と不信、実生活との乖離、厭戦観)が世論になりえず、国の基本方針となり得なかった、ということにつながっていると思います。

敷衍するなら太平洋戦争の敗因は日本の意思決定の誤りであると山本氏は言っています*1)。日本国の指導者が、戦争突入という最も高レベルにおける戦略的意思決定において、意見の対立を封印し虚偽の報道により形だけのコンセンサスを獲得し、それゆえに正しい現状認識、政府決定に対する高度のコミットメント、そして組織的問題解決能力を備えていなかった*2)ということ。

もっと小さな組織体、企業であれ組織内の部署であれ、同じような状況が今も再現されており、組織内の「自由」が封印*3)されているのだとしたら、日本(組織)は敗れ続けて当然なわけであります。

◇

  1. 本書では当時の日本の状況と、米国の最後通告である「ハル・ノート」に関する論議については一切触れていない。「太平洋戦争に意味がない」とする主張は、氏の戦争体験がベースとなっており、その意見に意味がないとは思えない。
  2. 「日本軍の強さ」が中小企業・零細企業的個人の持つ"芸"に依拠し、客体化できる"技術"ではなかったとする指摘は面白い。現代において、"芸"は"技術"に転用できない、という氏の指摘を過去のものとすることができているだろうか。
  3. 日本は「組織」ということを、ネガティブな要素として捉える感覚がないだろうか。特に最近の若者にその傾向が強いように思える。しかし、現代に生きる人間は何らかの組織に属さざるを得ない。その組織内で「自由」が制限されている故に、組織から離れたときに「解放感」を感じる。あるいは「解放」されたいがため、日本においては「ブログ」的なものが隆盛なのかと、要らぬことまで考えた。個と組織が不連続ということなのだろが、個と組織は連続すべきものであるのか?という命題もある。

2007年3月22日木曜日

休日ヲタヲタ~CD屋をハシゴして数点をゲット


春分の日である。3月に入ってから、今までの暖かさが何処へという位に寒い日が続いていたので今日のような陽気は嬉しい。コートを脱いでジャケットだけで外出ができる身軽さよ。


��以下、あまり内容ありません>いつものことですが・・・)


どうせ今週の土日は出勤せねばならないことが確実なので、今日は有意義に休日を過ごすのだとばかりに出かけた先が、何とも情けない。


まずI駅のQBハウスで散髪。以前は近所の美(理)容店に行っていた。このごろは4000円以上を薄くなってきた頭髪にかけるのが莫迦らしくなった。「髪を切る」という実利面だけ追求すればQBハウスで充分なんである。「今日はどうしますか?」と聴かれても「刈り上げない程度に短く、さっぱりと、前髪も1cm程度切って。あとは自然に」としか言えない、それ以上の散髪店における語彙を知らない。チョキチョキ髪を切られながら「オイ、もっと短くだよ」と心の中で思っても、気の小さい私は追加指示ができない。美容店で談笑しながら時間を過ごせる輩がうらやましい*1)。


毎度のことながら割り切れない思いで散髪を終え、I駅からJRに乗る。数日前の某新聞コラムに「読書は電車の中が一番」というくだりがあった。全くである。部屋のパーソナル・チェアで音楽を流し紅茶を飲みながらの読書も格別なのだが、移動する電車の中での読書というのもなぜかしら集中できるものだ。今日のお供は山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」(amazon)だ。確かに反省なき日本である。未だに近代日本の歴史を日本人は理解も総括も清算もできていないのか*2)。


��R秋葉原駅で降り石丸電気に向う。行ってはみたものの物欲をそそるものがない。仕方なしに7Fに上がり視聴室でケーゲルのベト7(NMV)とジンマンのマラ1(HMV)の終楽章を聴く。ジンマンのマーラーは視聴室のオーディオのヴォリューム・レヴェルを68にして聴いても、どうにもピンと来ない*3)。音は確かに良い。そして若いマーラーの音楽である。しかし何か情念の部分が薄いと感じる。もっとも終楽章だけ聴いてあれこれ書くのは傲慢でしかない。


秋葉原を後にして御茶ノ水のディスク・ユニオンへ。国立音大出身者のコントラバス四重奏団がミニ・コンサートをしていた。狭い店内の往来がかなり困難な状態になる。物欲もそそられず、演奏途中で申し訳ないが店を出る。


再びJRに乗り新宿は高島屋へ向う。高島屋は4月全面リニューアルを控え、あちこちが工事中。とても客に店舗を解放できる状態ではないのに強気の営業をしている。12階に上がりHMVを物色。まだ聴いていないCDもあるというのに、何だか発作的に下記を購入してしまう。


  • Il Giardino Armonicoの11枚激安ボックスセット

  • Brilliant ClassicsのVivaldi集 3枚組~Alessandrini、Il Giardino Armonico、Music Ad Rhenum

  • ファジル・サイのハイドン



帰宅してから、♯Credoを最初からダラダラ読み*4)ながら、買ったCDは聴かずにトマス・ファイをNMLで聴く。



ファイの演奏は、NMLでかなりの数を聴くことができる。名序曲集はライブ録音。「エグモント序曲」は意表を付いた堂々たるテンポでじっくり聴かせる。なるほど、こういうアプローチもできるのかと。ロッシーニの「アルジェのイタリア人」のような名曲も悪くない。


さて、ではサイのハイドンでも聴くとしますか・・・。

◇


  1. 散髪は美容院に行っていた時期も以前はあった。こ洒落た店で、センスよく髪を切られ、仰向けになってシャンプーされ、顔面に低温蒸気を当てられて悦に入っていた。しかし、店でかわす、とりとめのない会話に若干辟易していたことも確かだ。行けば必ず「今日はお休みですか?」「これからどちらへお出かけで?」と聞かれるのもうざったい。社交辞令と分かっていても、「イエ、今日はこれから深夜まで休日出勤です」とか「天気がいいので部屋にこもって、マーラーの聴き比べでもします」と答えたらどんな顔をしたであろうか?

  2. 戦後の総括の仕方について、日本と独逸の違いがよく俎上に登るが、戦後復興のあり方、そして冷戦時代におけるそれぞれの国の役割、そして当時の国益の観点から考えねばならない問題なのだと思う。

  3. ジンマンも、もう70歳である。私のイメージするマーラー像は「20世紀的古臭さ」をもった演奏なのだろうかと自問する。オケの配置とか録音とかばかりが取り沙汰されているが、果たして実演はいかがなのだろうか。

  4. ブログという表現媒体はリアルタイム性が命のところがあるため、過去のエントリを読む人は極稀である、とする記事を読んだことがある。しかし自分にとって面白いと思えるブログであれば、多少の面倒さはあったとしても、過去エントリについて知りたくなるものである。本ブログをSeptember 30, 2005まで読んでみたが期待は裏切られていない。もっとも岬沙弥に関する萌えエントリには全く共感が持てないが(笑)。

2007年3月19日月曜日

ハイドンに満たされる休日

syuzoさんがハイドンに嵌っているようです(ハイドン2007/03/11)。このごろ頻繁にチェックする古楽系ブログでもハイドンの話題は尽きない。今日はWhittardのアール・グレイを淹れ、SEEDS ON WHITESNOWのエントリ(トーマス・ファイとその仲間たち-ハイドンとベートーヴェンの録音を通じて-2004/6/20)*1)などを読みながら、NMLでトマス・ファイとハイデルベルグ交響楽団の演奏を聴いてる。

SEEDSNOWさんも指摘している例えば第39番 ト短調。冒頭のフレーズが一瞬ではあるがモーツァルトの弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516を思い出させる。ハイドンのそれはモーツァルトの短調ほど内的には陥らず、随所にハイドン的明るさが解放される。

ファイの演奏はキビキビとして推進力があり、それでいて美しい*2)。一度聴きだしたら止まらない。こういう演奏をNMLで聴ける幸せと、「所有していない」ということの不満とストレス。

◇

  1. このエントリには(も?)恐ろしい数のコメントが続いている・・・
  2. などと評せるほど私は古楽に接していない。正直に書いておくが、まともにアーノンクールさえ聴いていないのである。こんなことでクラ・サイトしていて良いのだろうか・・・

2007年3月17日土曜日

【本棚】香山リカ:知らずに他人を傷つける人たち~モラル・ハラスメントという「大人のいじめ」

最近の新書は「タイトル」が売れ行きを大きく左右するそうです。本書も「モラル・ハラスメント」という聞き慣れないけれど、あれ?もしかして、あのこと?と一瞬心の中に暗い影が差し、恐る恐る本書を手にとってしまう、という人もいるかもしれません。

香山氏によると2006年末に起きた、妻による夫撲殺バラバラ切断事件は

もしかしたら日本ではじめてのモラル・ハラスメント、モラハラが引きがねとなった殺人事件なのではないだろうか(P.6)

とプロローグに書いています。それを読むと、モラハラという言葉を本書で初めて知ったとしても、やっぱり・・・そういうことかと自省の念を深めます。そうするともはや、「新書だし、香山氏の本だし、買うほどのこたねーや」という気持ちを圧することができるほどには気が強くはない自分を認めてしまいます。

モラル・ハラスメントという言葉はフランスの女性精神医学者、マリー=フランス・イルゴイエンヌ医師の著書に出てくる言葉だそうで、

モラル・ハラスメントとは、ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のこと

と定義されています。本書は意外と気付かないうちにモラハラ被害に合っている多くの人に、「それはモラハラなんだ、自分が悪いと思わないで解決をみつけよう」と訴えると同時に、モラハラを引き起こす原因について、欧米と日本の差異を説明しながら、最後にモラハラ被害者にならないための方策について書かれています。

読み通してみれば、家庭内や職場だけではなく、人間関係が成立する場においては当然のことばかりなのですが、我が身に振り返ってみれば、痛いところが一つや二つではなく猛省する次第。特に相手に対する厳しさや思いやりのなさは「肥大化し歪んだ自己愛的性格」に基づく行動との指摘は確かに本質をついているように思えます。

モラハラについて思い当たる人は、本書をじっくり読んでもらうしかないのですが、それでも本書の指摘で考えてしまったのは以下の点。人がふたり集まればモラハラは起こるというくだりで、

もちろん、両方(「権力の乱用」と「心の問題」)ともいっさいない「心が健全な人どうしの対等な関係」も理屈上は存在しうるのだが、それがきわめてむずかしいことは、男女関係のあり方を見ればわかる(中略)人間は本来的に対等な関係よりも権力の差がある関係、非対称的な関係の方が落ち着くのかもしれない(P.28~30)


精神科医ともあろうものが、単純な事例だけで上のような仮設を立てて良いものか若干の疑問を感じないわけではありません。

権力的制約のない条件における人間関係における秩序の発生と維持の仕方については、熟考すべき問題のように感じます。香山氏自らが指摘しているように、パワハラと暴力の塊であるようなスポ根マンガやドラマが、高度成長期の日本で受容されていたということ。現在においては「オレ様化」「おひとりさま」「自分探し」という言葉が流行る様に、他者よりも「自己」に愛情のベクトルが向う傾向が指摘されています。社会的成熟(?)は自己愛的性格の人間を増加させるものなのか、あるいは時代がそれを解放するだけなのか。これらは経済、社会、そして文化・宗教的背景と密接に結びついてはいないでしょうか。社会と人間精神に関する深い洞察が必要な気がしています。

【演奏会】とりあえず予約してみました

私は基本的にコンサートの前売券というものは買わない。買ったとしても仕事の都合で行けなくなる確率が50%を越える事が予想されるからだ。どうしても聴きたいと思うコンサートでも、数日前での予約あるいは当日券狙いである。あまりに人気沸騰で入手で不能であれば、縁や運がなかったと諦めるのみである。

しかし、何となく、コレ(下)は買ってしまった・・・。

あとは、天に祈るのみ! でも、6月3日の「ソナタ編」の方がよかったかしら・・・。

2007年3月13日火曜日

ららぽーと横浜あと3日でオープン

JR横浜線 鴨居駅から歩いて数分のところに、三井不動産の大型商業施設である「ららぽーと横浜」が15日にオープンします。本日、内覧会の機会を得ましたので早速ですが行ってきました。





最近、いい加減見飽きてきた感のある、モール型ショッピング施設ですが、イオンやアリオ、ダイヤモンド・シティなどとは一味違って都会的なセンスをデザインに・・・・以前は感じていましたが、三井不動産物件を続けて見てきましたので、なんだか感覚が麻痺してきました。(この間にも、東京近郊ではダイヤモンドシティやら高島屋の完全子会社によるSCなどもオープンしていますから・・・)

それでも、今までのららぽーとシリーズとは訳の違う専門店数約370には度肝を抜かれます。延べ面積(駐車場を含め)で22万平方メートル以上ですから、ちょっと離れても建物の全貌などカメラに納めることは出来ません。写真は建物のほんの一部です。




店舗は屋外のセンターコートを中止として、トップライトを持ったストレート・モールとカーブ・モールがノード(節点)と呼ばれる吹抜け空間を介して繋がっています。形状があまり複雑ではありませんから動線的には割りと分かりやすい。歩いていても、あまり広さを感じさせないところが不思議です。

今日は内覧会なのですが、関係者以外に近隣の人も招待しているからでしょうか、スーツ姿のビジネスマンに混じって、母子連れの姿も目立ちます。店舗も殆どが開業しています。正式営業ではないものの、人ごみはものすごくて、地方都市の休日以上の混み方です。鴨居なんてわざわざ行かなくては、他には何もないんですよ。まったく横浜にはモノ好きが多いものだと感心します。別に内覧会+プレス発表だからってサンドリーヌ・ピオーがヴィヴァルディのアリアを歌って3日後のオープンを祝うとかいうわけでもないのですがね・・・(^_^;;



それにしても、またしても巨大な物欲と妄想と時間と金を吸収する施設が増えたということで、横浜線周辺の人の流れは(住宅もこれからがんがん出来ますし)全く変わったものになってしまうかもしれません。

折りしも今日の日経新聞夕刊には大丸が持ち株会社を設立して松坂屋と経営統合するとのニュース。イオンはダイエーと提携し強大な支配力を持つに至っており、セブン&アイ・ホールディングスと真っ向勝負です。業界は生き残りと新たなるマーケットを目指して急ピッチで動いています。

ちなみに三井不動産は昨年から今年にかけて、川崎、豊洲、柏の葉と、相次いで関東近郊に巨大商業施設をオープンさせてしまいました。3月30日には六本木防衛庁跡地の巨大再開発、東京ミッドタウンがグランドオープンします。恐るべし勝ち組不動産の代表格。プチ金持ちからも貧乏人からもドンドン金を吸い取って、どんどん裕福になあ・・・れ、って、ホントにこれでいいのか?

2007年3月12日月曜日

NMLに新レーベル!

何かと話題のNaxos Music Libraryですが、LINDEN日記によりますと新たに6レーベルが参加。ヒストリカルものも増えているようです。


にしても、NMLのビジネスモデルは、どこで収益を上げているのですか?NMLを通じてCD購入というのは増えているのでしょうか?「ウェブ人間論」にあった、ロングテール部分に貢献があるのですか?今ひとつ私には判然としません、誰か教えていただけるとスッキリします。

2007年3月11日日曜日

【本棚】梅田望夫・平野啓一郎:ウェブ人間論


本書を読んだ第一印象は、amazon カスタマーズ・レビュの「じゃま」さんの感想に近い。「ウェブ進化論」に比べて深みがないとの感想もamazonにはありましたが、私は本書は「進化論」とは別物として読みました。

平野氏はネットの持つ閉塞性と個人の人間性についてある種の拘りと可能性を感じ取っている。所謂匿名性における人間性の解放と、それによる社会へのアクセスと変容みたいなもの。それに対し梅田氏は、自らのIT関連に関わってきた豊富な経験をもとに、ネットをもっと明るく、流動的たものとして捉えている。

一番端的なのは、平野氏がリアルな世界(「公」)を個性の表現を排除してしまっている社会領域(P.78)と定義し、匿名性の自己をネットで公開するというある種の二重生活(P.84)を続ける人が、今後その二重性とどう折り合いを付けるのかということ、あるいは匿名性からリアル世界の変容を期待する発想がある。しかし梅田氏はもっと多角的で楽天的です。そういう二重性をバランスとして機能して破綻しない(P.85)と言い切ります。

この考え方の違いは、ネットを通じた個人の「サバイバル戦略」ということに繋がります。二人の考え方の差異は、自分と本書の中での二人とのネットに対する差異を炙り出すことになりました。

梅田氏の「ウェブ進化論」は非常に話題になった本として、本書でも繰り返し話題にされています。私があの本を読んで考えたことはGoolge的な企業がもたらす社会が、今後どのようにパラダイムシフトしてゆくだろうか、高度に発展してゆくIT社会において、今後の組織と人間はどのように関わってゆくのか、テクノロジーはどこまで人間を幸福にするのかということでした。その答えがここで得られたわけではありませんが、若干考え方は進み、深まった気もします。

私は7年以上もサイトを細々と開設し、ブログも4年目に入っています。リアル社会でもそれなりの地位を確立していますのでリアル社会が辛くてネットに逃避しているわけではありません。それなのに、私がネットを続けている理由があるとしたら、ウェブを通じた個人知の拡大の可能性、知の連携とネットワークに大きな魅力を感じているからです。平野氏が類型化した5パターン(P.73)とは微妙に異なるというか、そうはっきりと区分ができない。

平野氏の人間の変容という観点に絞ってみれば、やっぱり多くの人が自分で自分を言語化してゆくようになった(中略)逆に自分を錯覚してしまったり、固定化してしまったりする(P.185)という観念論に対して梅田氏は、そういう変容の仕方を肯定的に捉え、自分にとって心地よい空間を、無限性から切り取っていくらでも造れるのだから、そういう方向へ人間は変容していく(P.186)と返します。私も、以前は前者のように考えていましたが、今は後者の考え方に近いです。個人の「ある断片」においては、リアル世界よりもネット世界の方が「自分の居場所」が見つかり、幸せに生きやすいということなのだと思います。

2007年3月9日金曜日

【本棚】本田直之:レバレッジ・リーディング

著書の本田氏の「読書」とは所謂ビジネス書のこと。仕事で役に立つ本をできるだけ多読するためにどうしたら良いか、というテーマを扱ったもの。精読よりも多読を薦めるのは、同じテーマでも違った本を読むことによる反復習得と多角的な方面からの見方を養うため。

良書の選び方から、いわゆる「速読」とは違う読み方のポイントを要領良く、それが何故必要なのかを説明してくれます。著者の最終的な目的は、多く本を読んで知識を溜めることではなく、一つでも実践すること。それが1500円の本を15万円の価値(リターン)にするのだと。

この手の内容の類書は多いため、目新しいものはありません。それでも、私がこれはと思ったのは「レバレッジ・メモ」を作って繰り返し読む、ということと、本棚の整理方法でしょうか。前者は、本の中で線を引いたり頁を折ったりなどした部分を、後で(自分の言葉を補いながら)書き写し、そのメモを繰り返し読み実践することが重要だということ。一度読んだ本は、よほど名著でない限り読み返さなのだと。本棚の整理方法は、役に立った本を上の取り出しやすいところへ、あまり面白くなかったものは下段に置くというもの。本棚が一杯になったら下から捨てれば良いので合理的なのですと。本田式読書法は本を折ったり、線を引いたり、書き込んだりしますから(誰でもやっていると思うが)、リサイクル書店では売れないのです。

私もこうしてセッセと読書メモを作っていますが、本田氏のメモはもっと実践的です。私も一時実践したことがあるのですが、結構メンドいんですけどね。また、私は割とだらない本も買ってしまいますから、そういう本は、いつかブックオフってやろうと思って読むので、線とか折り目とか付けにくい。だから、くだらない本ほど綺麗なまま読み終える、なんだか貧乏臭いっすね(^^;;;

そういう貧乏性の私ですから、当然本書は「レバレッジ・リーディング」を実践して読んでいまして、おかげで、本屋の立ち読みで30分もかかりませんでした。(自腹切って買うのが筋らしいですが・・・やっぱ、それ程の内容ではないなと・・・あ、ゴメンなさい、立ち読みの感想なんて書いて・・・)

2007年3月8日木曜日

NMLでシェーンベルクの月に憑かれたピエロを聴く


  • アニャ・シリヤ - Anja Silja (ソプラノ)
  • 20世紀古典アンサンブル - Twentieth Century Classics Ensemble
  • ロバート・クラフト - Robert Craft (指揮)
  • 録音: 1997, American Academy of Arts and Letters, USA
NMLでシェーンベルクの月に憑かれたピエロを聴く。恥ずかしながらこの曲を聴くのははじめて。ソプラノはアニャ・シリヤ(Anja Silja)。こんな有名曲を今まで聴いていなかった。

小編成のオケにシュプレッヒシュティンメ(楽譜どおりだが音高は指定の音に達した後リズム内で語るように移っていく特殊唱法)による女声。彼の代表的な無調音楽とされるが、思っていたほどに聴きにくいわけではない。

先週はずっと寝る前に武満やウェーベルンを聴いていたせいだろうか。ピエロの悪夢を聴きながら、夜を更かす。

仏naive社とファジル・サイ

仏naive社のヴィヴァルディ・エディションは、古楽系ブログで度々紹介されているように、ジャケットが抜群に素敵だ(→amazon、HMV)。

最近相次いで創刊されている女性月刊誌の表紙写真よりも、よっぽどいい。どこかドキリとするセンスで、梅も見ごろな3月、紅梅意欲をそそる。例のマンドリン盤ビバルディも今なら視聴可能。

naive社のサイトを見たところ、トップページがファジル・サイなので驚いた(アクセスする時期によって異なるかもしれない→こちら)。どうやらハイドンのソナタを録音したらしい(2007.2.20発売)。解説はフランス語と英語に切り替えて読むことができる。1分半くらいのサワリだけ視聴できるのだけど、サイの明るいピアノが楽しい、唸り声も健在なり。サイのファンとしては、買いか?